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うつ病の星
27602人が搭乗中
参加
人は誰でもストレス溜まる、仕事や学校行きたくない時あると思います。
そんな時、自分気持ちを吐き出す場所として活用してほしいです。
そして1番は、うつ病患者さんの、愚痴や不安なんでも書くだけで、スッキリする時があります。そんな時に投稿してくださいね。
あと相談とかもしてくださいね(* ᴗ͈ˬᴗ͈)”
よろしくお願い致します。
惑星主 こじコジ
病み期の星
2935人が搭乗中
参加
つらい時、しんどい時来てね
病気と障がいの星
1574人が搭乗中
参加
皆さん初めまして
管理人のラピュタです
こちらの惑星についてですが
基本、自分の病気や障害について
つぶやいたり他の人に聞いてみたりなど可能です
自分のモチベーションのため
日記も書いてみんなにシェアをOKです
誹謗中傷など人を傷つける行為はNGです
一生懸命生きている人を応援したい
同じ悩みを持つ仲間がいてくれたら嬉しい
そんな惑星です
※何かこうして欲しいとか意見あったら
連絡お願いします※
なるべく居心地良くしたいので
よろしくお願いします
病み 鬱の星
1308人が搭乗中
参加
みんなの居場所です
自分に優しく、他人に優しく
ストレスは言語化して忘れちゃいましょう
病気と戦う星
676人が搭乗中
参加
みんなで病気と向き合おう!
難病の星
182人が搭乗中
参加
この星は自身が難病(確定診断・疑いを含む)やその他大病を抱えていたり、難病・病気でケアが必要な家族がいる方向けのコミュニティです💊
ひとえに難病といっても病気や症状は様々ですが情報交換をしたり、持病がありながら日々思うことをつぶやくなど、病気と闘いながら日々生活している皆さま同士で励ましあえたら嬉しいなと思います。
近頃は難病以外でも闘病生活を送る方々の参加が見受けられ、ご参加頂き感謝しております。
皆それぞれ異なる病気、環境下の中で頑張ってる方もゆっくり休養されてる方も、それぞれ少しでも気持ちが軽くなれたらいいなと思います。
心温まるハートフルな星になれるよう皆さんで目指しましょう✨
また、こちらの星に関して使い方などご意見ご要望がございましたら管理人までご連絡下さい。...なんて言ってもそんなガチガチに運営してないのでご気軽にどうぞ😊
病の星
140人が搭乗中
参加
病の星です
病んでる人や持病のある方が主に入っています。入るだけでも大丈夫です♪
精神病の星
123人が搭乗中
参加
心の内に秘めた感情を全て吐き出してしまいましょう。。
鬱病の星✨
68人が搭乗中
参加
気軽にどうぞ
厨二病の星
64人が搭乗中
参加
ーオマエにこの世界が救えるというのか?ー
ここは遠い宇宙の末端
これより先は闇が深い
気をつけて搭乗されよ
†さぁ、、存分に黒歴史を語るがいい†
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万年ど

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海R

Tack Me
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もう40数年来の仲間達.
今年1人病没してしまったけれど.
#GRAVITY日記

guro
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ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘
「楽しく分かる万葉集」を読んで、歌の内容と感想を記しています。
【口語訳】※本とは異なる訳にしています
まだ幼い子なので、黄泉(あの世)への道のりも知らないので、贈りものをしました。
黄泉の使よ、わが子を背負って通してやってください。
幼く亡くなった我が子を悼み、黄泉の道を知らぬ子をあの世の使いに幣帛(へいはく)を贈って背負って通してほしいと祈る切ない親心を詠んでいます。
幣帛(へいはく)は、神道の祭祀で神に捧げる供物の総称で、主に布帛や貴重品を指します。
歌の作者は山上憶良(やまのうえのおくら)です。
山上憶良は奈良時代初期に活躍した歌人です。
660年頃生まれで、701年に遣唐使として唐に渡り、学問を修めました。
帰国後、下級官人から従五位下に昇進し、716年に伯耆守、726年頃に筑前守を歴任。733年頃に病没したとされます。
大伴旅人と交流し、筑紫歌壇を形成しました。
歌風と業績貴族でありながら、貧民や防人の苦しみ、家族の愛を詠み、異色の視点で知られます。
この歌の他に「貧窮問答歌」が有名です。
#万葉集 #山上憶良


🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その19)
綿業は、三井、三菱などの財閥と並ぶ戦前期、日本の産業発展の柱で、「関西五綿」・「船場八社」と言われた時代があった。「関西五綿」の1つ目は東洋棉花で、1920年(大正9年)に三井物産棉花部から分社し、戦後はトーメンと呼ばれ、現在は豊田通商に吸収合併。2つ目は日本綿花で、戦後には日綿実業、略称ニチメンと呼ばれ、現在の双日という商社の一つの源流になった。3つ目が江商で、兼松に吸収合併。「関西五綿」の残る2社は、伊藤忠商事と丸紅は総合商社。
朝鮮戦争特需の反動不況後、関西の繊維商社「五綿八社」はどうなったか。「関西五綿」は持ちこたえたが、これらにたいして、「船場八社」のうち岩田商事は破綻。丸永と田附は、関西五綿の日綿実業(日本綿花から社名変更、現双日)と合併。竹村商店は帝人のグループ企業と合併。又一は金商と合併後、三菱商事の系列に。竹中は住友商事の系列に入った。豊島商店は親族の豊島半七の山一商店と合併し、豊島株式会社となった。
船場八社は敗戦後の綿業の斜陽産業化、とりわけ1954年(昭和29)の不況で大打撃を受け、船場に本社があるのは八木商店だけとなった。
●竹村商店
起源は京都市の竹村藤兵衛商店で、竹村清次郎が竹村商店を創り発展。彼は京都府の出口家に生まれ、幼少より竹村藤兵衛商店に奉公していた。この竹村藤兵衛商店を船場八社に含めれば、1869年(明治2)に八社の中では最も早く船場に綿花、綿糸、綿布を扱う支店を設置。
●岩田商事
創立者は岩田惣三郎。1843年尾張国(現愛知県)中島郡、今の一宮の辺りの生まれ。1874年(明治7)に大阪船場に出て、綿糸商として後で有名になる兄の常右衛門と一緒に綿糸布を販売し、1881年(明治14)に独立。北久太郎町で綿糸商を開業し阪神間を奔走。1918年、岩田商店は株式会社に改組。第一次大戦で綿糸価格が大きく変動した時期に、莫大な収益をあげたが1920年(大正9)の恐慌で、綿糸価格が短期間に1/3に暴落して中外綿業は破綻。惣三郎は浄土真宗大谷派の熱心な信者で、その関係を中心に多額の寄付をしている。
●丸永商店
源流は近江商人・不破家の分家不破栄次郎家で、本家と同じ呉服卸商。初代不破栄次郎は1882年(明治15)に近江国(現滋賀県)犬上郡彦根から大阪に出て東区北久太郎町に綿糸問屋の永楽屋不破糸店を開業。インド綿糸の取引から始め、その後東区内で店舗を移し繁栄を続け、栄次郎が東区南本町に店を構えていた頃、近隣に谷口房蔵が谷口綿布という店舗を構えた。この谷口は明治30年代に経営不振の紡績会社を吸収合併して大阪合同紡績を創業し、栄次郎は谷口と囲碁を通じて仲良くなり、1900年(明治33)頃から不破糸店は大阪合同紡績が製造する綿糸を一手販売し、初代栄次郎が死の間際に谷口に不破糸店の将来を託したところ、彼は支援を惜しまず、谷口の後援が不破糸店の発展の大きなきっかけとなった。
●田附商店
創立者、田附政次郎は近江国神崎郡の近江商人の五男。1884年(明治17)、姉婿の田附甚五郎の経営する大阪東区本町の呉服店を助け、1889年(明治22)に分家し、大阪市東区安土町に店舗を借り綿布商・田附商店を創設。その後、叔父伊藤忠兵衛の助言を容れ、1890年(明治23)に金巾製織(大坂紡に吸収され、後に東洋紡)に入社。1893年(明治26)、政次郎は岩田惣三郎と同じく大阪の三品取引所の前身機関の創設に関わり、それ以降、晩年まで三品取引所を舞台に綿糸投機の達人「田附将軍」として有名になった。金巾製織を一旦退職したが、1900年(明治33)、役員として復帰し、同社が大阪紡に合併された後の東洋紡の時代まで政次郎は紡織製造業に関係した。
1920年(大正9)の恐慌では田附商店も大きな打撃を被り、多くの損害を出したが、数年で克服して1930年代に業績を回復。この恐慌対策の一環として1921年(大正10)田附商店は個人商店から株式会社に改組。取扱品目も綿製品を中心としたが、新製品のレーヨン(人絹)の糸や織物、毛糸、そして加工度の高い綿製品などの繊維製品を扱った。
他方で日露戦争の終わり頃から第一次大戦前までに政次郎は多くの企業の設立、経営に関わった。その中には又一を経営する阿部一族の関係企業である金巾製織と並ぶ江商と東津農業があった。
京大医学部に50万円という当時では巨額の寄付をして、それで大阪市北区扇町に北野病院が設立された。
●豊島商店
初代豊島久七は、綿織物が盛んであった尾張国中島郡で輸入綿糸の販売に成功した二代目豊島半七の実弟。1885年(明治18)、二代目半七が亡くなり、16歳の長男が三代目半七を襲名し、叔父の初代久七の補佐により成長。1903年(明治36)、初代久七は大阪市東区で綿糸商の豊島商店を開業。三代目半七の弟の民三郎を養子に迎え、1913年(大正2)、民三郎が家督相続し、二代目久七を襲名。
第一次大戦頃まで豊島商店は綿糸の国内取引に専念し、外国への輸出には進出しなかった。1918年(大正7年)個人商店の豊島商店は資本金200万円で豊島商店に改組。二代目久七が社長となった。1928年(昭和3)には、愛知県の豊島一族と協同で設立。尾張一宮で繊維製品を扱っていた山一商店(1918年設立)など多くの企業に投資。大阪市会議員、大阪商工会議所常議員も務め、二代目は大阪の綿糸商同盟会や大阪綿布商同盟会といった団体の中心メンバーとなり、人を取り纏める才能も持ち得た。1841年初代豊島半七が「綿屋半七」の屋号で綿花の仲買を始め、1918年(大正7)6月、豊島半七糸店を改組。株式会社山一商店を設立。1942年(昭和17)7月には豊島商店を合併し、豊島株式会社となる。現在は愛知県名古屋市に主力拠点をおく、大手繊維商社。
●又一
近江三福の商家の1つである神崎郡能登川の阿部市郎兵衛家の商社。四代目阿部市太郎が基礎を築く。本家は阿部市郎兵衛家で、市太郎家は分家。元々は綿製品以外の商品をいろいろと扱っていた。
阿部市郎兵衛家と市太郎家とは表裏一体の関係で、初代市太郎は、五代目市郎兵衛の次男を婿養子にして二代目市太郎とし、両家は姻戚関係を通じて密接な関係を結ぶ。そして七代目市郎兵衛と二代目および三代目の市太郎は、幕末の開港以来、金巾と唐花(西洋紅)を取り扱い、明治に入ってからは五郎絹・絹五郎・福連などの毛織物と洋綛(機械で紡がれた麻糸)を盛んに輸入し、1881年(明治14)には朝鮮布の輸入も始めた。両家は1871年(明治4)に大阪市南本町に又二大坂支店を開設。1884年(明治17)には共同経営の大阪支店を解消し、大阪市南久太郎町に又一大阪支店を開業。三代目市太郎は金巾製織などの創立にも関係し、1884年、大阪市南久太郎町に独自に阿部市商店を創業。この阿部市商店の屋号が又一となる。三代目市太郎は千石船を使って瀬戸内海から日本海を経て北海道まで廻航し、米、にしん、肥料などを仕入れ、近江麻糸紡織社の経営にも力を入れた。
四代目市太郎は慶應義塾を卒業後、アメリカのコロンビア大学で学び、綿糸布の重要性にようやく気付き、阿部市商店はこれまで中心だった麻布の販売を1913年(大正2)に取りやめた。阿部一族はすでに金巾製織を経営しており、日露戦争後に同社は大阪紡績、三重紡績と共に朝鮮で金巾市場をめぐって激しく競争していた。こうした動きに合わせて阿部市商店は日露戦争ののち1906年(明治39年)、中国貿易を開始し、四代目はさらに朝鮮との貿易も拡大する。
第一次大戦の好況期に阿部市商店は国内取引よりもむしろ外国との取引、特に中国貿易に力を注いた。他方で、四代目市太郎は、関西五綿の1つである江商の最大株主になり、さらに社長に就任すると、次第に江商の経営に活動の重点を移し、阿部市商店の経営からは手を引いた。第一次大戦期、阿部市商店は積極的な拡大策をとったが、それは阿部尚二郎の主導によった。そして1920年(大正9)大恐慌が襲ったが、その時の経営責任者は阿部藤造でした。彼は滋賀県大津市出身の阿部同族の一人で、東大法学部を卒業後、内務官僚を務め、その後横浜生糸の棉花部に勤務したのち阿部市商店に入るが、阿部市商店は恐慌で大損失を出して事業の継続が困難になり、そこで商権を継承した第二会社が又一だった。又一では四代目市太郎は表に立たず、実際の責任者は阿部禎治郎専務が務め、藤造取締役が支えた。なお禎治郎は1873年(明治6年)神崎郡能登川村に生まれ、分家して東京商業学校を卒業。住友銀行に長く勤めたのち、又一に戻った。
又一は阿部市商店が潰れて、その代わりに創られた会社だったが、設立後は非常に業績が回復し、1920年代の不況期でも利益をあげており、経営は成功していた。1928年(昭和3)、四代目市太郎は病のため江商の社長の座を野瀬七郎平に譲り、1930年末に一旦又一の社長になったが、健康状態は良くなく、経営には関わらなかった。
●竹中商店
和歌山の名家であった竹中源助家が二代目の時、油商から両替商に転じ、さらに1882年(明治15)に綿糸商を兼ねるようになり、やがて綿糸取引専業となった。1907年(明治40)、三代目源助の時に大阪市東区北久太郎町に支店を設置し、彼が明治末に病没すると、婿養子の川口兵四郎が相続して四代目源助となった。まもなく第一次大戦の好況が到来し、その頃には綿糸を東洋紡績、摂津紡績、尼崎紡績などから仕入れて、販売先は内地向け6割、輸出4割になった。輸出先は朝鮮、満州、中国で、営業の主力は和歌山ではなく大阪支店となり、四代目は他の会社にも出資していた。竹中商店では明治末に和歌山商業学校を卒業して入社した有能な番頭の谷口嘉一郎が会社を支えた。
●八木商店
八木與三郎は、幕末の1865年京都市生まれ。父親は丹波から京都に出て雑穀商八木家の養子になり、後年米穀商として成功した。與三郎は幼時に父親の友達であった京都の松盛家の養嗣子となり、そこには馴染めず1880年(明治13)に家を出奔し、父親の弟、藤本清兵衛が営む大阪の米穀店で働き、10年勤務して支配人となった。一旦祖母の実弟である八木文之亟の養子となり、八木家に戻った。なお藤本清兵衛の息子・二代目清兵衛は藤本ビルブローカー銀行(現大和証券)を創った。
1893年(明治26)與三郎は初代清兵衛が亡くなって2年後、28歳の時に、藤本家から独立した番頭の藤本清七と提携して組合組織による小さな綿糸商の八木商店を大阪市東区に開業した。しかし商売がなかなか上手くいかず、藤本との組合は結局解散して独力で経営を続けた。八木商店には中野豊という有能な支配人がいて、他の綿糸商と一緒に神戸の商館に行き輸入綿糸の取引で活躍した話が残っている。しかし八木商店が発足した頃には、日本でも大阪紡績が成功し始め、1万錘規模の紡績工場が大阪を中心に出来て、大いに発展した。そこで八木商店の主な綿糸の仕入れ先も日本の紡績会社になり、最初の頃は主に泉州紡績、摂津紡績、大阪紡績などから綿糸を仕入れていた。
八木商店は1908年(明治41)綿糸だけではなく、紡績が作った広幅綿布も売買するようになり、最初に扱った問屋は八木商店だった。第一次大戦期に八木商店は飛躍的に発展し、1918年(大正7)、個人商店を株式会社組織とした。ところが1920年(大正9)の恐慌で八木商店は大きな打撃を受け、海外出張所を全て引き上げた。1931年(昭和6)末の金輸出再禁止以降、業績は顕著に回復した。




🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その14)
幕末に京都と盛岡の交易で財を成した「小野組」は明治維新の変革期に「三井組」と「小野組」の共同出資で、渋沢栄一らが三井小野組合銀行を設立し、その後に銀行法による初の第一国立銀行が設立されたが、明治維新の新政府による官全抵当増額令による預かり金全額の担保を提出出来ず、「島田組」とともに破綻した。
「小野組」の番頭であった古河市兵衛は倒産した「小野組」の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防いだことで、渋沢栄一の信頼を得、古河財閥と言われるまでに登りつめた。第二次世界大戦後、財閥はGHQに解体されたが、現在は古河山水会として、グループを形成している。主な企業は、古河電工、富士通、朝日生命保険、みずほ銀行など。
●古河 市兵衛
1832年 - 1903年(明治36年)明治期の日本の実業家で、古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。生家の木村氏は京都岡崎で代々庄屋を務めたが、父の代には没落しており、巳之助は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮らしで苦労を重ねた。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営んでいた母方の叔父が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行をすることを希望し、1849年盛岡に向かう。盛岡では叔父のもとで貸金の取立てを手伝う。やがて南部藩御用商人の鴻池屋伊助店(草間直方が旧名時代に起こした店)に勤めるが、まもなく倒産する。その後、1857年叔父の口利きで京都小野組の番頭だった古河太郎左衛門の養子となり、翌年には古河市兵衛と改名した。太郎左衛門は、京都にある小野組の生糸買付を担っていたが、病気で倒れると、代わりに市兵衛が小野組の使用人になり、生糸輸出・米穀取引・蚕糸などの取引で活躍。幕末期において三井組(のち三井財閥)と並ぶ有力な番頭になった。
明治維新期の時流にも乗り、東北地方の生糸を横浜に送り巨利を挙げるなどの成功を収めるが、明治新政府の公金取り扱い業務の政策変更の結果、小野組は壊滅的な打撃を蒙り、市兵衛は再び挫折を味わうことになる。しかしその際、政府からの引き上げ金の減額などを頼みに陸奥宗光のもとへ談判に行き、これが縁でのちに宗光の次男を養子に貰った。また、小野組と取引があった渋沢栄一の経営による第一銀行に対し、市兵衛は倒産した小野組の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢という有力な協力者を得ることに成功した。
1872年(明治4年/明治5年)には鉱山事業家・岡田平蔵と提携し、秋田県下の鉱山経営を行なったが、2年後に岡田が死去。鉱山経営は小野組が引き継ぐことになるが、1874年(明治7年)に破綻。翌1875年(明治8年)に独立し、鉱山事業に自ら取り組むことになった。これが古河財閥の始まりであり、今日の古河機械金属の前身である。
小野組破綻後、市兵衛は独立して事業を行うことにした。まず手始めに秋田県にある当時官営であった有力鉱山、阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを求めたが、これは却下された。続いて新潟県の草倉鉱山の入手を企て、渋沢から融資の内諾を得るものの、やはりこれも最初は政府の許可が得られなかった。しかし市兵衛は小野組時代から縁があった旧中村藩主相馬家を名義人に立て、市兵衛が下請けとして鉱山経営を行う条件で、明治8年(1875年)に政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる(現在の古河機械金属)。同年、市兵衛は草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収した。相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、のち渋沢も共同出費者として名を連ねた。当時の足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた結果、旧坑ばかりの生産性が極めて低い状態にあり、長年採掘が続けられていたことなどから再生の可能性は低いと判断されていた。そのため一時官営化されていたものの、市兵衛の経営権取得時にはお雇い外国人であったゴットフリイの調査結果に基づき民間に払い下げられていた状態であった。しかし市兵衛は足尾銅山不振の真の原因は旧態依然たる経営状態の中で計画的な探鉱、採掘が行われていないことにあると見抜き、足尾銅山の経営に乗り出した。しかし市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出した当初は、経営にならない状況が続いた。まず当時の足尾銅山で採掘の現場を仕切っていた山師集団の強い反発に遭い、経営権を入手したものの、市兵衛が実際に足尾銅山の経営を行えるようになったのは約半年後のことであった。続いて山師集団の反発を抑え、足尾銅山の再建に取り掛かったが、約4年間も成果が挙がらない状況が続いた。現場責任者の坑長も立て続けに3人交代し、4人目のなり手が現れなかった。明治13年(1880年)、市兵衛は4人目の坑長として当時まだ20歳代の半ばであった甥の木村長兵衛を抜擢、そして翌明治14年(1881年)、木村坑長のもとで待望の大鉱脈を掘り当てた。その後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、大銅山へと発展した。古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。しかし鉱山の急発展の中、日本の公害問題の原点とも言える鉱毒問題が発生していくことになる。鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手する。明治17年(1884年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展した。
市兵衛がビジネスの基本を学んだ小野組は元は近江商人で、陸羽地方の物産を京都・大阪の物産と交易していた。後に事業を拡大し、明治維新の当時は三井組、島田組と並ぶ大金融業者であった。1868年(明治元年)、小野組は三井組、島田組と共に政府の為替方を命ぜられ、新政府の租税の収納・送付を取り扱った。小野組は、更に生糸貿易、製糸・鉱山・米相場・油相場などへも進出し、第一国立銀行(現・みずほFG)を三井組と共に出資設立するに至った。しかし、事業拡大に伴う放漫経営と大蔵省為替方としての任務懈怠が主因で大蔵省より閉店処分を受け、1874年(明治7年)に破綻。小野組の事業資金は、第一国立銀行からの借入で賄っていたから、第一国立銀行も共倒れする可能性があった(同行の貸出金総額約300万円のうち、約140万円が小野組に貸し出されていた)。
そこで、第一国立銀行総監役(頭取)の渋沢栄一は、面識のあった市兵衛に善処を依頼。市兵衛はこれに応じ、市兵衛と小野組の所有する株式や鉱山やその建造物などの十分な担保を提供し、第一国立銀行の損失を2万円弱にとどめた。しかしその結果、市兵衛は裸一貫となって小野組を去ることになる。渋沢栄一はこの時の市兵衛の行動に感謝し、以来、親密な関係となった。現在、澁澤倉庫が古河グループに属しているのには、このような経緯もある。
●足尾銅山
市兵衛は、第一国立銀行頭取・渋沢栄一の資金援助を得て独立。草倉銅山・幸生銅山・永松銅山・足尾銅山の経営に乗り出し、1882年(明治15年)に足尾銅山において大鉱脈を掘り当て、そこからの増大する産銅をマジソン商会との有利な販売契約を締結することに成功し、多大な利益を上げた。更に、市兵衛は足尾銅山の開発と並行して、その他の金山・銀山・銅山の経営にも積極的に乗り出し、特に阿仁鉱山・院内鉱山を工部省より譲り受け大胆な合理化と技術的改良を行ない、成功を収めた。その結果、1883年(明治16年)には古河の産銅量は日本一となり、1907年(明治40年)までその地位を守り続け、銀の生産量において大きな比率を占めるに至った。
市兵衛が阿仁鉱山・院内鉱山から得た物は、豊富な銅や銀だけでなく、工部省管轄の官営鉱山であり、当時としては最新鋭の外国製機械・設備と共に、高度に教育された技術者を確保し、これらの技術者が後に古河系各鉱山を運営し、経営幹部に育った。例えば、後に古河鉱業会社(現・古河機械金属)の理事長となる近藤陸三郎は、工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業後、阿仁鉱山で技術者だった。
1890年(明治23年)に日本初の水力発電所を足尾に建設し、鉱山経営の電力利用による技術革新(イノベーション)を行なった。次に、大通洞開削により、採鉱・排水・運搬の統一的操業による総合化を達成し、製錬について日本初のベッセマ式転炉を採用した。
一方、このような一連の鉱山や鉱山関連事業の発展の陰の部分ともいえる足尾鉱毒事件で知られる公害問題に対しても、真摯な対応による善処を尽くしたのち、1903年(明治36年)に病没した。その間に、後の古河グループの発展の元となる確固とした資本の蓄積が行なわれた。
●市兵衛の個人事業から古河鉱業への発展
市兵衛は、1875年(明治8年)は家業と事業が未分離な「古河本店」(現・古河機械金属)という組織で発足したが、1897年(明治30年)、2代目当主の古河潤吉の強い主張に基づき、家業と事業を分離し、古河本店を「古河鉱業事務所」と改め、更に市兵衛が亡くなった後、1905年(明治38年)に古河鉱業事務所を合名組織として「古河鉱業会社」(現・古河機械金属)が設立され、古河潤吉が社長となり、他の社員は古河虎之助・吉村萬治郎・原敬・木村長七であった。
古河潤吉は陸奥宗光(のち外務大臣)の次男で、宗光が小野組糸店時代の古河市兵衛の人柄に感服し養嗣子とする約束をし、古河家に入った。古河虎之助は市兵衛の実子長男であり、原敬(のち総理大臣)は陸奥宗光に才幹を認められ、外務次官や逓信大臣を歴任した政界の重鎮であるが、古河潤吉の要請を受けて新会社に参加した。木村長七は市兵衛の小野組時代からの部下であった。
●古河財閥の形成
合名組織に改組後の古河鉱業会社は、日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))後の世界的な銅ブームに乗って好調に業績は推移し、足尾銅山での相次ぐ富鉱脈の発見もあり、日露戦争後の恐慌(1907年(明治40年))にもかかわらず着実な歩みを続け、1911年(明治44年)に商法の改正に伴い「古河合名会社」(現・古河機械金属)に改称した。この間、古河潤吉の病没(1905年(明治38年))の後、3代目当主の古河虎之助が社長となった。日露戦争後に発展したのは、山口喜三郎が中心になって進めていた鉱業から工業への事業展開であった。1906年(明治39年)、細尾発電所の竣工により日光電気精銅所(初代所長・山口喜三郎)(現・古河電気工業)において電気精銅を開始し、精銅・伸銅・製線の一貫生産体制が整った。
この頃から古河は、関連事業部門への積極的な投資を始めた。1908年(明治41年)に横浜電線製造(現・古河電気工業)を関連会社化(52%資本参加)し、日本電線(現・三菱電線工業)にも経営参加した。
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は、日本に空前の好況をもたらし、重化学工業の形成・貿易の増大・企業規模の拡大が行なわれた。古河の諸事業もこの大戦ブームを受けて規模を拡大し、それに伴う資金需要の増大に対処するために持株会社を設立し「古河財閥」(コンツェルン)を形成した。その手法は、1917年(大正6年)11月に古河合名会社を「合名会社古河鉱業会社」(現・古河機械金属)に改称し、営業部門を古河商事(のち破綻)として分離・独立させ、他に新しく持株会社として「古河合名会社」(現・古河機械金属)を設立するという「3社分立」によった。




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ストリーム
山梨住み ですが横浜単身赴任中
週末は山梨にいます
同郷の人と仲良くなれたらいいなぁ
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ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘
日々のこと・空や景色・神社仏閣、あとは日光街道を歩き旅したときの写真を載せています。お気軽にご覧ください
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Tack Me
とりあえず楽しいコミュニケーション希望。
年はアラフィフ。。。いかがわしい出会い目的は勘弁してください。飽きた。(笑)
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guro
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🌴たかし⛺
関西住みです。友達作り。関西らへん限定40↓↑50↓↑雑談^_^のグルチャオーナーです。気軽に話しかけてください。^_^
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