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関西住みです。友達作り。関西らへん限定40↓↑50↓↑雑談^_^のグルチャオーナーです。気軽に話しかけてください。^_^
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とりとめのない話し(その63)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その23番外編)

多くの「近江商人」が信仰している「浄土真宗」は、聖徳太子、七高僧、法然、親鸞の絵像が祀られている。「浄土真宗」の開祖である親鸞の夢に出たとされ、聖徳太子が強く信仰されている。

1つ前の投稿で紹介した事件「承元の法難」で、法然の弟子たちが陰茎を切り落とされたように、過去にも生臭坊主は多かった。当時、僧侶がそういう行為をすることを「女犯」とされ、戒律違反で破門とされていた。ましてや人の女房を寝取ることは死罪も同様だ。親鸞も同様の葛藤があり、危うく難を逃れた気分だったかもしれない。過去には、どちらかというと、人よりも欲が強すぎて、欲を捨てるために僧侶になろうという動機で出家することも数多くあったのだろう。最近99歳で亡くなられた瀬戸内寂聴も性欲を捨てきれず、出家して、地位を得ている。織田無道もキャバクラ通いで、有名だった。

僧侶の結婚が正式に認められたは、1872年の明治維新以降である。

親鸞も性欲を捨てきれず、聖徳太子ゆかりの寺院を回ったり、浄土宗の法然に教えを乞うなど、かなり性欲に悩んでいた。子だくさんの聖徳太子が強く信仰され、庶民から深く信仰されていることに矛盾を常に感じ、羨ましかったのかもしれない。性欲を捨てなくて良い理由を聖徳太子の夢のお告げと吹聴してまわり、性欲を捨てずに布教活動しようと開き直った最初の僧侶である。

俗世間には受け、信者を着々と増やしていったイケイケな親鸞の「浄土真宗」は、前途多難な道を歩むことになる。

鎌倉時代、奈良県(大和)の興福寺は、専修念仏を称えた「浄土宗」の法然や師と仰いだ親鸞とその弟子を訴え、後白河上皇に流罪とされ、地方を転々とすることとなった。

室町時代、浄土真宗の中興の祖と言われる蓮如の頃には、比叡山延暦寺に仏敵とみなされ、大谷本願寺が破壊された。

戦国時代、「浄土真宗」も抵抗勢力の大名や寺院に対抗すべく、大坂の石山本願寺で寺領を形成・武装していた。そして、守護大名らと呼応し、織田信長との石山合戦に突入していく。

●親鸞聖人の夢告
親鸞聖人が比叡山での修行に行き詰まりを感じていた際、京都の六角堂(頂法寺)に百日間参籠し、その95日目の夜明けに夢告を受けた。 

夢告の内容 
夢告は、六角堂の本尊である救世観音(如意輪観音)の化身とされる聖徳太子から受けたもの。 
「行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽。」 
「もし修行者が前世からの宿縁によって妻帯(女犯)しなければならない境遇にあるならば、私が玉女(美しい女性)となってその妻となり、一生の間、伴侶としてあなたを支え、臨終には極楽へ導きましょう。」

夢告の意義 
この夢告は、当時の厳しい戒律(特に僧侶の妻帯・肉食の禁止)に悩んでいた親鸞聖人に対し、俗世での生活(妻帯)を肯定し、それでも念仏によって救われるという道を示唆したもの。 

●妻帯の自由化
長年に渡り日本では法律で禁止されている状況が続いたが、明治維新にあたって、国家神道政策の影響もあり、1872年(明治5年)に太政官布告133号が発布されて僧尼令は廃止され、僧侶の肉食妻帯はこの布告をもって自由であるとされた。当時既に浄土真宗以外にも妻帯していた僧は多数存在したといわれるが、これに対しては戒律復興運動などの反対も起こった。

●延命院事件
江戸時代の享和年間に「延命院事件」と呼ばれる江戸中を騒がせる大事件が起こった。
この事件は延命院住職であった日潤の女犯事件であり、相手に大奥の女中が含まれていたため、大奥を巻き込んだスキャンダルとなり、江戸を揺るがせることとなった。日潤は初代尾上菊五郎の子供であったと書かれている本もあり、大変男前であり、話も上手だったと言われている。そのため、女性の信者に大変人気があり、大勢の女性信者が延命院に参詣するようになった。
こうした情報を得た寺社奉行脇坂安董は、取締りを決意するが、大奥も関係していることから安易に動くわけにはいかず、家臣の娘を密偵として延命院に送り込み確かな証拠をつかんでから摘発をした。享和3年(1803年)7月29日に日潤は斬罪となり、関係のあった婦女子などもそれぞれ処罰された。
延命院事件は『観延政命談』として脚色されて小説化されたのち、河竹黙阿弥によって歌舞伎として『日月星享和政談』と題し、明治11年(1878年)東京・新富座で5代目尾上菊五郎の主演で初演された。日潤は歌舞伎では日当となっているため通称「延命院日当」と呼ばれる。
延命院事件に先立つ寛政8年(1796年)8月には吉原遊郭の周囲に検問所を設け、朝帰りの僧侶69人(17歳から60歳)を一斉逮捕し、三日晒の上に寺持ちは遠島、所化は寺から追放という厳しい処分となった。
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とりとめのない話し(その62)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その22番外編)

「近江商人」は「浄土真宗」を信仰している人々が多いのが特徴的である。明治維新以降、商業の中心地が大坂に移ると御堂筋の北御堂と南御堂のある船場に「近江商人」が集まり、繊維問屋街と発展していった。

「天台宗」は修行により開け、「浄土宗」は専修念仏により開かれるとされたが、その念仏により現代にも類似するような面白い事件が1207年の鎌倉時代にも起きていた。僧侶の美声や僧侶の抑揚のある聞こえの良い曲節により女房を寝取られたと思い、後白河上皇が「浄土宗」の一門の陰茎を切断して斬首してしまった事件が起きている。この専修念仏の事件をきっかけに「親鸞」は「浄土宗」を発展させ、専修念仏を不要としたのかもしれない。

しかしながら、江戸時代に発展した「浄土真宗」はまた、門徒による聞こえの良い抑揚のある曲節を付けた踊り念仏を広めてしまったため、人々を惑わす一向宗と呼ばれ、大規模な一揆に発展してしまっている。法整備がなされた現代であれば、国家転覆を計った新興宗教として、解散を命じられていてもおかしくない。

「浄土宗」の専修念仏は、他宗派から異端とされ、「天台宗」の比叡山延暦寺や奈良県(大和)の興福寺などと対立していた。「法然」や「親鸞」が流罪となり、のちの時代の「浄土真宗」の「蓮如」は大谷本願寺を破壊され、それぞれが各地を転々とすることになった。
「浄土真宗」の開祖の「親鸞」は、聖徳太子が夢に降りてきたことにより、浄土宗の法然からの教えを発展させ、修行や般若心経を唱える必要は無いと説き、禁止されていた五戒や結婚、髪形も自由とされた。そのため「親鸞」は修行をするための本格的な寺院などの拠点を必要とせず、街中に道場を作り布教活動を行った。流罪などにより各地に追われた門徒は、関東や北陸などで布教活動を行ったため、16世紀以降、蓮如の頃から次第に拡がり始めた。いち早く僧侶の結婚を禁止しなかったため、門徒の一族による布教活動に繋がり、全国一の信者数となった。他の多くの仏教系の僧侶の結婚は、明治以降まで許されなかった。

●承元の法難
1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件。
1206年後鳥羽上皇の熊野御幸の間に安楽房遵西と住蓮が鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に院の女房らが参加した。彼女たちは安楽房の説法を聞くために彼らを後白河上皇不在の御所に招き入れ、夜遅くなったからとしてそのまま御所に泊めたしまい、その彼女らの2名が出家をする者まで出てしまった。
遵西は、音楽的才能に恵まれ、住蓮は美声の持ち主で、六時礼讃に曲節をつけて念仏の信者たちに合唱させ、専修念仏の普及に大きな役割を果たした。1205年興福寺の僧徒から『興福寺奏状』をもって専修念仏停止の訴えがあった際、行空とともに非難の的となり、1207年後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等で罪に問われ、羅切(陰茎切断)の上、弟子とともに斬首刑に処せられた。
後白河上皇の専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる事件が起きた。

●法然
1133−1212年、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人、吉水上人とも。

●知恩院
京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。正式呼称は華頂山知恩教院大谷寺。

●親鸞
1173−1263年、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。親鸞聖人と尊称され、鎌倉仏教の一つ、浄土真宗の宗祖とされる。
法然を本師と仰いでから生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教えを継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる。独自の寺院を持つ事はせず、各地に簡素な念仏道場を設けて教化する形をとる。その中で宗派としての教義の相違が明確となり、親鸞の没後に宗旨として確立される事になる。1207年後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

●西本願寺
京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
1272年親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建された。その後、比叡山延暦寺から迫害を受けるなど場所は転々とし、1591年浄土真宗本願寺派法主で本願寺11世の顕如は、豊臣秀吉により新たに寺地の寄進を受け、本願寺を大坂天満から京都堀川六条に移転させた。宗祖親鸞の廟堂は、1603年に東山五条坂西大谷に移り、現在「大谷本廟」となっている。

●東本願寺
京都市下京区にある真宗大谷派の本山の寺院。山号はなし。本尊は阿弥陀如来。正式名称は真宗本廟である。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来している。愛称は「お東」「お東さん」。1602年後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。

●蓮如
1415−1499年、室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第8世宗主・真宗大谷派第8代門首。大谷本願寺住職。諱は兼壽。院号は信證院。法印権大僧都。本願寺中興の祖。同宗旨では、蓮如上人と尊称される。1882年(明治15年)に、明治天皇より慧燈大師の諡号を追贈されている。しばしば本願寺蓮如と呼ばれる。真宗大谷派では「蓮如」と表記するのが正式である。父は第7世存如。公家の広橋兼郷の猶子。第9世実如は5男。子に順如、蓮淳など。
親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

●山科本願寺
京都市山科区にあった浄土真宗の寺院。本願寺第8世法主蓮如により、1483年に完成・建立。南側には興正寺も建てられていた。周囲には堀と土塁を築いて、寺内町を形成していた。1532年六角氏と法華宗徒により焼き討ちされた。現在、跡地には浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の山科別院(西別院と東別院とある)が建っており、南殿跡が大谷派の光照寺に、土塁跡が山科中央公園にある。南殿跡と土塁跡は2002年、国の史跡に指定されている。

●石山本願寺
戦国時代初期から安土桃山時代にかけて摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院。蓮如は1489年に法主を実如に譲り、自身は山科本願寺の南殿に隠居した。しかし、布教活動は引き続き盛んに行い、大坂周辺へも年に何回か行き来し、1496年に坊舎(大坂御堂)の建設が開始され、これが後に石山本願寺となった。1533年に本願寺教団の本山となって以後発展し、戦国の一大勢力となったが、織田信長との抗争(石山合戦)の末、1580年に顕如が明け渡し、その直後に焼失した。
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とりとめのない話し(その60)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その20)

明治維新以降、大阪の堺筋に百貨店(デパート)が軒を連ね、百貨店通りと言われるまでに至った。近江商人を源流とされる近江商人出身の呉服問屋(三越、白木屋、高島屋、松阪屋など)が多いのも印象的である。松阪屋は東海地方のいとう屋が屋号の呉服問屋。屋号については伊勢松阪の松阪屋の屋号の呉服問屋を買収したことに由来。昭和初期以降、商業の中心が御堂筋に移ると交通系の百貨店が数多く建設され、堺筋から移転や閉店を余儀なくされた。
因みに大丸は京都で、そごうは奈良で呉服問屋を創業。百貨店に発展。

1922年(大正11)髙島屋は大阪・堺筋の長堀橋詰に近代ゴシック建築の大型店舗、髙島屋長堀店を開店。これが髙島屋の本格百貨店の始まりとなる。当時の堺筋は、三越、白木屋がすでに大店舗を構えており、長堀店開店の翌年には松坂屋が開店。市電が走る堺筋は、大阪随一のメインストリートとして繁栄し、この時期の大阪は人口・面積で日本最大の都市になり、世界でも有数の大都市「大大阪」と呼ばれた。華やかで活気にあふれた「大大阪時代」の象徴の1つが堺筋に並んだ百貨店建築だった。昭和初年、御堂筋の建設計画が始まると、髙島屋が南海店(現大阪店)を開店を皮切りに在阪百貨店の地図は大きく変化した。

1922-1939 髙島屋長堀店 堺筋は江戸時代、商都・大阪の中心を南北に走る最も重要な街道でした。明治のおわりには道路が拡張され、市電が開通、大阪随一のメインストリートとなった。髙島屋は当時心斎橋筋に店舗を構えていたが、本格的な百貨店経営に向けて店舗の大型化を計画。1922年(大正11)、堺筋の長堀橋詰に長堀店を新築開店。
1923―1966 松坂屋大阪店 髙島屋が長堀店を開店した翌年、松坂屋が同じ堺筋の日本橋に大阪店を開店した。大正期の堺筋には既に三越が高麗橋に、白木屋が備後町に、それぞれ大型店舗を建設していた。大正のおわり、堺筋は百貨店が建ち並ぶ「百貨店通り」と呼ばれるまでに発展。大阪が人口・面積で東京を抜き日本一の都市となり、「大大阪時代」が到来した。

●日本の百貨店(デパート)の誕生
三井グループの祖業である合名会社三井呉服店(現在の三越)が1904年(明治37)前後に顧客や取引先に三井・三越の連名で挨拶状を発送。株式会社三越呉服店を設立し三井呉服店の営業を全て引き継いだことを案内するとともに、今後の方針として「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候」とし、1905年(明治38)元旦には全国主要新聞に全面広告を掲載した。のちに「デパートメントストア宣言」と呼ばれ、日本における百貨店の始まりとなった。

●三越
三越伊勢丹ホールディングス傘下の三越伊勢丹が運営する呉服店を起源とする日本の老舗百貨店。1673年創業。株式会社三越は、2011年3月31日まで運営していた企業。戦前の三井財閥及び、三井グループの源流企業。
商号の「三越」は三井財閥の創業者である三井家の「三井」と創業時の日本橋の呉服店「越後屋」からで、1904年に「合名会社三井呉服店」から「株式会社三越呉服店」へ改称。三越日本橋本店は日本の百貨店の始まりとされる。1935年に竣工した日本橋本店の本館は、国の重要文化財に指定。

●白木屋
東京都中央区日本橋1丁目に存在した江戸三大呉服店の1つで、かつ日本の百貨店の先駆的存在の1つ。江戸時代創業だったが昭和に入り、東急グループの傘下。1967年(昭和42)東急百貨店と合併し、商号・店名ともに「東急百貨店日本橋店」へと改称。その後1999年(平成11)に閉店、336年の歴史に幕を閉じた。跡地にはコレド日本橋が建設され、2004年(平成16)に開業。
日本国内では(法人は別として)商号は消滅したが、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルのアラモアナセンターでは、かつてのアラモアナ店が「シロキヤ・ホールディング・LLC」として2020年まで営業。初代大村彦太郎可全が、母方の材木商・河崎家の商売を近江国で手伝った後に独立し、1652年京都の寺の内に材木商を開いたのが始まりで、江戸三大呉服店に成長。
1921年(大正10)には心斎橋筋の出張店を閉鎖する代わりに堺筋備後町の角に3075坪の大阪支店を開設して東京と大阪で百貨店を2店舗を展開。

●髙島屋
大阪府大阪市中央区難波に本社を置く、老舗の大手百貨店。難波にある大阪店は同社の登記上の本店。2019年から本社機能の一部を東京都中央区日本橋の髙島屋グループ本社ビルに移転。日経平均株価の構成銘柄の一つ。
1831年京都で飯田新七(現・福井県敦賀市生まれ)が古着・木綿商を開き、義父の飯田儀兵衛の出身地である近江国高島郡南新保村(現・滋賀県高島市今津町南新保)から髙島屋と名付けた。

明治期の半ばから貿易業に参入する。1919年(大正8)には株式会社髙島屋呉服店として、当時の大阪市の目抜き通りであった堺筋の長堀橋に長堀店を構える。大阪市役所によって御堂筋が大阪のメインストリートとして整備されるのに合わせ、1932年(昭和7)には御堂筋の南端に位置する南海ビルディング(南海難波駅の駅ビル)のキーテナントとして、ターミナルデパートの南海店を開店した(のちに長堀店を閉店し、南海店に統合して本店の大阪店に改称)。翌1933年(昭和8)には東京市の日本橋に東京店(現・日本橋店)を開店して、関西資本の百貨店の中ではいち早く第二次世界大戦前に東京進出を果たした。

●松坂屋
J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店。また、株式会社松坂屋は、2010年までこれを運営していた企業。
東海地方を地盤とし、呉服店を起源とする老舗の名門百貨店。名古屋最大の繁華街である栄に本店を置く。本店の名古屋店においては、地域一番店の座を2000年開業のJR名古屋タカシマヤに奪われたものの、とりわけ名古屋市では今なお最有力の百貨店の1つ。イメージフラワーはカトレヤで、キャッチフレーズは「生活と文化を結ぶマツザカヤ」である。三越(現在の三越伊勢丹)や髙島屋などを凌ぎ日本一の売上を誇る百貨店であった時期も存在する。かつては進取の気質に満ち、業界他社に先駆けてエレベーターガール、制服の完全洋装化を採り入れた。に行はるるデパートメント
もともとこの百貨店の屋号は伊藤財閥の創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったいとう屋であった。この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされる。「松坂屋」のそもそもの由来は、1707年伊勢松坂(現・松阪市)出身の商人・太田利兵衛が今日の上野店の前身となる呉服店を開業、自分の出身地名から松坂屋と名付けたことによるもので、1767年いとう屋が松坂屋を買収した際、江戸の屋号はそのまま「松坂屋」を使用したが、これは既に江戸市中に松坂屋の名前が知れ渡っていたため、本来の「いとう屋」に変更するよりも得策と判断したからである。1768年江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。

1875年、第1大区高麗橋1丁目(現・中央区高麗橋1丁目)の呉服店「恵比須屋」を買収の上、第3大区新町通3丁目(現・西区新町3丁目)に「ゑびす屋いとう呉服店」設置。1909年 「ゑびす屋いとう呉服店」を閉鎖。1923年 南区日本橋筋3丁目(現・浪速区日本橋3丁目)に木造3階建の「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店。1964年大阪府大阪市中央区天満橋京町1-1で「松阪屋」を開店。店舗面積は30750㎡。2004年閉店し、京阪に売却し、京阪シティモールとなる。

●大丸
J.フロント リテイリンググループの大丸松坂屋百貨店が運営する日本の百貨店である。また、株式会社大丸は、2010年までこれを運営していた企業。京都発祥の老舗百貨店で呉服店を起源。大阪(心斎橋・梅田)・京都・神戸・東京・札幌に主力店舗を構えており、心斎橋店が本店にあたる。主力店舗はいずれも高い売上を誇り、この6店舗で単体の91%の売り上げを占める。特に本店の心斎橋店と、神戸店は高級百貨店として近畿地方において高いブランド力を誇る。また大手百貨店では唯一京阪神を網羅している。
1717年下村彦右衛門正啓が現在の京都市伏見区京町北8丁目77に呉服店「大文字屋」を開業し、呉服商を出発点として両替商を兼営していた。1726年に大坂心斎橋筋に進出。1728年に名古屋本町に名古屋店を開き「大丸屋」と称した(のち閉鎖)。幕末には髙島屋に対抗して幕府側についた。
1908年個人商店「大丸呉服店」を株式合資会社に転換。1910年東京信託会社の岩崎一が改革案を作成し、ついで大隈重信の斡旋により、日本生命社長の片岡直温が改革に乗り出す。同年秋には東京・名古屋の両店を閉店する一方で、京都・大阪・神戸店を拡張して再建に乗り出した。下村家も秘蔵の書画骨董を売却して約30万円を調達して資力を増強、1911年別宅会を解散して積立金を割り戻す決定をした。1914年には大阪店が不渡り手形を出して京阪2店が休業するなど、呉服店から百貨店への転換過程では問題が続発したが、幾度もの困難を乗り越え、1928年に大丸と改称して近代化に成功した。
高度成長期は三越(現:三越伊勢丹ホールディングス、同社傘下の三越伊勢丹ほか)と並び「西の横綱」と呼ばれた。しかし、梅田店出店に関する三菱銀行からの借入金など1000億円もの有利子負債を抱え、経営が一時悪化した。1990年頃には梅田店や東京店の黒字転換が実現し、神戸店の周辺開発を進めたものの、バブル崩壊後に再度業績は低迷。奥田務が社長就任後、他の百貨店よりも一足早く1998年より事業構造改革に乗り出し、国内不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減に取り組んだ。一方で2003年には札幌店を開店し軌道に乗せている。結果として改革は成功し、収益力を業界首位級に押し上げた。

●そごう
株式会社そごう。かつて百貨店の「そごう」を運営していた日本の企業。ミレニアムリテイリングの完全子会社。2009年8月1日にミレニアムリテイリングおよび同じくミレニアムリテイリング傘下の西武百貨店と合併し、そごう・西武となった。
1830年大坂で古着屋として創業した老舗企業。メインバンクの日本興業銀行(現在のみずほ銀行)出身の水島廣雄のもとで1960年代以降に多店舗展開戦略を推進して大手百貨店グループの一角にのし上がるが、バブル崩壊による経営悪化などにより2000年に経営破綻。その後は西武百貨店の支援の下経営再建を行い、2003年西武百貨店と共に持株会社「ミレニアムリテイニング」の傘下に入る形で経営統合。2009年にミレニアムリテイニングおよび西武百貨店と合併し、そごう・西武が発足。

「そごう」の社名・店名は創業者の名「十合」に由来。大阪が発祥の百貨店で、登記上の本店は創業から大阪店閉店までと心斎橋本店開店からそごう・西武への再編前まで、大阪の心斎橋に長年あった。それまで、大阪・心斎橋と神戸・三宮の2店舗だったが、1957年有楽町に東京店を開業し、「有楽町で逢いましょう」を宣伝文句に東京に進出した。同名の歌謡曲をはじめ歌番組や映画が制作され大流行となった。映画では大阪店・東京店が撮影に使用され、そごうが衣装提供も行った。
大和国十市郡十市村で絹屋として商売を営んでいた十合徳兵衛の息子として生まれた十合伊兵衛が、1830年に坐摩神社(火防陶器神社)の南隣、大坂上難波町に古手屋(古着屋)「大和屋」を開業したのが始まり。1872年(明治5)古手屋を廃業して呉服店へ転換し、1876年(明治9)安堂寺橋通三丁目に移転。翌1877年(明治10)には心斎橋筋一丁目に移転すると共に十合呉服店へ改称。
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とりとめのない話し(その59)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その19)

綿業は、三井、三菱などの財閥と並ぶ戦前期、日本の産業発展の柱で、「関西五綿」・「船場八社」と言われた時代があった。「関西五綿」の1つ目は東洋棉花で、1920年(大正9年)に三井物産棉花部から分社し、戦後はトーメンと呼ばれ、現在は豊田通商に吸収合併。2つ目は日本綿花で、戦後には日綿実業、略称ニチメンと呼ばれ、現在の双日という商社の一つの源流になった。3つ目が江商で、兼松に吸収合併。「関西五綿」の残る2社は、伊藤忠商事と丸紅は総合商社。

朝鮮戦争特需の反動不況後、関西の繊維商社「五綿八社」はどうなったか。「関西五綿」は持ちこたえたが、これらにたいして、「船場八社」のうち岩田商事は破綻。丸永と田附は、関西五綿の日綿実業(日本綿花から社名変更、現双日)と合併。竹村商店は帝人のグループ企業と合併。又一は金商と合併後、三菱商事の系列に。竹中は住友商事の系列に入った。豊島商店は親族の豊島半七の山一商店と合併し、豊島株式会社となった。

船場八社は敗戦後の綿業の斜陽産業化、とりわけ1954年(昭和29)の不況で大打撃を受け、船場に本社があるのは八木商店だけとなった。

●竹村商店
起源は京都市の竹村藤兵衛商店で、竹村清次郎が竹村商店を創り発展。彼は京都府の出口家に生まれ、幼少より竹村藤兵衛商店に奉公していた。この竹村藤兵衛商店を船場八社に含めれば、1869年(明治2)に八社の中では最も早く船場に綿花、綿糸、綿布を扱う支店を設置。

●岩田商事
創立者は岩田惣三郎。1843年尾張国(現愛知県)中島郡、今の一宮の辺りの生まれ。1874年(明治7)に大阪船場に出て、綿糸商として後で有名になる兄の常右衛門と一緒に綿糸布を販売し、1881年(明治14)に独立。北久太郎町で綿糸商を開業し阪神間を奔走。1918年、岩田商店は株式会社に改組。第一次大戦で綿糸価格が大きく変動した時期に、莫大な収益をあげたが1920年(大正9)の恐慌で、綿糸価格が短期間に1/3に暴落して中外綿業は破綻。惣三郎は浄土真宗大谷派の熱心な信者で、その関係を中心に多額の寄付をしている。
 
●丸永商店
源流は近江商人・不破家の分家不破栄次郎家で、本家と同じ呉服卸商。初代不破栄次郎は1882年(明治15)に近江国(現滋賀県)犬上郡彦根から大阪に出て東区北久太郎町に綿糸問屋の永楽屋不破糸店を開業。インド綿糸の取引から始め、その後東区内で店舗を移し繁栄を続け、栄次郎が東区南本町に店を構えていた頃、近隣に谷口房蔵が谷口綿布という店舗を構えた。この谷口は明治30年代に経営不振の紡績会社を吸収合併して大阪合同紡績を創業し、栄次郎は谷口と囲碁を通じて仲良くなり、1900年(明治33)頃から不破糸店は大阪合同紡績が製造する綿糸を一手販売し、初代栄次郎が死の間際に谷口に不破糸店の将来を託したところ、彼は支援を惜しまず、谷口の後援が不破糸店の発展の大きなきっかけとなった。

●田附商店
創立者、田附政次郎は近江国神崎郡の近江商人の五男。1884年(明治17)、姉婿の田附甚五郎の経営する大阪東区本町の呉服店を助け、1889年(明治22)に分家し、大阪市東区安土町に店舗を借り綿布商・田附商店を創設。その後、叔父伊藤忠兵衛の助言を容れ、1890年(明治23)に金巾製織(大坂紡に吸収され、後に東洋紡)に入社。1893年(明治26)、政次郎は岩田惣三郎と同じく大阪の三品取引所の前身機関の創設に関わり、それ以降、晩年まで三品取引所を舞台に綿糸投機の達人「田附将軍」として有名になった。金巾製織を一旦退職したが、1900年(明治33)、役員として復帰し、同社が大阪紡に合併された後の東洋紡の時代まで政次郎は紡織製造業に関係した。
1920年(大正9)の恐慌では田附商店も大きな打撃を被り、多くの損害を出したが、数年で克服して1930年代に業績を回復。この恐慌対策の一環として1921年(大正10)田附商店は個人商店から株式会社に改組。取扱品目も綿製品を中心としたが、新製品のレーヨン(人絹)の糸や織物、毛糸、そして加工度の高い綿製品などの繊維製品を扱った。
 他方で日露戦争の終わり頃から第一次大戦前までに政次郎は多くの企業の設立、経営に関わった。その中には又一を経営する阿部一族の関係企業である金巾製織と並ぶ江商と東津農業があった。

京大医学部に50万円という当時では巨額の寄付をして、それで大阪市北区扇町に北野病院が設立された。

●豊島商店
初代豊島久七は、綿織物が盛んであった尾張国中島郡で輸入綿糸の販売に成功した二代目豊島半七の実弟。1885年(明治18)、二代目半七が亡くなり、16歳の長男が三代目半七を襲名し、叔父の初代久七の補佐により成長。1903年(明治36)、初代久七は大阪市東区で綿糸商の豊島商店を開業。三代目半七の弟の民三郎を養子に迎え、1913年(大正2)、民三郎が家督相続し、二代目久七を襲名。
 第一次大戦頃まで豊島商店は綿糸の国内取引に専念し、外国への輸出には進出しなかった。1918年(大正7年)個人商店の豊島商店は資本金200万円で豊島商店に改組。二代目久七が社長となった。1928年(昭和3)には、愛知県の豊島一族と協同で設立。尾張一宮で繊維製品を扱っていた山一商店(1918年設立)など多くの企業に投資。大阪市会議員、大阪商工会議所常議員も務め、二代目は大阪の綿糸商同盟会や大阪綿布商同盟会といった団体の中心メンバーとなり、人を取り纏める才能も持ち得た。1841年初代豊島半七が「綿屋半七」の屋号で綿花の仲買を始め、1918年(大正7)6月、豊島半七糸店を改組。株式会社山一商店を設立。1942年(昭和17)7月には豊島商店を合併し、豊島株式会社となる。現在は愛知県名古屋市に主力拠点をおく、大手繊維商社。
 
●又一
近江三福の商家の1つである神崎郡能登川の阿部市郎兵衛家の商社。四代目阿部市太郎が基礎を築く。本家は阿部市郎兵衛家で、市太郎家は分家。元々は綿製品以外の商品をいろいろと扱っていた。
  阿部市郎兵衛家と市太郎家とは表裏一体の関係で、初代市太郎は、五代目市郎兵衛の次男を婿養子にして二代目市太郎とし、両家は姻戚関係を通じて密接な関係を結ぶ。そして七代目市郎兵衛と二代目および三代目の市太郎は、幕末の開港以来、金巾と唐花(西洋紅)を取り扱い、明治に入ってからは五郎絹・絹五郎・福連などの毛織物と洋綛(機械で紡がれた麻糸)を盛んに輸入し、1881年(明治14)には朝鮮布の輸入も始めた。両家は1871年(明治4)に大阪市南本町に又二大坂支店を開設。1884年(明治17)には共同経営の大阪支店を解消し、大阪市南久太郎町に又一大阪支店を開業。三代目市太郎は金巾製織などの創立にも関係し、1884年、大阪市南久太郎町に独自に阿部市商店を創業。この阿部市商店の屋号が又一となる。三代目市太郎は千石船を使って瀬戸内海から日本海を経て北海道まで廻航し、米、にしん、肥料などを仕入れ、近江麻糸紡織社の経営にも力を入れた。
 四代目市太郎は慶應義塾を卒業後、アメリカのコロンビア大学で学び、綿糸布の重要性にようやく気付き、阿部市商店はこれまで中心だった麻布の販売を1913年(大正2)に取りやめた。阿部一族はすでに金巾製織を経営しており、日露戦争後に同社は大阪紡績、三重紡績と共に朝鮮で金巾市場をめぐって激しく競争していた。こうした動きに合わせて阿部市商店は日露戦争ののち1906年(明治39年)、中国貿易を開始し、四代目はさらに朝鮮との貿易も拡大する。
 第一次大戦の好況期に阿部市商店は国内取引よりもむしろ外国との取引、特に中国貿易に力を注いた。他方で、四代目市太郎は、関西五綿の1つである江商の最大株主になり、さらに社長に就任すると、次第に江商の経営に活動の重点を移し、阿部市商店の経営からは手を引いた。第一次大戦期、阿部市商店は積極的な拡大策をとったが、それは阿部尚二郎の主導によった。そして1920年(大正9)大恐慌が襲ったが、その時の経営責任者は阿部藤造でした。彼は滋賀県大津市出身の阿部同族の一人で、東大法学部を卒業後、内務官僚を務め、その後横浜生糸の棉花部に勤務したのち阿部市商店に入るが、阿部市商店は恐慌で大損失を出して事業の継続が困難になり、そこで商権を継承した第二会社が又一だった。又一では四代目市太郎は表に立たず、実際の責任者は阿部禎治郎専務が務め、藤造取締役が支えた。なお禎治郎は1873年(明治6年)神崎郡能登川村に生まれ、分家して東京商業学校を卒業。住友銀行に長く勤めたのち、又一に戻った。
 又一は阿部市商店が潰れて、その代わりに創られた会社だったが、設立後は非常に業績が回復し、1920年代の不況期でも利益をあげており、経営は成功していた。1928年(昭和3)、四代目市太郎は病のため江商の社長の座を野瀬七郎平に譲り、1930年末に一旦又一の社長になったが、健康状態は良くなく、経営には関わらなかった。

●竹中商店
和歌山の名家であった竹中源助家が二代目の時、油商から両替商に転じ、さらに1882年(明治15)に綿糸商を兼ねるようになり、やがて綿糸取引専業となった。1907年(明治40)、三代目源助の時に大阪市東区北久太郎町に支店を設置し、彼が明治末に病没すると、婿養子の川口兵四郎が相続して四代目源助となった。まもなく第一次大戦の好況が到来し、その頃には綿糸を東洋紡績、摂津紡績、尼崎紡績などから仕入れて、販売先は内地向け6割、輸出4割になった。輸出先は朝鮮、満州、中国で、営業の主力は和歌山ではなく大阪支店となり、四代目は他の会社にも出資していた。竹中商店では明治末に和歌山商業学校を卒業して入社した有能な番頭の谷口嘉一郎が会社を支えた。 

●八木商店
八木與三郎は、幕末の1865年京都市生まれ。父親は丹波から京都に出て雑穀商八木家の養子になり、後年米穀商として成功した。與三郎は幼時に父親の友達であった京都の松盛家の養嗣子となり、そこには馴染めず1880年(明治13)に家を出奔し、父親の弟、藤本清兵衛が営む大阪の米穀店で働き、10年勤務して支配人となった。一旦祖母の実弟である八木文之亟の養子となり、八木家に戻った。なお藤本清兵衛の息子・二代目清兵衛は藤本ビルブローカー銀行(現大和証券)を創った。
 1893年(明治26)與三郎は初代清兵衛が亡くなって2年後、28歳の時に、藤本家から独立した番頭の藤本清七と提携して組合組織による小さな綿糸商の八木商店を大阪市東区に開業した。しかし商売がなかなか上手くいかず、藤本との組合は結局解散して独力で経営を続けた。八木商店には中野豊という有能な支配人がいて、他の綿糸商と一緒に神戸の商館に行き輸入綿糸の取引で活躍した話が残っている。しかし八木商店が発足した頃には、日本でも大阪紡績が成功し始め、1万錘規模の紡績工場が大阪を中心に出来て、大いに発展した。そこで八木商店の主な綿糸の仕入れ先も日本の紡績会社になり、最初の頃は主に泉州紡績、摂津紡績、大阪紡績などから綿糸を仕入れていた。
 八木商店は1908年(明治41)綿糸だけではなく、紡績が作った広幅綿布も売買するようになり、最初に扱った問屋は八木商店だった。第一次大戦期に八木商店は飛躍的に発展し、1918年(大正7)、個人商店を株式会社組織とした。ところが1920年(大正9)の恐慌で八木商店は大きな打撃を受け、海外出張所を全て引き上げた。1931年(昭和6)末の金輸出再禁止以降、業績は顕著に回復した。
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とりとめのない話し(その57)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その17)

大坂の商業の中心は「船場」周辺にあった。 1598年に秀吉の大坂城工事に伴い、1592年北御堂(津村別院)が建立され、1605年南御堂(難波別院)が建立された。この両御堂の前に道が整備された。この道がこの時開発された新市街地の西端にあたり、これを両御堂の前にあることから「御堂筋」と称された。

「大阪商人」は、この御堂筋付近を商都として、多くの商人を輩出した。江戸時代に両替商で財を成したが明治維新に没落した「淀屋」は淀屋橋にあり、酒造で財を成したのち、新田の開発や両替商で財をなした「鴻池」は北浜にあり、鉱山開発や両替商で財を成したのち、現在もグループ形成している「住友」も淀屋橋に住友村と呼ばれる企業群を形成し、独自に発展した。
また、「浄土真宗」を信仰している人が多かった近江商人もこの「北御堂」と「南御堂」に近い中央区船場に多く軒を連ねた。「近江商人」は呉服問屋など繊維関係の商家が多かったので、その歴史が色濃く残っている。その代表的な「近江商人」は、「伊藤忠商事」や「丸紅」である。また、「大阪商人」の中でも特徴的だった船場の繊維問屋の商人群を「船場商家」と呼ばれるようになった。

●船場商家
大坂に商業が発展すると全国各地から商人が集まり、なかでも商人の代表的な存在として「近江商人」も多くいた。江戸時代を通じて、近江商人は全国的に活躍するが特に商業の中心である大坂でも近江商人が大活躍をしていた。今でも船場は繊維の町として知られ、江戸時代以来呉服類を扱っていた人々が残っている。この呉服類を扱う人たちの多くは「近江商人」であった。

「大坂商人」の初代は、それぞれの出身地の習慣を守り、船場を中心に商売を始めた。「近江商人」も例外ではなかった。近江の地は、蓮如上人以来、「浄土真宗」の盛んな地の1つとして知られており、近江出身の「大坂商人」たちは、故郷の「浄土真宗」の感覚を身につけていた。このため、大坂においても、東西本願寺の御坊の近くに集まり、商業に従事した。「南北御堂」の前に広がる「船場商家」の人々は、大坂の中でもひときわ壮大な屋根を誇る御堂の見えるところに家を持ち、そこで商いをすることを理想とした。

また「浄土真宗」が「大坂商人」の「船場商家」に浸透している1つとして「相愛学園」がある。現在の相愛学園は、明治21年(1888年)に「相愛女学校」として津村別院の境内において創立され、女子学校が創設された。目的の一つとして、別院の前にある船場の子女の教養を育成することであった。近江商人の大坂の船場商家の間でも、「浄土真宗」が生活に深く関与していた。

●大坂商人
1584年豊臣秀吉が大阪城築城の際、城下町に伏見や近江から商人を連れて来たのが始まりとされる。「船場商家」もその1つ。総合商社で有名な「伊藤忠商事」や「丸紅」の源流は「近江商人」とされるが、大阪の船場で「紅忠」として創業し、発展していった。松下幸之助は和歌山で、大丸は京都なので、大坂商人と言っても、源流は色々な地域の商人の出身である印象が強い。

大阪市中央区道修町に戦火を逃れた「船場商家 」「旧小西家住宅」や鴻池財閥が管理していた「鴻池新田会所」などがその名残りを残している。また淀屋橋を架けたとされる豪商の「淀屋の屋敷跡」の碑が残されている。

〇主な大坂商人
淀屋 - 材木商だった初代・常安が中之島を開く。2代目・三郎右衛門は米市を開いて諸藩の蔵米の販売を一手に引き受け、また、両替屋や廻船問屋なども手掛けた。5代目・三郎右衛門の時に闕所・所払とされた。
安井道卜 - 成安道頓らと共に道頓堀川を開削する。道頓堀沿いに芝居小屋を設置し、道頓堀が大坂ミナミの中心となるきっかけを作った。
鴻池家 - 酒造業に始まり、海運業や両替業に進出した。
天王寺屋五兵衛 - 両替商。
住友家 - 製銅業や銅山経営を行う。
三井家 - 伊勢国松坂発祥(伊勢商人。源流は近江商人)。呉服業や両替為替業を行い、京都・江戸・大坂に店を持った。
下村彦右衛門 - 呉服店の大丸を創業。

●北御堂
本願寺津村別院。大阪市中央区本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。本山西本願寺の別院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。通称は北御堂と呼ばれる。
住職は浄土真宗本願寺派門主が兼ねるが、別院輪番が置かれて実務を主管している。浄土真宗本願寺派の大阪教区教務所が併設されているが、教務所長は津村別院の副輪番である。
別院名の「津村」とは戦国時代に見られる摂津国西成郡の郷名で、入り江であった古代の円江から転じたといわれる。船場が市街化された後も、1872年(明治5年)まで当院北に位置する御霊神社にかけての町名は津村南之町(当院北側の備後町通沿い)となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派難波別院)の門前を通る道であることに由来する。
天満にあった天満本願寺が京都の堀川六条に寺基を移した後(西本願寺)、大坂の門徒たちにより天正20年(1592年)に楼の岸(ろうのきし、現・中央区天満橋京町の八軒家浜近辺)に集会所が設けられた。これが津村別院の始まりである。集会所は慶長2年(1597年)に津村とも円江とも呼ばれていた当地に移転すると、津村御坊に名称を改め慶長10年(1605年)に本堂が建立された。

●南御堂
真宗大谷派難波別院。大阪市中央区久太郎町にある真宗大谷派の寺院。本山東本願寺の別院。本尊は阿弥陀如来。通称は南御堂。
真宗大谷派の大阪教区教務所、教化センターが併設され、大阪府堺市堺区櫛屋町東4丁にある真宗大谷派堺別院(堺南御坊)を支院とする。
別院名の難波とは摂津国西成郡上難波村の旧地であったことに由来する。船場が市街化された後も、1872年(明治5年)まで当院南に位置する難波神社にかけて上難波町という町名となり、以降、1914年(大正3年)まで当院南西部を含む北部が上難波北之町となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂(本願寺津村別院)と南御堂の門前を通る道であることに由来する。

文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より寺地を寄進され、教如が道修谷(現:大阪市中央区道修町1丁目付近)の地に大谷本願寺を開創したという。翌文禄5年(1596年)6月には「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘(現存)が鋳造されている。慶長3年(1598年)8月、大坂城三の丸造営に伴う船場の街区拡充のため、大谷本願寺は現在地へ移転する。しかし、慶長7年(1602年)に徳川家康より京都に寺地を寄進されると、大谷本願寺は京都烏丸六条へ移転して東本願寺となったという。その大谷本願寺の跡地に難波御堂が造営されたとしている。正徳4年(1714年)に二重屋根の壮大な本堂となる。現在の東本願寺御影堂は、この難波御堂の本堂を参考にしたとされている。太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲で全焼している。1960年(昭和35年)5月、本堂が鉄筋コンクリート構造で規模も縮小されたが、二重屋根の様式を留めて再建され、翌1961年(昭和36年)には山門を兼ねた御堂会館が完成する。
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とりとめのない話し(その56)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その16)

15世紀中頃から約100年間にわたるアイヌと和人の争いは、北海道西南部の日本人占拠を確定し松前氏による封建支配が確立し、この頃、行商人を起源とする近江商人の活動がこの地にも波及していた。

「高島南市」「八坂」「薩摩」「田中江」といった「五箇商人」を起源とする近江商人は、室町時代後半から北前船に到着した荷を小浜や若狭から九里半街道や七里半街道を通り、琵琶湖水運を利用し、輸送していた。

琵琶湖沿岸の「五箇商人」と対立していた湖東内地の「四本商人」は、大坂や京都への販路を拡大し、郷里とともに繊維や呉服問屋などに発展していった。一方、琵琶湖沿岸の「五箇商人」は主に海の物産を扱った商品が多く、琵琶湖水運を利用し、発展していったが、その他の輸送手段の発達により琵琶湖水運の優位性が無くなり、東北や北海道へ行商を拡大していった。

戦国時代になると湖西や湖東沿岸の「高島南市」「八坂」「薩摩」「田中江」などの「五箇商人」は、大名の保護を受けた「四本商人」に販路を奪われたため、衰退の一途を辿り、商売の地を求めて、郷里を捨てる近江商人も続出していた。特に彦根の「薩摩・柳川」や近江八幡の「田中江」の地から両浜組として、北海道(蝦夷地)の松前藩に活路を見いだしていた。

松前藩士が俸禄として得ていたアイヌの海産物の交易権の行使を、主に近江商人が請け負い交易を発展させた。利用港として隣国の若狭の小浜、あるいは越前の敦賀が用いられた。またこの船の船乗りには越前や若狭・加賀・能登など北陸の船乗りが用いられた。主に活躍した松前藩の近江商人は田附新助、建部七郎右衛門、藤野四郎兵衛、岡田弥三右衛門であった。

●北前船
江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

●松前藩
松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前家であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。

●シャクシャインの戦い
1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きた蜂起。アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。日本の元号の「寛文」年間に発生したことから、寛文蝦夷蜂起とも呼ばれている。

●田付 新助 (初代)
1581年−  1632年は、江戸時代初期、蝦夷地に進出した近江商人田付新助家の初代。田付景澄の子。屋号は福島屋。

田付家は、佐々木家支流六角氏遺臣の家柄で、1573年織田信長の攻撃により田付氏が籠る田付城(現滋賀県彦根市南三ツ谷町)が落城した。田付新助は、田付落城後の1581年近江愛知郡柳川村(現彦根市稲按司柳川)に生まれ、後に諱は景豊と称した。田付は田附とも書かれるが、本稿では『寛政重修諸家譜 第7巻 宇多源氏佐々木支流田付』記載に従い、田付を用いた。
数え14歳で武士を捨て商人を志し、同郷の建部七郎右衛門元重に相談の上、奥羽に赴き松前を調査し、蝦夷地各地を回り豊富な水産資源の将来性に着目した。その後、蝦夷地での事業協力者を故郷である近江柳川村・隣村の薩摩村(愛知郡薩摩村(現彦根市薩摩町))で有志を募り『両浜組』を組織し、近江商人の本格的な松前・蝦夷地進出に道を開いたとされる。
1602年津軽の鰺ヶ沢、1609年渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に店を出し、自分の船を持ち物産の輸送と販売を始めた。これ以降、田付一族は蝦夷西海岸での漁場開拓とともに漁法・漁具の改良、漁獲物の加工・販売に取り組み、松前藩の『場所請負人』として蝦夷地経営に深くかかわった。また、漁獲物などの蝦夷地物産の運搬は、松前から日本海航路で敦賀で陸揚げし、七里半越と呼ばれる山道を経て琵琶湖北岸の海津港(現高島市マキノ町海津)に運ばれ、琵琶湖水運により故郷である柳川の港に集積し、その後京・大阪へ販売を行った。柳川港もこのために田付新助により開設されたと言われ、また付近の来向川も新助の開削とされ、のちに灌漑用水路として使用された。

●建部 七郎右衛門
安土桃山時代から江戸時代初期、蝦夷地進出の先駆けとなった近江商人。屋号は材木屋。
建部七郎右衛門、諱は元重と言う。建部家は天1573年織田信長との戦いに敗れ一家離散、七郎右衛門は近江愛知郡柳川(現滋賀県彦根市柳川町)に暮らし、武士を捨てたとされる。七郎右衛門は1588年野菜類の種子の行商で松前(現北海道松前郡松前町)に渡り、その後度々近江と松前を往復した。1590年には、松前の蠣崎慶広に豊臣秀吉との謁見を勧めたと伝えられる。

なお、建部家過去帳によると建部元重は1691年に数え77歳で死去、元重の父重武は1635年死去とされている。過去帳に従うならば前項記載事項(蠣崎慶広への秀吉謁見の話等)や、七郎右衛門が同郷の田付新助の相談に乗った結果、新助が1596年 - 1615年に津軽の鰺ヶ沢、渡島国津軽郡福山(現北海道松前郡松前町字福山)に出店したとの話もありえないことになる[1]。

但し、七郎右衛門が江戸時代初期に松前進出を果たし巨利を得、若狭小浜や越前敦賀で大船を建造し、主に米・味噌や生活用品を松前に運び、松前からは材木を上方に運んだ(北前船)とされ、屋号も『材木屋』と称していたことは事実である。建部氏の氏神である大宮神社(彦根市柳川町)には、七郎右衛門の持ち船(韋駄天丸・自在丸)が描かれた『松前渡海絵馬』が奉納されている。

●初代 藤野 喜兵衛
1770年 - 1828年江戸時代後期、高田屋嘉兵衛とほぼ同時期に蝦夷地に進出した近江商人・藤野喜兵衛家の初代。屋号は柏屋。

初代藤野喜兵衛は1770年近江国愛知郡(後の日枝村、現滋賀県犬上郡豊郷町)の商人4代目藤野四郎兵衛の次男として生まれ、諱は喜昌と言う。1781年初めて蝦夷地に渡り、福山(現北海道松前町字福山)で義兄宮川清右衛門(屋号萬屋)の店に丁稚奉公し、1800年独立して松前城下の松ヶ崎に店を開き、屋号を『柏屋』・商標を『又の字の下に十(通称又十)』とし、物産販売・海運業を始めた。

順調に家業は伸び船7隻を保有する迄になり、1806年に余市場所を請け負い場所請負商人となった。1808年には宗谷・枝幸・常呂・網走・斜里場所などの漁場を、また1821年には国後場所も請け負った。柏屋は数年で松前有数の豪商へと成長し、オホーツク海沿岸漁場の請負は1867年迄続いた。

蝦夷地は1799年に東蝦夷地、1807年には西蝦夷地が天領となり松前奉行が置かれた(松前藩は陸奥国伊達郡梁川に移封)。藤野家の蝦夷進出はまさに蝦夷地天領の時期に行われた。1821年蝦夷地の大半が松前藩へ返却される際は、藤野家船『常昌丸』が松前藩御用船として買い取られ、1822年藩主(松前章広)一行の松前復帰に用いられ、藤野喜兵衛は藩侯より名字帯刀を許され七人扶持勝手向き御用となった。その後、1823年には利尻・礼文場所も請け負った。

初代喜兵衛は文政9年兄である第5代藤野四郎兵衛が後継ぎなく死去したため、同年6代目として本家藤野四郎兵衛家を継いだ。1828年初代喜兵衛(6代四郎兵衛)が亡くなると長男が7代目藤野四郎兵衛となり、長女の婿養子百次郎が2代目藤野喜兵衛となった。なお、一部資料では初代喜兵衛が本家を継いだことから、喜兵衛を初代四郎兵衛、長男を二代目四郎兵衛としている。

●岡田 弥三右衛門
1568年 - 1654年江戸時代初期の商人で、蝦夷地に進出した近江商人・岡田八十次家の初代とされる。岡田家の当主は代々八十次(やそじ)と称し(八十治と記される資料もある)、本項弥三右衛門を初代の八十次とする記述もある(国史大辞典)が、初代の名乗りは弥三右衛門が正しく、一般に呼びならわされている八十次を称したのは7代目以後とされている。

近江国では、六角氏衰退・浅井氏滅亡の後、多くの両氏一族・遺臣が帰農、又は商人へと転じていったが、岡田家も元武士の家柄とされる。岡田弥三右衛門は1568年の頃、蒲生郡加茂村(現在の滋賀県近江八幡市)に生まれた。

若い頃、安土城下で商売を営んでいたが、本能寺の変後安土城も落城したことから1586年豊臣秀次八幡城築城を契機に八幡城下爲心町に新たに店を設け、その後八幡城の廃城後に町が衰退すると、1596年 - 1615年に呉服太物を抱えて奥州に行商を始め、八戸を拠点とし、大いに蓄財をなした。

更に松前藩家臣工藤平右衛門の助力を受けて松前(現北海道松前町)に進出し、蝦夷地に呉服・太物・荒物を販売する支店を大松前に開き、屋号を「恵比須屋」とした。後に松前藩の信任を受けて、蝦夷地の千石船を用い海産物を日本海を経由(北前船)して出羽から北陸・上方へと運んだり、蝦夷地における漁場経営や物資の調達を請け負ったりして御用商人として活躍した。弥三右衛門は岡田家の蝦夷地での基盤を作り上げ、1651年に郷里近江八幡で死去した。

子孫も引き続き、松前の支店を拠点として蝦夷地における近江商人の中心的存在として活動、両浜町人の代表的商家の一つ。岡田家第10代の時には小樽内・古平・礼文・利尻など23ケ所で場所請負を行った。1871年に小樽(旧・小樽内)に支店を移して、12代目・13代目が北海道の開発事業に参加して小樽の町の基盤整備を行ったり、北海道で炭礦や農場を経営したり、更には九州地方でも事業展開を見せたが、当時としては時代よりも進み過ぎた事業も多く経営が苦しくなり、1901年に13代で破産を余儀なくされた。
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とりとめのない話し(その55)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その15)

近江商人「小野組」から派生した「古河財閥」は1946年に財閥解体となったが、1954年に古河山水会として、グループを再形成している。古河市兵衛は渋沢栄一と関係が深く、グループへの円滑な融資等を目的として、渋沢栄一創立の第一国立銀行(現・みずほ銀行)が合流しており、また渋沢倉庫なども合流している。

●古河財閥
古河市兵衛が設立した財閥。十五大財閥の1つ。
古河財閥の源流は、1875年(明治8年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。
古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(後の大日日本電線、現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧・古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。

●古河財閥の確立
 旧・古河合名会社の3社分立に先立ち1917年(大正6年)6月に、古河の諸事業の拡大に伴い増大する資金需要の解決を図るために、東京古河銀行(1921年(大正10年)に古河銀行と改称、現・みずほ銀行)が設立された。このことは、企業集団(古河財閥)が拡大発展するためには、古河家創業後の資本の蓄積と鉱山からの収益のみでは不十分で、企業集団以外の一般公衆資本の調達が必要なことを如実に示している。
古河商事の設立は、第一次世界大戦の軍事特需による古河の諸事業の発展と取扱商品の多様化に伴い、古河合名会社の営業部という組織では対処できず、営業部門を分離・独立させたことによる。古河商事設立後、従来からの銅・電線・石炭に、鉄・鉛・亜鉛・錫が加わり、更に雑貨類にまで拡大された。この雑貨類のうち、大連出張所で取引が開始された大豆・豆粕の扱いに将来の問題の種が宿されていた。
3社分立により設立された合名会社古河鉱業会社から鉱山・金属加工部門を引き継いだ古河鉱業株式会社(現・古河機械金属)が設立された。古河鉱業株式会社が設立された後の合名会社古河鉱業会社は、1929年(昭和4年)に合名会社古河林業部を経て、現在の古河林業につながっている。
これら直系の古河鉱業・古河銀行・古河商事、横浜電線製造などの傍系会社を全て株式会社化し、持株会社である古河合名会社は、株式会社には転換せず合名会社として、傘下の株式会社化した子会社群を持株により統括支配する財閥体制が確立した。また、今日の古河グループにおいても、グループ各社同士が互いに株式を相互保有している。その中心的な存在が、戦後の財閥解体以降に古河グループの持株会社的機能(戦前の古河合名会社の役割)を引き継いだ古河機械金属である。

●古河商事の破綻
第一次世界大戦期の軍事特需の中で、古河商事は従来の取扱品を拡大し、朝鮮・台湾はもとより欧米まで販売網を展開していたが、1920年(大正9年)の反動恐慌に見舞われ、商品価格の下落により大きな損害を被った。その上、大連出張所での満洲特産品(大豆・豆粕・粟・高粱など)に絡む投機的な取引により多大な損失を被り、古河商事のみならず、古河銀行、ひいては古河財閥全体を大きく揺るがすことになった(いわゆる大連事件)。日本電線、日本電線製造(のち大日電線)の古河財閥からの離脱もその一例である。
また、この大連事件で、古河の神戸船舶事務所が大幅な縮小を迫られたことは、後の古河財閥に大きな影響を与えた。というのは、第一次世界大戦後の海運ブームに際し、古河合名会社が山下汽船から譲り受けた3000トンの貨物船2隻、アメリカから輸入した8000トンの新造貨物船、更に新造船3825トン貨物船を合わせた社船隻と、そのほか傭船十数隻を擁し、主に古河関係の輸出入品を取り扱い、帰り荷には他社の貨物も積載して、アジア地域のみでなくスエズ・欧米の航路においても活躍していたが、大連事件と不況の煽りを受けて社船を転売、事務所を縮小した。
古河商事の蹉跌がなければ、古河財閥は鉱業・製造業・流通業(商社・海運)・金融業の4分野の全てに展開した総合財閥になれたものと考えられる。古河商事そのものは、1921年(大正10年)にわずか4年間の経営活動の後、古河鉱業(現・古河機械金属)に吸収合併され消滅した。

●古河銀行の破綻
東京古河銀行(1922年(大正11年)に古河銀行と改称、現・みずほFG)は1917年(大正6年)に設立され、第一次世界大戦特需と古河財閥傘下企業の好調な発展に支えられ、預金・貸出ともに急成長したが、その時に発生したのが古河商事の大連事件であり、また、深刻な第一次世界大戦後の反動恐慌であった。
大連事件の一時的な善後処理は乗り切ったが、その後、預金の大幅減少が続き、これも第一銀行(のち第一勧業銀行、現・みずほFG)の援助を受けながら凌いだ。そして、恐慌沈静後は預金が増勢に転じ、関東大震災の発生後も順調に回復した。
しかし、その後、関東大震災に伴う震災手形処理問題の難航から、鈴木商店の破綻に代表される全国の銀行を巻き込んだ1927年(昭和2年)の金融恐慌が発生し、引き続いて1929年(昭和4年)の世界恐慌とそれに基づく翌年からの昭和恐慌に直面した。
そして、銀行業務と支店の移管について第一銀行と東京貯蓄銀行(のち協和銀行、現・りそなHD)との合意を得て、1931年(昭和6年)に大蔵大臣に解散認可願を提出し、認可された。

●第一銀行(現・みずほFG)と古河グループ
古河グループ(古河三水会、旧・古河財閥)は、銀行系列としては第一銀行(のち第一勧業銀行、現・みずほFG)系列に所属する。古河グループと第一銀行の関係の歴史を振り返ると、以下のように要約できる。
第一銀行の前身である第一国立銀行(小野組と三井組との共同出資で設立された)は1873年(明治6年)に日本初の銀行として創立され、1875年(明治8年)に渋沢栄一が頭取に就任し、官金出納のほか一般銀行業務を取り扱った。1874年(明治7年)、小野組の破綻により第一国立銀行は経営危機に直面したが、前述のように小野組で商事部門を担当していた古河市兵衛が進んで抵当物件を提供するなどの誠実な態度によって、その危機を回避することができた。それ以降、渋沢栄一は古河市兵衛との強い信頼関係を保ち、1875年(明治8年)に市兵衛がほとんど無一文で鉱山事業に取り組む際には、第一国立銀行から資金援助を惜しまず、更に足尾銅山の事業の経営に関し、自ら参加するまでになった。
また、第一銀行は、1896年(明治29年)から始まる足尾銅山の鉱毒予防工事に際して、古河鉱業(現・古河機械金属)に巨額の工事費用を提供した。更に、1917年(大正6年)創立の古河銀行が、古河商事の破綻や金融恐慌の影響を受けて苦境にあった折に、同行業務と支店・従業員を引き継ぐなどの支援協力を行なった。このような緊密な関係はその後も(第二次世界大戦の敗戦に伴う財閥解体後も)一貫し、古河グループ各社と第一銀行は幾多の試練を相互に援助しながら乗り越えて、互恵的パートナーシップ関係を維持し、今日に至っている。第一銀行は1971年(昭和46年)に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、2002年(平成14年)には第一勧業銀行・日本興業銀行・富士銀行が合併しみずほFGが設立され、その傘下のみずほコーポレート銀行(後のみずほ銀行)となったが、古河三水会の理事会社として古河グループ各社の事業に深い理解と協力を提供している。

●財閥解体と古河三水会の発足
第二次世界大戦の敗北に伴う連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策である「経済民主化政策」の3大柱は、農地改革、労働改革、そして財閥解体であった。1945年(昭和20年)に、古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、旭電化工業(現・ADEKA)が指定会社(制限会社)となり、1946年(昭和21年)に発足した持株会社整理委員会によって古河財閥の解体作業が開始された。
GHQによる財閥の解体は、「持株会社の解体」「財閥家族の企業支配力の排除」「株式所有の分散化」の3つの柱からなっていた。持株会社の解体に関しては、古河鉱業と古河電気工業が持株会社の指定を受けたが、純粋持株会社ではなかった(事業持株会社であった)ために解散されることなく、持株会社整理委員会に有価証券を譲渡し、子会社との資本関係を解消した上で、企業再建整備法による再建の道を進み、1950年(昭和25年)に古河鉱業と古河電気工業は共に制限会社の指定を解除された。旭電化工業は、企業再建整備計画の認可条件を満たした1949年(昭和24年)に制限会社の指定を解除された。
財閥家族の企業支配力の排除については、古河従純(古河4代目当主、元・古河鉱業社長)と中川末吉(元・古河電気工業社長)が指定され、両者の所有有価証券は持株会社整理委員会に譲渡された。また、被指定者は会社役員への就任の制限措置がとられた。
株式所有の分散化については、持株会社整理委員会が譲り受けた株式を1947年(昭和22年)に設置された証券処理調整協議会を通じて公衆(会社従業員を含む)に売却することによって行なわれた。
古河財閥は、上記の財閥解体処分により、集中排除・企業再建整備の試練を経て、それぞれ独立の企業として再出発した。しかし、同じ古河財閥の一員として成長・発展してきた同系企業相互の関係は、単に資本的・人的関係が断たれただけで崩れることはなかった。特に古河財閥の場合は、非鉄金属・電機エレクトロニクス・化学などの事業会社が中心となって原料・製品面での関連が強く、それぞれが完全独立会社となってからも協力関係が維持された。その端的な例として、1950年(昭和25年)の日本ゼオンの創立に当たって、古河電気工業・横浜ゴム・日本軽金属の旧・古河財閥(戦後は古河グループと称す)3社の緊密な協力が行なわれたことにも示されている。
古河グループの再結集の梃子の役割を果たしたのは、第一銀行(現・みずほ銀行)による融資系列の形成であった。その基本的機能は、株式の相互持ち合いによる株主安定化である(その中心的役割を果たしているのは古河財閥の源流企業・古河機械金属である)。1954年(昭和29年)に、古河グループに所属する会員相互の親睦・情報交換・協力・共同事業を行なう任意団体として、古河三水会が設立された。

●古河三水会
理事会社は10社で、構成会員は理事会社の主要な子会社・関連会社などから成っている。
理事会社10社は、古河機械金属・古河電気工業・富士電機・富士通・横浜ゴム・ADEKA・日本軽金属・日本ゼオン・朝日生命保険・みずほコーポレート銀行で、特に古河機金・古河電工・富士電機・富士通の4社が中核理事会社である。また、古河三水会という名称は、毎月第三水曜日に古河グループの社長会が開催されることにちなむ。グループ会社数は550社、グループ従業員数は約27万人、グループメッセージは「未来をひらく 古河グループ」、事務局は東京・丸の内の丸の内仲通りビル。
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とりとめのない話し(その54)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その14)

幕末に京都と盛岡の交易で財を成した「小野組」は明治維新の変革期に「三井組」と「小野組」の共同出資で、渋沢栄一らが三井小野組合銀行を設立し、その後に銀行法による初の第一国立銀行が設立されたが、明治維新の新政府による官全抵当増額令による預かり金全額の担保を提出出来ず、「島田組」とともに破綻した。
「小野組」の番頭であった古河市兵衛は倒産した「小野組」の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防いだことで、渋沢栄一の信頼を得、古河財閥と言われるまでに登りつめた。第二次世界大戦後、財閥はGHQに解体されたが、現在は古河山水会として、グループを形成している。主な企業は、古河電工、富士通、朝日生命保険、みずほ銀行など。

●古河 市兵衛
1832年 - 1903年(明治36年)明治期の日本の実業家で、古河財閥の創業者。京都出身。幼名は木村巳之助、幸助。陸奥宗光の二男の潤吉を養子とした。従五位。生家の木村氏は京都岡崎で代々庄屋を務めたが、父の代には没落しており、巳之助は幼少の頃から豆腐を売り歩く貧乏暮らしで苦労を重ねた。継母が病に倒れた際、盛岡南部藩で高利貸しを営んでいた母方の叔父が見舞いに訪れ、その際、その親族のもとで修行をすることを希望し、1849年盛岡に向かう。盛岡では叔父のもとで貸金の取立てを手伝う。やがて南部藩御用商人の鴻池屋伊助店(草間直方が旧名時代に起こした店)に勤めるが、まもなく倒産する。その後、1857年叔父の口利きで京都小野組の番頭だった古河太郎左衛門の養子となり、翌年には古河市兵衛と改名した。太郎左衛門は、京都にある小野組の生糸買付を担っていたが、病気で倒れると、代わりに市兵衛が小野組の使用人になり、生糸輸出・米穀取引・蚕糸などの取引で活躍。幕末期において三井組(のち三井財閥)と並ぶ有力な番頭になった。

明治維新期の時流にも乗り、東北地方の生糸を横浜に送り巨利を挙げるなどの成功を収めるが、明治新政府の公金取り扱い業務の政策変更の結果、小野組は壊滅的な打撃を蒙り、市兵衛は再び挫折を味わうことになる。しかしその際、政府からの引き上げ金の減額などを頼みに陸奥宗光のもとへ談判に行き、これが縁でのちに宗光の次男を養子に貰った。また、小野組と取引があった渋沢栄一の経営による第一銀行に対し、市兵衛は倒産した小野組の資産や資材を提供することで第一銀行の連鎖倒産を防ぎ、渋沢という有力な協力者を得ることに成功した。

1872年(明治4年/明治5年)には鉱山事業家・岡田平蔵と提携し、秋田県下の鉱山経営を行なったが、2年後に岡田が死去。鉱山経営は小野組が引き継ぐことになるが、1874年(明治7年)に破綻。翌1875年(明治8年)に独立し、鉱山事業に自ら取り組むことになった。これが古河財閥の始まりであり、今日の古河機械金属の前身である。

小野組破綻後、市兵衛は独立して事業を行うことにした。まず手始めに秋田県にある当時官営であった有力鉱山、阿仁鉱山と院内鉱山の払い下げを求めたが、これは却下された。続いて新潟県の草倉鉱山の入手を企て、渋沢から融資の内諾を得るものの、やはりこれも最初は政府の許可が得られなかった。しかし市兵衛は小野組時代から縁があった旧中村藩主相馬家を名義人に立て、市兵衛が下請けとして鉱山経営を行う条件で、明治8年(1875年)に政府から草倉鉱山の払い下げを受けることに成功した。草倉鉱山の経営は順調で、明治10年(1877年)には市兵衛は鉱山業に専念する決意を固め、いよいよ足尾銅山を買収することになる(現在の古河機械金属)。同年、市兵衛は草倉鉱山と同じく相馬家を買い取り名義人として立てて足尾銅山を買収した。相馬家では家令であった志賀直道(志賀直哉の祖父)が市兵衛の共同経営者となり、のち渋沢も共同出費者として名を連ねた。当時の足尾銅山は江戸時代を通じて無計画に採掘が行われた結果、旧坑ばかりの生産性が極めて低い状態にあり、長年採掘が続けられていたことなどから再生の可能性は低いと判断されていた。そのため一時官営化されていたものの、市兵衛の経営権取得時にはお雇い外国人であったゴットフリイの調査結果に基づき民間に払い下げられていた状態であった。しかし市兵衛は足尾銅山不振の真の原因は旧態依然たる経営状態の中で計画的な探鉱、採掘が行われていないことにあると見抜き、足尾銅山の経営に乗り出した。しかし市兵衛が足尾銅山の経営に乗り出した当初は、経営にならない状況が続いた。まず当時の足尾銅山で採掘の現場を仕切っていた山師集団の強い反発に遭い、経営権を入手したものの、市兵衛が実際に足尾銅山の経営を行えるようになったのは約半年後のことであった。続いて山師集団の反発を抑え、足尾銅山の再建に取り掛かったが、約4年間も成果が挙がらない状況が続いた。現場責任者の坑長も立て続けに3人交代し、4人目のなり手が現れなかった。明治13年(1880年)、市兵衛は4人目の坑長として当時まだ20歳代の半ばであった甥の木村長兵衛を抜擢、そして翌明治14年(1881年)、木村坑長のもとで待望の大鉱脈を掘り当てた。その後、足尾銅山では立て続けに大鉱脈が発見され、銅の生産高は急上昇し、大銅山へと発展した。古河財閥は足尾銅山発展の中で形成されていった。しかし鉱山の急発展の中、日本の公害問題の原点とも言える鉱毒問題が発生していくことになる。鉱山経営を進める一方で、銅山を中心とした経営の多角化にも着手する。明治17年(1884年)には、精銅品質向上による輸出拡大と、銅加工品の生産による国内市場開拓を目指して本所溶銅所を開設した。この事業は後の古河電気工業へと発展した。

市兵衛がビジネスの基本を学んだ小野組は元は近江商人で、陸羽地方の物産を京都・大阪の物産と交易していた。後に事業を拡大し、明治維新の当時は三井組、島田組と並ぶ大金融業者であった。1868年(明治元年)、小野組は三井組、島田組と共に政府の為替方を命ぜられ、新政府の租税の収納・送付を取り扱った。小野組は、更に生糸貿易、製糸・鉱山・米相場・油相場などへも進出し、第一国立銀行(現・みずほFG)を三井組と共に出資設立するに至った。しかし、事業拡大に伴う放漫経営と大蔵省為替方としての任務懈怠が主因で大蔵省より閉店処分を受け、1874年(明治7年)に破綻。小野組の事業資金は、第一国立銀行からの借入で賄っていたから、第一国立銀行も共倒れする可能性があった(同行の貸出金総額約300万円のうち、約140万円が小野組に貸し出されていた)。
そこで、第一国立銀行総監役(頭取)の渋沢栄一は、面識のあった市兵衛に善処を依頼。市兵衛はこれに応じ、市兵衛と小野組の所有する株式や鉱山やその建造物などの十分な担保を提供し、第一国立銀行の損失を2万円弱にとどめた。しかしその結果、市兵衛は裸一貫となって小野組を去ることになる。渋沢栄一はこの時の市兵衛の行動に感謝し、以来、親密な関係となった。現在、澁澤倉庫が古河グループに属しているのには、このような経緯もある。

●足尾銅山
市兵衛は、第一国立銀行頭取・渋沢栄一の資金援助を得て独立。草倉銅山・幸生銅山・永松銅山・足尾銅山の経営に乗り出し、1882年(明治15年)に足尾銅山において大鉱脈を掘り当て、そこからの増大する産銅をマジソン商会との有利な販売契約を締結することに成功し、多大な利益を上げた。更に、市兵衛は足尾銅山の開発と並行して、その他の金山・銀山・銅山の経営にも積極的に乗り出し、特に阿仁鉱山・院内鉱山を工部省より譲り受け大胆な合理化と技術的改良を行ない、成功を収めた。その結果、1883年(明治16年)には古河の産銅量は日本一となり、1907年(明治40年)までその地位を守り続け、銀の生産量において大きな比率を占めるに至った。
市兵衛が阿仁鉱山・院内鉱山から得た物は、豊富な銅や銀だけでなく、工部省管轄の官営鉱山であり、当時としては最新鋭の外国製機械・設備と共に、高度に教育された技術者を確保し、これらの技術者が後に古河系各鉱山を運営し、経営幹部に育った。例えば、後に古河鉱業会社(現・古河機械金属)の理事長となる近藤陸三郎は、工部大学校(現・東京大学工学部)を卒業後、阿仁鉱山で技術者だった。
1890年(明治23年)に日本初の水力発電所を足尾に建設し、鉱山経営の電力利用による技術革新(イノベーション)を行なった。次に、大通洞開削により、採鉱・排水・運搬の統一的操業による総合化を達成し、製錬について日本初のベッセマ式転炉を採用した。
一方、このような一連の鉱山や鉱山関連事業の発展の陰の部分ともいえる足尾鉱毒事件で知られる公害問題に対しても、真摯な対応による善処を尽くしたのち、1903年(明治36年)に病没した。その間に、後の古河グループの発展の元となる確固とした資本の蓄積が行なわれた。

●市兵衛の個人事業から古河鉱業への発展
市兵衛は、1875年(明治8年)は家業と事業が未分離な「古河本店」(現・古河機械金属)という組織で発足したが、1897年(明治30年)、2代目当主の古河潤吉の強い主張に基づき、家業と事業を分離し、古河本店を「古河鉱業事務所」と改め、更に市兵衛が亡くなった後、1905年(明治38年)に古河鉱業事務所を合名組織として「古河鉱業会社」(現・古河機械金属)が設立され、古河潤吉が社長となり、他の社員は古河虎之助・吉村萬治郎・原敬・木村長七であった。
古河潤吉は陸奥宗光(のち外務大臣)の次男で、宗光が小野組糸店時代の古河市兵衛の人柄に感服し養嗣子とする約束をし、古河家に入った。古河虎之助は市兵衛の実子長男であり、原敬(のち総理大臣)は陸奥宗光に才幹を認められ、外務次官や逓信大臣を歴任した政界の重鎮であるが、古河潤吉の要請を受けて新会社に参加した。木村長七は市兵衛の小野組時代からの部下であった。

●古河財閥の形成
合名組織に改組後の古河鉱業会社は、日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))後の世界的な銅ブームに乗って好調に業績は推移し、足尾銅山での相次ぐ富鉱脈の発見もあり、日露戦争後の恐慌(1907年(明治40年))にもかかわらず着実な歩みを続け、1911年(明治44年)に商法の改正に伴い「古河合名会社」(現・古河機械金属)に改称した。この間、古河潤吉の病没(1905年(明治38年))の後、3代目当主の古河虎之助が社長となった。日露戦争後に発展したのは、山口喜三郎が中心になって進めていた鉱業から工業への事業展開であった。1906年(明治39年)、細尾発電所の竣工により日光電気精銅所(初代所長・山口喜三郎)(現・古河電気工業)において電気精銅を開始し、精銅・伸銅・製線の一貫生産体制が整った。
この頃から古河は、関連事業部門への積極的な投資を始めた。1908年(明治41年)に横浜電線製造(現・古河電気工業)を関連会社化(52%資本参加)し、日本電線(現・三菱電線工業)にも経営参加した。
1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦は、日本に空前の好況をもたらし、重化学工業の形成・貿易の増大・企業規模の拡大が行なわれた。古河の諸事業もこの大戦ブームを受けて規模を拡大し、それに伴う資金需要の増大に対処するために持株会社を設立し「古河財閥」(コンツェルン)を形成した。その手法は、1917年(大正6年)11月に古河合名会社を「合名会社古河鉱業会社」(現・古河機械金属)に改称し、営業部門を古河商事(のち破綻)として分離・独立させ、他に新しく持株会社として「古河合名会社」(現・古河機械金属)を設立するという「3社分立」によった。
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とりとめのない話し(その53)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その13)

江戸時代の幕末に名を馳せた「小野組」という高島大溝系近江商人がいた。
盛岡に移った高島大溝系近江商人の村井新七に世話になった小野権兵衛は、村井権兵衛と名を改め、盛岡で「志和近江屋」で酒造を開業し、甥の三兄弟も大溝から呼び寄せた。のちに小野組の祖と言われた善助は「井筒屋」を開業し、京都に出店。唯貞は村井権兵衛を継ぎ、京都で「鍵屋」を出店した。清助は兄の盛岡の「井筒屋」を引き継いだ。 七代目善助の時代(幕末から明治維新)に「三井組」、「島田組」に並ぶ豪商に成長したが、政府の金融政策の急変に対応できず、明治前期に破綻した。

●糸割符商人
幕府は1604年(慶長9年)、御用商人茶屋四郎次郎を主導者として京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせ、その糸割符仲間に輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。当初3か所であったが、後に1631年(寛永8年)に江戸・大坂を加え5か所となった。

●小野組
江戸時代の豪商で、小野組の名は明治に入ってからの通称で、初代小野善助に始まり、「井筒屋」を名乗っていた。糸割符商人。数多くあった分家との区別を図るために、その名前から特に「善印」とも称す。幕末・維新にかけて明治新政府に御為替方と称されるほど成長したが、政府の金融政策の急変に対応できず、明治前期に破綻した。
小野家は、初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
1662-63年ころ次男の主元が盛岡に下り、近江屋を開業し、村井権兵衛を名乗った。盛岡は、1615年頃に盛岡城が完成し城下町が建設されると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳っていた。権兵衛も同郷の近江商人を頼りに盛岡に入り、志和村で酒造業を始めて成功し、砂金を買い集めて京都に送っていた。
権兵衛は甥である善助、唯貞、清助の三兄弟も盛岡に呼び寄せた。善助(包教)は1689年に盛岡紺屋町で井筒屋と号して開業、1708年に京都に進出して大店となり、のちに江戸にも進出した。その弟唯貞は叔父の村井権兵衛家を継いで襲名し、1690年に京都に進出して鍵屋と号し、苗字を小野に戻して小野権右衛門と名乗った。その弟清助は権兵衛の婿養子となり、兄善助の紺屋町の店を引き継いだ。それぞれ「善印」「郡印」「紺印」と通称され、小野一族が形成された。小野一族は、上方から木綿・古手などの雑貨を運び、奥州から砂鉄・紅花・紫根を上方に送り、物産交易を営み財を成していった。
京都の井筒屋善助・鍵屋権右衛門らは南部藩からの仕入れ店であったが、1776年幕府の「金銀御為替御用達」となり十人組に加入し、御為替名目金を自己の営業資金に流用し、京都では和糸・生絹・紅花問屋を、江戸では下り油・下り古手・繰綿問屋、盛岡では木綿商・古手商・酒造業を営んでいた。江戸の小野組は、日本橋本石町(現日本銀行敷地内)に為替会社を置き、日本橋田所町に油店を持っていた。1866年に明治政府は財源確保のために「金穀出納所」を設けた際に、三井三郎助・島田八郎左衛門とともに小野善助を「金穀出納御用達」とし翌慶応4年1月には「出納所御為替御用達」に任じた。三井組、島田組と並び豪商として名を馳せたが、明治新政府による官金預り金の担保に関する急激な規制強化に対応できず、1874年11月に破綻した。

●小野新四郎(則秀) - 初代。近江の大溝で開業
●小野善五郎(直嘉) - 則秀の長男。大溝の井筒屋2代目。

●村井権兵衛(主元) - 則秀の次男。盛岡で志和近江屋を開業。
南部氏が盛岡に城下町を建設すると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳るようになるがその中でも目ざましい活躍をしたのが近江(滋賀県)出身の商人であり、その代表者が志和の初代「村井権兵衛主元」とその一族であった。初代権兵衛主元は近江国高島郡大溝の出身(小野新四郎則秀の二男)で本姓は小野であったが、盛岡に下った際、知人の村井新七の家にわらじを脱ぎ志和に独立するまで世話になったので姓を「村井」と変え、屋号を「志和近江屋」といった。志和の上平沢へ移った年代は明らかでないが、この地が八戸藩に編入された寛文の頃と推定される。権兵衛はここに新居を設けると良質の水と志和米をもって灘仕込みの清酒(すみ酒)を造って売出した。当時この地方はもっぱら濁酒であったからこれは酒造業に対する一つの革命であり、後に優秀な志和杜氏を生む原因となった。この外、滝名川の砂金採取、味噌醤油の製造販売、質屋の営業、塩の一手販売、京都の質流れの古着販売など広範囲の仕事に手をつけて僅々十数年の間に莫大な財産をつくりあげ、一代のうちに盛岡には井筒屋善助、井筒屋清助、芳野屋宇兵衛、日詰には井筒屋権右ェ門、桝屋佐兵衛などを分家させた村井家は大正13年に至って没落したが、それまでは代々酒屋を経営し、明治30年頃には最高三千石にまで達した。その銘柄は福鯛と称して有名であった。 村井家の人々は商人として活躍しただけでなく、第8代目の義堂などは志和代官所の助役に起用され、また文人としても地方に名をなす程であった。

●小野組初代「小野善助包教」
村井善助(包教、1739年没) - 直嘉の長男。盛岡・京都で井筒屋(善印)開業。小野組の祖。江戸時代前期の近江商人の豪商。近江国高島郡大溝(滋賀県高島市)出身。名は包教。屋号は井筒屋善助。近江商人。小野家は万治年間(1658~1661年)頃、近江国高島大溝より盛岡に出て、奥羽物産と上方物産の交易で財をなした。その一族の一人である初代小野善助(包教)は、享保8年(1723年)京都に町家を求めて移住し、和糸・生絹・紅花・古手問屋ならびに両替業を開業、京都小野本家を開いた。初代小野善助包教は、盛岡の叔父、高島大溝出身の豪商「初代村井権兵衛主元(旧姓小野主元)」に呼ばれ、天和2年(1682年)京都から盛岡に進出し、「井筒屋善助店」を開き、陸羽(東北)地方との交易で成功した。以降、小野一族は、木綿、古手などの雑品 を南部にもたらし、砂金、紅花、生糸などを持ち下り、のち、江戸、次第に各地に支店にも開店。本為替仲間に加入して幕府の金銀御用達ともなり栄えた。初代以降、「善助」が小野家の京都井筒屋善助本家の通り名となり明治期の8代まで続いた。

●小野権右衛門
(唯貞、1662-1732) - 直嘉の二男。盛岡近江屋2代目。京都で鍵屋、郡山城 (陸奥国紫波郡)下の日詰で井筒屋(郡印)開業。2代目村井権兵衛唯貞。71歳没。幼名伊兵衛。武士から商人に転身した村井新七、そしてその新七を頼って東北に行った小野組の祖となった小野権兵衛主元(初代村井権兵衛主元)の養子・2代目村井権兵衛唯貞。江戸時代前期-中期の豪商。滋賀県高島市出身の近江商人。「小野権右衛門唯貞」は叔父の村井権兵衛主元の養子となり、2代目「村井権兵衛唯貞」となり、志和近江屋2代目、京都鍵屋・郡山井筒屋の祖となった。村井家の中興の祖となった。元禄2年陸奥上平沢村(岩手県紫波町)にいた叔父「村井権兵衛主元」(志和近江屋)の養子となって伊兵衛(のち村井権兵衛唯貞)を称し、3年京都に「鍵屋」を開店、本姓にもどって「小野権右衛門唯貞」を名のる。 奥州の砂金と京坂の木綿・古着・雑貨類との交易で財をなし、江戸、大坂に進出。郡山城下(紫波町)に井筒屋をひらき、盛岡藩御用達を勤めた。

●小野善五郎 - 直嘉の三男。大溝の井筒屋3代目。
●小野清助(嘉品) - 直嘉の四男。盛岡の井筒屋(紺印)開業。
●小野善助(政房) - 3代目善助
●小野善助(包該) - 4代目善助。政房の長男
●小野助次郎 - 政房の二男
●小野又次郎 - 政房の三男

●小野善助(包賢、1831-1887) - 7代目善助。第一国立銀行頭取。破綻時の小野善助家当主。
明治維新期で、糸・絹・古手・油などについての商業活動を行うとともに、新政府の御為替方として、巨額の御用金を拠出し、為替方として公金を取り扱い、全国的規模で金融活動を繰り広げ、「小野組」と呼ばれた。包賢は初代小野善助包教から数えて120年余後の7代小野善助店当主であった。7代目善助包賢の時、三井、嶋田とならんで出納所御為替御用達となり、明治維新には莫大な御用金などで奉公の誠を尽くして新政府に加担した。生糸貿易に乗り出したほか、東京築地・前橋・福島・諏訪などの製糸場、釜石・院内・阿仁などの鉱山,製紙経営などに事業を拡大、三井と覇を競った。明治5年(1872年)三井組と小野組の出資のもと、渋沢栄一らが三井小野組合銀行を創設し、明治6年(1873年)には、後身の銀行法による初の銀行となった第一国立銀行を創設に至ったが、明治7年突如、官金回収の命を受けたことを契機政略などに抗しきれず破産に追い込まれた。

●小野善右衛門(1826-1900) - 京都下鴨村の農家の子・田和長之助として生まれ、10歳より京都井筒屋で長年奉公し、その手腕が評価されて、34歳のとき小野家から西村勘六と名乗ることを許される。その後、小野家大番頭が代々襲名していた善右衛門を勝手に名乗り、1872年に戸籍法ができるや西村善右衛門を本名として登録、その後娘夫婦に西村家を継がせ、自らは小野善右衛門と呼称したことから、一族内に物議が起こり組織に乱れが生じた。政商として小野組を興隆に導いた一方、その専横ぶりから小野組の弱体化を招き、破綻の一因を作ったとも言われる。甥の小野政吉(小野敏郎の父)を養子とした。

●小野組の破綻
1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年(明治5年)、渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」(第一国立銀行の前身、現在のみずほ銀行)を設立するが、三井組は独自に金融機関(三井銀行の前身、現在の三井住友銀行ほか)を設立、三井組は規模を拡大した。小野組は、1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕していたが、1874年(明治7年)になって、政府の為替方に対する方針は担保額の引き上げなどの一方的な金融政策の急変によって、小野組は御用御免を願い出て、資金全部を大蔵省に提出して精算をし、1877年6月処分を完了した。岩手県で創県以来、政府の公認を得て、年貢金及び官金の為替方を東京・田所町(日本橋堀留町のあたり)の小野善助の出店である盛岡呉服町の小野善十郎に取扱わしていた。1874年(明治7年)11月20日小野善助は県御用達免除を出願、同27日には盛岡の小野善十郎も同様出願して、県為替方を閉店した。11月22日大蔵省は小野組の官金委託を第一国立銀行に切換え、同組の財産を没収した。1884年9月、小野組の権利義務を移して小野商会を創立し、1897年頃まで営業を続けていたが、その後、解散した。
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とりとめのない話し(その51)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その11)

南部藩を支えた「高島商人」は「高島南市」の「五箇商人」を発祥としている。室町時代後半から北前船に到着した荷を小浜や若狭から九里半街道や七里半街道を通り、輸送していた。その交差に位置した湖西の南市の周辺が発展したのが発祥とされる。

室町時代後期、北前船の荷を琵琶湖の今津港から湖東の港へ送っていた販路が発達し、土地の特色を生かした「高島南市」で、商人群を形成していた。戦国時代以降、輸送手段の発達により土地の利点を生かした特色が無くなったため、大溝藩の経済状況は厳しく、大溝陣屋周辺も含め高島地域は大溝藩とともに廃れていった。

他の近江商人の多くは、大坂や京都へ販路を拡大し、郷里とともに繊維や呉服問屋などに発展していった点で大きく異なっている。その要因の背景にあるものは、高島商人は主に海の物産を扱った商品が多く、輸送手段の発達により琵琶湖水運を利用した販路が衰退した点が大きい。

戦国時代、若狭や小浜などの北前船の販路であった北奥羽に詳しかった高島商人は、郷里を捨て、岩手県盛岡市の南部藩に活路を見いだした。鷹買商人の田中清六が豊臣秀吉や徳川家康と諸大名との交渉役として、北奥羽で活躍したのも北海道や東北への進出に関係していたとされる。特に南部藩と関係が深く、南部藩との関係は田中清六の紹介によるものとされる。

湖東沿岸の「五箇商人」であった「薩摩」「田中江」も同じく「四本商人」に販路を奪われ、郷里を捨て両浜組(彦根の薩摩・柳川と近江八幡の田中江)として、北海道(蝦夷地)の松前藩に活路を見いだしていた。

●北前船
江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。

畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。

●盛岡藩
陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。

●松前藩
松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前家であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年(1868年)、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。

●田中 正長(清六)
戦国時代後期から江戸時代初期の商人。通称は清六。士農工商の身分が流動的な時代にあって、いわば「代官的豪商」、あるいは「豪商代官」として活躍した。豊臣秀吉、徳川家康とも密接な関係を持ち、徳川時代には一時は佐渡金山の代官を務めた。

正長は近江国高島郡田中下城村において、富商とされる父・弥左衛門のもとに生まれる。幼名は石松。6歳で母と離別、9歳で京都の法然寺に修行に出され、12歳で父が自害するなど幼少時はきわめて不遇であった。
しかし正長は田中吉政の一族とも伝えられ、その縁か、豊臣秀吉の知遇を得て近江国八幡山の留守居となるなど、早くから実力を認められた。その後、豊臣氏の全国政権化に伴い、畿内文化の担い手として奥州の地に鷹買商人して進出し、実力を蓄えたとみられる。特に奥州北部は名鷹の産地として有名で、頻繁に訪れては中央に鷹を運んでいたようであるが、その際に秀吉の意を受けて諸国を巡行し、情報収集や諸勢力への工作などにも従事する隠密的な役割をも担っていたと思われる。特に南部氏との接点は密であり、南部氏と中央政権との交渉の一端を担っていた記録が残っている。
慶長以降、豊臣氏に代わり徳川家康が中央権力を掌握すると徳川氏との関係を深め、関ヶ原の戦いに先立ち諸大名への交渉の使者となるなど、非常に重要な役割を果たした。1601年関ヶ原での働きの恩賞として佐渡金山の奉行の一人に任じられたが、2年後の1603年同僚の奉行が重税を課したことにより、領民が幕府に出訴し奉行を弾劾した事件に連座、奉行役を免じられた。
その後は敦賀に商売の拠点を置き、諸役御免の廻船商人として日本海側の海運に重要な役割を果たす。晩年は京都に隠棲、剃髪して常秀と号したという。1614年大坂の陣を前にして没した。正妻はなかったが息子が2人おり、長男の正繁は二代清六を襲名した。次男は出家し、清水寺宝性院僧都の宗親となった。

●高島商人
中世の五箇商人の高島南市の商人が高島商人の発祥。その後高島商人は、東北や北海道で活躍する。戦国時代、織田信澄による大溝城の城下整備が行われた際、東北や北海道と商いをしていた商人が招かれたことによる。武士から商人に転身した村井新七、そしてその新七を頼って東北に行った小野組の祖、小野権兵衛、さらには高島屋の創始者飯田新七などが有名。

〇小野組
小野家は初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
1662-63年ころ次男の主元が盛岡に下り、近江屋を開業し、村井権兵衛を名乗った。盛岡は、1615年頃に盛岡城が完成し城下町が建設されると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳っていた。権兵衛も同郷の近江商人を頼りに盛岡に入り、志和村で酒造業を始めて成功し、砂金を買い集めて京都に送っていた。
1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。
小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。
生糸取引は古河市兵衛(古河財閥)が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年(明治5年)、渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」(第一国立銀行の前身、現在のみずほ銀行)を設立するが、三井組は独自に金融機関(三井銀行の前身、現在の三井住友銀行ほか)を設立、三井組は規模を拡大した。
小野組は、1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕し、三井組、島田組と並び豪商として名を馳せたが、明治新政府による官金預り金の担保に関する急激な規制強化に対応できず、1874年に破綻した。
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とりとめのない話し(その49)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その9)

「八幡御三家」とは、近江商人の中でも特に有力だった西川甚五郎家、森五郎兵衛家、西川正六家(伴 伝兵衛家)の3つの商家。江戸時代に近江八幡を拠点に活躍し、全国に商品を流通させ、近江商人の発展に大きく貢献した。

西川甚五郎家は、西川仁右衛門を初代とし、二代目を甚五郎が継ぎ、三代〜八代まで利助を名乗る。九代〜十四代は甚五郎を名乗った。近江商人の「三方よし」の精神で、事業を発展、継承してきた。2代目甚五郎が近江蚊帳を販売し、から11代甚五郎がふとんの西川産業を設立し、入り婿の西川康行(通称:八一行)が経営手腕を買われ、15代目として、2018年西川リビング、東京西川、京都西川の3つを経営統合した西川株式会社の会長に就任している。七代西川利助の代に積立金や利益分配、責任の分担など、本家、分家、奉公人に対しての制度改革が現代まで続いている要因とされる。

●伴 伝兵衛
いち早く江戸日本橋に進出した近江商人、屋号は江戸で『近江屋』、八幡で『扇屋』。歴代当主が襲名した名称。伴伝兵衛家は西川甚五郎家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家とされる(資料によっては伴伝兵衛に替わり西川庄六家が入るものもある)。

伴太郎左衛門尉資家:近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年)本能寺において討死。
伴伝兵衛 (初代)資則:武士を捨て行商を行い、大名屋敷御用を得た。慶長15年(1610年)近江商人の中で最も初期の段階に江戸出店を行った。
伴伝兵衛 (2代):正月名物近江屋の松飾。
伴伝兵衛 (7代):御朱印騒動解決に尽力。

●3代目西川 庄六
1694年−1795年 近江商人西川利右衛門家分家西川庄六家(現、メルクロス株式会社)当主。庄六家最盛期を築くと共に、俳諧においても多くの秀作を残した。3代西川庄六は、1694年に 近江国蒲生郡八幡(現滋賀県近江八幡市)に生まれ、幼名を五郎と称した。父は庄六家の本家に当たる4代目西川利右衛門数常。16歳の時に2代目西川庄六(通称利兵衛)の養嗣子となり、1744年に養父の死去により家督を継ぎ3代目西川庄六、諱を数久と改めた。3代目庄六は祖業である畳表・縁地・蚊帳の他に琉球黒糖を取り扱い、貴重品である砂糖は引く手数多で商いは盛況を極めた。また、実父4代目利右衛門の支援を得て江戸日本橋に出店、西川庄六家の最盛期を築いたと言われる。また、原元佃房の門に入り「可昌」と号し、多くの秀句を残した。北陸地方・中国地方の俳人とよく交わり加賀千代女とも交友があったと伝えられる。出店や商い先への往来に伴い各地で吟行を行った。当時近江商人の家庭では、謡曲・和歌・俳諧・囲碁・蹴鞠・浄瑠璃・華道・茶道等を嗜み、家業の為高度な商才が必要とされると共に高度な教養も求められた。1795年に死去したが、9人の子宝にも恵まれ、長男は本家利右衛門家を継ぎ(西川利右衛門 (7代))、3男が4代目庄六となった。なお、次男は亀蔵家・4男は理左衛門家を新たに興した。

●森 五郎兵衞 (初代)
生年不明 −1703年4月2日、江戸時代中期の近江商人。後に八幡御三家の一つと言われた森五郎兵衛家の創始者で、屋号は『近江屋』、近三商事株式会社の遠祖。八幡新町(現滋賀県近江八幡市新町)に生まれたとされる。同地の豪商伴伝兵衛家に奉公に入り、五郎兵衛は性質温厚忠実、陰日向無く仕事に勤しんだと伝わっている。五郎兵衛も中年になり奉公の年季も満ちた時、主家の主である伴伝兵衛自らが五郎兵衛奉公中の忠勤を事細かく記した褒賞状を作り、資金と共に五郎に手渡し、別家を立て独立することを許した。独立した後も主家の報恩を忘れず五郎兵衛は、主家より渡された褒賞状を何よりの宝物とし、主人であった伴伝兵衛が亡くなった後、伝兵衛の位牌を自家の仏壇の中央に据え、毎朝夕位牌への合掌を欠かさなかったと伝えられている。

五郎兵衛は独立した後、煙草商として江戸から関東一円を行商したところ、五郎兵衛の商才と顧客の利益を第一にする態度、誠実な人柄からすぐに顧客の信頼を得ることができ、数年で利を重ねることができた。その後、江戸に出店を設け、近江の麻布に関東地方の呉服を扱った。着実な仕事ぶりは顧客を集め、次第に販路も広がり大発展を遂げていった。五郎兵衛の店の奉公人達も一生懸命に働いていたが、これも五郎兵衛がそうであったように、真面目に働いた奉公人には年季が満ちた際に必ず独立することを許し、資金も相応に渡していたことによる。当時は五郎兵衛や伴伝兵衛のような商人ばかりでなく、猾商と呼ばれる狡猾な商人も多くいた。別家やわずかな資金をも惜しみ、年季近い番頭に人を使って遊びを教え、金を使い込ませたり、女性との間にもめごとをつくる等して首にするような商人も多くいただけに、五郎兵衛の店は奉公人にとり働きがいがある商家であった。五郎兵衛はこの様な話を聞くたびに「猾商は商界の罪人だけではなく、世間の罪人だ。奉公人は店の宝、主人の手足であり、猾商は自らの手足を切断しているようなものだ」と憤っていたことが伝えられている。1703年4月2日、五郎兵衛は亡くなった。生前、五郎兵衛は弟和助が分家する際、伴伝兵衛に頼み一旦和助を奉公に出し、奉公人としての立場を経験させた後に分家させたとされ、奉公人を第一とする森五郎兵衛家の考えがわかる逸話と言える。五郎兵衛が亡くなった後も、後継者はよく遺志を継ぎ、代々森五郎兵衛と称し、屋号を近江屋三左衛門、また『扇叶』と称して八幡御三家の一つに数えられるに至った。

●西川 甚五郎家
江戸時代初期から活躍した老舗近江商人、屋号は『山形屋』。西川創業家の歴代当主が襲名する名称。西川庄六家又は伴伝兵衛家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家の筆頭とされた。

・西川仁右衛門 - 山形屋(西川甚五郎家)創業者
・西川甚五郎 (2代) - 八幡蚊帳の特色とされる萌黄蚊帳を創案した。
・西川利助 (5代) - 弓の輸送と一手販売の権利を手に入れる。
・西川利助 (7代) - 隠居後甚五郎を称し、山形屋中興の祖。
・西川甚五郎 (11代) - 八幡銀行設立に参画し八幡製糸・西川産業等設立。広島尾道・大分・京城・奉天支店等開設し、大阪・京で布団販売を開始する。現在の西川産業の礎を築く。
・西川甚五郎 (12代) - 1929年「西川」の商標を制定。貴族院多額納税者議員。
・西川甚五郎 (13代目) - 政治家としても活躍。北海道開発庁長官を務めた。
・西川甚五郎 (14代) - 元西川産業会長、日本橋西川ビル社長。(東京商工リサーチによる)16年没。

〇西川株式会社
日本の寝具メーカー。羽毛布団やマットレスといった布団関連製品の製造・卸販売を主要事業としている。

近江の商家西川家に生まれた仁右衛門が1566年に蚊帳の販売を始めた(西川グループではこれを創業年と位置づけている)。この後、豊臣秀次による八幡(現在の滋賀県近江八幡市)への八幡山城築城に際して、西川家はこの城下に移住(八幡商人)した。仁右衛門は1587年に同地で山形屋を開設し、蚊帳の製造・販売を開始、のちに畳表の製造・販売も行った。

江戸幕府が開かれて江戸の日本橋(現在の東京都中央区)付近へ商人を誘致したことに伴い、山形屋は1615年に江戸の日本橋に支店 「つまみだな」を開設した。仁右衛門の息子甚五郎が考案したとされる近江蚊帳のヒットで商売は軌道に乗り、日本橋を本拠として数代に渡って蚊帳問屋、弓問屋と商売を広げていった。1750年に京都に京店を開設。当主が7代利助の代に、「三ツ割銀」(年2回の決算後に利益の三分の一を奉公人に分配する、賞与のような制度)、「定法目録」(奉公人に分家の資格を与える制度のルールを明文化)、「定法書」(火事など不時の出費に備えた資金の積立と運用)などの制度を導入した。

明治時代となった11代甚五郎当主の代に、1876年に大阪店を開設し、1887年に後の主要事業となる布団の販売を京・大阪の両店で始めた。1920年に給与制を導入、1929年に牡丹文字を用いた「西川」の商標を制定、同年に製織部門として近江蚊帳製造株式会社(現・西川テックス)が設立された。1941年大阪に心斎橋店を開設。同年に既存の店舗を法人化し、京店を株式会社京都西川、大阪店を株式会社大阪西川(後の西川リビング)とする(法人としての京都西川および西川リビングの設立はここを起点としている)。空襲によって1945年に消失した東京日本橋のつまみだな店を1947年に再建し株式会社西川として法人化、同店舗内に卸部門として西川産業株式会社を設立した。日本橋店を株式会社西川とする(法人としての西川、西川産業、日本橋西川の設立はここから起算)。

2018年7月10日、「西川グループ」の3社(西川産業、京都西川、西川リビング)を経営統合すると発表[3][広報 6]。2019年2月1日に、西川産業株式会社を存続会社に、株式会社京都西川、西川リビング株式会社を吸収合併し、西川株式会社に社名変更した。
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とりとめのない話し(その48)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その8)

江戸後期、八幡商人は「最上紅花」を求めて、寛政年間1789年〜1801年、東北の出羽最上地方に10家の八幡商人が進出していた。湖東商人では小林吟右衛門家(丁吟)、塚本定右衛門家(紅定)、阿部市郎兵衛家(紅市)、伊藤忠兵衛家(紅忠)なども「紅花」を扱っていた。また、近江出身で山形に定着し、活躍した商人もいた。十日町の西谷家・中村家・長谷川家・村居家などがあり、現在も近江屋の屋号を残している。

近江商人など「紅花交易」により財を成し、その資金を元手に明治維新や産業革命の時代の波に乗り、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事や丸紅の祖)や阿部市郎兵衛(近江三福の商家の1つ)など、活躍した企業も数多くあったが、一方で明治維新や産業革命の変革の波に乗れず、没落した近江商人も数多くあった。

●最上紅花
室町時代頃から山形の出羽最上(現・村山地域) で作られた「紅花」。最盛期は江戸時代中期、米の百倍、金の十倍の価値とされていたため、近江商人などの間で主力商品となりつつあった。奥州仙台や奥州福島などでも作られたが、 特に山形の紅花はその質の良さから、近江(現滋賀県)との紅花交易により「最上紅花」は全国に名を馳せていた。近江商人や山形商人が率いた最上川舟運によって京都へと運び、華麗な西陣織や化粧用の紅などに加工された。江戸後期には奥州より劣り、評判を失い、明治時代に入ると、化学染料の普及や安価な中国紅花の輸入により大打撃を受け、山形の紅花栽培は急速に衰退し、近年には栽培されなくなった。最近は染体験など少しずつ観光用の郷土品として、紅花生産が復活している。

●最上義光
戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主。南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築き、東北最大の城下町となる。最上川舟運の開発を進め、元禄年間には上流から下流まで全域にわたり最上川の掘削や拡張を進め、商才のある近江商人を山形へ誘致した。山形城の城下町、現在の十日町~七日町界隈に土地を分けて店舗を構えさせ、山形商人とともに紅花交易を盛んとなる。義光死後、1622年息子の義俊はお家騒動により近江大森藩一万石に移封されたのも、近江商人の交易の繋がりとなったとされる。江戸後期には次第に藩の衰退により、城の荒廃とともに城下町に武士が減り、商業の中心地として発展していった。

●最上川船運
最上川は内陸の重要な交通路としても利用された。舟運の発達によって最上川の河道整備も必要となったが、最上川は中流部~下流部に掛けて難所が多く、水運発達の最大の懸念となっていた。河口部の酒田は戦国時代には堺や博多と同様の自治港湾都市として、奥羽随一の商業都市に発展していた。関ヶ原の戦いの後に酒田を統治する事となった最上義光は酒田と山形を水運で結ぶ為に、最上川の河道整備を行った。最上川中流部、通称「最上川の三難所」と言われた碁点・三ヶ瀬・隼の瀬(現在の村山市)の三地点を開鑿して川幅の拡張と川底の掘削を実施し、舟運の円滑化を図った。これにより水運は発達し各所に船着場が建設された。その後、流通経済の拡大によって更なる舟運整備が求められ、1659年には幕領米の輸送を請け負った江戸の商人正木半左衛門らが酒田から江戸を結ぶ西廻り航路を開通させ、酒田は更に重要な経済都市として発展していった。1693年第四代米沢藩主・上杉綱憲の時に米沢藩御用商人であった西村久左衛門は、酒田と米沢盆地を結ぶため、1万7千両の巨費を投じて最上川上流部の難所であった五百川峡・黒滝地点を開鑿し、長崎(のちの中山町)から荒砥(白鷹町)の通船工事を完成させた。米沢藩領内にある最上川の荒砥よりも上流は「松川通り」と呼ばれ、糠の目(高畠町)、宮(長井市)、菖蒲(白鷹町)の河岸には藩の陣屋が設置された。

●七代目阿部市郎兵衛(近江三福と言われた商家1つで主に活躍した近江商人)
1837年− 明治37年(1904年)は、明治維新期の近江商人。繊維産業・鉄道・銀行など各種事業の支援者となり、日本の産業育成に貢献した。
1837年近江国神崎郡能登川村(現・滋賀県東近江市能登川町)に生まれ、幼名を元太郎と言った。父は近江商人阿部市郎兵衛家(屋号『紅屋』)の分家阿部市太郎家の2代目当主(通称吉太郎)である。本家市郎兵衛家には継嗣がなく、元太郎が伯父である6代市郎兵衛の養子になり、1857年家督を継いだ。家督継承後、紅屋家業の麻布商を営むと共に、米穀肥料問屋業務を新たに始め、その発展に伴い千石船を十数隻支配して、北海道・九州など各地の物産を江戸・大阪輸送し、販売を行った。明治12年(1879年)には西洋型帆船を建造し、明治15年(1882年)にも千五百石積帆船を新造した。矢継ぎ早の帆船新造は評判となり、東京商船学校の研修も受け入れたと伝えられる。明治維新による産業興隆機運の中、市郎兵衛も新規事業への参入意欲は旺盛で、様々な事業に進出、または支援を行った。

〇関西鉄道
滋賀県議会議員弘世助三郎・馬場新三・高田義助、滋賀県知事中井弘等は京・三重県・滋賀県の有力者に呼び掛け、京より名古屋を直接結ぶ鉄道敷設を計画し、阿部市郎兵衛を始め、三重県桑名船馬町(現桑名市)の諸戸清六、京都市上京区春帯町の濱岡光哲、東京市華族井伊直憲等11名が発起人となり、明治20年(1887年)3月30日関西鉄道株式会社の設立を申請した。明治21年(1888年)3月1日、関西鉄道会社設立(資本金300万円)に対し免許が交付され、翌年滋賀県内の草津・三雲間が開通し、順次営業区間は広がっていった。

〇阿部ペイント製造所
明治21年(1888年)阿部ペイント製造所を大阪に設立し社長に就任した(昭和4年(1929年)鉛粉塗料に買収され現在大日本塗料)。

〇金巾製織
明治21年(1888年)8月滋賀県知事中井弘の勧奨に応じて、阿部周吉・小泉新助・山中利兵衛・伊藤忠兵衛・中村治兵衛・西川貞二郎等滋賀県有力者(近江商人)と共に発起人となり金巾製織株式会社を設立(本社、大阪四貫島)。明治23年(1890年)1月初代社長となり、他に役員として阿部周吉・3代目阿部市太郎・小泉新助・中村治兵衛・高田義甫・田村正寛、監査役として西川貞二郎が就任した(明治39年(1906年)大阪紡績(明治15年(1882年)設立し市郎兵衛は発起人)と合併、大正3年(1914年)三重紡績と合併し、後の東洋紡になる)。

〇阿部製紙所
明治24年(1891年)洋紙需要の急増に国産で対応すべく阿部製紙所を大阪西野田新田に設立し、社長に就任。製紙工場は火災にあうなどしたが、明治31年(1898年)新工場を建設、明治34年(1901年)に個人経営から阿部製紙合資会社に改組した(日本製紙(株)を経て富士製紙と合併し、現在王子製紙)。

〇近江銀行
明治27年(1894年)近江銀行創設に加わり、監査役に就任した。

〇近江鉄道
滋賀県湖東の内陸部(中山道沿い)は官設鉄道のルートから外れ、同じ湖東の琵琶湖側(能登川、八幡側)に官設鉄道が敷設され、湖東平野の内陸部を縦断し東海道線彦根駅と関西鉄道深川駅(現甲南駅)を結ぶ鉄道計画が持ち上がった。明治26年(1893年)11月大東義徹(司法大臣)・林好本(彦根市長)・西村捨三等の旧彦根藩士族と中井源三郎・下郷傳平等有力近江商人を中心に44人が発起人となり明治29年(1896年)資本金100万円で近江鉄道株式会社が設立した。設立当初発起人等が役員となったが、資本金100万円では計画の半分も鉄道敷設できず、設立当初より資金繰りが厳しく、明治31年(1898年)役員全員が辞任し、新たに市郎兵衛が社長に就任し、阿部市三郎等が役員となった。明治34年(1901年)3月優先株式2万株(100万円)の発行を決定し、そ大半を丁吟(3代小林吟右衛門)と阿部一族(阿部市郎兵衛家・阿部市三郎家等)が引き受けた(大正13年(1914年)までに彦根-貴生川・多賀線が開通した後宇治川電気(関西電力の前身の一つ)の系列に入り、西武鉄道グループの傘下となる)。

〇その他
・大阪の繰綿問屋の共同出資により明治20年(1887年)設立した有限会社内外綿(後にシキボウ傘下)
・明治28年(1895年)1月設立真宗信徒生命保険(現東京生命)・創業大日本製糖株式会社(現大日本明治製糖)
・明治29年(1896年)開業京都企業銀行(大正元年(1912年)9月破産申請)・愛知県の明治銀行(昭和13年(1938年)8月業務廃止)
・明治31年(1898年)開業七尾鉄道株式会社の他に浪花紡績・京都絹糸紡績・京都硫曹(現日産化学)等の設立発起人、役員になった。
・渋沢栄一が創立委員長を務めた京北鉄道(1894〜1902)では由利公正や大和田荘七、岡部広、岩下清周らとともに役員に名を連ねた。

市郎兵衛は、これら新規事業創設に当たり、阿部一族として活動した。金巾製織では弟である3代目阿部市太郎が市郎兵衛の後社長になり、阿部利兵衛家3代周吉や市太郎の養子房次郎(後に東洋紡績社長)も役員として活躍した。近江鉄道では市郎兵衛の同じく弟である2代目阿部市三郎が、市郎兵衛の後に社長となった。また、従兄弟である阿部市次郎家の2代目阿部彦太郎は、市郎兵衛が展開した回船事業の後を受け大阪商船等の役員となり、内外綿の初代社長となった。

晩年は弟である2代目市三郎の長男を養子とし、市郎兵衛家8代目として家督を譲ったが、養父に先立ち明治35年(1902年)死去した。このため7代目市郎兵衛が亡くなるまでの間家政を見、明治37年(1904年)死去した。
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とりとめのない話し(その46)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その6)

江戸時代に活躍した代表的な「近江商人」で現在も表舞台で活躍している企業は、西川甚五郎のふとんの西川産業と伊藤忠兵衛の総合商社の丸紅・伊藤忠商事、飯田新七の高島屋などが有名である。

江戸時代に活躍したその多くの近江商人は、明治維新の変革に対応出来ず、没落していく商人も多かった。近江商人の中には、貸金業に転換し、大名貸しなどを行い、巨万の富を得ていた「高島商人」の小野組など、うまく立ち回れず、没落した企業も多数あった。「大坂商人」の淀屋も巨万の富を得て、没落した商人の1人として、有名である。

江戸の幕末から明治維新の政治改革に産業革命に適応した商人も数多く出てくる。近江商人が源流とされる三井、三越などの財閥やトヨタ自動車、西武グループなどがその一例である。
また、破綻した近江商人の小野組から派生した古河財閥は一度破綻し、財閥を解散しているが、古河グループの古河山水会として、再結成して今なお表舞台で活躍している。古河機械金属、古河電気工業、富士通、横浜ゴム、朝日生命保険、みずほ銀行など多数の関係企業が所属している。

●西川甚五郎
<山形屋・初代1549~1644年>
八幡商人。蒲生郡岡山村生まれ。天正14年(1586年)に八幡城下が楽市楽座とされると店を設け、主に能登方面に蚊帳や畳表を行商とし、次第に商圏を広げ、ついに江戸日本橋に出店した。2代目甚五郎は萌黄蚊帳を考案して富を得て、ふとんの西川で知られる「西川産業」の基礎となった。

●西村太郎右衛門
<安南屋・1603~51年>
八幡商人。蒲生郡八幡町生まれ。外国貿易を志して豪商角倉了以の御朱印船で安南国(ベトナム)に渡る。現地で20年間商いを続け、国王に認められ正保4年(1647年)に財産をつんで長崎に帰国したが、日本は鎖国のため上陸出来ず、「安南渡海船額」と言われる額を郷里の日牟礼八幡宮に奉納し、安南に帰りました。

●西谷善太郎
<最上屋・4代目1603~66年>
八幡商人。家祖は神崎郡小幡村(旧五個荘町)の出身で、安土城下に移り、のち八幡城下に移住した。4代目善太郎は出羽地方(山形県)に呉服・古着類を行商し、以降代々同地に出店を構えました。8代目善太郎が活躍した(1751~63年)には、呉服・真綿・古着類を下し荷し、同地の紅花・青苧・絹糸・タバコを上方で販売して巨商の列に名を連ねた。

●西川伝右衛門
<住吉屋・初代1627~1709>
八幡商人。蒲生郡南津田村生まれ。僅かな元手で呉服類を北陸・奥羽地方(秋田県など)に行商し、蝦夷(北海道)が商売に有利との情報を得て、(1661~73年)に松前に出店した。藩の御用商人となり、船を造り大坂方面に産物廻しを行って巨利を得て、場所請負をし危険をおかして有望な漁場を開拓した。

●市田清兵衛
<麻屋・3代目1637~1714年>
八幡商人。市田家はもと六角氏に仕えた武士で神崎郡石川村(旧五個荘町)の出身。1653年頃に八幡町に移り、3代目清兵衛は上州(群馬県)に繰綿・太物類を持ち下り、商いをし、当地の産物を登せ荷し、富を得ました。晩年、家訓を定め、新規事業を慎重に行い、才能ある者は中途採用でも重役に起用した。

●正野玄三
<初代1659~1733年>
日野商人。蒲生郡村井村生まれ。初め商業を志し、18歳から東北地方に行商したのち、母の難病を治した名医に感激し医業に転向した。(1704~11年)に故郷で「萬病感応丸」などの合薬を作り、日野売薬の基礎となりました。日野薬品工業の遠祖にあたる。

〇1943年(昭和18年) 近江日野製薬株式会社として設立。太平洋戦争中の企業整備令によって、日野町にあった30以上の製薬業者が合併して設立された。現在は株式会社大木の子会社となっている。

●小泉武助
五個荘商人。神崎郡山本村の出身。元々農家であったが、所有する田の収穫は年貢にも満たなかった。これを商いで補うため麻布を播磨・丹波地方に行商し、苦労の末、成功する。(1727年)に家督を養子に譲り、田畑を守り、商いに出精するよう諭し、諸国社寺巡礼の旅に出て、その後音信不通となった。

●外村興左衛門
<外与・5代目1682~1765>
五個荘商人。神崎郡金堂村の出身。外村家は代々篤農家でしたが、5代目興左衛門は農業だけでは一家の繁栄はないと考え、農閑期に近江麻布を姫路・大坂・堺などに行商した。(1700年)に大和郡山に出店した。総合繊維商社外与の創業の祖にあたる。外村一族からは外宇・外市・外宗など多くの商家が生まれていた。

●中井源左衛門
<十一屋・1716~1805年>
日野商人。蒲生郡岡本村生まれ。家業は日野椀製造業。19歳から関東各地を行商し、29歳で下野国(栃木県)に質店を開業した。以降、全国各地に支店を置きその数15店におよび、仙台伊達藩の御用商人となった。司馬江漢が日記に「この爺さん一代に三十万両を儲け」と記されている。世界初の複式簿記を考案し、家訓「金持商人一枚起請文」でも有名となった。

●松居久左衛門
<星久・3代目1770~1855年>
五個荘商人。神崎郡位田村の生まれ。農業のかたわら生糸・綿布・麻布類を全国に行商し、やがて江戸・京都に出店した。日常の生活は質素倹約に徹し「奢れる者必ず久しからず」を信条としていたが、有事には出費を惜しむこと無く、社会奉仕に尽力した。商標の天秤棒のマークは「天秤棒を肩にかつぎ朝星夜星を仰いで働く」という意味としていた。晩年は「遊見」と号していた。

●髙田善右衛門
<初代1793~1868年>
五個荘商人。神崎郡北庄村の富裕な家の末子として生まれ、早くから独立を志し、17歳で僅かな元手で山路の険しい紀州に行商した。この地方で必要な商品を調査して販路を拡大する。のち麻布などを関東で販売し、京都にも出店した。常に天秤棒を肩に旅する姿は戦前の国定教科書に刻苦精励を信条とする近江商人の典型として紹介された。

●飯田新七
<高島屋・初代1803~74年>
高島商人。越前敦賀の出身で、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子となった。家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売した。多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築いた。

●塚本定右衛門
<紅屋・2代目1826~1905年>
五個荘商人。神崎郡川並村生まれ。(1851年)26歳で家督を継ぎ、営業方針を「多利僅商」から「薄利広商」へ転換。明治5年(1872年)に東京日本橋に出店し、商店を会社組織に改めるなど近代化を進め、繊維商社ツカモト株式会社の基礎を築きました。また、勝海舟が「氷川清話」でスケールの大きい近江商人として感心した話は有名です。

●市田弥一郎
<市田・初代1843~1906>
五個荘商人。彦根の紙・荒物商の三男に生まれ、13歳頃から商売に従事。その商才を見込まれて神崎郡旭村の市田弥惣右衛門の養嗣子に。はじめ東海道に荒物・呉服類を行商し、一日に10里(40㎞)を旅商するほど敏捷な販売力でした。明治維新の混乱期を飛躍の好機とし、明治7年(1874年)に東京日本橋に京呉服卸問屋を開店し、後の市田株式会社の母体に。晩年は、京都南禅寺に市田對龍山荘を営み、風月や芸術を愛しました。

●藤井彦四郎
<スキー毛糸・1876~1956年>
五個荘商人。北五個荘村宮荘生まれ。明治35年(1902年)に兄4代目善助と呉服・太物を商う藤井西陣店を開く。同40年に絹糸や人造絹糸を扱う藤井糸店となり、兄が政界に出たため社長となる。不況期も「現状維持は退歩なり」をモットーに経営し、五光商会・共同毛糸紡績などの会社をおこし、中国にも進出。

●小林吟右衛門
<丁吟・2代目1800~73年>
湖東商人。愛知郡小田苅村出身。15歳で呉服などの行商を行い、文政11年(1828年)頃より東北地方から紅花を仕入れて染料製造を始める。天保2年(1831年)に江戸に織物問屋丁字屋を開き、のち江戸・大坂・京都で両替商(金融業)を営み、彦根藩両替方御用達に。藩主井伊直弼と親交深く、このため攘夷派浪人に狙われた話が残っています。

●薩摩治兵衛
<丸丁字・1831~1909年>
湖東商人。犬上郡四十九院村の貧農の子に生まれ、9歳で父を失い16歳で丁吟(小林吟右衛門)に丁稚奉公に。奉公中に商人魂を鍛えられ、慶応3年(1867年)に独立し江戸に和洋木綿商丸丁字を開業。明治21年(1888年)に郷里で田畑を買い、その小作料を貧しい農民の救済に当てました。

●伊藤忠兵衛
<丸紅・初代1842~1903年>
湖東商人。犬上郡豊郷村生まれ。安政5年(1858年)に近江麻布の行商をはじめ、馬関・九州地方に地盤を広げる。明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、明治5年(1872年)大阪に呉服太物店・紅忠を開いた。明治23年(1890年)に対米雑貨輸出を開始し、サンフランシスコに支店を置くなど、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。
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とりとめのない話し(その45)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その5)

戦国時代の終わりに「近江商人」の「高島地区」は大溝城が廃城となり、「日野地区」は日野城が廃城となり、城下町が衰退していく中で、関東や東北に活路を見いだしていた。

●高島地区
鎌倉時代から室町時代に「高島地区」では「五箇商人」の1つである高島郡安曇川町南市村の「高島南市」と言われた地域で商いを始め、1576年織田信澄が大溝城を築城の際、東北や北海道と商取引をしていた商人を連れてきたことにより発展した。1595年頃、廃城により城下町は衰退していくが、北海道や東北に活路を見いだし、各地を転々とする行商として、発展した。

●飯田 新七
1803年 - 1874年、江戸時代後期の商人。近江商人飯田家の婿養子となり、髙島屋・高島飯田の礎を築いた。
新七は、1803年越前国敦賀(現福井県敦賀市)中野宗兵衛の子として生まれ、幼名を鉄次郎と言い、1814年京に出呉服商角田呉服店に丁稚奉公するにおいて、名を新七とした。
近江国高島郡南新保村(現滋賀県高島市今津町南新保)の出身の飯田儀兵衛は、京都烏丸松原上ル(現京都市下京区)において米穀商『高島屋』を営んでいた。子供は娘「秀」一人であった儀兵衛は、京三条大橋東入ル(現京都市東山区)の角田呉服店の奉公人新七の仕事振りに感心し、角田呉服店が倒産したのを契機に1828年新七を娘婿として迎え入れた。
1851年一人娘「歌」に京寺町今出川の上田七右衛門の次男新太郎(幼名直次郎)を婿として迎え入れ、1852年新七は隠居し、新太郎が2代目飯田新七を襲名した。新七は1870年4月高辻烏丸西入ルに隠居所を新たに設け『餘慶堂』と命名した。明治7年(1874年)7月29日初代新七は死去した。古着商『高島屋』からは、現代百貨店『高島屋』、商社『高島飯田』(後に丸紅と合併し、丸紅飯田(現丸紅))へと繋がる。

●大溝城
滋賀県高島市にあった日本の城。別名は高島城。鴻溝城、鴻湖城とも称された。大溝城跡は高島市の史跡に指定されている。そのほか2015年(平成27年)に、国の重要文化的景観に選定された「大溝の水辺景観」の重要な構成要素として、大溝城跡や旧城下地区などが含まれる。「大溝の水辺景観」は、「日本遺産」に認定された「琵琶湖とその水辺景観 - 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財に選定されている。

織田信長により1576年に安土城(近江八幡市安土町)が築かれると、1578年、新庄城(高島市新旭町新庄)に居城し、高島郡を与えた信長の甥、織田信澄に対岸約18kmの大溝に築城させた。大溝城の築城により、信長の安土城のほか、明智光秀による坂本城、羽柴秀吉による長浜城とともに琵琶湖の四方に城を配置することで、近江の水運、琵琶湖の制海権を掌握した。1595年頃に廃城となる。

●日野地区
蒲生氏の1533年築城の日野城の城下町で、「日野商人」の多くは医薬品や漆器、酒造を営んでいた。そして、1584年蒲生氏郷(28歳)が南伊勢に移封により松阪の城下町で「伊勢商人」として発展する。1590年(34歳)陸奥国への移封により若松城で「会津商人」として栄えた。
また、その後、1590年息子の蒲生秀行が陸奥国から宇都宮へ移封され、宇都宮城の城下町でも栄えた。宇都宮の城下町に「日野商人」を連れ、宇都宮に日野町を形成した。「日野商人」の流れをくむ多くの企業は関東で漆器や酒造を営んでいる。

●蒲生 氏郷
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松坂城主、最後に陸奥黒川城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀または教秀。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン。子に蒲生秀行。織田信長に人質ながらも寵愛され、信長の娘である冬姫を娶る。信長死後には各地で功績を挙げ、秀吉からも重用された。最終的には会津藩92万石となり黒川城を与えられ、改築して若松城と名を改め、会津藩の基盤を築いた。また、千利休の弟子であり、利休七哲にも数えられる一流の茶人でもあった。

●日野城
滋賀県蒲生郡日野町にあった日本の城。蒲生定秀が1533年から3年ほどかけて日野の地に本格的に築城した。
蒲生氏は蒲生賢秀の代に織田信長の臣下となり、1582年本能寺の変が起こった時には、賢秀とその子蒲生氏郷は織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れた。
1584年蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島12万石に移封し、その後田中吉政、長束正家と城代が入り、1600年関ヶ原の戦い以降廃城となった。
1620年市橋長政が中野城跡の一部に陣屋を構え仁正寺藩の陣屋として明治維新まで続いた。

●松坂城
三重県松阪市殿町にあった日本の城。現在は松阪城とも表記される。城跡は松坂城跡として国の史跡に指定されている。
1584年 - 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ飯高郡松ヶ島城に入城した。
1588年 - 氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させた。城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。本丸には3重5階の天守が構えられた。城下町建設にあたり松ヶ島住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を町の中心部に呼び寄せて日野町とし楽市楽座を設けた。また、湊町に伊勢大湊の豪商角屋氏を呼び寄せ、これにより商都松阪の礎が築かれた。
1590年 - 氏郷は小田原征伐の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て若松城に移った。

●若松城
福島県会津若松市追手町にあった日本の城。別名鶴ヶ城で、地元ではこの名で呼ばれることが多い。また、同名の城が他にあるため、会津若松城とも呼ばれる。さらに文献では黒川城や、会津城とされることもある。現在の天守等は復元であり、若松城跡として国の史跡に指定されている。
1589年蘆名氏と連年戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、蘆名氏を滅ぼし黒川城を手にし、米沢城から本拠を移した。しかし、政宗は1590年に秀吉に臣従し、会津を召し上げられ、米沢城に本拠を戻した。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
1598年氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。
翌1601年には蒲生秀行が再び入城したが、1627年嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。

●宇都宮城
は、栃木県宇都宮市本丸町にあった日本の城。関東七名城の一つ。江戸時代は宇都宮藩の藩庁となった。別名、亀ヶ岡城。
1598年3月、蒲生秀行が秀吉の命令で会津若松から宇都宮18万石で移封され、日野町や紺屋町を造成して宇都宮城下の商業整備を進めた。氏郷時代に蒲生氏は91万9300石の禄を得ていたが、氏郷が急死し跡を継いだ秀行がわずか13歳の幼少だったため東北の鎮守として91万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍いがあって18万石に減封された。
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とりとめのない話し(その43)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その3)

「聖徳太子」により「八日市場」が開かれた東近江の地域は、鎌倉時代頃から延暦寺の荘園「得珍保」として、「上四郷」や「下四郷」の地域で、商取引を保護され、「保内商人」が誕生していた。室町時代から戦国時代にかけて、「四本商人」や「五箇商人」などのグループが市場を独占しようとしたため、グループ同士の争いが絶えず、近江守護による裁判記録が多数残されている。

●得珍保(旧八日市市周辺の農村集落)
日本の中世、遅くとも鎌倉時代頃から戦国時代まで近江国蒲生郡(現東近江市)に存在した延暦寺東塔東谷仏頂尾衆徒領の荘園。
比叡山延暦寺の僧であった得珍(徳珍とも)が平安時代後期に愛知川から用水路を引いて農地化したことに由来する。その後農民が定着し、多くの郷が発展した。14世紀以降、保内は上下各4郷に編成された。これらは保内郷と称する。各郷には日吉大社(山王権現)を勧請した社が設けられ、村落の祭祀結合の中心となっていた。それらの宮座を中心として遅くとも鎌倉時代ごろには各郷に惣結合が発達していた。特に今堀村が得珍保の中心的存在となっていた。

〇上四郷(田方)は柴原西村、美並村、二俣村、上大森村、下大森村、平尾村、尻無(しなし)村から成る。

〇下四郷(野方)は蛇溝村、今在家村、金屋村、中野村、小今村、東古保塚(ひがしこぼちづか)村、今堀村のそれぞれ7箇村から成る。

保内郷の多くの村名は、東近江市に合併する前の八日市市の町名に集中している。八日市の東側が上四郷で、西側が下四郷となり、愛知川に近い上四郷は田方(田)で、下四郷が野方(畑)とされていた。八日市市周辺に農村集落が形成され、この農村地域を商圏とする市場町として栄えた。戦前まで大津・彦根に次ぐ県下有数の歓楽街として栄えることになる。

●保内商人(旧八日市市の下四郷の農村集落)
得珍保各郷の住民は元々農民が主であったが、東山道・東海道に接するという立地の良さから、古くより商業活動にも従事し、御服座・紙座・塩相物座などの座を結成した。

14世紀前半頃までには下四郷7箇村を中心に保内商人(野々郷商人、野々川商人とも)が成立したと見られる。下四郷は畑作地域で上四郷に比べ水利が悪く、水田化が遅れたことも、下四郷の者が商業に従事するきっかけとなった。

九里半街道・七里半街道から若狭小浜港へ出るルート、鈴鹿山脈の八風街道・千草街道から伊勢桑名港へ抜けるルート、東山道から美濃へ向かうルートなどを利用し、東は美濃・尾張から西は京都まで広い行商区域を網羅しており、美濃・伊勢・若狭の物産を京・近江へ運んで売るという畿内近国の流通を担っていた。取り扱った商品としては美濃紙・陶器・木綿・麻苧・呉服・馬・塩・干魚などが中心であった。宮座の掟以外にも、商人としての心得を厳しく定めた掟書が定められている。1518年保内南郷の6箇条の商売掟などが残されている。

●四本商人(現東近江市の伊勢への通商路の商人集団)
中世、保内・小幡・石塔・沓掛の4つの地域を中心として伊勢への通商路を独占していた商人集団とされる。

・保内は旧八日市市(現東近江市)
・小幡は旧五個荘町(現東近江市)
・石塔は旧蒲生町(現東近江市)
・沓掛は愛知郡愛荘町

中世の座はそもそも排他的な特徴を有していたが、保内商人たちも小幡・石塔・沓掛など近隣郷の商人との連合して、四本商人あるいは山越衆中と称される集団を形成し、他の琵琶湖周辺の座商人と対決していく。1527年保内と同様に四本商人内でも厳しい商業倫理を定めた掟書が作成され、団結を強めていた。初期には売り場となる市の営業独占、戦国時代には商品を運ぶ交通路独占を狙って、他商人との闘争を繰り返し、それを本所の延暦寺や近江守護の佐々木氏(六角氏)に訴えた裁判記録も多く残されている。

四本商人はまず近江から伊勢路へ抜ける八風街道・千草街道両峠の交通路独占を試みて、他の商人と争論を繰り返した。保内商人の中には六角家臣の後藤氏・布施氏などとの間で主従関係を結ぶものもあった。1463年には同じく比叡山の支配下にあった横関(現・竜王町)商人との間で、御服座の特権について延暦寺内根本中堂において争論が行われ、延暦寺は双方の権利を認める裁決を行っている。湖東商人としては後発組に属する保内商人は、このように延暦寺や六角氏の庇護の下、既存の商人の特権を浸食することで勢力を広げていった。

●五箇商人(現近江八幡市、現彦根市、現高島市の若狭への通商路の商人集団)
伊勢への通商路を独占する四本商人に対し、若狭との通商を独占していた田中江・小幡・薩摩・八坂・高島南市の5つの地域を中心とする商人集団とされる。

・田中江は近江八幡市
・小幡は旧五個荘町(現東近江市)
・薩摩は彦根市
・八坂は彦根市
・高島南市は高島市(旧高島郡安曇川町南市村)

小幡は四本商人と五箇商人の両方に属していた。また五箇商人は卸売専門で小売りは行わなかった。1502年には保内商人の「若狭江越荷物」が高島南市商人に押収される事件が発生。この事件をきっかけとして保内側は五箇商人が独占していた今津から小浜に至る九里半街道の通商を圧迫していく。保内商人を保護する六角氏は1529年11月10日には、保内商人が持ち出した1157年11月11日付の後白河院宣(ただし偽文書)を本物であると認め、保内の商売当知行を安堵し、五箇商人に罰金5万匹(銭500貫文)を課す裁決を下した。これ以後、九里半街道ルートを確保した保内商人は若狭への進出が加速し、五箇商人の商圏も蚕食していった。

●小幡商人(現東近江市五個荘小幡町の商人集団)
中世、四本商人と五箇商人を兼ねる唯一の商人集団として、五個荘を本拠地として活動していた商人集団とされる。流通幹線路の東山道沿いに位置する利点を生かして、江戸時代から活躍する五個荘の近江商人の原型となった。一部の小幡商人は近江八幡の城下町へ移動している。五個荘の小幡とは別に近江八幡市にその痕跡とされる小幡の地名が残されている。

●五個荘商人(東近江市五個荘出身の商人群)
五個荘は近江商人の発祥の地として広く知られ、白壁と舟板塀の蔵・屋敷や優雅な庭園など、町内のいたるところで見られ、五個荘商人のほとんどが江戸時代後期から明治時代の創業で現在も商社など多くの企業が活躍している。取扱商品は呉服・太物・麻布など繊維関係が主で、活動範囲は関東・信濃・奥羽地方と畿内が中心となる。五個荘商人の経営活動を支えていたのは勤勉・倹約・正直・堅実・自立の精神で先祖を大切に、敬神の念を常に忘れず、成功しても「奢者必不久」、「自彊不息」の心で、公共福祉事業に貢献した。

〇1700(元禄13)外村與左衛門     外与     五個荘商人 繊維商社「外与」
〇1812(文化9)  塚本定右衛門     紅屋     五個荘商人、繊維商社ツカモト
〇1862(文久2)  外村市郎兵衛   外市     五箇荘商人 繊維製品製造卸
〇1867(慶応3)  塚本喜左衛門   塚喜     五箇荘商人 ツカキ株式会社 
〇1874(明治7)  市田弥一郎      市田     五個荘商人   京呉服「市田」
〇1883(明治16)小杉五郎左衛門      小杉産業     五個荘商人   株式会社コスギ
〇1907(明治40)藤井彦四郎      藤井商店     五個荘商人   スキー毛糸
〇1946(昭和21)塚本幸一     ワコール   五個荘商人  株式会社ワコール
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とりとめのない話し(その42)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その2)

「聖徳太子」が近江国に48箇所の寺院を建立したという伝承は広く知られている。海を渡ってやって来た制度や技術、仏教を広めた「聖徳太子」。近畿にはゆかりの地が点在している。滋賀県には聖徳太子の開基と伝わる寺院が27箇所もあり、全国一位。中でも東近江地域には太子伝説が色濃く残っている。

寺院では「本尊を聖徳太子が彫った」「太子が寺を開いた」など太子の名がよく聞かれる。この地に「四天王寺」の瓦造りや「瓦屋禅寺」の建立で人が多く集まったことで、聖徳太子は「八日市場」を開くことを勧めた。御代参街道と八風街道が交わる交通の要衝で、周辺の農村地域を商圏とする市場町として栄えた。戦前には八日市飛行場が所在し、八日市駅周辺は大津・彦根に次ぐ県下有数の歓楽街として栄えた。「近江商人の発祥の地」とされている。

●瓦屋禅寺
滋賀県東近江市建部瓦屋寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は石崎山。本尊は千手観音。箕作山の中腹に位置する。「湖国百選 社/寺編」に指定された観光名所の1つ。瓦屋禅寺とも呼ばれる。
寺伝によると、聖徳太子が摂津国に四天王寺を建立しようとしたがその際に瓦を作製するために、蘇我馬子と小野妹子に命じて良質な土を求めさせた。すると、当地の山の土が粘土質で瓦を作製するのに適していた。そこで太子は「四神相応の霊土なり」といい、この土で渡来人の力を借りて瓦を10万6000枚以上作らせた。太子は山頂へ上ると木を斧で一刀し、十一面の千手観音像を彫って祀り「瓦寺」を建立したのが当寺の始まりとされる。

●百済寺
滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院。山号は釈迦山。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。また、紅葉の名所としても知られている。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と名した。

●石馬寺
滋賀県東近江市五個荘石馬寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は御都繖山。本尊は十一面千手観世音菩薩。
伝承によれば、今からおよそ1400年前の推古天皇2年(594年)に鎮護国家、仏法興隆を祈るための道場となる霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れた。すると、現在の繖山(きぬがさやま)の麓辺りで太子が乗っていた馬が歩みを止めて進まなくなった。そのため、太子はその山麓の松の木に馬を繋いで山上に登った。太子は「積年の望みをこの地に得たり」と山の霊異に深く感動して山を下ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた。これを瑞相と捉えた太子は、直ちに山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立して石馬寺と名した。現在も当寺は聖徳太子筆と伝承する「石馬寺」の木額や太子馬上像等を所蔵している。山門跡の付近には、石と化した馬が背中を見せている蓮池がある。

●東光寺
滋賀県東近江市平尾町にある浄土宗の中本山格の寺院で、白鹿背山巨徳院東光寺という。寺伝によると、聖徳太子が薬師如来を安置するために本堂を建立し、恵心僧都源信が入寺して以降、天台宗となる。永禄年間の兵火で荒廃していた寺を、深誉円知上人によって再興され、浄土宗となる。三度の火災に遭い、明治26(1893)年に、営誉経海上人によって再建され、現在に至っている。

●石塔寺
滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号は阿育王山(あしょかおうざん)、本尊は聖観音(秘仏)。「石塔寺」の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並ぶ。毎年8月末には、「石塔フェスティバル(石塔寺万燈祭)」が開かれ、石塔と石仏に献灯が行われる。近江西国三十三箇所第22番札所。
石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称した。

●阿賀神社
滋賀県東近江市小脇町にある神社。太郎坊宮や太郎坊阿賀神社の通称で知られている。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
そもそもは、夫婦岩を始めとする巨岩を磐座として欽明天皇の時代には祭祀が行われていたようである。推古天皇の時代、西暦600年頃に箕作山に、聖徳太子が摂津国に建立する四天王寺で使用する瓦を焼くために瓦屋寺を創建し、ほぼ同時期に箕作山の一峯である赤神山に正哉吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る社を建立、赤神山の名前から阿賀神社と称した。また、当地の地名は小脇というが、それは天照大御神がいつも小脇に抱えて「此の脇の子」といってかわいがっていた孫の正哉吾勝勝速日天忍穂耳命が降り立ったところであるからだという。

延暦18年(799年)、阿賀神社の神徳に感じ入った最澄が薬師如来を本尊とする成願寺を阿賀神社の神宮寺として麓に建立した。その際、修験道の大成者である役行者の兄弟子であり、赤神山に住んでいた天狗の太郎坊が(弟の次郎坊は京都の愛宕山に住む)山上に現れて、この地に一宇を建立するように最澄に告げ、山の守護神としてその建立を手助けしたという。

太郎坊宮の始まりは、約1400年前。正式な年代は「古すぎてわからない」のだそう。太郎坊宮に残る言い伝えでは、赤神山で最初に祈りをささげたのは、聖徳太子。大阪・四天王寺の建設に必要な瓦を求めて、この地域に訪れた際に、“近くの峰から、尊い気配を感じる。この山に宿る神が地域の人々を助けてくれている”として山の頂上で神様を祀ったことが、太郎坊宮の始まりとされています。

●観音正寺
滋賀県近江八幡市安土町石寺にある天台宗系単立の寺院。山号は繖山。本尊は千手観音。西国三十三所第32番札所。琵琶湖の東岸、標高433mの繖山の山頂南側の標高370m付近、観音寺城の跡に位置する。当寺の伝承によれば、推古天皇13年(605年)に聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まる。

●長光寺
滋賀県近江八幡市長光寺町にある高野山真言宗の寺院。山号は補陀洛山。本尊は千手子安観世音菩薩。別称はハナノキ寺。
寺伝によると、推古天皇の時代に聖徳太子が高階の妃とともに「老蘇の森」(国指定史跡。現・近江八幡市安土町東老蘇。奥石神社がある地)に仮宮していた時、高階の妃が産気づいた。太子は妃に仏法を信じ御仏の御加護を一心に祈りなさいというと、妃はひたすら諸仏の慈悲を仰がれた。そこに西南の方より童子が現れて「汝が願いは、正しく観世音が救い給う」といって飛び去って行くと、まもなく妃は無事に出産された。不思議に思った太子は使いの者に童子の行方を探させたところ、当地に辿り着いた。そこには八尺の香木(栴檀の一種)と八寸の霊石が置かれており、太子が法華経の読経を行うと光明の中から千手観音の尊像が現れた。

太子は後にこの香木で千手観音像を刻むと、像内に法華経・維摩経・勝鬘経の三部の経典を納め、この像を本尊として推古天皇19年(611年)に武川綱に命じて当寺を創建した。寺名は武川綱造作から武作寺と名付けらたが、後に武佐寺と呼ばれるようになった。さらに誕生院や長光寺とも称されるようになった。
創建時は七堂伽藍で、また聖徳太子建立四十九院の一つである。隣接して十二社権現も祀られた。

●願成就寺
近江八幡市小船木町にある天台宗の寺院。推古天皇の勅命により48ヵ寺を建立した聖徳太子が最後にこの寺を建てたとされ、願いが成就したことにより寺名になったとされる。聖徳太子が一刀三礼で彫ったといわれている秘仏の十一面観音像をはじめ重要文化財も数多い。

●長命寺
滋賀県近江八幡市長命寺町にある天台宗系単立の寺院。山号は姨綺耶山(いきやさん)。本尊は千手観音、十一面観音、聖観音の三尊を千手十一面聖観世音菩薩としたもの。聖徳太子の開基と伝わる。西国三十三所第31番札所。2015年(平成27年)4月24日に「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定された。

琵琶湖畔にそびえる長命寺山(標高333m)の南西の山腹標高約250m辺りに位置している。かつての巡礼者は西国三十三所第30番札所の竹生島宝厳寺から麓の港に船で上陸し、当寺に参詣した。

当寺の伝承によれば、12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、推古天皇27年(619年)に聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速十一面観音を彫りこの地に安置し、当寺が創建された。太子は宿禰の長寿にあやかって当寺を長命寺と名付けた、と伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きするといい伝えられている。

●正明寺
滋賀県蒲生郡日野町松尾の丘陵地に鎮座し、創建は古く千年ほどの歴史を持つ黄檗宗の寺院。山号は法輪山。寺伝によると聖徳太子による創建とのこと。もとは延暦寺の傘下にあって隆盛したようですが、戦国時代の兵火ですべての堂宇を焼失しました。江戸初期には当地住人の頓宮宗右衛門の発願で再建され、禅僧・一絲文守と後水尾天皇の支援を受け、京都御所内にあった建物を移築して本堂としました。その後は近江国内における黄檗宗の中心寺院として隆盛し、現在の境内は江戸初期に整備されたもの。前述のように本堂は京都御所から移築されたもので、国重文に指定されており、ほかにも本尊の千手観音と脇侍が国重文となっているなど、多くの文化財や寺宝を所有している。

●観音禅寺
蒲生郡竜王町小口にある臨済宗妙心寺派の寺院。聖徳太子 が28歳のときに一刀三礼して彫ったと伝わる 十一面観音大菩薩 。60年に一度の大開張、30年に一度半開帳される 秘仏 。そのむかし、琵琶湖の南の地帯で多くの山岳寺院を開き、金蕭菩薩と称された伝説の人物によって開かれ、東大寺開山の良弁僧正によって伽藍が建立された、法満寺という奈良興福寺下に属す大伽藍の守り仏として祀られていました。その後、戦国時代に兵火によって全山が焼失しました。 しかし、この観音菩薩だけは、焼け野原となった曠野に争いの世を憂う慈悲深い姿で厳然として佇んでおられました。戦の劫火にも焼かれることがなかったことから、この観音さまには 「火伏せ」・「闘諍消除(争い除け)」のご利益がございます。その後、観音さまは地元の人々によって守られつづけ、江戸時代に列岑禅師によって堂宇が再建され、観音寺と名づけられました。そして、西鮮禅東禅師が住職となったときから、観音寺は禅宗である臨済宗に属すこととなりました。現在、観音禅寺の本堂には、この本尊十一面観音大菩薩(厄除竜王観音)のほか、「身代わり観音」(十一面観音坐像)、「十二支守護仏」(大日如来・阿弥陀如来・文珠菩薩・普賢菩薩・千手観音菩薩・虚空蔵菩薩・勢至菩薩・不動明王)、恋愛と勝負事にご利益がある「愛染明王」、さらに「大日如来」、「不動明王」、「弘法大師」、「地蔵菩薩」などが祀られている。
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とりとめのない話し(その41)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その1)

琵琶湖大橋から北の湖東周辺は多くの近江商人を輩出した地で、奈良時代、「聖徳太子」により東近江の地域に多くの寺院が建てられた。「聖徳太子」の勧めによりこの辺りで「八日市」が盛んに開かれたことにより、「近江商人の発祥の地」とされる。その名が付いた「神崎郡八日市村」は、御代参街道と八風街道が交わる交通の要衝で、若狭や三重との間で、商業取り引きが盛んに行われていた。

近江商人の「三方よし」などの心得のルーツは、「聖徳太子」の奈良時代までさかのぼるとされ、仏教や「聖徳太子」の教えなどの影響が大きかったとされる。その反面、商業利権で争いも絶えなかったため、早くから近江国の様々な商人の間では独自の細かい掟やルールなどの決まりが出来ていた。

現代の湖東にもその近江商人の名残りが色濃く残っている。八日市駅を中心に「近江鉄道」が敷かれており、その「五個荘金堂町」には郷商人の旧家、物の輸送に使っていた水郷など「近江商人の発祥の地」として、今なおその痕跡が残されている。彦根藩による「反本丸」が牛食の発祥とされ、近江八幡から「近江牛」を運んだことにより、全国で本格的な牛食が始まったとされる歴史もその痕跡の1つである。

●東近江市
 令和2年公表された調査結果によると、聖徳太子の文化と親しさで、滋賀県が全国一位との結果が出ました。その中にあって、聖徳太子関連歴史文化遺産の件数第1位は、東近江市です。つまり、東近江市は全国一、聖徳太子と関わる歴史を持つ。

●神崎郡八日市村
八日市はかつて滋賀県湖東地域にあった村。古くからの市場町で、聖徳太子の時代から毎月「八」の付く日に市が開かれていたとされ、それが地名の由来となった。聖徳太子によって市場が開かれた場所とも伝えられている。八日市本町にある市神神社の祭神は事代主命で、八日市場の祖神として古くから崇められてきた。境内には1977年、市民らの浄財によって建てられた聖徳太子像がある。
 百済寺など開基や本尊の作像に聖徳太子がかかわる寺社、国天然記念物ハナノキなど聖徳太子関係の伝承などが、この地域でみられます。
御代参街道と八風街道が交わる交通の要衝で、周辺の農村地域を商圏とする市場町として栄えた。戦前には八日市飛行場が所在し、八日市駅周辺は大津・彦根に次ぐ県下有数の歓楽街として栄えた。

●市神神社
東近江市八日市本町にある神社。四天王寺の瓦造りや瓦屋禅寺の建立で人がこの地に多く集まったことで、聖徳太子は市を開くことを勧め、太子自ら事代主命(ゑびす大神)の神像を刻み、この神様をお祀りする神社を建立しました。近江七福神のひとつ「市宮ゑびす」として信仰を集める。聖徳太子が自ら神像を刻み、商いの道を教えたとされ、その神像が御神体の恵比寿神の胎内に安置されていると伝わる。境内には犬養孝書の額田王相聞歌碑がある。

●五個荘金堂町
滋賀県東近江市五個荘地区にある町である。古代条里制の区画割りを残す農村地帯であると同時に江戸末期から昭和初期にかけて活躍した近江商人の発祥の地でもあり、水田風景のなかに商人屋敷と社寺が甍を並べる町並みが重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
「金堂」という地名は聖徳太子が当地に金堂を建立したという伝承に由来する。現在の大城神社北東には8世紀創建と推定される金堂廃寺跡があり、地区中心部には聖徳太子開基伝承をもつ浄栄寺がある。地名は「今堂」や「近藤」と表記されることもあった。

古代以来、神崎郡に属した。古代の遺構としては、集落北方の農地で古墳時代後期と奈良時代の遺跡が発掘されている(正源寺遺跡)。また、地区内の道路や農地の地割りには条里制の名残がみられる。中世には山前南荘に属し、六角氏の支配を受けた。観音寺城の戦いでは金堂村を含む五個荘一帯が主戦場となった。

江戸時代の1685年以降幕末までこの地域を治めていた郡山藩が条里制の地割を基本として、金堂陣屋の三方に寺院(勝徳寺、弘誓寺、安福寺)を配し、その周囲に民家を配するという、陣屋を中心とする集落構成を形成した。これは現在の金堂町の集落構成の基盤となっている。

近代化が進むにつれ、日本各地はもちろん、一部の商人は朝鮮半島や中国大陸へも進出するようになる。成功後も商人達は本宅や郷里を大切にし、金堂の優れた景観を発展させた。戦後、圃場整備によって条里制の遺構を残す田地は姿を大きく変え、集落にも現代化の波が押し寄せるようになった。1980年代頃から景観保全に対する関心が徐々に高まり、五個荘町も商人屋敷などの保存・観光資源化に力を入れるようになり、1998年(平成10年)12月25日に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。

この地の出身の会社は、小泉産業株式会社(小泉武助)・ツカモトコーポレーション株式会社(塚本定右衛門)・外市株式会社(外村市郎兵衛)・ツカキグループ(塚本喜左衛門)・藤井株式会社(藤井彦四郎)・株式会社 ワコール(塚本幸一)など。

●外村繁邸
 外村繁は、昭和10年「草筏」が芥川賞候補、昭和13年池谷賞を受賞、昭和31年「筏」が野間文学賞を受賞した滋賀を代表する作家です。
 外村宇兵衛家の分家として江戸時代末期に建てられた屋敷で、総面積2395㎡・建物面積496㎡もあり、門を入ると川の水を取り入れた川戸と呼ばれる水屋があり、玄関に続く石畳の右手には広い庭があります。ほかに、小説を書いていた小座敷や女中部屋・松の節つきの一枚板・蔵などがあり、各部屋からは庭が見え、家の間取りはその用途によって幅広く使用できる工夫がされています。

●中江準五郎邸
 中江準五郎は、大正時代から戦前まで朝鮮半島で次々に百貨店を開設し『百貨店王』と呼ばれた三中井一族の末弟中です。
 屋敷は切妻瓦葺で、蔵が2棟あり、庭は池泉回遊式で池のまわりには石灯籠や巨石を配しています。蔵には、滋賀県唯一の郷土民芸品「小幡人形」が常設展示されています。

●藤井彦四郎邸
近江商人の三代目藤井善助の次男として生まれ、後に分家して「小町糸」「スキー毛糸」の製造販売、積極的な海外視察など時代を敏感にとらえて一代で成功しました。
屋敷地には、珍石、名木を配し、琵琶湖を模した池泉回遊式の大庭園(約25mプール8個分)と総ヒノキ造りの客殿と洋館、土蔵が立ち並んでいます。
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とりとめのない話し(その38)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良県、大阪府を順に紹介して来ました。次は滋賀県の歴史・観光を紹介していきたい。(その4)

●湖西観光ルート
湖西の場合は、JR湖西線での観光ルートとして、雄琴温泉〜近江舞子までのルートを紹介します。

先に紹介した湖南観光ルートの場合は、京阪石山坂本線の歴史観光ルートがオススメであったが、湖西観光ルートの場合は、JR湖西線に乗った琵琶湖湖畔を堪能するルートになる。

主な観光はボートやジェットなどのマリーナが多く、マリンスポーツなど多彩なレジャー施設が161号線沿いに連なっている。駅から徒歩圏内の水泳場と比良山系の登山がメインとなっている。雄琴と近江舞子に宿泊施設が密集している。

●おごと温泉駅
滋賀県大津市苗鹿・雄琴にある温泉。最澄によって開かれたと伝えられる約1200年の歴史を持つ由緒ある温泉。滋賀県下最大の温泉地。風俗が盛んになるのは、昭和46年からで歴史的には浅い。
観光地としては、温泉宿がメインで、他にはスーパー銭湯 スパリゾート雄琴 あがりゃんせ などがある。

●堅田駅
堅田湖族まつり花火大会がある。この花火大会は、大津市堅田で開催され、浮御堂を背景に花火が打ち上げられるのが特徴。例年8月最終土曜日に開催されます。2024年は8月31日(土)に開催予定で、花火の他にも、子供フェスタや模擬店の出店、太鼓や金管バンド演奏などのパフォーマンスも楽しめる。
花火大火の冠である堅田湖族がこの祭りの背景にあるので、堅田湖族を以下に紹介しておく。
中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。

●小野駅
遣隋使小野妹子を輩出した小野一族を祀る小野神社がある。小野駅の駅名の由来とされる。
JR湖西線は、琵琶湖の湖畔沿いを通っており、この琵琶湖大橋のたもとから、真野浜を始めとして、和邇浜、北比良浜、近江舞子浜などの水泳場(ビーチ)が続いている。
琵琶湖大橋のたもとには、かつて、1965年に開園した63.5mの琵琶湖タワーが建っていた。代わって1992年108mの大観覧車「イーゴス108」がランドマークとして建てられたが2001年閉園となった。2013年解体され、ベトナムで現在も活躍している。
因みに1956年2代目の通天閣が103mで完成し、1963年神戸ポートタワーが108mで完成、1964年東京オリンピックの年に京都タワー131mで完成している。何故か2016年通天閣は108mに避雷針を伸ばしている。
また琵琶湖大橋のたもとには、道の駅、琵琶湖大橋米プラザがある。

●蓬莱駅
比良山地を形成する蓬莱山があり、駅名の由来とされる。

●和邇駅
蘇我氏と並ぶ奈良時代の豪族であった奈良の豪族。奈良にも地名が残されているが、この地も和邇氏の名前が由来とされる。和邇川や和邇浜水泳場がある。

●志賀駅
冬はスキー場があり、夏は琵琶湖テラスがある琵琶湖バレイがある。ロープウェイまでの路線バスが出ている。松の浦水泳場がある。

●比良駅
比良山があり、駅名の由来とされる。滋賀県の琵琶湖西岸に連なる和邇川から安曇川までの山地。最高峰は武奈ヶ岳の1214.4 m。大部分が琵琶湖国定公園に属し、古くから近江八景の一つ「比良の暮雪」で知られる景勝地。北比良水泳場がある。
比良山地はJR湖西線からのアクセスの良さから、登山ルートが豊富。主なルートとして、比良山系を制覇する縦走のJR湖西線和邇駅から栗原バス停を通り、比良山地最高峰の竹奈ヶ岳を登り、朽木支所前バス停から安曇川駅に帰るルート。その他にも和邇駅から北小松駅までの比良山地の短走ルートと北小松駅から近江高島駅までのリトル比良ルートなどがある。

●近江舞子
近江舞子水泳場がある。おごと温泉エリアに次のホテルや旅館が立ち並ぶ。駅からのアクセスの良さと宿泊施設の多さから湖西線の中でも上位の人気のエリアである。

総評すると、湖畔沿いのJR湖西線と山側の京阪石山坂本線は並走しているが、観光の内容がかなり異なってくる。湖畔沿いなので、マリンスポーツやマリーナなどレジャー施設が多く、駅から近いこともあり、電車旅やマリンスポーツ、徒歩キャンプ、登山、日帰りバーベキューなど、車以外のアウトドアの需要に特化している。車を持たない若い世代にとっては旅行に便利な路線としての需要がある。
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とりとめのない話し(その36)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良県、大阪府を順に紹介して来ました。次は滋賀県の歴史を紹介していきたい。(その3)

●湖南観光ルート
瀬田川西以西の大津(滋賀郡)の湖南観光は、京阪石山坂本線で、石山寺駅から松ノ馬場駅までのルートがオススメだ。

簡単に湖南の史実を要約すると以下の通りだ。湖西から湖南に戦いが南下していき、移築と築城と廃城を重ねて、膳所城で明治を迎え、すべての城が廃城となった歴史を辿ることとなる。膳所城の遺構もまた膳所神社を始めとするその他の建物に移築され、重要文化財として、今もなお残っている。

1570年、志賀の陣、湖西から浅井・朝倉連合軍が壺笠山城・比叡山延暦寺を拠点に南下し、宇佐山城の織田信長陣営が防戦。明智光秀が坂本城を築城し、湖南を防衛・統治し、織田信長が安土城を天下布武の拠点とした。

1582年、明智光秀に本能寺で謀反に合う。明智光秀が安土の占拠を阻むため、織田信長陣営の山岡景隆は瀬田城とともに瀬田の唐橋を焼き払い、いち早く中国大返しにより豊臣秀吉が山崎の戦いで勝利し、謀反討伐に成功した。そのため、豊臣秀吉は跡目争いで、清洲会議で有利に立ち、1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利して、天下統一への道を切り開いた。

1598年、豊臣秀吉の病死により、1600年、徳川家康が会津征伐に向かう間に石田三成が挙兵し、天下分け目戦いとなった関ヶ原の戦いの前哨戦との1つとして、大津城の戦いが起きた。徳川家康側東軍の勝利の要因の1つとされている。そして、大津城は廃城となり、膳所城の築城された。

●志賀の陣(1570年)
◯壺笠山城 浅井・朝倉連合軍
◯宇佐山城 (織田信長陣営)
浅井・朝倉・比叡山延暦寺連合軍は、三好三人衆・大坂本願寺連合軍と野田・福島の戦いの隙をつき、南下を試みたが、織田信長陣営と講和した。そのため、比叡山延暦寺の焼き討ちが起こった。宇佐山城は坂本城により廃城となる。

●山崎の戦い・本能寺の変(1582年)
◯坂本城 明智光秀の拠点
◯瀬田城 山岡景隆(織田信長陣営)
本能寺の変後、瀬田城の城主山岡景隆は明智光秀軍の安土城への進軍を阻むため、瀬田城とともに瀬田の唐橋を焼き払ったため、明智光秀は3日遅れで安土城を占拠したが、その遅れにより体制が整わず、戦況は豊臣秀吉陣営に傾いたとされる。山崎の戦い(大山崎町付近 勝龍寺城一帯)に敗れ、豊臣秀吉が勝利した。坂本城は大津城により廃城となる。

●清洲会議
1582年当主を失った織田氏の後継者を決定する会議が清洲城で開かれ、信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と嫡男・信忠の子である三法師(後の織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しい対立が生じた。結果的には同席した丹羽長秀・池田恒興らが三法師擁立に賛成したため柴田勝家も譲らざるをえず、この後継者問題は形の上ではひとまず決着をみた。

●賤ヶ岳の戦い
1583年近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである。この戦いは、羽柴秀吉、丹羽長秀と柴田勝家、滝川一益の織田政権内での主導権争いであると同時に、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝の対立でもあり、三法師(織田信雄)を擁立する豊臣秀吉の勝利となった。

●大津城の戦い(1600年関ヶ原の戦いの前哨戦の1つ)
◯大津城 京極高次(徳川家康陣営)
関ヶ原の戦いの前哨戦とされ、東軍に付き、西軍の石田三成陣営15000の軍と対峙する。関ヶ原の戦い当日に開城し、関ヶ原の戦いでの勝利の要因の1つとされ、徳川家康から領地の恩賞を受けた。大津城は膳所城の築城により廃城となる。

●膳所城
関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌1601年東海道の押さえとして、大津城を廃し膳所崎に城を築かせた。膳所城は江戸城、大坂城、名古屋城など天下普請として江戸幕府が諸大名に号令し築いた城の第一号である。明治3年(1870年)新政府の早期実現を望む藩士達により、廃城の太政官布告が出された翌日より天守以下の建物の解体・移築が行われた。現在は完全に陸続きとなった本丸跡は「膳所城跡公園」として整備され、石垣がわずかに残っているほか、勢多口総門を忠実に再現した模擬門が建てられた。城門は膳所神社(本丸大手門)、篠津神社(北大手門)、鞭崎八幡宮(南大手門)に現存しており、それぞれ国の重要文化財に指定されている。

●膳所神社
社伝によると、天智天皇が大津宮遷都に際し、此の地を御厨地と定めた。天武天皇6年、大和国より御食津神を奉遷して、大膳職の御厨神とした。慶長年間に至り大政所、豊臣秀頼、徳川家康が当社を厚く尊信し、種々の神器の寄進があり、東山天皇は膳所大明神の宣下をされた。慶長6年、膳所城創始以来、藩主本多候は歴代崇敬が厚く、社領、社殿の寄進、造営が度々あった。現在の当社表門は元膳所城の城門であり、重要文化財である。

●石山寺
滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗の大本山の寺院。山号は石光山。本尊は如意輪観世音菩薩。開山は良弁。西国三十三所第13番札所。鷲尾光遍が1910年(明治43年)石山寺座主となって以来、座主は旧華族の鷲尾家が世襲している。2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産」の構成文化財として日本遺産に認定される。当寺は琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている。『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年(平成27年)に日本夜景遺産に認定された。
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とりとめのない話し(その35)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪を紹介して来た。次は滋賀県の歴史を紹介していきたい。(その2)

京阪石山坂本線に沿って、観光ルートとして紹介します。

京阪石山坂本線は、滋賀県大津(旧滋賀県)の瀬田川以西を通る線で、滋賀県の中でもかなりポテンシャルの高さを感じる地域だ。特に戦国時代、要衝の要として、重要とされた地域である。

●瀬田城(唐橋前駅から唐橋を渡って南へ徒歩約10分)
瀬田城は「急がば回れ」の語源ともなった瀬田橋(瀬田の唐橋)の防衛を目的に山岡氏によって築かれた平城で、膳所城や大津城、坂本城と並ぶ「琵琶湖の浮城」のひとつです。城主の山岡景隆は織田信長からの信頼が厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていました。1582年に起きた「本能寺の変」で信長を討った明智光秀は、安土城を占拠するため瀬田橋に軍を進めたが、その際に景隆は信長への忠義を守り、瀬田橋を焼き落とし明智光秀の軍を阻みました。これにより明智光秀はいったん兵を引かざるを得なくなり、天下の趨勢に大きな影響を与えています。現在は石碑だけが残っている。

●瀬田の唐橋(唐橋前駅から徒歩3分)
京都の宇治橋、山崎橋と並ぶ日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つ。近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地であり、古来「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔からさまざまな戦乱に合ってきた。そのため、何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた。また、『日本書紀』など数多くの文献にこの地が登場する。

●膳所城(膳所本町駅から琵琶湖側へ徒歩約5分)
1600年関ヶ原の戦いに勝利し名実共に天下人となった徳川家康は、翌1601年東海道の押さえとして、大津城を廃し、膳所崎に城を築かせた。
大津市街の東部に位置し、相模川河口付近にあった膳所崎と呼ばれる琵琶湖に突き出た土地に築かれた水城であり、日本三大湖城の一つに数えられ、また大津城、坂本城、瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城」の一つである。陸続きの部分に三の丸を配し、二の丸・北の丸・本丸が琵琶湖に突出する梯郭式の縄張りであった。本丸には4重4階の天守が上げられ、水面に映える姿は里謡に「瀬田の唐橋、唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に浮かぶは膳所の城」と謡われていた。

●大津城(浜大津から琵琶湖側へ徒歩約3分)
1586~1587年豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに築城された。その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、1595年に京極高次が城主となり6万石を与えられた。豊臣秀吉の時代に築かれた現在の浜大津周辺に広がっていた水城。城主の立極高次は1600年の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍の大勢に対して籠城した。関ヶ原の戦いの前日に開城したがこのため西軍の大軍が関ヶ原の戦場に間に合わず、勝利の一因となった。彦根城・膳所城により廃城となる。

◯近江神宮(近江神宮前駅から徒歩6分)
667年に同天皇が飛鳥から遷都した近江大津宮の所在地と推定されている。1908年(明治41年)の大津市制施行10周年を契機として、天智天皇をゆかりの地である大津宮跡に祀ろうという運動が起こり、1938年(昭和13年)に昭和天皇の勅旨によって官幣大社「近江神宮」の創建が決定、直ちに社殿の造営が始められ、1940年(昭和15年)11月7日に鎮座した。又、近江神宮は、百人一首の最初の歌を詠んだ天智天皇を祀ることから、「かるたの聖地」とも呼ばれている。特に、競技かるたの日本一を決める「名人位・クイーン位決定戦」が毎年1月に行われることで知られている。競技かるたを題材にした人気漫画・アニメ「ちはやふる」の舞台としても知られている。

●近江大津宮錦織遺跡(近江神宮前駅 徒歩1分)
西暦663年、日本は百済を救援するために挑戦半島に出兵します。
しかし、日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、日本は唐軍にいつ攻め入られるかという緊迫した状況を迎えます。
その情勢の下、西暦667年天智天皇によって飛鳥から近江への遷都が行われました。この近江に営まれた宮が大津宮です。
国の中心となった大津宮では、日本初の法令である「近江令」や全国にわたる最初の戸籍「庚午年籍」がつくられたほか、漏刻(水時計)を用いた時刻制度なども制定されました。
西暦671年に天智天皇が死去すると、翌年、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子との間に壬申の乱が起こります。この戦いに勝利した大海人皇子は再び飛鳥へ遷都したことから、ここ大津に都が置かれた期間はわずか5年でした。
大津宮の所在は長い間不明でしたが、昭和49年に錦織地区で実施された発掘調査で大津宮の建物の一部とみられる遺構が発見され、その所在が明らかになりました。
以降、周辺地域で発掘調査が実施され、内裏正殿、内裏南門、回廊、堀などの遺構が確認されるなど次第に大津宮の姿が明らかになりつつあります。
現在地は遺跡の北端に隣接しており、大津市が平成15年に全国で10番目となる古都保存法に基づく「古都」の指定を受けたことを記念し、大津宮を紹介するシンボル緑地として整備された。

●宇佐山城(近江神宮駅から徒歩約50分)
朝倉義景・浅井長政の南進に備えるべく、琵琶湖と北国街道の押さえを意図する織田信長に命じられた森可成によって、近江滋賀郡に築かれた。宇佐山城は、信長が安土城より以前に近江で最初に石垣による築城を行った貴重な城郭である。石垣の存在から宇佐山城は単なる陣城ではなく、恒久性を志向したものと考えられている。織田信長が大津市支配の要としていた築いた山城。 石垣を使った堅固な城で、 1570年に浅井・朝倉が攻めてきたのを辛うじて撃退した。後に坂本城が築かれて廃城となった。城跡への山道はかなりきつい。

●壺笠山城(穴太の山奥)
近江坂本・穴太地区の西にそびえる比叡山系400m超の街道を守るために築かれていた山城。1570年志賀の陣で、浅井・朝倉家が比叡山の後援を得て立て籠もった山城。城跡の山頂は古代の古墳でもある。城跡は穴太駅西にそびえる山に眠っている。1570年野田・福島の戦いで、摂津に侵攻した織田軍に対し、比叡山延暦寺と手を結んだ浅井朝倉軍は背後を突く形で京に迫る。この際の戦いで南の宇佐山城主・森長可が討死している。急ぎ引き返してきた織田軍はこの地で浅井朝倉軍と対峙、その際 浅井朝倉方が陣取った場所として「壺笠山」が記されている。遺構は白鳥越えと呼ばれる京〜坂本を結ぶ街道沿いの山頂に円形の主郭が築かれ、周囲にも帯曲輪を巡らせ、虎口や外周石垣などを携えた技巧的な山城となっている。

●志賀の陣
1570年9月16日から12月17日にかけて発生した、織田信長と浅井長政、朝倉義景、比叡山延暦寺の戦い。1570年7月30日近江国浅井郡姉川河原で、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の間で行われた合戦である姉川の戦いの後、織田信長が大阪へ出陣している(三好三人衆との野田・福島の戦い)隙をついて、浅井・朝倉軍が湖西から大津へと進出し、宇佐山城を攻めてきた。信長は急ぎ取って返して宇佐山に本陣を置き、浅井・朝倉軍は壺笠山に陣を敷いて対陣した。一方、信長が転進してきたことを知った浅井・朝倉勢は比叡山へ後退した。浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺の支援のもと、比叡山に籠城することになった。
9月24日、信長は逢坂を越え、坂本まで来て比叡山を包囲した。信長は比叡山延暦寺に対して、「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」と通告したが、延暦寺からの返事はなかった。あまり知られていない戦いだが、対陣は数ヶ月に及び、その間に伊勢長島で一揆が起こるなど信長最大のピンチともいわれる。 結局、将軍や朝廷の調停で和を結び、双方陣を撤収した。

●野田・福島の戦い
1570年8月26日から9月23日に行われた戦い。この後10年にも亘る石山合戦の端緒といえる戦いである。1568年織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を征夷大将軍に就けることに成功した。これにより、室町幕府は一時的に再興されることになった。将軍の後見人という立場となった信長は、かねてより良好な関係ではなかった朝倉義景との対立を深め、1570年4月20日に義景の領国たる越前へ侵攻したが、盟友・義弟の浅井長政が朝倉方についたことにより撤退(金ヶ崎の戦い)。約2ヶ月後の6月28日に発生した姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍に打撃を与えることに成功した。一方、足利義昭とかねてより敵対していた三好三人衆は8月20日になって摂津の野田城、福島城に拠って挙兵した。信長はこの挙兵に対して天王寺に出陣し、付け城を築くと共に香西佳清と三好為三を寝返らせて有利に戦いを進めていた。しかし、その途中の9月14日になって石山本願寺法主顕如が蜂起したことにより、戦況は予断を許さなくなり、信長は摂津戦線に釘付けにされることになった。

●坂本城(松の馬場駅から徒歩約15分)
1571年比叡山焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどの豪壮華麗なものであった。その後、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指し、湖南はほぼ手中に収め、黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めていた。1582年6月2日、光秀は中国攻めには向かわず本能寺の信長軍を急襲し信長を自害させ、次いで二条新御所を攻城し、信長の嫡男・信忠を自害させた(本能寺の変)。だが、同年6月13日山崎の戦いで敗れた光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。1586年豊臣秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、石垣等の資材は大津城築城に使用された為、遺構はほとんど残っていない。

●史跡 穴太衆積みの石垣(坂本比叡山口から徒歩9分)
「穴大衆積み」は、自然の石を加工せずに積み上げるものです。 石の面や角の使い方 大きな石と小さな石の組み合わせに特色を持ち、また奥行の深い積み方で、コーナーの美しさとその堅固さはりっぱなものです。また、積み上げられた石垣の表面は幾何学的な模様を作り出しています。
これらの石垣を積んだ石工達は、穴太衆と呼ばれ、戦国時代にはこの穴太衆達が全国を飛び回り、城の石垣作りに活躍した。

●比叡山延暦寺(坂本比叡山口から坂本ケーブル(9分)を使って、約33分)
比叡山延暦寺とは、延暦7年(788年)に最澄が開創した、1,200年以上の歴史を持つ天台宗の総本山です。国宝的人材育成の学問と修行の道場として、法然・親鸞などの日本仏教各宗各派の名僧を多数輩出。日本仏教の母山と呼ばれている。さらにその歴史と伝統が高い評価を受け、ユネスコ世界文化遺産に認定され、滋賀・京都を代表する地となる。

●比叡山焼き討ち
1570年志賀の陣の戦いにおいて信長の通告を無視して浅井・朝倉方についたことが1571年翌年の比叡山焼き討ちにつながることになる。
1571年9月30日 比叡山延暦寺を織田信長の軍が攻めた戦い。この戦いで信長軍は延暦寺の伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている。
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とりとめのない話し(その34)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良県、大阪府を順に紹介して来ました。次は滋賀県を紹介していきたい。

滋賀県は、現在、湖東、湖西、湖南、湖北の4つの地域に分類される。

・湖東エリアは、彦根市、東近江市、近江八幡市、竜王町、多賀町、日野町とされ、近江国の中でも、このエリアの商人が特に近江商人と言われ、繁栄した。このエリアの近江商人は、3つの地域に分けられている。

◯八幡商人
近江八幡市のエリアで、安土城、八幡山城などの城下町で織田信長による楽市・楽座により集まった商人たち。寝具メーカーの西川が有名。

◯日野商人
日野町のエリアで、蒲生氏の城下町で繁栄する。住友財閥、武田薬品などが有名。蒲生氏が伊勢に移封され、伊勢の松坂の城下町に集まった商人たちは伊勢商人と呼ばれている。三井財閥が有名。

○湖東商人
彦根市のエリア(日野町、近江八幡市を除く湖東)で、江戸時代、彦根藩の経済政策により繁栄した商人たち。トヨタグループ、西武グループ、伊藤忠商事、丸紅、日本生命保険などが有名。

・湖西エリアはマキノ町、今津町、朽木村、安曇川町、高島町、新旭町の5町1村が合併し、 高島市となった地域で、古くは500年頃の継体天皇の時代から高島の地名は登場している。弥生時代は安曇族、鎌倉時代は佐々木氏の流れをくむ高島氏は清水山城を本拠として繁栄し、戦国時代は織田信長の侵攻により津田信澄が大溝城を築城し、江戸時代は大溝藩が置かれ、朽木氏においては鎌倉時代から朽木谷の旗本として幕末まで繁栄した。

◯高島商人
湖西エリアで、戦国末期から江戸時代に東北地方へ行商に出ていた。呉服問屋からデパートを営む高島屋が有名。

・湖北エリアは長浜市・米原市とされ、特に長浜市は浅井長政の小谷城、豊臣秀吉の長浜城、浅井・朝倉連合軍と豊臣・徳川連合軍との姉川の戦いでよく知られている。

・湖南エリアは旧滋賀郡と旧栗太郡のエリアで、大津市・草津市・守山市・栗東市・野洲市・湖南市・甲賀市で構成され、さらに分類すると、大津エリア、草津・湖南エリア、甲賀・信楽エリアの3つの地域に分類される。

●草津・湖南エリア
大津市を除く旧栗太郡と甲賀市を除く旧甲賀郡(湖南市)のエリア(草津市・守山市・栗東市・野洲市・湖南市)で、栗東市にはJRAの栗東トレーニングセンターがある。

●甲賀・信楽エリア
湖南市を除く旧甲賀郡のエリア(甲賀市)で、甲賀町・水口町・土山町・甲南町・信楽町の合併し、甲賀市となった。

◯甲賀忍者
甲賀出身の忍者は旧甲賀郡甲賀町付近とされ、六角氏に仕えていたが、織田信長に敗退し、織田信長・豊臣秀吉側につくこととなった。
忍術屋敷は、一見普通の農家だが、内部には縄梯子、落とし穴、回転戸、地下道などが仕掛けられている。 甲賀市甲南町竜法師2331番地に、甲賀五十三家の筆頭格であった望月出雲守の元禄年間建築の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。
滋賀県甲賀市甲賀町隠岐に、1983年に開園した甲賀の里忍術村があり、村内に『萬川集海』著者として知られる藤林保武の一族の家を移築したからくり屋敷や甲賀忍術博物館などの資料館が点在する。
現存する甲賀流の忍術伝書は、藤林左武次保武の『萬川集海』(伊賀・甲賀49流派の集大成)、服部半蔵の『忍秘伝』(伊賀流・甲賀流の伝書)があり、三大忍術書の1つとされている。徳川家康側についた服部半蔵は伊賀出身の忍者とされる。

◯紫香楽宮跡
滋賀県南部、大戸川上流部において周囲を山で囲まれた小盆地である信楽(紫香楽)の地に位置する。現在、国の史跡は、宮町地区 (宮殿跡)、内裏野地区 (寺院跡)新宮神社地区(道路跡)、鍛冶屋敷地区(鋳造所跡)、北黄瀬地区(大井戸跡)の5つの遺跡からなる。奈良時代742-745年に聖武天皇により紫香楽宮が営まれ、総国分寺として甲賀寺(甲可寺)の造営が計画されたことで知られ、それらに関連する遺跡群とされる。1926年(大正15年)に内裏野地区が「紫香楽宮跡」の名称で国の史跡に指定され、その後に数次の追加指定が実施されている。

●大津エリア
瀬田川以西が旧滋賀郡、瀬田川以東の旧栗太郡の一部で、構成され、逢坂の関や瀬田の唐橋など、京の要衝の要として、度々歴史に登場することになる。天下人への近道のため、畿内地域を制することに翻弄し、天下人を目指す人々以西が近江国で覇権を争うことになる。
大津市の瀬田川以西の旧栗太郡のエリアは、瀬田の唐橋、瀬田城、石山寺、膳所城跡、大津城跡、近江大津京跡、近江神宮、宇佐山城、壺笠山城、坂本城、比叡山延暦寺、穴太衆の穴太、雄琴温泉、堅田衆の堅田と歴史的な名所が続く。

◯滋賀県の由来
廃藩置県により幕府直轄領の大津に大津代官所が出来、大津裁判所が出来、大津県となったが、大津県と長浜県を統合し、県庁所在地の滋賀郡から滋賀県と改名した。
滋賀の由来は、石の多い場所のことで、滋賀郡の地名になっていた。比叡山延暦寺や山城など、早くから石山を生かし、穴太の石垣築造職人たちが全国で活躍することとなり、穴太衆とよばれるようになった。

◯穴太衆
近江の比叡山山麓にある滋賀県大津市坂本穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂本の近郊の出身で、古墳築造などを行っていた石工の末裔。寺院の石工を任されていたが、高い技術を買われて、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の石垣構築にも携わるようになった。それ以降は江戸時代初頭に到るまでに多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られた。彼らは全国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するようになった。

◯雄琴温泉
滋賀県大津市苗鹿・雄琴にある温泉。最澄によって開かれたと伝えられる約1200年の歴史を持つ由緒ある温泉。滋賀県下最大の温泉地。風俗が盛んになるのは、昭和46年からで歴史的には浅い。

◯堅田衆
中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。殿原衆は堅田の水上交通に従事して堅田船と呼ばれる船団を保有して、時には海賊行為を行って他の琵琶湖沿岸都市を牽制しつつ、堅田衆の指導的な地位を確保していた。一方、全人衆の中には商工業によって富を得るものも多く、殿原衆との共存関係を築いてきた。

◯近江神宮(京阪坂本石山線 近江神宮前駅 徒歩6分)
667年に同天皇が飛鳥から遷都した近江大津宮の所在地と推定されている。1908年(明治41年)の大津市制施行10周年を契機として、天智天皇をゆかりの地である大津宮跡に祀ろうという運動が起こり、1938年(昭和13年)に昭和天皇の勅旨によって官幣大社「近江神宮」の創建が決定、直ちに社殿の造営が始められ、1940年(昭和15年)11月7日に鎮座した。又、近江神宮は、百人一首の最初の歌を詠んだ天智天皇を祀ることから、「かるたの聖地」とも呼ばれている。特に、競技かるたの日本一を決める「名人位・クイーン位決定戦」が毎年1月に行われることで知られている。競技かるたを題材にした人気漫画・アニメ「ちはやふる」の舞台としても知られている。

◯近江大津宮錦織遺跡(京阪坂本石山線 近江神宮前駅 徒歩1分)
西暦663年、日本は百済を救援するために挑戦半島に出兵します。
しかし、日本軍は白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、日本は唐軍にいつ攻め入られるかという緊迫した状況を迎えます。
その情勢の下、西暦667年天智天皇によって飛鳥から近江への遷都が行われました。この近江に営まれた宮が大津宮です。
国の中心となった大津宮では、日本初の法令である「近江令」や全国にわたる最初の戸籍「庚午年籍」がつくられたほか、漏刻(水時計)を用いた時刻制度なども制定されました。
西暦671年に天智天皇が死去すると、翌年、皇位継承をめぐって大友皇子と大海人皇子との間に壬申の乱が起こります。この戦いに勝利した大海人皇子は再び飛鳥へ遷都したことから、ここ大津に都が置かれた期間はわずか5年でした。
大津宮の所在は長い間不明でしたが、昭和49年に錦織地区で実施された発掘調査で大津宮の建物の一部とみられる遺構が発見され、その所在が明らかになりました。
以降、周辺地域で発掘調査が実施され、内裏正殿、内裏南門、回廊、堀などの遺構が確認されるなど次第に大津宮の姿が明らかになりつつあります。
現在地は遺跡の北端に隣接しており、大津市が平成15年に全国で10番目となる古都保存法に基づく「古都」の指定を受けたことを記念し、大津宮を紹介するシンボル緑地として整備された。

◯瀬田の唐橋(京阪坂本石山線 唐橋前駅 徒歩3分)
京都の宇治橋、山崎橋と並ぶ日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つ。近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる。東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝かつ京都防衛上の重要地であり、古来「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔からさまざまな戦乱に合ってきた。そのため、何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた。また、『日本書紀』など数多くの文献にこの地が登場する。
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とりとめのない話し(その32)

関西では、こんな「とりとめない話し」が立ち飲み屋で、よくネタになってるんだ。知らんけど。その続き(その2)

(関東人)関西の三都は「大阪」「京都」「神戸」ってことは、理解したよ。じゃあ三大古都は、「京都」「奈良」「鎌倉」ってことで良いよね。

(大阪人)ちょっと待って。なんか、納得いかんな。「神奈川県」の人口が第2位やからって、「鎌倉」はただのど田舎やん。都になったこともないし。

(関東人)古都にど田舎とかは関係無いでしょ。

(奈良県民)確かに奈良は「古都奈良の文化財」で、世界遺産登録されてるし、京都も「古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)」で、ちゃんと世界遺産登録されてるけど、「鎌倉」は、世界遺産にまだ登録されてないからなぁ。

(大阪人)鎌倉市は「武家の古都・鎌倉」として世界遺産登録を目指してたんやけど、残念ながら却下されたから、「三大古都」名乗ったら、やっぱあかんちゃう。

(関東人)でもさ、「鎌倉」はまだ世界遺産には登録されてないけど、ちゃんと古都指定都市には、指定されてるよ。京都市、奈良市、鎌倉市及び逗子市、天理市・橿原市・桜井市、斑鳩町、明日香村、 大津市の7地区が登録されてるから、ちゃんと覚えておいて。

(大阪人)でもさ、「鎌倉」には昔の町並みは「京都」や「奈良」みたいにほとんど残ってへんやん。それと「鎌倉」は鎌倉市及び逗子市の2市で指定されてるから、「鎌倉」言うたらあかんちゃう。

(関東人)「鎌倉」は京都盆地のように山や海によって街全体が自然の要塞になってるから、
京都のような古都らしさはまだ残ってるよ。

(大阪人)いやいや、「京都」や「奈良」にはちゃんと古都らしい昔ながらの町並みが残ってるで。ちゃんと重要伝統的建造物群保存地区に指定されてるんやで。「鎌倉」は1つも指定された保存地区ないやん。

(京都人)京都は昔ながらの町並みが多く、北区上賀茂社家町、東山区産寧坂(門前町)、東山区祇園新橋(茶屋町)、右京区嵯峨鳥居本(門前町)、南丹市美山町北(山村集落)、伊根町伊根浦(漁村)、与謝野町加悦(製織町)の7地区が重要伝統的建造物群保存地区に指定されてるんよ。

(奈良県民)奈良は、橿原市今井町(寺内町・在郷町)、奈良県五條市五條新町(商家町)、奈良県宇陀市松山(商家町)の3地区がちゃんと重要伝統的建造物群保存地区に指定されているんやで。

(関東人)奈良は、奈良市で指定されて無いじゃん。いがいと奈良に古い町並みは残ってないんだね。

(奈良県民)「京都」と「奈良」の古都の範囲は市内やなくて、もっと広い範囲やで。古都の規模がそもそも「鎌倉」とは全然ちゃう。

(滋賀県民)滋賀県は、大津市坂本(里坊群・門前町)彦根市河原町芹町(商家町)近江八幡市八幡( 商家町)、東近江市 五個荘金堂( 農村集落 )の4地区が重要伝統的建造物群保存地区に指定されてるんやね。

「大津」は、世界遺産と古都指定都市と重要伝統的建造物群保存地区に指定されているから、「鎌倉」より上やで。三大古都に「大津」ワンチャンあるな。都にもなったことあるし。それと「鎌倉」は鎌倉市及び逗子市の2市で指定されてるから、「鎌倉」言うたらあかんちゃう。

(大阪人)これで、決まりや。三大古都は、「京都」「奈良」「大津」や。

(関東人)なんか、ちょっと言い返す言葉が見当たらないのが悔しい。負けた気がする。

(京都人)ほんまはもう1つ誰にも知られてない古都の条件あるんどすぇ。

(関東人)なになに?

(京都人)皆さん知りはらへんのやけど、古都には、「三大大仏」があったんどすぇ。奈良県奈良市東大寺の「奈良の大仏」14.70m、神奈川県鎌倉市高徳院の「鎌倉の大仏」11.39mそして、京都府京都市方広寺の「京の大仏」19.00m、京の大仏は1798に焼失してしもうてなぁ、ほんに残念どす。

(大阪人)そうか、それなら京都が古都から消えたゆうことか。大阪はワンチャンないかな?

(滋賀県民)いやいや、大阪には古都指定都市、重要伝統的建造物群保存地区、大仏もあらへん。大津には志賀大仏があるで。これで決まりや。

(大阪人)大津の志賀大仏は、3.10mしかないやん。これはあかんやろ。

(関東人)京の大仏が焼失して、三大大仏の候補は複数上がってるんよ。戦前は、兵庫県能福寺の兵庫大仏(11.00m)戦後は、富山県大佛寺の高岡大仏(7.43m)と岐阜県正法寺の岐阜大仏(13.70m)が候補に上がっていたけど、現在まだ何処にも定まってないらしい。

(大阪)まあ、古都として栄えた時代に作られた大仏に親しみもあって、有名になったんやろね。納得はしてないけど、総合的に考えたら、やっぱ「京都」「奈良」「鎌倉」が三古都になるんかなぁ。ワンチャン「大津」あるけど…

古都論争は、これで終わり…知らんけど…
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とりとめのない話し(その29)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その10)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(5)として、大坂城天守閣を出て、山里曲輪を通り、極楽橋から大坂城ホールへ抜けるルートを中心に跡地や碑をまとめました。大坂城はすべて徳川の遺構ではあるが、最も豊臣秀吉を感じさせる観光ルートである。

1枚目は、山里曲輪の空撮写真
2枚目は、江戸時代の天守閣と山里曲輪付近の地図

●号砲(天守台内)
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。1863年、幕府の命令により、美作津山藩の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。1870年から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午のドン」の名で市民に親しまれた、火薬節約その他の理由により1923~24年頃中止されたが、 その時期と事情ははっきりしていない。

●残念石(本丸内)
両側に鎮座しているのこの石は1620年から始まる小豆島で創られたまま、用材石として、いまなお救多く残されていることから「残念石」と呼ばれ、大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さ石は前細川忠興の手によるものである。 小豆島青年会議所創立十周年記念事業とし、一つの社会活動の実践に、大阪青年会議所は高新大阪の復権を願い、「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共両事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。

●御成門跡
極楽橋を渡り、山里曲輪から本丸に入る門が御成門とされていた。正確な位置は不明。監視のため弓方預櫓(御成門之内櫓)が建っていた。

●天守下仕切門跡
天守台の西側は石組によって南北が隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため両脇の石垣を行き違いとし、 そのため門は東に向いていた。徳川幕府による大坂城再築時に築かれ、明治維新の大火により石垣上にあった弱ともども焼失したと考えられる。

●天守台石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)、陸軍の関連施設が集中していた大阪城は、終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守閣は天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

●隠し曲輪
この一時期幕府の焰硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩) の印を飼近に見ることができる。 大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城再築時のものである。出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれる。

●山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。 なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。

●山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪)と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。1583年に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目を行っている。秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀る豊国社も建てられた。1615年の大坂夏の陣では、 秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。

●山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度に及ぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北川内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

●大阪国防館跡
この付近に、第二次世界大戦のさなかに陸軍が設置した「大阪国防館」があった。戦地の兵士をしのび国防意識を高めることを目的として昭和15年(1940)3月に開館し、木造2階建ての内部には、戦地や防空施設のジオラマ、兵器や戦闘機・戦車などの体験型展示、戦没者の遺影や遺品などが9室にわけて陳列されていた。戦局悪化にともない同17年ごろに閉鎖され、同18年からは中部軍司令部女子防空通信隊の宿舎として使われた。昭和20年の空襲によって全焼し、姿を消した。

●刻印石広場
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示し紹介する為に新設しました。
刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工が、石集めや石積みの過程で、個々の石に必要に応じて、文字や文様を刻み込み、さらに出来上がった石垣の表面に担当大名の家紋などを刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されています。
ここに展示しているのは、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものを展示してます。
大阪城の石垣は、豊臣時代のものが残っていると思われがちですが、実は現存している石垣はすべて元和・寛永年間(1620年~1629年)に、徳川幕府が西日本の69藩を動員して築かせたものです。無数の刻印石がその事実を証明しています。

●秀頼・淀殿ら自刃の地(山里丸内)
大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀君が、山里丸にあった櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えている。それに因んで、1997年山里丸の一画に大阪市の手により記念碑が建てられた。
碑の内容
「慶長二十年(一六一五)五月八日、大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約三十名は、落城直後の大坂城内で自刃した。その場所については諸説あるが、ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である」

●極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が1583年に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約mの木造で、明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる1965年に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54m、幅約5.4mで、橋脚・主桁を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山) 本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

●青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された1620年ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、1945年の空装で再び大破した。1969年大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」 の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山) 本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

●大阪砲兵工廠跡碑(現在、大阪城ホール)
大阪砲兵工廠は大砲生産を中心とした近代日本最大級の軍事工場で、1870年この付近に設置された造兵司を発祥とする。 民需品も手がけるなどして大阪における近代工業化の推進役を担い、敷地はここを中心に現在の大阪ビジネスパークー帯、 森ノ宮方面、さらに大阪環状線の東まで広がった、1945年の空襲によって壊滅し、残っていた元本館の建物は大阪市により昭和56年に撤去され、跡地に大阪城ホールが建てられた。 江戸時代、この付近一帯は「御蔵曲輪」呼ばれ、年貢米などを備蓄する幕府の蔵が立ち並んでいた。
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とりとめのない話し(その28)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その9)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(4)として、江戸時代の大坂城の屋敷跡にある案内板の内容を中心に列記しました。

1枚目は、大坂城に移築した紀州御殿
2枚目は、徳川大坂城の江戸時代の地図

大坂城の歴代の城代を務めた大名は68人いたが、城代屋敷に住み、幕末の最後まで交代して務めた。城主であった歴代の徳川将軍は、徳川家光、家茂、最後の将軍慶喜の3名しか御殿には訪れていない。

〇2代将軍 徳川秀忠
1619年2代将軍徳川秀忠は大坂を幕府の直轄地とし、翌年から西国・北国の諸大名を動員して大坂城を根本から築きなおして、1628年には徳川大坂城を完成させた。

〇3代将軍 徳川家光
大坂城に生涯に三度訪れ、父秀忠の没後の三度目(1634年)は、家光の権威を朝廷や西国大名、畿内の直轄都市民に見せつけるために大坂城へ訪れている。京都で朝廷へ多大な献上を行うとともに、市民に五千貫もの銀を配った。そして再築工事が完了した大坂城に入り、大坂・堺・奈良の三都市に対し、地子(土地に課される税)の永久免除を宣言した。その恩恵に感謝した市民により釣鐘が作られ、その鐘は「仁政の鐘」と呼ばれた。現在その釣鐘は大阪市中央区釣鐘町の釣鐘屋敷跡に設置され、日に3回自動で鐘が鳴らされている。釣鐘町という町名もこの鐘によるもので、家光が大坂城に入城した痕跡が今もなお残っている。

〇4代将軍 徳川家綱
1665年家綱の時代に天守は落雷(39年間)で焼失している。

〇14代将軍 徳川家茂
徳川家光が大坂城へ最後に入城した230年後、1863年(幕末の動乱期)に大坂城へ入城した。家茂は徳川将軍の中で最も長く大坂城に滞在し、唯一人大坂城で生涯を閉じた将軍となった。
徳川幕府は国内外に問題を抱え、落ちていた幕府の権威の巻き返しを図るため、1865年から大坂城を本拠地とした。1866年、長州戦争の敗報に心を痛めつつ、21歳でその生涯を閉じた。現在の天守閣改札口のすぐ南側にあった本丸御殿内の銅御殿で最期を迎えている。

〇15代将軍 徳川慶喜
 最後に大坂城へ入城したのは将軍である。将軍在職中、京都の二条城、そして大坂城を活動の本拠とし、1867年将軍就任を披露するため外国公使向けに大坂城で会見を行った。幕府の政権の末期、なおも国内の安定や国力の増強、さらに国際社会への積極的な参加をめざし、その華やかな舞台となった大坂城は最後の輝きを見せた。
1867年10月14日に慶喜は大政奉還を行ったが、12月9日には王政復古のクーデターが起き、新政権が樹立されます。京都を離れ、1868年に正月を大坂城で迎えた。新政権への参加を考えていたが、旧幕府方の大半は討幕派の謀略を憎み、力ずくでの京都奪還をめざした。正月3日に鳥羽・伏見の戦いが起き、旧幕府軍は戊辰戦争で大敗を喫した。6日、最後の牙城だった大坂城を捨て、江戸へ向かったため、城内は大混乱に陥り、数日後に炎に包まれて落城し、徳川大坂城の歴史に幕が降りた。

〇大坂城の御殿跡地 その後
大阪城本丸は明治維新の大火により御殿や櫓など主要な建物が焼失した。明治18年(1885)から昭和22年(1947)まで、和歌山城二の丸御殿から移築され、大阪城を拠点としていた陸軍は庁舎として利用し、紀州御殿と呼ばれた。明治20年(1887)と明治31年(1898)明治天皇の大阪行幸の際、紀州御殿が行在所となった。その時の御座所は第二次大戦終結まで保存されていた。現在、本丸跡には「明治天皇駐蹕之所」の碑がある。昭和6年、本丸内に第四師団司令部庁舎が新築されると紀州御殿は大阪市の管理となった。1932年(昭和7年)、昭和天皇の行在所となり、1933年に「天臨閣」と改称された。1945年終戦後、大阪城が連合国軍の占領下にあった1947年9月12日、原因不明の失火によって全焼した。現在、御殿跡地は日本庭園と広場となっている。

●市多聞跡(大手口枡形内)
江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほか、南側に東西1.3間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この橋の中で、一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついた。明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡と重なる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。

●大坂城代屋敷跡(大阪城 西の丸庭園南側)
現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城防衛責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。 東向きの玄関は唐破風造りで、公務を行う広間や書院だけでなく。 城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸に次ぐ規模の御殿であった。明治維新の火災で焼失。ここは城代屋敷の表門付近にあたる。

●坤櫓跡(大阪城 西の丸西側)
ここには二の丸の隅櫓の一つが建っていて、西の丸の南西 (坤) にあたることから坤櫓とよばれた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の初年にあたる1620年と推定され、東西 8間・南北7間の二層構造、窓は西面・南面を中心に25あった。 規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じである。明治維新の大火にも耐えて残ったが、第二次大戦の空襲で焼失した。

●西大番衆小屋跡(大阪城二ノ丸内 修道館付近)
大坂城が徳川将軍の城だった江戸時代、ここには大坂城本丸の警備を主な任務とする将軍直属の旗本部隊「大番」の小屋(宿営) が置かれていた。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交替で在番し、城内二の丸南に置かれた東西の大番小屋で起居した。西大番衆小屋の範囲は現在の修道館の敷地とほぼ更なる。1868年に勃発した戊辰戦争の際には、新選組を含む旧幕府軍の兵の滞在場所として東西大播带小屋が使われたが、旧幕府軍撤退時に起きた城中の大火により焼失した。

●石山本願寺推定地の碑(二ノ丸内 修道館 南仕切門跡・太鼓櫓跡付近)
1496年本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立。「大坂」の地名が史料に現れる初例になる。「天文日記」によると大坂坊舎は生玉八坊の一つ法安寺の東側に建立された。1532年六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き討ちされたため、石山本願寺に発展し、山科と同様に広大な寺内町が造営された。十一世顕如の時代に、織田信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去したあと、鷲森、貝塚、天満を経て京都の堀川に本拠を移転している。石山合戦図などによりある程度、位置関係は特定されている。

●東大番衆小屋跡(豊國神社付近)
大坂城が徳川幕府の城だった江戸時代、この付近から現在の豊国神社の社地にかけての一帯に「大番」と呼ばれる将軍直属の旗本部隊の小屋(宿営) があった。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交替で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋で起居し、大坂城本丸の警備などをつとめた。 大番の職は幕末の1867年に廃止され、大番衆小屋は翌年に起きた明治維新の大火で焼失した。

●玉造口定番屋敷跡(大阪城二ノ丸 玉造口)
江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち玉造口定番は二の丸玉造口の内側に屋敷をもち、玉造口守衛のほか、京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。建物は明治維新の大火で焼失。跡地には軍事病院が建てられ、1877年に起きた西南戦争では、戦地から戻った多くの傷病兵が収容された。

●算用曲輪(杉山)
玉造口の南側一帯は、豊臣時代から「算用曲輪」 「算用場」などとよばれていた。名称の由来は、秀吉による大坂城築城時に賃金などの計算(算用)が行なわれた場所だったからとも、また大坂城に納められた年貢や金銀などの計算が行われていたからともいわれている。江戸時代、ここは大きな杉の大木がそびえる小山となったため「杉山」とも呼ばれるようになり、大坂城を仰ぎ見る行楽地として多くの庶民が集い、親しまれた。

●本丸御殿跡(大坂城 本丸内 南側)
城の中心部を本丸といい、大坂城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっている。1868年明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも1947年に焼失した。ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。

●市正曲輪(大阪城 梅林の地)
現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元の屋敷がここにあったと伝えることから「市正曲輪」とよばれる。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番、中小屋加番、雁木坂加番の小屋(公舎) が北から順に置かれていた。

●雁木坂(市正曲輪 南側付近の坂路)
大坂城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。江戸時代ここは長い石段 (雁木) だったことから雁木坂とよばれ、坂を上りきった所には上部に部屋を持つ雁木坂門があり、脇には通行を監視するための番所が置かれた。明治維新以後の陸軍管轄時代にはダラダラ坂とも呼ばれた。現在、盛土によって坂の勾配はゆるやかになっている。
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とりとめのない話し(その27)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その8)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(3)として、大坂城の焼失した櫓の案内板の内容を記載しました。

1枚目は、本丸三重櫓の位置を示した地図
2枚目ほ、本丸三重櫓の写真
3〜5枚目は、大阪城天守閣の徳川大坂城の復元模型の写真

複数の三重櫓が存在した城は、名古屋城をはじめ大坂城、江戸城、福山城(広島県福山市)、明石城(兵庫県明石市)など徳川幕府系の城を中心に、熊本城や岡山城などの大城郭に限られた。
そして徳川大坂城には12の三重櫓があった。そのうち、本丸の櫓は全て三重櫓で、11ヶ所も本丸に立ち並んでいた。明治維新の大火や太平洋戦争で、全て焼失している。二ノ丸の櫓の中で、唯一の三重櫓であった伏見櫓も太平洋戦争で焼失している。

●数寄屋前櫓
徳川幕府が再築した大坂城の本丸に建てられた11棟の三層櫓の内 「数寄屋前橋」と呼ばれる櫓がこの地にあった。本丸西側の北から 3番目の櫓で、本丸の石垣が西の丸方面へ最も突き出た個所に位置し、平面が片菱形という特殊な構造をしていた。 大坂具足奉行が管理し、鎧を中心とする武具類が保管されていたと推定される。「数寄屋前橋」という名称は、櫓の近くに数寄屋(茶室) が建てられていたことに由来する。明治維新の大火により、本丸の他の橋とともに焼失した。

●糒櫓跡
「糒櫓」は徳川幕府が再築した大坂城の本丸に建っていた三層櫓 11棟の内の1棟である。大坂蔵奉行が管理し、名称は、蒸した米粒を乾燥させた精 (干飯) がここに備蓄されていたことにちなむ。 窓は 26 あって本丸の三層櫓の中で最も多く、これは北東方面への眺望や監視に適していたことによるものだろう。明治維新の大火により糒櫓は他の本丸の櫓とともに焼失した。なお、この橋近くに生えていた松が江戸時代「豊臣秀頼生害の松」と呼ばれていたが、 これは豊臣秀頼が大坂夏の陣の際、城内の糒櫓で自害したとの考えが一般に広まったことを背景に生まれた伝説とみられる。

●月見櫓跡
ここには月見櫓と呼ばれる三層の隅櫓が建っていた。徳川幕府か再築した大坂城には本丸に11棟の三層櫓が築かれ、それぞれ備蓄用の武器武具や兵糧などが納められていたが、この月見櫓には鉄砲が保管され、大坂鉄砲奉行が維持管理にあたった。 明治維新の大火により本丸の他の櫓とともに焼失する。なお 「月見櫓」の名称は他の城郭にもみられ、もともとは兵士の到着を大将が確認する「着見」に由来するとされるが、江戸時代には、 月見をはじめとする眺望を意識した櫓の名として使われることが多かった。

●馬印櫓跡
徳川幕府が再築した大坂城の本丸には、石垣上に3層の橋が11 棟建っており、その内ここにあった櫓は「馬印櫓」と呼ばれていた。戦陣において大将の所在を示す標識を馬印といい、この中に徳川家康が大坂の陣で用いたとされる馬印が納められていた。 大坂城守衛の首班である大坂城代は在職中この馬印を拝見することを例とし、幕末に大坂城を訪れた十四代将軍徳川家茂もこの櫓に入って馬印を拝覧している。馬印櫓は明治維新の大火により、 他の本丸の櫓とともに焼失した。

●伏見櫓跡(二ノ丸内 京橋口定番屋敷跡 北側)
徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓の内、唯一3層だった櫓で (他の櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。付近の街道からのぞむ優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼した。
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とりとめのない話し(その26)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その7)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(2)として、重要文化財いがいの大阪城内の主要な跡地や碑の案内板の内容を中心に列記しました。


●大手口枡形の巨石
枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、 敵の進入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口桝形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石は、表面積が約29畳敷 で城内第4位、左の大手二番石は約23畳敷 で第5位、右の大手三番石は約22畳敷 で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。

●西の丸庭園
古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、秀吉没後、1599年には秀吉の正室「北の政所」 が一時住み、その後、1600年の関ヶ原合戦まで、徳川家康か移り住んだことが知られています。徳川時代に入り、1619年、内藤信正が初代の「大阪城代」となり、1620年すっかり築き直しました。その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交代で城の管理にあたりました。明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、1965年西の丸庭園として開園しました。

●南仕切門跡・太鼓櫓跡
二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる1628年に創建されたと考えられる。太鼓橋は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。ここには太鼓坊主とよばれる僧形 の役人が交替で詰め、彼らは香 をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。いずれの建物も1868年明治維新の大火によって焼失した。

●玉造口
大坂城の東南の出入口にあたる。ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代には大手口や京橋口と同様、石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓が建っていた。多聞櫓は1868年、明治維新の動乱にともなう大火によって焼失し、 その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により枡形が撤去された。 焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両脇の石組み以外は旧観をとどめていない。「玉造」の地名は古代にまでさかのぼり、古墳時代、勾玉・管玉など装飾用の石を作った技術者集団「玉造部」がこの南方に住んでいたと推定されている。

●蓮如上人袈裟懸けの松の碑
豊臣秀吉が大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は坊舎をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。

●桜門枡形の巨石(城内1位)
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった1624年、備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前 (岡山県)産の花崗岩が用いられている。正面の石は蛸石 とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷 、重量は約108tと推定される。向かって左手の巨石は振袖石 とよばれ、表面積はおよそ33畳敷 で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は明治維新の大火で焼失した。

●秀頼・淀殿ら自刃の地(山里丸内)
大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀君が、山里丸にあった櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えている。それに因んで、1997年山里丸の一画に大阪市の手により記念碑が建てられた。

●極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が1583年に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約mの木造で、明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる1965年に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54m、幅約5.4mで、橋脚・主桁を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山) 本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

●青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された1620年ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、1945年の空装で再び大破した。1969年大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」 の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山) 本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

●京橋口枡形の巨石(城内2位)
京橋口枡形の内、京穹口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷にもなる城内第2の巨石 「肥後石」である。築城の名手加藤肥後守清正運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、 この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷の城内第7位の巨石である。

●京橋口
大阪城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは 「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、 研形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。

●筋鉄門跡
元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸) が築かれた。筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは館野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に朝野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。
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とりとめのない話し(その23)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の崎までの上町台地観光ルート続き(その4)

大阪城には重要文化財いがいにも、たくさんの歴史的な碑や観光施設、観光スポットがある。重要文化財を確認しながら、訪れてみよう。

まずは
①大手門を潜り、左右に②大手門南方塀③大手門北方塀がある。そして3つ並ぶ●大手門枡形の巨石④多聞櫓北方塀、⑤多聞櫓を潜る。
そして
●西の丸庭園の入園料を払って、庭園に入ると
⑥千貫櫓(城郭)⑦乾櫓(城郭)、●大阪迎賓館、⑧焔硝蔵(火薬庫)●豊松庵●西の丸の北仕切門(内側)がある。ぐるりと回って庭園を出る。
そして
●石山本願寺推定地の碑、⑨六番櫓(城郭)⑩一番櫓(城郭)、●玉造口定番屋敷跡、●蓮如上人袈裟懸けの松、●豊國神社をぐるりと通る。
そして
いよいよ⑪桜門を潜り、大阪城本丸に入ると、●桜門枡形の巨石(蛸石)がある。
そして
御殿跡地は広場になっているが、その片隅に●ミライザ大阪城(旧陸軍第四師団司令部庁舎)、⑫金蔵(江戸幕府の金庫)、●豊臣石垣館などが立ち並んでいる。
そして
天守台には⑬金明水井戸屋形、●号砲が残されており、⑭大阪城天守閣に到着する。大阪城の重要文化財はここで終わる。
そして
大阪城天守閣を出て、●残念石を通り、大阪城天守閣の石垣をぐるりと回ると、●石垣爆撃被害跡がある。
山里丸の方に向かうと●隠し曲輪がある。そして山里丸に入ると●大阪空襲機銃掃射痕●刻印石広場●秀頼・淀殿ら自刃の地があり、そして、●極楽橋を渡り、本丸を出る。
それから
大阪城公園方面を行くには●青屋門を潜るが、青屋門には向かわず、京橋口へ向かうと●西の丸の北仕切門(外側)●多聞櫓跡の京橋門枡形の巨石(肥後石)があり、そして●京橋門跡を出る。

重要文化財いがいのスポットまとめ
(丸数字は写真の順を示す)
①大阪城観光スポットの地図
●②大手門枡形の巨石(城内4位5位8位並ぶ)
●西の丸庭園(大坂城代の御屋敷跡地)
●③大阪迎賓館 (西の丸庭園内にある二条城に模したレストラン、結婚式場)
●④豊松庵(西の丸庭園内にある松下幸之助寄贈の茶屋)
●西の丸の北仕切門(模擬復興建築)
●石山本願寺推定地の碑(石山合戦図による)
●玉造口定番屋敷跡(守衛した大名の屋敷跡)
●蓮如上人袈裟懸けの松(石山本願寺の僧侶)
●⑤豊國神社(豊臣秀吉を祀る京都の別社)
●⑥桜門枡形の巨石(蛸石、城内1位)
●⑦ミライザ大阪城(複合施設)
●⑧豊臣石垣館(豊臣時代の石垣を展示)
●号砲(明治時代、正午を知らせた号砲)
●残念石(大阪城修復に使われなかった石)
●石垣爆撃被害跡(天守台の太平洋戦禍跡)
●隠し曲輪(兵士を隠した場所)
●大阪空襲機銃掃射痕(山里丸内の石垣の太平洋戦禍跡)
●刻印石広場(出土した江戸時代に各地から持ち込まれた刻印石を集めた広場)
●秀頼・淀殿ら自刃の地(山里丸内)
●極楽橋(豊臣時代は屋根あり)
●青屋門(模擬復興建築)
●⑨京橋口枡形の巨石、城内2位)
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とりとめない話しの続き(その21)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の崎までの上町台地観光ルート続き(その2)

A 仁徳天皇高津宮址 碑
明治32年大阪市が仁徳天皇1500年祭を行うにあたり、大阪府立高津高等学校に仮説的に高津宮跡とした。

B 真田丸跡
2016年大阪明星学園のテニスコート東側に「真田丸顕彰碑」が建てられた。最近の調査で敷地付近と推定されている。大坂夏の陣で徳川に埋められた大阪城の空堀付近に空堀通りという道路名称がある。

C 心眼寺
寺紋は真田家の家紋と同じ六文銭である。1592年頃に創建されたが、大坂冬の陣で真田丸として整備した際に取り込まれ、終結後に真田丸とともに破壊された後、1622年信繁と子の大助の菩提を弔うため再建された。入口に出丸城跡の碑がある。

D 三光神社
大坂城から真田丸まで掘ったとされる抜け穴が社殿の下に残っている。しかしながら、現在残っている抜け穴は真田信繁が造ったものではなく、真田丸を攻めた前田利常軍の塹壕の痕跡の可能性も指摘されている。大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)に描かれた真田信繁を元にした像がある。

E 玉造稲荷神社
紀元前12年、垂仁天皇によって創建された。大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。豊臣時代に続き、徳川時代も大坂城の鎮守とされた。玉造の地名は古代、勾玉などを作っていた玉作から玉造となったとされ、創祀二千年を記念して境内に難波・玉造資料館が開館した。

F 難波宮遺跡
難波高津宮
古墳時代の法円坂遺跡 倉庫群が見つかり、この辺りの難波堀江(人工運河)開削と難波津(王権の港)の関連遺跡ではないかとされている。
313年即位元年、仁徳天皇は、都を大伴氏などが本拠を置いていた難波の上町台地、難波高津宮に遷した。

前期難波宮(難波長柄豊碕宮)
1958年、焼けた宮室の柱跡及び1960年、廻廊跡を発見。孝徳天皇が651年に遷都。654年、孝徳帝の没後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮に遷宮された。

後期難波宮
1957年、廻廊跡及び1961年、聖武天皇時代の大極殿跡を発見。726年に聖武天皇が平城京の副都とした。その後、平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、744年に難波京への再遷都。745年に難波京から紫香楽宮への遷都が正式に発表された。
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とりとめない話しの続き(その20)

天王寺駅から 大阪夏の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、大阪天満宮の難波の碕までの歴史的な上町台地の徒歩観光ルートを考えてみた。

上町台地観光ルート(その1)

A 茶臼山 大阪夏の陣真田信繁(幸村)本陣跡
夏の陣(1615)では天王寺の戦いで茶臼山に真田信繁(幸村)が陣を置き、真隣である一心寺周辺にいた徳川家康とは至近距離でにらみ合い、激戦となって、家康は真田信繁(幸村)に追い詰められ、その時に家康を救ったと伝わる「きりふりの松」が今も境内に残っている。

B 一心寺 大阪冬の陣 徳川家康本陣跡
大坂冬の陣(1614)においては茶臼山と一心寺周辺に徳川家康が本陣をおいた。

C 安居神社 真田信繁(幸村)戦死跡之碑
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の時、この地で真田信繁(幸村)が討死したとされる。

D 四天王寺 聖徳太子創建の寺
600年頃から上町台地(難波)に聖徳太子により創建されたとされる。960年に全焼、石山合戦時及び大阪夏の陣時にも全焼している。法隆寺と違って、歴史的な古いものはほとんど残っていない。

E 生國魂神社
神武天皇が即位前、東征の際に摂津国難波碕(上町台地)に日本列島の神(生島大神・足島大神)を鎮祭したのが創建。
大坂本願寺に付近で繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在の地に遷座されている。

F 高津宮
貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、上町台地北部の石山の地に社殿を築いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築城する際、現在地へ遷座した。

その(2)へ続く
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歴史のとりとめない話し(その19)

大阪城の秘密を知ってますか?

ロンブーの敦がアップした問いと回答がある。

1枚目は、「大阪城は誰が建てたの?」
2枚目は、「豊臣ではなく徳川」

インスタグラムにアップした全文
「大阪城の秘密 大阪城は誰が建てたの? みんな豊臣秀吉と言うのだけれど わたしは知ってるよ 建てたのは徳川家康なの(正確には徳川秀忠だよ)勘違いしてる人が多いのだれど 豊臣の大阪城の上に徳川の大阪城を建てたのよ「 豊臣ではなく徳川」 覚えておいて」

敦も歴史好きタレントで有名だけと、本当の歴史好きなら、その回答はもう少し違って答えるはずだ。

正確には「焼失した徳川の天守台に豊臣の大坂城を建てたのよ「徳川ではなく豊臣」覚えておいて」である。

豊臣も徳川も大坂城は建てているが、焼失している。では今の大阪城は誰が建てたのかってというと「坂」ではなく「阪」なので、そういう「トンチ」なのか?

豊臣秀吉の大坂城の天守閣は真壁の黒っぽい外観で、最上階は「二間四方」の八畳程度の正方形で、設計されていたのでは無いかと言われている。そして、大坂の城下町を見渡せる廻廊付きの最上階だ。

なので、徳川の大坂城に廻廊は無いので、現在の大坂城は明らかに豊臣期の大坂城だ。

3枚目は、豊臣秀吉の大坂城図屏風
4枚目は、その復元模型

しかしながら、現在の大坂城とは何故か少し違う印象を受ける。では、現在の大阪城は、誰が建てた大阪城なのか?

ロイス・フロイスによると1596年、慶長伏見地震で、豊臣秀吉の大坂城は倒壊したと伝えられている。1615年に焼失した天守閣は豊臣秀頼が再建した天守閣では無いかということになる。

5枚目は、大坂夏の陣図屏風の大坂城
6枚目は、1931年完成当初の大阪城

1931年建設当初は銅屋根だったため、黒い屋根で風格があった。現在は青緑に変色し、落ち着いた印象を持つ。それから94年の歳月が経ている。まさに戦火を乗り越えた歴史ある素晴らしい天守閣だ。
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歴史のとりとめない話し(その18)

現在の大阪城は誰が建てた大坂城の復興天守閣なのか?(その2)

大坂城も江戸城もそれぞれ、3代の城があり、大坂城のみが奇跡的に戦争をかいくぐるなか、生き残った。

①1代目の大坂城 豊臣秀吉
豊臣大坂城の天守閣は、真壁の黒っぽい外観(漆黒の下見板張り)で、最上階は「二間四方」の八畳程度の正方形で、設計されていたのでは無いかとされている。そして、大坂の城下町を見渡せる廻廊付きの最上階だ。
1枚目は、豊臣秀吉の大坂城の模型

②2代目の大坂城 徳川秀忠
徳川大阪城の天守閣は、廻廊が無い天守閣が特徴的で、大坂城代の大名の城だ。大壁の白っぽい外観、大屋根は銅瓦で青緑に変色し、下屋は黒い本瓦だったらしい。
2枚目は、徳川秀忠の大坂城の復元CG画像

③3代目の大坂城 現在の大阪城
建設当初は、黒い屋根だったので、威風堂々としていた印象だ。屋根は銅瓦のため、現在は青緑に変色しているが、それもまた歴史をかんじることが出来る。
3枚目は、今現在の大阪城
4枚目は、建設当初の大阪城のCG画像
5枚目は、建設当初の大阪城の写真
6枚目は、戦時中に被災した大阪城

現在の大阪城は、豊臣秀吉の下見板張りの黒っぽい外観をSRC造で再現しても模擬天守感が出過ぎるので、風格や威風が出ない可能性を考え、直接見えない最上階だけ黒っぽい意匠にしたのかも知れない。

④1代目の江戸城 徳川家康
大壁の白っぽい外観で、屋根は鉛瓦で白く変色していたとされる。
7枚目は、徳川家康の江戸城の復元CG画像

⑤2代目の江戸城 徳川秀忠
大壁の白っぽい外観で、徳川大坂城と同様の外観をしていた。
8枚目は、徳川秀忠の江戸城の復元CG画像

⑥3代目の江戸城 徳川家光
外観は漆黒の下見板張りで、屋根は銅瓦で青緑に変色していた。
9枚目は、徳川家光の江戸城の復元CG画像

大坂城や江戸城の場合、その時代の城主によるそれぞれの城の外観となるので、完全再現ではない模擬天守の場合、そのまま再現する必要はなかったのかもしれない。
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歴史のとりとめない話し(その17)

現在の大阪城は誰が建てた大坂城の復興天守閣なのか?

1枚目は、現在の大阪城の復興天守閣(軒側)
2枚目は、現在の大阪城の設計図(軒側)
3枚目は、現在の大阪城の復興天守閣(妻側)
4枚目は、現在の大阪城の設計図(妻側)

5枚目は、豊臣秀吉の大阪城の模型「よく大河ドラマに出てくる黒壁のきらびやかな天守閣」
6枚目は、大坂夏の陣図屏風
7枚目は、大坂城図屏風

この天守閣のイメージをすると現在の大阪城は豊臣期の大阪城ではないとイメージしてしまって、徳川時代の天守閣では無いかと勘違いしてしまうのも当然だ。

8枚目は、徳川の大坂城の設計図(妻側)
(徳川の大坂城は最上階に廻廊が無い)

1代目の天守閣は、1583年〜1598年、羽柴秀吉が大坂本願寺あとに大坂城を築いた。1615年落城により焼失。約17年間(豊臣は黒っぽい真壁の外観)

2代目の天守閣は、1620年〜1629年徳川秀忠が豊臣時代の石積みを埋め立て築造した。1665年に焼失。約39年間(徳川は白っぽい大壁の外観)

そして、3代目の天守閣は1931年竣工。外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に、大阪市土木局建築課の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が建設し、現存する日本最古のSRC造となった。

1934年発掘調査で、豊臣期の埋められた石積みを発掘。1935年徳川幕府の京都大工頭だった中井家で、豊臣時代の「大坂城本丸図」が発見され、豊臣時代の遺構であると確定し、豊臣期の天守台の位置が現在と全く違った場所であることが発覚した。

9枚目は、大坂城本丸図

現在の大阪城の城郭周辺には、徳川期の遺構しか残っておらず、徳川期の天守台に白っぽい外観で建てたので、徳川色が強く感じるのは否めないが、最上階に廻廊を設置し、豊臣期の大坂夏の陣図屏風を参考に外観を整えているので豊臣期の大坂城で間違いない。
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歴史のとりとめない話し(その16)

大阪城が建つ上町台地にある「難波の碕」は、歴史的に重要な変遷を経ている凄い所で、非常に興味深いところだ。難波の宮跡から大阪城の遺跡や石山本願寺の遺跡など多数発掘されている。

「難波の碕」には、神武東征以前より創建され、日本列島の神が祀られている生國魂神社があった。現在地に移転。

神武天皇が東征時に「難波の碕」に上陸し、河内湖を渡り、大和の橿原に奠都している。日本統治の足掛かりとなったゆかりの地とも言える。

1枚目は、古墳時代の難波の碕の地図
2枚目は、神武天皇が降り立った難波の碕の碑
(所在地:大阪天満宮敷地内)

神功皇后の三韓征伐をきっかけに仁徳天皇は、百済王氏族を難波(百済郡)に迎え、仁徳天皇は難波堀江や茨田の堤などの治水工事を行い、皇居を難波高津の宮に移している。

3枚目は、高津宮神社の隣りの大阪府立高津高校敷地内の高津宮地碑

645年大化の改新以後、難波の宮に遷都し、副都として、116年続いた。その間に白村江の戦いに敗戦し、百済が滅亡している。

難波の宮は、その百済系渡来人の技術により初めて中国様式の礎石、瓦屋根で作られた。

4枚目は、難波の宮跡地の碑
5枚目は、難波の宮の模型

1533年頃、上町台地に石山本願寺に本山を移した。

6枚目は、大阪城内の石山本願寺推定地碑
7枚目は、石山本願寺の復元模型

1570年、織田信長との石山合戦により石山本願寺が敗北し、本願寺の変後に豊臣秀吉が大阪城を建て、天下を取っている。

8枚目は、石山合戦の地図

1614年、徳川家康は、大坂の陣により豊臣秀頼を倒し、天下を取っている。

9枚目は、大坂の陣の地図

1868年、大政奉還後、鳥羽伏見の戦いの敗戦を知り、大阪城から江戸城へ脱出し、江戸幕府の幕が閉じた。

以上が大阪城がある上町台地「難波の碕」の変遷です。

ちなみに「難波の碕」の碑がある大坂天満宮の場所は仁徳天皇の難波堀江の治水工事で、上町台地と分断されているが、以前は陸続きであった可能性が高い。
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歴史の話しの続き(その15)

韓国旅行&歴史の話しからうって変わるが3月23(土)突然暖かくなったので、大阪城に行ってみました。

旅行の醍醐味は歴史とグルメじゃないかと個人的には思う。

ちょっと高くても、美味しそうな店を探し、ご当地グルメを食す。またご当地食材を買って帰る。旅行の満足度が増すような気がする。

住まいの近くの観光スポットなら、歴史を巡り、歴史を知って、また巡りたくなる。

過去の統合などで、調べた歴史的な地名を色々と頭に入れて行くと、今まで素通りしていた地名がいつか寄ってみたいと思う地名に変わっている。

今回は住まいの近くの大阪城に久々にゆっくり行ってみました。あらためて大阪城の壮大さを実感することとなりました。

まだ、ちょっと大阪城の梅林の梅の花は満開では無かったですが、多くの方々が訪れていました。

1枚目は大阪城観光マップ
2枚目は大阪城観光マップの拡大図
3枚目は大阪城の外堀の石垣
4枚目は昼の大阪城
5枚目は梅の花と大阪城
6枚目は夕暮れの大阪城
7枚目は豊臣時代の大阪城の模型
8枚目は豊国神社と豊臣秀吉の像
9枚目は旧陸軍第四師団 司令部庁舎

大阪城って、やっぱりイイね
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歴史の話しの続き(その14)

日本と日韓交流の歴史を何となく羅列して見た。歴史を振り返ると、なんやかんやあって、今が1番良い関係なのかも?って思いますね。

①3世紀頃 神功皇后による三韓征伐
6世紀中頃 天智天皇時代 白村江の戦いで大敗し、新羅が半島を統一する。
②1600年頃 豊臣秀吉による朝鮮出兵し大敗する。その後、江戸幕府と国交樹立。
1630年代 中国、韓国、日本鎖国。
1868年 日本、明治維新
③1873年 日本で西郷隆盛ら征韓論(武力で朝鮮を開国しようという考え方)で盛り上がる。
日本が日清戦争に勝利し、1897年大韓帝国として、清から韓国を独立させる。
④1910年 伊藤博文暗殺された後、日韓併合。
1945年 日本が太平洋戦争敗北により、韓国が分裂する。
1960年代 日韓基本条約 5億ドル提供により「漢江の奇跡」と言われる経済成長を遂げる。
⑤2002年 日韓ワールドカップ共同開催
2003から韓流ブームが始める。
⑥第1次 「冬のソナタ」ペ・ヨンジュンとチェ・ジュウの主演ドラマ
⑦第2次 東方神起 と少女時代
⑧第3次 BTSとTWICEと韓国グルメ・コスメ
⑨第4次 Netflixで大ヒット「愛の不時着」「梨泰院クラス」、K-POPが乱立。
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