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🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その17)
大坂の商業の中心は「船場」周辺にあった。 1598年に秀吉の大坂城工事に伴い、1592年北御堂(津村別院)が建立され、1605年南御堂(難波別院)が建立された。この両御堂の前に道が整備された。この道がこの時開発された新市街地の西端にあたり、これを両御堂の前にあることから「御堂筋」と称された。
「大阪商人」は、この御堂筋付近を商都として、多くの商人を輩出した。江戸時代に両替商で財を成したが明治維新に没落した「淀屋」は淀屋橋にあり、酒造で財を成したのち、新田の開発や両替商で財をなした「鴻池」は北浜にあり、鉱山開発や両替商で財を成したのち、現在もグループ形成している「住友」も淀屋橋に住友村と呼ばれる企業群を形成し、独自に発展した。
また、「浄土真宗」を信仰している人が多かった近江商人もこの「北御堂」と「南御堂」に近い中央区船場に多く軒を連ねた。「近江商人」は呉服問屋など繊維関係の商家が多かったので、その歴史が色濃く残っている。その代表的な「近江商人」は、「伊藤忠商事」や「丸紅」である。また、「大阪商人」の中でも特徴的だった船場の繊維問屋の商人群を「船場商家」と呼ばれるようになった。
●船場商家
大坂に商業が発展すると全国各地から商人が集まり、なかでも商人の代表的な存在として「近江商人」も多くいた。江戸時代を通じて、近江商人は全国的に活躍するが特に商業の中心である大坂でも近江商人が大活躍をしていた。今でも船場は繊維の町として知られ、江戸時代以来呉服類を扱っていた人々が残っている。この呉服類を扱う人たちの多くは「近江商人」であった。
「大坂商人」の初代は、それぞれの出身地の習慣を守り、船場を中心に商売を始めた。「近江商人」も例外ではなかった。近江の地は、蓮如上人以来、「浄土真宗」の盛んな地の1つとして知られており、近江出身の「大坂商人」たちは、故郷の「浄土真宗」の感覚を身につけていた。このため、大坂においても、東西本願寺の御坊の近くに集まり、商業に従事した。「南北御堂」の前に広がる「船場商家」の人々は、大坂の中でもひときわ壮大な屋根を誇る御堂の見えるところに家を持ち、そこで商いをすることを理想とした。
また「浄土真宗」が「大坂商人」の「船場商家」に浸透している1つとして「相愛学園」がある。現在の相愛学園は、明治21年(1888年)に「相愛女学校」として津村別院の境内において創立され、女子学校が創設された。目的の一つとして、別院の前にある船場の子女の教養を育成することであった。近江商人の大坂の船場商家の間でも、「浄土真宗」が生活に深く関与していた。
●大坂商人
1584年豊臣秀吉が大阪城築城の際、城下町に伏見や近江から商人を連れて来たのが始まりとされる。「船場商家」もその1つ。総合商社で有名な「伊藤忠商事」や「丸紅」の源流は「近江商人」とされるが、大阪の船場で「紅忠」として創業し、発展していった。松下幸之助は和歌山で、大丸は京都なので、大坂商人と言っても、源流は色々な地域の商人の出身である印象が強い。
大阪市中央区道修町に戦火を逃れた「船場商家 」「旧小西家住宅」や鴻池財閥が管理していた「鴻池新田会所」などがその名残りを残している。また淀屋橋を架けたとされる豪商の「淀屋の屋敷跡」の碑が残されている。
〇主な大坂商人
淀屋 - 材木商だった初代・常安が中之島を開く。2代目・三郎右衛門は米市を開いて諸藩の蔵米の販売を一手に引き受け、また、両替屋や廻船問屋なども手掛けた。5代目・三郎右衛門の時に闕所・所払とされた。
安井道卜 - 成安道頓らと共に道頓堀川を開削する。道頓堀沿いに芝居小屋を設置し、道頓堀が大坂ミナミの中心となるきっかけを作った。
鴻池家 - 酒造業に始まり、海運業や両替業に進出した。
天王寺屋五兵衛 - 両替商。
住友家 - 製銅業や銅山経営を行う。
三井家 - 伊勢国松坂発祥(伊勢商人。源流は近江商人)。呉服業や両替為替業を行い、京都・江戸・大坂に店を持った。
下村彦右衛門 - 呉服店の大丸を創業。
●北御堂
本願寺津村別院。大阪市中央区本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。本山西本願寺の別院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。通称は北御堂と呼ばれる。
住職は浄土真宗本願寺派門主が兼ねるが、別院輪番が置かれて実務を主管している。浄土真宗本願寺派の大阪教区教務所が併設されているが、教務所長は津村別院の副輪番である。
別院名の「津村」とは戦国時代に見られる摂津国西成郡の郷名で、入り江であった古代の円江から転じたといわれる。船場が市街化された後も、1872年(明治5年)まで当院北に位置する御霊神社にかけての町名は津村南之町(当院北側の備後町通沿い)となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂と南御堂(真宗大谷派難波別院)の門前を通る道であることに由来する。
天満にあった天満本願寺が京都の堀川六条に寺基を移した後(西本願寺)、大坂の門徒たちにより天正20年(1592年)に楼の岸(ろうのきし、現・中央区天満橋京町の八軒家浜近辺)に集会所が設けられた。これが津村別院の始まりである。集会所は慶長2年(1597年)に津村とも円江とも呼ばれていた当地に移転すると、津村御坊に名称を改め慶長10年(1605年)に本堂が建立された。
●南御堂
真宗大谷派難波別院。大阪市中央区久太郎町にある真宗大谷派の寺院。本山東本願寺の別院。本尊は阿弥陀如来。通称は南御堂。
真宗大谷派の大阪教区教務所、教化センターが併設され、大阪府堺市堺区櫛屋町東4丁にある真宗大谷派堺別院(堺南御坊)を支院とする。
別院名の難波とは摂津国西成郡上難波村の旧地であったことに由来する。船場が市街化された後も、1872年(明治5年)まで当院南に位置する難波神社にかけて上難波町という町名となり、以降、1914年(大正3年)まで当院南西部を含む北部が上難波北之町となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂(本願寺津村別院)と南御堂の門前を通る道であることに由来する。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より寺地を寄進され、教如が道修谷(現:大阪市中央区道修町1丁目付近)の地に大谷本願寺を開創したという。翌文禄5年(1596年)6月には「大谷本願寺 文禄丙申五暦」銘の梵鐘(現存)が鋳造されている。慶長3年(1598年)8月、大坂城三の丸造営に伴う船場の街区拡充のため、大谷本願寺は現在地へ移転する。しかし、慶長7年(1602年)に徳川家康より京都に寺地を寄進されると、大谷本願寺は京都烏丸六条へ移転して東本願寺となったという。その大谷本願寺の跡地に難波御堂が造営されたとしている。正徳4年(1714年)に二重屋根の壮大な本堂となる。現在の東本願寺御影堂は、この難波御堂の本堂を参考にしたとされている。太平洋戦争中の1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲で全焼している。1960年(昭和35年)5月、本堂が鉄筋コンクリート構造で規模も縮小されたが、二重屋根の様式を留めて再建され、翌1961年(昭和36年)には山門を兼ねた御堂会館が完成する。









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