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🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その11)
南部藩を支えた「高島商人」は「高島南市」の「五箇商人」を発祥としている。室町時代後半から北前船に到着した荷を小浜や若狭から九里半街道や七里半街道を通り、輸送していた。その交差に位置した湖西の南市の周辺が発展したのが発祥とされる。
室町時代後期、北前船の荷を琵琶湖の今津港から湖東の港へ送っていた販路が発達し、土地の特色を生かした「高島南市」で、商人群を形成していた。戦国時代以降、輸送手段の発達により土地の利点を生かした特色が無くなったため、大溝藩の経済状況は厳しく、大溝陣屋周辺も含め高島地域は大溝藩とともに廃れていった。
他の近江商人の多くは、大坂や京都へ販路を拡大し、郷里とともに繊維や呉服問屋などに発展していった点で大きく異なっている。その要因の背景にあるものは、高島商人は主に海の物産を扱った商品が多く、輸送手段の発達により琵琶湖水運を利用した販路が衰退した点が大きい。
戦国時代、若狭や小浜などの北前船の販路であった北奥羽に詳しかった高島商人は、郷里を捨て、岩手県盛岡市の南部藩に活路を見いだした。鷹買商人の田中清六が豊臣秀吉や徳川家康と諸大名との交渉役として、北奥羽で活躍したのも北海道や東北への進出に関係していたとされる。特に南部藩と関係が深く、南部藩との関係は田中清六の紹介によるものとされる。
湖東沿岸の「五箇商人」であった「薩摩」「田中江」も同じく「四本商人」に販路を奪われ、郷里を捨て両浜組(彦根の薩摩・柳川と近江八幡の田中江)として、北海道(蝦夷地)の松前藩に活路を見いだしていた。
●北前船
江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。当初は近江商人が主導権を握っていたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになる。上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路(西廻海運)の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
畿内に至る水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で難波津に至る内陸水運ルートも存在していた。この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、畿内が経済だけでなく政治的にも日本の中心地となった室町時代以降、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となった。
●盛岡藩
陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、現在の岩手県中部を地盤に青森県東部から秋田県北東部にかけての地域を治めた藩。藩主が南部氏だったため南部藩とも呼ばれる。居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。
●松前藩
松前島(夷島)松前(渡島国津軽郡を経て現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前家であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年(1868年)、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。
●田中 正長(清六)
戦国時代後期から江戸時代初期の商人。通称は清六。士農工商の身分が流動的な時代にあって、いわば「代官的豪商」、あるいは「豪商代官」として活躍した。豊臣秀吉、徳川家康とも密接な関係を持ち、徳川時代には一時は佐渡金山の代官を務めた。
正長は近江国高島郡田中下城村において、富商とされる父・弥左衛門のもとに生まれる。幼名は石松。6歳で母と離別、9歳で京都の法然寺に修行に出され、12歳で父が自害するなど幼少時はきわめて不遇であった。
しかし正長は田中吉政の一族とも伝えられ、その縁か、豊臣秀吉の知遇を得て近江国八幡山の留守居となるなど、早くから実力を認められた。その後、豊臣氏の全国政権化に伴い、畿内文化の担い手として奥州の地に鷹買商人して進出し、実力を蓄えたとみられる。特に奥州北部は名鷹の産地として有名で、頻繁に訪れては中央に鷹を運んでいたようであるが、その際に秀吉の意を受けて諸国を巡行し、情報収集や諸勢力への工作などにも従事する隠密的な役割をも担っていたと思われる。特に南部氏との接点は密であり、南部氏と中央政権との交渉の一端を担っていた記録が残っている。
慶長以降、豊臣氏に代わり徳川家康が中央権力を掌握すると徳川氏との関係を深め、関ヶ原の戦いに先立ち諸大名への交渉の使者となるなど、非常に重要な役割を果たした。1601年関ヶ原での働きの恩賞として佐渡金山の奉行の一人に任じられたが、2年後の1603年同僚の奉行が重税を課したことにより、領民が幕府に出訴し奉行を弾劾した事件に連座、奉行役を免じられた。
その後は敦賀に商売の拠点を置き、諸役御免の廻船商人として日本海側の海運に重要な役割を果たす。晩年は京都に隠棲、剃髪して常秀と号したという。1614年大坂の陣を前にして没した。正妻はなかったが息子が2人おり、長男の正繁は二代清六を襲名した。次男は出家し、清水寺宝性院僧都の宗親となった。
●高島商人
中世の五箇商人の高島南市の商人が高島商人の発祥。その後高島商人は、東北や北海道で活躍する。戦国時代、織田信澄による大溝城の城下整備が行われた際、東北や北海道と商いをしていた商人が招かれたことによる。武士から商人に転身した村井新七、そしてその新七を頼って東北に行った小野組の祖、小野権兵衛、さらには高島屋の創始者飯田新七などが有名。
〇小野組
小野家は初代新四郎則秀が江州高島郡大溝(滋賀県高島市)で、陸羽の物産と上方の物産を交易していたとされる。
1662-63年ころ次男の主元が盛岡に下り、近江屋を開業し、村井権兵衛を名乗った。盛岡は、1615年頃に盛岡城が完成し城下町が建設されると他領の商人が続々と入ってきて領内の商業活動を牛耳っていた。権兵衛も同郷の近江商人を頼りに盛岡に入り、志和村で酒造業を始めて成功し、砂金を買い集めて京都に送っていた。
1871年(明治4年)の廃藩置県以後、三井・島田・小野三家の為替方は府県方と称し、三府七二県に支店。出張所を置き公金の収支に従事していた。
小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。
生糸取引は古河市兵衛(古河財閥)が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していたが、1872年(明治5年)、渋沢栄一の仲介によって、三井組と共同で「三井小野組合銀行」(第一国立銀行の前身、現在のみずほ銀行)を設立するが、三井組は独自に金融機関(三井銀行の前身、現在の三井住友銀行ほか)を設立、三井組は規模を拡大した。
小野組は、1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を凌駕し、三井組、島田組と並び豪商として名を馳せたが、明治新政府による官金預り金の担保に関する急激な規制強化に対応できず、1874年に破綻した。






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