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🌴たかし⛺
関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その19)
綿業は、三井、三菱などの財閥と並ぶ戦前期、日本の産業発展の柱で、「関西五綿」・「船場八社」と言われた時代があった。「関西五綿」の1つ目は東洋棉花で、1920年(大正9年)に三井物産棉花部から分社し、戦後はトーメンと呼ばれ、現在は豊田通商に吸収合併。2つ目は日本綿花で、戦後には日綿実業、略称ニチメンと呼ばれ、現在の双日という商社の一つの源流になった。3つ目が江商で、兼松に吸収合併。「関西五綿」の残る2社は、伊藤忠商事と丸紅は総合商社。
朝鮮戦争特需の反動不況後、関西の繊維商社「五綿八社」はどうなったか。「関西五綿」は持ちこたえたが、これらにたいして、「船場八社」のうち岩田商事は破綻。丸永と田附は、関西五綿の日綿実業(日本綿花から社名変更、現双日)と合併。竹村商店は帝人のグループ企業と合併。又一は金商と合併後、三菱商事の系列に。竹中は住友商事の系列に入った。豊島商店は親族の豊島半七の山一商店と合併し、豊島株式会社となった。
船場八社は敗戦後の綿業の斜陽産業化、とりわけ1954年(昭和29)の不況で大打撃を受け、船場に本社があるのは八木商店だけとなった。
●竹村商店
起源は京都市の竹村藤兵衛商店で、竹村清次郎が竹村商店を創り発展。彼は京都府の出口家に生まれ、幼少より竹村藤兵衛商店に奉公していた。この竹村藤兵衛商店を船場八社に含めれば、1869年(明治2)に八社の中では最も早く船場に綿花、綿糸、綿布を扱う支店を設置。
●岩田商事
創立者は岩田惣三郎。1843年尾張国(現愛知県)中島郡、今の一宮の辺りの生まれ。1874年(明治7)に大阪船場に出て、綿糸商として後で有名になる兄の常右衛門と一緒に綿糸布を販売し、1881年(明治14)に独立。北久太郎町で綿糸商を開業し阪神間を奔走。1918年、岩田商店は株式会社に改組。第一次大戦で綿糸価格が大きく変動した時期に、莫大な収益をあげたが1920年(大正9)の恐慌で、綿糸価格が短期間に1/3に暴落して中外綿業は破綻。惣三郎は浄土真宗大谷派の熱心な信者で、その関係を中心に多額の寄付をしている。
●丸永商店
源流は近江商人・不破家の分家不破栄次郎家で、本家と同じ呉服卸商。初代不破栄次郎は1882年(明治15)に近江国(現滋賀県)犬上郡彦根から大阪に出て東区北久太郎町に綿糸問屋の永楽屋不破糸店を開業。インド綿糸の取引から始め、その後東区内で店舗を移し繁栄を続け、栄次郎が東区南本町に店を構えていた頃、近隣に谷口房蔵が谷口綿布という店舗を構えた。この谷口は明治30年代に経営不振の紡績会社を吸収合併して大阪合同紡績を創業し、栄次郎は谷口と囲碁を通じて仲良くなり、1900年(明治33)頃から不破糸店は大阪合同紡績が製造する綿糸を一手販売し、初代栄次郎が死の間際に谷口に不破糸店の将来を託したところ、彼は支援を惜しまず、谷口の後援が不破糸店の発展の大きなきっかけとなった。
●田附商店
創立者、田附政次郎は近江国神崎郡の近江商人の五男。1884年(明治17)、姉婿の田附甚五郎の経営する大阪東区本町の呉服店を助け、1889年(明治22)に分家し、大阪市東区安土町に店舗を借り綿布商・田附商店を創設。その後、叔父伊藤忠兵衛の助言を容れ、1890年(明治23)に金巾製織(大坂紡に吸収され、後に東洋紡)に入社。1893年(明治26)、政次郎は岩田惣三郎と同じく大阪の三品取引所の前身機関の創設に関わり、それ以降、晩年まで三品取引所を舞台に綿糸投機の達人「田附将軍」として有名になった。金巾製織を一旦退職したが、1900年(明治33)、役員として復帰し、同社が大阪紡に合併された後の東洋紡の時代まで政次郎は紡織製造業に関係した。
1920年(大正9)の恐慌では田附商店も大きな打撃を被り、多くの損害を出したが、数年で克服して1930年代に業績を回復。この恐慌対策の一環として1921年(大正10)田附商店は個人商店から株式会社に改組。取扱品目も綿製品を中心としたが、新製品のレーヨン(人絹)の糸や織物、毛糸、そして加工度の高い綿製品などの繊維製品を扱った。
他方で日露戦争の終わり頃から第一次大戦前までに政次郎は多くの企業の設立、経営に関わった。その中には又一を経営する阿部一族の関係企業である金巾製織と並ぶ江商と東津農業があった。
京大医学部に50万円という当時では巨額の寄付をして、それで大阪市北区扇町に北野病院が設立された。
●豊島商店
初代豊島久七は、綿織物が盛んであった尾張国中島郡で輸入綿糸の販売に成功した二代目豊島半七の実弟。1885年(明治18)、二代目半七が亡くなり、16歳の長男が三代目半七を襲名し、叔父の初代久七の補佐により成長。1903年(明治36)、初代久七は大阪市東区で綿糸商の豊島商店を開業。三代目半七の弟の民三郎を養子に迎え、1913年(大正2)、民三郎が家督相続し、二代目久七を襲名。
第一次大戦頃まで豊島商店は綿糸の国内取引に専念し、外国への輸出には進出しなかった。1918年(大正7年)個人商店の豊島商店は資本金200万円で豊島商店に改組。二代目久七が社長となった。1928年(昭和3)には、愛知県の豊島一族と協同で設立。尾張一宮で繊維製品を扱っていた山一商店(1918年設立)など多くの企業に投資。大阪市会議員、大阪商工会議所常議員も務め、二代目は大阪の綿糸商同盟会や大阪綿布商同盟会といった団体の中心メンバーとなり、人を取り纏める才能も持ち得た。1841年初代豊島半七が「綿屋半七」の屋号で綿花の仲買を始め、1918年(大正7)6月、豊島半七糸店を改組。株式会社山一商店を設立。1942年(昭和17)7月には豊島商店を合併し、豊島株式会社となる。現在は愛知県名古屋市に主力拠点をおく、大手繊維商社。
●又一
近江三福の商家の1つである神崎郡能登川の阿部市郎兵衛家の商社。四代目阿部市太郎が基礎を築く。本家は阿部市郎兵衛家で、市太郎家は分家。元々は綿製品以外の商品をいろいろと扱っていた。
阿部市郎兵衛家と市太郎家とは表裏一体の関係で、初代市太郎は、五代目市郎兵衛の次男を婿養子にして二代目市太郎とし、両家は姻戚関係を通じて密接な関係を結ぶ。そして七代目市郎兵衛と二代目および三代目の市太郎は、幕末の開港以来、金巾と唐花(西洋紅)を取り扱い、明治に入ってからは五郎絹・絹五郎・福連などの毛織物と洋綛(機械で紡がれた麻糸)を盛んに輸入し、1881年(明治14)には朝鮮布の輸入も始めた。両家は1871年(明治4)に大阪市南本町に又二大坂支店を開設。1884年(明治17)には共同経営の大阪支店を解消し、大阪市南久太郎町に又一大阪支店を開業。三代目市太郎は金巾製織などの創立にも関係し、1884年、大阪市南久太郎町に独自に阿部市商店を創業。この阿部市商店の屋号が又一となる。三代目市太郎は千石船を使って瀬戸内海から日本海を経て北海道まで廻航し、米、にしん、肥料などを仕入れ、近江麻糸紡織社の経営にも力を入れた。
四代目市太郎は慶應義塾を卒業後、アメリカのコロンビア大学で学び、綿糸布の重要性にようやく気付き、阿部市商店はこれまで中心だった麻布の販売を1913年(大正2)に取りやめた。阿部一族はすでに金巾製織を経営しており、日露戦争後に同社は大阪紡績、三重紡績と共に朝鮮で金巾市場をめぐって激しく競争していた。こうした動きに合わせて阿部市商店は日露戦争ののち1906年(明治39年)、中国貿易を開始し、四代目はさらに朝鮮との貿易も拡大する。
第一次大戦の好況期に阿部市商店は国内取引よりもむしろ外国との取引、特に中国貿易に力を注いた。他方で、四代目市太郎は、関西五綿の1つである江商の最大株主になり、さらに社長に就任すると、次第に江商の経営に活動の重点を移し、阿部市商店の経営からは手を引いた。第一次大戦期、阿部市商店は積極的な拡大策をとったが、それは阿部尚二郎の主導によった。そして1920年(大正9)大恐慌が襲ったが、その時の経営責任者は阿部藤造でした。彼は滋賀県大津市出身の阿部同族の一人で、東大法学部を卒業後、内務官僚を務め、その後横浜生糸の棉花部に勤務したのち阿部市商店に入るが、阿部市商店は恐慌で大損失を出して事業の継続が困難になり、そこで商権を継承した第二会社が又一だった。又一では四代目市太郎は表に立たず、実際の責任者は阿部禎治郎専務が務め、藤造取締役が支えた。なお禎治郎は1873年(明治6年)神崎郡能登川村に生まれ、分家して東京商業学校を卒業。住友銀行に長く勤めたのち、又一に戻った。
又一は阿部市商店が潰れて、その代わりに創られた会社だったが、設立後は非常に業績が回復し、1920年代の不況期でも利益をあげており、経営は成功していた。1928年(昭和3)、四代目市太郎は病のため江商の社長の座を野瀬七郎平に譲り、1930年末に一旦又一の社長になったが、健康状態は良くなく、経営には関わらなかった。
●竹中商店
和歌山の名家であった竹中源助家が二代目の時、油商から両替商に転じ、さらに1882年(明治15)に綿糸商を兼ねるようになり、やがて綿糸取引専業となった。1907年(明治40)、三代目源助の時に大阪市東区北久太郎町に支店を設置し、彼が明治末に病没すると、婿養子の川口兵四郎が相続して四代目源助となった。まもなく第一次大戦の好況が到来し、その頃には綿糸を東洋紡績、摂津紡績、尼崎紡績などから仕入れて、販売先は内地向け6割、輸出4割になった。輸出先は朝鮮、満州、中国で、営業の主力は和歌山ではなく大阪支店となり、四代目は他の会社にも出資していた。竹中商店では明治末に和歌山商業学校を卒業して入社した有能な番頭の谷口嘉一郎が会社を支えた。
●八木商店
八木與三郎は、幕末の1865年京都市生まれ。父親は丹波から京都に出て雑穀商八木家の養子になり、後年米穀商として成功した。與三郎は幼時に父親の友達であった京都の松盛家の養嗣子となり、そこには馴染めず1880年(明治13)に家を出奔し、父親の弟、藤本清兵衛が営む大阪の米穀店で働き、10年勤務して支配人となった。一旦祖母の実弟である八木文之亟の養子となり、八木家に戻った。なお藤本清兵衛の息子・二代目清兵衛は藤本ビルブローカー銀行(現大和証券)を創った。
1893年(明治26)與三郎は初代清兵衛が亡くなって2年後、28歳の時に、藤本家から独立した番頭の藤本清七と提携して組合組織による小さな綿糸商の八木商店を大阪市東区に開業した。しかし商売がなかなか上手くいかず、藤本との組合は結局解散して独力で経営を続けた。八木商店には中野豊という有能な支配人がいて、他の綿糸商と一緒に神戸の商館に行き輸入綿糸の取引で活躍した話が残っている。しかし八木商店が発足した頃には、日本でも大阪紡績が成功し始め、1万錘規模の紡績工場が大阪を中心に出来て、大いに発展した。そこで八木商店の主な綿糸の仕入れ先も日本の紡績会社になり、最初の頃は主に泉州紡績、摂津紡績、大阪紡績などから綿糸を仕入れていた。
八木商店は1908年(明治41)綿糸だけではなく、紡績が作った広幅綿布も売買するようになり、最初に扱った問屋は八木商店だった。第一次大戦期に八木商店は飛躍的に発展し、1918年(大正7)、個人商店を株式会社組織とした。ところが1920年(大正9)の恐慌で八木商店は大きな打撃を受け、海外出張所を全て引き上げた。1931年(昭和6)末の金輸出再禁止以降、業績は顕著に回復した。



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