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🌴たかし⛺
大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その8)
前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(3)として、大坂城の焼失した櫓の案内板の内容を記載しました。
1枚目は、本丸三重櫓の位置を示した地図
2枚目ほ、本丸三重櫓の写真
3〜5枚目は、大阪城天守閣の徳川大坂城の復元模型の写真
複数の三重櫓が存在した城は、名古屋城をはじめ大坂城、江戸城、福山城(広島県福山市)、明石城(兵庫県明石市)など徳川幕府系の城を中心に、熊本城や岡山城などの大城郭に限られた。
そして徳川大坂城には12の三重櫓があった。そのうち、本丸の櫓は全て三重櫓で、11ヶ所も本丸に立ち並んでいた。明治維新の大火や太平洋戦争で、全て焼失している。二ノ丸の櫓の中で、唯一の三重櫓であった伏見櫓も太平洋戦争で焼失している。
●数寄屋前櫓
徳川幕府が再築した大坂城の本丸に建てられた11棟の三層櫓の内 「数寄屋前橋」と呼ばれる櫓がこの地にあった。本丸西側の北から 3番目の櫓で、本丸の石垣が西の丸方面へ最も突き出た個所に位置し、平面が片菱形という特殊な構造をしていた。 大坂具足奉行が管理し、鎧を中心とする武具類が保管されていたと推定される。「数寄屋前橋」という名称は、櫓の近くに数寄屋(茶室) が建てられていたことに由来する。明治維新の大火により、本丸の他の橋とともに焼失した。
●糒櫓跡
「糒櫓」は徳川幕府が再築した大坂城の本丸に建っていた三層櫓 11棟の内の1棟である。大坂蔵奉行が管理し、名称は、蒸した米粒を乾燥させた精 (干飯) がここに備蓄されていたことにちなむ。 窓は 26 あって本丸の三層櫓の中で最も多く、これは北東方面への眺望や監視に適していたことによるものだろう。明治維新の大火により糒櫓は他の本丸の櫓とともに焼失した。なお、この橋近くに生えていた松が江戸時代「豊臣秀頼生害の松」と呼ばれていたが、 これは豊臣秀頼が大坂夏の陣の際、城内の糒櫓で自害したとの考えが一般に広まったことを背景に生まれた伝説とみられる。
●月見櫓跡
ここには月見櫓と呼ばれる三層の隅櫓が建っていた。徳川幕府か再築した大坂城には本丸に11棟の三層櫓が築かれ、それぞれ備蓄用の武器武具や兵糧などが納められていたが、この月見櫓には鉄砲が保管され、大坂鉄砲奉行が維持管理にあたった。 明治維新の大火により本丸の他の櫓とともに焼失する。なお 「月見櫓」の名称は他の城郭にもみられ、もともとは兵士の到着を大将が確認する「着見」に由来するとされるが、江戸時代には、 月見をはじめとする眺望を意識した櫓の名として使われることが多かった。
●馬印櫓跡
徳川幕府が再築した大坂城の本丸には、石垣上に3層の橋が11 棟建っており、その内ここにあった櫓は「馬印櫓」と呼ばれていた。戦陣において大将の所在を示す標識を馬印といい、この中に徳川家康が大坂の陣で用いたとされる馬印が納められていた。 大坂城守衛の首班である大坂城代は在職中この馬印を拝見することを例とし、幕末に大坂城を訪れた十四代将軍徳川家茂もこの櫓に入って馬印を拝覧している。馬印櫓は明治維新の大火により、 他の本丸の櫓とともに焼失した。
●伏見櫓跡(二ノ丸内 京橋口定番屋敷跡 北側)
徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓の内、唯一3層だった櫓で (他の櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。付近の街道からのぞむ優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼した。





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