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🌴たかし⛺

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とりとめのない話し(その26)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その7)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(2)として、重要文化財いがいの大阪城内の主要な跡地や碑の案内板の内容を中心に列記しました。


●大手口枡形の巨石
枡形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、 敵の進入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口桝形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見付石は、表面積が約29畳敷 で城内第4位、左の大手二番石は約23畳敷 で第5位、右の大手三番石は約22畳敷 で第8位、いずれも採石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。

●西の丸庭園
古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び、秀吉没後、1599年には秀吉の正室「北の政所」 が一時住み、その後、1600年の関ヶ原合戦まで、徳川家康か移り住んだことが知られています。徳川時代に入り、1619年、内藤信正が初代の「大阪城代」となり、1620年すっかり築き直しました。その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交代で城の管理にあたりました。明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、1965年西の丸庭園として開園しました。

●南仕切門跡・太鼓櫓跡
二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる1628年に創建されたと考えられる。太鼓橋は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。ここには太鼓坊主とよばれる僧形 の役人が交替で詰め、彼らは香 をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らした。いずれの建物も1868年明治維新の大火によって焼失した。

●玉造口
大坂城の東南の出入口にあたる。ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代には大手口や京橋口と同様、石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓が建っていた。多聞櫓は1868年、明治維新の動乱にともなう大火によって焼失し、 その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により枡形が撤去された。 焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両脇の石組み以外は旧観をとどめていない。「玉造」の地名は古代にまでさかのぼり、古墳時代、勾玉・管玉など装飾用の石を作った技術者集団「玉造部」がこの南方に住んでいたと推定されている。

●蓮如上人袈裟懸けの松の碑
豊臣秀吉が大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗の本願寺第八世蓮如上人は坊舎をつくり(大坂御坊)、今は切り株だけになっているここの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。

●桜門枡形の巨石(城内1位)
桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた。この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった1624年、備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前 (岡山県)産の花崗岩が用いられている。正面の石は蛸石 とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷 、重量は約108tと推定される。向かって左手の巨石は振袖石 とよばれ、表面積はおよそ33畳敷 で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は明治維新の大火で焼失した。

●秀頼・淀殿ら自刃の地(山里丸内)
大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀君が、山里丸にあった櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えている。それに因んで、1997年山里丸の一画に大阪市の手により記念碑が建てられた。

●極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が1583年に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約mの木造で、明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる1965年に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54m、幅約5.4mで、橋脚・主桁を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山) 本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

●青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された1620年ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、1945年の空装で再び大破した。1969年大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」 の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山) 本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

●京橋口枡形の巨石(城内2位)
京橋口枡形の内、京穹口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷にもなる城内第2の巨石 「肥後石」である。築城の名手加藤肥後守清正運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、 この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷の城内第7位の巨石である。

●京橋口
大阪城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは 「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、 研形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。

●筋鉄門跡
元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大坂城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸) が築かれた。筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは館野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に朝野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。
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