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うつ病の星
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人は誰でもストレス溜まる、仕事や学校行きたくない時あると思います。
そんな時、自分気持ちを吐き出す場所として活用してほしいです。
そして1番は、うつ病患者さんの、愚痴や不安なんでも書くだけで、スッキリする時があります。そんな時に投稿してくださいね。
あと相談とかもしてくださいね(* ᴗ͈ˬᴗ͈)”
よろしくお願い致します。
惑星主 こじコジ
病み期の星
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つらい時、しんどい時来てね
病気と障がいの星
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皆さん初めまして
管理人のラピュタです
こちらの惑星についてですが
基本、自分の病気や障害について
つぶやいたり他の人に聞いてみたりなど可能です
自分のモチベーションのため
日記も書いてみんなにシェアをOKです
誹謗中傷など人を傷つける行為はNGです
一生懸命生きている人を応援したい
同じ悩みを持つ仲間がいてくれたら嬉しい
そんな惑星です
※何かこうして欲しいとか意見あったら
連絡お願いします※
なるべく居心地良くしたいので
よろしくお願いします
病み 鬱の星
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みんなの居場所です
自分に優しく、他人に優しく
ストレスは言語化して忘れちゃいましょう
病気と戦う星
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みんなで病気と向き合おう!
難病の星
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この星は自身が難病(確定診断・疑いを含む)やその他大病を抱えていたり、難病・病気でケアが必要な家族がいる方向けのコミュニティです💊
ひとえに難病といっても病気や症状は様々ですが情報交換をしたり、持病がありながら日々思うことをつぶやくなど、病気と闘いながら日々生活している皆さま同士で励ましあえたら嬉しいなと思います。
近頃は難病以外でも闘病生活を送る方々の参加が見受けられ、ご参加頂き感謝しております。
皆それぞれ異なる病気、環境下の中で頑張ってる方もゆっくり休養されてる方も、それぞれ少しでも気持ちが軽くなれたらいいなと思います。
心温まるハートフルな星になれるよう皆さんで目指しましょう✨
また、こちらの星に関して使い方などご意見ご要望がございましたら管理人までご連絡下さい。...なんて言ってもそんなガチガチに運営してないのでご気軽にどうぞ😊
病の星
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病の星です
病んでる人や持病のある方が主に入っています。入るだけでも大丈夫です♪
精神病の星
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心の内に秘めた感情を全て吐き出してしまいましょう。。
鬱病の星✨
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厨二病の星
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ーオマエにこの世界が救えるというのか?ー
ここは遠い宇宙の末端
これより先は闇が深い
気をつけて搭乗されよ
†さぁ、、存分に黒歴史を語るがいい†
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ゴブハニョ
りい
持病苦しくて怖くて眠れないなら言ってきなさいよ。気付いてるのよ?私。

🍀かるぴん🐼🧶
▪️犯疑余首領 ハンギョドン
(犯罪組織のボス)
▪️梨良っ熊 リラックマ
(ただ優しいくま)
▪️蹴路蹴路蹴路通秘 けろけろけろっぴ
(通った道を蹴り秘密の通路をつくるカエル)
▪️鬼手医 キティ
(鬼滅の刃に出てくる鬼の医者、ゴットハンドを使いどんなものでも治す医者)
▪️喰電堕魔 ぐでたま (闇堕ち)
(電気を喰らい堕落する生物)
▪️食手多舞 ぐてたま (ノーマル)
(手を合わせて食事をし、沢山食べたあとには舞ってしまう生物)
▪️実病苦実病苦 ミャクミャク
(実は病気を患ってて苦しい不思議な生物)
※実際のサンリオキャラクターとは関係がありません

わたり
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めんちかつ
苦悩からの解放とニヒリズムの根底
生きることがすべて苦悩ならば、それから解放されること、つまり死ぬことは苦しみからの離脱を意味し、本来は幸福なものとして考えられるべきです。
しかしながら、私たちの多くは死ぬことになんとなく嫌悪感や理不尽さを感じ、それを忌(い)み嫌い生きています。
現在、自分の中に経済的不安や、自分の健康に対する恐れがない人々は、その幸福を享受し、自分があたかも永遠に死なないかのような錯覚を覚えます。
ほとんどの人間にとって、幸福とは快楽と同義であり、さながらその精神的、身体的な快が永遠に続くのかの如く錯覚を覚えます。一つわかっていることは、私たちは必ず死ぬのであり、その意味ではどんな人生もむなしいし、さみしい、そうしたある種のニヒリズム、虚無主義が私たちの精神の根底にはいつもあります。
感情の他者への投影と「不幸」の忌避
宴会で酒を飲んでいるとき、自分が気持ちよく酔っているときに、仲間や同僚がその宴(うたげ)を楽しんでいる様子が感じられないとき、私たちは不快感を感じます。それはつまるところ、私たちはいつも自分の感情や内面を他者に投影させます。自分の今の感情は、他者も今感じているであろう気持ちに近い、もしくは同じようなものだと常に推測するのです。
うつ病の患者や、憂鬱質(ゆううつしつ)の人たちが忌(い)み嫌われるのは、ひとえにこの自分の気持ちの、他者への投影が原因です。私たちはいつも他者に、自分の気持ちを強制します。自分が悲しい時に他者が喜んでいると不快を感じますが、同時に自分が楽しんでいるときにそばにいる人が悲しんでいたり、憂鬱であったりすると、またこれに対しても不快を感じるのです。
呼吸と生:自発的な苦痛の選択としての自死
ところで、私たちはどんな時に死にたいと感じるのでしょうか。生と死はひとつとするならば、生きることはまさに死ぬことでもあります。たとえば私たちは生きているときに、ただ一度だけ呼吸を止めます。するとそれはたまらない苦しみであり、次に息を吸うまでその苦しみは続きます。
思うに水泳の得意な方は、息を止めるのが上手な方であり、生きることと死ぬこと、苦しみに耐えることのうまい人間だと察します。いつでもおぼれ死ぬことはできますし、呼吸を自由にできないのは苦しみでもあります。
人間というのは呼吸をしないだけでも死ぬ存在なのです。それゆえに、自分から死のうという方は自分から呼吸をしない人にその考え方は等しく、自ら生を断つ人は、自ら苦しみを求める人でもあります。
確かに死と、苦しみは同義ではありません。睡眠薬による自殺、飛び降りによる一瞬の自殺、前者はおそらくは薬物により死の苦しみから免(まぬが)れて死ぬことができる可能性がありますし、高い建物から飛び降りることは、おそらくは一瞬の苦しみを経(へ)るだけで、それはほかの死に方よりも楽な可能性もあります。
生のあり方は人それぞれです。そして、死に方も人それぞれ、多様性があります。ある人はこめかみに拳銃を当てて自殺し、ある人は薬物により死ぬ。そしてまた違う人は車が多く通る道路に身を投げて死にますし、高いところから飛び降りる人、水の中に入り溺死(できし)する人、あげればきりがないほど自殺の仕方はあります。しかし、先ほど申しあげたとおり、人間は呼吸を一度しないだけで死ぬことができる存在です。むしろ、生きているほうがおかしいくらい、それは誰でもわかります。
二つの自殺の動機:名誉のためか、自己の苦のためか
では人はどんな時に死にたいのでしょうか。一般的にわが国では自殺は尊い行為でした。一番有名なものは切腹であり、自分の名誉のため、あるいは大切な人、主君や家族の名を汚(けが)さないため、侍(さむらい)と呼ばれる人、もしくは帝国陸軍の軍人たちは、積極的に腹を切ったり、敵軍の中に万歳と飛び込み自決をしました。
これらの行為は現代を生きる私たちにはわかりにくいことかもしれません。なぜならば私たちは生き恥をさらすことよりも、無駄死にすることを恐(おそ)れるのであり、一般的に他者に対する名誉よりは、自分自身の人生や幸福を尊重します。
今の世の中で他者に対する、もしくは自分に対する名誉のための自殺は少ないかもしれません。しかし、自分が会社のために思うように仕事ができないから、人と比べて劣っているからとか、そういった理由で死ぬ方は多くいると思います。
自分の生よりも他者への名誉や、他者の幸福を優先するときに、人間は自分のためではなく、彼らのために積極的に死を選び取ります。それは基本的に昔も今も変わらないと感じます。
他方で、病苦による苦しみ、貧困ゆえの苦しみにより、積極的に死を選ぶ人もいます。これは徹頭徹尾(てっとうてつび)自分のための、自分を苦しみから守るための死であり、その理由はあきらかです。
無目的の自死と「幸福な人生」という幻想
では人は苦しみから逃れるときに自死を欲するのでしょうか。ただ他者に対する自己の評価とか、他人に対する名誉のためにだけ死ぬのでしょうか。私はもう一つ、無目的な自死があると思います。時たま、人生に何も悩みのないような小学生が自殺したとニュースが飛び込むことがあります。それを見て世間の人たちは
「生きていればよいことがあったのに。」
と口をそろえてつぶやきます。しかし、その良いことというのはいったい何でしょうか。ある人は結婚したり、子供を作って家族を持ったり、楽しいことはあるとおっしゃいます。しかしそれらの人生のできごとは、人生のイベントの一つであるだけでなく、苦しみの一形態に過ぎないと感じます。
生きていても、恋愛もできない、結婚もできない、結婚しても子供が産まれない、それは新たな内面的な苦しみであり、自分の幸福を他者や、あるいは財産とかにまかせるおろかな試(こころ)みであり、その行きつくさきは幸福でないこと、つまり不幸な人生です。
そもそも幸福な人生自体が存在するのか私は疑います。世間の人がおっしゃる幸福とは快楽の充足であり、その快楽が満たされないとき、またその人は不幸になる、もしくは不幸だと思い込むことになります。
自殺する小学生はこうした人間の欲望充足としての生活を看過(かんか)したのであり、死ぬことでしか解決策が見いだせないと悟ったのではないでしょうか。生きていて、呼吸ができないとき、それはその人にとってとてつもない苦痛です。
しかし人間にとっての本当の苦しみは、未来に対してあれこれ思案することです。
現状が不幸ならばこれから先もきっと不幸だと思いますし、感じます。それは幸福な人が将来的にも安堵する人生を歩めるだろうと予期することと同じです。
結び:死者への眼差しと生きる者の責務
自殺した人を見るとき、それはあわれみを感じるべきではないでしょう。むしろ死ななくてすんでいる自分の生をマシに思うべきです。願わくば、自死をしない、まわりの人を自死させない人生を過ごしたいものです。
#自殺の哲学 #ニヒリズム #実存の苦悩 #名誉と自死 #感情の投影


めんちかつ
1. 仏教における病苦の位置づけ
病苦は仏教の四苦の一つです。仏教の四苦とは生苦、老苦、病苦、死苦があります。それらは人間が人間として生存する以上は、避けられない苦しみと伝えられています。
実際に、多くの人が死ぬまでになんらかの病気を経験し、それにより苦しみ、あるものは途中で回復し、あるものはそのまま死んでいきます。
2. 病苦の多様性と深刻な精神の苦しみ
病苦は誰にとっても苦しみです。咳が出たり、熱が出たり、おなかが痛くなったり、あるいは精神をおかしくし、気が狂ってもだえ苦しみます。
人間は古来より病気の苦しみから逃れようと、薬を開発したり、病気を治そうと医師に頼ったりしました。
3. 老苦と病苦の差異:治癒の可能性
老苦が逃れられない苦しみだとして、病苦はそれがしばらくすると熱が下がったり、薬が効けば咳が止まったりします
がんと呼ばれる、昔はおそらく不治だった病も、手術によりその病巣を取り除くことにより治ったりします
老苦は一般的に逃れられない苦しみでありますが、病苦に関しては治ることもあるため、みな、病気にかかればそれを治そうとします。
4. 精神疾患の治療と「治らない病」の問題
では精神的な病についてはどうでしょうか。多くの人は、死ぬまでに憂鬱とか、一時的なアルコール依存などを経験します。病気の人とそうでない人の境目(さかいめ)は、それがずっと続くか、続かないかの差によります
うつ病はいくら心の風邪(かぜ)といっても、治らなければそれは深刻な病であり、一生うつ病の薬を飲み続けることになります。
風邪(かぜ)や気管支炎(きかんしえん)、肺炎(はいえん)が治るものとして治療されるのに対して、精神病は治らないものとして投薬や治療がなされます。
統合失調症に対して抗精神病薬(こうせいしんびょうやく)は幻覚や幻聴、妄想をおさえるものとして処方されますが、それを根本から治すものではありません。
同様に、てんかんを防ぐ抗てんかん薬はてんかん発作を防ぐために処方されますが、てんかん発作を二度と起こさないようにするための薬ではありません
5. 身体的な「治らない病」とその機能制限
治らない病気としては、脳梗塞(のうこうそく)や脳卒中(のうそっちゅう)などの脳血管障害があります。これらは飲酒や食事など、生活習慣により引き起こされるとの説もありますが、一般的にがんと同じでその人には何も抗(こう)する方法がなく、予期せず身体的な災難として起こります。
脳血管障害によって脳の一部が壊死(えし)し、欠損すると、それにより認知機能や言語機能、まひによる身体機能の不自由も起こります。
6. 病苦の心身への影響と管理への期待
このように、病苦というのは身体だけでなく、精神までその機能を著(いちじる)しく制限し、その痛みは耐えることができないくらい私たちの心身をむしばみます。病気はできるなら避けたい苦しみです。
思うに老苦や死苦というのは避けられない苦しみと考えられていますが、病苦に関しては日々の生活や、運があるのではないかと私たちは考えます。
7. 病気に対するコントロールと運命論の対立
たとえばコロナが流行(はや)っているときに、り患した患者のそばに近づいたり、人ごみを訪(おとづ)れたり、時には学校の先生たちや、職場の上司たちにとって、病気というのは私たちが管理すべき、コントロールすべきもののように扱われていると思います。
西洋哲学者のように、人間の意思の自由を信じている人たちにとって、病気は避けたり、治療したり、どうにかなるものなのかもしれません。
他方で、決定論や運命論を信じている人たちにとって、病気も避けられない苦しみの一つとして扱われます。実際、ある人は肺炎やが治癒するのに、別の人は風邪がきっかけとなり、別の病気をひきよせ、死んでしまうこともあります。病気と死は密接であり、多くの人は事故以外はなんらかの病気にかかって死にます。
8. 認知症の「老苦から病苦へ」という現代的な再分類
そして、現代は、昔は老い、老苦のひとつとして考えられていた、痴呆(ちほう)や物忘れも、認知症と呼ばれ、病苦だと扱われるようになりました。
しかし、一般的に認知症や物忘れは発症を抑えることが難しく、その多少は人によりますが、多くの人は年を取るにつれて認知機能は低下していきます。
9. 老化と死の苦しみに関する哲学的視点
ある哲学者や宗教家は、老化現象とは死の苦しみを減らすためのものだと言います。しかし、そうすると若くして死ぬ人は死の苦しみが減らずに死を迎えるのであり、痴呆にかかる人の多くがそれはそれで別の苦しみとして経験するべきものとなります。
🤒 病への対峙:人生哲学が反映される普遍的なテーマ
以上、病気について考察したが、ほかの意見もあるでしょう。しかし誰にとっても病(やまい)とは苦しみの一つであり、人生の一大(いちだい)テーマなのです。
病に対してどう立ち向かうか、それはその人の人生哲学が反映されます。ある人は風邪をひいたら風邪薬を飲み、ある人は何も処置をせずにじっと高熱に耐えています。
さながらそれは人生を苦と割り切り、時が過ぎ去り、耐えて忍ぼうとする人たちと、人生とは人間の自由意思でいかようにもなると、積極的に立ち向かう人のように病に対する態度はその人生哲学が深く反映されます。
世の中の人が一人でも病から救われ、一人でも幸福な生を享受するのを私は願ってやみません。
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