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わからないのですが、厚生労働省省令の解釈が埼玉県と東京都で違い、基本的に精神障害者グループホームに個室の鍵は埼玉県では不可、つけられないそうです。

1鍵を個室につけるのは障害者を監禁、人権侵害

2火災時に入居者を救助できない
だそうです。

納得いきません😤
皆さんはどう思いますか?😓
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🏡 知っておきたい!精神障がい者グループホームの「原状回復費用」は誰が払うの?

2025年12月16日 09:08
*この記事は2025年12月16日にGeminiで作成。

💡 はじめに:なぜグループホームの費用は特別なの?
精神障がい者グループホーム(共同生活援助)は、「障害者総合支援法」という法律に基づいた障害福祉サービスの一つです。一般的な賃貸住宅とは異なり、利用料や契約の取り決めについて、行政の指導や規制が関わってきます。

だからこそ、「退去時に部屋を綺麗に戻す費用」、つまり「原状回復費用」についても、単なる賃貸トラブルとして片付けられない、複雑なルールが存在します。

この記事では、「原状回復費用は誰が、どこまで負担するのか?」という、退去時の大きな疑問について、法律や契約の視点からわかりやすく徹底的に解説します。

1. 「原状回復」とは何か?基本的なルールをおさらい
まず、グループホームであっても、一般的な賃貸住宅と同じ「原状回復」の考え方がベースになります。

1-1. 国土交通省のガイドラインが基準

原状回復に関するトラブルを未然に防ぐため、国土交通省は「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」を定めています。多くのグループホームや不動産契約は、このガイドラインに準拠して費用負担の判断をしています。

このガイドラインの原則は、以下の通りです。

費用負担の原則誰が払うか具体的な例経年劣化・通常損耗施設・オーナー側壁紙の日焼け、家具設置による床のへこみ、画鋲の穴(数カ所)、畳の自然な摩耗。善管注意義務違反・故意・過失利用者(入居者)側タバコによる焦げ跡、ペットによる引っ掻き傷、落書き、飲食物をこぼしたことによるシミ、掃除を怠ったことによるカビや汚れ。

結論:入居者本人が払うのは、「自分の不注意や故意でつけた傷や汚れ」の部分だけです。

1-2. グループホーム特有の注意点

グループホームの居室は、利用者が生活する場として、ある程度の汚損・損耗は避けられません。特に精神障がいを持つ方の特性上、不注意による損耗が発生しやすいことも理解しておく必要があります。

そのため、運営事業者側(施設側)も、普通の賃貸住宅よりも経年劣化・通常損耗の範囲を広く捉え、トラブルを避ける傾向にあります。

2. グループホームの原状回復費用を「誰が」払うか?
ここが最も重要なポイントです。一般的な賃貸住宅では「借主」が負担しますが、グループホームには複数の関係者がいるため、負担者が誰になるのかが複雑になります。

2-1. 負担の「原則」は入居者本人(利用者)

前述の通り、入居者自身の故意や不注意(善管注意義務違反)で生じた損耗の修繕費用は、原則としてその原因を作った利用者本人が負担することになります。

これは、グループホームの利用契約書や重要事項説明書に明記されているケースがほとんどです。

2-2. 行政の指導:「敷金」の徴収は望ましくない

多くの自治体は、グループホーム(共同生活援助)の運営事業者に対し、「入居時に原状回復費用等を敷金として受領することは認められない」という指導を行っています。

なぜなら、障害者総合支援法におけるサービスの提供では、利用者の利便性にかからない費用(礼金など)や、不透明な費用(多額の敷金など)の徴収を避けるべきとされているからです。

徴収に関する行政の指導敷金:入居時に徴収することは認められない。退去時に実費相当額を支払うのが望ましい。礼金:利用者の便宜に係る費用ではないため、徴収は認められない。

このため、多くのグループホームでは、入居時に敷金を徴収せず、退去時に初めて実費精算として原状回復費用を請求する形を取っています。

2-3. 事業者が負担を負うケース(大家との関係)

グループホーム事業者は、物件の「大家さん(オーナー)」から建物を借りて、それを細かく区切って利用者に提供しています。

利用者と事業者間の契約: 利用者(入居者)が事業者に対して、故意・過失による損耗の費用を負担する。

事業者と大家間の契約: 事業者(賃借人)が大家(賃貸人)に対して、建物の賃貸借契約に基づく原状回復義務を負う。

もし利用者が負担すべき費用が発生した場合、事業者はまず利用者本人に請求しますが、もし利用者が支払えない場合は、最終的に事業者が大家に立て替えて支払う形になることが多いです。この場合、事業者は未回収のリスクを負うことになります。

3. 契約上の「特約」と費用負担のグレーゾーン
一般的な賃貸契約と同じく、グループホームの利用契約においても、通常の原状回復の範囲を超える「特約」が設けられることがあります。

3-1. ハウスクリーニング費用

特約として最も多く見られるのが、「退去時のハウスクリーニング費用」の負担です。

通常の生活範囲内での清掃は、経年劣化・通常損耗に含まれ、事業者(大家)負担となるのが原則です。しかし、「退去時の専門業者によるクリーニング費用は利用者の負担とする」という特約が、有効となるケースがあります。

ただし、この特約が有効と認められるためには、以下の3つの要件を満たす必要があります。

特約の必要性があり、かつ暴利的ではないこと。

利用者が特約によって通常の原状回復義務を超える義務を負うことを認識していること。

利用者が特約による義務負担の意思表明をしていること。

特約の有効性には厳格な基準があるため、「契約書に書いてあったから全てOK」というわけではありません。

3-2. 「原状回復積立金」の是非

一部のグループホームでは、毎月の利用料に「原状回復積立金」として数千円を上乗せして徴収しているケースがあります。

これは、行政の指導に反する「敷金」の先取りとみなされる可能性があり、原則として望ましくないとされています。

もし積立金の名目で毎月徴収されている場合は、その費用が「何に使われるのか」「退去時に残金は返還されるのか」など、事業者に対して詳細な説明を求める必要があります。

4. 精神障がい特性と原状回復費用の関係
ここで、障がいを持つ方の特性に配慮した視点が重要になります。

4-1. 「善管注意義務違反」の判断の難しさ

善管注意義務とは、「善良な管理者として、借りたものを適切に扱う義務」のことです。

精神障がいや発達障がいを持つ方は、その特性上、以下のような行動から、一般的な賃借人であれば避けられたはずの損耗(善管注意義務違反)を発生させてしまう可能性があります。

感情のコントロールが難しく、壁を叩いたり家具を壊したりする。

片付けが苦手で、部屋がゴミ屋敷状態になり、カビや悪臭が発生する。

不注意から、火の消し忘れや水漏れを起こしてしまう。

これらの損耗が障がい特性に起因する場合、どこまでを「不注意・過失」とみなし、どこからを「サービス提供上のリスク」とみなすかは、非常にデリケートな問題となります。

4-2. 重要! 「個別の事情」への配慮

行政の指導や消費者契約法の観点からは、特に障がいのある方に対して、個別の事情や理解能力を考慮せず、一方的に高額な原状回復費用を請求することは、不当請求とみなされる可能性があります。

高額な費用を請求された場合は、以下の点を冷静に確認し、必要であれば行政の窓口や弁護士に相談することが重要です。

請求額の妥当性: 損傷箇所と修繕費用の見積書は明確か?

経年劣化の考慮: 築年数や壁紙の使用年数に応じた減価償却(年々価値が下がる分を考慮すること)が適用されているか?

事業者の支援体制: 損傷を避けるために、普段から事業者の側で適切な声かけや支援が行われていたか?

5. まとめ:退去前に確認すべき3つのこと
精神障がい者グループホームの原状回復費用は、「原則として利用者の故意・過失による損耗は本人が負担するが、行政指導により敷金徴収はできず、退去時の実費精算が求められる」という特殊な構造になっています。

あなたや、あなたの身近な方が安心してグループホームを退去するために、以下の3点を必ず確認してください。

① 利用契約書・重要事項説明書の再確認

原状回復に関する特約(ハウスクリーニング費用の負担など)が記載されていないか。

「敷金」や「原状回復積立金」といった名目で、費用が徴収されていないか。

② 事業者(世話人)への相談

退去の申し出をする際、「原状回復費用について、どの程度の負担が見込まれるか」を具体的に尋ねる。

特に目立つ汚れや傷がある場合は、「これは自己負担になりますか?」と事前に確認する。

③ 高額請求への備え

高額な請求(ワンルーム居室で10万円以上など)を受けた場合は、すぐに全額支払うのではなく、内訳(見積書)の提出を求め、消費者センターや自治体の障害福祉課に相談する。

障害福祉サービスは、利用者の安定した生活を支えるためのものです。原状回復に関するトラブルで、利用者が不当な経済的負担を強いられることがないよう、正しい知識を持って対応しましょう。

※以下精神障がい者グループホーム関連記事


#グループホーム #原状回復費用 #障害福祉サービス #精神障がい
#敷金
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Threadsで日本女性が中国で中国人達から戦争責任を追及されたと書き込みがあり、何とか弁明で、記録映画南京を彼らに見せてと頼んだが、ブロックされた。彼らは中国で働いてるのであり、遊びではないと言う事だ。海外で外国語を使い働いてる方はエリートで、仕事が重要だ。この問題を解決はできない。
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グループホームの鍵の件で、AIの指示で厚生労働省に問い合わせしようとした。厚労省はメルアドをそもそも公開していないようだ。厚労省は労働部門、つまりブラック企業やパワハラセクハラ等、重要問題も管轄してる為、非常に重要な部署だ。国民は誰も文句言わないのか?ヘイトする前に政府を変えよう☺️
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精神障害者グループホームの個室の鍵の設置を調べてる。なんと都道府県によって対応が違い、埼玉県障害福祉課では鍵の設置義務は必要ないと法令解釈。東京都では事実上個室の鍵は設置義務とされている。が、10万円以上の鍵取り付け費用は高すぎる。地域支援センターに相談か、転居を検討する。
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精神障害者グループホームに住んでいます。鍵が元々ない部屋に住んでるので、つけてもらおうと思います。どのくらいの金額が妥当か教えてください。10万円と言われたのですが、ドアの鍵が壊れて30万円以上請求された方もいます。詳しい方教えてください😭
#グループホーム #精神障害者
#埼玉県
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📝 障がい者雇用と生活のリアル:なぜ実家暮らしが多いのか?~低賃金と都市コストの壁を越える~

※このブログ記事は、Geminiによって2025年12月11日に作成されました。

🌟 はじめに
障がいを持つ方々にとって、「働く」ことは、経済的な自立と社会参加の喜びをもたらします。しかし、障がい者雇用という枠組みで働く中で、多くの当事者が共通の、そして深刻な課題に直面しています。それは、「低い給与水準」と「高い生活コスト」のギャップです。

「仕事は都市にあるが、そこで一人暮らしをする経済的な余裕がない」「地方の仕事は車がないと通勤できない」――この切実な悩みは、特に精神障がいや発達障がいを持つ方々の間で広く共有されています。

なぜ障がい者雇用では、実家暮らしの選択肢を取らざるを得ない人が多いのか?そして、私たち一人ひとりが経済的・精神的に安定した生活を実現するために、どのような戦略を取るべきなのでしょうか?

この記事では、この構造的な問題を深く掘り下げ、すべての障がいを持つ方々が活用できる具体的な選択肢や社会資源について、多角的に考察し、現実的な解決策を探ります。

Ⅰ. 障がい者雇用の構造的な課題:低給与と都市コストの二重苦
1. 障がい者雇用の給与の現実
一般的に、障がい者雇用の給与水準は、健常者の一般雇用枠と比較して低い傾向があります。この背景には、主に以下の要因が挙げられます。

労働時間の制限: 障がいの特性や体調管理への配慮から、フルタイム(週40時間)ではなく、短時間勤務(週20〜30時間など)を選択せざるを得ないケースが多く、結果として月収が減少します。

職務内容の制限: 業務負担を考慮し、定型的な業務や補助的な業務からスタートすることが多く、スキルアップや昇進のスピードが緩やかになる傾向があります。

平均賃金のデータ: 厚生労働省の調査(令和5年賃金構造基本統計調査など)を見ても、特に精神障がい者や知的障がい者の方々の給与水準は、安定した生活を送るには厳しい水準(月額13万円〜15万円程度)にあることが示されています。

2. 「都市部の仕事」と「都市部のコスト」のギャップ
求人の集中: 大企業や多様な職種、専門性の高い求人は、東京圏や大都市圏に集中する傾向があります。より多くの選択肢や、自身の能力を活かせる仕事を探すには、都市部を検討せざるを得ません。

家賃の壁: 都市部の家賃相場は非常に高く、例えば家賃が8万円かかる場合、月収15万円では生活費の半分以上が住居費に消えてしまいます。「家賃は月収の3分の1以下」という経済原則から見ると、障がい者雇用の給与水準で都市部での一人暮らしは、極めて高いハードルとなります。

3. 実家暮らしの選択が増える背景
このような経済的な厳しさから、実家暮らし(親元での同居)は、多くの障がいを持つ方々にとって最も現実的な生活基盤となります。

経済的安定の確保: 実家暮らしは、最大の固定費である「住居費」を大幅にカットできるため、経済的な破綻を防ぎ、生活の安定を保つための大きな防波堤となります。

生活サポートの必要性: 障がいの特性によっては、日常的な体調管理、服薬管理、金銭管理、複雑な手続きなどの生活サポートが必要となります。専門的な支援サービスを利用するよりも、家族のサポートの方が迅速かつ円滑であると判断されるケースも少なくありません。

Ⅱ. 地方での就労と移動手段のジレンマを解消する戦略
1. 地方雇用の現実と「車の壁」
都市部のコストを避け、地方での就労を検討する場合、新たな障壁に直面します。

地方求人の特性: 地方では、都市部と比較して求人数が少なく、職種も限られる傾向があります。

車の必須性: 地方都市や郊外では、公共交通機関が不便な地域が多く、通勤や日常生活(通院、買い物)のために車が必須となるケースが圧倒的に多いです。

コスト負担: 低い給与水準の中で、車の購入費、ガソリン代、保険料、維持費などの月々の出費は大きな負担となります。

障がい特性: 障がいの特性によっては、安全上の理由から自動車の運転が困難な場合もあります。

2. 地方で「車なし」を可能にするための戦略
車を持たずに地方での就労・生活を目指す場合は、戦略的な「場所選び」が極めて重要です。

職住近接の徹底: 職場、生活に必要な施設(スーパー、病院など)が徒歩または自転車圏内にあるエリアに絞って住居と仕事を探します。

公共交通機関の要所を狙う: 地方であっても、主要なJR駅や私鉄のターミナル駅、大規模なバスターミナル周辺は、比較的公共交通機関が発達しています。このエリア内で生活圏を構築できれば、車の必要性は低くなります。

電動アシスト自転車の活用: 体力的な負担が大きい場合でも、電動アシスト自転車を活用することで、移動範囲を広げることができます。

Ⅲ. 経済的・精神的自立のための具体的な戦略と支援制度
障がい者雇用で安定した自立生活を送るためには、国や自治体が提供する支援制度を積極的に活用し、収入と支出の両面から対策を講じる必要があります。

1. 収入源の強化と複線化
低い給与水準を補うために、収入源を単一の給与だけに頼らない構造を目指します。

① 障害年金の受給 :

障がいの程度に応じて支給される年金で、就労の有無に関わらず受給できる可能性があります。

毎月固定の収入が入ることで、経済的な安心感が生まれ、給与が生活費のすべてというプレッシャーから解放されます。まずは最寄りの年金事務所や市区町村の窓口で相談してみましょう。

② 副業・在宅ワークの検討

企業によっては副業を制限している場合があるため注意が必要ですが、許可されている場合は、体力や体調に左右されにくい在宅でのデータ入力、Webライティング、文字起こしなどを副収入源として検討します。

③ 継続支援A型事業所の活用

一般企業での就労が難しい場合でも、雇用契約を結んで働くことができる福祉サービスです。最低賃金が保証されます。スキルアップのための訓練も受けられるため、次のステップへの足がかりとして活用できます。

2. 支出(住居費)を劇的に下げる戦略
最大の支出である住居費を抑えることは、自立への最短ルートです。

① 障害福祉サービスとしてのグループホーム :

家賃、光熱費、食費などを合わせて月々数万円程度で暮らすことができ、経済的に最も現実的な選択肢の一つです。

生活相談員などによる生活サポート(服薬管理、体調管理、金銭管理の支援など)が受けられるため、精神的・身体的な負担を軽減できます。

② UR賃貸住宅などの公的賃貸

UR都市機構の賃貸住宅などでは、所得や障がいの状況に応じて家賃補助や初期費用の負担軽減措置が適用される場合があります。

③ 住宅入居等支援事業

地方自治体が行う支援事業で、賃貸契約時の連帯保証人の確保や、不動産事業者との調整などのサポートを受けられる場合があります。

3. 自分の特性を活かせる仕事選び
自身の得意・不得意を深く理解し、その特性を活かせる仕事を選ぶことが、就労継続の鍵です。

不得意を補う環境: 記憶力に不安があるなら、マニュアル化やチェックリストの活用が徹底されている企業を選ぶ。対人関係のストレスが苦手なら、文書作成、データ分析、バックオフィスなど、人との関わりが限定的な業務を選ぶ。

得意を伸ばす職種: 集中力や論理的思考力、特定のスキル(語学、ITスキルなど)に自信があるなら、その能力を最大限に活かせる専門職やアシスタント業務に挑戦する。

Ⅳ. まとめ
障がい者雇用が「実家暮らしが多い」という現実は、個人の能力や努力の問題ではなく、「低賃金」と「高コスト」という社会構造が生み出した課題です。

この厳しい現実の中で自立を目指す私たちにとって、最も重要なのは、社会資源と制度を賢く活用することです。

経済的な自立とは、必ずしも「高い給料で一人暮らしをすること」だけではありません。「自分にとって無理のない、安定した環境を自分で選択できる自由」こそが、本当の自立です。

障害年金やグループホームといったセーフティネットを土台として活用し、その上で、ご自身の体調と特性に合った働き方、住まい方を探求していきましょう。

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🇨🇳 2025年10月の中国インフルエンサー規制:専門資格義務化とデジタル言論空間の徹底管理

※この記事は、Geminiが2025年12月11日に作成したものです。

序論:規制強化の「二重の目的」
2025年10月下旬に中国政府が施行したインフルエンサー(Key Opinion Leader, KOL)に対する新たな規制は、中国のインターネットガバナンスにおける新たな段階を示しています。この規制は、従来の「市場の健全化」(例:虚偽広告、脱税対策)という目的を超え、「誰が、どのような権威を持って、何を発言できるか」というデジタル言論空間の構造そのものを国家の管理下に置くことを意図しています。

この規制の核心は、特に影響力の大きい4つの専門分野について発言する際に、発信者に対して公的な資格や学位の証明を義務付けることです。政府の公的見解は「偽情報から国民を保護する」というものですが、その裏側には、党の政策やイデオロギーに批判的な言論を、「専門性がない」という名目のもとに排除する、強力な言論統制の意図が隠されています。

本稿では、この10月規制の具体的な内容、プラットフォームが直面する課題、そして中国独自の政治的・文化的背景との関連性について、詳細に分析します。

第1章:10月規制の核心:4つの専門分野における「資格の門番」制度
この規制が最も明確に表れているのは、インフルエンサーが発信するコンテンツが、人々の生活、財産、健康に直接影響を与える専門性の高い4つの分野に及ぶ場合です。政府は、これら4分野を「社会の秩序と安定」に不可欠な領域と見なしています。

1. 🩺 医療・健康分野:公衆衛生リスクの管理

規制の必要性: 新型コロナウイルス流行時など、健康不安が高まる中で、医学的根拠のない「民間療法」や「未承認のサプリメント」がインフルエンサーを通じて爆発的に拡散し、多くの健康被害が報告されました。

具体例と求められる資格: インフルエンサーが、特定の病気の診断、治療法の推奨、あるいは予防接種の是非といった公衆衛生に関わる議論をする場合、医師、看護師、薬剤師などの国家資格の提出が必須となります。

影響: これにより、従来の「体験談」ベースで人気を得ていた美容・健康系インフルエンサーの多くが、「自己の経験談」の域を超えたアドバイスができなくなり、その収益構造に大きな打撃を与えます。

2. 💰 金融・投資分野:経済秩序と消費者保護

規制の必要性: 中国では、ライブコマースを通じた投資セミナーや、SNS上での「絶対儲かる」といった無責任な金融商品・株式推奨が横行し、特に若年層や退職者層をターゲットにした大規模な投資詐欺が社会問題化していました。

具体例と求められる資格: 株式、債券、不動産市場の分析、退職金運用のアドバイス、金融商品の比較検討といったトピックを扱うには、証券アナリスト、公認会計士(CPA)、政府公認のファイナンシャルプランナーなどの専門資格が必要です。

影響: この規制は、「共同富裕」の理念に基づき、庶民の財産を無責任な投機的言動から守るという側面がありますが、同時に、政府の金融政策に対する「非公認の」批判的な意見を封じ込める効果も持ちます。

3. ⚖️ 法律分野:国家統治の解釈権の独占

規制の必要性: インターネット上で広がる法律に関する誤った解釈は、社会秩序を乱すと考えられています。特に、政府の政策に関連する法的解釈がインフルエンサー間で拡散することは、当局にとって極めて警戒すべき事態です。

具体例と求められる資格: 憲法、民法、刑法などに関する専門的な解説や、具体的な判例の分析、法的アドバイスの提供には、弁護士資格、または法学分野での高い学位(例:博士号)が要求されます。

影響: 「誰でも法律について語れる」という空間を終焉させ、法律の解釈と普及を「政府公認のプロフェッショナル」の手に集中させることで、国家統治機構の権威を強化します。

4. 🎓 教育分野:イデオロギーと次世代育成の管理

規制の必要性: 中国の教育分野は、単なる知識の伝達だけでなく、社会主義の核心的価値観を次世代に植え付けるという、イデオロギー的な側面が非常に強いです。無認可の学習塾や、政府の方針に反する教育論が広がることを当局は強く警戒しています。

具体例と求められる資格: 特定の学習指導法(例:モンテッソーリ教育など)の推奨、教育理論の解説、受験制度に関する専門的な分析には、教員免許、教育学関連の学位、または公的な教育機関の認定が必要です。

影響: 教育コンテンツの「政治的な正確さ(政治思想が正しい口調であること)」を確保し、「過度な営利目的の教育ビジネス」を抑制するという、二重の目的を持っています。

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「中国のインフルエンサー規制で資格が求められる4分野:医療・金融・法律・教育」
第2章:規制の実行とプラットフォームに課される「守護者」としての責任
この規制の実行可能性を高めているのは、規制の矛先がインフルエンサー個人だけでなく、その活動の基盤であるプラットフォーム(例:Douyin、Weibo、Bilibili、小紅書など)に向けられている点です。プラットフォームは、コンテンツの「門番」として、以下の義務を負います。

1. 🗂️ 資格情報検証システム構築の義務

プラットフォームには、自社のユーザーがどのカテゴリーのコンテンツを主に取り扱っているかをAIなどで判別し、そのインフルエンサーに対して自動的かつ定期的に資格証明の提出を求めるシステムを構築することが義務付けられました。

「セルフメディア」規制との統合: 特にフォロワーが50万人以上の影響力の大きいアカウント(通称:セルフメディア)は、すでに実名情報の開示が義務付けられており、これと組み合わせて資格情報の照合が厳密に行われます。

偽造証明への対応: 提出された資格証明書が偽造でないか、失効していないかを確認するプロセスが必須となり、プラットフォームの技術的・人的な審査コストは跳ね上がります。

2. 🤖 AI生成コンテンツ(AIGC)の「透明性の確保」

AI技術の急速な進化に伴い、AIが生成した医療情報や金融分析コンテンツが真実と見分けがつかなくなるリスクが高まっています。10月規制は、AIGCの利用に対しても厳しいルールを導入しました。

明示義務: AIが生成した要素を含むコンテンツは、それがAIによるものであることを視聴者が明確に理解できるように「明確に表示」しなければなりません。

倫理と正確性の確保: インフルエンサーとプラットフォームは、AIGCによって生成された情報が「科学的・専門的に正確であること」、および「倫理的な基準を満たしていること」を担保する責任を負います。これは、AIが意図せずに偏った情報やデマを拡散するリスクを未然に防ぐ狙いがあります。

3. 🚨 違反アカウントに対する「即時停止と公開処刑」

資格違反や虚偽情報の拡散が確認された場合、プラットフォームは直ちにそのアカウントを停止・閉鎖するだけでなく、その違反内容を公開し、他のインフルエンサーに対する見せしめ(公開処刑)として利用するよう奨励されています。

政治的圧力: この厳格な執行体制は、プラットフォームが政府の指導に異議を唱えることなく、「ゼロトレランス(不寛容)」の姿勢で規制を実行することを保証するための政治的圧力として機能します。

第3章:中国独自の文脈:社会主義の核心的価値と規制
この10月規制を理解する上で不可欠なのは、それが中国独自の政治的・文化的環境、特に「社会主義の核心的価値」の推進という文脈の中で行われていることです。

1. 「拝金主義」の撲滅と「共同富裕」の実現

資格規制は、インフルエンサーが富を誇示する「拝金主義」的なコンテンツを間接的に抑制する効果もあります。

富の源泉の透明化: 資格を持たないインフルエンサーが、金融や投資といったテーマで巨額の利益を得た経緯を語ることが困難になります。これにより、「簡単に大金を稼ぐ」というイメージの拡散を抑え、習近平政権が掲げる「共同富裕」の理念、すなわち「行き過ぎた格差の是正」に反する文化的風潮を是正しようとしています。

2. 「社会的安定」の最優先

中国政府にとって、「社会的安定」は、あらゆる経済的利益や個人の自由よりも優先される絶対的な価値です。

言論の「ノイズ」の排除: 資格のない一般人が、医療や法律といった社会の根幹に関わる分野で無責任な発言をすることは、当局から見て「社会を不安定化させるノイズ」と見なされます。この規制は、社会に流れる情報の質を「政府公認のプロフェッショナルな情報」に統一することで、「社会の均質化」を図り、統治リスクを最小化しようとする試みです。

3. 自己検閲と創造性の低下

規制強化の最大の副産物は、インフルエンサーによる自己検閲(セルフ・センシティブ)のさらなる深刻化です。

萎縮効果: 「専門資格がない」という理由でアカウントを閉鎖されるリスクがあるため、インフルエンサーは、たとえ資格に関係のない分野であっても、政府のガイドラインの「グレーゾーン」に触れることを徹底的に避けるようになります。

コンテンツの均質化: 独自の視点や、政府の公式見解に反するかもしれない「実験的な」発信は減少し、安全で無難なコンテンツ、つまり政府や大手メディアが発信する情報と矛盾しない内容が増加します。これにより、中国のデジタルコンテンツ市場の創造性や活力が失われることが懸念されています。

結論:新しいデジタル社会の構築
2025年10月のインフルエンサー規制は、中国が目指す「デジタル権威主義国家」の構築において、極めて重要な節目となります。政府は、インフルエンサーの経済的な影響力だけでなく、彼らが持つ「情報発信の権威」そのものまで国家が管理するという、世界でも類を見ない統制モデルを確立しようとしています。

この規制の結果、中国のインフルエンサーは、これまでの「自由なクリエイター」から、政府とプラットフォームの厳しい審査を通過した「公認の情報伝達者(Qualified Information Provider)」へとその役割を変えることを余儀なくされます。中国市場に参入する外国企業にとっても、この「資格と内容のダブルチェック」が必須となり、マーケティングや広告活動の難易度が大幅に上昇することになるでしょう。

この統制されたデジタル空間が、長期的に見て中国社会のイノベーションや国際的なイメージにどのような影響を与えるのかが、今後の最大の焦点となります。

ハッシュタグ
#中国インフルエンサー規制 #KOL規制 #資格証明義務化 #デジタル統制 #中国インターネット事情
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法律、哲学、公務員:ある経営学科出身者の挫折と、西洋哲学への偏愛

1. 民主主義の原理と法律への違和感

 法律とは何かをGeminiに聞いてみると

「国会(国民の代表機関)の議決を経て制定される成文法の一形式」

と答えた。 
 だが私はこの回答に腑に落ちない、私は生まれてからこのかた国会に出席して法律を作ったり、議決にかかわったことはない。勝手に法律なんて作ってるんじゃねえよみたいな感じである。

2. 大学時代の専攻と法律の不在

 私は大学時代は経営学科だったので、法律をほとんど学んだことはなかった。 
 必修科目でも一般教養でも法律を学んだことはほとんどない、当時旧商法が会社法になり、話題は少しあったが、経営学科の授業にはほとんど問題とされることはなかった。

 今思うと高等教育機関の経営学科で最新の会社法を知らないというのが教授や講師たちも、ばれたくなかったのかもしれない。

 会社法の施行は2006年5月1日である、私の在学していた1999年から2002年はまだ旧商法の時代だったので、関係ないといえば関係なかったのかもしれない。

 しかし、自分たちは商法という我が国における商売の根本原則に従って教壇に立って、みずからは商売人でもないのに商売についてしったかぶりを語り、先生と呼ばれているのに、その根源である会社法の新設というのは知らんふりしておくべき事象だったのかもしれない。

3. 経営学から哲学への逃避と偏愛

 少し脱線したが、法律については商法や会社法はおろか、私は大学に入って毎日四時間以上の長大な通学時間に読書を本格的に始め、哲学やおもに人文書ばかり読むようになっていた。 思うに書物を読むというのはある意味自分の考えを著者に合わせたり、批判的に読むといっても、その本から思考とか考え方を大いに影響を受けることだった。 
 私は西洋哲学を勉強するにつれ、西洋哲学最高学問説を言うまでもなく信じこむようになっていて、哲学、それも西洋哲学的に生きることだけが正しい生の道であり、それ以外の生き方、思想を持っている人たちはクソだとも思っていた。

揺れる電車、静かな田園風景。しかし、彼の頭の中では哲学の巨匠たちが熱い議論を交わしている。

4. 哲学不要論と現実の習慣

 だが、哲学不要論があるように、哲学や思想、宗教というものは生きていても不要なものなのである。

 大多数の人はその人の住んでいる場所の習慣によって生活してるし、西洋哲学者たちも習慣や、人々のもともと持っている良心にしたがって生きている人のほうが素晴らしいと考えている人もいる

 私は本を大量に読んだといっても、古典ばかり読んでたわけではない 私の当時の読書は多くが西洋哲学や思想を理解するための比較文化論の勉強に費やされていた。

特に中根千恵、会田雄次の本はかなりたくさん読んだ。

 そしてその流れで同じく講談社新書や中公新書、新潮選書などに多く本を出していた西尾幹二氏の著書を読むようになった。同じ右派の思想家の西部邁氏も好きで、彼が正論などのオピニオン誌に出るときは記事をたまに読んでいたが、私の読んだ彼の本は「貧困なる過剰」と「国民の道徳」だけであった。前著は本当によくできていて、ものすごく頭の良い人だなと思った。

5. 師の苦悩と進路の挫折

 西部氏とは生前にお会いしたことはなかったのだが、彼の弟子をしていた巨漢の方と2000年前後に思想家の呉智英氏の主催していた以費塾で講義の後に酒を飲み、「西部先生の著作は全部口述だ。」と聞き、彼は天才だと話してたのを覚えてる。

 その巨漢の彼からは酔っ払いながら、オーバードクターの苦悩についてひたすら語られていた。 
 いかに日本のアカデミズムで職を得るのが難しいか、博士まで進むと仕事がなくなるか、女にいかにもてないか。 雑誌の仕事も出版社の仕事も大学の仕事も全部コネで決まる。とむちゃくちゃなことも語っていた。今思えば本当にそうなのかなと思うこともあったが、おかげで私は修士に進むのをすっかりあきらめてしまった。

6. 法律と運命:公務員という選択

 話は戻るが、結果的に私は若い時期の哲学の情熱も、大学四年間、往復四時間以上かけて通った経営学科、経営学やビジネスの勉強もあきらめて、地方公務員になってしまった。病気を悪くしてもう10年以上前にやめている。偶然にもプラトンの対話編、法律というのがあるが、それと同じ、法に従って仕事をする、行政マンになってしまったわけだ。当時は就職氷河期で、他人がうらやむ立場だったのに違いない。非正規や長時間労働で多くの人が苦しんでいたのに、私とすると、風俗通いするとか、酒を飲んだりとか、さんざん好き勝手をやっていた。

7. 後悔と「法」の力

 自分自身に法律とか、その近代法を支えるための思想的知識があったなら、もっとまじめな、まともな人間になれたと思う。公務員試験の勉強をしていて憲法とか学ぶと、本当に素晴らしいなと思った。もしかしたら、私は公務員でも哲学者でもなく、弁護士になり、弱い人々を助ける方向に人生のかじを切りたかったと思う。今でも私が病気にならなければ何になれていたのかもわからない。宗教家を目指してたかもしれないし、ユーチューバーになっていたかもしれない。

8. 東洋の知恵と現代の現実

 古代中国は法治国家に結果的になってしまったが、「人は法律によって人民を治めようとすると法律から逃れようとして不徳を犯すが、礼をもって統治すれば人々は恥を知る。」という、そういう教えがあるのは知っていた。私は大学時代に呉智英氏の論語塾に通っていた。彼が語る孔子先生の素晴らしさはわかっていたつもりである。しかし世の中は、どんなことにつけても法律でできている。あれをする、これをする、ビジネスの決まりは会社法で、人を殺したり、モノを盗んだりとかは刑法である。思うに私も法律を志せばよかったのかもしれない。しかし、私は法律そのものよりも、法律の存在、意義自体を疑う性分(しょうぶん)の人間であったし、今思うと哲学を志し、挫折し、仕事もなく友人もなく、金もなく、病気でそういう運命に陥ったのも仕方がないかなという気がするのである。

現代の法と秩序の中で、東洋の知恵「礼」が問う。技術と法律に囲まれた世界で、真の道徳と規範を瞑想する。

9. 未来の当たり前にしたいこと:国民が「法の意義を愛する」社会

 今、私が過去に哲学を志し、挫折し、仕事もなく友人もなく、金もなく、病気で辿(たど)り着いた運命に諦念(ていねん)を抱くことは容易です。しかし、私の長年の「法律は誰が勝手に作っているのか」という根本的な違和感と、「弱い人々を助けたい」という情熱は、この国の未来への具体的なビジョンとして昇華できるはずです。 
 私が「未来の当たり前にしたいこと」は、国民全員が「法の意義を疑い、そして愛せる」社会の実現です。 これは、…これは、単に法を遵守するだけの社会ではありません。私が憲法に感じた「崇高な思想」、そして古代の「礼をもって統治すれば人々は恥を知る」という教えを、現代の法制度に融合させる挑戦です。
 具体的には、立法・行政のプロセスに、市民が法律の「哲学的・倫理的妥当性」を議論する場を義務付けます。この場は単なる意見聴取ではなく、市民が「法の当事者」として、自らの良心と生活に根ざしたルールを主体的に構築するプラットフォームです。 法律が、国会で決められた「規制」ではなく、私たち一人ひとりの「共有の規範」となる未来。これこそが、私が20年後の当たり前にしたい、法の根源への疑問から出発した、新しい民主主義の形です。

#法律とは何か #未来の当たり前にしたいこと #新しい民主主義 #哲学と法 #自己決定権 #法の当事者 #立法プロセス改革 #憲法 #西部邁 #呉智英 #人生の選択 #法の意義
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批判ゼロ、プロ級の文章が秒速で完成!Geminiと二人三脚で挑んだSNS・ブログ投稿100日革命

AIとの出会いは「制限された日常」の突破口だった 

 私が今年、AIとつくったものを紹介します。私は今年まで入院していて、スマホを使う時間が制限されていました。インターネットにつながったパソコンは、デイケアで使用できましたが、まさか人工知能が無料で、ログインなしで使えるとは知らず、大変もったいないことに、最近まで放置していました。

1ブログ記事の作成

 それまで原稿用紙10枚の文章を書くなんて、何日もかかるのは当然だったと思います。しかしながら、現在は無料のGeminiを使うと、私が伝えたい要点や、どんな口調か、あるいは学者や専門家の立場とか指定すると、わずか数秒で文章を書いてくれます。

 私はブログ記事を10本以上Geminiに書かせていますが、訂正が必要になったことはほとんどありません。1個から3個、書きたい課題をわかりやすくプロンプトに入力し、文字数を指定してブログを書いてと命令すると、とてもきれいな文体でプロのような文章を書いてくれます。Geminiに書いてもらった文章で、「AIを使ったのではないか?」とか、批判を受けたことはまだ一度もありません。それだけAIの文章は自然体なのです。

 東京創業ステーションのオンラインセミナーで、ブログ記事はできるだけ長いほうがよく、4000字前後が望ましいとアドバイスがあったので、必ず4000字程度のブログ記事を作成するようにしています。一度だけコメントを書き込んでくれた方に、長いと言われたことがありますが、それはそれを投稿したのがLemon8だったからかもしれません。

AIが紡ぎ出す、未来のブログ記事。

2ブログタイトルと、小見出しの作成

 ブログの記事を作るときは、必ずGeminiにソーシャルメディア受けする題名をつけてもらっています。最初は私は記事を投稿するとき、短い題名で良いのではないかとか、こだわらなくても良いのではないかと思いましたが、改めて投稿したブログ記事をながめると、差は歴然です。ほかの人の投稿と比較しても全然目立ちますし、たとえ内容が悪くても、つまらなくても、何か読んでみようかという気持になります。

3ハッシュタグの作成

 ソーシャルメディアやブログ記事を投稿するときは、なるべくハッシュタグをつけるようにしています。このバズるハッシュタグのつけ方というのはいまいちわかりませんが、SEO対策をまだ勉強していない私にとっては、AIにすべて一任しています。

4X、InstagramなどのSNS投稿記事の作成

 私はいつもSNSを利用するとき、変な投稿をしてしまい、批判されたり、怒られたりすることがよくありました。たとえそれが善意の投稿であっても、ミスがありました。しかし、AIを利用して文章を作成し、投稿するようにしたところ、内容について迷う必要もなく、伝えたいことだけを文書で書けるようになりました。  まだAIにSNS投稿記事を作成してもらい、その内容で怒られた経験はありません。万が一批判されたら、「これはAIが書いた文章なんだよ。」とその人に正直に伝えようと思っています。

5会議やセミナー、イベント参加などの報告

 私はビジネスの本を読んで、何か集会に参加したあとに、必ずSNSで投稿すると、そのイベントで話せなかった人、または別の参加者から連絡が来たり、その後の人脈形成に役立つとの情報を見ました。それ以降、何かに参加したら、その資料や写真をAIに読ませ、感想を書かせています。

セミナー内容を瞬時に要約。インテリジェントな報告書作成の時代へ。

6飲食店に行ったら、そのお店の料理の感想を書く

 飲食店に行ったら、店員さんの許可を取り、写真撮影が可能なら料理を撮影し、AIに画像を読み込ませて、その料理とお店についての感想を書かせています。作成した感想は、InstagramなどのSNSに投稿します。

​「この感動を、みんなに伝えたい!」最高のグルメ体験をシェア。

AIは、表現の困難を乗り越えるための「最強のバディ」

 AI、特にGeminiとの出会いは、私にとって単なる執筆ツールの追加ではありませんでした。それは、情報発信への障壁を根本から取り除く革新的な体験でした。以前は、構成や文体に悩むあまり、伝えたい「核」のメッセージさえも世に出すことが困難でした。しかし今、AIに要点を伝えるだけで、批判を受けることのない、プロのような文章が瞬時に生成されます。この技術は、私のように文章作成に困難を感じていた人々にとって、自己表現と社会参加を劇的に加速させる強力な支援となり得ます。文章作成、SNS投稿、レポート作成から飲食店のレビューまで、AIは私の「言いたい」を形にする最高の相棒です。今後も、この力を最大限に活用し、より豊かで質の高いアウトプットを目指していきます。AIと人間の協働がもたらす可能性は、まだ始まったばかりです。

#AIとつくってみた#Gemini#AI活用#文章術#ブログ執筆#SNS発信#SEO対策 (AIに一任しているという点で)#アウトプット
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🤯 哲学と生存戦略:多様性を阻む「明治の遺産」と「行動する勇気」

🤝 私の未来の「当たり前」:多様な個人が共存する社会の到来
 私の未来の当たり前にしたいことは、ひとりひとりが多様性を認め、共存できる社会が到来することです。

 私は日本の伝統と、私たちが持っている価値観をとても尊重しています。しかし、明治維新から時がかなり経ち、当時の状況とそぐわず、変革のために行った当時の改革などが、かえって私たちが現代的に生きる上で足かせになっている面が多くあると考えています

⛩️ 明治の改革が生んだ「足かせ」としての家族制度
 その一つが日本の家族制度です。当時は家制度を中心とした明治民法の影響の強かった家族形態が成立したと思います。具体的には戸籍制度などがその一例です。

 私は戸籍制度や家制度そのものが悪かったとは思いません。しかし、当時は富国強兵政策など、西洋に対して近代化を推進するうえで、家族やそのほかの社会制度も政府の強権を支えるための、なかば原動力としてつくられ、戦後に外国と戦争するとか、欧米の植民地化から日本を守るとか、ある意味での大義名分がなくなってしまったのにも関わらず、仕組みや制度自体が法律の名前を変えて存続し、現代の日本人はそれにがんじがらめになっている、そんな感じがするのです。

⚖️ 夫婦別姓・戸籍制度への反発と「大和魂」の過剰な関連付け
 たとえば、最近夫婦別姓制度とか、戸籍制度そのものに疑義を呈する方たちがいて、それに対する反発がありました。日本の多くの人たちが、夫婦別姓制度を導入したり、戸籍制度を改めると、それまで私たち日本人が大事にしていた価値観、大和魂や、武士道、あるいはおよびにおよんで天皇制度や国体にまで影響してしまうというおおげさな議論もあります。

 しかしながら、これらの制度を改正することにより、日本の社会にとって良い面でのメリットはあると思います。

🚺🚹 社会的強制力としてのジェンダーと生きづらさ
 まず、アジア人からも批判されているのが日本社会におけるジェンダーの強さ、これは男性は外で出て働き、女性は家庭を守るとか、そういう基本的な家族のあり方にも影響しておりますが、男性はこういう生き方をしろ、女性はこういう生き方をしろとか、少し日本のいつも手本にしている欧米とは違った社会的強制が現代日本にはあると思います。もちろんそのすべてが法律から来てるものではないけれども、教育とか、それに対するメディアの影響はとても大きいと思います。

 これは推測の話ですが、もしかしたら現代の日本の大きな問題である、不登校やひきこもりの問題も、こうしたこうあらねばならない的な、ジェンダーとか、何らかの価値観の影響で、子供たちが自信を失い、外に出ることを忌避(きひ)し、引きこもったり不登校になるのかもしれません。

 私は極端なジェンダー論者ではありませんが、男の子がスカートを履いても良い、男の子がサッカーよりもおままごとをしても良いとか、小さいうちから少なくとも趣味とか食べる料理とか、外見とか、あらゆること全般にわたってあれはだめ、これはだめと言われない世の中が正しいと思っています。
*例えばラーメン屋に女性が一人で食事をしに来てもいいじゃないですか。

🌟 困難を乗り越える「未来への楽観」の重要性
 私は不登校や引きこもりの気質が小さい時からとてもありましたが、学校に行かなくなったり、外に出ることができなくなったりはありませんでした。それはひとえに太陽を愛していたこと、そして人間不信論者でしたが、最終的には愛だとか、友情とか、人間を愛していた、人生を愛していたからではないでしょうか。もしも小さい時に、将来大人になると病気になる、仕事もなくなる、結婚もできないだろうなどと未来の私に言われていたら、ひきこもってたかもしれないし、自殺していたかもしれません。人間にはある意味未来への楽観がなければ生きていけない、私はそう実感しています。

🌎 多様性としての外国人:アジアへの「近くて遠い」感情
 さて、話を多様性の話に戻そうと思います。現代において多様性とは、なにもジェンダーだけではなく、外国人の存在があると思います。東京や京都、大阪など、観光地は外国人が押し寄せ、地方の自治体にもかなり多くの外国人たちが働きに来ています。おそらくは最近まで、外国人というと欧米人のみをさし、日本にとって韓国とか、中国とか、同じアジアの外国人というのは顔や体は似てるけれども、なんというか、近くて遠い存在でした。まだ深く差別感情を持っている方もいます。その同じ東アジア、儒教文化圏の外国人に対して持っている複雑な感情は、太平洋戦争、保守の方に言わせると大東亜戦争の傷跡が深く今の日本人にも残されているからだと思います。

🗺️ 島国根性の裏返し?日本人の「自己否定」としての海外論
 日本と日本人にとって海外とか、外国というのは自ら否定する、自己否定の概念だと先日亡くなったドイツ文学者の西尾幹二先生がおっしゃってました。確かに日本人が、たとえば海外だとこういう習慣があるとか、外国だとこうだとか語るときは、私たちの手元にあるなんらかの文化や価値観を否定する時にそういう話題を使うのであり、もっといえば、自称国際人たちにとっての外国とは西洋人、白人のそれをさしているのであり、それを取り上げる人たちはどこか彼らに対してまだ劣等感がある。それは有色人種としてのプライドや誇りとか、そういうのにも関連していますし、日本という島国に生まれたからこその、いわゆる物事が世界規模で客観視できない、島国根性の裏返しとすら私は思います。

📚 比較文化論のジレンマ:西洋を「鏡」とした自己理解
 私は若い時期に大量の本を読みましたが、大半が比較文化論に関する本でした。中根千恵、会田雄次、西尾幹二、中島義道らどの人たちもイギリス、古代ローマ、ドイツなどを彼らは語ります。
 
 しかし、比較文化と言っても西洋と比べたうえでの比較を語る、今思うと彼らは自覚がないにしても西洋主義者なのかなと思います。彼らが外国のことを口に出すのに、その大半が欧米のことですし、よく観察してみると、欧米と言ってもアメリカ、カナダ、オーストラリアなどの国について語るのはとても少ない。西尾氏は反米の政治路線を語ることもありましたが、その思想は深くヨーロッパから来ているものであり、ショーペンハウアーの訳者とはいえ、彼がインド主義者だったとか、アジア主義者だったという感じは持てません。

 こう語ってしまうと、これらの本を読むのはたいそう無駄なことだったのではないかとも私は思います。しかしながら、何か特定の文化や思想を語るには、それの鏡となるものが必要なのです。少なくとも比較対象があると、自分の国である日本を語る上でも説得力がある。だからこれらの人々は積極的に欧米から学び、ある時は日本の社会やシステムを批判したのだと思います。とりわけ中島氏と西尾氏の研究対象はドイツ哲学でありましたから、西洋人の考え方を理解するためにも比較文化論的な見地がおおいに必要だったと推察しています。

💡 まとめ:制度の呪縛を解き放ち、多様性を力に変える行動する哲学へ
 日本が近代化のために導入し、戦後も形を変えて存続してきた家族制度や社会的価値観は、現代の日本人にとって「こうあらねばならない」という見えない強制力となり、多様な生き方を阻害する要因となっています。ジェンダーの固定化や、アジア諸国に対する複雑な感情、そして海外を自己否定の鏡として見る視線は、すべて過去の歴史的経緯と深く結びついています。

 戸籍制度や夫婦別姓の議論に「国体」を結びつける過剰な反発は、現代社会に必要な制度の柔軟な変革を妨げ、ひいては不登校や引きこもりといった個人の生きづらさにつながっている可能性があります。多様性を真に実現するには、過去の制度の残滓(ざんし)から来る呪縛を冷静に見極め、伝統の尊重と現代的な個人の尊厳・平等を両立させる、具体的な社会システムの変革を恐れない「行動する哲学」が必要です。

 私たちが本当に守るべきは、特定の「制度」ではなく、未来への楽観と、互いを認め合う共存の精神ではないでしょうか。

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生の苦悩と死の多様性:ニヒリズムと他者への投影

苦悩からの解放とニヒリズムの根底

 生きることがすべて苦悩ならば、それから解放されること、つまり死ぬことは苦しみからの離脱を意味し、本来は幸福なものとして考えられるべきです。

 しかしながら、私たちの多くは死ぬことになんとなく嫌悪感や理不尽さを感じ、それを忌(い)み嫌い生きています。

 現在、自分の中に経済的不安や、自分の健康に対する恐れがない人々は、その幸福を享受し、自分があたかも永遠に死なないかのような錯覚を覚えます。

 ほとんどの人間にとって、幸福とは快楽と同義であり、さながらその精神的、身体的な快が永遠に続くのかの如く錯覚を覚えます。一つわかっていることは、私たちは必ず死ぬのであり、その意味ではどんな人生もむなしいし、さみしい、そうしたある種のニヒリズム、虚無主義が私たちの精神の根底にはいつもあります。

感情の他者への投影と「不幸」の忌避

 宴会で酒を飲んでいるとき、自分が気持ちよく酔っているときに、仲間や同僚がその宴(うたげ)を楽しんでいる様子が感じられないとき、私たちは不快感を感じます。それはつまるところ、私たちはいつも自分の感情や内面を他者に投影させます。自分の今の感情は、他者も今感じているであろう気持ちに近い、もしくは同じようなものだと常に推測するのです。

 うつ病の患者や、憂鬱質(ゆううつしつ)の人たちが忌(い)み嫌われるのは、ひとえにこの自分の気持ちの、他者への投影が原因です。私たちはいつも他者に、自分の気持ちを強制します。自分が悲しい時に他者が喜んでいると不快を感じますが、同時に自分が楽しんでいるときにそばにいる人が悲しんでいたり、憂鬱であったりすると、またこれに対しても不快を感じるのです。

呼吸と生:自発的な苦痛の選択としての自死

 ところで、私たちはどんな時に死にたいと感じるのでしょうか。生と死はひとつとするならば、生きることはまさに死ぬことでもあります。たとえば私たちは生きているときに、ただ一度だけ呼吸を止めます。するとそれはたまらない苦しみであり、次に息を吸うまでその苦しみは続きます。

 思うに水泳の得意な方は、息を止めるのが上手な方であり、生きることと死ぬこと、苦しみに耐えることのうまい人間だと察します。いつでもおぼれ死ぬことはできますし、呼吸を自由にできないのは苦しみでもあります。

 人間というのは呼吸をしないだけでも死ぬ存在なのです。それゆえに、自分から死のうという方は自分から呼吸をしない人にその考え方は等しく、自ら生を断つ人は、自ら苦しみを求める人でもあります。

 確かに死と、苦しみは同義ではありません。睡眠薬による自殺、飛び降りによる一瞬の自殺、前者はおそらくは薬物により死の苦しみから免(まぬが)れて死ぬことができる可能性がありますし、高い建物から飛び降りることは、おそらくは一瞬の苦しみを経(へ)るだけで、それはほかの死に方よりも楽な可能性もあります。
 
 生のあり方は人それぞれです。そして、死に方も人それぞれ、多様性があります。ある人はこめかみに拳銃を当てて自殺し、ある人は薬物により死ぬ。そしてまた違う人は車が多く通る道路に身を投げて死にますし、高いところから飛び降りる人、水の中に入り溺死(できし)する人、あげればきりがないほど自殺の仕方はあります。しかし、先ほど申しあげたとおり、人間は呼吸を一度しないだけで死ぬことができる存在です。むしろ、生きているほうがおかしいくらい、それは誰でもわかります。

二つの自殺の動機:名誉のためか、自己の苦のためか

 では人はどんな時に死にたいのでしょうか。一般的にわが国では自殺は尊い行為でした。一番有名なものは切腹であり、自分の名誉のため、あるいは大切な人、主君や家族の名を汚(けが)さないため、侍(さむらい)と呼ばれる人、もしくは帝国陸軍の軍人たちは、積極的に腹を切ったり、敵軍の中に万歳と飛び込み自決をしました。
 
 これらの行為は現代を生きる私たちにはわかりにくいことかもしれません。なぜならば私たちは生き恥をさらすことよりも、無駄死にすることを恐(おそ)れるのであり、一般的に他者に対する名誉よりは、自分自身の人生や幸福を尊重します。

 今の世の中で他者に対する、もしくは自分に対する名誉のための自殺は少ないかもしれません。しかし、自分が会社のために思うように仕事ができないから、人と比べて劣っているからとか、そういった理由で死ぬ方は多くいると思います。

 自分の生よりも他者への名誉や、他者の幸福を優先するときに、人間は自分のためではなく、彼らのために積極的に死を選び取ります。それは基本的に昔も今も変わらないと感じます。

 他方で、病苦による苦しみ、貧困ゆえの苦しみにより、積極的に死を選ぶ人もいます。これは徹頭徹尾(てっとうてつび)自分のための、自分を苦しみから守るための死であり、その理由はあきらかです。

無目的の自死と「幸福な人生」という幻想
 
 では人は苦しみから逃れるときに自死を欲するのでしょうか。ただ他者に対する自己の評価とか、他人に対する名誉のためにだけ死ぬのでしょうか。私はもう一つ、無目的な自死があると思います。時たま、人生に何も悩みのないような小学生が自殺したとニュースが飛び込むことがあります。それを見て世間の人たちは

「生きていればよいことがあったのに。」

 と口をそろえてつぶやきます。しかし、その良いことというのはいったい何でしょうか。ある人は結婚したり、子供を作って家族を持ったり、楽しいことはあるとおっしゃいます。しかしそれらの人生のできごとは、人生のイベントの一つであるだけでなく、苦しみの一形態に過ぎないと感じます。

 生きていても、恋愛もできない、結婚もできない、結婚しても子供が産まれない、それは新たな内面的な苦しみであり、自分の幸福を他者や、あるいは財産とかにまかせるおろかな試(こころ)みであり、その行きつくさきは幸福でないこと、つまり不幸な人生です。

 そもそも幸福な人生自体が存在するのか私は疑います。世間の人がおっしゃる幸福とは快楽の充足であり、その快楽が満たされないとき、またその人は不幸になる、もしくは不幸だと思い込むことになります。

 自殺する小学生はこうした人間の欲望充足としての生活を看過(かんか)したのであり、死ぬことでしか解決策が見いだせないと悟ったのではないでしょうか。生きていて、呼吸ができないとき、それはその人にとってとてつもない苦痛です。
 
 しかし人間にとっての本当の苦しみは、未来に対してあれこれ思案することです。
 
 現状が不幸ならばこれから先もきっと不幸だと思いますし、感じます。それは幸福な人が将来的にも安堵する人生を歩めるだろうと予期することと同じです。

結び:死者への眼差しと生きる者の責務
 
 自殺した人を見るとき、それはあわれみを感じるべきではないでしょう。むしろ死ななくてすんでいる自分の生をマシに思うべきです。願わくば、自死をしない、まわりの人を自死させない人生を過ごしたいものです。

#自殺の哲学 #ニヒリズム #実存の苦悩 #名誉と自死 #感情の投影
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🤒 病苦についての考察:普遍的な苦と治療への試み

1. 仏教における病苦の位置づけ
 病苦は仏教の四苦の一つです。仏教の四苦とは生苦、老苦、病苦、死苦があります。それらは人間が人間として生存する以上は、避けられない苦しみと伝えられています。
 実際に、多くの人が死ぬまでになんらかの病気を経験し、それにより苦しみ、あるものは途中で回復し、あるものはそのまま死んでいきます。

2. 病苦の多様性と深刻な精神の苦しみ
 病苦は誰にとっても苦しみです。咳が出たり、熱が出たり、おなかが痛くなったり、あるいは精神をおかしくし、気が狂ってもだえ苦しみます。

 人間は古来より病気の苦しみから逃れようと、薬を開発したり、病気を治そうと医師に頼ったりしました。

3. 老苦と病苦の差異:治癒の可能性 
 老苦が逃れられない苦しみだとして、病苦はそれがしばらくすると熱が下がったり、薬が効けば咳が止まったりします

 がんと呼ばれる、昔はおそらく不治だった病も、手術によりその病巣を取り除くことにより治ったりします

 老苦は一般的に逃れられない苦しみでありますが、病苦に関しては治ることもあるため、みな、病気にかかればそれを治そうとします。

4. 精神疾患の治療と「治らない病」の問題
 では精神的な病についてはどうでしょうか。多くの人は、死ぬまでに憂鬱とか、一時的なアルコール依存などを経験します。病気の人とそうでない人の境目(さかいめ)は、それがずっと続くか、続かないかの差によります

 うつ病はいくら心の風邪(かぜ)といっても、治らなければそれは深刻な病であり、一生うつ病の薬を飲み続けることになります。

 風邪(かぜ)や気管支炎(きかんしえん)、肺炎(はいえん)が治るものとして治療されるのに対して、精神病は治らないものとして投薬や治療がなされます。

 統合失調症に対して抗精神病薬(こうせいしんびょうやく)は幻覚や幻聴、妄想をおさえるものとして処方されますが、それを根本から治すものではありません。

 同様に、てんかんを防ぐ抗てんかん薬はてんかん発作を防ぐために処方されますが、てんかん発作を二度と起こさないようにするための薬ではありません

5. 身体的な「治らない病」とその機能制限
 治らない病気としては、脳梗塞(のうこうそく)や脳卒中(のうそっちゅう)などの脳血管障害があります。これらは飲酒や食事など、生活習慣により引き起こされるとの説もありますが、一般的にがんと同じでその人には何も抗(こう)する方法がなく、予期せず身体的な災難として起こります。

 脳血管障害によって脳の一部が壊死(えし)し、欠損すると、それにより認知機能や言語機能、まひによる身体機能の不自由も起こります。

6. 病苦の心身への影響と管理への期待
 このように、病苦というのは身体だけでなく、精神までその機能を著(いちじる)しく制限し、その痛みは耐えることができないくらい私たちの心身をむしばみます。病気はできるなら避けたい苦しみです。

 思うに老苦や死苦というのは避けられない苦しみと考えられていますが、病苦に関しては日々の生活や、運があるのではないかと私たちは考えます。       

7. 病気に対するコントロールと運命論の対立
 たとえばコロナが流行(はや)っているときに、り患した患者のそばに近づいたり、人ごみを訪(おとづ)れたり、時には学校の先生たちや、職場の上司たちにとって、病気というのは私たちが管理すべき、コントロールすべきもののように扱われていると思います。

 西洋哲学者のように、人間の意思の自由を信じている人たちにとって、病気は避けたり、治療したり、どうにかなるものなのかもしれません。
 他方で、決定論や運命論を信じている人たちにとって、病気も避けられない苦しみの一つとして扱われます。実際、ある人は肺炎やが治癒するのに、別の人は風邪がきっかけとなり、別の病気をひきよせ、死んでしまうこともあります。病気と死は密接であり、多くの人は事故以外はなんらかの病気にかかって死にます。

8. 認知症の「老苦から病苦へ」という現代的な再分類
 そして、現代は、昔は老い、老苦のひとつとして考えられていた、痴呆(ちほう)や物忘れも、認知症と呼ばれ、病苦だと扱われるようになりました。        

 しかし、一般的に認知症や物忘れは発症を抑えることが難しく、その多少は人によりますが、多くの人は年を取るにつれて認知機能は低下していきます。

9. 老化と死の苦しみに関する哲学的視点
 ある哲学者や宗教家は、老化現象とは死の苦しみを減らすためのものだと言います。しかし、そうすると若くして死ぬ人は死の苦しみが減らずに死を迎えるのであり、痴呆にかかる人の多くがそれはそれで別の苦しみとして経験するべきものとなります。

🤒 病への対峙:人生哲学が反映される普遍的なテーマ
 以上、病気について考察したが、ほかの意見もあるでしょう。しかし誰にとっても病(やまい)とは苦しみの一つであり、人生の一大(いちだい)テーマなのです。
 病に対してどう立ち向かうか、それはその人の人生哲学が反映されます。ある人は風邪をひいたら風邪薬を飲み、ある人は何も処置をせずにじっと高熱に耐えています。
 さながらそれは人生を苦と割り切り、時が過ぎ去り、耐えて忍ぼうとする人たちと、人生とは人間の自由意思でいかようにもなると、積極的に立ち向かう人のように病に対する態度はその人生哲学が深く反映されます。

 世の中の人が一人でも病から救われ、一人でも幸福な生を享受するのを私は願ってやみません。

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「価値観ゲームで見つける起業のタネ ワークショップ」に参加しました。カラバリューカードで自身の価値観を明確にし、起業のヒントを得る貴重な時間でした✨ 参加者との刺激的な対話も大きな学びです。この経験を活かし、前進します!

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#発達障害 × お仕事 もやもやあぶり出しカフェ☕️参加】
今日、イベントバーエデン本店でイベントに参加。
働きづらさや人間関係の「もやもや」を皆さんと共有し、言葉にする貴重な時間でした。自分の特性と向き合い、他の方の経験も知れて、励まされました。
参加者の皆様、ありがとうございました!

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🕰️ 仏教における時間と因果律:説一切有部(せついっさいうぶ)から中観派への道のり

現代物理学が時間と空間の概念を絶えず問い直すように、古代インドの仏教思想家たちもまた、時間と因果律(縁起)がどのように存在し、作用するのかについて深く、そして熱い議論を交わしました。

この壮大な思索の旅は、万物が実体を持つと考える一派から、すべては空であり、無常であると主張する革新的な思想へと展開していきます。本稿では、仏教における時間論と縁起の展開を、主要な宗派の視点から探り、その深い哲学的な意味を解き明かします。

Ⅰ. 説一切有部(せついっさいうぶ)の時間論:三世実有と実体としての「法」

1. 「説一切有部」とは?

「説一切有部(Sarvāstivāda)」は、紀元前後にインドで栄えた初期の有力な部派仏教の一派です。その名の通り、「一切有(すべてが存在する)」ことを説くのが特徴であり、特に過去・現在・未来の三世にわたって、構成要素(法)が実体として存在することを主張しました。

2. 「三世実有」の主張

説一切有部の核となる思想が「三世実有(さんぜじつう)」です。これは以下の点を意味します。

過去有(かこ・う):過去に滅した現象や行為(法)は、その作用力は失っても、実体としては今も存在し続けている。

現在有(げんざい・う):現在の現象は、もちろん実体として存在する。

未来有(みらい・う):未来にまだ生じていない現象も、実体としては既に存在している。

彼らは、世界を構成する最小の実在的な要素を「法(ダルマ)」と名付けました。この法は「自性(svabhāva)」、すなわち固有の本質を持つ、固定された実体であると捉えられました。

説一切有部にとって、時間が流れても、この「法」そのものは滅することなく、三世にわたって実体として存在し続けます。私たちが「時間」として認識しているものは、この法が過去・現在・未来という位(あり方や状態)を変化させることによって生じる現象に過ぎないのです。

3. 三世実有と因果律(縁起)の成立

この「三世実有」の立場は、仏教の根本原理である因果律(縁起)を論理的に基礎づけるために不可欠なものでした。

縁起とは、「これがあるから、あれがある」という相互依存の関係、すなわち原因と結果の法則です。説一切有部は、三世実有によって、この因果律を以下のように説明しました。

過去の業の作用:もし過去の行為(業)が完全に「無」になって消滅してしまうならば、なぜその過去の業が、現在の結果(苦や楽)を生み出すことができるのでしょうか。説一切有部は、過去の業が実体として存在し続けるからこそ、それが因となって現在の果を引き起こすという、業の持続性と因果の確実性を担保したのです。

過去の法(因)が実体としてあり続け、それが現在の法(果)を生じさせるというメカニズムによって、彼らは仏教の核となる「業報思想」を強固に理論づけました。

Ⅱ. 中観派(ちゅうがんは)の登場:実体の否定と「一切皆空」の確立

1. 中観派(ちゅうがんは)(Madhyamaka)の革新

説一切有部の思想が、法に実体(自性)を認めたのに対し、後に現れた「中観派」は、その一切を徹底的に批判しました。中観派の祖は、紀元2世紀頃に活躍したナーガールジュナ(龍樹)であり、その思想は後の大乗仏教に決定的な影響を与えました。

2. 「一切皆空」と「諸行無常」

中観派は、釈迦の教えをより忠実に、より厳密に理解しようと試み、「一切皆空(いっさいかいくう)」と「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の立場を極限まで推し進めました。

諸行無常の徹底:仏教の根本教義である「無常(Anitya)」とは、すべての現象は絶えず変化し、留まることがないという事実です。もし説一切有部が言うように、過去・現在・未来にわたって法が自性(固定された実体)を持つならば、それは「不変」であることになり、「無常」の教えに矛盾します。中観派は、法に実体を認めると、それは変化しない常住なものとなり、仏教の根本を否定することになると主張しました。

一切皆空:中観派の主張の核心は、「空(śūnyatā)」です。これは「何もない」という意味ではなく、「自性がない(無自性)」という意味です。あらゆる現象(法)は、それ自体で独立して存在する固有の実体を持たず、すべては他のものとの関係性(縁)によって仮に成り立っている(仮有)と捉えます。

中観派の批判の要点:

説一切有部が過去の法に実体を認めることで、時間の流れや変化という概念自体が説明できなくなる。なぜなら、実体とは不変であるはずだからです。もし過去の法(因)が実体としてあり続けるなら、それは「過去」ではなくなり、また「因」も「果」に変化できないことになります。

3. 実体を否定して、なぜ縁起が成立するのか

説一切有部が「三世実有」という実体論によって縁起を確立しようとしたのに対し、中観派は、実体(自性)を否定するからこそ、真の縁起が成立すると主張します。

これは、ナーガールジュナの『中論』における、非常に逆説的で深遠な論理です。

1説一切有部の論理

存在:法は実体(自性)を持つから存在する。
縁起:法が実体を持つから、因果律(縁起)が成立する。

中観派の論理
存在:法は実体を持たない(空)から存在する。
縁起:法が実体を持たないからこそ、因果律(縁起)が成立する。

「空」と「縁起」は同義:中観派にとって、「空」と「縁起」は二つで一つの真理です。

すべてが縁起によって生じる → 自性(独立した実体)を持たない → 空

すべてが空である → 他のものとの関係性(縁)によって仮に生じる → 縁起

実体があれば縁起は不可能:もし原因(因)と結果(果)がそれぞれ固有の実体を持っていたと仮定します。

因と果が完全に同一であれば、それは単なる自己同一性であり、変化も生成もありません。縁起は成立しません。

因と果が完全に別個であれば、両者の間には関係性がなく、因が果を生むという繋がりが論理的に説明できません。縁起は成立しません。

ナーガールジュナは、因と果、生と滅、常と断といった二元論的な対立(二辺)を徹底的に論破し、その中道を空としました。法に実体がないからこそ、法は絶えず変化し、他の法と関係を結び、生じたり滅したりという「はたらき」を持つことができ、この「はたらき」こそが縁起なのです。

Ⅲ. 原初仏教における時間と縁起の捉え方

説一切有部と中観派の議論は、釈迦入滅後の哲学的な展開ですが、その根底には、釈迦の教え、すなわち原初仏教の思想があります。

1. 時間についての態度の保留

原初仏教、特にパーリ語経典に見られる教えでは、時間それ自体に関する抽象的・形而上学的な議論は、多くの場合、保留(無記)されました。

実存的な時間:釈迦の関心は、衆生が直面する苦(Duhkha)と、そこからの解脱にありました。時間は、過去を悔い、未来を憂うという苦を生み出す心理的な枠組みとして捉えられましたが、時間が実体として存在するかどうかという問いは、解脱という目的から見て無益な議論であるとされました。

「今」の重要性:修行においては、過去への執着や未来への期待を断ち切り、「今・ここ」に集中する正念(sati)が重視されました。時間は、固定された実体ではなく、絶えず変化し続ける瞬間(刹那)の連なりとして、動的な実存の中で体験されるものと捉えられていたと考えられます。

2. 「十二縁起」と動的な因果律

原初仏教において、時間の流れと因果律を最も明確に示したのが「十二縁起(十二因縁)」です。

十二縁起は、衆生が老死という苦しみに至るまでの生命の連鎖(輪廻)を、12の要因(無明、行、識など)の繋がりとして示します。

十二縁起:無明があるから行が生じ、行があるから識が生じ... 生があるから老死が生じる。

これは、静的な「法の実体」ではなく、「あるもの」が原因となって「別のもの」を生じさせるという、非常に動的かつ実存的な因果の法則です。

この原初の十二縁起は、説一切有部の三世両重の因果(過去の因が現在の果を生み、現在の因が未来の果を生むという二重構造)や、中観派の一切皆空という極端な哲学へと展開していく、すべての仏教的時間論・因果律の原点となったのです。

Ⅳ. 結論:仏教の時間論と縁起の二大潮流

仏教における時間論と因果律(縁起)の議論は、「実体」を認めるか否かという哲学的な対立を軸に展開しました。この展開は、仏教思想の深さと、教えを論理的に基礎づけようとする試みの真摯さを示しています。

1. 仏教的時間論:実体と刹那滅

仏教の時間論は、以下の二つの大きな潮流に集約されます。

1説一切有部(部派仏教)
時間の捉え方:三世実有:過去・現在・未来の法は実体(自性)として存続する。時間は法の位の変化。
意味:業報の持続性を論理的に確立した。

2中観派(大乗仏教)
時間の捉え方:刹那滅:法は実体(自性)を持たず、生じた瞬間(刹那)に滅する。時間の流れは、刹那の連続的な生成と消滅。
意味:諸行無常の教えを極限まで徹底した。

中観派が採用した「刹那滅(せつなめつ)」の思想(法は生じた瞬間に滅する)は、実体の否定(空)と強く結びつき、真の「無常」を体現する時間論となりました。

2. 仏教の因果律(縁起):実有の縁起 vs. 空の縁起

縁起の捉え方も、時間論と密接に結びついています。

説一切有部の縁起(実有の縁起):過去の法が実体として存在し続けることによって、原因と結果の必然性が保証される。「因果の確実性」を重視した実体論的な因果律。

中観派の縁起(空の縁起):法が実体を持たず「空」であるからこそ、常に変化し、他のものと関係性を結び、依存して生起するという動的な縁起が成立する。「因果の必然性」を、実体の否定という逆説的な論理で確立した、関係論的な因果律。

3. まとめ

仏教の哲学は、私たちが当たり前と考えている「時間」や「存在」の概念を深く掘り下げました。

説一切有部は、業報の持続性という実存的な問題を解決するために法に実体を認め、時間の流れを「位の変化」と捉えました。対照的に、中観派は、無常という根本原理を徹底するために法の実体を否定し、空という洞察を通して、すべてが関係性の中でのみ成立するという、より徹底した動的な縁起の思想を確立したのです。

この仏教の時間論と因果律の議論は、固定された「私」や「世界」という概念から離れ、絶えず変化し、相互に依存し合う流動的な現実への洞察を深めることを促していると言えるでしょう。

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東松山市のまちカフェにある沖縄キッチン くくる様で、軟骨ソーキそばセットを堪能しました!🍜✨

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📜 私の体験から紐解く大学の「思想的カラー」と教育の現実

1. 大学の思想的立ち位置:建前と本音

大学は、公式には右翼や左翼といった特定の思想を掲げず、学問の自由と政治的中立性を標榜しています。しかし、教員や運営団体、学生の思想、学生団体のイデオロギーによって、その大学が外部から特定の「カラー」を持つと見なされるのは、私の体験からも明らかです。

🎓 経済学の多様性と慶應・明治の対比

私が最も驚いたのは、イベントバーエデン本店で「マルクス経済学を学ぶバー」に参加した際、講師のえらいてんちょう氏が慶應大学経済学部出身でマルクスを学んだと知ったことです。単純に、私は慶應大学をブルジョワ大学と勝手に思っており、そこではブルジョワ経済学と呼ばれるミクロ経済学とマクロ経済学を学ぶべきだと誤解していました。

私の卒業した明治大学経営学科では、マルクス経済学が半期必修科目でした。面白かったのを覚えています。私の母親も明治大学出身で、彼女にこの話をすると「慶應大学にマルクスなんてあるのか?」と聞かれました。えらいてんちょう氏に確認したところ、慶應では選択科目だったそうで、私の経営学科でマルクスが必修、一般教養での選択科目がなかったという微妙な違いが、両大学の学風の違いを象徴しているようで面白いと感じました。

📜 明治大学経営学科の起源をめぐる二つの説

なんでも本当かどうかわからない話ですが、明治大学経営学科というのは、戦後に明治大学の昔の名門といわれた商学部からマルクス主義者、マルクスの関係者、マルクスの研究者、学者たちを排除して作られたという説と、逆にその追い出されたマルクス主義者たちが経営学科を作ったという説の両方を聞きました。どちらにせよ、大学の学風や人事は、激しいイデオロギー闘争の結果だということを示唆しています。

👤 学長人事にみる大学の思潮転換と学閥

私の時の学長は山田雄一氏といって、東大の心理学者でした。心理学者が明治大学の学長に居座っているというのも不思議でしたし、経営学部のトップであったのも理由がよくわからなかったです。しょせん明治大学は東大の植民地だから、東大の人がポストを占める分には当然だったのかもしれないと当時は考えていました。

では明治大学にはマルクス主義者はいなかったのかというと、私は大学院進学を考えていた時に研究室めぐりをしていて、ある教授から、「明治大学経営学科の人事部門はマル経(マルクス経済学)だからやばい」という話をうかがいました。今思うとマル経でもよかったのですが、私のゼミから他学部の大学院に進学した先輩から、教授から思想を植え付けられて、いやだと語っていた話を聞きました。

2. 思想の押し付けがもたらした弊害:授業妨害と休講

私の体験から強く言えるのは、「大学が右か左かは関係なく、思想の押し付けや洗脳が悪い」ということです。

🚫 学生運動の負の遺産:休講の連発

このほかにも大学の持っているイデオロギーには思い当たることが多く、明治大学で学生会が何か抗議活動やイベント、場合によっては授業を妨害するような行動をしていると、その日は丸一日休校になったのです。補講も一切ない。二時間以上かけて熊谷市から来てるのに、こういうことが続いてずっと嫌でした。多くの当時の明治大学の学生はこれのせいで一般的に左翼に良いイメージを持ってないのです。ユーチューバーのえらいてんちょう氏にもこのことは伝えたのですが、彼はよく理解しなかったようでした。

📢 「右」の大学での相似た現象

ある時、学生会の抗議活動で講義が中止になり、なんとなく関西の友人にe-mailをしてみると、彼の大学では右翼の街宣車が来ていると言っていました。同じ様なことが、いわば右と呼ばれる大学でも起きてるんだなと、とても実感しました。彼も同じく、自分の大学が右であると認識してるようでした。このことから、特定のイデオロギーが強くなると、学習環境が乱されるという現象は、左右を問わず共通しているのだと理解しました。

3. 建学の精神とイデオロギー:宗教系大学の特異性

国士館大学とか、國學院大學とか、学習院大学は、いわば神道寄りとか右寄りとか、勝手なイメージを持たれてしまっています。

🕌 右寄り大学の「カラー」

右寄りの大学に通っていた友人の学生は、教授が講義中に太平洋戦争のことを一貫して大東亜戦争と口にしていたのに驚いたという話も聞きました。単純にその大学を右か左か一般化できないが、その大学のカラーがあるのは確かだと思います。

🙏 キリスト教系大学の規律と反動

ちなみに私の父親は上智大学、伯父は立教大学に通っていました。この二つの大学をキリスト教系の大学と呼んでもレッテル張りにはならないでしょう。みんなが認めていることだからです。父親や母親から聞いた話だと、キリスト教系の大学は学生運動が激しかった時に、一貫してそれらの活動に対して反対する行動をとったというのです。だから講義が中止になったり、学内が壊されたり、学生たちが反動的な活動に走ったりが少なかったそうでした。そういうのを最初から知っていたら、イデオロギー色の少ない、あえてキリスト教系の大学に進学したものですが、時はすでに遅しです。

⛪ 神父の説教がもたらした影響

ただ、それがいいかというと、父親が在学当時上智大学では、頻繁に神父による説教があったそうでした。父親は理工学部だったのですが、「そういうことがあるんだ」と思ったそうです。父は最初は神父の説教を真面目に聞いていましたが、だんだん彼のいうことが信じられなくなり、キリスト教から距離を置くことになりました。そのことが私が無信仰になったのにも影響しています。

🤝 キリスト教と左翼活動の接点:キリスト教社会主義

30代になってから上智大学に反貧困ネットワークの会合に行ったことがあります。そこの関係者に、上智大学の保守的なイメージと、社会活動、左翼活動は合わないのではないかと聞きましたが、彼女から、キリスト教には伝統的にキリスト教社会主義という思想があると教わりました。

イエスをローマ帝国の圧政に抗した反逆者、革命家としてとらえ、社会変革や革命はイエスやキリスト教徒が中心になり行うべきという考え方だそうです。私はこの考え方や思想は全く知らず、さすが活動家の人たちは頭が良いなと思ってしまいました。

4. どんな大学を選ぶべきか:自由な探求の場を求めて

これまでの私の体験と考察を踏まえ、今の学生たちが大学を選ぶ際に重視すべきポイントを以下にまとめます。

1. 宗教的なカラーがはっきりしている大学を選ぶか?

佛教大学や国際基督教大学など、学名に宗教名が入った大学を選べば、少なくとも「入ってから私は知らなかった」「宗教を強制されるとは思わなかった」と思うことはないのではないでしょうか。また、一般的にキリスト教や仏教など、宗教がバックグラウンドにある大学は、私の経験したような左翼的、反動的な活動とは距離を置いている(らしい)ので、学生生活が邪魔されることはないのであろうかという期待も持てます。

2. あえて左と呼ばれる大学に入るか?

早稲田大学や明治大学、法政大学などは一般的に左の大学、左派の大学といわれています。これらの大学ではマルクス経済学の講義がおそらくは行われているでしょうし、大衆的な大学と知られています。学費も他の大学と比べて少し安いらしいという魅力もあります。

3. 右と呼ばれてる大学に入るか?

私の代は小林よしのり氏の影響が強く、自らを保守であると自称してる方が多かった時代です。そういう方にとって国士館大学、國學院大學、学習院大学などに入って、みずからの思想にあった教育を受けるのもありではないでしょうか。ここで注意しておきたいのが、神道がそのまま右翼というわけでもないということなのです。

結論:思想の押し付けがない自由な環境を

結局のところ、大学選びの最も重要な基準は、「特定のイデオロギー(右・左・宗教)の押し付けや洗脳がないこと」であり、「多様な学問と思想が自由に共存し、批判的な議論が許される環境」が保障されているかです。大学のカラーや伝統を理解しつつも、自分の学習権と自由な思考が守られる場所こそが、現代の学生が選ぶべき大学だと、私の苦い経験からも痛感しています。

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🤯 人生を劇的に変える「プライドの捨て方」:お金、人間関係、成長が手に入る魔法のスイッチ

導入:あなたの人生を縛る、目に見えない鎖

もし今、あなたが「生きづらさ」や「停滞感」を感じているとしたら、その原因はもしかすると、あなた自身が強く握りしめている、ある“邪魔なもの”かもしれません。

それは、「プライド(自尊心)」です。

私たちは幼い頃から、「自分を大切にしろ」「自信を持て」と教わります。もちろん、自分を尊重することは大切です。しかし、時にこの「プライド」は、私たちの成長や幸福にとって、重い足枷となることがあります。

特に、「他者からの評価」に依存したプライドは、あなたの行動、思考、そして財布の中身までを縛りつけ、人生を窮屈にさせているのです。

本記事では、この「プライドを捨てる」という行為が、いかにあなたの人生に劇的な変化をもたらすか、そして、それが決して「自分を卑下すること」ではないことを、具体的なメリットと共に徹底的に解説します。



🌟 なぜプライドを捨てるべきなのか?その本質的な意味


まず、本記事でいう「プライドを捨てる」とは、具体的にどういう状態を指すのかを明確にします。

それは、「他者からの評価を一切捨てること」、つまり、自分の価値を他人の目線や意見によって測ることをやめる、ということです。

多くの場合、私たちが抱えるプライドとは、「自分は人からどう見られているか?」「バカにされていないか?」「認められているか?」といった他人軸の不安や期待から成り立っています。この不安から解放されることが、「プライドを捨てる」ことの本質なのです。

このマインドセットの転換こそが、人生をより軽やかで、より豊かで、そして何よりも「自分らしく」生きるための最初の、そして最も重要な一歩となります。



💰 メリット1:お金が貯まる!「どう見られるか」から解放された自由な経済観念


プライドは、知らず知らずのうちに、私たちの財布からお金を抜き取っていきます。



1.洋服や外見への「過剰な」こだわりからの解放



私たちが高価なブランド品やトレンドの服を買う理由の多くは、「人から良く見られたい」というプライドの要求を満たすためです。

「この服を着ていれば、自分は成功している人間に見えるだろう」

「安っぽい服を着て、人からケチだと思われたくない」

こうした他人の目を基準にした買い物をやめることで、生活費は劇的に改善します。プライドを捨てた人は、服を選ぶ基準が「誰からどう見られるか」から「自分が心地よいか」「機能的か」に変わります。

その結果、本当に必要なもの、本当に価値のあるものにだけお金を使えるようになり、無駄な出費が減り、お金が驚くほど浮くようになります。



2.見栄のための交際費や消費からの脱却



また、プライドは、「人より劣っていると思われたくない」という心理から、不必要な交際費や見栄を張るための消費を促します。

高級な店での食事を断れない

自分の身の丈に合わない贈り物を買ってしまう

流行に乗るためだけに欲しくもないガジェットを買う

プライドを捨てれば、他人の評価を気にせず、「今日のランチは節約したい」「この飲み会はパスしたい」と素直に言えるようになります。この勇気ある一言が、毎月数万円単位での節約に繋がるのです。

経済的な自立は、精神的な自立に直結します。「評価」という高価な代償を支払うのをやめた瞬間、あなたは本当の豊かさを手に入れることができるでしょう。



🧠 メリット2:思考が進化する!知識と人間関係の質を高める柔軟性


プライドがあなたの成長を止める最大の要因は、「自分が正しい」という確信です。



1.他者の意見を積極的に受け入れられるようになる



プライドが強い人は、自分の意見を否定されると、それは「自分自身の価値を否定された」と感じてしまいます。そのため、建設的な批判や異なる意見であっても、反射的に拒絶したり、反論したりします。

しかし、プライドを捨て、「自分の意見はあくまで一つの仮説に過ぎない」と認識できると、この防衛反応は消滅します。

他者の意見を、「自分に足りない視点を補完してくれる情報」として歓迎できる。

議論を、「どちらが正しいか」ではなく「より良い結論を見つける場」として楽しめる。

これにより、あなたは常に最新で多角的な知識をアップデートでき、思考の柔軟性が格段に向上します。これは、現代社会を生き抜く上で最も重要なスキルの一つです。



2.人間関係の摩擦が減り、質の高い交流が可能になる



人間関係のトラブルの多くは、「お互いのプライドのぶつかり合い」から生じます。

プライドを捨てることは、「自分が折れる」ことを苦痛に感じなくなるということです。他人の過ちを許しやすくなり、自分から謝罪することも容易になります。

「ごめん、私の認識が間違っていた」 「なるほど、それは知らなかった」

こうした一言が、人間関係を円滑にし、余計なストレスやエネルギーの消耗を劇的に減らします。その結果、あなたの周りには、お互いの成長を心から喜び合える、質の高い仲間だけが残るようになります。



🛡️ メリット3:内なる敵を消滅させる!劣等感からの解放


プライドと劣等感は、コインの裏表です。これは非常に重要なポイントです。



1.プライドと劣等感は表裏一体である



私たちが感じる「劣等感」は、「人からバカにされたくない」「人より劣っていると見られたくない」というプライドが作り出した影です。

学歴コンプレックス:「高学歴でなければ人から認められない」というプライド

生育環境へのトラウマ:「恵まれた環境にいる人より劣っていると見られたくない」というプライド

過去の失敗:「失敗した人間だと思われたくない」というプライド

これらは全て、「他者からの評価」を恐れるプライドから生まれています。

プライドを捨てて、「他人の評価は自分の価値とは関係ない」「誰に何を思われても自分の人生に影響はない」と心から思えた瞬間、この劣等感は根拠を失い、消滅します。



2.過去の自分を赦し、今を生きられるようになる



過去のトラウマや、人からバカにされた経験は、強いプライドを持つ人にとって、「あの時、自分は正しかった」と証明するためのエネルギー源となることがあります。しかし、それは同時に、あなたを過去に縛りつけます。

プライドを捨てれば、「あの時どう思われてもいい」「過去は過去」と、自分自身を赦せるようになります。他人にどう思われるかではなく、「今の自分がどうあるべきか」にエネルギーを集中できるようになり、真の意味で「今」を生きられるようになるのです。



🚀 メリット4:人生が加速する!新しい学びへの扉を開く


最も即効性があり、人生の可能性を広げるのが、このメリットです。



1.無知を恥としない強さ



プライドが強い人は、「できないこと、知らないことを認める=無能と見られる」と恐れます。

人前で「知らない」と言えない

質問をすることが、自分の地位を下げる行為だと感じる

自分の専門分野外の話題に触れることを恐れる

このプライドこそが、新しい学びを阻害する最大の壁です。

しかし、プライドを捨て、「知らないのは当たり前だ」「知ろうとしないことこそ恥ずべきだ」という認識に変わると、あなたの行動は一変します。

素直に「教えてください」と言える

躊躇なく質問できる

できないことを認めることで、上達へのルートを明確にできる

これは、「無知を恥としない」という、真に強い精神性の獲得を意味します。



2.AIなどの最新ツール利用を躊躇なく始められる



現代社会において、AIなどの新しいツールは、私たちの生産性を劇的に向上させる力を持っています。しかし、プライドは、しばしばその導入を妨げます。

「AIに頼るのは、自分の能力を否定することになる」

「新しいことを学ぶのは面倒だ。今まで通りでいい」

「周囲に遅れていると思われるのが嫌だ」

特に、知識労働者や専門家を自認する人ほど、このプライドによる抵抗は大きくなりがちです。

しかし、プライドを捨てれば、「効率を上げられるなら、どんなツールでも利用するべきだ」という極めて実用的な思考に変わります。AIを「自分の能力を拡張する最強の相棒」と捉え、年齢やキャリアに関係なく、新しい知識や技術の習得に飛び込めるようになります。

この「素直な実行力」こそが、変化の激しい現代で、あなたの市場価値を維持し、高めていくための最大の武器となるのです。



💡 プライドを捨てるための具体的な行動ステップ


プライドを捨てることは、「自信をなくす」ことではありません。それは、「自信の根拠を他人軸から自分軸へ移す」ということです。

今すぐできる具体的なステップをいくつか紹介します。



ステップ1:意識的に「知らない」と言う練習をする



会議中や友人との会話で、知らない言葉や概念が出てきたら、勇気を出して「それ、どういう意味ですか?」と尋ねてみましょう。最初の数回は抵抗があるかもしれませんが、すぐに慣れ、学びの姿勢が周りから評価されるようになります。



ステップ2:「一番安いもの」を選んでみる



洋服やガジェットを買うとき、誰かの目を意識せず、「機能性」と「価格」だけを基準に選んでみましょう。あなたが選んだものが、たとえ最安値のものでも、あなたの価値は変わりません。この訓練が、見栄からの解放につながります。



ステップ3:自分の失敗談を語ってみる



あえて、自分の過去の失敗や、現在の課題を隠さずに話してみましょう。自分の弱さをオープンにすることで、相手も心を開き、より深い信頼関係が築けます。同時に、「失敗を恐れる自分」から解放されます。



ステップ4:AIなどの新しいツールを「子どものように」触ってみる



「使いこなせるか?」というプライドは捨て、遊び感覚でChatGPTなどのAIツールに触れてみましょう。「試行錯誤を楽しむ」姿勢を持つことが、最先端の技術を自分の味方につけるための最短ルートです。



結論:プライドを捨てた先に待つ、真の自立と自由


「プライドを捨てる」という言葉は、一見ネガティブに聞こえるかもしれません。しかし、本記事で解説したように、それは「他者評価という幻想の鎖から解放される」ことを意味します。

プライドを捨てたあなたは、

経済的な自由: 無駄な見栄の消費がなくなり、本当に大切なことにお金を使える。

精神的な柔軟性: 意見の違いを恐れず、常に賢くなれる。

内面の平和: 劣等感や過去のトラウマから完全に解放される。

加速する成長: 新しい学びや技術をためらいなく取り入れられる。

これらのメリットは、あなたの人生を根本から支える、強固な土台となります。

自分の価値は、他人の評価ではなく、「今の自分がどう行動するか」によってのみ決まります。

さあ、今日から、重い鎧(プライド)を脱ぎ捨て、身軽になったあなた自身の人生を、誰のためでもなく、あなた自身の幸福のために歩み始めましょう。その一歩こそが、最も価値のある、真の「自尊心」の始まりなのです。

#プライドを捨てる #人生逆転 #自己成長 #生き方 #マインドセット #お金を貯める #劣等感克服 #AI活用 #自己啓発 #人間関係改善

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東松山市産業祭、大盛況でした!🎉
​ステージイベントも出店もすごい賑わいで、見て回るのが楽しかった〜😊
あゆみんにも遭遇!可愛すぎる💚
#東松山市 #産業祭 #イベントレポ
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東松山市の「まちカフェ 牡丹文化堂」さんのジャズイベントに参加しました!🎷
レコードから流れるジャズを聴きながら、美味しいコーヒーと焼き菓子で最高のひととき☕✨
本もたくさんあって、文化的な空間が本当に素敵でした。
地域に根ざした素敵な場所!また来たいな😊
#牡丹文化堂 #東松山 #まちカフェ #ジャズ #JazzCafe #古本屋 #埼玉カフェ
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社会福祉法人「埼玉いのちの電話」に強く問いたい。
​無償のボランティアになるための研修費用が、なぜ6万円も必要なのか?
​年間数万件も電話が繋がらない深刻な状況で、この高額な自己負担は、本当に「いのちを支える」活動を推進するものなのか?
​費用負担の明確な根拠を説明してください。
#埼玉いのちの電話 #ボランティア #6万円は高すぎる #社会福祉法人
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🎓 明大経営学科卒の私がたどり着いた問い:現代人にとって経済学と経営学とは何か?

マルクス経済学のバーで、学生時代の記憶が鮮やかに蘇りました。明治大学経営学部経営学科を卒業した私にとって、経済学と経営学は長年の未解決の問いです。このブログでは、私の経験から、現代社会におけるこれらの学問の意義について考察します。

🍻 経済学の原点回帰と学生時代の専門科目

最近、イベントバーエデンのマルクス経済学を学ぶバーに行ってきたことが、すべてを思い出させました。そこに行くと、そういえば私も元経済系の学生で、経営学科卒業の人間だったと思いだしたのです(明治大学経営学部経営学科)。

私は体調を悪くして公務員試験を志し、地方公務員志望だったので専門科目は無く、確か政治経済を一般教養として衛星予備校で学んだのですが、そこではおおむねマクロ経済学と、はやりのマネタリストの考え方を少し学ぶ事になりました。貨幣の供給量で市場を操作するという考え方は大学では詳しく学ばず、とても新鮮だったのを覚えています。大学時代のマクロ経済学は、公共投資と消費を喚起して経済をコントロールする手法だったと思います。

が、良く思えば貨幣を市場に供給するなどと言う事は、経済産業省や財務省の官僚、日本銀行の社員くらいしか関係は無く、地方公務員が学んでも無駄な事だったと思います。

私の出た大学の経営学科は経営学科とは名ばかりで、必修科目はマルクス経済学、ミクロ経済学、マクロ経済学と、経済学よりの講義ばかりでした。

🏢 経営学の象徴「コーポレートガバナンス」の記憶

経営学の講義が一つあったのですが、とても年老いた老人で、まず声が一番前の席でもほとんど聞こえない、学生が授業中に騒いでいたのもありますが、そんな状況下で、ときおり彼が



「コーポレートガバナンス、コーポレートガバナンス!」

と叫んでいたのだけは覚えています。今でもコーポレートガバナンスの意味はよくわからないのです。

そして、経営学科でたくさん経済学を学んだからと言って、経済学がわかったわけではないのです。



💡 コーポレートガバナンス(企業統治)とは: 企業が株主をはじめとする利害関係者のために、公正・透明で迅速な意思決定を行い、企業の健全性、効率性、持続的な成長を確保するための仕組み全般を指します。

📊 現代の経済学とは:目的は出ているが、本質は?

経済学は経世済民(けいせいさいみん)の思想だとは言うけれど、当然その意味は今でも分からないし、経済学自体が何なのかつかめていません。

ミクロ経済学が企業経営に関するものであり、マクロ経済学が政府の財政であると言う説明も言われてみればわかりますが、ミクロ経済学とマクロ経済学はご存じのように、高等数学を使う、偏微分やラグランジュ係数を使うのです。当然数学を無視して入学してきた学生には理解は困難だし、試験問題も解けません。私は数式を暗記して、それを解答用紙に書いて単位を取ったのを覚えています。

では、現代人にとって経済学とはいったいなんなのでしょうか、ミクロ経済学とマクロ経済学にその存在意義を質問しても、ミクロ経済学は企業経営をよくすること、マクロ経済学は国家財政をコントロールして政府や国民に富をもたらす事と、ほぼ目的が出ているのです。マクロ経済学で議論されているのは貨幣供給を用いたり、公共事業を使っていかに政府財政をうまくするかであり、ようはやり方の問題で、その目的に対する答えは出ていると言えます。

🍎 マルクスとアダム・スミスの「性善説」 vs 「性悪説」

経済学が好きな人たちになぜマルクス経済学が魅了されるかというと、マルクスが問うた労働について、資本について、貨幣、労働についてなど、物事を厳密に定義付けて、あるいはその定義のあり方を議論したり、その問題解決を語るスタンスが、学者や近代の学問に適合していたからだと思います。マルクス経済学は科学であるとするゆえんです。

それに、私は『国富論』も『道徳感情論』も読んだことは無いですが、アダム・スミスの考え方、神の見えざる手を完全に、単純に信じている人も少ないだろうし、それをましてや国家財政に応用したら、政教分離しろとか言われそうです。

私のゼミの教授は哲学の先生でしたが、アダム・スミスの『道徳感情論』に深く影響を受けたと言い、人と人は共通性とか共感とかに深くその人間関係が影響されるものであり、それを市場経済に適用すると、経営者も、消費者も、労働者も、お互い最適なところで理解しあえるのだと言う結論を導き出していました。

マルクス経済学者にとってみれば、そんなのはあまっちょろいし、神の見えざる手について明確に証明を求められます。近代に入ってから、労働者を搾取したり、公害を引き起こしたり、企業の悪の部分をそれでは説明できないし、それを教授に伝えると、



「それは彼らがアダム・スミスを正しく理解していないからだ。」

と反論されました。

アダム・スミスの哲学と経済学は、当時「強者の論理」として批判されていたのだ、ということも学びました。しかし、それを言ったら日本の経営者全てがアダム・スミスの本を読まねばではないかとか、私は当時たくさんの反論を教授に対して用意していたのですが、ついにそれは行いませんでした。

私の恩師の哲学教授は、つまるところ人間の善性というのを徹底して信じていて、仏教哲学では道元の仏性とか、カントの道徳法則、ロールズの正義論とか、彼はいかに人間が良い存在であるかと語るのが好きでした。

さて、話は戻るが、そうしたアダム・スミスら古典派経済学の批判からマクロ経済学、ミクロ経済学、マルクス経済学が出てきたのは間違いないと言えます。ある意味では彼らは性悪説を信じているのであり、人間と、人間が作り出す市場にはある意味ではコントロールが必要と考えるのです。

⚖️ 経営学とミクロ経済学の違い

たとえばミクロ経済学は損益分岐点というのがあり、それを下回ったら事業を縮小したり、撤退したり、あるいは別の投資をして売り上げを増やさねばならないと教えます。普通の経営者だったら当然の事ですが、教科書や事業計画書通りに企業の売上は常に一定だとか、信じ込むことは無いのですが、人によってはそれが不変であるとか、損益分岐点を下回ってもある程度は事業を続けるべきだと考える人もいるのかもしれません。

企業というのはチーム経営でない限り、経営者の判断によって運営がなされます、だからその経営というのもやり方は千差万別です。

ミクロ経済学が企業経営に関するものだとすると、では経営学とどう違うのか、経営学とはそもそも何かという問いが出てきます。私は経営学科に四年いてもその問いは解けませんでした。私が三年次経営文化コースという、一番単位が取りやすくて楽な授業を選択したからでもありますが、他の授業を選択した人たちも、そこで語られるのは経営学ではなく、金融論や財政学、会社法であったり、経営に関係はするが、経営学とは直接関係のない物なのです。

今思えば当たり前で、本物の経営者は経営学科には一人もいませんでした。多くは大学、アカデミズムから出たことがない人達が教授や講師で、民間企業勤務経験がある人はそれだけましな方でした。経営者ならばわざわざ大学の先生になる必要はないのです。

💡 結論:私の中での暫定的な定義

終わりになりますが、私の今の所の経済学とは、人類を幸福に導く方法、それも貨幣とか商品とか、自然界に存在する物質で行うものだと思っています。

経営学に関しては、かなり前から非営利事業体の経営とか、政府機関の一部経営とかも広く経営学の分野とされてきて、いまいち定義付けが難しいのですが、組織と言う物を数字や財、所有物、いわば資本を用いて利益を出し、運営していくものと言えましょうか。

私の大学は反テイラー経営学の学者が多く、企業は利潤を追求するもので、企業の継続性のためにそれは必要という考え方に反する思想を持っている方が多くいました。確かに今は企業を成長させて、それを売却してしまう選択肢もあるため、必ずしも継続性の為とは言えなくなっていますが、広く組織を運営するための処方箋とでも今の所は定義付けてもよさそうです。

経済学 #経営学 #経世済民 #マルクス経済学 #アダムスミス #ミクロ経済学 #マクロ経済学 #コーポレートガバナンス #大学生活 #明大経営
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🇯🇵 日本の「附属学校制度」の謎:エスカレーターはなぜ「エレベーター」になるのか?

🎓 はじめに:多様性の尊重と日本の教育システムへの疑問

初めに断っておくが、私が決してその人を人種や性別、能力や学歴、学力で差別する人間ではない。私は多言語をやっていて特に欧米人から人間にとって大事なことは多様性を尊重することで、いろいろな人や違った価値観を受け入れていくことが大事だと知った。まずここははっきりさせておきたい。

しかし、昔からの、とりわけ日本の教育システムや大学制度に深く疑問と関心がまだある。もう大学を卒業してから20年以上になるのだが、その謎はつきまとっているのである。

🇺🇸 エスカレーターはアメリカで「エレベーター」になった背景

それはハロートークでアメリカ人と話してる時だった。なんでも彼らにも私たちの学歴や教育制度が関心があるらしく、その女性は日本の学校システム、附属学校のシステムのことを話し出した。その時、附属学校のことをうまく説明できる単語がみつからず、「アタッチメントスクール(Attachment School)というんでしょう?」と答えると、彼女から**「エレベータースクール(Elevator School)というのよ。」**と言い返された。

私は日本で附属学校出身者のことを、エスカレーター生とか、エスカレーターとよくない意味で呼ぶのは知ってたが、エレベータースクールというのは初耳だった。

しかも彼女は日本の学校のことをよく知っていて、「日本大学や慶応大学とか、附属高校出身者が多い学校のことを指す。」と個別具体名も上げて日本の学校システムについて語りだした。彼女がなぜ日本の大学と大学制度のことを知ってるのかというと、アメリカにそれらの大学から附属出身者たちが留学にたくさん来ているからとのことだった。

私は彼女のように附属システムや附属出身者のことを批判するつもりはなかったので、「お金持ちや、スポーツとか、特定技能に優れた方が多いんですよ。」とつけくわえたが、「そうよね。アメリカにもそういう学生たちはいます。」と全てわかってますというように語った。

エスカレーターがなぜアメリカに行ってエレベーターになったのかよくわからない。アメリカ人がなぜ日本のことを日本人以上に知ってるのかもわからなかったが、私は明治大学出身で、附属高校出身者たちとかなり仲良くしていた。彼女だけでなく私も、この附属制度に興味があったのは間違いないのだ。

📉 附属生への疑問:法政大学と明治大学での「就職」の知見の相違

xのアカウントで、法政大学の方が自分の大学の附属出身者の学問的なレベルの低さをツイートしていた。私はすべて彼女の意図が分かったうえで、「でも中には頭が良い人もいますよね?」とか「彼らは就職活動はすごく上手で、いいところに就職しますよね。」とか、彼女が女性だったために少し附属生たちにお世辞を言ったが、彼女の批判は容赦なかった。

一番の彼女の見解との相違は、附属生が良いところに就職できたという私の明治大学での知見と、彼女の法政大学の出身者の就職がうまくいってないという見分の違いである。ほかはだいたい附属学校出身者に対する考察は間違っていない。

私はかろうじて明治大学の当時偏差値最下層であった経営学科に引っかかったが、法政大学は二学部落ちたし、偏差値的にも今でこそマーチと呼ばれているが、明治大学は明治学院大学や法政大学など、周辺大学よりも入りやすかった、体感の偏差値は低かったと実感している。

💣 崩壊した大学の教室と、際立つ学力の低さ

それは学生の質を見ればわかる。私のゼミの教授は、私の学年のレベルがほかの学年や大学と比べて質が低すぎるとたびたび語っていた。

私の経験を話すが、まず初日にクラスコンパ、飲み会をやったのだが、次の日からおおむね男子生徒はみんな学校に来なくなってしまった。残ったのは附属高校出身者、指定校推薦で大学に入った人、女子学生だけなのである。50人くらいのクラスに女子は明治大学だから少なく、10人くらいだった。私はほかの男子生徒が来なくて、女子と交流できるかな、交際できるかなとワンチャン思ったが、そういうことは一切なかった。大学学級崩壊状態で、スクールカーストはないと感じてたが、私のように金がなく地方から二時間以上かけて大学に通う学生は女子から見ても負け組に思えたらしく、まったく相手にされなかったようだ。

それはそうと以上のような事実から残った学生である附属生との交流が始まったわけであるが、いろいろ附属生についてはネットで批判もされてるが、そのとおりである。彼らはとんでもなく学力が低い。私は彼らが経済学の市場(しじょう)を「いちば」と読むのをたびたび耳にしたし、簡単な中学生レベルの漢字が読めない、それどころか掛け算とか簡単な計算ができないのもよく目にした。

文系の明治とか法政とかたいしたことないように思えるが、受験科目はほとんどが社会一科目、英語、現代文、古文で受験した。だからその教科では一般受験と差がついてもおかしくはないのだが、彼らは算数とか理科とか、ほかの科目でも一般受験性よりもおとっていたのは間違いないのだ。

🌃 夜間部の学生から見た附属生の評価

ある日、同じくそんなに偏差値の高くない夜間部の学生から、私と同じ夜間部の部活に入った学生が、成就(じょうじゅ)を(せいじゅ)と読んだと伝えてきた。そのほかにもその夜間部の学生は附属出身者のことを厳しく批判し、なぜそんなに頭が悪いのかと厳しい態度だった。

あとで気づいた事なのだが、附属生はどの学部に入るかは選考があるらしく、選考にもれた人は夜間部や短大に進学したとのことだった。おそらく夜間部でも附属生がいて、交流があったのだと推察する。

🤝 学力以外の「力」:ネットワークと情報戦

ただ、私は長く附属生と交流していて、彼らの学力以外で優れた点をいくつも目にした。一般的にまじめな方が多いし、言葉がたどたどしい人も何人かいた。毎回講義にも来てる方が多かった。計算ができずに漢字も読めずに、よく卒業ができるなとも思ったが、これはどこの大学の人も知ってることなのだが、彼らは附属生だったときのネットワークを生かし、ノートをあっという間に集めてしまう。

どの講義が良いとか、どのゼミやサークルが就職に有利かなども知っていて、学生生活全般やその後の人生で有利に立っているのは少なくとも明治大学では間違いない。

ずっとほかの大学はどんな状況なのか気になっていた。5ちゃんねるで、埼玉県の早大本庄が偏差値や学力が低いと批判されてることを知った。それを話していた明治の学生もいた。かわって、埼玉県の慶応志木はレベルが高いとされてるとの話も聞いたが、私はどうでもよかった。

ただ、一般受験で地方から上京した学生(正確には自宅通いだが)にとっては附属生や附属システムについては謎だらけなのだ。みんなもっと知りたいのだ。

🏢 企業は「小学校」まで見ているのか?

私は彼らが就職活動で有利に動いてるのを見て、ひょっとしたら企業は採用において出身大学だけでなく、出身高校、もっというと出身小学校まで見てるのではと思うようにもなった。

ある精神障害の女性と話したのだが、彼女の家は家柄が良く、彼女の親せきは国立大学医学部に進学できるような附属の幼稚園?に入ったそうなのだが、試験は祖父の名前を書いただけで終わったと自慢げに語っていた。有名幼稚園の人たちは入園者の親せきの名前まで暗記してるくらい血縁を重視しているのだろうか、それともデータベース化して、名前を打ち込めばどこの家柄であるとかわかるのだろうか。

ただ、その国立大学の医学部に入った方は、医師国家試験にどうしてもうからず、マッサージ師をしているとのことだった。本当ならばかわいそうな話であるし、私は突然難関試験を受験するのは大変ですよねと伝えたが、かえって彼女の気分を悪くするだけであった。

🇨🇳 中国の大学制度との比較:「血縁」の価値

中国人とも昔この話をしたことがある。中国には附属制度はあまりきかない、とりわけ北京大学のような有名大学にはないと語っていた。あるのはせいぜいスポーツ推薦、卓球の選手くらいしか聞かないと語り、スポーツ推薦も中国では少ないようだった。

彼女の話だと、中国の難関大学は、最低合格点でたくさんの人が並んでしまい、最終的に身長や健康診断の結果まで選考に使われると、本当かウソかわからない話までした。この話を別の中国人にすると、絶対に嘘だと語った。ただ、彼女は北京出身であったため、完全に嘘というわけでもないと思う。中国人の多くが北京大学や北京市民になりたくて地方から出てくるわけだが、あまり正確に北京の情報は知らないようだ。北京市民になると年金がいくらもらえるとか、真偽不明の情報も話す人がいた。

この日本の附属学校制度の謎を解くことは、学力では測れない日本の社会構造を理解する鍵になるだろう。

#附属学校制度の謎 #エレベータースクール #エスカレーター生 #日本の大学 #教育格差 #内部進学 #明治大学 #法政大学 #就職活動 #学歴社会の闇
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📘 【考察】哲学とは何か? アリストテレスから死刑囚の対話、そして現代の日本人へ

Ⅰ. 哲学の起源:知恵を愛する者たちの根源的な探求


私は多くの人が哲学について誤解が生じていると感じます。哲学、狭義での西洋哲学、フィロソフィーの意味は「知恵を愛すること」、そしてそのためには原因を探求するための学問だったのです。

それでは古の賢人たちはなぜ物事の起源を探求しようとしたのでしょうか。それは、私たちがこの世に理由もなく産み落とされ、理由もなく死んでいくという事実を他者やこの世界の事物の観察から学び取り、自分が死ぬ前にせめて自分が生まれてきた意味、この世界が存在する意味を知りたいという願望を持って生まれてきた故ではないでしょうか。

アリストテレスの『形而上学』という本に、有名な**「すべての人は知ることを欲する。」**という言葉があります。人間というものは常に何かしら、何かを知ることを欲しているというすごく著名なこの言葉は、その後の人間社会を説明するのに多く使われたわかりやすい言葉だと思います。

では、なぜ人は知ることを欲するのでしょうか。このアリストテレスの言葉には続きがあり、「とりわけ人間は視ること(視覚)を他の感覚よりも欲する。」といってます。彼にしてみれば、私たちが日常的におこなう、聞いたり、目にしたり、さわったりする感覚的な動作も、知ることに結び付いているというのです。そうです、これは逆を考えればすぐにわかります。私たちはたとえば、暗い中で何も見えなかったり、目が見えない、失明したらそれをひどくいやがりますし、悲しみます。感覚するという行為は知らぬところから欲求に結び付いており、それができないことは不快なわけです。アリストテレスはこの快の感情というのをその哲学を語るうえで重要視しました。



Ⅱ. 「なぜ生きるか」を問う個人の軌跡と「死」の哲学


さて、哲学の話に戻りますが、私は若い時期に哲学を学ぼうと決断し、講談社現代新書や岩波文庫をできるだけ多く読むように心がけてきました。私はそのうち自分の中にある疑問が生じてきて、私はなぜ他の人に比べて物事の意味や存在の意義、何かがこうであるという仕組みやルールよりも、なぜそれが必要なのか、存在しているのか、理由を深く問う人間でした。

西洋哲学を勉強し始めた時もその影響は強く、西洋哲学史を読み始めると、世界の存在、認識についてから教科書の説明は始まります。私は世界の存在の意味とか、私たちの物事に関する認識について、全く興味がないわけではありませんでした。しかし若い時の私は直接的になぜ生きるのか、どうやって人は生きるべきなのか、という問題意識が強く、それは他者にもひどく目が行き、人間というのはなぜこうも同じ存在として生まれてきているのに違うのだろうかと感じ始めるようになりました。

ただ、私にも光明が差してきたと申しますか、明治大学の経営学科に、八田隆司というドイツ哲学が専門の先生がおりまして、彼のゼミに二年時から入りました。彼が最初にとりあげた哲学書というのが、『死と生きる 獄中哲学対話 池田晶子 陸田真志』でした。当時はなぜ彼がこの著作をゼミでとりあげたのかわかりませんでした。この本は簡単に説明すると、殺人事件を起こして死刑囚となった陸田真志と、牢屋の外にいる池田晶子氏が文書でやりとりしていくという話です。

当時大学に入学して大量の書物を読んでいた私は、この本がとりたてて面白いとも、重要な本だとも思いませんでした。そこで語られているのは、陸田真志がひたすら語る哲学や教養、学問への愛です。私は彼がヘーゲルの論理学とか、難解な書物を日本語訳とはいえ読んで理解し、ひどく感動を覚えているというのに不快感を覚えました。哲学科の学生でも学者でもない死刑囚、学歴のない人が、そういった難しい哲学書を理解できるはずがないし、むしろそれらを最後まで読み通せるというのも信じがたく、私はまじめに彼の文章を読んではおりませんでした。

八田隆司は陸田真志氏のことを高く評価していました。彼は陸田氏が獄中で西洋哲学に目覚めたのは、死刑囚として服役する中で、自分の死にいく運命というのを自覚し、死について考察、それにより人間存在や世界の意味を問うという事の重要性に気づき、西洋哲学に目覚めたのだと、少し補足するとそんな感じでちらっと八田氏は彼が私たちにこの本を読ませた理由を話しました。



Ⅲ. 現代の哲学者への疑問と「哲学の教科書」からの教え


私はいろんな学者や哲学者に会いに行きました。それは単純に学者たちと話したいという欲求と、自分の寂しさもありましたし、自分の学問的な意見や知的理解が正しいのか確認したかったからであります。

西洋哲学を勉強すると、まず西洋哲学史から学ぶわけでありますが、本当にたくさんの哲学者や思想家が出てきます。それぞれの考え方も全然違います。しかしながら、いにしえの古人がみな申すように、学問とは実践だと考えますと、すべての哲学者の意見を現代において実践するのは不可能です。しかし、彼らの意見をすべて理解したものと仮定し、翻訳や解説書を書いたり、あるいは講義をしたりするのが現代の、とりわけ日本や世界にいる哲学者なわけです。わからないもの、知らないものを、さも自分はよく知ってるかの如くふるまい、理解し、ましてや他者に教えてしまう、それが現代の哲学者や思想家なのであります。

私は今思いますのは、哲学研究者、西洋哲学者の多くが、この哲学というものに関して、古人とは別のスタンスを取っていることに気づきました。

では真の哲学者とはどうあるべきなんでしょうか。私は当時友人から勧められて、中島義道氏の『哲学の教科書 講談社学術文庫』を読みました。

彼はその著書の中で、私が哲学を経営学科という狭いところで学んでいくうえで、重要な道筋を立ててくれました。というのも、哲学に名を冠した書物は当時大量に出ておりました。それらは哲学史やどこかの哲学者の入門書か訳書であるとか、哲学そのものとはとても違いました。そして一番困ったのは、彼らのいう哲学書というのを読んでふたを開けてみると、

哲学と人生論を同じにしているもの: 厳密に言うと文学とかエッセイに該当するものだと感じます。それが哲学であるかないかは、彼らが事物の原因を問うているかいないかですぐにわかります。

哲学とは芸術だと説いているもの: ある画家の作品を取り上げて、この芸術は哲学的だとか、感想を述べて、それを哲学だと定義づけてしまっているケースです。いくら文化芸術が好きだからと言って、それらがすべて哲学だといわれてしまうと、西洋哲学史を一から勉強した身としてはとても混乱するのです。あなたの芸術作品は哲学的かもしれないが、それがただちに西洋哲学、とりわけ形而上学には該当しないという事です。

哲学は宗教であるという誤解: 宗教も世界について、人間について、考察しますし、語ります。しかし、どこに違いがあるかと申し上げますと、哲学がそれらのあり方に関し、常に批判的に考察し、対話、議論をするという事です。あくまで哲学は信仰ではありません、いかなる考え方にもメスを入れて、常に真理に近づいていくという、そういう精神が肝要なのであります。



Ⅳ. 日本人の意識の混乱と「現象学的還元」の必要性


ながながと説明しましたが、では本来哲学とはどうあるべきなのでしょうか。私たちは日本という世界からすると辺境の島国に生まれて、たまたま薩長が作った明治政府、西洋化、近代化を推奨する政策によりその価値観や生活が欧米化され、それがとりわけ戦後はアメリカに占領されたり政治的に影響を受けたりして強まったと感じます。

しかし、誤解しないでいただきたいのは、こうしたここ数百年の歴史的な自称、流れ、すなわち西洋との衝突が、必ずしも私たちの思想や考え方が西洋化されたわけではないという事です。それは私たちに近代文明をもたらしたという、ヨーロッパ人と話してみればすぐにわかります。彼らと私たちは見た目がまず違いますし、その話し方、考え方、生活の仕方まで異なるものです。

それなのに私たちはその科学文明を享受したという理由で、私たちは彼らの精神性も理解したと思い込んでいることです。もちろんもともと和魂洋才という言葉があるように、私たちは私たちのままで良いじゃないか、日本人であることに喜びを感じるべきだとか、日本人として誇りに思うべきだ、尊敬されるべきだという考え方もわからなくはないです。しかし私たちは事に関係なくすでにその考え方、生活様式に至るまで、西洋、あるいはほかの国の影響を受けています。私たちの脳内はひどく混乱した状態です。

明治時代、西洋の学問を取り入れるのに、無理やりnatureを自然とかの語に代替したように当てはめていったとされます。西洋人にとって制圧、克服すべきだったネイチャー(nature)という観念が、東洋人にとっての共存すべき対象、自然に置き換えられたのは大きなことだったと思っています。

つまりここで申し上げたいことは、私たちは多かれ少なかれ、たとえば言語に関しても西洋の影響を大いに受け、混乱し、ごちゃごちゃになり、めちゃくちゃになっているという事です。そしてそれをひもといていくには、欧米の思想や哲学、宗教など、彼らの根底としているものを学びなおすしかないのだと思っています。

日本人にとっては私たちの意識にイメージされているすべてを、(いわゆる現象学的還元)ある意味私たちがどのようにとらえているのか、端的に言って私たちは自分たちの思考を分解してみる作業が必要なのです。いろいろな哲学者の思想を学ぶと、私のこういう考え方は彼の哲学から影響を受けていたのだなとか、この言葉の意味は英語の何からきていたのだなとか、徐々にですが、わかってきます。



Ⅴ. 自分の居場所を知ること、そこから哲学は始まる


先日中島義道氏に自分が思った西洋と日本の、いわば文化的相違についてメールをいたしましたが、彼からは文化論的な話は哲学的でないと返事がありました。しかしながら、彼にこうした所作が必要でなく、いきなりウィーンの哲学科に入門したりしてやっていくことができたのは、そうした現地の体験とは不可分だったと思います。私は精神的な不健康により、直接海外の現地に行って大学に入り、学ぶという行為ができませんでした。いえ、ほとんどの日本人が海外の大学に入学したり、勉強したりする時間的な余裕や金銭的な余裕も持ちませんし、今思うと彼が特殊で、私は普通だったのかなとも感じます。

とにかく私は、とりわけ日本人にとってはまず西洋哲学史の、できるだけ多くの哲学者や思想家の考え方を学ぶべきことだと思うのです。そうしてまず自分が山の林のどこで迷っているのかを確認し、その後に改めて自分の居場所から自分の哲学、世界論や認識論について語ればいい事なのです。

そこからすべてが始まると思っています。

#哲学とは何か

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🏠 【徹底解説】民泊の「180日ルール」を理解する!旅館業法との違いから賢い運営術まで

「民泊を始めたいけど、旅館業の許可は大変そう…」 そんなとき、「年間180日以下なら旅館業法に抵触しない」という話を聞いたことはありませんか?

実は、これは「住宅宿泊事業法」(通称:民泊新法)という新しい法律に基づくルールです。この法律のおかげで、一般の住宅でも比較的簡便な手続きで民泊運営が可能になりました。

本記事では、この民泊運営の要となる「180日ルール」について、その背景にある法律から、具体的な日数の数え方、そして収益を最大化するための賢い運営術まで、詳しく徹底解説します。

Ⅰ. 法律の基本:旅館業法と住宅宿泊事業法(民泊新法)の違い

まず、民泊を語る上で欠かせない2つの法律の違いを明確にしましょう。

1. 旅館業法とは?



旅館業法は、ホテルや旅館、簡易宿所といった宿泊を目的とする施設に対する法律です。宿泊客の安全や衛生を確保するため、フロントの設置義務、消防設備の厳格な基準など、クリアすべき要件が非常に多いのが特徴です。この許可を取れば、日数制限なく365日営業が可能です。

2. 住宅宿泊事業法(民泊新法)とは?



民泊新法は、急増する民泊ニーズに対応し、「住居」としての側面を残しながら、年間を通して短い期間だけ観光客等に貸し出すことを合法化するために2018年に施行されました。

この法律の根幹にあるのが、「年間180日」という営業日数上限です。この制限を設けることで、その施設を「宿泊施設」ではなく、あくまで「住宅」として位置づけ、旅館業法ほどの厳しい要件を免除しているのです。つまり、180日以下であれば旅館業法の許可なしに民泊ができる、という話は、この民泊新法に基づいているというわけです。

Ⅱ. 民泊新法の核「180日ルール」の具体的な内容

民泊新法で民泊を行う場合(「住宅宿泊事業」として届出を行う場合)、年間で人を宿泊させることができる日数は180日以内と定められています。

1. 180日のカウント対象期間



180日のカウント期間は、一般的な暦年(1月1日~12月31日)とは異なります。

毎年4月1日正午から、翌年4月1日正午までの1年間

この期間内に、宿泊客を受け入れた日数を合計して180日を超えてはなりません。

2. 日数の数え方と注意点



「1泊」が何日としてカウントされるかについては、以下の点に注意が必要です。

1泊を1日としてカウント: 4月1日正午にチェックインし、翌4月2日午前にチェックアウトする場合、1日とカウントされます。

「正午」が基準: 宿泊を伴わなくても、宿泊客が正午を超えて施設に滞在する場合、その日(正午~翌正午)は営業日数にカウントされる可能性があります。運用上は「1泊1日」とシンプルに考えるのが一般的ですが、チェックイン・チェックアウトの時刻管理には注意が必要です。

「届出住宅」ごとにカウント: 180日の上限は、民泊事業者ごとではなく、届出を行った住宅ごとに適用されます。複数の物件を所有している場合は、それぞれの物件で年間180日営業が可能です。

事業者が変わっても日数は引き継がれる: 年間の途中で物件の事業者が変更になった場合、その物件の残りの営業可能日数も引き継がれます。

3. 地方自治体による更なる制限(条例の上乗せ)



民泊新法では「年間180日以内」が上限ですが、各地方自治体(都道府県や市町村)の条例により、この日数がさらに短縮されている場合があります。

例えば、「住居専用地域では週末のみ営業可」「学校の近くでは特定期間の営業を禁止」など、地域の生活環境に配慮した制限が設けられていることがあります。事業を開始する際は、必ず物件所在地の自治体の条例を確認しなければなりません。

Ⅲ. 180日を超えて営業した場合の罰則とリスク

180日という上限を超えて民泊営業を行った場合、それは「住宅宿泊事業」の範疇を超え、無許可の「旅館業」とみなされます。

この場合、旅館業法違反となり、重い罰則が科せられます。

罰則の例: 6ヶ月以下の懲役または100万円以下の罰金(旅館業法第10条)

また、罰則だけでなく、以下のようなリスクもあります。

営業停止命令: 行政指導により、直ちに営業の停止を命じられる。

地域住民とのトラブル: 違法な運営は、周辺住民との信頼関係を損ない、苦情や通報の原因となる。

保険の適用外: 違法な運営中の事故やトラブルは、加入している保険の対象外となる可能性がある。

合法的な運営を持続させるためにも、180日ルールは厳守しなければならない絶対的な条件です。

Ⅳ. 180日制限を賢く乗り越える「二刀流」運営術

「年間180日では収益が足りない…」と感じる事業者も多いでしょう。しかし、残り185日を無収入にする必要はありません。180日ルールは「宿泊サービス」に適用されるため、それ以外の方法で物件を活用する「二刀流」が有効です。

1. 簡易宿所(旅館業法)への切り替え



最もストレートな方法です。手間とコストはかかりますが、旅館業法に基づく簡易宿所としての許可を取得すれば、365日の営業が可能になります。

メリット: 年間の収益性が大幅に向上する。

デメリット: 消防設備の大幅な改修、フロント設置スペースの確保、申請手続きの複雑化など、初期投資とランニングコストが増大する。

2. マンスリー・ウィークリーマンションとしての活用



民泊の営業日数を使い切った残りの期間は、賃貸借契約に基づき、マンスリー(月単位)やウィークリー(週単位)のマンションとして貸し出す方法です。

ポイント: 賃貸借契約は、旅館業法や民泊新法の規制対象外です。ただし、契約期間を1ヶ月以上とするなど、「宿泊」ではなく「賃貸」である明確な区別が必要です。

注意点: 家具や家電を完備した状態での賃貸は需要がありますが、賃貸物件としての運用ルールや契約書作成には、別途知識が必要です。

3. レンタルスペースとしての活用



宿泊を伴わないレンタルスペースとして貸し出す方法です。会議、撮影、パーティ(地域の条例や騒音に注意が必要)など、多様な用途で時間貸しをします。

メリット: 宿泊以外の多様な収益源を確保できる。

デメリット: 騒音トラブルや清掃・管理の手間が増える可能性がある。

4. 特定の期間に集中して稼働させる戦略



180日という日数を最大限に活かすための戦略です。

観光ハイシーズンに集中: 旅行需要が高まる長期休暇、イベント開催期間、インバウンドのピークシーズンなどに集中して稼働させることで、高単価での予約を確保し、客単価を最大化します。

ローシーズンは休止・賃貸に: 閑散期には営業を休止し、清掃やメンテナンスを行ったり、前述のマンスリー賃貸に切り替えたりして、効率的な運用を目指します。

Ⅴ. 住宅宿泊事業の届出と義務

民泊新法で合法的に民泊を行うには、所在地の都道府県知事等へ「住宅宿泊事業」の届出が必要です。届出後は、単に180日を守るだけでなく、以下の義務も遵守しなければなりません。

安全の確保: 火災や地震などの災害に備え、宿泊者の安全を確保するための措置を講じること。

衛生管理: 定期的な清掃や換気など、宿泊者に提供する住宅を衛生的に管理すること。

周辺住民への配慮: 騒音の防止、ゴミの適正な処理、緊急時の連絡体制の整備など、周辺住民の生活環境に悪影響を及ぼさないための必要な措置を講じること。

標識の掲示: 届出住宅であることを示す標識を、見やすい場所に掲示すること。

定期報告: 宿泊日数や宿泊者数などを、定期的に都道府県知事等へ報告すること。

特に「周辺住民への配慮」は、民泊新法が最も重視するポイントの一つです。トラブルを未然に防ぐためにも、マニュアル作成や緊急連絡体制の構築は必須です。

Ⅵ. まとめと次のステップ

民泊における「180日ルール」は、旅館業法の煩雑な要件を回避し、個人が手軽に住宅を有効活用できる道を開いた住宅宿泊事業法(民泊新法)の核心的なルールです。

このルールを理解することは、合法で持続可能な民泊経営の第一歩です。

180日の上限を厳守すること。

物件所在地の自治体の条例を確認すること。

残り185日を「マンスリー賃貸」などで賢く活用すること。

民泊は、地域経済に貢献し、多様な旅行ニーズに応える魅力的な事業です。法律を正しく理解し、地域のルールと調和しながら、健全な民泊経営を目指しましょう。

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FBの双極性障害のグループに参加し、英語で投稿した。リプくれるのは白人の方ばかり。皆、孤独で金もないようだ。英語グループなのに南アジア人やインド人が皆無なので、インド人に聞いたら、やはりインドでは家族や友人による支援、関係性が強く、精神障害者が孤立したり、苦しむ事が少ないそうだ。
#双極性障害のリアル
#社会的孤立
#精神疾患と経済格差
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今FBで聞いたのだが、海外だとコンサータ、リタリンの処方は、双極性障害の可能性がある患者に対して慎重な対応がされてるとの事だ。代わりにインヴェガが処方されてるとの話も聞いた。プロザックも飲んでるらしいので、抗うつ薬も出てるのか。働いてる人もいたが、月五万円位、海外だと充分ではない。
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エデンの精神障害者イベントに参加して思ったのが
1精神障害者の方がライターなどの仕事を持ってる方が多い事
2コンサータやストラテラを処方されてる事
※この2点は地方では少ない。デイケアは無職率100%。コンサータの処方医もいない。私もライターやりたいし、コンサータ飲みたいと思いました。
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モルモン無料英会話、これから行くんだけど、来る生徒が元外資系社員、海外駐在経験者、帰国子女、英会話得意な外国人、で、海外未経験の私が一番レベルが低くて、何とかくらいついてるんだけど、もっと初心者とか、初学者にも来てほしいわ☺️わからない人には私が英語教えます。
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今日の英会話はサンクスギビングについてでした。それがアメリカの文化というのも知らなかったし、感謝をどう表現するか、誰にどのように伝えるかを英語で議論しました。
私は日本人として、そういう事はした事がないし、わからないと答えました。
#英会話 #英語
#サンクスギビング #アメリカ

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本日、東松山の「まちカフェ 沖縄キッチンくくる」さんでランチをいただきました!
​運ばれてきた瞬間、彩りの良さに感動🥺✨
​ゴーヤなど小鉢も全て美味しくて、心も体も癒やされる大満足の沖縄定食ランチでした。
​ごちそうさまでした!また伺います🙏
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#埼玉県東松山市
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フランス人二人を日本のライングループに昔招待した。彼らは一日中日本女性について語り、議論し始めた。最初はそういう人もいるかなと放置していたが、彼らの女の話は数か月を超えた。私は女の話はやめるように伝えたが、絶対にやめなかった。日本人が大和魂があるように、彼らはフランス魂を持っていると感じた。私は若い時期はフランス人はナポレオンとか、男性文化が強いと誤解していた。ルソーもスタンダールも読んだが、彼らが語るのは決して軟弱、ひ弱な文化ではなかった。フランス語の映画の授業で激しいラブシーンが上映されて、気づいた。

#フランス人
#日本人
#日仏交流
#異文化交流
#LINEグループ
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フランス人からメール来てフランス語で少しチャットしました。彼が病気だと言われて、「大丈夫?」と聞くと、「c'est la vie」(これが私の人生)とか、「お祈りします」と伝えると「優しいけれども、私はそれをストレスに感じ始めるから必要ありません」とか、他の外国人と全然違う会話になります☺️
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