
曜
人と政教と教育に関心強めです。当SNSの用途は「大学ノート」。
好きはコンテンツは以下
芸人:ラランド、ザ・ギース、バッテリィズ、東京03、令和ロマン、ハライチ等。
音楽:日本のVo.曲に限り、
女性Vo.:Paris Match、Cymbals、小島麻由美、Akiko、Orange Pekoe等。
男性Vo.:椿屋四重奏、Original Love、くじら、the band apart等。
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曜
ですが、選り好みが激しいんですよね。だから、あまり率先してアニメ好きな方とは関わっていません。
今はまったく添付した画像の作品とは異なる作品の制作のためにあれこれやっています。





曜
今日はこれについて、親戚相手にざっくりですが講義する羽目になりました笑
ほぼ全ての中小企業が対象となり、親会社など立場の強い側からの負債の押し付けやリベート(割り戻し)、手形払いなど、かなり幅広く「協議に応じない一方的な代金決定」が禁止されます。
分かりやすい例では、「発注後の減額」などが違法になるということですね。
特に発注のいい加減さについては方々から聞こえてきますから、「ようやく違法になったのか!」と言われました笑
中小企業にお勤めの幹部・会計や総務・営業の方は必見です。多くの人々に影響を及ぼすものになりますから、セミナーの受講をおすすめします。
ポイントとしては、こういうのって適法の限界ギリギリを引き出そうとしてくるものですし、基本が「協議」ですから、気付かれるまでは続けようとされてしまうケースもあり得ます。
今年中の対応をおすすめします。




曜
本稿はアニメ『Turkey!』から拾い上げて書いていきますが、内容は完全に歴史です。
私の興味は「権威」にありますから、ここで書くのは日本史的な宗教・呪術の権威による影響という観点にしぼります。
どこかと言いますと、「双子が生まれると不吉だ」という占いの結果のシーンです。同作では特に説明がありませんでしたが、あれはただの占いの結果という訳ではなく、その元となる伝承が実在しました。
と言いますか、双子に対する「不吉」という観念の形成に関与していたと考えられている要素は、史学や民俗学にとても多いのです。
●双子「不吉」とされた原因
1.「スケープゴート」や「口減らし」
これらは直接的な意味は異なりますが、
⑴社会的弱者や不利益を被る存在が、集団の都合や不満のはけ口・責任の押し付けの対象となる。
⑵判断能力が鈍っている。
⑶苦渋の選択の場合も、正しいと信じていたことを後悔している場合も、正当化するしかない。
という共通点があります。こうした状況がかつてあった可能性を考慮する必要があります。
※「スケープゴート」とは、集団の不満や責任を一身に負わされる、無実の(または罪の比較的小さな)個人や集団を指します。つまり、責任転嫁の「身代わり」です。社会的不満や攻撃衝動の転嫁先となり、集団の結束や正当性を維持する役割を果たすことがあります。
※「口減らし」とは、主に飢饉などに際して、貧しい家庭などで、生計維持の負担を減らすために、家族や家畜を間引くことを指します。
2.相続・跡継ぎの混乱
一子相続が原則の社会では、「同時に生まれた二人の子」は継承順位を曖昧にさせます。特に王族や領主の家系では、双子の誕生が政争の火種になりやすかったのです。
これを利用して、反主流派が双子の次男を擁立し、内紛や分裂が起こります。双子にかこつけて、勢力争いをするんですね。こうした事例が繰り返されることで、「双子=不吉」という観念が定着していったわけです。
あくまでその予防としての、双子の一方を隠す・捨てる・隔離するなどの慣習が生まれました。
これは、歴史学的な解釈では、比較的主流な説です。
3.文化・宗教的な補強
これに加えて、宗教的・呪術的な観念も双子への忌避感を強めました。
「人は一人ずつ生まれるのが自然」という感覚が根強い文化では、双子は神の干渉や不自然な誕生と見なされます。これはおもに大陸で起きた価値観で、日本には輸入されてきました。
そこには、「一つの魂が二つに分裂した存在」として、死や災厄との関連性が語られることもあったのです。
日本では「畜生腹」(動物のように複数産むことを貶めて言う蔑称)などの差別的な呼び方が存在し、昭和期まで残っていた地域もあります。海外でも似たような現象があったようですね。
●では「不吉」とは何か?
このことから、「不吉とは、“結果”であり“原因”ではない」といえるでしょう。
つまり、「不吉」は経験則に基づいている面もありますが、本作に出てくる女性の双子のように、単なるレッテルであり、因果の混同から生み出されているのです。
だからこそ、原因と結果を分けて考えられる現代人にとっては、理解が難しいのです。
結果として、この流れをまとめますと、
①そもそもスケープゴートを欲する風潮(動乱後の犯人探しなど)や、飢饉などによる口減しを必要とする危機的状況が過去にあった。
②双子そのものが不吉なのではなく、権力者の家に生まれた男子の双子の存在が、家督相続の折に既存の秩序を揺るがす可能性を孕んでいたために、忌避されるようになった。
③そこから、何かのタイミングで誤解が生じるとか、伝承が途絶えるとか、宗教的権威に断言されたなどによって、「権力者の家に生まれた男子の双子」→「男子の双子」→「双子」という具合に単純化されていった。
という解釈が、おそらく現代人には最も理解しやすいものになると思われます。
そこにどれほど宗教的権威が絡んできていたのかでは、日本には、「船が沈まないように、祭りで先に沈める」や、「火災が起きないように、先に燃やす」という、因果(原因と結果)が反転した宗教的思想があり、それが祭りにもなっています。
因果が混線した誤解がそのまま信仰になるかたちですね。これらは、現代では防災訓練のような機能があったと説明されてることがあります。
しかし、その本質は、この因果の反転・誤解、そしてそれを流布した宗教的権威にあると考えるのが妥当だと思います。間違いを肯定する論理に宗教的権威が関わって担保しまっていて、それが風習(場合により因習化)と呼ばれているということです。
何かに担保されない限りは改訂したくなるのが人の常です。したがって、宗教的権威が担保したことは無関係ではありません。
●なぜ占いに従うのか?武将の心理
だとしても、権威をある程度理解できているはずの武将がなぜ従ったのでしょう?
今作でも、卜筮や神占といった占いに武将は従っていました。この点は、武将の立場への理解が必要になるでしょう。
民の多くは統治や支配の知識などありません。領民がどうすれば豊かになるか?どう戦で勝てばよいのか?攻め込まれないためにはどうするべきか?誰も答えられません。
つまり「偉い人は相談できる相手が少なかった」のです。
具申(ボトムアップ)はあるでしょう。評定衆の相談や、領民からの声も。ですが、大半は「お願い」をしてくるばかりでしょう。
ですが、結局のところ、方針や戦略を決断するのは領主です。どう導けばよいのか分からないし、結局はやってみなければ分かりません。そして、一度始めたら、士気に関わるので迷うことも許されません。
そうこうしているうちに、タイムリミットがやってきます。だから、「人事を尽くして天命に委せる」しかなくなるのです。
出てきましたね、「天命」なんて言葉が。そうです、ここで宗教の存在が輝いて見えるのです。しかも仏教や朱子学などの思想などは、極めて支配や統治に向いています。
これは「偉そうにする人」も同じですね。ヤクザもよく事務所に神棚があったものでして、それは明らかなる不安の現れです。
前述したように、
・科学的根拠には基づかないかもしれないけれど、仲間を守るために防災訓練・予行演習をしたい。
・こちらの考えを伝えても民には理解できないので、ある程度不満を吸収してくれる宗教に頼りたい。
・支配の根拠として神道にも頼りたいし、支配構造の構築のために仏教や朱子学にも頼りたい。
思考回路はどれも似ていて、いずれも「言行を肯定してくれるなら何でもよいという考え方」です。
そして、この不安を解消する術の一つが、占いです。占いによって、とにかく悩みを聞いてくれて、「大丈夫だ」と言われたいとか、決定コストを減らして欲しいのです。
時には意見が割れて分裂しそうになることも、何か大きな力で代わりに決めて欲しい。それを叶えるのが宗教的権威です。なんともメシア思想的ですね。
人間の業とは、基本的に「弱さ」と「怠惰」から現れ出ます。これらを意識して自責せずに済む手段の一つが占いという訳ですね。
科学がないから占いに頼る、という状態の内訳は、つまりは心の問題になりますから、こういう心理が働いているものだと解釈できます。
●現代日本的な解釈
この考え方は、実は現代にも通じる部分があります。それは、「とにかく自分の話を聞いてくれる、自分の話をしてくれる人にお金を払う」という点です。
その観点で言えば、男性はキャバクラやガールズバーに、女性は占いに行きがちですが、要するに求められているのは「サードプレイス」なのだと思います。
結局は武将も「行きつけ」を欲していたわけです。
本心では、自分の話をしてもらわなくてもなんとなく居られて、肯定されている感覚になるような、居心地のよい場所を探していた。でも、戦乱の世がそれを許さなかったわけです。
それは武将たちが茶湯に夢中になっていったのも納得ですよね。「立場を忘れましょう」と言ってくれるのですから。

曜
源頼朝と源義経との対比が面白かったです。
なので、特に義経の身勝手な行動について梶原景時が批判した件について、「社員が昇格してリーダーになった途端に実力を発揮できなくなる理由」というビジネスライクなシーンから、学術的見解に落とし込みつつ、分かりやすく解説してみようと思います。
■ピーターの法則
これは、人は組織の中で持てる能力の限界まで昇進していくけれど、最終的にはそのポストにおいて無能になるまで昇進が続く、という考え方です。
部下として優秀だった人は、その能力(プレイヤーとしてのスキル)が評価されて昇進します。しかし、リーダー格に昇進すると、それまでの能力はあまり求められず、代わりにマネジメント能力や、人材育成、戦略を立てる能力が必要になります。
これは、組織はプレイヤーとしての能力しか評価せず、新しい能力を身につけさせる仕組みがない場合が多いため発生する問題です。
結果、昇進した人は、新しい役割で有能とは言えなくなり、それ以上昇進できなくなってしまいます。そして、そのポジションに居座り続けるため、組織全体の停滞を招いてしまいます。
■リーダーシップ論
これは、リーダーに必要な資質や行動を研究する分野で、リーダーの身の振り方に直接関わるものです。
部下であるうちは、与えられたタスクを効率的にこなす「業務遂行能力」が重要ですが、一方、リーダーには、チームのビジョンを示し、メンバーをモチベートする「人間関係構築能力」や、組織全体の戦略を考える「概念化能力」が求められます。
例えば源義経と頼朝の例では、彼らを「戦術家」と「戦略家」の違いとして説明できます。
源義経は、突出した戦術家で、目の前の戦場でどう勝つか?という能力に長けていました。
対して源頼朝は、政治家であり戦略家ですから、戦場で勝つことよりも、武家社会全体をどう動かすかというビジョンを持っていました。
義経はプレイヤーとしては最強でしたが、リーダーとしては未熟です。ここを景時が見抜いたんですね。周囲の人間や政治的な状況を顧みず、自分の能力を頼りに突っ走った結果、頼朝というトップから排除されることになってしまったのです。
■役割理論
打って変わって、こちらは組織における個人が果たすべき「役割」に焦点を当てた理論です。昇進する人物が直面する問題は、役割が変わることによる混乱として説明できます。
部下の役割は、与えられた任務を効率的にこなす現場での「実行者」としての役割です。
対して、リーダーの役割は、チーム全体の方向性を決め、メンバー間の人間関係を調整する「マネージャー」としての役割になります。
優秀な部下は、自分の「実行者」の役割にこだわり、新しい「マネージャー」の役割にうまく切り替えることができず、これが失敗する原因となってしまいます。
この失敗の原因が分からなければ、「実力者」としての過去の成功体験から抜け出せず、部下にも自分と同じ「実行者」としての完璧さを求めてしまうことになってしまいます。
その結果、チームに過度なプレッシャーを与え、できる人しか認めずにひいきなどして、関係がこじれて組織が機能不全に陥ってしまいます。
■状況適応型リーダーシップ
名前の通り、リーダーは、部下の能力や状況に応じて、自分のスタイルを変えるべきだという考え方です。
この考え方では、リーダーの行動を大きく2つに分けるのが特徴です。
・指示的行動(タスク志向)……メンバーに具体的に何をすべきかを伝える。
・援助的行動(人間関係志向)……メンバーの意見を聞き、人間関係を築く。
昇進したばかりのリーダーが組織を崩壊させてしまうのは、自分の得意な指示的行動ばかりに偏ってしまうことが多いためです。しかし、チームが成熟してくると、指示ばかりではメンバーの自律性が育たず、不満が溜まるようになってしまいます。
この理論から見ると、義経は指示的行動に優れていたけれど、人間関係は完全に軽んじていたと解釈されるでしょう。
対して、頼朝は状況に応じてリーダーシップを使い分けることができて、情に流されず、義経のような優れた「実行者」をうまく配置し、全体の戦略を統括する「戦略家」としての役割を果たしたと言えるでしょう。
頼朝は、義経には想像も及ばないほどの遠く深くを見ていたんですね。
もし義経が、頼朝が求めるようなリーダーシップを身につけていたら、歴史は大きく変わっていたかもしれないですね。ただし、義経の性質からして、その可能性はかなり低かったと考えられると思います。
知識はあくまで知識ですから、それをどう応用するかという観点は個人の考え方に帰属します。なので、知識を得ても、性格的にそれはないんじゃないかなあと個人的には感じています。
また、小説や漫画などで義経側がヒーローとして描かれる機会が多い理由は、多くの人々が「戦術家」の役割にエンターテイメントを見出し、さらに「戦術家」に共感しやすいためだと考えられます。
対して、「戦略家」は、勝った先を見据えなければなりません。人を多く率いるには、地図を見て道をどう歩くかという「指示」だけでは不足になります。
地図を作成し、より遠くへと導いて、さらにその地でどう生きるかというような「方針」を与える側になるようなものなのでしょう。そのため扱うべき範囲は「戦術家」を包摂し、そして非常に広大です。
なので、昇進した方は、こうした説明をして、「だからこそ、いきなりできるわけがありません。これは私の問題ではなく、組織の問題です。なので、もうしばしのあいだ、温かい目で見守ってください」という正当な言い訳をするとよいでしょう笑

曜
ただし、あの流送方法そのものは、お話をうかがう機会のあった林業家さんの話では、どうやら事実のようです。
原木は根元側のほうが密度が高く、そのため比重差があり、これが流送に際して影響してくるのだそうです。
しかしながら、あのような短くされた木材となると、あそこまではっきりとした比重差が生まれるかは定かではないそうです。
むしろランダムな水流によって、比重差など関係なくクルクルと回ってしまうはずだ、とのことでした。
余談ですが、建材として柱などにする場合は、木として自生していたときと同じ向きに立てて使用するのが良いとされているのだそうです。
何でも疑問に思って聞いてみるものですね、勉強になりました。

曜
さらに因習村や新参いびり、その前例となる日本の事件、そして具体的な対策についてあれこれ書こうと思っていたら……あまりに長くてレポート用紙2枚分ほどになってしまったのに、まだ触りしか書けていません。
ざっくり書いておきますと、門閥や閨閥は地方だけでなく現在の日本の政界にもあります。そのため見合い結婚も行われているはずです。時代錯誤ですが、これは閨閥を見る限り、間違いない話です。
そういう強固な連帯が政治家にはあるので、だからこそ我々にとっては厄介なんです。
本作のシマ社会のように一家一強なだけならば、割とやりようがあるのですが、結局は別の政治家を擁立して、別の水産加工会社を設立する必要が出てくるでしょう。簡単じゃないですね。
もちろん本作には異能などもありますし、内部の協力者もおりますから、そちらの情報源と、主に人魚関連の解決法によって打開されていくのでしょうけど、現実的な観点では、ゴリゴリの政治の話になってきますね。

曜
「もっと百戦錬磨の人に聞いたら良いのに」と言ったら、「そんな男信用なるか。つか話聞いてくれないし」とのこと。
とにかく聞いてもらいたいんだなぁ。

曜
あくまで、揺れない、多くを語らないなど「見た目や態度」に特化した考え方です。思想というより、実態は方法論です。
しかし、「見た目や態度」でいいんですよ。男性当人から見ても、他人の男性から見ても、なんと相手女性から見ても。
のちにダンディズムの中身の無さや柔軟性の不足に気付いていくけれど、その手前では、男性は「遊びたい」、女性は「夢を見たい」。
ほら、成り立っちゃうんですよね。
だからこそ、結婚して生活というものになってから問題が発覚します。「あれ?なんかめちゃくちゃ子供っぽくない?この人」とか「素顔が情けない」って。
これは非常に「よくある悲劇」だと思います。過去に20件以上聞いたことがある話です。
繰り返されているなぁ。

曜
本稿は、「1/2」で記した、個人にとっての価値は「ナラティブ」に帰属し、対して、集団にとっての価値は、「ストーリー」に帰属する、という主張を旨としている。
前稿で用語の解説を行い、功罪の「功」を示した。そして、本稿では、現実の捉え方として、フィクション的解釈およびドキュメンタリー的解釈に対する問題点を、具体例として民族紛争の原因論から洗い出す。
■民族紛争の原因
民族紛争に繋がる民族主義の高まりには、様々な原因が絡み合っている。主な原因を網羅的に挙げる。
▼経済格差と不満……特定の民族グループが経済的に優遇され、他のグループが貧困や失業に苦しむ状況は、不満を蓄積させ民族間の対立を激化させる。
▼政治的権力の不均衡……政治的な権力が特定の民族に集中し、他の民族が差別されたり、政治に参加する機会を奪われたりすると、不公平感が強まり民族主義が高まる。
▼歴史的・文化的記憶……過去の支配、植民地化、虐殺などの歴史的経験や、宗教、言語、文化の違いが、民族のアイデンティティを強化し、他民族への敵対心を生むことがある。
▼外部からの影響……国境を越えた民族グループや、他国からの支援が、特定の民族主義運動を煽り、紛争を助長することがある。
▼人口動態の変化……民族構成の変化(例:人口の多数派が少数派になるなど)は、資源や政治的権力を巡る不安や競争を引き起こす。
▼指導者の扇動……政治的指導者が、自身の権力維持や拡大のために、民族の不満や恐怖を煽り、対立を意図的に作り出すことがある。
▼グローバル化への反発……グローバル化が進む中で、伝統的な文化やアイデンティティが脅かされると感じる人々が、自民族の結束を求めるようになる。
▼メディアと情報操作……メディアが特定の民族グループを否定的に描いたり、プロパガンダを流布したりすることで、民族間の不信感や敵意を増幅させる。
ただし、民族主義の高まりの原因を、歴史的な発生回数の多さで厳密に順位付けするのは難しい。なぜなら、民族紛争の原因は単一ではなく、複数の要因が複雑に絡み合っているからである。しかし、最も一般的で頻繁に見られる傾向をもとに、順位付けと事例を挙げることは可能であるため、それを以下に示す。
●1. 経済格差と不満
最も普遍的な原因の一つ。特定の民族が経済的な優位性を独占したり、逆に特定の民族が貧困に苦しんだりする状況は、民族間の不満と対立の温床になりやすい。
▼ルワンダ内戦: 少数派のツチ族が、植民地時代から経済的、政治的に優遇されてきた歴史があり、これが多数派のフツ族の不満を増大させた。
▼旧ユーゴスラビア紛争: セルビアとクロアチアなど、各共和国間の経済的な発展格差が、紛争の一因となった。
●2. 政治的権力の不均衡
権力が特定の民族に集中し、他の民族が政治から排除される状況は、民族のアイデンティティを脅かし、分離主義運動の原動力となりうる。
▼チベット紛争: 中国政府によるチベット民族への政治的支配と自治の剥奪が、チベット仏教を中心とした民族主義の高まりに繋がっている。
▼パレスチナ紛争: ユダヤ人国家であるイスラエルの成立以降、パレスチナ人に対する政治的権利の制限が、長年にわたる紛争の根底にある。
●3. 歴史的・文化的記憶
過去の戦争や支配、虐殺の記憶は、民族の集合的なアイデンティティを強く形成し、他民族への敵意や不信感を永続させる。
▼イスラエル・パレスチナ紛争: 紀元前からの歴史的な対立、ホロコーストの記憶、そして聖地を巡る宗教的、文化的な対立が複雑に絡み合っている。
▼北アイルランド紛争: アイルランドとイギリスの植民地時代から続く歴史的な対立、そしてカトリックとプロテスタントの宗教的な違いが、長年の紛争に繋がった。
●4. 指導者の扇動
歴史上、多くの紛争が、権力欲を持った指導者によって意図的に引き起こされている。彼らは、民族の不満や恐怖心を煽り、敵を作り出すことで、自身の権力を維持しようとする。
▼旧ユーゴスラビア紛争: スロボダン・ミロシェビッチなど、各国の指導者が民族主義を煽ることで、国内の結束を図り、紛争を激化させた。
▼ナチス・ドイツ: アドルフ・ヒトラーは、第一次世界大戦後のドイツ国民の不満を巧みに利用し、ユダヤ人という仮想敵を作り出すことで、権力を掌握しホロコーストを推進した。
●5. 外部からの影響
国境を越えた民族グループに対する外部からの支援(武器、資金など)は、紛争を激化させ、国際的な問題へと発展させることが多い。
▼シリア内戦: 複数の外国が、自国の利益のために異なる民族・宗派グループを支援しており、これが内戦を長期化させている。
▼アフガニスタン紛争: 冷戦時代、ソ連とアメリカがそれぞれ異なる勢力を支援したことが、その後の紛争の長期化に繋がった。
●6. 人口動態の変化
民族構成の変化は、資源や権力を巡る新たな緊張を生み出す。特に、多数派が少数派になる可能性があると、恐怖や不安が高まりやすい。
▼コソボ紛争: セルビアが多数派のコソボ・アルバニア人に対して、自治権を剥奪した背景には、セルビア人の間でコソボにおける少数派になることへの恐怖があったとされる。
●7. グローバル化への反発
グローバル化によって、伝統的な民族文化や生活様式が失われることへの懸念が、民族主義や排外主義的な感情を高めることがある。
▼欧米諸国での排外主義: 近年、経済移民や難民の流入が増える中で、自国の文化や雇用が脅かされるという感覚が、民族主義的な政党の台頭を後押ししている。
●8. メディアと情報操作
現代においては、メディアやインターネットが、プロパガンダやデマを拡散し、民族間の対立を瞬く間に激化させる力を持っている。
▼ルワンダ虐殺: ラジオ局「ラジオ・テレヴィジョン・リブレ・デ・ミル・コリンヌ」が、ツチ族への憎悪を煽る放送を繰り返したことが、虐殺の実行を促したとされる。
▼SNS上でのプロパガンダ: 近年、SNSが偽情報やプロパガンダを拡散し、様々な紛争や政治的対立を煽る役割を果たしている。
■民族紛争の根源:ナラティブと権力の力学
●市民の不満は紛争の燃料に過ぎない
民族紛争の直接的な原因として、経済格差や政治的抑圧といった市民の不満が挙げられることは事実である。しかし、これらの不満は紛争の「火種」や「燃料」に過ぎず、それ自体が大規模な暴力へと発展することは稀である。歴史を紐解けば、不満が充満している地域であっても、大規模な紛争に至らない事例は多く存在する。これは、市民の不満が自発的に組織化され、武装勢力化することは極めて困難であることを示している。彼らは武器や資金、そして何より明確な戦略的ビジョンを欠いている。したがって、民族紛争の発生には、不満という土壌に火をつける外部的な力が不可欠となる。この外部的な力こそが、紛争の本質的な原因である。
●権力者による意図的な扇動
不満を抱える市民という燃料に火をつける役割を果たすのは、多くの場合、権力者や外部勢力である。彼らは、自らの政治的・経済的利益のために、民族間の対立を意図的に煽動する。この扇動は、「悪を討つ善なる我々」という単純なナラティブを巧みに利用して行われる。このナラティブは、特定の民族を「我々の不幸の原因」として標的化し、市民の複雑な不満を単純な「敵愾心」へと転換させる。扇動者は、一部の事実を誇張し、それ以外の多くの不都合な現実を無視することで、このナラティブを構築する。市民は、自らの不満が正当な怒りであると信じ込まされ、その結果、暴力の許容度が著しく高まる。この段階で、紛争は個人の不満というレベルを超え、集団的な暴力へと向かう準備が整うのである。
●プロパガンダと偽りの被害者意識
紛争を扇動する権力者や外部勢力は、プロパガンダを駆使し、市民に偽りの被害者意識を植え付ける。彼らは、特定の民族集団を「搾取者」や「裏切り者」として描き出す。この手法は、個別の事例を全体に帰属させることによって成立する。たとえば、「特定の民族の富裕層」の存在を誇張し、「その民族全体が我々を搾取している」という単純なナラティブに仕立て上げるのである。このナラティブは、「悪を討つ善なる我々」という感情的で強力な物語を構築する。この物語によって、先制攻撃を行う側であっても、自分たちは不当に扱われた「被害者」であり、その行動は正当な「自己防衛」であると信じ込む。この被害者意識の固定化が、対話や妥協の可能性を奪い、紛争を不可避のものとさせる。
●武器と資金が不満を武装化する
市民の不満と、権力者による扇動だけでは、大規模な民族紛争は発生しない。そこには、武器と資金という物質的な要因が不可欠である。市民が自力で大規模な武力を整えることは困難であり、外部からの支援がなければ、不満は小規模な衝突やデモにとどまる。この段階で、武器商人や国際的な利害関係を持つ勢力が介入する。彼らは紛争当事者双方に武器を供給し、対立を激化させることで、自らの経済的利益を追求する。このような外部からの介入は、市民の不満を武装蜂起へとエスカレートさせ、紛争を長期化させる。したがって、紛争の本質的な原因は、市民の自発的な民族主義にあるのではなく、その民族主義を利用し、具体的な利益を得ようとする権力者と外部勢力の存在にあるのである。
■権力とナラティブが織りなす悲劇
民族紛争の本質的な原因は、特定の民族が生まれながらにして持つ憎悪や、市民の自発的な不満にあるのではない。それは、不満という火種を、権力とナラティブという二つの力によって、意図的に大火災へと発展させる人間社会の構造に根差している。この構造は、単純な因果関係ではなく、複雑な力学によって成り立っているのである。
●政治権力による扇動
民族紛争の始まりには、常に政治的権力の思惑が存在する。権力者は、自らの地位を維持または拡大するため、経済格差や歴史的な対立といった市民の不満を巧みに利用する。彼らは、特定の民族集団を「敵」として設定し、その存在を国民の不満の安易な掃き溜めとすることで、内部の結束を固める。この際、権力者は「悪を討つ善なる我々」という強力なナラティブを構築する。このナラティブは、市民の複雑な感情を単純な正義感へと転換させ、暴力という極端な行動を正当化するのである。このプロセスは、特定の民族を「主語の大きい」存在として一括りにし、彼らが被る不利益を無視することで成立する。
●物流と情報による武装化
不満が感情的な敵愾心へと転換されただけでは、大規模な紛争には至らない。市民を武装勢力へと変えるためには、武器という物質的な要素が不可欠である。この武器の流通には、国際的な利害関係を持つ勢力、特に軍需企業が深く関与している。彼らは、紛争当事者に武器を供給することで、自らの経済的利益を追求する。同時に、メディアやプロパガンダは、偽情報やデマを流布することで、憎悪をさらに煽り、市民の行動をさらに過激化させる。このようにして、市民の不満という潜在的なエネルギーは、武器と情報という二つの物流によって、現実の暴力へと変換されるのである。
●自己完結的な思考の罠
そして、これら全ての根底にあるのは、市民が持つ「知った気になれればそれでいい」という、極めて人間的な思考の罠である。人々は、複雑で理解しにくい事実(ストーリー)よりも、シンプルで感情的なナラティブに飛びつく傾向がある。紛争の参加者たちは、自分たちが「正義の戦い」を戦っていると信じ込む。この自己完結的な信念**は、彼らが他者(敵対する民族)の視点や苦悩を理解する機会を奪い、対話の可能性を完全に閉ざす。
■まとめ
民族紛争は、単なる民族間の対立ではない。それは、人々の不満を燃料とし、政治的権力が火をつけ、物流と情報が炎を煽り、そして人間の持つ自己完結的な思考の罠がそれを加速させる、極めて冷酷で悲劇的な人間社会の構造なのである。

曜
本稿は、個人にとっての価値は、その多くは「ナラティブ」に帰属しており、対して、集団にとっての価値は、「ストーリー」に帰属する、という主張を旨としている。
各々の自覚はさておき、事実として、人々は「フィクション」と「ドキュメンタリー」によって世界を観測し認識を拡大していることが近年極めて多いものである。そこで、これらの用語解説とその差異を、実例によって、解き明かす。
まずは、本稿で用語の解説を行い、功罪の「功」を示す。そして、次稿にて現実の捉え方として、フィクション的解釈およびドキュメンタリー的解釈に対する問題点を洗い出す。
■状況把握に際しての用語ごとの違い
●個人の真実 (truth)
個人の真実は、主観的な信念や経験に基づいているもの。その人にとってのみ真実、内的な確信。
これは科学的な検証を必要とせず、個人の感情、感覚、信仰などによって形作られる。例えば、「私はこの音楽を聴くと幸せになる」という感情は、誰にとっても客観的な事実ではないものの、その人にとっては揺るぎない真実である。個人の真実は、その人の内面世界で完結しており、他者と共有することは難しい場合が多い。
例:「この絵は美しい」
●科学で証明しうる現実 (reality)
科学で証明しうる現実は、客観的で普遍的な事実。外的な客観性。
これは、科学的な手法(実験、観察、論理的推論、再現性の検証など)によって検証可能であり、誰がいつどこで調べても同じ結果が得られるものである。例えば、「水は1気圧下で100℃で沸騰する」とか、「地球は太陽の周りを回っている」というようなことがこれにあたる。これは個人の主観に左右されず、反証可能性を持つ。つまり、もし理論が間違っていると証明されれば、その理論は修正される。
例:「光の速さは秒速約30万キロメートルである」
●科学では証明し得ない現実 (actually)
客観的に存在しているものの、現在の科学技術や知識の枠組みではまだ証明できない事柄や現象を指す。個人の真実(内的な確信)・科学で証明しうる現実(外的な客観性)の両者の中間に位置する、未解明な客観性である。
これは、単なる個人の信念ではなく、何らかの形で存在している可能性を秘めているものである。例えば、未確認生命体(UFOなど)の存在、宇宙のダークマターやダークエネルギーの正体、あるいは人間の意識の本質などがこれに該当する。これらは「個人の真実」のように主観的ではないが、「科学で証明しうる現実」のように客観的に証明されたわけでもない。
例:宇宙の始まりの瞬間、別次元の存在
●意見 (Opinion)
「意見」は、ある事柄や問題に対する個人の見解や判断。
これは「個人の真実」に似ているが、もっと一時的で変動しやすい。個人の真実がその人のアイデンティティや深い信念に基づいているのに対し、意見は情報や状況によって変わりうる。
例:「このレストランは美味しいと思う」
※「個人の真実」との違いとしては、個人の真実は「私はこの音楽を聴くと幸せになる」というような揺るぎない内面的な感覚に近いが、意見は「〜だと思う」という、より表面的な判断や評価である。
●仮説 (Hypothesis)
「仮説」は、まだ証明されていない、科学的な現象や事実を説明するための暫定的な推測。「科学で証明しうる現実」と密接に関係している。科学はまず仮説を立て、それを実験や観察で検証するプロセスを踏む。もし仮説が検証に耐えれば、それは理論へと発展していく。
例:「火星にはかつて水が存在した可能性がある」
※「科学で証明し得ない現実」との違いとしては、「科学で証明し得ない現実」が「まだ分からない客観的な存在」そのものを指すのに対し、「仮説」は「それを解明するための推測や説明」という、科学的なアプローチの一歩目である。
●信仰 (Belief)
証拠がなくとも信じること。これは「個人の真実」に近いが、もっと広範で体系的な、宗教的・精神的な側面を強く持つ。多くの場合、信仰は個人の内面だけでなく、コミュニティや文化に根ざしている。
例:「神は存在する」
※「個人の真実」との違いとしては、個人の真実が個人的な感情や経験に基づくのに対し、信仰はより大きな枠組み(宗教、哲学など)に支えられた信条のことである。
●幻想 (Illusion) / 妄想 (Delusion)
知覚の誤りによって生じるもの。目の錯覚や幻覚などがこれにあたる。物理的に存在しないものを、あたかも存在するかのように認識してしまう状態。
「妄想」は、事実に基づかない、誤った信念だ。特に、精神的な病態として現れることがある。
例(幻想):「蜃気楼は水の反射による幻想だ」
例(妄想):「自分は誰かに監視されている」
※「個人の真実」との違いとしては、幻想や妄想は客観的な現実から著しくかけ離れたものであり、通常は病的または誤った認識とされる。一方で「個人の真実」は、他者から見れば客観的事実ではないかもしれないが、その人にとっては健全で意味のある内的な感覚である。
■フィクションとドキュメンタリーの分類
●フィクション
フィクションの物語は、基本的に個人の真実(truth)や意見(opinion)、そして時には信仰(belief)を基盤としている。作者の主観的な世界観や感情、メッセージが投影されており、客観的な事実(reality)を伝えることを主目的とはしていない。登場人物の感情や出来事は、作者の「個人の真実」を表現するためのツールだ。物語の中の出来事がどれほど現実離れしていても、読者や観客がそれに共感し、「確かにありそうだ」と感じることで、その物語世界は説得力を持つ。
●ドキュメンタリー
ドキュメンタリーは、科学で証明しうる現実(reality)や仮説(hypothesis)を提示しようとする。しかし、作り手の意見(opinion)や編集という行為を通して、ある特定の視点やメッセージが強調されるため、100%客観的な現実を伝えることは極めて難しいものである。ドキュメンタリーは客観的な事実に基づいているように見えるが、どの事実をどのように見せるかという選択自体が主観的な行為だからだ。このため、ドキュメンタリーは「客観的な現実」を追求する試みではあるが、その中に作り手の主観が入り込む余地があると言える。
■ナラティブとストーリーの関係性
「ナラティブ」と「ストーリー」は、フィクションやドキュメンタリーを理解する上で非常に重要な概念である。
●ストーリー
ストーリー(Story)は、単なる出来事の羅列を指す。「王様が死に、王妃も死んだ」というのがストーリーである。これは客観的な事実の列挙に近く、感情的な意味合いや因果関係は薄い。これはある意味、科学で証明しうる現実(reality)の断片を並べたものに近いものである。
●ナラティブ
ナラティブ(Narrative)は、出来事に意味や目的、感情的な文脈を与えたものである。「王様が死に、悲しみのあまり王妃も死んだ」というのがナラティブである。この一文には、「悲しみ」という感情が加わり、王妃の死に理由(因果関係)が与えられている。ナラティブは、出来事を特定の視点から語り直すことで、聞き手に共感を促し、個人の真実(truth)や意見(opinion)を形成させる力を持つものである。
つまり、ストーリーは事実の骨組みであり、ナラティブはそれに肉付けをして意味を与えるものである。ドキュメンタリーは客観的なストーリー(事実)をナラティブ(語り口)によって提示し、フィクションは個人の真実を表現するためのナラティブを創造するものである。ナラティブは、単なる情報を物語へと昇華させる力を持っている。
次稿へ続く。

曜
確かに、作品には作者のパーソナルな部分が「何かしら」は現れているかもしれません。ですが、そう考えるならば、「その何か以外のもの」は、作者のパーソナルな部分ではないということに必然的になります。
では、それを正確により分けることが、ただのいち視聴者に可能なのでしょうか?その確証は何をもってどこからどう得ているのでしょう?
つまり、そこには根拠のない自信があるだけになるでしょう。
結果として、あるのかないのか不明な要素のみを抽出して、勝手なことを言っているだけになってしまいます。
それによって褒めている分には、大した問題にはならないでしょう。ですが、ここで謗れば「根拠のない誹謗中傷」になってしまいます。
正当性がないだけでなく、何の利益にもならない行為なので、リスクばかりが残ります。
……ここまでは一般的な話ですが、実は見逃されがちなさらなるリスクがあります。
まず、「それでもなぜ発言したいのか?」を考えますと、正確なところは分かりませんが、一般的に言えば、「成功者への嫉妬」などになるのでしょう。
ですが、しばしば見かけるのは「女性作家への攻撃的な発言」ですね。その点から考えますと、おそらく「特定の女性への復讐心の八つ当たり」などになるのでしょうね。
理解はできますが、誰も納得しませんし、当人は損をするばかりのやり方です。
仮に誹謗中傷で訴えられなくても、「自らモテないと喧伝していることと同義になる」からです。
しかも、これを認め許す人は、同類だけになるでしょう。
要素分解すると、仕組みは大体こんな感じでしょうか。本当にまったく得がありません。
世の中、損をしてでも誰かの足を引っ張りたいという人がいるものですが、大体がコンプレックスに端を発しているから理屈を超えてしまうのでしょう。
私にはそれが恥ずかしいものですし、他の選択肢を用意できますから、採ることはありません。ですが、用意できないとしたら……と考えると、冷や汗が出ます。

曜
波の浸食によって昔の地層が流出してシーグラス化しているとなると、やはり20~200年前の津波などの影響なのだろうし、その上で護岸が今ほど頑丈ではない時代のものになるんでしょうか。
調べたところ、日本のコンクリート護岸は明治時代から始まり、1950年代頃から本格的に普及したとのこと。そのため、いつの津波かは判別しようがなくて、さらに化学的な変性現象の進み具合は状況にもよるはずですね。
つまり、破片だけではいつ頃のものか特定するのはなかなか難しいのでしょうね。
結果として、ビン底と変性具合くらいしか判断基準がないから、ああして完品があって、それを同定可能なビンの製法史の知識がないと同定できなかったことになる……という感じなのでしょうか。
詳しくないので分かりませんが、非常に多くの要素が含まれていて、とても面白かったです。
地学は少しかじっていますが、鉱物学はからっきしなので、今度そちらの本も今度読んでみようかなと思いました。

曜
どうにかならないものかと考えつつネットの海を泳いでいると、2023年に『三省堂国語辞典から 消えたことば辞典』なるものが発売されていたと知りました。
これを買えば、あれやこれやがなんとかなるのかもしれませんね。

曜
どういうことかと言いますと、まず、政治的手法を抜いて考えますと、総理の妻という私人を持ち出し、政治家の苦難を語ることで、夫を支えてきた経験の強い中高年の既婚者は共感しやすいものとなります。すると、
「大変だったんだね」
「苦労してたんだなぁ」
「それでも思い合っていて、いい夫婦」
なんて声がありえそうですね。
ですが、当然のことながら、「政治家の政治的問題は、政治で語るべきもの」のはずです。これは世間でも、「仕事の話は仕事ぶりで語るべきもの」のはずであることと同義ですね。
にも関わらず、今回のNスペは「仕事」の話を明らかに「人」の話にすり替えている。これは、いわゆる【論理のすり替え】と言われるものです。
そもそも妻たちの立場は、たとえ政治的立場に法的根拠がなかろうとも、それらによる利益を受け取れる立場にあると言えるでしょう。
また、限定的ですが、政治的影響力を有しているということはデファクトスタンダードとなっています。というか、そうでなければ取材をする価値などありません。
さらには、妻たちは夫である元首相たちを担保することによって、自身の既得権益や名声が担保されることは想像に難くありません。
つまりは、妻たちは元首相たちにとっては政争を共に戦ってきた戦友であり、持ちつ持たれつの共存共栄の関係にあるわけで、それを一介の私人かのように語ることは、デファクトスタンダードではなく、放棄上の事実でしかないということです。
番組では、彼女たちならではの支援の苦労や、私人だとしても政治的機能に邁進したこと。その供述と憂いを帯びた1人の妻および女性としての顔。そして、首相に先立たれた過去と、のちのお墓参りなどが描かれていました。
実は、番組がここまでで終われば本稿を書くほどの問題はありませんでした。ですが、そこから番組は「石破おろし」に繋げて結びとした訳です。これはかなり良くない構成でしょう。
このことから、あの内容の示すところは、「妻が人間ならば、その夫である首相だって人間なんだから、手心を加えてよ」という話なのだということを考慮せざるを得ません。
これは私個人が「絶対にプロパガンダだ」と主張しているものではなく、「プロパガンダとしての構造を間違いなく有し、その上でプロパガンダである可能性が否定しきれないタイミングである」ということです。
「第4の権力」と評されるマスメディアのあるべき姿はどのようなものか?ということを同局で議論するさまを放送していることがありますが、局全体としては「視聴者向けの言い訳」になってしまっている。
たまにあるんですよね、こういうの。
年配者の方ほどNHKを鵜呑みにしがちですが、このように社会的問題を個人の心の問題として矮小化することは、それなりに警戒されるべきものだと思います。

曜
本作では、穢れに常世と隠り世、魂に輪廻、そして人の霊と物の怪がいて、そこには畏敬がありますね。ということは、「住民たちの認識」は神仏習合の系譜を引く団体の宗教的思想を基調としていると考えられます。
それに対して、仮に光(仮)が霊的存在で、いわゆる憑依状態にあるのだとしたら、それは肉体的には生きているということになります。
それとは逆に、仮に肉体は死んでいて、その死体に憑依し放題ならば、病院とかで新鮮な肉体を手に入れ放題。コロコロと生まれ変われることになります。(ただし、その肉体の依代としての才覚などによるのかもしれない。)
光(仮)には実体があって操作可能なケースなわけですし、動揺すると元の姿に戻るならば、光(仮)は単に「光(真)の姿に変身できる生物」なのだろうと私は思い込んでいました。
しかし、どうも違ったようです。今回の光(仮)の「死んでいる」との発言で、認識を改めることになりました。
俄然知らない宗教になりましたが、これは住民たちの認知」が"彼ら"を勘違いしている、というテイなのかもしれないと思うようになりました。
まず、少なくとも光(仮)は生物学的な捉え方で、生命を細胞単位で捉えて代謝で考えるという「生態系の中に成り立つもの」というような「光(仮)の認識」があるように思えました。(「生命は動的平衡である」という説に近い。)
それに対して、よしきだけには別の扱いをしているし、なのに魂は不変だとしている。
魂が不変で、よしきの魂を好むならば、よしきという物理的個体にこだわる理由にならなくなるはずだから、ここが明確に矛盾してることになります。
これは「光(真)の記憶」なのでしょうか?この記憶と「光(仮)の認識」に齟齬がある?
つまり、この部分がよしきを大事に思う気持ち(恋とか愛とかも含まれるのかもしれない)のように思われるし、光(仮)はこの矛盾に悩んでいるということになるのではないかと。
とりあえずですが、少なくとも光(仮)の認識は機械論的な死生観や古典的な死生観とは違うようですから、これによって「住民たちの認識」は光(仮)を正しく評価できてないことにはなります。
また、その分だけ光(仮)の方に武力的アドバンテージがあることになる気もしますね。
これは単に辻褄合わせの話になっていますが、これなら一応明文化されていないピースがカチッとはまると思います。

曜
パレスチナ問題のうち、ヨルダンの国際法上の不法占拠民の子供達のドキュメンタリーを観ました。
子供達には「アラブ人は悪く恐ろしく、我々は善人だ」という考え方に迷いがありません。ゆえに、純粋な心で武器を手にしてしまうのでしょう。
先祖の行いを現代を生きる者たちの負債とすることの不条理さを感じつつも、それが紛争の現実だと認識しています。ドキュメンタリーで見た子供たちの純粋な憎悪は、【両者の大人たちの「相互的な悪魔化」という教育】の結果であり、それは対立する双方に共通する構造となっていました。
この状況を解決するには、単なる妥協ではなく、この「憎悪の連鎖」を断ち切る必要があるでしょうね。しかし、それは当事者にとって、親や共同体の価値観を否定することに等しく、非常に困難な壁となっているのだと思います。
愛と正義が排他性を生み、外部の論理が通用しない状況を前に、もやもやが晴れません。それでも、この紛争の悲劇を理解し、思考停止に陥らないよう、常に学び、問い続ける姿勢を大切にしたいと感じました。

曜
呪詛の内容から「リア充爆発しろ」を思い出しました。
↓
向こうは血花に咲かすぞ ちらちらそわか
四方さんざら 微塵と乱れやそわか

曜
ざっくりな記憶ですが、私の経験では2020年前後だったように思います。
交友関係がかなり広い人はもっと前からなのかなあ。

曜


曜
それで、あの「道の話」って何なんだろう?とたびたび思っていたのですが、あれって実は、
【同じ群れの中で行われる縄張りの確認行動】
なのでは。
実は本能的なものだったり……違うかなぁ。

曜
どちらもダイナマイトと似ていて、使い方次第で人が死にますし、人を豊かや幸せにもすると考えています。
とりあえず双方の本質的な部分を抽出し、権力などとの具体的な作用の差を明確化。そこから仮説を立てて情報を集め、考え方やその良し悪しの判断基準、一つの解決策までは導き出しました。
しかし、これはあくまで「悪い権威を問題視できている人向け」というような仕上がりです。とかく論理強度が低い。
どうしたら上げられるのか……模索しています。

曜
この話における「数学的」は、主人公が味の評価がかなり正確に把握でき、それを脳内で正確な数値や未知数データに変換しているという前提ありきで成り立っていると考えられます。
ここがいわゆるチート能力になっていて、いわば「感覚的数学脳」とでも言うような何かなのだと推察されます。
1番近いのはドラマ『ガリレオ』でしょうか?論理的思考を数式化していたので。
ただし、数式を見せられても分からない人も多いはずなので、そこは感覚的なものだとした方が作品として無難なのは分かります(私も得意ではないので)。
そのため「それなら数学要素って必要?」と思ってしまうのも当然かと。
個人的には、感覚として共感できないので深く考えてもしょうがないし、そういうテーマの作品という前提なので、という解釈に留めています。
方法論的に美味しい料理ができるならば、それでいいかなと。

曜
『YAIBA』に登場した天草四郎も、『神春市建設中』の世界という女性キャラも、全て「担がれた神輿」というものでしょう。「傀儡」とも言いますね。
現実だと、最近ならば環境活動家のグレタ・トゥーンベリも宗教ではないですが、「傀儡」でしょう。
(グレタさんが責任感と多くのプレッシャーに葛藤し、「もうやりたくない。もう十分」と思わず本音を吐露したところが撮影されている。)
自分の意思でやってるのか、そう教育されたからやってるのかの境界線は、極めて曖昧でしょう。
しかしながら、当人(四郎やグレタさんなど)がどう思うかはさておき、仕込んだ周りの大人達は「子供を神聖化させて、思想活動に利用している」わけで、当人には実質的な選択権などないに等しいわけです。
四郎は本音を話せる友達がいたのでしょうか?救世主性によって周囲に圧倒的なイニシアティブが取れても、心のままには生きられなかった可能性があるのではないでしょうか?
『YAIBA』において、島原・天草一揆の際、17歳で亡くなった天草四郎をキツネの妖術師にするのは、そういう言い伝えがあるからなのでしょう。しかし、そうした情報は、あくまで「四郎を擁立するに足る救世主性を担保するための大言壮語」と見るのが妥当だというのが、今の歴史学における解釈なのだそうです。
歴史学は、かつては「史料が全て」だったそうです。それが変化してきている。これは、世相を映している解釈だと思います。
同作が連載していた頃(1988年~1993年)は、こうした話はほとんど語られていなかったからこそ、ああいった神秘性やカリスマ性みたいな部分を誇張した表現になったのでしょうね。
歴史は観光業などの情報商材ともなる訳で、地域からの強い反発もあったのかもしれません。昔は信奉者も多く、また考え方が過激だったようですから。
ほぼ『YAIBA』の内容には触れていませんが、とにかく私にとっては、時代の変化をひしひしと感じるお話でした。

曜
嫌なことを言えば嫌なことを言い返されて、気分が良くなりようがないから。
そして不毛なことをする人は賢いとは言われない。
なので、ある程度の論理的思考力があって、賢いと思われたい人は、極力やらないものです。
問題となるのは、なのになぜ近寄ってきては、わざわざ拒絶を示すような人がいるのか?という点ですね。
よく端的に「かまちょ」と評されていますが、それ以上に「自分が正しいことを証明したい」ように思います。
自己肯定感や自己効果感が高ければ、ふつう意見が合わない人は視界に極力入れたくないものです。
低いからこそそれに抗いたいけれど、抗う手段として自分のせいだとは考えたくないので、そこで他人のせいにしてしまう。
言わば「問題を外部化しようとして、失敗している」わけですね。本質的ではない。
これに慣れてしまうと、してしまうことに疑念を抱けません。
ですが、そもそも口論で他人を変えることは難しいですよね。
相手を変えるには、「交換可能な条件の提示」しかほとんどないんですよ。つまり、【その人が自ら変わることで得られるなにかを示せなければ、人は変わらない】ということです。
そのなにかを相手に与えられない場合に、だったら共感でつながればいいじゃないか、となるわけですね。
結果論ですが、これを感覚的にでも理解できていることが多い女性の方が、理解できていないことの多い男性よりも賢いとも言えるでしょう。

曜
これはとても危険なことだと思います。
日本語は日本独自の言語ですが、日本にも世界史はあります。あるんですってば(説得)。
日本語によるAI利用は、「多言語を含めた検索を」や「海外での研究ではどのように語られているか」といった条件付けが必須になるという、言語的特性によるバイアス(偏り)への自覚的な対応が求められるようです。
つまり、めんどい。

曜
人との対話すべてに勝敗があるのだとしたら、関わる人全員を打ち負かすより他にないじゃないですか。赤ちゃん相手にも死に臨む親にさえも論破しますか。
なので、そんなことが正しい訳もないし、何があっても正当化されるなんてことはあり得ないと分かるはずなんです。
おそらくですが、その方は不安感や恐怖心を一般的なレベルより強く感じていて、それによって被害者意識を抱いてしまい、人を牽制したり論破しようとしてしまうのかなと勝手に見立てています。
つまり、「先制攻撃」をしているつもりはないんです。「先制防御」のつもりで暴言を吐いている。
正しいかは不明です。あれは社会病みたいなものなのか、個人の脳の問題なのか……。
分かりませんが、とにかくその方の心に平穏があればなと感じました。

曜
またテレビに出ていらしてお話を聞けて嬉しいけど、毎回同じ話を繰り返していらっしゃるので、まだまだ認識の普及のためにご尽力されている感じなんでしょうね。
これは途轍もなく凄い話のはずなんだけど、まだ全然拡大してないのかなぁ。
また、言葉を介さないとされていた植物もコミュニケーションを取り合っていることが判明してきていて、これによって仏教の教義が根底から覆っているので、そちらと合わせて凄い話のはずなのだけど、大きなニュースおしては取り上げられてないですね。

曜
その人は異性愛者なので、女性にモテようとするならまだしも、なぜ男の私にも言ってくるんでしょうか。
とにかく私にそれを知って欲しかったんだろうなあと思いながら苦笑いしていますが、正直めっちゃ苦笑いになってしまっているので、そろそろ気付いて欲しいです。
このやり方では、いわゆる男が惚れる男にはなれないんだなって。

曜
辞書をめっちゃひく派なのもありますが、辞書って
「考え始める起点の座標」
が決まるので、要らぬ迷いが消えるんですよね。

曜
原則として快楽を感じることは禁止される。なお、コミュニティーごとに合議によって定められるので各地で規律に差異がある。以下のような規則を破った場合、懺悔や奉仕活動の対象となる。改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁される。
・屋根付きの馬車は大人にならないと使えない。子供、青年には許されていない。
・交通手段は馬車(バギー)を用いる。これはアーミッシュの唯一の交通手段である[6]。(自動車の行き交う道をこれで走るために交通事故が多い)。
・アーミッシュの家庭においては、家族のいずれかがアーミッシュから離脱した場合、たとえ親兄弟の仲でも絶縁され、互いの交流が疎遠になる。
・怒ってはいけない。
・喧嘩をしてはいけない。
・読書をしてはいけない(聖書と、聖書を学ぶための参考書のみ許可される)。
・賛美歌以外の音楽を聴いてはいけない。
・避雷針を立ててはいけない(雷は神の怒りであり、それを避けることは神への反抗と見なされるため)。
・義務教育以上の高等教育を受けてはいけない(大学への進学など)。
・化粧をしてはいけない。
・派手な服を着てはいけない。
・保険に加入してはいけない(予定説に反するから)。
・離婚してはいけない。
・男性は口ひげを生やしてはいけない(歴史的に口ひげは男性の魅力の象徴とされることがあったため)。ただし、顎ひげや頬ひげは許される。
正直、こうしたことをずっと続けていて、まだ「約束の日」が来ないんだな、それでどうなるんだろう?と考えてしまいます。ホント、色んな考え方があるんだなぁ。

曜
エレイナ(ハッカーの少女)の故郷について。
いわゆる日本のカルト的なものではなく、どこかアーミッシュ(アメリカのキリスト教派で、移民当時の暮らしを現在も続けてる超保守的な人たち)みたいなものの感じがしました。
アーミッシュは欲望や感情の優先順位が低く互助的なコミュニティですね。その暮らしぶりと言えば、移動は馬車、産業は農業、動力は風車、通信は手紙みたいな感じ。
それに対しこのアニメでは、そういう暮らしにポンとAIだけが不自然に乗っかってきていて、しかもそのAIがシンギュラリティを起こしていたようで。なんかこう、SFというよりファンタジーでした。
仮にもっとお金に困っていたらならば、ワーキャンパー(アメリカで定住できず忙しい時期に臨時雇用するタイプの仕事に従事する季節労働者の車上生活者)みたいになるのでしょうね。
以前、ワーキャンパーの方々が忙しい時期にAmazonの倉庫で働いているドキュメンタリーを見ました。NHK映像の世紀のルート66の回だったかな。
でもラザロのこのコミュニティはお金に困っている感じは見受けられませんでした。また、AIが交流を捨てさせるとはかなり考えにくいかと。
そして、エレイナは外の世界の情報をどう得ていたのかがまったくの不明で、それもファンタジックでした。
元は同じく教団コミュニティに属していて、そこから抜け出す手助けをするような「逃がし屋」がいないと、エレイナは外界にそもそも憧れないし、外界に出てもどう暮らしたら良いのかも分からないはずです。
しかもそれが少女となれば、危険な目に遭うこともあるでしょう。正直、本当にこの設定と展開で良いのかなと感じました。
とは言え、こちらはアメリカの外資で製作されているようですから、日本は対象とはされていても、基本的にはアメリカ人向けなのでしょう。
これが逆にあちらのリアルだったりするのかなぁ。そんなことはない気がするのだけれど。

曜
何だろこれ、バグなのか見落としなのか…。

曜
「個人主義×政治的手段としてのキリスト教=福音派」または「個人主義×経済的手段としてのキリスト教=福音派」というニュアンスに陳腐化・矮小化された印象です。
そもそも1億人もの人々が全員漏れなくフィルターバブルとエコーチェンバーにやられて「純粋な心でダブルスタンダードをかましています」とは考えにくい。
複雑だけど「意図して純粋そうに振る舞う」ということをしていますね、宗教などの権威的な団体ではよくあるしぐさです。
だから例えば、よくアメリカという国体について語られて熱狂しているように見えるけれど、実のところは個人主義的に利用し合うのがアメリカ的作法なのであって、そこに実態権威や実体経済があるという訳ではないと。
そして、指導者層やエスタブリッシュメントではダブルスタンダードに気付かぬフリをしているに過ぎないのだろうと思います。
これを強いて言えば「アメリカ人によるアメリカごっこ」とでも言えばいいのかな。そういう点で、とてもキリスト教国的だなと感じます。

曜
なので、とにかく「色んな人がいるんだな」と理解するにとどめて、無害な限りは「そういうことってあるよね」でいいと思う。
それ以上を考えて得したなって思えたことが、人生で一度もないです笑

曜
もう少しアナウンス欲しいなぁ。

曜
わざわざこちらから「反論してください」と指示しないと酷いバイアスかかりますね、あれ。

曜
なんか、生きてるなーって。ここ"笑"つけたいところだけれど、クサいこと言いたいとかではなく、本気でそう思ってるんですよね。
あまり自分は自分のことを語るのは得意じゃないなぁ。人のはとっても素敵だなと思うけれど。

曜
めちゃくちゃ思想的で露骨なプロパガンダです。無神論者の私としては、完全なる興味本位ですね。

曜
あとバンバン視聴をやめますね、見たいものだけ見ます。敬虔なアニメジャンルのファンではありません。
人の投稿へは、同意できるものにのみ反応して、できないものにはスルーをして、平和にやりたいですね。
そういう尊重し合える方とのんびりまったり繋がれたらいいなと思います。

曜
そのうち分かったり、慣れたりするのかなあ。

曜
いや、そもそも私は工業高校に行ったので習ってすらいなかったと、思う……たぶん。
中学では習わなかった気がします。いや、習ったとてかなりマイナーなジャンルで、詳しい人・興味ある人は極めて少ない気がしています。実際どうなんだろう?
