かな(日本語勉強中)
私自身でさえ、自分が今何を考えているのかたまに分からなくなる時がある。
だが、私の心は私にしか分からない。
そう改めて言葉にすれば、当たり前だと思うでしょう?
それを自覚していてもなお、分かった気になってしまうのが人間というやつなのです。
スイーツ
お菓子作り
思考
かな(日本語勉強中)
なまじ見た目で甘やかされてきたヒトによく見られる傾向だ。
常に受け身でも許されてきた人種なのでしょう。
かな(日本語勉強中)
白湯で薬を飲み、朝日のシャワーを浴び、ストレッチで少しだけ身体を動かす。それからインスタントのお味噌汁をすすりながらご飯と卵焼きを食べる。デザートにはいつもヨーグルトが待っているのだ。
全然すっきりしない。これをしたら、これを食べれば落ち込んだ気持ちも晴れやかになるとどこかの偉い人が言っていた。
淡々と毎日が過ぎていく。
怠惰とストイックは両立するものなのだと私は結論付けた。
かな(日本語勉強中)
本当に幸せな人は一体誰なのでしょう?
子ども達には無償の愛と幸せを・・・good morning.
かな(日本語勉強中)
物を盗まれた時?
恋人に浮気された時?
既読無視をされた時?
勝手に私の分のプリンを食べた時?
かな(日本語勉強中)
チートデイ的な扱いなら分からなくは無いけれど、そのような人は日常的に使用している。
私はいつも「私と一緒に居る今日だけは禁煙だよ」と言う。
ummm...💭💭
かな(日本語勉強中)
「私は選ばれた」と錯覚している者たちに他ならない。
それでも私は、そのような人間こそが芸能人に向いているから嫌いではない。
どんな下積みでも周りに誇らしげに宣伝できる力こそ生き残るための必要な能力なのだから。
けれど、ここはその力を発揮する場には適していない。むしろ逆効果だ。
あなたの美しいお顔はここでは出さない方が得策でしょう。
かな(日本語勉強中)
という概念に囚われている者は、仮にどれだけ顔が綺麗でいても満たされることは一生無いのだろう。
コメント欄に群がる兎達の鳴き声でドーパミンが放出されるのなら、それは性依存症、或いは薬物依存症患者達と変わらない。
あなたもそうは思いませんか?
私は美しい顔を見ると幸せな気持ちになるから、世が変わらない方が都合は良いのだけれど。
アンドロイドの顔にも個性を感じることができる人間だからね。
かな(日本語勉強中)
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人をヒトとして見てしまうから、感情移入が凄く難しい。私の脳のどこかで不具合が起きている?
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#哲学

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#関東
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時々そんな事を考えてしまう時がある。
これは鬱などではない。ただの好奇心、素朴な疑問⋯⋯というやつだ。
だが、私は好奇心で死ぬ事も可能だと思える程旺盛な自覚がある。
裏を返せば、日常に退屈している証拠なのかもしれない。
かな(日本語勉強中)
かな(日本語勉強中)
「所詮はネット上の関係にすぎない」――そう考える人がいるのは理解できる。実際、ある人はためらうことなく関係を断ち切り、またある人は攻撃的に振る舞う。
けれども、ネット上の関係がいまや人間関係の大半を占めている人や、そこを唯一の居場所と感じている人も少なくない。そこに寄りかかる者もいれば、心を病んでしまう者もいる。
そうした異なる立場にある人同士が衝突する場面に出会うと、私は深く胸を痛める。
なぜなら、私は後者――ネット上に自分の居場所を見いだしている側の人間だからだ。
どちらが正しいということではない。双方にはそれぞれの強みと弱みがあり、心の底からの相互理解は、おそらく不可能に近いのだろう。
もし理解が訪れるとすれば、それは片方がもう一方へと歩み寄り、自らを変化させたときだ。それは最も穏やかな解決かもしれない。
だが、その道のりは決して容易ではない。
かな(日本語勉強中)
どうやら学生時代に未練があるようだ。ほとんどの時間は青い景色が広がっていた。
今の私は幸せですか?
かな(日本語勉強中)
貴方にはその意味が分かるかしら。
かな(日本語勉強中)
メンタルを含めた体調不良で休みがちな私の友人Aに対して、大半の心優しい人間は「無理しないでね」と言う。
Aはその言葉に対して違和感を感じていた。
けれど、その理由の説明にはとても難しそうに悩んでいた。そして最後に
「無理してないから休んでるんだけどね」
とポツリと呟いた。
私からしてみれば、この言葉は「いたって無難で、当たり障りの無い言葉」といったところだった。だから、そういう人が身近に居た時に使える便利な言葉だったのだ。
Aが言いたかった事を私は考えてみた。
おそらく「無理をしてる人」に言うなら、この言葉は正解だ。
しかしAは、無理をしていないから休んでいる。
つまり、無理すらできない状態にある。
言葉を選ばずに言えば、
本当にかけてほしいのは「もっと頑張って、無理をしろ」なのだろうか。
かなり雑に聞こえるかもしれない。
けれど、この違和感の根源は甘えではなく、渇望なのだ。
「無理しないで」は、Aに対して“これ以上はやらなくていい”と暗に許すように響く。
でもAは、その“優しさ”に居座ってしまいそうで怖い。
当の本人は「こんな自分を直したい。バイトですらこんななのに、このままじゃ社会人になっても絶対働けない」と嘆いていた。
居心地のいい沈黙に、ただただ身体を横たえてしまう気がしてならないのだろう。
本当は「無理をしなければ動けない」ということを、自身が一番知っているのだ。
それでも一歩を踏み出すには、誰かに「その無理は意味があるよ」と言ってほしい。
……結局私は何と声を掛ければ良いのだろう。
かな(日本語勉強中)
そう思えるようになったのはつい最近の事なのだけれど。
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この問いには、正解がない。
人によってその境界線は曖昧で、その輪郭は常に揺らいでいる。
「一緒にいたい」と思う。
「また会いたい」と感じる。
でもそれは友情かもしれないし、恋かもしれない。
その違いをはっきり分けられる人は、そう多くないんじゃないかと思う。
例えば、ふとした瞬間に名前を思い出したり、何気ない仕草が愛おしく感じたり。
それだけで「恋」だと判断するには、少し早い気もする、と言う人もいる。
でも逆に「恋じゃない」と言い切るには、あまりに強い感情だ。と私は思う。
友達としての「好き」と、恋愛的な「好き」。
その境界は、いつも心のどこかで交差して、ぼんやりと溶け合っている。
だからこそ人は時々戸惑い、時々傷ついて、でもそれでも誰かを想い続けるのかもしれない。
自分の中にある"恋の輪郭"は一体どこにあるのだろう。
かな(日本語勉強中)
夢を見た。
誰かが私に語りかける。
「昔、俺に悩みを相談してきた人がいてな。人間関係で苦しんでいたそいつに、俺は言ったんだ。『嫌だと思った奴は全員ブロックしていけ。自分の身は自分で守れ』ってな。今じゃそいつ、紅白に出るような有名人さ。どこかでサインでももらわねえとな。」
――私はその言葉を、どこかで聞いたことがある気がした。でも、これまで心に引っかかることはなかった。通り過ぎた言葉。届かなかった言葉。
けれど、なぜだろうか。
夢の中でその言葉を改めて聞いた時、今度ははっきりと「届いた」と思った。
それは決して、胸をえぐるような「グサッ」とした痛みではなかった。
むしろ、静かに、そっと、心の隙間に入り込んでくるようなやさしい感触だった。
言葉とは不思議なものだ。
同じ内容でも、それが「いつ」「どんな心の状態で」「どんな声で」届くかによって、まるで別物のように響いてくる。
きっと私は、同じようなことを何度も誰かから言われてきた。見たり、聞いたりしてきたはずだ。
でも、当時の私はそれを受け止める準備ができていなかったのだろう。
今の私は、少しだけ変わったのかもしれない。
自分の心と静かに向き合えるようになったからこそ、過去にすり抜けていった言葉が、夢というかたちで再び訪れてくれたのだろう。
それはきっと、私がこの先を進むために必要な“合図”だった。
ふとしたときに思い出せる、心の奥で灯り続ける、小さな言葉のランプ。
今日、夢の中で交わした会話は、確かに今の私に届いた。
そしてきっと、これからの私を支えてくれる。
かな(日本語勉強中)
人には誰しも、「特に仲が良い人」「まあまあの人」「少し苦手な人」など、それぞれに対して異なる“重み”を感じていると思う。
私にもそうした距離感のグラデーションはある。けれど、それをあからさまに表に出したり、他者に見せつけたりすることには、強い抵抗がある。
だからこそ、自分以外の誰かが、それをはっきりと“見せてしまっている”場面に出会うと、私は深く動揺する。
特定の人にだけ懐き、他の人には明らかに冷たい態度を取る・・・そんな様子が透けて見えてしまった時、私はどうしてもその人のことを「苦手だ」と感じてしまうのだ。
さらに困ったことに、その相手が、自分にとって大切な人たちと親しげにしていると、心の中で不協和音が鳴り響く。
「なぜあの人たちは、あの子とあんなにも仲良くできるのだろう?」
「私はそこに居てはいけないのかな?」
そんな思いが、頭をもたげてくる。
人には「合う・合わない」があることは分かっている。誰もが悪人ではないことも理解している。
それでも、こちらがいくら距離を縮めようとしても、どこか壁を感じたり、言葉にとげがあると感じてしまうと、やはりしんどいもの。
私は思う。
自分がこんなにも敏感になってしまうのは、「人と誠実に関わりたい」という気持ちが根底にあるから?
誰かを傷つけたくない。
誰にも優しくありたい。
それでも時に、心は軋み、自分の中にある理想と現実のギャップに戸惑ってしまう。
でも、これはきっと“弱さ”ではない。
むしろ、自分の信じる優しさや公正さを手放さずにいようとする、“強さ”なのだと思いたい。
少し距離を取ってもいい。
無理に好きになろうとしなくてもいい。
ただ、自分の心を偽らず、優しく抱えていくこと。それが、今の私にできる精一杯の誠実さなのかもしれない。
かな(日本語勉強中)
「可愛くなりたい」「美しく在りたい」と人一倍思っているにもかかわらず、何故タバコを吸うのだろうか。矛盾していると思わないかい?
かな(日本語勉強中)
日常会話の中で、「もし嫌いだったら今あなたと仲良くしてないよ」というような言い回しを耳にすることは少なくない。
一見、相手を安心させるための言葉のようにも思えるが、この表現は一度「嫌い」という否定的な可能性を持ち出し、それを否定するという構造を取っている。そのため、聞き手は逆に「嫌われているかもしれない」という不安を意識してしまうこともある。
本来、こうした場面で相手が求めているのは、「私はあなたと仲良くしたいから、一緒にいるんだよ」というような、回り道のない肯定の言葉だろう。そこには余計な前置きがなく、好意がまっすぐに伝わる。
では何故、多くの人が否定を含んだ表現を選んでしまうのだろうか。その背景には、いくつかの心理的・文化的な要因があると私は考える。
ひとつは、防衛的な言い回しとしての側面だ。自分の感情をはっきりと断言することは、ときに勇気を伴う行為である。
「好きだ」と言い切ることに照れや不安を覚える人は、まず「嫌いではない」と伝えることで、自分を守りながら好意を示そうとする。
また、日本語特有の曖昧さを好む文化も大いに影響している。
はっきりと「好き」と言うよりも、遠回しに「嫌いではない」と言う方が、波風を立てないとされる場面が多い。そのため、間接的な表現を無意識に選んでしまう人も多いのだろう。
さらに、相手の不安に素早く応えようとする気遣いから、このような言葉が口をついて出ることもある。
相手が不安そうに「私の事嫌いなの?」と聞いてきたとき、とっさに「嫌いじゃないよ」と否定するのは、一種の優しさだ。
しかし、その優しさが結果として肝心な「好き」という気持ちを曖昧にしてしまうことも、往々にしてあるのだ。
そしてもうひとつ、好意をストレートに表現することに伴う“傷つくかもしれない恐れ”も、この言い方に表れている。
「好きだ」と言って相手に拒絶されたときの痛みを想像すると、人はどうしても自分を守る言い方を選びたくなる。
つまり、「否定を含んだ肯定」という表現は、不器用ながらも他者を思いやろうとする心や、自分を守ろうとする人間らしさの現れなのだろう。
それでもやはり、相手に本当に届く言葉は、まっすぐに「好き」と言い切る肯定なのかもしれない。
そのような些細な言葉の選択で、人との距離、果ては"人生"までも大きく変えるといったことは、私達の気付かぬうちに沢山起きているのだろう。
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ふと思考を巡らせ、私はそのような事を考えた。
「強い人間」とは、決して壊れない人間のことではない。
壊れたとしても、それを筋肉痛のような“成長の前兆”として受け入れ、やがて回復し、以前よりも強くなっていける――そういう人間のことである。
そもそも、完全に壊れない人間など存在しない。
ただ、自分が壊れていることに気づいていないか、あるいはそれを見ないようにしているだけだ。
ダイヤモンドですら、一定の方向から力を加えれば簡単に砕けてしまう。
つまり、「硬さ」や「壊れにくさ」が強さの本質なのではない。
本当の強さとは、壊れた自分を受け入れ、それでもなお再び歩き出せる柔軟さと回復力にこそ宿るものだ。
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SNSの普及とともに、「嫉妬深さ」はしばしば軽蔑や嘲笑の対象となるようになった。
特に「メンヘラ」という言葉の登場以降、嫉妬や依存といった感情的なふるまいは、未熟さや面倒さと結びつけられ、「ああはなりたくないもの」とされる空気が強まっていると感じる。
だが、そもそも嫉妬は、本当に否定されるべき感情なのだろうか。
嫉妬は、人間の本能的な感情の1つだ。それは「失いたくない」という愛情の裏返しであり、また「自分もこうなりたい」という向上心の種にもなりうる。
つまり、嫉妬とは決して「悪」ではない。ただそれをどう扱い、どう付き合っていくかが問われている。
一方で、「嫉妬しない」と語る人もいる。
しかし実際には、そう語る多くの人も、無意識のうちに嫉妬を経験しているはずだ。
ただそれを認めない、あるいはうまく言語化できない。
感情とは“ある程度”は制御できても、“完全に”制御し切れるものではないのだ。
むしろ、嫉妬という感情を持つことは、人間らしさの表れであり、豊かな感受性のひとつともいえる。
感情が豊かな人は、ときに不器用に見えるかもしれないが、それゆえに人間らしい温かみを持つこともある。
当の私自身は、それほど嫉妬深い方ではないと思っている。束縛をすることもない。
ただ、誰かが異性と楽しそうにしている姿を見ると、ほんの少し胸がざわつく。けれど、その感情を表に出すことはしない。
それは、嫉妬を否定しているからではない。
ただ、自分の中にある感情として受け止めているだけなのだ。
「嫉妬を嘲笑する社会」に対して、私は少々抵抗を感じている。
感情を持つことは悪ではない。
むしろ、それをどう受け止め、どう振る舞うかこそが、人としての成熟を測るものなのではないのだろうか。
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ゲームもSNSも、極めればプロゲーマー、人気インフルエンサーになる。
けれど、こうなる過程で段々それをやる事が"努力"になっていく。これが何においても最も難しい所なのだろう。
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ある夜、年上の旧友と食事をした。彼はまだ二十代で、すでに企業の代表を務めている。食事の帰り、私は車中でこんな問いを投げかけた――
「自分に向いている仕事って、何だろう?」
すると彼は、少しも迷わずこう答えた。「何も考えず、自然に成果が出て、楽に稼げる仕事に決まってる」と。そして、自分はそういう仕事に就いているのだと淡々と語った。仕事そのものを好きなわけではないが、入社以来、誰よりも優秀な成績を当たり前のように収めてきた。努力は必要なかったし、他人の無能さにすら辟易しているのだと。とはいえ、そうした本音をそのまま口にすると嫌われるから、「まぁ苦労もあったけどね」といった無難な言葉を添えておくのだという。
その語りを聞きながら、私はふと考えた。彼にとって“努力”とは、すでに意識の外にあるものなのかもしれない。もしかすると、何かを学ぶ過程すら苦労だとは感じないほど、自分に適した環境にいたのだろう。
一方で、私には「努力している」という自覚がある。何かに向かっている自分を、客観的に見つめながら動いている。その道が好きであることに疑いはないが、常に「これは私にとって向いているのか?」という問いが頭のどこかにある。そして、こうも思うのだ――本当の才能に恵まれた人々は、たいてい「楽しいからやっているだけ」と笑って言うのだと。
とはいえ、私が選んだ道にも楽しさはある。そこにはまだ救いがあるのかもしれない。しかし、時折私は立ち止まってしまう。「もっと深く考えなければ」と思ってしまう。それが、私自身の思慮深さゆえの足枷となる瞬間が、確かにある。
「今、楽しいことを、ただ楽しいからやる」。それが最も自然で最も正直な生き方だと、頭ではわかっている。けれど、私はつい考えてしまうのだ。――この選択は、正しいのか?と。
かな(日本語勉強中)
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男も女も顔整ってるだけで人生楽になるんだから。淡々と努力すればいいだけ。
勉強か顔かどちらかでも努力出来る人間は決して弱者にはならない。
学も無いのに一丁前に文句並べたてる暇があるなら筋トレでもしてろという話。
あぁ、精神障害は一生入院して社会に出てこない方が幸せだよ。夜まで働くアンドロイドの上に立って生きている自覚の無いニート共と同じ。
その障害は最強の盾だよ。存分に使えばいい。呪いの装備だからね。一生手帳ビンタしときな。
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昨日の夜は、いつものように誰かと心の温もりを分け合いながら雑談したかった。ただそれだけだった。
そんな気持ちを胸に、友人の音声ルームを巡った。
最初に入った部屋では、誰かを笑いものにする声が絶え間なく続いていた。
かつてルーム主に好意を寄せていた人たちを揶揄する話題で盛り上がり、それが場の中心になっていた。
私はただ、他愛ない雑談がしたかっただけなのに。
その空気に馴染めず、「もうそろそろ寝るね」と小さく告げて、静かに退出した。
次に訪れたのは、私が大好きな人の部屋だった。
本当は、ただその人と、たわいもない話がしたかった。
けれど、私が入室した時、挨拶こそ交わされたものの、その後は私のコメントも読まれず、マイクに上がることも叶わなかった。
その人が悪いわけじゃない。ただ、きっと集中していたのだろう。
それでも、ほんの少しだけ、寂しさが胸に滲んだ。
三つ目の部屋は、賑やかさに満ちていた。
ゲームの勝ち負けに歓声が上がり、叫び声に会話が飲み込まれる。
落ち着いて言葉を交わす余地はなく、私はまた、居場所を見失った。
どの場所でも、私は小さな傷を負った。
誰かの未熟な一面を見てしまっても、好きな人を嫌いになりたくない。
その葛藤が、何よりも苦しかった。
自分で居場所(ルーム)を作るという選択肢も浮かんだ。
けれど、そこに誰も来てくれなかったら――そんな不安が胸に渦巻いた。
なぜ、私はこんなにも、心をすり減らしてまでここに居ようとしているのだろう。
ただ誰かと穏やかに話したかっただけなのに。
この場所は、未来にも仕事にも繋がらない。
それでも、私は誰かと心を通わせたくて、今日もここにいた。
誰を責めたいわけでも、誰かを嫌いになりたいわけでもない。皆の事が大好きなのに。
ただ、ひとりきりで抱えたこの気持ちの行き場が、どうしても見つからなかったのだ。
かな(日本語勉強中)
朝起きるはずだったのに、気がつけば時計は昼を過ぎている。
一瞬のうちに浮かぶ「やってしまった」という感情は、もはや身体に染み込んだ反射のようなものだ。私はなぜ、眠っていただけで、こんなにも自分を責めてしまうのだろう。
睡眠は、休息のための最も基本的な営みだ。
眠ることそのものが悪いわけではない。
けれども社会や日常の時間感覚が、私の中に“朝起きるべき”という前提を根づかせる。
その前提に少しでも反すれば、自分が劣っているような気がしてしまうのだ。
けれど、私は知っている。
私が眠っていたその時間、身体はたしかに静かに回復しようとしていたことを。
眠るとは、ただ時間を浪費することではなく、心と身体を整える再生の行為だ。
その結果として昼に目覚めたのなら、それは“怠惰”ではなく“必要”だったということではないだろうか。
大切なのは、いつ起きたかではない。
起きたあとの時間を、どんな気持ちで始められるかだ。
白湯を一杯飲むこと、カーテンを開けて光を浴びること。
そうした些細な選択が、私に「今ここからでも整えられる」という実感を与えてくれる。
罪悪感を抱いた私を、否定しない。
むしろその罪悪感は、「ちゃんと生きたい」「今日を大切にしたい」と願う心のあらわれだ。
私は、自分を責めるために眠ったのではない。
回復するために眠ったのだと、今、静かに肯定し直している。
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昨夜は深夜1時過ぎに眠りについたが、今朝5時頃に一度目が覚めた。
その後、再び眠りに落ち、7時半ごろに起き直したものの、まだ身体は本調子とは言えず、強い眠気が残っていた。これは一見、「もう十分寝たのに怠けている」と捉えられがちだが、必ずしもそうではない。
睡眠にはリズムがあり、通常90分を1サイクルとして深い眠りと浅い眠りを繰り返している。
4時間ほどの睡眠ではこのリズムが途切れており、脳も身体も十分に回復しきっていない可能性が高い。
だからこそ、二度寝としてあと90分ほどしっかり眠ることで、身体は再び深い眠りから回復へと向かい、起床後の活動の質も高まる。
ただし、目覚ましのスヌーズを何度も使って断続的に浅い眠りを繰り返すような“質の悪い二度寝”は、かえってだるさや集中力低下を招くため注意が必要だ。
また、長く寝すぎて午前中をまるまる潰してしまうと、体内時計のリズムが崩れ、夜になっても眠くならず、翌日に影響するという悪循環も起こり得る。
つまり、「まだ眠いから」といって無計画に眠るのではなく、自分の今の状態を感じ取りながら選択することが大切なのだろう。
もし再び眠れる感覚があるのなら、もう一度まとまった時間をとってしっかり休むのもいいだろう。
反対に眠れそうにないなら、無理に布団にしがみつくのではなく、朝の光を浴びてストレッチをし、身体を静かに起こしていくのが望ましいと言えそうだ。
大切なのは、「何時に起きるか」ではなく、「どう起きるか」だ。
今この瞬間の眠気もまた、身体が差し出してくれている小さな声。今日という一日をどう始めるか、その選択は、自分自身の感覚を信じることから始まる。
・・・そんなことを考えながらこの文章を書いているうちに、不思議と少しずつ、眠気はどこかへと溶けていった。心と身体の目覚めは、意外と静かに、言葉の中からやってくるのかもしれない。
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「大切な人を守れる物理的な力。
簡単に人を切ることができる強さ。
人に依存しない絶対的強さが欲しい。」
このように語った彼女は、自分の中にある「優しさ」と「脆さ」のせめぎ合いを、長い時間をかけて抱え続けてきたのだろう。
彼女が求めているのは、ただ力で誰かを押さえつけるような粗暴な強さではない。むしろそれは、静かに、確かに「自分の心と世界を守るための力」である。
たとえば「誰かを守る力」。
それは筋力やスピードのような身体的な要素を超えて、的確な判断力と、危機に際して動ける心の強靭さを含んでいる。
また、「誰かを切る力」とは、無慈悲な冷酷さではない。
それはむしろ、自分を犠牲にしすぎないための「線を引く力」である。
優しい人ほど「見捨てること」が苦手だ。しかし、その優しさの代償で傷つくことが続けば、やがて心は壊れてしまう。だからこそ必要なのは、他人を切り捨てる残酷さではなく、「自分を愛して生きる覚悟」としての決断力だ。
最後に、「依存しない力」。
人は誰かに寄りかかって生きたいと願う生き物だ。それを完全に手放すということは、ある意味で孤独と向き合うことでもある。
しかし彼女は、その孤独の中にこそ、自立した愛のかたちを見出そうとしているのだろう。「人に頼らない強さ」とは、「誰かに頼らなくても、自分を愛しながら歩けること」なのだから。
このように見ていくと、彼女が求める強さは、「力そのもの」ではなく、「自分を生かすための静かな選択」の連なりであることが分かる。
静かに、しかし確かに――
私は、今日もその強さを積み上げる。
おやすみなさい。
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人は時に、自分の感情を正確に定義することが難しい。
「これは本当に“好き”なのか、それとも“依存”なのか」――そう問いかけたくなる場面は、誰にでもあるだろう。
私はこれまで、よく人のことを「好きになる」人間だった。
しかしふと振り返ったとき、それは本当に「好き」だったのか、自問するようになった。
相手を求める感情に、「依存」の気配が色濃く混じっていたことに気づいたからだ。
「好き」と「依存」は似ているようでいて、決定的な違いがあるように思う。
他者を「好き」だと感じるとき、それは相手の存在を肯定し、相手が自由であることさえ尊重しようとする感情だ。
一方で「依存」は、相手がいないと自分が不安になる、自分の価値が揺らぐと感じてしまうような状態に近い。
つまり「好き」は相手を想う感情であり、「依存」は相手を通して自分を守ろうとする感情なのかもしれない。
私はかつて、他人に対して「どうすれば嫌われずに済むか」「どうすれば好かれるか」を常に考えていた。
その根底には、自分という存在の不確かさがあった。
他人に認められることで、ようやく自分が「ここにいていい」と思える――そんな生き方をしていたのだ。
しかし、そうした姿勢では、自分のことを本当の意味で好きになることは難しい。
他人の目を通してしか、自分を見られなくなってしまうからだ。
こうした理屈は、十分に理解しているつもりだった。
だが、理解と感情は必ずしも一致しない。
「依存は良くない」と頭で分かっていても、心が他者を強く求めてしまうとき、私はまた誰かを「好きになる」。
その感情には純粋な憧れや優しさもあるが、同時に不安や空虚さを埋める機能も含まれているのかもしれない。
それでも私は、誰かを好きになることは悪いことではないと思っている。
たとえそこに依存の影があったとしても、それは生きている人間の自然な反応ではないだろうか。
私は自分の「恋多き性格」を恥じることなく、むしろそれを通じて自分という存在を探そうとしている。
「好き」と「依存」の境界を行き来しながら、自分自身を見つめ直すために。
あなたがこれまで「好き」だと感じてきたものの中に、ほんの少しでも“自分を守るための気持ち”が混じっていたことはなかっただろうか。
そしてそれは、本当に「好き」と呼べないものだったのだろうか。
かな(日本語勉強中)
