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かな(日本語勉強中)

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【好きと依存の間】
人は時に、自分の感情を正確に定義することが難しい。
「これは本当に“好き”なのか、それとも“依存”なのか」――そう問いかけたくなる場面は、誰にでもあるだろう。

 私はこれまで、よく人のことを「好きになる」人間だった。
しかしふと振り返ったとき、それは本当に「好き」だったのか、自問するようになった。
相手を求める感情に、「依存」の気配が色濃く混じっていたことに気づいたからだ。

 「好き」と「依存」は似ているようでいて、決定的な違いがあるように思う。
他者を「好き」だと感じるとき、それは相手の存在を肯定し、相手が自由であることさえ尊重しようとする感情だ。
一方で「依存」は、相手がいないと自分が不安になる、自分の価値が揺らぐと感じてしまうような状態に近い。
つまり「好き」は相手を想う感情であり、「依存」は相手を通して自分を守ろうとする感情なのかもしれない。

 私はかつて、他人に対して「どうすれば嫌われずに済むか」「どうすれば好かれるか」を常に考えていた。
その根底には、自分という存在の不確かさがあった。
他人に認められることで、ようやく自分が「ここにいていい」と思える――そんな生き方をしていたのだ。
しかし、そうした姿勢では、自分のことを本当の意味で好きになることは難しい。
他人の目を通してしか、自分を見られなくなってしまうからだ。

 こうした理屈は、十分に理解しているつもりだった。
だが、理解と感情は必ずしも一致しない。
「依存は良くない」と頭で分かっていても、心が他者を強く求めてしまうとき、私はまた誰かを「好きになる」。
その感情には純粋な憧れや優しさもあるが、同時に不安や空虚さを埋める機能も含まれているのかもしれない。

 それでも私は、誰かを好きになることは悪いことではないと思っている。
たとえそこに依存の影があったとしても、それは生きている人間の自然な反応ではないだろうか。
私は自分の「恋多き性格」を恥じることなく、むしろそれを通じて自分という存在を探そうとしている。
「好き」と「依存」の境界を行き来しながら、自分自身を見つめ直すために。

あなたがこれまで「好き」だと感じてきたものの中に、ほんの少しでも“自分を守るための気持ち”が混じっていたことはなかっただろうか。
そしてそれは、本当に「好き」と呼べないものだったのだろうか。
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