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この一節に全てが詰まっていた。「申命記」って何の本?

最近、僕はある一つの聖句にずっと引き込まれています。
申命記6章4節。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」

この言葉、ユダヤ教では「シェマ」と呼ばれ、最も大切な祈りの一つです。
「シェマ」とはヘブライ語で「聞け」という意味。
ただ音として耳に入れるのではなく、心を澄まして、全身で受け止めよ、という強くて深い呼びかけです。

「主は唯一」というヘブライ語は「アドナイ エハド」。
この「エハド」は、単なる数学的な「一」ではなく、調和した統一性を表す言葉だと言われています。
神はばらばらではなく、すべてを結び合わせ、関係性そのものであるような「一」。
この一節だけで、申命記、いや聖書全体の核心に触れる気がするのです。

僕がこの言葉に込められた重みを感じたのは、それが単なる教えではなく、約束の地を目前にしたモーセが、これから様々な誘惑や困難に直面する民に、何としても伝えたい「命綱」のようなものだったからです。
エジプトでの奇跡も、荒れ野での試練も、すべてはこの「聞く」姿勢と、唯一の神との関係性の中で意味を持つ。
申命記は、歴史の繰り返し叙述ではなく、その核心を「今、ここで」生きる民へと更新し、受け継ぐための書なのだと気付かされました。

だからこそ、申命記には「覚えていなさい」「忘れてはならない」という言葉が何度も繰り返されます。
それは過去に囚われろという意味ではなく、あなたがたの「今」は、この神との出会いと契約の延長線上にある、ということを刻み込むため。
祝福と呪いが語られるのも、それが遠い神の裁きではなく、私たちの選択が今ここに生きる関係性を形作っていく、という厳粛な現実だからです。

僕はまだ、この「聞く」という姿勢を、自分の生活の中でどう生きるか、模索しているところです。
スマホに流される情報をただ受け取るのではなく、心を澄まして、本当に聞くべきことは何か。
バラバラになりがちな日常の出来事を、どんな「一」へと結びつけていくのか。
申命記は、そんな根本的な問いを、僕の胸に静かに、しかし確かに置いてくれました。

このモーセの最後の説教に込められた切実さや、神と人との関係性の深さは、言葉で読むだけではなかなか伝わりづらいものもあります。
僕自身、石川尚寛さんの「モーセ五書マンガ」で、モーセの老年のまなざしや、民への思いがビジュアルで表現されているのを見て、ハッとさせられることがたくさんありました。
気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
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#シェマイスラエル
#モーセ五書マンガ
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偶像をつくらないということを、仏像から考えてみた

こんにちは、石川尚寛です。
日本にはたくさんの仏像があります。寺に行けば立派な仏像が並び、街の中でも小さな仏像を見かけることがあります。ふと、「仏陀自身は仏像をどう見ているだろう?」と考えました。仏陀はきっと、像そのものではなく、そこに込められた心や学びを大切にしたのではないか。そんな問いが、僕をモーセ五書の十戒の二番目の戒律へと導いてくれました。

出エジプト記20章4節にはこうあります。
「あなたは自分のために、像を造ってはならない。天にあるもの、地にあるもの、水の下にあるものの、いかなる形も造ってはならない。」
ここで使われているヘブライ語は「פֶּסֶל (pesel)」。これは「刻んだ像」「彫刻」を意味します。ただの造形物ではなく、それを拝む対象にしてしまうことへの警告だと感じます。

僕が心を動かされたのは、この「像」という言葉が、石や木で作られた偶像だけを指しているのではない、ということです。仏像も本来は心を映す鏡であって、像そのものを拝むことが目的ではないはずです。僕の日常で言えば、スマホの通知や数字の増減に心を奪われることも、一種の「像」になり得るのではないか。目に見えるものに安心を求めてしまう弱さを、聖書は静かに映し出しているように思えました。

この戒めは「禁止」というよりも、「心を自由にするための言葉」として響いてきます。何かに縛られるのではなく、見えないものに信頼を置く勇気を持つこと。僕自身、まだ答えを持っているわけではありませんが、この問いを抱えながら生きること自体が大切なのだと思います。

これからも、モーセ五書をマンガという形で描きながら、自分の学びを少しずつ分かち合っていきたいです。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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【今日から変わる】神がモーセに教えた「今、ここ」を生きる極意 〜出エジプト記3章14節の深い意味〜

僕が見つけた、「今、ここ」を生きる言葉

最近、僕はよく考えます。
明日の仕事のことが気になって、目の前のコーヒーの味がわからない。
過去の失敗が頭をよぎって、今やるべきことに集中できない。
そんな「今、ここ」から心が離れてしまう瞬間が、たくさんあるなと。

そんなある日、モーセ五書を読み返していて、神様がモーセに語られた一節で、はっとさせられたんです。
それが、出エジプト記3章14節。
神が燃える柴の中からモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトから導き出す使命を告げる、あの有名な場面です。

モーセは神に尋ねます。
「彼らが『あなたを遣わしたのはどんなお方ですか』と私に尋ねるとき、私は何と答えたらよいでしょうか」
すると神はこう答えられました。
「わたしは『わたしはある』という者である」。

僕はずっと、この「わたしはある」という言葉を、神の自己紹介、あるいは神秘的な宣言としてしか捉えられていませんでした。
でも、ヘブライ語の原文を見て、その意味の深さに気づかされたんです。

原文は 「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)。
これを直訳すると、「わたしは、わたしがそうありつづけるものでありつづける」というような、とても動的で「在り続ける」という現在進行形の響きがあります。
神の名前の核心は、「在る」という状態そのもの。
しかも、それは過去や未来に限定されない、まさに「今、ここ」に在り続ける「在り方」を表しているんだ、と学びました。

神はモーセに、「わたしは『今、ここであなたと共に在る者』だ」と語りかけていた。
壮大な歴史の計画を前に、不安でたまらなかったモーセに、神が伝えたかったのは、「未来の結果」ではなく、「今、この瞬間に、わたしが共に在る」という確かな現実だったんじゃないか。
僕はそう思うようになりました。

僕たちは、モーセのように大きな使命を前にしているわけではないかもしれません。
でも、目の前の小さな課題、人間関係、自分の内なる不安に直面した時、「今、ここ」から心が離れ、足がすくむことはあります。
そんな時、この「エヘイェ」という言葉を思い出したい。
神は、「今、ここに在る」ことをご自身の名前の本質にまで高められた。
ならば僕も、過去の後悔や未来の不安に心を奪われるのではなく、「今、ここ」に自分が在ること。
そして、その「今、ここ」に、支えや意味を見出してくださる方が共に在ることを、信じて一歩を踏み出してみよう。

そう思わせてくれる一節でした。


聖書の言葉は、時代を超えて、僕たちの「今」に直接語りかけてくる力がある。
モーセ五書には、こんな気づきの瞬間が、まだまだたくさん眠っているように感じます。
僕自身も、この学びを続けていきたい。

もし、このモーセと神の出会いの物語を、もっと鮮やかに、臨場感を持って感じてみたいと思われた方がいらっしゃったら。
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マンガという形だからこそ伝わる、神とモーセの「今、ここ」での対話を、感じていただけたら嬉しいです。

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ゼレドの川を渡る意味~約束の地への「本当の入り口」はどこにあるのか?

聖書を読んでいると、細かい地理の違いに「なぜ?」と感じることがありますよね。
先日、読者の方からご指摘をいただき、僕自身もあらためて学び直したことがあります。
実は、約束の地への境界には重要な二つの川があるんです。

ヨルダン川とゼレド川、その決定的な違い

確かに、一般的に「約束の地に入る」と言えば、ヨルダン川を渡る場面を思い浮かべます。
ヨシュア記のクライマックスですからね。

しかし申命記2章13節を見ると、主がこう言われています。
「さあ、立って、ゼレドの川を渡れ。わたしたちはゼレドの川を渡った。」
この「ゼレドの川」を渡ることが、38年ぶりの決定的な一歩だったのです。

ここで、僕は地図を広げてみました。
すると、ゼレド川は死海の東側、現在のヨルダン国内を流れる川で、約束の地の東の境界線の一つでした。
一方、ヨルダン川はその西側、カナンの地そのものへの入り口です。

つまり、ゼレド川を渡るということは、「約束の地の境界地域に入ること」であり、そこからさらに進んでヨルダン川を渡り、「カナンの地そのものに入ること」が次の段階だったのです。

ヘブライ語が示す「境界」の重み

申命記2章13節の「渡れ」という命令のヘブライ語は「イブルー」(עִבְרוּ)です。
これは「通過する」「向こう側へ行く」という意味で、単なる地理的な移動以上の、象徴的な意味合いを持っています。

38年の荒野の旅を終え、ついに「約束の地の境界」であるゼレド川を渡る。
これは、単なる移動ではなく、「神の約束の領域へ足を踏み入れること」を意味する決定的な瞬間でした。

僕はここに、深い象徴性を見いださずにはいられませんでした。
私たちの信仰の歩みにも、「ゼレドの川」のような境界線があるのではないでしょうか。
完全な約束の成就(ヨルダン川渡渉)の前段階として、まず「約束の領域の入口」(ゼレド川渡渉)に立つ時がくる。

その一歩一歩が、神様の計り知れない導きの中にあるのだと感じます。

「あの川」を渡る勇気

申命記2章14節には、こう続きます。
「カデシュ・バルネアを出てから、ゼレドの川を渡るまでに、三十八年かかって、そのときまでに、宿営のうちの戦士たちがことごとく滅びうせた」

38年かかって、ようやくゼレドの川にたどり着く。
それだけの時間を必要とするほどの、信仰の「準備期間」があったのです。

古い世代の戦士たちが滅び、新しい世代が育ち、いよいよ約束の地の境界を目の前にする。
このゼレドの川を渡る決断は、ヨルダン川を渡るための「予行演習」であり、「信仰の宣言」でもあったのだと思います。

私たちの人生にも、「ゼレドの川」と呼べるような境界線があるかもしれません。
完全な約束の成就の前に、まずその入口に立つことを求められる時。
そこで必要なのは、38年の待ち時間を経て与えられた「今、一歩を踏み出す勇気」ではないでしょうか。

このモーセ五書を描き、学びながら、僕自身も多くの「ゼレドの川」と向き合っています。
一歩を踏み出すための信仰が、少しずつ与えられていくのを感じます。

もしこの荒野の旅路に興味を持たれたら、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
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片づけられない僕と創世記の言葉

こんにちは、石川尚寛です。
部屋の片隅に積み上げた本や紙袋を見て、ため息をつくことがあります。買ったものをうまく使い切れず、気づけば散らかってしまう。浪費癖と整理整頓の苦手さは、僕の日常の悩みのひとつです。そんな自分を見つめているとき、ふと創世記のある言葉に心が向かいました。

創世記2章15節には「主なる神は人を取り、エデンの園に置いてそれを耕し、守らせた」とあります。ヘブライ語では「לעבדה ולשמרה」(le’ovdah u’leshomrah)と書かれています。「avodah」は「仕える」「耕す」という意味を持ち、「shamar」は「守る」「整える」というニュアンスを含みます。人はただ園に住むだけではなく、耕し、守り、秩序を保つ使命を与えられていたのです。

僕はこの言葉を読むと、自分の散らかった部屋が小さな「園」に見えてきます。浪費してしまう癖も、整理できない弱さも、神の前では隠せない現実です。でも「耕し、守る」という言葉は、完璧に片づけることを求めているのではなく、「少しずつ整える」方向へ僕を招いているように感じます。余計なものを買わないことも、散らかった机を一枚ずつ片づけることも、園を守る小さな行為なのだと思うと、心が少し軽くなります。

浪費癖や整理整頓の苦手さは、僕にとって「呪われた地」のような抵抗です。でも創世記の言葉は、その抵抗の中で「なお耕し、なお守れ」と響いてきます。僕はその響きを受け止めながら、今日も少しずつ片づけを続けたいと思います。

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「荒野にて記録された民数記の意味」

こんにちは、石川尚寛です。
この前、ふと立ち止まって「自分はいまどこにいるんだろう」と考える瞬間がありました。日常の中で迷いを感じるとき、まるで荒野に立っているような心細さがあるものです。そんな気持ちが、民数記を読み返すきっかけになりました。

民数記の原題はヘブライ語で「בְּמִדְבַּר」(ベミドバル)、直訳すると「荒野にて」という意味です。日本語では「民数記」と呼ばれ、数えることに焦点が当てられていますが、実際には荒野での人々の歩みが中心に描かれています。たとえば民数記14章9節には「אַךְ בַּיהוָה אַל־תִּמְרֹדוּ וְאַתֶּם אַל־תִּירְאוּ אֶת־עַם הָאָרֶץ」(アク・バアドナイ・アル・ティムルドゥ・ヴァアテム・アル・ティルウ・エト・アム・ハアレツ)とあります。「ただ主に逆らってはならない。地の民を恐れてはならない」という意味です。荒野で恐れに包まれる人々に向けて、恐れを超えて歩むことが示されています。

僕はこの言葉に触れながら、荒野とは外の世界だけでなく、自分の心の中にもあるのだと感じました。迷いや孤独、不安に立たされるとき、それは荒野を歩いているようなものです。民数記が記録されたのは、そんな荒野の中で人々がどう生き、どう希望を見出したかを未来に伝えるためだったのではないでしょうか。数えること以上に、「荒野にて」という題が示すように、人間の心の旅路がそこに刻まれているように思えます。

これからも僕は、荒野に立たされるような瞬間を恐れずに、その中で自分の心を見つめ直していきたいです。
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自分を嘆く声が、神に届くとき

こんにちは、石川尚寛です。
この前、仕事で大きな失敗をしてしまいました。誰かを傷つけたわけではないけれど、自分の不注意で台無しになったことがあり、帰り道で「なんで僕はこんなに弱いんだろう」と心の中でつぶやいていました。そのとき、ただ落ち込むだけではなく、自分自身を嘆くことが神に向かう声になるのではないかと感じました。そこから、モーセ五書のある一節に心が向かいました。

民数記11章14節で、モーセは「この民を一人で担うことはできません」と嘆いています。ヘブライ語原文では「לֹא־אוּכַל אָנֹכִי לְבַדִּי」(ロ・ウカル・アノキ・レヴァディ)、「僕一人ではできません」という意味です。これは民の不満に押しつぶされそうになったモーセの叫びであり、自分自身の限界を嘆く言葉です。

僕はこの言葉に触れたとき、自分を嘆くことは決して無駄ではないと思いました。むしろ、それは「僕は完全ではない」という正直な告白であり、「あなたに助けてほしい」という祈りの始まりなのだと感じます。自分を責めるだけの嘆きは閉じてしまいますが、神に向かって嘆くとき、それは開かれた声になるのだと思います。

日常の中で、自分の弱さに気づいて嘆く瞬間は誰にでもあるはずです。その声をただ自分の中で消してしまうのではなく、神に向けて差し出すことができたら、そこに新しい歩みが生まれるのかもしれません。嘆きは終わりではなく、始まりのしるしなのだと、この一節から学びました。

これからも、自分の弱さを隠さずに嘆きを言葉にしていく勇気を持ちたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

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なぜ「たった一回」のミスで約束の地に入れなかった?モーセの岩を打った話から見る神との関係性

僕は最近、こんな自分自身の経験を思い返していました。

ついカッとなって、大切な人にきつく言ってしまった後、「ああ、またやってしまった…」と後悔する瞬間です。

その時、聖書の中のモーセの一つのエピソードが、以前よりも深く胸に刺さるようになりました。

民数記20章に記された「水が出る岩」

荒野を旅するイスラエルの民が、またしても水がないと不平を言い始めました。

その時、神はモーセにこう命じられます。

「杖を取り、兄弟アロンと共に民衆の前に進み出よ。彼らの目の前で岩に命じて水を出させなさい」(民数記20章8節、大意)

ここでヘブライ語原文を見ると、神が命じた言葉に注目すべき点があります。

神は「岩に命じなさい」と言っています。

ヘブライ語で「命じる」を意味する「דַּבֵּר」(ダベール)は、言葉で語りかけることを指します。

つまり、神はモーセに「岩を打て」ではなく、「岩に言葉で語りかけよ」とお命じになったのです。

モーセの「二度打ち」

しかし、モーセはどうしたでしょう。

彼は民の前でこう叫びました。「聞け、反抗する者たちよ。われわれがこの岩から、あなたがたのために水を出さねばならないのか」(同10節、大意)

そして、岩を二度、杖で打ったのです。

確かに水は出ました。民と家畜は飲むことができました。

でも、僕がこの場面を読むたびに感じるのは、モーセの行動の中にある「わずかな、しかし決定的なズレ」です。

神は「岩に語りかけよ」と命じられたのに、モーセは「われわれが…出さねばならないのか」と言い、岩を打ちました。

その「二度」という動作の中に、僕はつい見逃してしまいそうな重大なことが隠れている気がしてなりません。

カナンの地に入れなかった理由

神はその後、モーセとアロンにこう宣告されます。

「あなたがたはわたしを信じず、イスラエルの人々の目にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが与えた地に導き入れることはできない」(同12節、大意)

たった一度の、岩を二度打った行為。

なぜそれが、約束の地カナンに入れないという、これほどまでに重い結果につながったのでしょう。

僕が思うに、ここでの核心は「行為そのもの」よりも、「行為に表れた心の姿勢」にあるような気がします。

モーセはその瞬間、神の指示を正確に伝える「器」としてではなく、民の不平に苛立ち、自分自身の力と権威を示そうとしてしまったのではないか。

「神の聖なること」を民の前に現すべきところを、「自分たち」を前面に出してしまった。

そのわずかなズレが、神との関係における決定的な違いを生んでしまったのだと、僕は感じずにはいられません。

僕自身に問いかけること

この話を読むたび、僕は自分自身に問いかけます。

自分もまた、神に委ねるべき場面で、つい自分の力や方法に頼ろうとしていないか。

人々の前に立つ時、神の栄光を現すよりも、自分の正しさや能力を示そうとしていないか。

モーセのこのエピソードは、神と共に歩むことがいかに細やかで、全人格的な関わりを求めるものかを教えてくれます。

たとえ長年信仰の道を歩んできた者でも、一瞬の心の緩みが、神との関係を損なうことがある。

それほどまでに、神は私たちの「心の向き」を大切にしておられるのだと感じます。

---

僕は今、モーセ五書をマンガで学び直しています。

一つの場面、一つの言葉の重みを、じっくりと味わいながら。

もしこのモーセの物語に興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひマンガ版でその深みを感じてみてください。

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久々のチョコミントが五臓六腑に染み渡る
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「日常家事債務」とは、夫婦の共同生活に必要な費用(食費・家賃・光熱費・医療費・教育費など)に関する債務のことで、民法761条に基づき、夫婦の一方が負っても他方も連帯して責任を負う義務(連帯責任)が生じることを指します。高額な贅沢品購入や事業の借金は含まれませんが、その範囲は夫婦の収入や社会的地位により個別に判断され、離婚後も責任が残る場合があるため注意が必要です。
主な特徴
連帯責任: 夫婦の一方が負った日常家事債務は、他方も連帯して支払う義務があります(例:一方が食材を買って支払わなければ、もう一方も支払う)。
範囲の判断基準: 夫婦の「社会的地位、職業、資産、収入」や「生活地域の慣習」など、個別の事情を考慮して判断されます。
含まれるもの(例):
衣食住に関する費用(食料品、家賃、水道光熱費など)
医療費、教育費
生活必需品(家電、家具など)
娯楽費や交際費(程度による)
含まれないもの(例):
高額な宝石や贅沢品の購入
事業のための借金
不動産の処分に関するもの
離婚後も継続: 日常家事債務は離婚後も免除されず、完済まで責任が残ることがあります。
免責されるケース: 夫婦の一方が第三者に対し「責任を負わない」と予告していた場合は、連帯責任を負いません。
相談先
範囲の判断が難しい場合や、借金問題に直面している場合は、弁護士や司法書士などの専門家に相談することが推奨されます。
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「結婚」は法的に夫婦となることで「婚姻届」を提出する行為全般を指し、「入籍」はすでに存在する戸籍に新たに入る(記録を追加する)法的手続き(「入籍届」を提出)を指します。初婚同士で新しい戸籍を作る場合は「結婚」で、「入籍」は子連れ再婚などで相手の戸籍に入る場合や、相手がすでに独立した戸籍を持っている場合に使われることが多いですが、日常会話では「結婚」の意味で「入籍」という言葉が使われることも一般化しています。
結婚とは
婚姻届を提出し、法的に夫婦として認められること。
多くの場合、夫婦の新しい戸籍が作られる。
「婚姻」とも呼ばれる。
入籍とは
漢字の通り「戸籍に入る」こと。
「入籍届」という書類を提出する。
具体例:
子連れ再婚で、子どもを相手の戸籍に入れる場合。
親の戸籍から独立した自分の戸籍(または親の戸籍)に、パートナーが配偶者として入る場合(相手が戸籍筆頭者の場合など)。
使い分けのポイント
初婚同士の場合: 親の戸籍から抜けて新しい戸籍を作るため、厳密には「結婚(婚姻)」であり、「入籍」ではありませんが、「結婚した=籍を入れた」というニュアンスで「入籍しました」と表現されることも多いです。
「結婚」と「入籍」を区別するなら: 相手の戸籍に入る手続き(再婚時など)は「入籍」、婚姻届を出す行為全体を指す場合は「結婚」と使い分けるとより正確です。
まとめ
「結婚」が広い概念で法的な夫婦関係の成立を意味し、「入籍」は戸籍という具体的な記録に「入る」という手続きを指します。しかし、日常生活では「結婚」と「入籍」がほぼ同じ意味で使われることが多く、特に問題なければ「入籍しました」と言っても通じます。
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「バツイチですわ」は、明石家さんまさんが1992年の離婚会見で、額に「×」印を書きながら報道陣に語った有名なセリフで、この言葉が「バツイチ」という言葉を一般に広めるきっかけにもなりました。大竹しのぶさんとの離婚の際、ユーモアを交えて自身の離婚歴(バツ1)を表現したもので、今でもお笑いや離婚の話題で使われる代名詞的なフレーズです。
「バツイチですわ」の背景
離婚会見: 1992年9月、女優の大竹しのぶさんとの離婚会見で飛び出しました。
額の「×」: 記者会見の際、さんまさんは自ら額に「×」の印を書いて(または指で示して)、この言葉を発しました。
「バツイチ」の浸透: この会見とセリフがきっかけで、「バツイチ(一度離婚した人)」という言葉が広く浸透し、一般名詞化したと言われています。
このエピソードは、さんまさんのユーモアセンスと、言葉の力を象徴する出来事として語り継がれています。
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「バツイチ」「バツニ」の語源は、手書き時代の戸籍謄本で離婚した配偶者の名前の欄に「×」(バツ印)が書かれていたことに由来し、その数(1回なら×1、2回なら×2)を指す俗語です。現代では戸籍の電算化で「×」印はつかず「除籍」と記載されますが、この表現は広く浸透し、芸能人の発言などで広まりました。
語源の詳細
戸籍の「×」印: 以前の縦書きの戸籍では、離婚して配偶者が除籍される際、その名前の横に大きく「×」印がつけられていました。
数の表現: この「×」の数から、「1回離婚したらバツイチ(×1)、2回ならバツニ(×2)」という数え方が生まれました。
電算化と現状: 戸籍がコンピュータ管理されるようになり、現在は「×」印の代わりに「除籍」と記載されるため、戸籍上は「×」はつきません。
広まったきっかけ: 1990年代に明石家さんまさんが離婚会見で「バツイチですわ」と発言したことが、言葉が一般に広まるきっかけの一つとされています。
派生: お笑い芸人のコンビ解散歴を指すなど、離婚歴以外にも比喩的に使われることがあります。
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ゅぅ

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〆って書いてあるのに読めないのかなあせあせ
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ⓂⓄⓂⓄⓉⒶ

ⓂⓄⓂⓄⓉⒶ

ひさびさに絵書いたら目が疲れた…休憩
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ゆうドライマンゴー

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ドキュメントキライ
仕様書書くのが一番面倒〜[大泣き]

「プログラム見て読み解けや!」って思うけど、逆に立場になったら「仕様書ね〜のかよ〜[怒る]」ってなるので、書きます💦笑
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はっぴーおすしはまち

はっぴーおすしはまち

多分、夜何も書けなくなるから
今ここに記します。

34歳が過ごした2025年は
喉のリハビリから始まり
散々な幕開けでした。

病気と、無職だったことから
沢山の信頼を失くし
色んな方角に雨雲を作りました。

それでももがいて
ただ前だけを見て
歩き方だけを変えようと
転んでは起き上がり
初めて自転車に乗った時のように
過ごした気がします。

ともあれ、学びの多い1年だったと
思います。

35歳の目標なんてものは
正直なんのビジョンもありません。

1日でもたくさんの
青空を見れたら
今よりきっと成長できた証に
なると思います。

大した人間ではありません。
でも、みんなみんな
何も無い人間でもありません。
俺が俺として生きた1秒1寸が
1人でも多くの人に残れば
嬉しいです。

では
また一緒に遊ぼうね。
34歳のはまちより

GRAVITY
GRAVITY
吉田賢太郎

吉田賢太郎

​影を追いかける僕ら
​この世界には 本当は「なにもない」
あるのは ただの現象と
それを眺める 君の目だけだ
​テストの点数 IQという数字
「頭がいい」というレッテルや
「男らしい」「女らしい」という看板
それらは全部 人間が勝手に作った
ただの「概念」という名の幽霊だ
​幽霊に 形はない
なのに僕らは それにしがみつき
ある時は「自分はすごい」と依存して
ある時は「笑われるかも」と恐怖する
​でも よく見てごらん
その「価値」や「意味」とやらは
天気予報みたいに コロコロ変わる
いつ、どこで、誰といるか
たったそれだけの「TPO」で
宝物はゴミになり 正義は悪に書き換わる
​「絶対」なんて どこにもない
「正解」なんて 人の数だけある
誰かが決めた物差しを 「ある」と思い込むから
誰かを見下し 誰かに怯えることになる
​もしも君が 何かに依存しそうになったら
もしも君が 何かに震えそうになったら
思い出してほしい
​それは 君が作り出した解釈の影だ
「ないもの」に 君は反応しなくていい
​世界は ただのまっさらな舞台
どんな意味を塗るかは 君の自由だけど
何も塗らない 透明なままでいたっていい
​依存も恐怖も 本当は
そこには ひとつも ないのだから
​このポエムの「本質」の解説
​依存と恐怖の正体: 人が何かに振り回されるのは、実体のない「概念(数字、評価、ラベル)」を、実在するものだと信じ込んでいるからです。
​TPOによる解釈: 価値観は絶対的なものではなく、状況や環境によっていくらでも変わる「後付けの解釈」に過ぎません。
​反応しない自由: 「すべては概念であり、実体はない」と見抜くことができれば、無用な比較やマウンティングから自分を切り離し、静かな心でいられるようになります。
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吉田賢太郎
​【自己紹介】 ​解離性同一障害(DID)の当事者、通称「人格解離者」として日々を生きています。 ​私たちのシステム内には、特に強力な能力を持つ二人の部分(アルター)がいます。 ​** gifted genius 姉(🐇❤️)** ​** gifted genius 弟(🐉🔪)** ​彼らが時に表に出て生活を回したり、内に秘めた特別な才能を発揮したりしています。私たちについて、どうぞよろしく
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臼井優
国立大学法学部卒 法律系国家資格3種保有 就職氷河期世代 元僧侶 趣味・特技 サッカー、バスケ、ボクシング、テコンドー、茶道、書道、華道、サックス、ドラム、読書、カフェ巡り、音楽鑑賞、ストレッチ、筋膜リリース、他人のデートコースを考えること 家庭教師、予備校講師、各大学でのエクステンション講座担当 担当科目・領域 小~高、文系科目全て、公務員試験全領域、面接、ES添削、マナー、論文添削等々
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ⓂⓄⓂⓄⓉⒶ
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はっぴーおすしはまち
『らっしゃい!スシキュア!』 のキュアはまちです。 音楽人です。 ENFP-T 香水/読書/ギター/ディズニー/ロルカナ
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