
くりねずみ
齧歯類と霊長類のハーフ
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くりねずみ
回答数 43>>
大隠朝市、上善如水、実るほど頭を垂れる稲穂かな。
頭の良い人は書物の竹林よりも市井にいて、水の流れのように人々を豊かにしながら下の方に落ちていき、頭を低くして謙虚に暮らしているものです。

くりねずみ
回答数 33>>
その場合、「論理」が客観的な正しさを目指すものであるのに対し、「屁理屈」とは、受け手が「それは不当だ」と感じた理屈全般を指す、非常に主観的なレッテルとなります。
たとえばここのようなSNSの場では論争をたびたび見かけます。そのような場合において、一方が相手の正しさを認めるということは、自分の過ちを認めることと同義です。それはある種の人にとっては自尊心を傷つける出来事です。論争相手に反論できない場合、「相手の理屈全体がおかしい」ということにするしか、自尊心を守る方法がないのです。
だからそういう「論理を『屁理屈』と答える方」がいらっしゃるのだと思います。

くりねずみ
回答数 9>>
ヴェルナー・ハイゼンベルク『部分と全体』
エルヴィン・シャルガフ『ヘラクレイトスの火』
質問者様が『サピエンス全史』などで惹かれたのは、単なる歴史の知識ではなく、「人類とは何か?」「文明とは何か?」といった根源的な問いを、生物学や地理学など複数の視点から解き明かしていく知的な興奮だったのではないでしょうか。
今回のおすすめリストは、その「問い」のバトンを渡してきた、20世紀の巨人たちの著作です。

くりねずみ
回答数 29>>
二十世紀になると量子力学が現れて状況が変わります。ニュートン的古典力学は、天体の運動や転がっていく玉など、私たちが日常的に観測できるような物質については上手に説明できましたが、電子やクォークといった極めて小さな粒子の世界になると上手く機能してくれなくなったのです。
古典力学においては、位置と運動量さえわかれば、未来の位置も完璧に特定することができました。ところが素粒子の世界においては、位置と運動量が同時に存在できないのです。これは現代の科学では技術力が足りないために観測できないのだということではなく、どうも原理的に無理らしいということが分かっています。
量子力学の基本的な概念、つまり不確定性原理と波動関数が意味するところは「粒子の位置と運動量は確率的にしか知ることができない」ということです。すなわち、未来は完全には決まっていないということになると思います。
語弊がないように言うと、厳密に言えば、あらゆる未来は既に存在していて、それら全ての分岐が重ね合わせの状態で存在していると言うのが良いかもしれません。宇宙は常に、あらゆる可能性に分岐していきながら、いったん分岐するともう他の分岐した宇宙とは干渉できなくなる(デコヒーレンス)と考える学者たちもいます。

くりねずみ
楽しんでくれたようで何よりでした。
リンゴ飴を食べたのは数年ぶり、やはり美味い。


くりねずみ
回答数 14>>
猿が木に登ってバナナを取っているのを見たとき、自然科学者なら、猿やバナナや木を「物理的対象」として扱い、力・質量・エネルギーの関係から事象を説明しようとするでしょう。つまり、「なぜ猿が木を登れたか」を説明すると思います。サルの筋肉が収縮するのも、木との間で摩擦力が働くのも、バナナを掴む指の力も、すべては元をたどれば原子間の電磁気的な相互作用です。それらはすべて実在の最もコアな部分を説明する量子力学の法則に従っています。
その説明は確かに正確かもしれませんが、面白くはない。それよりも、「あの猿はバナナが欲しかったのだ」と言ったほうがはるかに現実的ですし、ずっと詩的に思える。これがいわゆる「人文学」というものです。
自然科学と人文学はときどき対立したもののように語られることがありますが、実際は違います。両者は異なる軸を持った体系、というよりは実在の異なるレイヤー(層)を説明している哲学の多様性と解釈するほうが近い、と私は思っています。
自然科学の役割が実在の最も根源的な部分を説明することなのに対し、人文学の役割はもっと表面的な層をテレオロジカルに説明することです。
ウィトゲンシュタインは『哲学探求』でこう述べています。
『事物の、我々にとって最も大切な側面は、単純でありふれているため人目につかない。(人はそれに気づくことができない、――いつも目の前にあるために。)』
つまり人文学の最も大切な役割は、この「いつも目の前にある」何かを見出し言語化する。ということになると思います。
デヴィッド・フォスター・ウォレスは、ある大学の卒業生に向けた『これは水です』というスピーチで、水と魚の寓話を話しました。それは川を泳いでいた若い魚が年老いた魚に「今日の水はどうだい?」と尋ねられるが、若い魚は水が何なのか分からなかった、というものです。
皮肉なことですが、人生において最もリアルで大切なものは、この若い魚にとっての水のように、最も見えづらいものなのです。だから私たちは、この現実を透徹した目で見つめ、絶えず自分に言い聞かせなければならない。
「これは水です」
「これは水です」
人文学における探求とは、まさにそのような価値ある営為だと思っています。質問者様が大学で良き学びを得られることを祈ります。

くりねずみ
回答数 9>>
それは「神なしで考えようとしたのに、神に頼った」ということです。これはデカルト哲学の最大のアキレス腱として、古くから指摘されている点です。
デカルトは『省察』でこのように述べています
『これらの観念が相互にはなはだ異なっていることは明瞭である。というのは、疑いもなく、実体を私に示すところの観念は、ただ単に様態すなわち偶有性を表現するところの観念よりも、いっそう大きな或るものであり、しかして、いわば、いっそう多くの客観的実在性を己れのうちに含んでおり、さらにまた私がそれによって或る至高にして、永遠なる、無限なる、全智なる、全能なる、そして自己のほかなる一切のものの創造者たる、神を理解するところの観念は、有限なる実体を私に示すところの観念よりも、たしかにいっそう多くの客観的実在性を己れのうちに有しているからである。』
デカルトは、私たちの意識の中にある「観念」は、それが表現している対象の「格」に応じて、異なるレベルの「実在性」を持つと考えました。続けて彼はこう述べます。
『また、いかにして原因は、自分でも実在性を有するのでなければこの実在性を結果に与えることができるのであろうか。そしてここから、いかなるものも無から生じ得ないということ、なおまた、より多く完全なものは、言い換えると自己のうちにより多くの実在性を含むものは、より少く完全なものから生じ得ないということ、が帰結する。』
ここからデカルトは「したがって、私のうちにある『無限な神』という観念の原因は、有限な実体である私ではありえない。したがって、この観念の原因となりうるのは、実際に無限な実体として存在する『神』自身しかいない」と結論づけるのです。
皮肉なことに、神から自立しようとした近代の「主体」は、その誕生の瞬間から自らの不安定さ、すなわち主体性のゆらぎに直面し、それを克服するために、結局は神という絶対的な他者に頼らざるを得なかったのです。
だから私はデカルトよりもスピノザのほうが好きなんだと思います。

くりねずみ
突風と嵐が過ぎ去ったことを
それでも虹は
哲学よりも遥かに説得力がある
私の花は「広場(フォラム)」の議論に背を向ける
それでも雄弁に宣言するのだ
あのカトーが私に証明できなかったことを
――ただ、鳥たちがここにいた、というその事実を!』
エミリー・ディキンソンの詩です。
この詩は、人間の小難しい理屈(哲学や議論)よりも、自然界がその「存在そのもの」で見せてくれる真実の方が、はるかに雄弁で説得力がある、ということを歌っています。
哲学は、言葉や論理を尽くして「なぜ嵐が起こるのか」「嵐とは何か」「美とは何か」を説明しようとします。しかし、嵐の後に空にかかる虹は、ただそこにあるだけで、私たちに希望や美、そして自然の法則の確かさを直感的に納得させます。言葉による複雑な証明よりも、その瞬間の「体験」や「実感」の方が強い、ということを示しています。
「Forums」とは古代ローマの公共広場のことを指しており、人々が集まって議論や討論を交わす場所でした。ここでは「小難しい議論」や「理屈」の比喩として使われています。
「カトー」(小カトー)とはストア派の哲学者で、「人間の理性、論理、厳格な道徳」の象徴として引用されています。
花は、鳥が種を運んできたから咲いたのかもしれません。あるいは、鳥が蜜を吸いに来たのかもしれません。花がそこに咲いているという「結果」そのものが、鳥が(あるいは蝶や蜂が)「存在した」という「原因」や「生命のつながり」を、理屈抜きで雄弁に物語っています。
言葉による「説明」を必要とせず、ただ「存在」することによってすべてを納得させる自然の力を称えた美しい詩です。


くりねずみ
【この惑星で楽しみたいこと】
結婚生活における日常的な出来事やご意見を拝読したいです。
よろしくお願いします🙇
【最近のマイブーム】
メダカのお世話

くりねずみ
回答数 40>>
「サンタさんから何をもらいたい?」などという、今考えるとめちゃくちゃわざとらしい質問も、「サンタさんに会いたいから起きとく」と言って親に「はよ寝ろ」と叱られたことも、朝起きたら飛び起きて(それはもう夢のような朝ですよ)、寒さも忘れて裸足で家の中を探し回ってプレゼントを見つけたことも、全部良い思い出です。
もちろん、「親に騙されたぞ、コノヤロー」と思う人にとっては、そりゃ良くないとは思いますが……
その「嘘」がもたらした喜びや期待感、家族との温かいやり取りが、結果として素晴らしい記憶として残っている私にとっては良いことだったのかなー、と思います。

くりねずみ
回答数 74>>
愛は、特定の誰かとの取引ではなくて、内なる心の豊かさの発露だと思っています。
愛する対象が存在すること、そしてその対象を愛おしいと感じられる感受性や心の豊かさ、それ自体がすでに「報酬」であって、既に報いは受け取っています。これ以上を望むのは欲張りというものです。

くりねずみ

くりねずみ
回答数 21>>
量子力学では、電子や光子のようなミクロなものから、分子、さらにはもっと大きな物体まで、あらゆる物理的なシステムの状態は「波動関数」によって記述されるとされています。
宇宙全体もまた、物理法則に従う一つの宇宙最大の物理システムです。
したがって、量子力学の原理を宇宙全体に適用するならば、宇宙全体の状態を記述する「宇宙の波動関数」が存在するはずだ、と理論物理学者たちは考えています。
この理論は私が個人的に親しんでいるスピノザの哲学とも相性が良いので気に入っています。

くりねずみ
回答数 22>>
一つ目の理由は、子供の頃からの癖で、気に入った小説の一節や詩などは全部覚えてしまうので、頭の中に残ってる言葉たちを反芻するだけで充分だということ。
そして二つ目、こちらのほうが深刻なのですが、一冊を選んでしまったら他の全ての可能性が潰えるという状況が恐ろしい、ということです。
質問者さんの問いの意図としては、「あなたが最も愛する一冊は何ですか?」ということなのだと思いますが、私としては「何を切り捨てるのか」という選択の残酷さがどうしても拭えません。
「特定の一冊」を選ぶことは、他の全ての本、すなわち他の全ての「出会えたかもしれない世界」や「知り得たかもしれない知性」を未来永劫にわたって捨てる、という宣言に他なりません。その喪失の恐怖は、一冊から得られる喜びをはるかに凌駕している。
だから質問の答えは、「特定の一冊」よりも「本棚に詰まったあらゆる可能性」を選びたい、ということになるでしょう。
とっておきの選択肢を握ったまま、本棚の前にゆったりと座り、自分一人の宇宙でニンマリしながら死んでいくほうが、私にとっては望ましいです。

くりねずみ


くりねずみ
昔から小説や詩などを読んでいて気に入った部分はまるまる覚えてしまう癖があった。それを頭の中で何度も反芻するのが好きで、やってることは好きな歌を口ずさんで気分を上げるのと一緒だ。
その中に『死せる魂』のある一節があって、それは以下のようなものだ。詐欺で大儲けするため死んだ農奴を買いに来たチチコフに、地主であるソバケーヴイッチは自分の農奴たちがいかに凄かったのかを滔々とまくしたてる。チチコフが呆れた様子で「その人達はみんな死んでしまってるじゃないですか」と指摘すると、ソバケーヴイッチは、その農奴たちが死んでいることに初めて気がついたかのような反応をしてこう言い返す。
『 「それあ、確かに死んでいますよ。」ソバケーヴィッチは、なるほど考えてみればその農奴たちはもう死んでいるのだと気がついたらしく、そう答えたが、すぐにこう附け加えた。「ですがね、現に生きている奴らにしたところが何です? あんなものが一体なんです?――人間じゃなくて、蛆ですからね。」』
今挙げたソバケーヴイッチの台詞は、実は最後の部分が違う。自分の記憶では「蛆」だったのだが、本当は「蝿」が正しい。だから彼は「人間じゃなくて、蝿ですからね。」と言ったことになる。
(ありがたいことに)私の記憶力は完全ではないので、何度も咀嚼しているうちに言葉の形が変わったりする。まるでヘラクレイトスの河のように、テクストは絶えず変化するからだ。
たぶん、最初はちゃんと蝿として覚えていたはずなのだが、なぜ「蝿」から「蛆」に変身したのか。それについては二つの説を思いついた。
一つ目は世代交代したという説。ゴーゴリが創造した蝿が、死せる魂に卵を産み付けて去ってしまい、その卵が私の頭の中で孵化して蛆が湧いたのだ、というもの。
もう一つの説は私の中では、蝿よりも蛆の方が死と腐敗のイメージが強く、そういった意味の重力に引っ張られてしまって蛆に変身したのだ、というものだ。
前者は詩的解釈、後者は心理的解釈ということになるのだろうけど、いずれにせよテクストは生きているということだ。私たちが読み返すたびに、反芻するたびに、あるいは忘却するたびに、テクストは変化する。
ウンベルト・エーコは、子供の頃に暖炉の火を見つめるのが好きだったという。それは火が、パチパチと音を立てながら、絶えず様々な形に揺らめくのが面白かったからだそうだ。私の感覚はそれに似ているかもしれない、と思った本日の読書でした。

くりねずみ
写真では見えないけど、後ろの翅にとても目を引く黄色い模様がある。
#今日の1枚


くりねずみ
地元民のウサギたちと良好な関係を築けるかもしれない……
2、詩集
シラノ・ド・ベルジュラックによると月世界の住人は詩を通貨としているらしいです。ワーズワスとヴォルテールを持っていけば億万長者になれるでしょう。
3、釣り竿
「静かの海」「賢者の海」「蛇の海」……月には海がいっぱいありますよ!
宇宙へ旅を【思考実験】
参加

くりねずみ
回答数 37>>
たとえば、「生命に対する権利」というのはすなわち他者が「その生命を侵害しない」義務を負うということです。つまり権利には他者の承認が必要になります。
ここで一つ思考実験をしてみましょう。もし宇宙に人間が一人しかいなかったらどうでしょうか。その人はいかなる権利も有していないことになるでしょう。なぜなら権利を承認して義務を負ってくれる他者が存在しないからです。ここまで極端でなくても、たとえば人里離れたところで一人暮らししている、とかでも同様だと思います。これでは「普遍的」とは言えません。
しかしもう一つ対立する語り方もあります。それは「人権は自然権である」とする考え方で、いわゆる天賦人権と呼ばれるものです。この場合、人は生まれながらに人権を持っていることになる。
しかし、それは私にはあまりに観念的すぎるようにも思われますし、何より天賦人権説には決定的な弱点がある。人権で守られる権利が極めて実存的であるがゆえに、それは本質的というよりは実存の性質を帯びているということです。
天賦人権説では「人間の本質(人間とはこういうものであるという定義)に権利が組み込まれている」と考えます。
私としてはそうではなく、「生きたい」「自由でありたい」といった実存的な欲求が先にあって、当為論的に、すなわち「人権は普遍的に与えられる『べき』」という考え方で作り出された、と言われたほうが(実態に根ざしているという点で)倫理的な強度もあるし、何より説明としてしっくりくる。

くりねずみ
見知らぬひとがやってきた
頭のおかしくなったこの家で、私の部屋を分かちあうために
鳥のように狂った少女が
彼女の腕、その羽飾りで、扉の夜にかんぬきをかける。
迷路のようなベッドにまっすぐ横たわり
彼女は、入り込む雲で、天さえ拒むこの家を惑わす
だというのに 彼女は悪夢のような部屋を歩き回り 惑わす、
死者のように野放しで、
あるいは 男子病棟の 想像の海を乗りまわす。
彼女は取り憑かれてやってきた
跳ね返る壁を通して幻惑の光を招き入れる、
空に取り憑かれ
狭い寝床で眠りながらも 彼女は塵の中を歩き
気の向くままにわめき散らす
私のさまよう涙で擦り減った 狂人病院の床板の上で。
そして ついに、やっとのことで 彼女の腕の中で光に抱かれ
私はきっと 受けるだろう
星々に火を放った 最初の幻視を。
ディラン・トマスの詩で、例に漏れず彼特有の強烈な生命エネルギーに満ちた詩。彼の一番有名な作品「穏やかな夜に身を任せるな」にもまったく引けを取らない。
印象的なのは各行のシラブルが5、10、5、10……というリズムで厳格に組まれている点。この窮屈で四角四面な雰囲気は、精神病院という場所の閉鎖性を見事に印象づける。まるで牢獄みたいだ。
脚韻はスタンザ(連)を超えて踏む連鎖韻で、滑らかに繋がっているというよりは詩全体を鎖でがっちりと縛っている感じ。特に有声歯擦音zのグループ「birds(鳥)」「clouds(雲)」「wards(病棟)」「skies(空)」「tears(涙)」「stars(星)」はザラザラとした手触りで、しかも直前の子音や母音が全然違うので、なんとなく爪が引っかかっているような気分になる。たとえて言うなら卵のヒビのような……しかし最初に書いたように、トマスの詩は力強いので、このヒビからダイナミックなエネルギーが飛び出して、殻を粉砕するようなイメージが湧いてくる。
詩の中に出てくる女性は、本物の女性というわけではなく、もう一人の自分と解するのが良いと思う。彼女の「狂気」は、現実の物理的な壁や制約(ドア、壁、狭い寝床)を無意味化し、想像力によって宇宙的な力(大空、雲、光)とつながることを可能にしている。



くりねずみ

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回答数 47>>

くりねずみ
まあまあ似てると思います。


くりねずみ
回答数 7>>
フィロソフィア(知恵を愛する者)という言葉はソクラテスよりも百年以上前にピタゴラスが言ったとされたもので、ソクラテス自身が哲学という言葉の意味を厳密に定義したわけではないと思います。
確かに『パイドロス』には以下のような記述があります。
『これを「知者」と呼ぶのは、パイドロス、どうもぼくには、大それたことのように思われるし、それにこの呼び名は、ただ神にのみふさわしいものであるように思える。むしろ「愛知者」(哲学者)とか、あるいは何かこれに類した名で呼ぶほうが、そういう人にはもっとふさわしく、ぴったりするし、適切な調子を伝えるだろう。』(岩波文庫175〜176P藤沢令夫訳)
これはあくまでプラトンが書いたことであって、ソクラテスが実際に「哲学とは何ぞ」ということを話したわけではないということです。
ピタゴラス、ソクラテス、仏陀、孔子、イエス、人類の偉大な教師はみな書く人ではなく話す人でした。おそらく、テクストに束縛されたくなかったのでしょう。自らの教えが、弟子の心に残って成長し、花開いていくことを望んでいたのだと思います。
『パイドロス』には書かれた言葉と生きた対話を比較する箇所があります。書かれた言葉は自力で返答したり、自分の意味を説明したりしない。何かを語っているように見えるが、それは固定されて動かない。書かれた言葉は死んでいるのです。それに比べて対話は、確かに書かれた言葉のように残りはしないけども、飛び立つ鳥のように生き生きとしている。
パウロはこう言っています。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と。これは、あらゆる規則や教義、思想において、その文字面や形式(文字)だけに囚われると、本来の目的や生命(霊)が失われてしまうという教えです。
私としては、哲学はもっと身近で、誰にでも開かれたものであってほしいと思ってて、ソクラテスの態度もまさにそれだったのだと思います。「これは哲学」「これは哲学ではない」と線引きして、哲学を象牙の塔に押し込むこともないでしょう。これは彼の思想に明らかに反している。キケロは「ソクラテスは哲学を天から引き下ろし、人のうちに住まわせた」と述べています。SNSの場において、血の通った生きた人間が、生きた知識を共有し合うこと、哲学とはそういうものだと思っています。

くりねずみ
回答数 43>>
タレースやピタゴラスなどのアルケーを探求した哲学者、あるいはソクラテスやプラトンが学んだ哲学の量は、おそらく現代の哲学者が学んだ量の半分どころか一割にも満たないでしょう(タレースに至ってはそもそも先駆者がいません)。ですが彼らを指して「哲学者ではない」と言う人はおそらくいないのではないでしょうか。そう考えると、「哲学史や諸学に一切触れずに哲学する人をどう思いますか?」という質問に対しては「少しもおかしいところはない」と言えると思います。
二つ目の質問については、意味を捉えかねているのですが「そもそも頭の中だけで考えたものを学問と呼んでもいいのか?」という意味だと解釈してお答えします。
これについては明確にイエスと言えるでしょう。「学問としての哲学」に限った話ですが。
同じように頭の中だけで展開される学問に数学があります。数学は哲学と同様、実験や観察が不要な学問です。たとえば1+1が2であることを証明するとき、私たちはリンゴを1つ持ってきて、さらにもう1つ持ってきて「ほら、2個になった」と言う必要はありません。数学は公理と定義に基づいた、純粋な論理と思考の積み重ねによって成り立っているからです。その点については論理学も同様でしょう。
ただし、学問として成立する重要な要素の1つに客観性が挙げられます。「私だけがそう思う」ではダメなのです。その思考のプロセスや結論が、他者にも理解・共有され、検証可能である必要があります。その点で考えると、「個人的な探求としての哲学」は学問と言うには不十分であると言えるでしょう。

くりねずみ
回答数 106>>
世俗主義的に考えたとき、なぜ体罰が悪いと言われるのかを問われたならば、それは「体罰をされた側の感情を害するから」だと答えると思います。つまりこれは受け取り手の問題であって、悪は体罰それ自体の属性ではないということです。
経験で話しますと、私は陸自にいたので、そういった体罰はよくありました。さすがに殴る蹴るなどは滅多にありませんでしたが、叩かれることはありましたし、「腕立て伏せ◯回」とか、「そこに座ってろ(空気椅子)」などはそれこそ日常茶飯事でした。
その全てを肯定するつもりはありませんが、体罰が私に及ぼしたものの収支はおおむね黒字であったと考えています。つまり、体罰は私にとって肉体的・精神的に良い影響を与えてくれたということです。その意味で考えれば体罰は善いことでした。
しかし、私自身は体罰の行使をするつもりはありません。なぜなら、その相手が自分と同じようにプラスに受け止めるか(黒字になるか)は保証できず、むしろマイナス(赤字)になるリスクをコントロールできないからです。社会全体で体罰を禁止する傾向が強いのも同じ理由でしょう。深刻な虐待や人権侵害を防ぐための手段としては極めて有効だと思います。
シモーヌ・ヴェイユは「麦畑は、麦畑であるから敬意を表されるわけではない。それが人間の糧になるがゆえに敬意を表されるのだ」と言いました。体罰も同様で、それは受け取り手によって善にもなるし悪にもなる、大事なのは魂の糧になるかどうかだ、ということだと思います。

くりねずみ
こういう言い間違いって今だけだからね……「ティッシュ」のことも「ぴっしゅ」って言ってたのがいつの間にかちゃんと言えるようになっててなんか寂しくなったし……

くりねずみ
僕はシェイクスピアが好きで、彼の作品について多くを語ったこともあるけども、シェイクスピア体験のなかで受けた原初の衝撃については今でも言葉にするのを差し控えている。ドイツ観念論者は、シェイクスピアの作品に永遠の真理を見て取ったようだけども、僕に言わせれば説明し過ぎだ。ハムレットの尽きせぬ憂鬱や、リアの理不尽な狂気を四角四面の弁証法に置き換えてみることほどつまらないこともない。
ヘーゲルがやっているのは、荒れ狂う嵐を天気図で解説しているようなものだ。それは知的で、明快で、非常に美しいかもしれないが、嵐そのものの肌を刺す風や、全てを飲み込むような轟音の体験とはまったくかけ離れている。「シェイクスピアには、嵐のような響きと怒りがある」たぶんこれが、僕がシェイクスピアの才能の核心について言えるぎりぎりの表現だ。
もし、何か素晴らしい本を読んで、その感動を言語化できなかったとしても、気に病む必要はまったくないように思う。それは言葉にならないほどの豊かさを受け取った証なのだから、その気持ちを大事にしてほしいと思う。

くりねずみ
回答数 44>>
もし、船乗りに「最初の舵の動かし方で、この航海の全てが決まる」と言ったら笑われるでしょう。
ヘミングウェイからたとえを引っ張ってきますと、『老人と海』のサンチャゴは、何か入念な計画があって海に出たわけではありませんでした。彼は海に出て、カジキと出会い、その格闘の中で刻一刻と変化する状況に対応し続けます。
つまり、行動の最中に経験から学び、絶えず舵を切り直していくのです。サンチャゴは(人間が想像するあらゆる英雄がそうであるように)敗北を喫しますが、この忘れがたい物語は彼の行動力なしでは生まれなかったでしょう。
ヘミングウェイの作品に登場する人物は多くの場合口数が少ない。いずれも行動主義的であり、ともすれば、自分自身が行為そのものと一体化しようとする。彼らがすることといえば、魚を上手に釣ることだったり、女性と上手に寝ることだったり、サメと戦うことだったりするわけですが、それらは行動こそが真実を定義することを証そうとしているからなのです。行動することは、ある人々にとっては、存在論的に必要不可欠なものですらある。
また、非行動的なのは思考にもよくありません。これは経験論ですが、一人暗中模索にふけって出てきた結論というのは大抵の場合、病的です。「溜まった水は腐りますが、流れる水は腐らない」。行動することは、正常な思考を保つための自浄作用としても働いてくれます。そう言った意味で、行動力は思考と実践の両方で有益に働いてくれると思います。

くりねずみ
トルストイの墓はヤースナヤ・ポリャーナの森のある一画にあります。彼はこの場所に埋葬してほしいと強く願っていました。トルストイが10歳のころ、兄のニコライは、ヤースナヤ・ポリャーナの森の古い峡谷の端に、「緑色の棒を埋めた」と語ります。その棒に刻まれた秘密を解き明かせば、世界中のすべての人が不幸や病気、争いごとから解放され、互いに愛し合う「蟻の兄弟」のようになれると教えたのです。
純粋だったトルストイとその兄弟たちはニコライの作り話を信じ、「緑色の棒」を探す遊びに熱中することになります。この幼少期の体験が、トルストイの「人類の幸福と博愛」の精神に強く結びついているのは言うまでもないでしょう。
トルストイにとって、「緑色の棒」が埋められているとされた場所は、単なる思い出の地ではなく、争いのない理想郷の象徴でした。だからこそ彼は、豪華な墓石も十字架も建てず、その思い出の静かな森の中で、人類の幸福を願いながら永遠の眠りにつくことを望んだのです。
個人的な見解を述べるなら、トルストイは人類史上最も偉大な作家の一人に列せられて然るべきでしょう。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』は座右の書の一つです。

くりねずみ
回答数 45>>
これは「過去」「現在」「未来」のすべてが、あらかじめ一つのブロックのように存在している四次元時空として存在している、という考え方です。この理論では、時間の流れとは私たちの主観的な感覚に過ぎないとされています。
例えるなら一冊の本を読んでいるという感じでしょうか。私たちはページを順番にめくっていきますが、本自体は既に完成しています。つまり本全体がブロック宇宙であり、ページをめくるという行為が私たちの主観的な時間の流れの経験ということになります。
この観点ですと、「未来は存在している」と言えるでしょう。

くりねずみ

くりねずみ
Thanks for the interview -
So long - so short-
Preceptor of the whole -
Coeval Cardinal-
Impart - Depart-
光の面影よ、さようなら――
束の間の会見をありがとう――
さようなら――あまりに短い――
全てを教えてくれる方――
同じ時代を生きる、根源なるもの――
与え――去っていく――
輝かしい記憶やインスピレーションのような、捉えがたい存在への畏敬と洞察をわずか6行に凝縮したエミリー・ディキンソンの詩です。
一行目の" Image of Light"「光の面影」は、様々な解釈を許す部分で、神なのか愛する人なのか、あるいは詩的霊感なのか自由に想像できます。正体を特定しないことで、「価値あるものほど儚いが、その一瞬の輝きが永遠となる」という、誰もが経験しうる普遍的な真実として歌っています。
各行のシラブル数を見てみると
1, 6音節
2, 6音節
3, 4音節
4, 6音節
5, 6音節
6, 4音節
と、3行目と6行目だけ短くなっていて、あえて息が詰まるようなリズムをとっている。そしてどちらも、全ての音節を強く発音する強強格になっていて、非常に重たいラインです。
それは、この短い詩行がこの詩全体の核心となっているからで、3行目は、邂逅が束の間のものであるのに対し、その出会いの前後には永遠の広がりがあることを示唆しています。6行目は一行の中で韻を踏む内部韻になっており、「与えること」と「去ること」が音の上で強く結びつくことで、それらが分かちがたい本質的なものであることを示唆しています。詩の締めくくりとして、強烈な印象を残しています。
全体的に途切れ途切れな音の連なりですが、それがかえって詩人の受けた衝撃や畏敬の念、動揺と沈黙を伝えている。形式そのものが意味を形成している優れた詩だと思います。



くりねずみ
「ぎっくり腰」と命名して可愛がっているんですが、身体のせいなのかやっぱり泳ぎが下手で、餌をあげても他の子が先に食べてしまう。
でも今日は違って、餌をあげると素晴らしい速度で水面に浮上してきてびっくり、いつもより機敏に動いてる。
よく見ると尾びれの動きが他の子よりめちゃくちゃ激しいというかバタバタしてる。優雅とは言えないけど、これは彼が自分なりに見つけた最適解なんだろうなと思いました。

くりねずみ
回答数 22>>
デカルトのような厳格さとスピノザのような直観、そしてプラトンのような不屈の精神を持ち合わせた二十世紀最高の哲学者の一人だと思います。

くりねずみ
水は喉が渇いているときに飲むほうがずっと美味しく感じるのと一緒かも。
知的な探求心や物語への渇望が最高潮に達したときに読む本は心に深く染み渡るし、得られる感動や知識も格別だ。

くりねずみ
そうなると何処かで意味の着地点を見つけないといけなくて、それが哲学の多様性を生んでいる気がする。その着地点の名前は何でもよくて、実存主義者にとっては「実存」で、精神分析においては「無意識」、そしてある人にとって「神」となる。
現代人はなんだろ……「推し活」か?

くりねずみ
回答数 25>>

くりねずみ
スクラップブック的なアプリで、画像とテキストをセットで保存できる。「表紙+感想」とか「表紙+気になった一文」とかをAIの簡単な要約つきで管理できる。
機能も追加していくみたいだし、今後が楽しみ。


くりねずみ

くりねずみ
回答数 21>>
これは娘にもよく言っています。誰かの悪口を言いたくなったら、自分に足りない視点はないか考えなさいと。じゃないと象の尻尾を触って「象とは箒のようなものである」と結論しかねない。願わくば目を開いて、象そのものを見てほしいところです。

くりねずみ
回答数 36>>
ボルヘス『シェイクスピアの記憶』
イーユン・リー『千年の祈り』

くりねずみ
回答数 15>>
私見を述べるなら、最終的にはメーカーが補償すべきだと思います。
乗客を乗せたタクシーを例にとってみましょう。もしそのタクシーが事故を起こした場合、責任をとるのは運転手あるいはタクシー会社になるのが普通だと思います。
もし駅前でタクシーに乗り込もうとする人に声をかけて、「そのタクシーは事故を起こす可能性がある。もし事故が起きたら、それはあなたの責任だ」と言ったとしたら、たぶん鼻で笑われるだけでしょう。
もちろん、タクシーの運転手がミスをして事故を起こす可能性があることは誰にでも分かることです。しかしながら、それを理由にしてタクシーの利用をやめる人はごく少数に違いありません。
これはつまり、「リスクを認識しているからといって、その結果の責任を引き受けることを意図しているわけではない」ということです。普通、人は事故が起こることを期待してタクシーを利用するわけではないのですから。
自動運転についても同様のことが言えると思います。運転手がタンパク質からシリコンに変わっただけです。私たちはリスクを承知したうえで自動運転サービスを利用するかもしれませんが、それは事故を起こすことを意図しているわけではありませんし、ましてや「この車は技術的問題を抱えているかもしれない」と考えながら後部座席で鼻をほじってくつろいだりする人は稀でしょう。
普通の車両においても、事故が起きたら一旦運転手が責任をとり、ブレーキに故障があったなど、原因が技術的なものであればメーカーに求償するのが一般的だと思います。これは自動運転車両においても同様ではないでしょうか。
自動運転レベル5においては、「運転」という行為の主体が完全にシステムに委ねられる以上、その判断・行動の帰結について最終的な法的・道義的責任を負うのはシステムの設計・提供主体、すなわちメーカーであるべきだと思います。利用者はその技術に信頼を預ける存在であり、リスクを受け入れる主体ではないと思います。

くりねずみ
小説にしろ哲学書にしろ何にしろ、同じ本を繰り返し読むことで、そのテクストが自分の中で少しずつ強度を増していく感覚が好きなので、記憶を消すのがもったいないと感じてしまう。
子どもが同じ絵本を何度も読みたがる感覚に似ているかもしれません。
ヘラクレイトスの河の喩えを借りるなら、水が絶えず流れて変化するように、読者もまた変化し続ける。したがって、読者とテクストの関係も常に変わり続ける。記憶を消すまでもなく、読むたびにテクストは新しくなっていく気がします。
