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エッセイの星

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惑星主: ぽやぽや
エッセイ好きの為の惑星です。エッセイ風の投稿をするもよし、あなたの好きなエッセイを語るのもよし、長文の投稿歓迎です。読むだけの方ももちろん大歓迎です。

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「誰も気づかない幸運」

口紅と車をコロコロ変える人は浮気性だ、という話をどこかで聞いた。なるほど、思わないでもない。

私はどちらもあまり変えないけれど、元気のない日には、つい新しい色を探してしまうクセがある。

最近、思い切って初めての色を買った。ちょっと大人っぽい色で、唇に塗るとどういうわけか、ちょっとした幸運がやってくるのだ。色の魔法というと大げさだけれど、私にとっては本当に効く。

これも聞いた話だが、男性は赤の微妙な違いがわからない人が多いらしい。化粧品売り場に並ぶ口紅も、みんな同じに見えるそうだ。「そんな所を変えても、誰も気づきやしない」と思うのだろうな。

でも、私は知っている。
唇の色が少し変わるだけで、気持ちがちょっと上向きになることを。
たとえ誰も気づかなくても、私の心は小さな幸せで満たされる。
それで十分だと思う。
他人の目に映らなくても自分の心にちゃんと効く。
口紅とはどうやらそういうものらしい。
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ぽやぽや

ぽやぽや

結局こんな時間になっちまいました。でもまあ、通勤も始業時間もないので何とかなっています。電話がかかってきたら、布団から飛び起きればいいわけです。パジャマのまま仕事が始まるわけです。
私のことをよく分かっている元同僚からの電話などは、「今起きた?」から会話が始まったりするんです。こっちは普通の声を出したつもりでも、向こうには寝起きの声に聞こえてるってわけですね。
そんなんでも仕事はきちっとこなしているので許されているんです。信頼と実績は積み重ねておくべきですね。偉いぞ昔の自分。
でもまあ、この生活にもだんだん無理がきている気がして、そろそろ方向転換をしようかと考えているところです。
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重めのジョナサン

重めのジョナサン

大声で叫ぶ

「みんななんのために生きてんの?」
そんな言葉を、SNSでたまたま見かけた。

毎日ただ意味もなく過ごしていて、
自分は何をしているんだろう、と。

この問いに触れたとき、
私は少しだけ立ち止まった。

それは弱音だからでも、甘えだからでもない。
むしろ、とても誠実な問いだと思った。

ただ、同時にひとつはっきり分かることがある。

この問いを発している人は、
「生きるには理由が必要だ」と、どこかで信じている。

理由があれば生きられる。
意味があれば耐えられる。
価値があれば、ここにいていい。

けれど私の経験では、人生はいつも逆説的だ。
理由を探している人ほど、理由を手にできない。価値を追い求める人ほど、内側が空いていく。

なぜ生きるのかは、生きないと掴めない。

生と、意味や価値は、同じ場所にない。
生きる理由がエネルギーになることはない。
価値があるから人は動くのではない。

むしろ、それらを条件にした瞬間、
生きることは急に難しくなる。

生は、評価よりも先にある。
意味づけよりも前に、もう起きてしまっている。

私はここで、
「私というもののどうでも良さ」を言いたい。
自分で生まれたわけではないから、生きられる。
選んで始めた人生ではないから、続いている。
死という確かな終点が、
相対的な意味や価値をすべて剥ぎ取ってくれるから、かえって、いまを引き受けられる。

生きるのに、
理由も、
生きていていいと思える価値も、
本当は要らない。

必要なのは、
すでにある生を引き受ける姿勢だけだ。
引き受けるとは、
どう生きるかを決めることではない。
前向きになることでも、
答えを出すことでもない。
ただ、
いまここにある生を見ること。
そして、自分にアクセスすること。
それだけだ。

意味は、後から来ても来なくてもいい。
価値は、なくても困らない。
理由が見つからなくても、生は続く。

そして私は、
理由が見つからないまま生きている人を、
間違っているとも、遅れているとも思わない。

むしろ、
その宙づりの地点に立っていること自体が、
生に対して誠実なのだと思う。

生は、
条件を満たした者への報酬ではない。
すでに、ここにある。

だから私は大声で叫ぶ。
たしかにあなたは生きている。
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重めのジョナサン

重めのジョナサン

可能性より、意志を
意志より、あの時間を

私たちに必要なのは、条件の中でどう振る舞うかを考えることではない。 何を失っても、それでもやるのかという問いだ。

私たちはよく、状況や立場、評価や将来性を見渡しながら行動を決めようとする。 それ自体は賢明に見える。 だがそこには、ひとつ大きな落とし穴がある。

打算は、とても簡単に物語を作る。 「今の自分はまだ早い」 「ここでは力を発揮できない」 「もう少し有利な場所があるはずだ」 そうやって、選ばない理由を無限に生み出す。

気づけば私たちは、 自分が無力であるという設定を自ら引き受け、 世界の片隅で待つ存在になってしまう。

だが本質的な問題は、能力でも環境でもない。 意志の不在だ。

意志を持っていないとき、 私たちはすべてを頭で決めようとする。 正解らしきものを探し、損をしない位置を測り、 可能性の大小で自分を評価する。

しかし可能性とは、与えられるものだ。 他者や状況、時代によって簡単に変わる。 そして多くの場合、それは私たちを守ってはくれない。

一方で、意志は引き受けるものだ。 何を手放してもいいか。 どこまでなら失っても構わないか。 その問いに向き合ったとき、 私たちは初めて自分の足で立つ。

失敗とは、 相対的な位置が下がることではない。 意味づけに負けることでもない。

自分で選ぶということから、 逃げ続けることだ。

意志を持つだけで、 世界がすぐに変わるわけではない。 だが、現実に触れる仕方が変わる。

身体が先に動き、 行動が思考を追い越し、 その中で、 自分と世界が再び接続されていく。

私たちは行動の中でしか、 本当の確信を得ることはできない。 自己吟味は必要だが、 考え続けることで意志が純化されることはない。

確信は、 選び、動き、引き受けたあとに 静かにやってくる。

可能性を見つめるのをやめ、 意志を選ぶこと。

それは勇敢さの問題ではない。 誠実さの問題だ。

人生は、
条件の最適解を探すゲームではない。
自分という存在に、
どこまで責任を持てるかの問いだ。

だが、私はこうも思う。

意志を持つためには、あの時間が必要なのだ。 外から見れば、留まっているようで、 自家撞着していて、 正直、見ていられない。

何も進んでいないように見えて、 同じところをぐるぐる回り、 ワチャワチャしているだけの時間。 自分の純粋さに傷つけられた、 無様な少年少女のような時間。

どこからやり直そうか。 何を信じ直せばいいのか。

あの、答えが出ないまま 立ち尽くしていた時間こそが、 私の意志の火種になったのだ。

いや、だからこそ私が言いたいのはこれだ。

意志を持てず、 ただ世界に反応するだけだった私もまた、 確かに意志を持っていた。

選べなかったのではない。 決められなかったのでもない。

それでも居ることをやめず、 問いを抱えたまま、 立ち止まる時間を続けていた。

続ける、という意志。

私は、その事実を 誇りに思う。

そして私は、必ずそこに戻る。
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重めのジョナサン

重めのジョナサン

なぜ私たちは、
だめな人を好きになってしまうのだろう

なぜ私たちは、
だめだとわかっている人を、
それでも好きになってしまうのだろう。
傷つけられるとわかっている相手。
大切にされないと知っている関係。
頭では理解している。
それでも、心や身体が、なぜか先に動いてしまう。
この問いは、しばしば恋愛の失敗談として処理される。
「見る目がなかった」「自己肯定感が低かった」。
確かにそれらは一理ある。
だが、それだけでは説明しきれない執着が、そこにはある。
ここには、理解や意味づけの手前で働く力がある。
人は、説明できる前に反応してしまう。
不安や緊張、期待と失望が繰り返される関係は、
理由とは無関係に、感情を強く結びつけてしまう。
それは選択というより、反射に近い。
心が考える前に、身体が覚えてしまうことがある。
だが、私たちが惹かれる「だめさ」は、
それだけで説明できるほど単純ではない。
そこには、いくつかの衝動が重なっている。
ひとつは、好奇心だ。
とくに若い頃の恋愛は、理解よりも接近から始まる。
未知であること。
不安定であること。
危うさを孕んでいること。
それらは感情を強く揺らす。
「普通ではない」というだけで、人は惹かれてしまう。
それは愛というより、探索に近い。
もうひとつは、逃避だ。
社会に出たあと、恋愛はしばしば現実からの避難所になる。
成果、評価、競争、役割。
それらから一時的に降りられる場所として、恋愛が選ばれる。
このとき私たちは、
幸せよりも、理解できる苦悩を選んでしまう。
退屈よりも、意味のある痛みを。
だが、好奇心や逃避の奥には、
さらに深い構造がある。
それは、価値を自分の外へ持ち出してしまうことだ。
私は何者か。
私は価値があるのか。
私はここにいていいのか。
その問いに自分の内側から答えられないとき、
私たちは価値を外に探し始める。
恋愛は、最も手軽で、最も強度のある外部価値になる。
私よりも関係。
幸せよりも役割。
生きる実感よりも、必要とされている感覚。
価値を外に置くということは、
同時に、思考を止めるということでもある。
自分は何を望んでいるのか。
どんな人生を生きたいのか。
何を選び、何を引き受けるのか。
それらの問いは、本来、自分自身に向けられるべきものだ。
だが価値を相手との関係に預けた瞬間、
主語は、いつのまにか「私」ではなくなる。
相手がどうか。
関係がどうか。
必要とされているか。
関係を破綻させやすい特性を持つ人との恋愛は、
この思考停止を許してくれる。
なぜなら、その関係がうまくいかない理由は、
すでに相手の側に用意されているからだ。
私は自分の人生を問われない。
幸せを決断しなくていい。
こうして価値は、相手とのあいだに集まり、
やがて「役割」という形を取る。
私たちが惹かれる「だめさ」は、
多くの場合、自分の過去と共鳴している。
より自分が無力だった頃。
理解されなかった記憶。
守られなかった感覚。
そのときに負った傷が、
相手の未熟さや欠落に反応する。
「この人は、あの頃の私だ」
言葉にならないその感覚が、好意として立ち上がる。
そして私たちは、無意識に役割を引き受ける。
支える人。
待つ人。
理解する人。
傷つけない人。
一見、それは優しさに見える。
成熟した愛のようにも見える。
だが多くの場合、それは愛ではなく、再演だ。
忘れてはならないのは、
「忘れられない人」という言葉の正体だ。
忘れられない人とは、
いまも愛している人ではない。
多くの場合、終わらせられなかった自分自身だ。
未完成であること。
途中で断ち切られたこと。
十分に理解されなかったこと。
選ばれなかったこと。
結末を持たない関係は、記憶の中で生き続ける。
そこでは、役割だけが固定されている。
理解する人。
待つ人。
報われない人。
相手はもういないのに、
役割だけが、内側で生き続ける。
重要なのは、
役割は愛の出発点ではないということだ。
寄り添い、助け合い、尊重し合う日々の中で、
その都度、立ち上がっては消えていくものだ。
最初から役割を背負う恋愛は、生きた関係ではない。
それは関係性ではなく、構造になってしまう。
私たちは愛したいのではなく、
「あの頃の自分を救う役」を演じてしまっている。
それは弱さではない。
生き延びるために身につけた、ひとつの方法だ。
だが、自分の傷に落とし前をつけられるのは、
やはり自分だけだ。
誰かを救うことで、
過去の自分が救われることはない。
愛とは、
あの頃の自分を演じ続けることではなく、
いまの自分として、ここに立つことなのだと思う。
だからといって、
恋愛を重たいものにしたいわけではない。
人は出会い、しばらく一緒に過ごし、
思い出を作って、そして別れる。
それだけのことが、人生には何度も起こる。
最初から恋人やパートナーを目指さなくてもいい。
足りないまま関わり、
そのときどきの距離で、互いに触れていけばいい。
終わった恋に過剰な意味を与えなくても、
それはちゃんと、そこにあった。
そして同じように、
これから始まる恋愛や、恋愛そのものにも、
あらかじめ大きな意味を背負わせなくていい。
出会いは、何かを完成させるためでなくてもいい。
ただ、ある時間を一緒に生きること。
それだけで、十分なこともある。
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重めのジョナサン

重めのジョナサン

才能論からサガ論へ

さぁ今日は才能について考えよう。
才能について考えるには、まず「才能とは何か」を考えなければならない。
何かを定義するというのは難しい。
けれど一般的には、
才能とは、ある行為において能力が秀でていること、そして先天的であれ後天的であれ、他と比べて比較的容易にその能力を獲得できることを指す場合が多い。

しかし、才能は単なる能力のことだけとも思えない。
なぜなら、才能は必ず他者の存在を必要とし、さらに言えば、ある文脈と出会ってからこそ成立するものだからだ。

どれほど高い能力を持っていても、それが評価される場や意味を持つ文脈と結びつかなければ、才能としては現れない。
才能とは、個人の内側に完結する性質ではなく、他者や社会との関係の中で立ち上がる言葉なのだ。
さらに付け加えるなら、「才能」という言葉は、自分で名乗るものではほとんどない。
それは多くの場合、他者が与える言葉である。
人は、自分の内側にある感覚や能力を、「才能だ」とは感じない。
ただ、そうしてしまうこと、なぜか掴めてしまうこととして経験しているだけだ。他者がそれを見たとき、文脈が与えられ、意味が接続されて、はじめて「才能」という名前が付く。

文脈がないとき、それはただ、その能力が飛び抜けた人でしかない。

では、文脈と出会えなかった能力は、才能ではなかったのだろうか。
才能ではないとも言いたいし、才能だとも言いたい。
私はどうしても、「才能」という言葉に俗っぽいものを感じてしまう。
それは比較され、消費され、分かりやすい価値へと回収されてしまう言葉だからだ。

だから私は、その人が生まれ持った能力や気質をサガと呼びたい。

サガは、評価される以前に存在している。
役に立つかどうかを問われる前に、すでにその人の中に流れているものだ。
そして、そのサガを磨いていく行為を、私は修練、と呼びたい。

ここで一般的才能論を俯瞰する
世の中で語られる才能論の多くは、次の二項対立に収束する。


天才型 vs 努力型
天才型:生まれつきできてしまう、説明できない、早い、突出している
努力型:反復と積み重ね、誰でも目指せる、再現性がある

凡人 vs 才能的な人
凡人:平均、伸びにくい、評価されにくい
才能的な人:突出、評価されやすい、説明不要

しかしこの二項対立は、すべて能力を比較し、結果で序列化する前提に基づいている。

天才と呼ばれる人も膨大な修練を積んでおり、努力型と呼ばれる人も強いサガを持っている。
違いは、修練や傾きの可視化のされ方だけだ。
才能や天才とは、結果である。
それ自体を目指して獲得するものではないし、先に用意されている目的でもない。

私たちが根本的に行えることは、ただ一つ、生きることだ。
関心を向け、反応し、選び、間違え、立ち戻り、続けてしまうこと。
その営みの途中で、ある瞬間を切り取ったときに、
他者がそれを「才能」や「天才」と呼ぶだけである。
だから才能でも天才でも、呼び方は何でもよく、すべて副産物にすぎない。

生きることを差し置いて、副産物を目的にしてしまったとき、私たちはサガを見失う。
サガとは、評価や成果の前にすでに流れている、その人固有の傾きや質感である。
それは天才か凡人か、才能か努力かという枠を超えて、ただ存在している。
生きる営みの中で、身体が反応してしまう方向、心がつい戻ってしまうもの、
その傾きに従って行動し続けること。
それこそが修練である。
修練とは、単なる技術や能力の向上のためではない。
それをどう使うのか、なぜ磨くのかという、自分自身への問いかけである。
才能や天才は、生きた結果として現れる副産物にすぎない。
一方で、サガと修練は、生きることそのものと結びついている。

私は、誰かに「才能がある」「天才だ」と言って、その人を遠ざけるよりも、
すべての人の中にあるサガを見つめ、
その修練に注目するほうが、ずっと確かな存在を感じることができる。

サガは誰の中にもある。
深さも形も異なりながら、同じ地平に流れている。
それを見つけ、語ることで、私たちは神棚に置かれた人々と同じ目線で、
同じ食卓を囲むことができる。
そのとき初めて、
本来の個性と多様性が実感されるのではないだろうか。
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重めのジョナサン

重めのジョナサン

人生の開き方

今日は、人生を作る話をしよう。
いつも通り、アンチテーゼから入る。
私は時おり、
どうしてこうなってしまったのだろう、
と思うことがある。
そのとき浮かぶのは、
たいてい過去だ。

あの人は、
どうしてああ言ってくれなかったのだろう。
この人は、
自分のことばかりだった。
子どもの頃、
どうして教えてくれなかったのだろう。

けれど、
過去だけでは終わらない。

同時に私は、
まだ起きてもいない未来を覗き込み、
不安を先回りさせている。

こうしていたら、
きっとこうなっていただろう。
このままでは、
きっとこうなる。
それは計算であり、
予感であり、
私たちがついしてしまう打算だ。

そんなふうにして、
私は何度も、
過去と未来のあいだを往復してきた。

そう思うとき、
私は一体、どこにいるのだろう。
「ああだったら」「こう出会っていたら」と
時間を組み替える想像をしているとき、
私はどのような存在なのだろうか。
不思議なことに、
その問いを立てた瞬間、
私はそこから、すっと距離を取れることがある。

そのとき、
私は私を、再び見つける。
そして、人生のルールを思い出す。
そのルールによれば、
自分がしてほしかったこと、
してもらえなかったこと。
それらはすべて、
私がするために起こったのだ。

同時に、
私は思い出す。
自分がしてもらったことを。
受け取ってきた信頼を。
向けられていた眼差しを。

それは義務ではない。
できない自分を責めるためのものでも、
できた自分を誇るためのものでもない。

それは、
私と私との、
そしてこの人生との、
約束事のようなものだ。

約束は、
守られることもあれば、
保留されることもある。
それでも、
約束であったという事実そのものは、
決して失われることはない。

人生は、
作るものではない。

触れられ、
受け取り、
忘れたり、思い出したりしながら、

少しずつ、
開いていくものだ。
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重めのジョナサン

重めのジョナサン

痛みの告白

誰もが、
名前のつかない痛みを抱えて生きている。
それは特別な出来事から生まれるとは限らない。
生きているという事実そのものに、
静かに伴っているものだ。

多くの場合、
私たちはその痛みを
理解してほしい、聞いてほしいと望む。
それは自然な欲求であり、
人が人として他者と関わろうとするとき、
避けられない衝動でもある。

けれど、ここには
一つの誤解がある。
痛みは、共有することはできても、
委任することはできない。
誰かに預けたり、
代わりに背負ってもらったりすることはできない。

人の痛みは、
本人の内側で生まれ、
時間や記憶や身体と
複雑に絡み合っている。
それは本来、
他者が「処理」できるものではない。
文脈を失ったまま差し出された痛みは、
聞く側に
理解や解決や共感を
無言で要求してしまう。
そのとき、痛みは
関係を結ぶものではなく、
関係を歪める力になってしまう。

だからといって、
痛みが整うまで
語ってはいけないわけではない。
和解しようとする意志とは、
落ち着いていることでも、
説明できることでもない。
何が言いたいのか分からないまま、
言葉が途切れ、
感情が露出した状態で
語ってもいい。
語ることは、
完成した気持ちを
差し出す行為ではない。
むき出しのまま、
言葉を探し始めることだ。
その探し方そのものが、
痛みと自分との関係を
結び直す。
語ること自体が、
癒しのプロセスになる。

ただ一つ、
手放してはいけない姿勢がある。
これは誰かに
引き取ってもらうための痛みではなく、
自分の内側で起きている出来事なのだ、
という自覚。
整っていなくてもいい。
混乱していてもいい。
それでも、
自分の痛みのそばに
自分で立っているという意志。
その距離があるとき、
痛みは
要求や攻撃にならない。

一方で、
聞く側にも誠実さが必要になる。
他人の痛みは、
完全には理解できない。
そして、
理解する必要もない。
分かったつもりになることは、
しばしば相手を
自分の枠に回収してしまう。
それでも、
相手の言葉を
受け取ろうとする意志。
解決や助言を
差し出すのではなく、
「二人の関係として、ここにいる」
という姿勢。
それは何かをすることよりも、
耳を閉じないという
選択に近い。

理解されるかどうかは、
告白の目的ではない。
それは結果として
起こることにすぎない。

大切なのは、
語る側も聞く側も、
互いの痛みを
所有しないこと。
支配しないこと。
投げ渡さないこと。
痛みは、
解決されるために
語られるのではない。
関係の中で、
ひとりに戻されないために
語られる。

これは、
痛みの扱い方の話ではない。
関係を生かすための、
私たちの心構えについての話だ。

わたしの痛みを、
大切に育てよう。
未完成のまま、
言葉にならないまま。

手入れをし、
抱きしめ、
私の中に引き入れよう。

そう、
これで良かったと
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重めのジョナサン

重めのジョナサン

探し物を探そう

好き、嫌いは、私なのだろうか。
朝、目が覚めると、それらはもうそこにある。
選んだ覚えはない。
ただ、世界に触れた反応として立ち上がってくる。
けれど、それが私だと言われると、どこか手応えがない。
好き、嫌いは、いつも外を向いている。
近づくか、離れるか。
世界との距離を測るための動きにすぎない。
では、私の内側とは何だろう。

自分というものを探してみるが、
掴めるような「私」は、ほとんど見つからない。
デカルトは、その空白の中に残ったものを
「考えている」という事実だけに絞り、
それをコギトと名付けた。
確かに、思考は消えない。
だが私は、
コギトしかないと言いたいのではない。
むしろ、コギトしかないわけがないと、

呼吸の奥で否定しているものが、確かにある。
私はそれを、魂と呼ぶ。

魂は、何かをしてくれる存在ではない。
答えを与えたり、導いたりもしない。
ただ、問いかけてくる。
――お前は、どこへ行くのか。
――なぜ、今日も目覚めたのか。
そして同時に、
私からの問いを、ずっと待っている。

魂とつながるというのは、
何かを得ることではない。
むしろ、すでに信頼されている場所に身を置くことだ。

私はその信頼を、神と呼んでもいいと思っている。

神や魂は、私を操作しない。
助けもしない。
ただ、見守り、信頼している。
その中に身を置くとき、
私は初めて、自分のリズムを取り戻す。

私を超えた揺りかごを信頼したときに生まれる、このリズムを、私は精神と呼びたい。

精神とは、思考ではない。
意志でも、感情でもない。
信頼の中で自然に生まれる、在り方のテンポだ。
このリズムによって、
私たちは人と関わることができる。
同時に、
故人とも、まだ見ぬ未来の人とも、
つながることができる。
そのとき、
他人はもう、単なる他人ではない。

親は、年を取った自分であり、他人。
子どもは、自分の魂からこぼれ落ちた宝物であり、他人。

同一化も、支配も、必要ない。
世界や他者は、制御するものでも、
良い関係を築こうとコントロールする対象でもない。

私と魂が、
私と神が、
信頼によってつながれるように、
私もまた、
精神を携えて、
他者であり、同時に私である者たちと、
つながることができる。

さて、今日も目覚めた。

魂を探しに行こう。
神を探しに行こう。
誰かを探しに行こう。
何かを探しに行こう。

私を向かい入れよう。

心当たりはあるだろうか。
今日は、会ってくれるだろうか。

わからない。
それでも探そう。

私はこの試みを「生きる」と呼びたい。
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重めのジョナサン


【私は私といるか?】

私はよく、自分といれなくなる。
世間、普通、正しさ、価値。
実体のないそれらが、
いつの間にか私の口を借りて話し始める。
比べること。
測ること。
位置を知ろうとすること。
それらに夢中になっているあいだ、
魂は、裏口から出かけていたり、居留守を使ったりする。

私はこの状態を
「自分といれない」と呼びたい。

自分といる、というのは
安心していることではない。
満たされていることでも、
うまくやれていることでもない。
それはもっと静かで、
もっと心細い。
気まぐれで、扱いづらく、
すぐにどこかへ行ってしまう魂と、
それでも一緒にいようとすること。

魂はいつも揺れている。
正しさよりも早く動き、
理由よりも先に傷つき、
説明を拒む。
それでも私は、ときどき立ち止まり、
自分に問いかける。
いま、魂は喜んでいるだろうか。
神は、この在り方を見て、頷いているだろうか。
ここで言う神は、
裁く存在ではない。
命令する声でもない。
私を包み込み、
私を超えた場所から、
沈黙のまま見ている何か。
世界でも、自然でも、
名前のない全体でもいい。

自分といる、というのは、
この問いを忘れないことだと思う。
成果の手前で、
意味づけの前で、
「これは私から離れていないか」と
胸の奥で確かめること。
答えは、いつもはっきりしない。
魂は気まぐれだし、
神は多くを語らない。

それでも

問いを手放さないという態度だけが、
私を私の場所に戻してくれる。

自分といることは、
自分だけで完結しない。
魂は私の内側にあるが、
その視線はいつも外を向いている。
世界に触れ、
何か大きなものに
手を伸ばしている。
だから私は、
世界を信頼しようとする。
世界は優しくない。
理不尽も、沈黙も、
意味の回収されない出来事もある。
それでもなお、
この世界の中で生きていい、
ここにいていい、
そう頷いてくれる何かが
確かにあると信じてみる。

自分への信頼と、
世界への信頼。

そのあいだを行き来しながら、
私は何度も
自分といようとする。
この文章は、
完成された答えではない。
ただの自己開示であり、
私の小さな祈りだ。
私は、気まぐれな魂と一緒にいたい。
魂が神に触れているかを、何度も確かめながら、生きたい。

もしあなたが、
自分といれない夜に
この言葉を読んだなら、
そのとき、私たちは同じ問いの下にいる。
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4人回答>>
2025/04/21 20:28

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