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わんわん

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昔の実体験を小説にしたものです。
全10話。

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『血紅龍と香水』 

第1話

二十歳の時、俺はその年頃の男子にありがちな、大人の世界への漠然とした憧れを抱いていた。

そこで、近くの繁華街にある雰囲気のいいバーでアルバイトを始めた。

その薄暗いバーには大きな水槽があり、その中を大型の淡水魚がゆったりと妖しげに泳いでいた。

日焼けしたプーさんのようなマスターは、ハチミツの代わりにビールを舐めながら言う。

「ずっと大きな魚が飼いたかったんだよ。経費で飼えるなんて最高だろ?」

店はまあまあ繁盛していた。
大きな水槽を取り囲むように配置されたカップルシートでは、発情期のない男たちが年中女性を口説いていたし、奥にひっそりとあるカウンター席では、夜な夜な常連客が不平不満を吐き出していた。

そんな中、月に1回くらいのペースでカウンター席に座る、30歳くらいの品の良い女性がいた。

いつも一人で来店し、高めのワインやシャンパンを一本開ける。

「一人で飲んでもつまらないから……」

そう言って、いつもマスターやスタッフたちにも振舞ってくれた。
グラスを持つ細い左手の薬指には、大きな宝石が入った指輪が光っていた。

その女性は時々俺を呼び、耳打ちするように小声で話すことがあった。
話の内容は天気の事とか、ほんとうに取り留めのない内容だった。

しかし、その人が顔を近づける度に、濃密な香水の香りが俺の鼻をくすぐり、否応なく鼓動が高まった。

その香水は、なんというか、無垢と情熱が混ざりあってチェリー樽で熟成したような、そんな香りだった。

……あれから長い年月が経ったが、俺はまだあの人以外にあの香りを纏った人を知らない。

#紅血龍と香水
#連載小説
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ラッシュ・ライフ

John Coltrane

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連載小説です。1話からどうぞ。
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第3話

玄関の中は、30畳程の広い土間になっていた。

その土間を取り囲むように、様々な物が陳列してある。
まず目を引いたのは二本足で立つ巨大なヒグマの剥製。
その横には遠吠えをしたまま時間を止められた灰色の狼の剥製。武士の鎧。台座に掲げられた日本刀。
極めつけは、巨大な額に納められた毛筆の文字。
『仁義』

……ここは俺の住む世界とは次元が違う場所だ!
肌寒いのに、頭にじわりと汗が吹き出す。

完全にフリーズした俺に、その人はいつもより口を近づけて囁く。

「……今日は誰もいないから。少し私の部屋でお話ししない?」

俺の耳に少し熱を帯びた吐息がかかった。
香水の香りが俺の脳細胞に侵入する。
その人は廊下の先の扉を指さした。
上部にステンドグラスがついた、あまりにも場違いな真っ白い扉。

しかし、横に立つヒグマの感情のない瞳が、俺を正気に戻した。

「ま、まずは熱帯魚を採らせて下さい!」

慌てて周りを見渡すと、土間の片隅に木彫りの装飾の足がついた大きな水槽があった。
そしてその中を、一匹の巨大な魚が優雅に泳いでいた。

……それはまるで赤い鯉のぼりのようだった。
それも普通のものではない。田舎の名家に代々伝わるような、特別なものだ。

その魚がアロワナであることは俺にも分かった。店でもアロワナは飼っているからだ。
しかし店のそれとは全然違う。
大きな鱗の一つ一つの年輪のような模様が銀色の光を反射し、背びれや尾びれは真っ赤な炎のようだ。

俺はそのアロワナから目が離せないでいた。

「こ、こんなに凄い魚を頂いても……?」

「 うん。もう、世話をしているあの人は、ここへは帰ってこないような気がするの……」

あの人、というのはこの仁義なき家の主の事だろうか?
そう思うとやはり居ても立っても居られない気持ちになった。

俺の気持ちとは裏腹に、その人は後ろから俺のシャツの袖をキュッと握った。
俺はそれに気づかないふりをして水槽に歩み寄って無邪気に聞こえるように言った。

「じゃあ、頑張って採るとしますか!」

#紅血龍と香水
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KILLING ME SOFTLY WITH HIS SONG (やさしく歌って)

Lisa Ono,DJ TARO

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第7話

水槽に餌用の金魚を放り込んだ。

すぐに大型魚たちの目の色が変わった。
金魚たちはおろおろと水槽の中を彷徨う。
まるで悲鳴をあげて狼から逃げ回る子羊だ。

その中で、いつもはゆったりと緩やかに回遊している紅血龍が、真っ先に目にも止まらない速さでほとばしるように動た。
それはまるで紅い稲妻だった。

逃げ惑う金魚達は、みるみる紅血龍の口の中に収まっていく。

直後、紅血龍のエラからきらきらと光る煙のようなものが吹き出された。

光輝いて水の中に広がっていくそれは、よく見ると金魚たちの小さなウロコだった。
舞台を舞う紙吹雪のように、美しく光を反射しながらゆっくりと水の中を沈んでいく。

餌用に生まれる宿命にあった金魚たちの、最期の命の輝きのように感じた。

マスターは、水槽にかぶりついていた。
木の穴の中に上半身を突っ込んではちみつを舐める黄色い熊のように、丸い尻を振る。

「毎週金曜日の21時から、生き餌ショーとかやったら客入るんじゃないか!?」

……しかし、マスターのその夢は叶わなかった。


ーー4日後。
開店前に出勤した俺は、冷たい床の上で息絶えている紅血龍を発見したのだった。

#紅血龍と香水
#連載小説
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蒼穹のワルツ

NAIX

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第5話

水槽に入ったアロワナを見たマスターは小さい目を見開いた。

「こ、これはレッドアロワナ…! いや、…紅血龍か!!」

水槽に口づけをする勢いのマスターに、俺は聞いた。

「なんですか? こうけつりゅうって」

「レッドアロワナの中でも、まれに赤色が濃く出る個体がいる。……それが紅血龍だ! 富裕層の間でそれはそれは高い値段で取引されてるんだぞ!」

俺は驚いて水槽を見た。紅血龍は先輩の魚たちを気に留めることもなく、新しい住処ですでに王者のように悠然と泳いでいる。

「この紅血龍も高いんですか…?」

「こいつは特に凄いぞ……! 100万……。いや、それ以上か……?」

マスターは振り向いて、つぶらな瞳で俺を見た。

「あのお客さんって、めちゃくちゃ金持ちなのか……!?」

俺は今日の出来事を全て話した。
マスターは俺の話を聞き終わと、すぐにバックヤードでパソコンを触り始めた。
手持ち無沙汰になった俺は、チラチラと紅血龍を見ながら開店の準備を始めた。

しばらくすると、マスターが俺を呼び、パソコンのモニターを見せた。

「ここで間違いないか?」

モニターには、遠くから撮ったのか荒い画像で、今日俺が通った無機質な門扉が写っていた。
門扉は開いており、よく手入れされた庭が少しだけ見えた。今日行ったときの少し荒れた様子とは大違いだった。
俺がうなずくと、マスターは画面を上へスクロールさせた。そこにはこう書いてあった。

『これが山崎会系豊島組の暴力団事務所 兼 豊島組長の自宅だ!』

俺はやっぱりか、と思うと同時に、あの人が組長の妻だったことに改めて驚いた。

マスターはしばらく考え事をしているようだったが、やがて口を開いた。

「……奥さんは本当に、『主人はもうあの魚の世話はしない』って言ったんだな?」

「 はい」

そう答えながら、俺はあの人の別の言葉を思い出していた。

『もう、世話をしているあの人は、ここへは帰ってこないような気がするの……」

#紅血龍と香水
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Blowin' in the Wind

Bob Dylan

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連載小説です。1話目からどうぞ。
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第4話

アロワナを捕まえるのに1時間くらいかかった。
すごいスピードで逃げ回るので、水槽の水を半分まで減らし、ズボンをまくって濁った水槽へ入った。
しかし、最後にはアロワナは自ら水槽から飛び出し、床を跳ねるところをようやく捕獲できたのだった。

再び紅い唇を開いたその人の言葉をさえぎって、俺は「今から店を開けないといけないので!」と嘘をついた。

「そう……」

彼女はうつむいたまま言った。

アロワナと水が入った重い箱を車に運ぶ俺のあとを、その人は無言でついてきた。

俺は車に乗り込むと、窓を開けて挨拶をした。
その人は黙っていたが、しばらくして俺に薄いピンク色の封筒を差し出した。

「 今日はわざわざありがとう。…これ、お足代」

お足代というのがガソリン代だと気がつくのにしばらく時間がかかった。
断りづらい雰囲気だったし、一刻も早くここを立ち去りたいという思いで、俺は礼を言って受け取ると、シャツの胸ポケットに入れた。

「 今度、店にこのアロワナを見に来て下さいね!」

なるべく明るく言ってエンジンをかける。
その人は最後に白い顔を近づけてこう言った。

「 その子、大切にしてね…!」

暴力や死を連想させるものを内部に宿した、あの家から逃げるように、車のスピードを上げた。
なぜか、普段は吸わない煙草がやけに吸いたくなった。

ラジオでもつけて気分を変えようと思ったとき、ふわりとあの人の香水の香りが鼻孔をくすぐった。

「 ……?」

俺は胸ポケットに入れた封筒のことを思い出した。
近くのコンビニに駐車して、封筒を取り出す。薄いピンク色の封筒からは、確かにあの人の香りがした。

闇の中にポツリと咲いた、小さな白い花。
……彼女はあの闇の中で、何を考え、どのような生活をしているのだろう?

封筒に何も書かれていないことを確認し、中身を取り出した。

中に入っていたのは、綺麗に折りたたまれた5枚の1万円札だった。

#紅血龍と香水
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No Woman, No Cry

Fugees,Wyclef Jean

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2連載小説です。1話からどうぞ。

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第2話

「今度、家に一人で来てほしいの……」

働くバーで何度目かに会ったとき、その人は俺の耳元でそう囁やいた。
香水が甘い紫煙のように身体に纏わりつく。

「家に大きい熱帯魚がいるんだけど、主人がもう世話をしないから引き取って欲しいの。来週まで主人は家にいないから……」

俺は答えを保留し、バックヤードでこっそりとマスターに相談した。
マスターは小さな目を細めて、たるんだ頬を持ち上げた。

「 お前はもう成人だ。自分で考えて答えるんだ。あの水槽に魚を入れるのは全然構わないよ。そして客が一人や二人減ろうがお前は気にしなくていい」

俺は少し悩んだが、家に行くと答えた。
それを聞いたその人は、はじめてホールケーキを出された少女のように、瞳を輝かせた。

数日後の昼過ぎ、俺は大学をサボって、マスターから借りた車に大きな発泡スチロールの箱とエアーコンプレッサーを載せて、出発した。

初秋の空はからりと晴れていて、所々に引きちぎった薄い綿のような雲が貼り付いていた。
ハンドルを握る二十歳の俺の頭の中は、もらう熱帯魚の事よりも、その人と過ごす甘い時間の事で破裂寸前の風船のようだった。

その人は、背の高い無機質な門の前で待っていた。
薄紫色の花柄のワンピースを着て、少し恥ずかしそうに胸の前で小さく手を振った。
そして俺が両手で抱える大きな箱を見て、道端で咲く名の知らぬ花のように小さく微笑んだ。
外出するわけではないのに真っ赤な口紅をひいた唇が艶めかしく開いた。

「 迷わなかった?」

陽の光に照らされた彼女は、店の照明で見るよりも少しだけ疲れているように見えた。

その人に続いて、門をくぐった。
あまり手入れされていない庭を通り、導かれるがままに家の中へ入った。
日の当たらない玄関は薄暗く、急に肌寒く感じた。
室内を見渡した時、俺の頭を占めていた甘い期待は綿埃のように吹き飛んだ。

そしてここへ来たことを猛烈に後悔したのだった。

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Rosa Morena

Duo Flamingo

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連載小説です。1話からどうぞ。
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最終話

こうして、俺の二十歳の時の物語は唐突に終わる。

結局、あの人の言ったことは願わずとも当たった。

『もう、あの人は、ここへは帰ってこないような気がするの……』

俺はそれから1年半、アルバイトを続けた。
しかし、あの人が現れることはなかった。

この話を書くにあたり、マスターに電話で許可を得た。
彼はまだ飲食店をやっている。今では俺の大切な飲み友達だ。
マスターからは、文章にするなら事象を調べても分からないようにアレンジするよう言われた。
それともう一つ。

「 俺のことは格好よく書けよ?」

黄色い熊のような、みんなに愛されるキャラに変更しておいたから安心してほしい。
でも、あなたの言葉は変えずに、ほぼ正確に書いた。
なぜなら、俺はあなたの言葉が本当に格好いいと思っているからだ。

ーー最後に、貴方へ。
大変遅くなりましたが、ご主人の事、お悔やみ申し上げます。
そして紅血龍を死なせてしまってごめんなさい。

貴方は今、どこで何をしていますか?
どこか街のBARで、やはり寂しそうにワイングラスをかたむけているのでしょうか?

あの頃、やはり俺は、貴方が好きだったのだと思います。
俺は、紙切れのようなペラペラな存在だった。 でもそんな自分を守ろうとして、貴方と会話をすることから逃げてしまった。
情けないです。

あの時受け取った5万円は、封筒に入ったまま、家の引き出しにしまってあります。
いつか貴方が熱帯魚の泳ぐBARに現れたら、美味しいワインをご馳走するつもりでとってあるのです。
でも未だにマスターから貴方が来たという連絡はありません。

ねえ、知っていますか?
嗅覚というのは、5感の中で最も強く記憶と結びついているそうです。
そして記憶だけではなく、その時の感情をも思い出させるのです。
……もちろん、貴方は知ってたんですよね。
だからあの香水を選んだのですよね?
俺もそう思えるくらいには大人になりました。

あの封筒の香りは消えてしまいましたが、貴方の記憶だけは残っています。
そして多分、失ってしまった、二十歳の時の感情も思い出したくて、俺は今も、貴方の香りを探しているのかも知れません。

『紅血龍と香水』 完

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ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード

岡村明良

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第9話

「悪いが、一週間アルバイトは休んでくれ」

マスターは再びパソコンを触りながら言った。

「 豊島組の事務所だけどな、門は防犯カメラだらけだ。おそらくお前はバッチリ写ってる。この店に豊島組の誰かが来るかもしれないし、あの奥さんが来るかもしれない。……何かあった時にお前を守りきれん」

「 で、でも店は開けるんですか? マスターは大丈夫なんですか…?」

マスターはニヤリと笑うと、丸いお腹を叩いた。

「こう見えて、色々修羅場はくぐってるんだぞ?」

俺はこうして謹慎をくらった。
紅血龍の死骸は俺が引き取った。
マスターに聞いたら、可燃ごみに出すと答えたからだ。

店を出た。
日は傾き、街はオレンジ色に染まっていた。
俺は自転車にまたがると、カゴに紅血龍の入った袋を入れ、この辺りで一番大きい河へ向かった。
もし紅血龍が自由な河を望んで水槽を飛び出したのだとしたら、最後くらいはそこで眠らせてあげたい、と思ったのだ。

空が紫色になった頃、俺は広い川辺に降りた。
カエルが数匹、競い合うように鳴いていた。
俺は静かに流れる水に近づくと、笹舟のようにゆっくりと紅血龍の亡き骸を放った。
水面に浮かんだまま流れていく紅血龍は、一度だけ夕日を反射して輝いた。
それは、紅血龍のエラから吐き出された金魚のウロコの輝きと同じ光だった。

その日から俺は昼は大学に通い、夜は家で暇を持て余す事になった。
マスターに「あまり出歩くな」と言われたからだ。
毎日、BARが閉店する時間を見計らってマスターに電話をした。
豊島組の連中も、あの人もまだ店に来ていないようだった……。

ーーアルバイトを休んで5日目の朝。

俺は部屋でパンをかじりながらネットニュースを見ていた。
そのニュースを始めて読んだ時、まあ良くある話だ、と思った。
しかし引っかかるものを感じて、もう一度読み返した。
身体中にぞわぞわと鳥肌が立った。

『港の倉庫で暴力団組長の射殺遺体が発見される。暴力団同士の抗争か。
遺体で発見されたのは山崎会系豊島組の組長、豊島信雄……』

#紅血龍と香水
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グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 作品16 - 第1楽章 Allegro molto moderato

グリーク,Nobuyuki Tsujii

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第8話

俺の後に出勤したマスターは、床で乾燥している紅血龍を見て固まった。

俺は椅子に上がり、水槽のフタを確認した。
重りの乗ったフタは、ずれて水に落ちかかっている。

紅血龍の顎の先には、深いキズがついていた。

おそらく誰もいない店内で、何回も何回もジャンプして、傷つきながら重いフタをずらしていったのだろう。

……紅血龍は、この水槽の外に自由に泳ぎ回れる河が広がっている夢を見たのだろうか?
それとも、あの暗い水槽に帰りたかったのだろうか……?

マスターがぽつりと言った。

「 この事をあの人が知ったら……」

俺の頭にその人の顔が浮かんだ。
少し寂しげな表情で『この子を大切にしてね……』と言った小さな声も。
俺は、両手を強く握りしめた。

「どれだけ悲しむか……!」

しかしマスターは、珍しく声を荒げた。

「違う! 俺が言ってるのは豊島組長の事だ! 相手は暴力団だぞ……! もし本当にいらない魚だったとしても、脅しの材料にする、そういう連中だ! ……金だけでは済まないかもしれない!」

マスターはバックヤードへ飛び込み、パソコンを起動させた。

「俺な、この4日間で紅血龍の事をずいぶん色んな人に話してしまった。それにHPのトップにデカデカと写真まで載せてしまったんだ!」

急いでHPを編集するマスターの背中を見ながら、俺はようやく自分のしたことの重大さに気がついた。
俺はマスターの背中に深々と頭を下げた。

「俺、本当に自分の事しか考えていませんでした! あの人の家に誘われたときも、あの人の事より、自分の欲望の事しか考えてなかった! そして、勝手に貰ってきた紅血龍は死んでしまった! 店にも迷惑をかけて……、ごめんなさい!」

俺は本当に子供だ。誰に謝るべきなのかも分からない。
……そんな自分が情けなくて、目に涙が浮かんだ。

マスターは体ごと振り向くと、優しい声を出した。

「まず、紅血龍が死んだのは俺の責任だ。ずっとフタに鍵をつけないままにしていたのは俺だからな」

マスターは俺の顔を上げさせた。
そこには柔らかい微笑みがあった。

「そして、今、お前が苦しいのは、若さが原因だ。お前のせいじゃない」

#紅血龍と香水
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Solo el Fin (For All We Know) (with Stanley Turrentine)

Astrud Gilberto,Stanley Turrentine

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