共感で繋がるSNS
なお

なお

石川県金沢市在住、旧約聖書を漫画化する作家です。身長182cm、来年還暦を迎えます。 焚き火と酒をこよなく愛し、キャンプコミュニティを主宰。手料理をふるまい、人生の物語を共に語り合えるパートナーを心から探しています。
温泉
キャンプ
石川県
金沢市
焚き火
専光寺海岸
石川
お酒
自炊
旅行
マンガ
散歩
出版・報道
金融・コンサル
彼女募集中
毎日連絡取り合いたい
返信マメです!!
早寝早起き
両親に感謝してます
なお

なお

神は、なぜ「行け」と言ったのか?アブラハムに隠された人間性の核心

神に選ばれる人間って、どんな人だと思いますか?

特別な能力を持ったスーパーヒーロー?
何も恐れない完璧な聖人?

僕が創世記を読んでいて、強く感じたのは、そうじゃないかもしれないということです。
神が選んだ最初の人物、アブラハムの物語をひもとくと、そこには意外な「人間らしさ」が浮かび上がってきます。

今日、僕が注目したいのは、彼の人生が大きく動き出した、たった一節です。

創世記12章1節。
神がアブラハム(当時はアブラム)に告げた、あの言葉です。

「主はアブラムに言われた。『あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。』」(創世記12:1)

ヘブライ語で「行きなさい」は 「レフ・レハー(לֶךְ-לְךָ)」 です。
この表現、実はとても深いんです。
直訳すると「あなた自身のために、行きなさい」という意味合いを含むと言われます。

神は命令しているだけじゃない。
「あなた自身のための旅だよ」と、個人的で深い呼びかけをしているような響きがあるんです。

僕はここで考えさせられました。
神は、アブラハムの何を見て、この決定的な旅へと招いたのか?

アブラハムは、この時点では何も成し遂げていません。
大きな信仰の告白をした記録も、特にありません。
ただ、75歳という齢で、見知らぬ地へ「行く」という応答をした。その一点です。

彼の特徴は、完璧な「強い信仰」にあったのではなく、むしろ、不完全だけど「動き出せる」姿勢にあったのではないでしょうか。
神の声を聞き、不安や迷いがあったに違いないのに(聖書はその心情を詳細には書いていませんが)、それでも従い、一歩を踏み出した。

それが、神が彼の内に見出した「人間性」ではなかったかと、僕は思うのです。

神は、すべての答えを持った完璧な人間ではなく、不完全だけど、共に歩み始めようとする者を、ご自身の計画のパートナーとして選ばれた。
アブラハムの物語は、そのことを静かに、そして力強く教えてくれている気がします。

僕自身、自分の欠点や不安ばかりが目について、足踏みしてしまうことがあります。
でもアブラハムのこの一歩は、「すべてが整わなくても、まず応答する一歩を踏み出してみる」ことの尊さを思い起こさせてくれます。
神は、その一歩を待っておられるのかもしれません。

このアブラハムの旅の続きや、モーセ五書に描かれる神と人の驚くべき関係は、僕が漫画で描かせていただいています。
聖書の世界を、より身近に、視覚的に感じていただけたらという思いで、一コマ一コマを描いています。

気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

僕も、この壮大な物語を学びながら、自分自身の「一歩」について、考え続けたいと思います。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#アブラハムの一歩
GRAVITY7
GRAVITY19
なお

なお

「神はアダムを『ひとりぼっち』にしたくないと言った」
〜創世記が教える、あなたが「ひとり」ではない理由〜

僕が創世記を読んでいて、ずっと心に残っている言葉があります。

それは、神がアダムを造られた後の場面です。

「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
(創世記2章18節)

この「ひとりでいるのは良くない」という言葉、原文のヘブライ語ではとても豊かな意味を持っています。

ヘブライ語で「良くない」は לֹא־טוֹב (lo-tov) です。
実は、創世記1章で神が創造を終えられたとき、すべてをご覧になって「非常に良かった」(トーブ・メオッド)と宣言されています。
それが、ここでは初めて「良くない」という言葉が出てくるんです。

僕はこの箇所を読むたびに、胸が熱くなります。

神は、完璧な世界を造られたはずなのに、
ただ一つ「人がひとりでいること」だけを「良くない」と宣言された。
それは、神ご自身が「孤独」を深くご存じだからではないでしょうか。

そして「助け手」と訳される言葉、ヘブライ語では עֵזֶר (ezer) です。
この言葉、実は「下から支える助手」というような弱い立場を表す言葉ではありません。
聖書の中では、神ご自身が私たちの「エゼル」(助け)であると語られることもある、強い力を持つ言葉なんです。

つまり神は、アダムのために「単なるお手伝い」ではなく、
対等でありながら、互いを完全にする存在
を造ろうとされた。

僕はこのことを考えながら、自分の人生を振り返ります。
確かに、一人で頑張ろうとすると、視野が狭くなることがあります。
でも、誰かと共にいることで、見えなかったものが見えてくる。
自分一人では気づけなかった、新しい側面を発見できる。

神が女を造られたのは、
アダムが「孤独」で終わらないため。
彼が、自分とは異なる存在を通して、
自分自身をも、世界をも、より豊かに知るため。

そしてそれは、きっと私たち一人ひとりにも通じる問いかけなのだと思います。

神は今も、
あなたが「ひとりぼっち」でいることを「良くない」と思っておられるのではないでしょうか。

モーセ五書を読むたびに、こうした神の細やかな配慮に気づかされます。
表面的な物語の奥に、人間への深い愛が込められている。

僕自身、まだ学びの途中です。
でも、こんな風に聖書の言葉と向き合う時間が、
少しでも誰かの心に響くなら嬉しいです。

もしこの話が気になった方は、
ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

絵本のような優しいタッチのマンガで、
創世記の世界をもっと身近に感じていただけたら、
これ以上の喜びはありません。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#聖書の問いかけ
GRAVITY4
GRAVITY11
なお

なお

「神の名前を軽々しく唱えてはいけない」本当の理由〜十戒に隠された、神との「近すぎる距離」の危うさ

最近、僕は申命記を読み直していて、ある一節で心が止まりました。

申命記5章11節です。
そこには、十戒の第三戒として、こんな言葉が記されています。

「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」

この「みだりに唱えてはならない」という言葉。
ずっと気になっていました。

なぜ神は、ご自身の名前を唱えることを、これほどまでに禁じたのだろう、と。

「名前」が持つ重み

僕たちは普段、人の名前を気軽に呼びますよね。
友達の名前、家族の名前。
それ自体は、親しみの表現でもあります。

でも、ここで言われている「主の名をみだりに唱える」という行為は、少し違うのです。

ヘブライ語で「みだりに」と訳されている言葉は、「ラッシャー(לַשָּׁוְא)」。
この言葉には、「虚しく」「無意味に」「軽んじて」という意味があります。

つまり、神の名前を、軽々しく、空虚な言葉として、あるいはおまじないのように唱えるな、ということ。
神の存在を、都合のいい呪文のように扱うな、という戒めなのです。

名前は「人格」そのもの

当時の考え方では、名前はその存在の本質を表すものでした。
神の名前を知ることは、神ご自身を知ること。
神の名前を唱えることは、神の存在そのものに触れる行為だったのです。

だからこそ、その名前を「軽く」扱うことは、神との関係そのものを軽んじることになる。
神を、自分の願いを叶えてくれる便利な存在として扱い、真の関係を築こうとしない態度が、ここでは禁じられているのだと、僕は感じました。

「近づく」ことと「軽んじる」ことの間で

僕はこの戒めを読むたびに、一つの問いが胸に浮かびます。

神は確かに、私たちにご自身に近づくことを願っておられます。
でも同時に、近づきすぎて、神を「当たり前」の存在にし、その尊厳を忘れることにも警鐘を鳴らしておられる。

ちょうど、親しい友人を心から敬う気持ちを忘れないように、ということに似ているかもしれません。
近しさが、無礼や軽視に変わってはいけない。

神の名前を唱える時、僕たちはその名前の背後におられる、計り知れない尊い方に、本当に向き合っているだろうか。
それとも、ただの習慣や、形式的な祈りの言葉として、空虚に繰り返しているだけだろうか。

この戒めは、そんな僕自身の祈りの姿勢を、静かに、しかし厳しく問いかけているように思えてなりません。

僕はまだ、モーセ五書の学びの途上です。
一節一節が、予想以上の深さで心に響き、毎日が発見の連続です。

もし、この「名前を唱える」ことの深みや、十戒に込められた神の思いにもっと触れてみたいと思われた方がいらっしゃれば、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

絵と共に読むモーセ五書は、きっと新しい気づきの扉を開いてくれるはずです。
僕も、これからも学びを続けていきます。

#モーセ五書マンガ
#十戒
#神の名前
GRAVITY
GRAVITY7
なお

なお

隣人を愛せよ、と神は言った。それなのに、なぜ宗教は殺し合うのか?

SNSで話題のあの衝突を見るたび、胸が苦しくなります。

同じ創造主を信じる者同士なのに、なぜこれほどまでに傷つけ合うのだろう。
「隣人を愛しなさい」という教えは、どこへ行ってしまったのだろう。

そんな問いを抱えながら、僕は最近『申命記』のある一節と深く向き合っています。

申命記10章19節ー「寄留者を愛せ」という命令

「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であったからである」
(申命記10:19)

ここで言う「寄留者」とは、ヘブライ語で「ゲール」גֵּר といいます。
土地にも血筋にも属さない、文字通り「よそ者」のこと。

この命令が語られた背景を、僕はマンガを描きながら考えました。
イスラエルの人々は、エジプトで長く「寄留者」として、つらく苦しい経験をしました。
自分たちが味わったその孤独と痛みを忘れないために、
神は「寄留者を愛せ」と命じたのです。

ここで使われる「愛する」という言葉は「アハヴ」אָהַב。
単なる感情ではなく、具体的な行動をもって示す愛。
保護し、正義をもって扱い、共に生きることを選ぶ意志的な愛です。

戒律の中にある、深い「記憶」の力

僕がこの節から学んだことは、神の戒律の根底には「記憶」がある、ということです。

「あなたたちも……であったからである」

この言葉がすべてを物語っています。
自分が苦しんだ者だからこそ、他の苦しむ者に手を差し伸べられる。
自分がよそ者であったからこそ、今のよそ者を心から受け入れられる。

では、なぜこの「記憶」が失われ、隣人への愛が戦いに変わってしまうのでしょう。

僕の気づきは、こうです。
私たちは、自分が「寄留者」であったことを忘れ、いつの間にか「土地の主」になってしまうのではないか。
かつての自分に必要なものを与えてくれた「神の愛」を、
今度は自分が与える側として実践するのではなく、
自分の立場や教えを守る「権利」にすり替えてしまっているのではないか。

同じ創造主を信じる者同士で、殺し合いが正当化される時

モーセ五書を読むと、神は確かに戦いを命じる場面もあります。
しかし、それは決して「信仰の異なる者を抹殺せよ」という無差別な命令ではありません。
むしろ、神の正義と契約に基づく、限定的なものでした。

そして、そのような文脈でさえ、神は繰り返しこう言われます。
「寄留者を虐げてはならない。あなたたちもエジプトの国で寄留者であったのだから」

この根源的な記憶と共感が抜け落ちた時、
「神の名」が、自分たちの憎しみや恐怖を正当化する道具にされてしまう。
僕はそう考えずにはいられません。

問いを抱え、共に五書を学ぶことから

僕にすべての答えがあるわけではありません。
今、世界で起きている複雑な対立を、単純に解決できるほど聖書は浅くない。
だからこそ、僕は学び続けています。

モーセ五書は、神と共に生きるとはどういうことか、
隣人とは誰か、を問い続ける書物です。
その問いを、僕はマンガという形で共有したい。
読みやすく、でも核心からは逃げずに。

同じ創造主を信じながら、なぜ私たちは傷つけ合ってしまうのか。
その答えは、もしかしたら「あなたも寄留者であった」という
シンプルすぎるほどの記憶の中にあるのかもしれません。

気になった方は、ぜひAmazonで『モーセ五書 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

僕自身、読者の方々と共に、この難しい問いを五書から学び続けたいと思います。

#モーセ五書マンガ
#隣人愛
#聖書の問いかけ
GRAVITY
GRAVITY7
なお

なお

付き合うなら何歳差までいけますか?付き合うなら何歳差までいけますか?

回答数 521>>

40歳
GRAVITY
GRAVITY14
なお

なお

#片想い
GRAVITY
GRAVITY9
なお

なお

「大切な人ほど疑ってしまう」その心のワナ、創世記3章が教えてくれること

最近、ふと気づくことがあります。
親しい人、特にお世話になっている人に対して、なぜかふとした瞬間に「もしかして……」と疑う気持ちが湧いたり、理由もなくイライラしたりすることはありませんか。

僕自身もそんな経験があって、どうしてだろうと悩んだことがありました。
そんな時、ふと『創世記』の、あの有名な場面が思い浮かんだんです。

エデンの園で、何が起こったのか

創世記3章1節から5節に、こういう出来事が描かれています。
蛇が女(エバ)に近づき、神が「園のどの木からも取って食べてはならない」と言われたことについて問いかけます。

ここで、僕がとても大切だと思うヘブライ語の単語があります。
蛇がエバに言う言葉、「神はほんとうに、『園のすべての木の実を食べてはならない』と言われたのですか」という部分の「ほんとうに」という言葉。
これはヘブライ語で 「アフ」(אַף)という言葉が使われているんです。

この「アフ」には、「本当に?」「まさか?」という、根本を揺るがすような疑いや、ちょっとした嘲りや皮肉のニュアンスが含まれていると言われます。
蛇は、神がエデンの園に人を置き、すべての木の実を食べることを許したという、大きな恵みと信頼の事実には一切触れません。
代わりに、たった一つの禁止事項だけをクローズアップして、「ほんとうに? そんなこと言ったの?」と、神の言葉とそのお心への疑いの種を、そっと植え付けるんです。

疑いは、恵みを忘れるところから始まる

僕はここに、とてもはっきりした構造を見る気がします。
蛇は、エバが毎日享受していた大きな恵み──安全な場所、豊かな食物、何より神との親しい交わり──については完全に無視します。
そして、たった一つの制限だけを強調して、「この制限があるのは、あなたのためじゃないかもしれないよ」と囁く。

これは、私たちの人間関係にも通じるところがあると思いませんか。
親密な人、特に多くの恵み(世話や支え、愛)を与えてくれている人に対して、私たちは時に、その膨大な恵みを当たり前のように思い、感謝の記憶が薄らいでしまいます。
その状態の心に、ほんの小さな「もしかして……」という疑い(「アフ」)が入り込むと、すべての関係がその疑いを通して歪んで見え始める。
そして、その疑いが怒りや憎しみへと変容していくのではないでしょうか。

エバはこの「アフ」の問いかけに乗ってしまい、神の言葉を少し自分流に言い換え(3章3節)、ついに禁断の実に手を伸ばしてしまいます。
その根底には、自分を園に置き、すべてを与えてくださった神への信頼が、わずかな疑いによって覆い隠されてしまったことがあったように思えてなりません。

僕自身への問いかけ

この創世記3章の出来事を読み直すたびに、僕は自分に問いかけます。
「今、自分が享受しているこの関係、この恵みを、きちんと心に留めているだろうか」
「小さな『アフ』(疑い)に耳を傾ける前に、圧倒的な恵みの事実を思い出せているだろうか」と。

疑いや怒りが湧いた時、それはむしろ、それだけ深い関係性の中で多くのものを与えられていたという「証」なのかもしれません。
そして、その感情とどう向き合うかのカギは、エデンの園で起きたことを逆にたどること──まず、与えられてきた確かな恵みを、心を込めて思い出すことから始まるのだと、僕は学び始めています。

モーセ五書を学ぶことは、こうした人間の心の根源的な動きを、深く、そして優しく照らし出してくれます。
僕自身、毎日が新たな気づきの連続です。

もしこのような、聖書の言葉に触れることを通した心の発見に興味を持たれた方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
僕の学びの旅路を、少しでも多くの方と共にできたら嬉しいです。

#創世記の人間心理
#モーセ五書マンガ
#聖書から学ぶ関係性
GRAVITY
GRAVITY24
なお

なお

なぜ「たった一回」のミスで約束の地に入れなかった?モーセの岩を打った話から見る神との関係性

僕は最近、こんな自分自身の経験を思い返していました。

ついカッとなって、大切な人にきつく言ってしまった後、「ああ、またやってしまった…」と後悔する瞬間です。

その時、聖書の中のモーセの一つのエピソードが、以前よりも深く胸に刺さるようになりました。

民数記20章に記された「水が出る岩」

荒野を旅するイスラエルの民が、またしても水がないと不平を言い始めました。

その時、神はモーセにこう命じられます。

「杖を取り、兄弟アロンと共に民衆の前に進み出よ。彼らの目の前で岩に命じて水を出させなさい」(民数記20章8節、大意)

ここでヘブライ語原文を見ると、神が命じた言葉に注目すべき点があります。

神は「岩に命じなさい」と言っています。

ヘブライ語で「命じる」を意味する「דַּבֵּר」(ダベール)は、言葉で語りかけることを指します。

つまり、神はモーセに「岩を打て」ではなく、「岩に言葉で語りかけよ」とお命じになったのです。

モーセの「二度打ち」

しかし、モーセはどうしたでしょう。

彼は民の前でこう叫びました。「聞け、反抗する者たちよ。われわれがこの岩から、あなたがたのために水を出さねばならないのか」(同10節、大意)

そして、岩を二度、杖で打ったのです。

確かに水は出ました。民と家畜は飲むことができました。

でも、僕がこの場面を読むたびに感じるのは、モーセの行動の中にある「わずかな、しかし決定的なズレ」です。

神は「岩に語りかけよ」と命じられたのに、モーセは「われわれが…出さねばならないのか」と言い、岩を打ちました。

その「二度」という動作の中に、僕はつい見逃してしまいそうな重大なことが隠れている気がしてなりません。

カナンの地に入れなかった理由

神はその後、モーセとアロンにこう宣告されます。

「あなたがたはわたしを信じず、イスラエルの人々の目にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが与えた地に導き入れることはできない」(同12節、大意)

たった一度の、岩を二度打った行為。

なぜそれが、約束の地カナンに入れないという、これほどまでに重い結果につながったのでしょう。

僕が思うに、ここでの核心は「行為そのもの」よりも、「行為に表れた心の姿勢」にあるような気がします。

モーセはその瞬間、神の指示を正確に伝える「器」としてではなく、民の不平に苛立ち、自分自身の力と権威を示そうとしてしまったのではないか。

「神の聖なること」を民の前に現すべきところを、「自分たち」を前面に出してしまった。

そのわずかなズレが、神との関係における決定的な違いを生んでしまったのだと、僕は感じずにはいられません。

僕自身に問いかけること

この話を読むたび、僕は自分自身に問いかけます。

自分もまた、神に委ねるべき場面で、つい自分の力や方法に頼ろうとしていないか。

人々の前に立つ時、神の栄光を現すよりも、自分の正しさや能力を示そうとしていないか。

モーセのこのエピソードは、神と共に歩むことがいかに細やかで、全人格的な関わりを求めるものかを教えてくれます。

たとえ長年信仰の道を歩んできた者でも、一瞬の心の緩みが、神との関係を損なうことがある。

それほどまでに、神は私たちの「心の向き」を大切にしておられるのだと感じます。

---

僕は今、モーセ五書をマンガで学び直しています。

一つの場面、一つの言葉の重みを、じっくりと味わいながら。

もしこのモーセの物語に興味を持たれた方がいらっしゃったら、ぜひマンガ版でその深みを感じてみてください。

気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#民数記
#神との歩み
GRAVITY4
GRAVITY23
なお

なお

ゼレドの川を渡る意味~約束の地への「本当の入り口」はどこにあるのか?

聖書を読んでいると、細かい地理の違いに「なぜ?」と感じることがありますよね。
先日、読者の方からご指摘をいただき、僕自身もあらためて学び直したことがあります。
実は、約束の地への境界には重要な二つの川があるんです。

ヨルダン川とゼレド川、その決定的な違い

確かに、一般的に「約束の地に入る」と言えば、ヨルダン川を渡る場面を思い浮かべます。
ヨシュア記のクライマックスですからね。

しかし申命記2章13節を見ると、主がこう言われています。
「さあ、立って、ゼレドの川を渡れ。わたしたちはゼレドの川を渡った。」
この「ゼレドの川」を渡ることが、38年ぶりの決定的な一歩だったのです。

ここで、僕は地図を広げてみました。
すると、ゼレド川は死海の東側、現在のヨルダン国内を流れる川で、約束の地の東の境界線の一つでした。
一方、ヨルダン川はその西側、カナンの地そのものへの入り口です。

つまり、ゼレド川を渡るということは、「約束の地の境界地域に入ること」であり、そこからさらに進んでヨルダン川を渡り、「カナンの地そのものに入ること」が次の段階だったのです。

ヘブライ語が示す「境界」の重み

申命記2章13節の「渡れ」という命令のヘブライ語は「イブルー」(עִבְרוּ)です。
これは「通過する」「向こう側へ行く」という意味で、単なる地理的な移動以上の、象徴的な意味合いを持っています。

38年の荒野の旅を終え、ついに「約束の地の境界」であるゼレド川を渡る。
これは、単なる移動ではなく、「神の約束の領域へ足を踏み入れること」を意味する決定的な瞬間でした。

僕はここに、深い象徴性を見いださずにはいられませんでした。
私たちの信仰の歩みにも、「ゼレドの川」のような境界線があるのではないでしょうか。
完全な約束の成就(ヨルダン川渡渉)の前段階として、まず「約束の領域の入口」(ゼレド川渡渉)に立つ時がくる。

その一歩一歩が、神様の計り知れない導きの中にあるのだと感じます。

「あの川」を渡る勇気

申命記2章14節には、こう続きます。
「カデシュ・バルネアを出てから、ゼレドの川を渡るまでに、三十八年かかって、そのときまでに、宿営のうちの戦士たちがことごとく滅びうせた」

38年かかって、ようやくゼレドの川にたどり着く。
それだけの時間を必要とするほどの、信仰の「準備期間」があったのです。

古い世代の戦士たちが滅び、新しい世代が育ち、いよいよ約束の地の境界を目の前にする。
このゼレドの川を渡る決断は、ヨルダン川を渡るための「予行演習」であり、「信仰の宣言」でもあったのだと思います。

私たちの人生にも、「ゼレドの川」と呼べるような境界線があるかもしれません。
完全な約束の成就の前に、まずその入口に立つことを求められる時。
そこで必要なのは、38年の待ち時間を経て与えられた「今、一歩を踏み出す勇気」ではないでしょうか。

このモーセ五書を描き、学びながら、僕自身も多くの「ゼレドの川」と向き合っています。
一歩を踏み出すための信仰が、少しずつ与えられていくのを感じます。

もしこの荒野の旅路に興味を持たれたら、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めるマンガ版で、この深い旅路を共に追体験できたらと思います。

#モーセ五書マンガ
#申命記の地理
#ゼレドの川
GRAVITY
GRAVITY20
なお

なお

この一節に全てが詰まっていた。「申命記」って何の本?

最近、僕はある一つの聖句にずっと引き込まれています。
申命記6章4節。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」

この言葉、ユダヤ教では「シェマ」と呼ばれ、最も大切な祈りの一つです。
「シェマ」とはヘブライ語で「聞け」という意味。
ただ音として耳に入れるのではなく、心を澄まして、全身で受け止めよ、という強くて深い呼びかけです。

「主は唯一」というヘブライ語は「アドナイ エハド」。
この「エハド」は、単なる数学的な「一」ではなく、調和した統一性を表す言葉だと言われています。
神はばらばらではなく、すべてを結び合わせ、関係性そのものであるような「一」。
この一節だけで、申命記、いや聖書全体の核心に触れる気がするのです。

僕がこの言葉に込められた重みを感じたのは、それが単なる教えではなく、約束の地を目前にしたモーセが、これから様々な誘惑や困難に直面する民に、何としても伝えたい「命綱」のようなものだったからです。
エジプトでの奇跡も、荒れ野での試練も、すべてはこの「聞く」姿勢と、唯一の神との関係性の中で意味を持つ。
申命記は、歴史の繰り返し叙述ではなく、その核心を「今、ここで」生きる民へと更新し、受け継ぐための書なのだと気付かされました。

だからこそ、申命記には「覚えていなさい」「忘れてはならない」という言葉が何度も繰り返されます。
それは過去に囚われろという意味ではなく、あなたがたの「今」は、この神との出会いと契約の延長線上にある、ということを刻み込むため。
祝福と呪いが語られるのも、それが遠い神の裁きではなく、私たちの選択が今ここに生きる関係性を形作っていく、という厳粛な現実だからです。

僕はまだ、この「聞く」という姿勢を、自分の生活の中でどう生きるか、模索しているところです。
スマホに流される情報をただ受け取るのではなく、心を澄まして、本当に聞くべきことは何か。
バラバラになりがちな日常の出来事を、どんな「一」へと結びつけていくのか。
申命記は、そんな根本的な問いを、僕の胸に静かに、しかし確かに置いてくれました。

このモーセの最後の説教に込められた切実さや、神と人との関係性の深さは、言葉で読むだけではなかなか伝わりづらいものもあります。
僕自身、石川尚寛さんの「モーセ五書マンガ」で、モーセの老年のまなざしや、民への思いがビジュアルで表現されているのを見て、ハッとさせられることがたくさんありました。
気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#申命記
#シェマイスラエル
#モーセ五書マンガ
GRAVITY
GRAVITY14
なお

なお

金沢といえば温泉♨️
これからテルメに行くか、アパスパに行くか、満天の湯に行くか思案中
GRAVITY1
GRAVITY23
なお

なお

神は正月なのに…なぜ「嘆きの期間」がセットなの? ユダヤ暦の深い智慧

新年って、なんだかワクワクしますよね。

僕も毎年、新しい手帳を開くときは、今年こそ!と気持ちが引き締まります。でもふと、ユダヤの正月について学んでいたとき、あることに気がついたんです。

お祝いの「正月」と、嘆き悔い改めの期間が、セットになっているという事実に。

神が定めたこのリズムには、どんな意味が隠されているのだろう。その問いを胸に、僕はもう一度、モーセ五書の神の言葉に耳を傾けてみることにしました。

新年のラッパと、静かな嘆き

ユダヤの正月、ローシュ・ハシャナは、秋の祭りです。

その中心にあるのは、ショファールという雄羊の角笛を吹き鳴らすこと。旧約聖書・レビ記23章24節には、こう記されています。

「第七月の一日には、あなたがたのために全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合としなければならない」

ここで「ラッパ」と訳されているヘブライ語は、テルーアー。これは、震えるような、あるいは泣くような不連続音を指します。単なるファンファーレではなく、魂に響く「呼びかけ」の音色です。

このラッパの音は、何を記念し、何を呼び覚ますためのものなのか。

僕がこの箇所を読んでいて強く感じたのは、神が単に「新年おめでとう」という区切りを設けたのではなく、そこに深いプロセスを埋め込まれたのではないか、ということです。

十日間の「隙間」が問いかけるもの

実は、この正月(第七月一日)から、贖罪の日・ヨム・キプール(第七月十日)までの十日間があるのです。

ユダヤの伝統では、この期間をヤミーム・ノライーム、「畏れの日々」やアセレット・テシューバー、「悔い改めの十日間」と呼びます。

新年の喜びと、贖罪の厳粛さ。この二つの祭りの間に、神はわざわざ十日間という「隙間」を設けられた。

なぜでしょう。

僕はこう考えます。神は、私たちが新しい歩みを始めるとき、ただ前を見て突き進むだけではなく、一度立ち止まり、振り返る時間をどうしても必要とされるのではないか、と。

ラッパの音は、そのための「起床ベル」です。「さあ、目を覚ましなさい。あなたの日々、あなたの歩みを、わたしと共に見つめ直す時だ」という神の優しくも厳しい呼びかけ。

嘆きや悔い改めは、単なる過去の後悔ではありません。神の前に正直になることで、本当に清い心で、新しい一年の「門」をくぐるための、神が用意された尊いプロセスなのです。

心を整えて、門をくぐる

つまり、神が設けられたこの「嘆きの期間」は、新しい年にただ流れ込むのでなく、意図を持って入っていくための準備期間なのだと、僕は学びました。

新年のラッパは、「さあ、始めよう」という合図であると同時に、「その前に、わたしと共にあなたの心を整えなさい」という招きの音でもある。

これは、今を生きる私たちにも通じる大切なリズムではないでしょうか。

新しい目標を掲げるとき、新しい一歩を踏み出すとき、私たちはつい、すぐに結果を求めて走り出してしまいがちです。でも、神がユダヤの正月に教えてくださっているのは、歩みの質は、その前の「心の準備」で決まるということ。

どれほど祈り、どれほど自分自身と神の前に正直になり、心を整えるか。そこに、これから始まるすべての意味がかかっている。

このことを、モーセ五書は静かに、しかし確かに語りかけています。

僕はまだ、このリズムを自分の生活に完全に取り入れることはできていません。でも、何かを始めるとき、少し立ち止まり、目を閉じて、自分の心の向きを確かめる時間を持つようにはなりました。

それが、神と共に生きる、ほんの小さな一歩なのかもしれないと思うのです。

---

神の言葉には、私たちが気づいていない、深い生活の智慧が溢れています。今回の気づきも、僕がマンガで描かせていただいているモーセ五書を読み、考えたことの一つです。

もっと一緒に聖書の世界を探求してみたい、という気持ちが湧いた方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。

無料で読めますし、創世記から続きもどんどん公開しています。神が用意された、この深いリズムと知恵を、ともに学んでいきましょう。

#ユダヤの正月の秘密 #悔い改めの十日間 #モーセ五書と生きる智慧
GRAVITY
GRAVITY17
なお

なお

血液型は何?血液型は何?

回答数 90>>

A型
GRAVITY
GRAVITY9
なお

なお

【今日から変わる】神がモーセに教えた「今、ここ」を生きる極意 〜出エジプト記3章14節の深い意味〜

僕が見つけた、「今、ここ」を生きる言葉

最近、僕はよく考えます。
明日の仕事のことが気になって、目の前のコーヒーの味がわからない。
過去の失敗が頭をよぎって、今やるべきことに集中できない。
そんな「今、ここ」から心が離れてしまう瞬間が、たくさんあるなと。

そんなある日、モーセ五書を読み返していて、神様がモーセに語られた一節で、はっとさせられたんです。
それが、出エジプト記3章14節。
神が燃える柴の中からモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトから導き出す使命を告げる、あの有名な場面です。

モーセは神に尋ねます。
「彼らが『あなたを遣わしたのはどんなお方ですか』と私に尋ねるとき、私は何と答えたらよいでしょうか」
すると神はこう答えられました。
「わたしは『わたしはある』という者である」。

僕はずっと、この「わたしはある」という言葉を、神の自己紹介、あるいは神秘的な宣言としてしか捉えられていませんでした。
でも、ヘブライ語の原文を見て、その意味の深さに気づかされたんです。

原文は 「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה)。
これを直訳すると、「わたしは、わたしがそうありつづけるものでありつづける」というような、とても動的で「在り続ける」という現在進行形の響きがあります。
神の名前の核心は、「在る」という状態そのもの。
しかも、それは過去や未来に限定されない、まさに「今、ここ」に在り続ける「在り方」を表しているんだ、と学びました。

神はモーセに、「わたしは『今、ここであなたと共に在る者』だ」と語りかけていた。
壮大な歴史の計画を前に、不安でたまらなかったモーセに、神が伝えたかったのは、「未来の結果」ではなく、「今、この瞬間に、わたしが共に在る」という確かな現実だったんじゃないか。
僕はそう思うようになりました。

僕たちは、モーセのように大きな使命を前にしているわけではないかもしれません。
でも、目の前の小さな課題、人間関係、自分の内なる不安に直面した時、「今、ここ」から心が離れ、足がすくむことはあります。
そんな時、この「エヘイェ」という言葉を思い出したい。
神は、「今、ここに在る」ことをご自身の名前の本質にまで高められた。
ならば僕も、過去の後悔や未来の不安に心を奪われるのではなく、「今、ここ」に自分が在ること。
そして、その「今、ここ」に、支えや意味を見出してくださる方が共に在ることを、信じて一歩を踏み出してみよう。

そう思わせてくれる一節でした。


聖書の言葉は、時代を超えて、僕たちの「今」に直接語りかけてくる力がある。
モーセ五書には、こんな気づきの瞬間が、まだまだたくさん眠っているように感じます。
僕自身も、この学びを続けていきたい。

もし、このモーセと神の出会いの物語を、もっと鮮やかに、臨場感を持って感じてみたいと思われた方がいらっしゃったら。
ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
マンガという形だからこそ伝わる、神とモーセの「今、ここ」での対話を、感じていただけたら嬉しいです。

#今ここを生きる
#モーセ五書マンガ
#聖書の気づき
GRAVITY
GRAVITY19
なお

なお

「これでいいのかな」が心を占めるときに、思い出したい一節。創世記の一コマから学んだ、不安に押しつぶされない生き方

こんにちは、石川尚寛です。

昨日、ふと立ち止まってしまいました。目の前にはいくつも締め切りが迫っているのに、手が全く動かない。頭の中をぐるぐると、「間に合わないかもしれない」「これで本当にいいのだろうか」という思いが駆け巡るばかり。そんな自分がいて、ただ窓の外をぼんやり眺めていました。

ふと、そんな「行き詰まった自分」と重なる聖書の一場面を思い出したんです。それは『創世記』の、あの有名な物語の、少し意外な「その後」の部分でした。

僕が向き合ったのは、創世記32章の場面です。兄エサウと、長い年月を経て再会する前夜のヤコブの物語です。彼はかつて兄を騙し、祝福を奪いました。明日はその兄との対面。当然、報復されるかもしれない恐怖に満ちています。

ここで僕が注目したのは、32章22節から24節の一連の流れです。特に24節にはこうあります。「ヤコブはひとりあとに残った。すると、ひとりの人が、夜明けまで彼と格闘した。」(新改訳2017)この「格闘する」という行為、ヘブライ語の原文では「אָבַק (avaq)」という言葉が使われています。

この「אָבַק (avaq)」には、「もみ合う」「取っ組み合う」という物理的な格闘の意味と同時に、とても興味深いことに、「塵(ちり)を巻き上げる」という語源的な意味があるそうです。激しい取っ組み合いで砂塵が舞い上がる様子が、言葉そのものに込められているんですね。

これを読んだ時、僕はハッとしました。ヤコブは、不安や恐怖で頭がいっぱいになり、夜も眠れず、一人もがいていました。彼の心の中は、あの「אָבַק (avaq)」が象徴するように、「これでいいのか」「どうなるのか」という思いの「砂塵」で、何も見えないほどかき乱されていたのではないでしょうか。

でも、彼はその「砂塵」の中で、ただじっと不安に耐えていただけではありませんでした。彼はその混沌の中で、自ら「取っ組み合い」を選んだ。それは神との取っ組み合いでした。彼は自分の恐れや不安、過去の後悔をすべて抱え込み、それでも「祝福をください」と、夜明けまで神にしがみついたのです。

僕が窓辺で立ちすくんでいた時、心の中で巻き上がっていたのは、まさにその「不安の砂塵」だったな、と気づかされました。そして、ヤコブが教えてくれたのは、その砂塵の中でただうずくまるのではなく、その混沌自体を、神との対話のきっかけに変えていく可能性でした。

不安は、心を曇らせる塵になることもあれば、それ自体が「取っ組み合い」の始まり、自分の中の本心と、そして大きな存在と、真正面から向き合うための入り口になる。そう思うと、あの行き詰まった感覚が、少しだけ違って見えてきました。

今、自分が抱えているこの「もやもや」と、どう向き合おうか。逃げずに、しかし押しつぶされずに、そこにどんな「取っ組み合い」の可能性が隠れているだろう。僕はまだ答えを持っていません。でも、少なくとも、あの時のヤコブのように、夜明けまで「取っ組み合う」覚悟だけは、持ち続けたいと思っています。

聖書の言葉は、時にこんな風に、数千年の時を超えて、現代の僕らの心のうつろいを深く照らし出してくれます。もしこの創世記の物語、とりわけ人間くさいヤコブの歩みに興味を持たれた方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。僕自身、描きながら多くの気づきをいただいている物語です。

#創世記 #聖書マンガ #不安との向き合い方 #モーセ五書
GRAVITY
GRAVITY28
なお

なお

今日は午前中に整理整頓して、
午後はステーキか、貝のお刺身を買って
昼酒して寝たい気分
GRAVITY
GRAVITY25
なお

なお

隣人を愛するって、結局どういうこと?

こんにちは、石川尚寛です。

先日、コンビニで小さなできごとがありました。僕の前に並んでいたお年寄りの方が、小銭を探しながらもなかなか見つからず、後ろに行列ができ始めたんです。その時、後ろにいたサラリーマンの方が、さりげなく「大丈夫ですよ、ゆっくりで」と声をかけ、自分も一緒に待っていました。ふと、その場の空気が優しいものに変わったのを感じたんです。

帰り道、その光景が頭に残っていました。ほんの少しの思いやりが、その場をどれほど軽やかにするのだろう、と。そして、ふと聖書の一節が心に浮かんだんです。レビ記の、あの言葉です。

僕が今、マンガで描きながら学んでいるモーセ五書のうち、レビ記19章18節にはこんな教えがあります。

「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛さなければならない。わたしは主である。」

ここで「愛する」と訳されているヘブライ語は、「アハヴ」(אָהַב)です。この言葉、単なる感情としての「好き」というより、もっと能動的で、意志的な「愛し行動する」という意味合いが強いんです。選択であり、実践なのです。

そして「隣人」と訳された「レア」(רֵעַ)という言葉。これは文字通り「隣に住む人」だけでなく、出会う人、関わる人、つまり自分の周りにいるすべての人を指します。コンビニで出会った、あの見知らぬお年寄りも、サラリーマンの方も、まさに「レア」だったわけです。

この教えの前に、「復讐するな」「恨みを抱くな」とあるのが、とても興深いなと思いました。神が勧めている利他の実践は、ただ「親切にしましょう」という精神論ではなく、まず自分の中にある「復讐心」や「恨み」といった、他者を遠ざけ、傷つける心に気づき、そこから解放されることから始まるのではないか、と。

「あなた自身のように」愛しなさい。
これは、自分を大切にできるからこそ、他者にも同じように心を向けられる、という逆説的な知恵のように感じます。自分を責め、貶めながらでは、本当の意味で他者を慈しむことは難しい。自分への誠実さが、他者への誠実さの土台になる。

あのコンビニで、サラリーマンの方が取った行動は、特別なことではなかったかもしれません。でも、その「さりげなさ」こそが、レビ記の教えの本質に近い気がするんです。大げさな自己犠牲ではなく、日常の一瞬一瞬で、目の前の「隣人」に対して、ほんの少し心を開き、手を差し伸べる選択。神は、そんな実践の積み重ねの中に、共に生きる社会の基盤があることを、教えてくれているように思います。

僕はまだ、レビ記を学びながら、この「アハヴ」という能動的な愛を、自分の生活の中でどれだけ実践できているのか、問い直す日々です。あなたの「隣人」は、今日、どこにいますか?

気になった方は、ぜひAmazonで「レビ記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#レビ記の教え
#隣人を愛する
GRAVITY
GRAVITY19
なお

なお

「神様を恐れる」って、怖いことだと思っていました。

こんにちは、石川尚寛です。
皆さんは、誰かにじっと見られていると緊張してしまうことってありませんか。
僕は以前、車の運転をしている時にパトカーとすれ違うと、何も悪いことはしていないのに、なぜかドキッとしてハンドルを握る手に力が入ってしまうことがありました。
「怒られるんじゃないか」「罰を受けるんじゃないか」

そんなふうに、相手の顔色をうかがってビクビクしてしまうこと。僕は長い間、聖書に書かれている「神を恐れる」という言葉も、これと同じような意味だと思っていたんです。
神様に見張られていて、少しでも間違ったら叱られる。だから震えながら従う。そんなイメージを持っていました。

でも、モーセ五書、特に「創世記」を漫画にするためにじっくりと読み込んでいくうちに、僕の中でのそのイメージが少しずつ変わっていったんです。
今日は、僕が創世記の物語を通して出会った、少し新しい「恐れ」の感覚について、皆さんと分かち合えたら嬉しいなと思います。

僕がハッとさせられたのは、創世記22章12節の言葉です。
ここは、アブラハムという人が、自分の最愛の一人息子イサクを神様に捧げようとする、とても緊迫した場面です。その直前で神様が彼を止め、こう言われます。
「あなたが神を恐れる者であることを、私は今、知った」
この「恐れる」という言葉。

ヘブライ語の原文では「ヤレー(yare)」という言葉が使われています。
確かにこれには「怖がる」という意味もあるのですが、深く調べていくと、単なる恐怖心とは少し違うニュアンスが見えてきました。
それは「畏敬(いけい)」、つまり、あまりにも偉大な存在を前にした時に、自然と頭が下がったり、息をのんだりするような感覚です。

面白いことに、この場面でアブラハムは、この場所を「アドナイ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けます。この「イルエ」という言葉は「見る」という意味を持っています。
実はヘブライ語では、「恐れる(yare)」と「見る(ra’ah)」という言葉は、音がとても似ていて、深いところでつながっているそうなんです。
僕はここで、ふと気づかされました。

アブラハムにとって「神を恐れる」とは、お化けや猛獣に怯えるようなことではなかったんじゃないか。
そうではなくて、「神様が今、私をしっかりと見ておられる」ということを、全身で感じることだったのではないか、と。
僕たちは日常生活の中で、誰も見ていないところでは、つい気が緩んだり、時には自分勝手な振る舞いをしてしまいそうになります。逆に、人目があるところでは、よく見られようと背伸びをしてしまいます。

でも、アブラハムの姿を見ていると、彼は誰がどう思おうと関係なく、ただ神様という「たった一人の方」の視線を意識して生きていたように思うんです。
それは、監視カメラで見張られているような冷たい視線ではありません。
自分の最も大切なものを手放してでも信頼できるような、そんな圧倒的な愛を持った方が、自分のすべてを「見て」いてくださる。
その視線を常に感じて生きること。

神様の存在を、目の前の現実よりも「リアル」に感じること。
それが、聖書が教えてくれる「神を恐れる」ということの正体なのかもしれない、と僕は思うようになりました。
そう考えると、なんだか肩の力が抜けていくような気がします。
ビクビクして縮こまるのではなく、むしろ「神様が見ていてくださるから大丈夫だ」と、背筋がスッと伸びるような感覚です。

誰にも理解されないような苦しい時も、孤独を感じる時も、神様だけは見ていてくださる。
その安心感の中で、嘘をつかず、誠実に生きていこうとすること。それが、僕たちが今日からできる「神を恐れる」方法なのかもしれません。
僕自身、まだまだ人の目ばかり気にしてしまう弱いところがあります。
だからこそ、アブラハムのように、神様の愛ある眼差しだけを意識して歩んでいきたい。そう願いながら、今日も聖書の言葉に向き合っています。

皆さんは、今日、どんな時に神様の視線を感じるでしょうか。
もし、この創世記の物語をもっと深く味わってみたいなと思われた方は、僕が描いた漫画も読んでみてください。
気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY15
なお

なお

小さな不安から見えた「信じる」ということ

こんにちは、石川尚寛です。
最近、夜にふと目が覚めてしまうことがありました。理由は特にないのですが、静かな部屋の中で「この先どうなるんだろう」と漠然とした不安が浮かんでしまうのです。眠れない時間は長くはないのですが、その瞬間だけは心が揺れてしまいます。そんな時に思い出したのが、創世記のある場面でした。

創世記15章6節。「アブラハムは主を信じた。すると、それが彼の義と認められた。」
この短い一節に、僕は立ち止まらされました。ヘブライ語原文では「וְהֶאֱמִן בַּיהוָה」(vehe’emin b’Adonai)と書かれています。「信じた」という動詞は「アーマン(אָמַן)」から来ていて、もともとは「支える」「揺るがない」という意味を持っています。つまり、アブラハムが神を信じたというのは、ただ心の中で「そうだ」と思ったのではなく、存在そのものを委ねて支えられることを選んだ、というニュアンスがあるのです。

僕はこの言葉に触れて、自分の不安が消えるわけではないけれど、「支えられている」という感覚を思い出しました。信じるとは、未来を完全に理解することではなく、揺れる心をそのまま差し出して、支えに身を置くことなのかもしれません。アブラハムもまた、約束がすぐに見えたわけではなく、ただ「信じる」という行為を選んだ。その姿に、僕自身の小さな夜の不安が重なって見えました。

この一節を読むたびに、僕は「信じる」ということを新しく問い直しています。信じるとは、方法ではなく、日々の中で「支えられている」と感じる瞬間を受け取ることなのだと。まだ答えは出ていませんが、その問いを持ち続けること自体が、僕にとっての学びになっています。

気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY15
なお

なお

神を愛するってどういうこと?申命記からの小さな気づき

こんにちは、石川尚寛です。
この前、夜遅くに帰宅したとき、家の灯りがぽっと迎えてくれる瞬間がありました。誰もいない部屋なのに、不思議と安心して「帰ってきた」と思える。小さな灯りなのに、心が支えられるような感覚でした。その経験が、なぜか申命記の言葉に心を向けさせてくれました。

申命記6章5節には「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とあります。ヘブライ語原文では「בכל־לבבך ובכל־נפשך ובכל־מאדך」(ベコル・レヴァヴカ、ウベコル・ネフェシュカ、ウベコル・メオデカ)と書かれています。ここで使われている三つの言葉は、それぞれ人間存在の異なる層を表していると知りました。

「心(levav)」は古代ヘブライ語では感情だけでなく、思考や意志の中心を意味します。つまり、考えや選択のすべてを神に向けること。
「魂(nefesh)」はもともと「息」や「生命」を表し、存在そのものを指します。命そのものを神に委ねること。
「力(me’od)」は直訳すると「非常に」という副詞ですが、ここでは持てる力や資源、行動を意味します。日常の行動や具体的な力を神に向けること。

この三つを並べることで、申命記は「部分的な愛ではなく、存在のすべてを神に向ける」ことを強調しているのだと感じました。僕にとっては、灯りに安心を覚えたあの瞬間のように、全存在で「ここにいる」と応答することが、神を愛することの小さな入り口なのかもしれません。

まだ僕はその方法を完全に理解しているわけではありません。でも、この聖句を通して、愛は感情だけでなく、考え方、命の使い方、日々の行動まで含まれるんだと少しずつ学んでいます。これからも申命記を読みながら、自分の心と行動を重ね合わせる練習を続けていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#申命記から学ぶ
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY11
なお

なお

片づけられない僕と創世記の言葉

こんにちは、石川尚寛です。
部屋の片隅に積み上げた本や紙袋を見て、ため息をつくことがあります。買ったものをうまく使い切れず、気づけば散らかってしまう。浪費癖と整理整頓の苦手さは、僕の日常の悩みのひとつです。そんな自分を見つめているとき、ふと創世記のある言葉に心が向かいました。

創世記2章15節には「主なる神は人を取り、エデンの園に置いてそれを耕し、守らせた」とあります。ヘブライ語では「לעבדה ולשמרה」(le’ovdah u’leshomrah)と書かれています。「avodah」は「仕える」「耕す」という意味を持ち、「shamar」は「守る」「整える」というニュアンスを含みます。人はただ園に住むだけではなく、耕し、守り、秩序を保つ使命を与えられていたのです。

僕はこの言葉を読むと、自分の散らかった部屋が小さな「園」に見えてきます。浪費してしまう癖も、整理できない弱さも、神の前では隠せない現実です。でも「耕し、守る」という言葉は、完璧に片づけることを求めているのではなく、「少しずつ整える」方向へ僕を招いているように感じます。余計なものを買わないことも、散らかった机を一枚ずつ片づけることも、園を守る小さな行為なのだと思うと、心が少し軽くなります。

浪費癖や整理整頓の苦手さは、僕にとって「呪われた地」のような抵抗です。でも創世記の言葉は、その抵抗の中で「なお耕し、なお守れ」と響いてきます。僕はその響きを受け止めながら、今日も少しずつ片づけを続けたいと思います。

気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY8
なお

なお

「荒野にて記録された民数記の意味」

こんにちは、石川尚寛です。
この前、ふと立ち止まって「自分はいまどこにいるんだろう」と考える瞬間がありました。日常の中で迷いを感じるとき、まるで荒野に立っているような心細さがあるものです。そんな気持ちが、民数記を読み返すきっかけになりました。

民数記の原題はヘブライ語で「בְּמִדְבַּר」(ベミドバル)、直訳すると「荒野にて」という意味です。日本語では「民数記」と呼ばれ、数えることに焦点が当てられていますが、実際には荒野での人々の歩みが中心に描かれています。たとえば民数記14章9節には「אַךְ בַּיהוָה אַל־תִּמְרֹדוּ וְאַתֶּם אַל־תִּירְאוּ אֶת־עַם הָאָרֶץ」(アク・バアドナイ・アル・ティムルドゥ・ヴァアテム・アル・ティルウ・エト・アム・ハアレツ)とあります。「ただ主に逆らってはならない。地の民を恐れてはならない」という意味です。荒野で恐れに包まれる人々に向けて、恐れを超えて歩むことが示されています。

僕はこの言葉に触れながら、荒野とは外の世界だけでなく、自分の心の中にもあるのだと感じました。迷いや孤独、不安に立たされるとき、それは荒野を歩いているようなものです。民数記が記録されたのは、そんな荒野の中で人々がどう生き、どう希望を見出したかを未来に伝えるためだったのではないでしょうか。数えること以上に、「荒野にて」という題が示すように、人間の心の旅路がそこに刻まれているように思えます。

これからも僕は、荒野に立たされるような瞬間を恐れずに、その中で自分の心を見つめ直していきたいです。
気になった方は、ぜひAmazonで「民数記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#荒野にて
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY10
なお

なお

「損をしたくない」と思ってしまう、そんな僕の心に響いた言葉

こんにちは、石川尚寛です。
急に寒くなってきましたが、みなさん風邪など引かれていませんか。僕は先日、友人のためにちょっとしたプレゼントを選んでいたときのことです。素敵なものを見つけて「これだ!」と思った瞬間に、ふと値札を見てしまい、一瞬だけ手が止まってしまったんです。

「あ、予算より少し高いな」
そう思った途端、さっきまでの「喜んでもらいたい」という純粋な気持ちの横に、「自分の財布が痛む」という計算高い自分が顔を出しました。結局そのプレゼントを買ったのですが、帰り道、あの一瞬の躊躇(ちゅうちょ)がなんだか恥ずかしくて、少し落ち込んでしまったんです。

人に何かを与えるとき、どうしても「減る」とか「損をする」と考えてしまう。そんな自分の心の狭さに直面したとき、ふと開きたくなったのが「申命記(しんめいき)」の言葉でした。
申命記は、エジプトを出た民が約束の地に入る直前に語られた、とても熱のこもったメッセージの記録です。その中の15章10節に、今の僕の心を見透かしたような言葉がありました。

そこにはこう書かれています。「彼に必ず与えなければならない。与えるとき、惜しんではならない」と。
この言葉を読んだとき、僕は最初、「やっぱりケチな心はいけないんだな」と反省するだけでした。でも、ヘブライ語の原文を調べてみたとき、もっと深い、温かいメッセージが隠されていることに気づいたんです。

この箇所で使われている「与える」という言葉は、ヘブライ語で「ナタン(נתן)」と言います。
ヘブライ語は右から左に読みますが、この「ナタン(Nun-Tav-Nun)」という単語、実は右から読んでも左から読んでも同じ「ナタン」になる回文になっているんです。
これが何を意味しているのかというと、「与えることは、一方通行ではない」ということです。出したものは、必ず巡り巡って自分の元へと帰ってくる。ヘブライ語の文字そのものが、エネルギーの循環を表しているんですね。

僕がレジの前で感じた「減ってしまう」という感覚は、実は錯覚だったのかもしれません。自分の手から離れたとしても、それは失われたのではなく、大きな巡りの中に解き放たれたということ。
さらに聖書は、「与えるとき、惜しんではならない」と続きます。ここの「惜しむ」という言葉は、直訳すると「心が悪くなってはいけない」や「心が痛んではいけない」というニュアンスがあります。

神様は、僕たちが無理をして自己犠牲で与えることを求めているわけではないんだな、と感じました。僕が「痛いな」「損だな」と思いながら嫌々差し出すことを、神様は望んでおられない。むしろ、与えることによって生まれる「ナタン(循環)」の喜びを、僕自身にも味わってほしいと願われているような気がします。

あの時、値札を見て躊躇してしまった僕ですが、この「ナタン」の形を思い浮かべると、少し勇気が湧いてきます。
握りしめれば、そこで流れは止まってしまう。でも、手を開いて差し出せば、そこから豊かな循環が始まる。

お金や物だけじゃなく、時間や、優しい言葉や、笑顔もきっと同じですね。今日は誰かに何かを「ナタン」できるチャンスがあるかな。そんなふうに考えると、なんでもない一日が、宝探しのようなワクワクした時間に変わるような気がします。

僕もまだまだ、自分のことばかり考えてしまう未熟な人間ですが、聖書の言葉という鏡に心を映しながら、少しずつ、手のひらを広げられる自分になっていきたいなと思います。
このブログを通して、そんな気づきの旅をこれからも一緒に歩んでいただけたら嬉しいです。

気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#申命記
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY12
なお

なお

偶像をつくらないということを、仏像から考えてみた

こんにちは、石川尚寛です。
日本にはたくさんの仏像があります。寺に行けば立派な仏像が並び、街の中でも小さな仏像を見かけることがあります。ふと、「仏陀自身は仏像をどう見ているだろう?」と考えました。仏陀はきっと、像そのものではなく、そこに込められた心や学びを大切にしたのではないか。そんな問いが、僕をモーセ五書の十戒の二番目の戒律へと導いてくれました。

出エジプト記20章4節にはこうあります。
「あなたは自分のために、像を造ってはならない。天にあるもの、地にあるもの、水の下にあるものの、いかなる形も造ってはならない。」
ここで使われているヘブライ語は「פֶּסֶל (pesel)」。これは「刻んだ像」「彫刻」を意味します。ただの造形物ではなく、それを拝む対象にしてしまうことへの警告だと感じます。

僕が心を動かされたのは、この「像」という言葉が、石や木で作られた偶像だけを指しているのではない、ということです。仏像も本来は心を映す鏡であって、像そのものを拝むことが目的ではないはずです。僕の日常で言えば、スマホの通知や数字の増減に心を奪われることも、一種の「像」になり得るのではないか。目に見えるものに安心を求めてしまう弱さを、聖書は静かに映し出しているように思えました。

この戒めは「禁止」というよりも、「心を自由にするための言葉」として響いてきます。何かに縛られるのではなく、見えないものに信頼を置く勇気を持つこと。僕自身、まだ答えを持っているわけではありませんが、この問いを抱えながら生きること自体が大切なのだと思います。

これからも、モーセ五書をマンガという形で描きながら、自分の学びを少しずつ分かち合っていきたいです。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#十戒を学ぶ
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY27
なお

なお

日常の小さな「よりどころ」と十戒の第一の言葉

こんにちは、石川尚寛です。
最近、スマホの充電が切れそうになると妙に落ち着かなくなる自分に気づきました。外出先でバッテリー残量が10%を切ると、なぜか心まで不安定になる。そんな時に「僕は何によりどころを置いているんだろう」と考えさせられました。便利さや安心を支えてくれるものに頼るのは自然なことだけれど、そこに心が縛られてしまうと、自分の中心が揺らぐような感覚があるんです。その思いから、出エジプト記の十戒の第一の言葉に心が向きました。

出エジプト記20章3節にはこうあります。
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」
ヘブライ語原文では「לֹא־יִהְיֶה לְךָ אֱלֹהִים אֲחֵרִים עַל־פָּנָי」(Lo yihyeh lekha elohim acherim al panay)。直訳すると「わたしの顔の前に、他の神々を持ってはならない」というニュアンスになります。「顔の前に」という表現が印象的で、まるで神と向き合う場に、別のものを持ち込んではならない、と語りかけているように感じました。

僕自身、この言葉を「信仰のルール」としてではなく、「心の中心をどこに置くか」という問いかけとして受け取っています。スマホや仕事や人間関係、どれも大切だけれど、それらが僕の心の最前列に座ってしまうと、すぐに揺らいでしまう。第一の戒めは、そんな揺らぎを静かに映し出してくれる鏡のように思えました。

この章節を読むと、自分の生活の中で「顔の前」に置いてしまっているものは何だろう、と自然に考えさせられます。僕にとっては安心や便利さだったり、時には評価や成果だったり。そうしたものを少し横に置いてみると、心が軽くなる瞬間がある。その余白の中で、僕は「神と共に生きる」という言葉の意味を少しずつ探しているのかもしれません。

これからも、モーセ五書を一つひとつ丁寧に読みながら、自分の生活に響く言葉を見つけていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#出エジプト記から学ぶ
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY12
なお

なお

自分を嘆く声が、神に届くとき

こんにちは、石川尚寛です。
この前、仕事で大きな失敗をしてしまいました。誰かを傷つけたわけではないけれど、自分の不注意で台無しになったことがあり、帰り道で「なんで僕はこんなに弱いんだろう」と心の中でつぶやいていました。そのとき、ただ落ち込むだけではなく、自分自身を嘆くことが神に向かう声になるのではないかと感じました。そこから、モーセ五書のある一節に心が向かいました。

民数記11章14節で、モーセは「この民を一人で担うことはできません」と嘆いています。ヘブライ語原文では「לֹא־אוּכַל אָנֹכִי לְבַדִּי」(ロ・ウカル・アノキ・レヴァディ)、「僕一人ではできません」という意味です。これは民の不満に押しつぶされそうになったモーセの叫びであり、自分自身の限界を嘆く言葉です。

僕はこの言葉に触れたとき、自分を嘆くことは決して無駄ではないと思いました。むしろ、それは「僕は完全ではない」という正直な告白であり、「あなたに助けてほしい」という祈りの始まりなのだと感じます。自分を責めるだけの嘆きは閉じてしまいますが、神に向かって嘆くとき、それは開かれた声になるのだと思います。

日常の中で、自分の弱さに気づいて嘆く瞬間は誰にでもあるはずです。その声をただ自分の中で消してしまうのではなく、神に向けて差し出すことができたら、そこに新しい歩みが生まれるのかもしれません。嘆きは終わりではなく、始まりのしるしなのだと、この一節から学びました。

これからも、自分の弱さを隠さずに嘆きを言葉にしていく勇気を持ちたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#民数記から学ぶ
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY10
なお

なお

ありがとうの循環 — 食卓の一言が神と隣人をつなぐ

こんにちは、石川尚寛です。
先日、友人たちと食卓を囲んでいるとき、ふと口にした「ありがとう」が場の空気を柔らかくしたのを覚えています。特別な出来事は何もなくて、ただ同じものを分け合ったというその事実だけで心が満たされる瞬間がありました。そのとき、なぜか申命記の一節が思い浮かんで、ページをめくってみたくなりました。

今回向き合ったのは申命記8章10節です。ヘブライ語の原文はこう書かれています。「וְכִי־תֹאכַל וְשָׂבָעְתָּ וּבֵרַכְתָּ אֶת־יְהוָה אֱלֹהֶיךָ עַל־הָאָרֶץ הַטֹּבָה׃」。直訳すれば「あなたが食べて満ち足りたとき、良き地のことであなたの神、主を祝福しなさい」となります。注目したいのは動詞 בָּרַךְ(バラフ)です。この語は単なる「感謝する」という意味に留まらず、「祝福する」「手を差し伸べる」「良きことを言い表す」といった幅のある働きを持ち、言葉が内側からの応答であり、関係を確認する行為であることを示しています。

僕がこの節から受け取った気づきの一つは、感謝の向きが神で終わらないということです。申命記は共同体の生活を語る書でもあり、食卓にある恵みは土を耕した人、穀物を運んだ人、料理してくれた人など多くの手によってもたらされています。神への「ありがとう」はまず恵みの源を見上げる行為ですが、同時にその恵みを自分の中で受け止め、次に隣人へと返していく流れをつくります。バラフが含む「祝福する」というニュアンスは、受け取ったものを祝福として留めず、何らかのかたちで返す働きを含んでいると感じました。

具体的に言うと、僕が食事の場で「ありがとう」と言うと、その一言は作ってくれた人に届きます。けれど言葉だけで終わらせると循環は止まってしまう。感謝が行動に移るとき、例えば次に会ったときに手伝う、材料を分ける、小さな気遣いを見せる、といった形で恵みが共同体の中を巡り続けます。申命記の全体的な文脈が「忘れないこと」を強く促すように、感謝は恵みの由来を思い起こす記憶の行為でもあります。神を祝福することで、僕はその恵みがどこから来たのかという物語を再確認し、その物語が隣人への具体的な配慮へと翻訳されていくのです。

このことを考えると、感謝は単なる礼儀や義務ではなく、生活を貫く倫理の一部のように思えてきます。小さな「ありがとう」が、僕の内側を整え、次にするべき行動を静かに示してくれる。だから僕は、感謝を習慣にしたいと思うし、その習慣が神と隣人をつなぐ道になると信じています。ただ一つ問いを残すなら、次にあなたが「ありがとう」と言うとき、その言葉は誰に届き、どんな行動につながるだろうかということです。僕はこれからも食卓の些細な瞬間を大切にして、神と隣人への感謝を日常の行いで返していきたいです。気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ #申命記からはじめよう #無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY13
なお

なお

安息日を忘れるとき、僕たちは何を失うのか

こんにちは、石川尚寛です。
ある朝、駅の改札で流れる広告に目を奪われながら、僕はふと息が詰まるような感覚を覚えました。画面は「もっと速く」「もっと効率的に」を叫び、人の顔はスマホの光で白く照らされている。そんな光景を見て、僕は「日常が神から離れていく危険」をはっきりと感じました。それで、もう一度だけ安息日の言葉に立ち戻ってみようと思ったのです。

出エジプト記20章8節、ヘブライ語はこう書かれています。זָכוֹר אֶת־יוֹם הַשַּׁבָּת לְקַדְּשׁוֹ(zākhor et‑yom ha‑shabbat ləqadděšô)。「安息の日を覚え、それを聖とせよ」。短い命令に見えて、そこには「思い出す」「区切る」「特別に扱う」という三つの働きが込められています。忙しさの中で忘れていく大切なものを、繰り返し取り戻すためのリズムだと僕は受け取っています。

産業革命以降の世界は、人間の時間を盗んできました。機械の速さ、工場のシフト、24時間営業、デジタルの通知。便利さは確かに多くをもたらしましたが、その代償として僕たちは「共通の休み」「顔を合わせる時間」「静かに考える場」を少しずつ失ってきました。仕事の効率や経済成長が最高の価値になるとき、神に立ち返るリズムは脇に追いやられ、罪や見落としが静かに累積していきます。

日常が神から離れていくとき、何が起きるか。まず、他者の痛みが見えにくくなる。成果が人間の価値を決めるとき、弱さは排除され、競争が正当化される。次に、私たちの内側が硬くなる。祈りや黙想の時間を失うと、良心の声は雑音にかき消され、便利さの中で小さな不正や嘘を見過ごすことに慣れてしまう。最後に、共同体の絆が切れる。共に休むことで育まれる優しさや赦しの習慣が断たれると、孤立が広がります。

僕自身、安息日を形だけで済ませてしまったことが何度もあります。忙しさを理由に「今回はいいか」と言い訳し、気づけば心が冷たくなっていた。そんなとき、安息日のもつ「思い出す力」が自分を呼び戻してくれました。時間を区切ってスマホを置き、誰かと食卓を囲むだけで、見落としていたものが見えてくる。ヘブライ語の「זָכוֹר」が示すように、覚えることは能動的な行為で、繰り返しが必要です。

安息日は単なる昔の掟ではありません。産業革命以降に加速した「人中心」「効率至上」の流れの中で、僕たちが失いかけているものを取り戻すための、実践可能な手立てです。守ると言っても硬直したルールを押しつけるつもりはありません。大事なのは、その背後にある「立ち返る」という意志です。週に一度、意図的に神と隣人と自分に目を向ける時間を作ること。それが小さな抵抗となり、やがて生活の色を取り戻すはずだと僕は信じています。

これから僕は、毎週一つだけ習慣を減らしてみようと思います。スマホ通知を切る、労働時間外に仕事のメールを開かない、家族と一緒に食事をする。そうした小さなことが、積み重なれば「覚える力」を育て、罪と疎遠になる助けになるはずです。読んでくれたあなたも、もしよければ一つだけ試してみてください。どんな小さな変化でも、神に立ち返る一歩になります。

気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY6
なお

なお

心斎橋
GRAVITY2
GRAVITY17
なお

なお

久しぶりの四ツ橋
アパレルと香水の香りがします
GRAVITY
GRAVITY15
なお

なお

顔をあげる小さな勇気──創世記4章からの気づき

こんにちは、石川尚寛です。
最近、人とのやり取りの中で、自分の思いが伝わらなかったり、誤解されてしまったりすると、つい心が沈んでしまうことがあります。そんな時、僕はどうしても「なぜうまくいかないんだろう」と憤りのような感情を抱いてしまいます。顔を伏せてしまうような気持ちになるのです。

その感情に向き合っている時に、創世記4章6–7節の言葉に心がとまりました。カインに語りかける主の言葉です。
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

ここで使われている「罪」という言葉は、ヘブライ語で ḥaṭṭā’t(ハッタート)です。これは「的を外す」というニュアンスを持っています。つまり、狙ったところから外れてしまう状態を指しているのです。僕はこのニュアンスに触れた時、日常の中で「うまくいかない」と感じる瞬間も、必ずしも自分が悪いわけではなく、ただ的を外してしまっただけなのかもしれないと気づきました。

また「それを治めなければならない」という部分に使われている動詞は māšal(マーシャル)で、「支配する」「統べる」という意味があります。罪や憤りは僕たちの心に寄り添うようにやってくるけれど、それに支配されるのではなく、むしろ自分がそれを治める立場にあるのだと示されているのです。

この箇所を読むと、罪が軽く見えるように感じることもあります。けれど、実際には「罪そのもの」ではなく「罪に向かう心の傾き」が描かれているのだと思います。小さな憤りや嫉妬に心を奪われる前に、顔をあげる勇気を持てるかどうか。その分岐点に立たされているのがカインであり、僕自身の日常にも重なるのです。

僕はこの言葉から、「顔をあげる」という行為そのものが日常の中での小さな勇気なのだと学びました。憤りや落ち込みに支配されそうになる時、ほんの少し顔をあげるだけで、次の一歩が見えてくる。罪は軽いものではなく、芽生える前の心の動きから始まるのだと気づかされます。

これからも創世記を丁寧に読みながら、自分の心の動きを見つめていきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY11
なお

なお

鼻から始まるいのちの瞑想

こんにちは、石川尚寛です。
最近、朝の冷たい空気を吸い込むときに、ふと「鼻」というものの不思議さを感じました。眠気が残る頭も、鼻から入る空気で少しずつ目覚めていく。呼吸はいつも無意識にしているのに、鼻を意識すると「生きている」という感覚が急に鮮やかになるのです。そんな体験から、創世記のある一節に心が向かいました。

創世記2章7節。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
ヘブライ語では「アダム」(אָדָם)が「土」(אֲדָמָה)から形づくられ、「鼻」(אַף)に「息」(נִשְׁמַת חַיִּים)が吹き込まれると記されています。ここで強調されているのは、鼻を通して命が宿るということ。僕はこの表現に、ただの身体的な描写以上の意味を感じました。鼻は、外からの空気と内なる存在をつなぐ場所。そこに神の息が触れることで、人は「生きた者」(נֶפֶשׁ חַיָּה)となったと語られています。

この聖句を読んでいると、自然に鼻に集中する瞑想を試したくなります。呼吸を数えるのではなく、鼻を通る空気そのものに意識を置く。冷たさや温かさ、通り抜ける感覚をただ感じる。すると、自分の内に「息が与えられている」という事実が静かに広がっていきます。僕にとってそれは、神と共に生きることを思い出す小さな目覚めのようでした。

この気づきは、何かを教えるというより、自分自身の驚きに近いものです。鼻を意識するだけで、創世記の言葉が身体の中で響いてくる。人は土から造られた存在でありながら、息を受けて生きる者となった。その単純な事実が、日常の呼吸を少し特別なものにしてくれるのです。

これからも僕は、この「鼻に吹き込まれた息」という表現を手がかりに、自分の生き方を見直していきたいと思います。気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY14
なお

なお

IHの使えるポータブル電源を買いました。
これでカラオケルームで鍋ができる🍲
ショッピングの星🛍ショッピングの星🛍
GRAVITY
GRAVITY16
なお

なお

「形のない世界に心を重ねて」

こんにちは、石川尚寛です。
最近、夜遅くまで机に向かっていたとき、ふと窓の外を見たら、街の灯りがすっかり消えていて、真っ暗な空気だけが広がっていました。音もなく、ただ静けさだけが残るその時間に、不思議と安心感と少しの不安が同時に訪れました。何も形がなく、ただ「空っぽ」な時間。けれど、その空っぽさが次の朝の始まりを準備しているようにも感じられました。そんな体験から、創世記のある一節に心が向きました。

創世記1章2節。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」
この箇所のヘブライ語原文には「トーフー・ワ・ボーフー(tohu va-bohu)」という言葉が使われています。直訳すると「混沌と空虚」。つまり、まだ秩序も形もない世界の状態を表しています。僕はこの言葉に触れるたびに、混乱や空虚さがただの「無」ではなく、何かが始まる前の「余白」なのだと感じます。

「やみが淵のおもてにあり」という表現も、ただ暗闇を描いているだけではなく、深い水の上に広がる静けさを示しています。その上に「神の霊(ルーアッハ・エロヒーム)」が覆っていたと書かれているのです。ルーアッハは「風」や「息」とも訳される言葉で、動きや命の気配を含んでいます。つまり、形のない世界の上に、すでに命の息吹が漂っていたということです。

僕自身、日常で「まだ何も決まっていない」「形が見えない」状況に不安を覚えることがあります。でも、この聖句に触れると、その不安の中にもすでに「霊」が働いているのではないかと思えるのです。混沌や空虚さは、次の秩序や創造のための準備段階。そう考えると、むしろ希望の余白として受け止められるようになります。

この気づきは、僕にとって「今の混乱も未来の始まりにつながっている」という静かな確信を与えてくれました。だからこそ、これからも創世記を丁寧に読み進めていきたいと思います。

気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY8
なお

なお

#最近ハマってるお菓子
GRAVITY
GRAVITY7
なお

なお

まっすぐじゃない人生の中で、まっすぐに選ばれることもある

こんにちは、石川尚寛です。
先日、ある友人と話していて、「人生って、まっすぐ進めたことなんて一度もないよね」という言葉が印象に残りました。
たしかに、思い描いた通りに進むことなんて、ほとんどない。
むしろ、うまくいかなかったことや、後悔している選択のほうが、心に残っていたりします。
でも、そんな「うまくいかなかった道」の先で、思いがけず誰かに出会ったり、大切なものを見つけたりすることもある。
その話を聞いて、ふと、創世記38章のユダとタマルの物語を思い出しました。

創世記38章は、ヨセフ物語の途中に突然挿入される、ちょっと異質な章です。
ユダは兄弟たちとヨセフを売ったあと、家族から離れてカナン人の女性と結婚し、三人の息子をもうけます。
長男エルの妻となったのが、タマル。けれどエルは「主の目に悪」とされて死に、次男オナンもまた、兄の名を継がせる役目を果たさずに命を落とします。
ユダは三男シェラが成長するまでタマルを実家に帰しますが、やがて彼女を忘れてしまいます。

タマルは、自分の未来が閉ざされたまま放置されていることに気づきます。
そこで彼女は、顔を覆い、遊女のふりをしてユダを誘惑し、子を宿します。
やがて妊娠が明らかになると、ユダは「火あぶりにせよ」と言い放ちますが、タマルが自分の子を身ごもったと知ると、「彼女のほうが私より正しい」と認めます(創世記38章26節)。

この「正しい」は、ヘブライ語で「צָדְקָה מִמֶּנִּי(ツァドカー・ミンメニー)」と書かれています。
「ツァダク(צָדַק)」は「正義」「義」を意味する言葉。
ユダは、自分が果たすべき義務を果たさず、タマルがそれを補ったことを認めたのです。
彼女の行動は、決して褒められるものではないかもしれない。
でも、彼女は自分の命をかけて、義を貫いた。
そしてその子孫から、ダビデ王が生まれ、やがてメシアへとつながっていきます。

僕はこの物語を読むたびに、「まっすぐじゃない人生の中で、まっすぐに選ばれることもあるんだ」と思わされます。
ユダも、タマルも、決して完璧な人ではなかった。
でも、神の物語の中で、彼らは大切な役割を担っていきます。
僕たちもまた、失敗や後悔の中にいるときこそ、何か大きな物語の一部になっているのかもしれません。

これからも、そんな視点でモーセ五書を読み続けていきたいと思っています。
気になった方は、ぜひAmazonで「創世記 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY18
なお

なお

🌟「自分のかたちに」ってどういうこと?神様が私たちに込めた願いを考えてみた

こんにちは、石川尚寛です。
最近、ふと空を見上げる時間が長くなりました。澄んだ青空とか、夕焼けに染まる雲とか、本当にきれいで心が洗われますよね。でも同時に、こんなに壮大で美しい世界の中にいる自分は、一体何のためにここにいるんだろう、って考えちゃう時があるんです。誰もが一度はそんな気持ちになるんじゃないかな。毎日の生活に追われていると、つい自分の存在価値とか、人生の目的とかを見失いがちになってしまう。
そんな時に、僕が心を寄せるのが聖書の言葉です。今回は、モーセ五書の中でも一番最初の創世記を開いてみました。
僕たちが、何のために、誰によって造られたのかを教えてくれる、とても大切な言葉です。
特に心に響いたのは、この章節です。

> 創世記 1章26節
> 「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちに、われわれの似姿に造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」」
>
> 創世記 1章27節
> 「神は人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造された。」
>
神様が、僕たち人間を「自分のかたち」に造られた、というんです。これって本当にすごいことですよね。

「かたち」と訳されているヘブライ語は「ツェレム」(צֶלֶם)という言葉です。これは、単なる「形」という意味だけでなく、「像」とか「似姿」という意味も持っています。現代の言葉で言うなら、肖像画とか、鋳型から作った像のようなイメージでしょうか。
つまり、僕たちは単なる生き物じゃなくて、**神様の「像」**として、この世界に置かれたっていうことなんです。

じゃあ、神様の「像」として造られた僕たちには、どんな願いが込められているんだろう。神様は、僕たちを通して何を表現したかったんだろう。
僕なりに考えてみたのは、神様が僕たち一人ひとりを、ご自身の愛や創造性、そしてこの世界に対する配慮といった、目に見えない神様の性質を映し出す鏡のような存在として造ってくださったんじゃないか、ということです。

僕たちは神様と同じ形を持っているわけではないけれど、神様と関係を持つことができる、愛し合うことができる、そして世界を美しく治めるという神様の役割を担うことができる。これが「ツェレム」に込められた、神様の大きな願いなんじゃないかなと感じました。
日常の中で、誰かに優しくなれた時、美しいものに感動した時、何か新しいものを生み出せた時、それは僕たちの内側にある**「ツェレム」が輝いている瞬間**なのかもしれません。
僕たちは誰かのコピーでもなく、無意味な存在でもありません。神様の願いと目的が深く刻み込まれた、唯一無二の存在です。

僕もこれからも、この言葉の意味を深く味わいながら、自分がこの世界にいる意味、神様が僕に込めてくださった願いは何だろうと、日々問いかけ続けていきたいと思っています。
一人でも多くの方が、この創世記の言葉を通して、ご自身の存在の尊さに気づき、神様との関係を意識するきっかけになれば嬉しいです。
気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY12
なお

なお

「罪深いが神に選ばれた人たち」シリーズ①:血に染まった手が、神に近づく手になるまで──レビの話

こんにちは、石川尚寛です。
先日、ある地域の相談役の方と話す機会がありました。
若い頃に大きな過ちを犯したというその人は、今では誰よりも人の痛みに寄り添っていて、
「なぜこの人が、こんなにも優しいのか」と、僕は静かに驚きました。
そのとき、レビ族のことがふと頭に浮かんだんです。

創世記34章。
レビと兄シメオンは、妹ディナが辱められたことに激怒し、
町の男たちを剣で討ちます。
ヤコブはその行為に深く困り、「あなたが私を困らせた」と叱責します(創世記34:30)。
レビという名前は「לֵוִי」(Levi)──「結びつく」「つながる」という意味。
でもこの時点では、むしろ断絶の象徴のように見えました。

ところが、出エジプト記32章。
金の子牛事件のあと、モーセが「主の側に立つ者はここに来よ」と呼びかけると、
レビ族が応じます。
彼らは剣を取って、偶像礼拝に加担した者たちを討ちます。
その結果、神はレビ族を祭司として選びます。

この流れを読んでいると、
「血に染まった手が、なぜ神に仕える手になるのか」
という問いが浮かびます。
僕はそこに、神のまなざしの深さを感じます。
過去の罪が消えるわけではない。
でも、その痛みを知っているからこそ、
神の側に立つことができるのかもしれない。

僕自身も、過去の失敗や後悔を抱えながら生きています。
でもそれが、誰かの痛みに気づく力になるなら、
それは神が用いてくださる道なのかもしれない。
そんなふうに思えるようになりました。

このシリーズ、次回はカインを取り上げる予定です。
気になった方は、ぜひAmazonで『創世記 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。
無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

#モーセ五書マンガ
#レビ族の選び
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY17
なお

なお

「目には目を、歯には歯を」という言葉に、ずっと違和感を覚えていた。
復讐を肯定するような響きがあって、正義とは程遠いものに感じていた。

けれど、モーセ五書を読み直してみて、考えが変わった。
これは、報復の限度を示す教えだった。
必要以上に傷つけてはならない。
目には目、歯には歯。それ以上は、求めない。

この教えに触れたとき、自分の過去が頭をよぎった。
怒りに任せて、言葉を荒げたこと。
相手の非を責めすぎて、関係を壊したこと。
あのとき、自分は正しいと思っていた。
でも今は、あれはただの感情だったと認められる。

正義とは、冷静さと節度の中にあるものだと、今は思っている。
感情を抑えることは簡単ではない。
それでも、踏みとどまる努力をすることに意味があると感じている。

今日はそんなことを、静かに考えていた。

#怒りに節度を
#モーセ五書の教え
#正義とは何か
GRAVITY2
GRAVITY12
なお

なお

「仏教とモーセ五書:東西の教えが交差する場所」

輪廻と律法、悟りと契約——二つの聖典が語る人間の生き方と救済のかたち

仏教とモーセ五書(トーラー)は、異なる文化圏に根ざした宗教的伝統でありながら、驚くほど多くの共通点と深い違いを持っています。この記事では、両者の思想的構造と人間観を比較しながら、現代における意味を探ります。

共通点:人間の行いと救済への道

• 倫理的行動の重視:仏教では「八正道」、モーセ五書では「十戒」など、正しい生き方が救済への道とされます。
• 儀式と修行:仏教の戒律や瞑想、ユダヤ教の祭儀や律法遵守は、日常生活の中で神聖を体現する手段です。
• 共同体の規範:両者とも、個人の救済だけでなく、共同体の秩序と調和を重視します。


違い:世界観と救済の構造

• 輪廻 vs. 創造と終末:仏教は輪廻転生と解脱を中心に据え、モーセ五書は天地創造から終末に至る直線的な時間軸を持ちます。
• 神の概念:仏教では神は絶対的存在ではなく、悟りが中心。モーセ五書では人格神ヤハウェとの契約が信仰の核です。
• 救済の条件:仏教は内的な悟りによる解脱を目指し、モーセ五書は神との契約と律法遵守による祝福と罰を説きます。


現代への示唆

この二つの教えは、現代人が直面する「どう生きるか」「何を信じるか」という問いに対し、異なる角度から光を当ててくれます。仏教の内省的なアプローチと、モーセ五書の歴史的・共同体的な視点は、互いに補完し合う知恵の源泉です。

#宗教比較 #仏教と聖書 #精神世界の旅
GRAVITY
GRAVITY19