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あお

あお

「たとえ明日世界が滅びると分かっていても、私は今日リンゴの木を植える。」

ドイツ宗教改革の中心人物、マルティン・ルターの言葉で、とても好きな一文で今も胸に秘めてる。

「どうせ終わるから、もう何もしない」じゃなくて
「終わると知っていても、なお善を選ぶ」
「未来がなくても、今日の一歩をやめない」

結果じゃなく、姿勢そのものが人を人にする。
そんな響きがするこの言葉が好き。
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臼井優

臼井優

歴史的な例
歴史上、宗教の堕落化はしばしば社会の変化や内部対立の引き金となってきました。

宗教改革(16世紀ヨーロッパ):カトリック教会が贖宥状(しょくゆうじょう)の販売などで世俗化し、聖職者の腐敗が進んだことが、マルティン・ルターらによる宗教改革運動の大きな要因となりました。

近世仏教堕落論(日本):江戸時代の仏教は、幕府の寺請制度(てらうけせいど)の下で組織化され、自由な宗教活動が制限された結果、形式化や一部僧侶の堕落を招いたという批判があります。

宗教の堕落化は、その宗教本来の役割である「人々に善悪の基準や倫理観を与え、社会を統合する」という機能が失われ、社会的な問題を引き起こす原因ともなり得ます。
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かずら

かずら


私は、自分が何も知らないということを知っている。
–––––ソクラテス


すべての真の生は、出会いである。
–––––マルティン・ブーバー


真理は、単一の意識の中には存在しない。
–––––ミハイル・バフチン


理解とは、常に新たな問いを生む出来事である。
–––––ハンス=ゲオルク・ガダマー


哲学や議論の勝敗は、
相手を黙らせたかどうかではない。
話が終わったあと、
まだ一緒に考えていたいと思えるかどうかだ。
–––––かずら
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💤

💤

Wikipedia『レイ・ブラシエ』のページより。




【現代哲学の多くは、「啓蒙の論理である脱呪術化からニヒリズムの『脅威』を食い止めるために、人間の実存を特徴づける性質である意味の経験を保護」しようと試みているが、ブラシエはこの傾向に対して強烈な批判を投げかけている。彼によれば、とりわけマルティン・ハイデッガーやルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインから影響を受けた哲学者たちの間にこういった傾向がみられるという。ジョン・マクダウェルのような主流の哲学者は、世界を「再呪術化」しようとしているのに対して、ブラシエの仕事は「ニヒリズムを究極の帰結にまで推し進め」ようとするものである。】

気分的に分からなくはない。
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かなう

かなう

人は何をもって人として扱われるのか?人は何をもって人として扱われるのか?

回答数 168>>

別の切り口から考えてみましょうか。

本質は「人は何をもって人として扱われるのか」ではなく「人は何をもって人として扱うのか」に集約される。
自身の自己と同じように他者の自己も認める姿勢と言動行動である。

昔、マルティン・ブーバーと言う学者がいて、人との関わり方を大きく2つに分けました。
「我-それ」と「我-汝」。

我とはもちろん自分の事。

相手を、自分と同じような自己を持った独立した存在として関わるのを「我-それ」と表す。
相手を、自分に従属する物として関わるのを「我-それ」と表す。

自我中心で世界を見ると、他人をNPC(Non-player character)のように扱ってしまう。他人は自分の世界の登場人物でしかない。
主人公は常に自分に固定される。「我-それ」の世界観がデフォルトである。

自我は、自分が他人と異なるのだと知り、環境や他者に欲求・要求を求める事で原始的なアイデンティティを得た状態である。
自己とは、社会や他者との関係性の中で規定される自他の差異と共通点を分ける事で生じる上位のアイデンティティを得た状態である。
自分と他者を対等として認知する事で得られる「我-汝」の世界観である。

ここで「我-それ」と「我-なんじ」の関係性のどちらが人として扱われる態度だろうか。

「我-汝」であろう。
自も他も同様に尊ぶ姿勢が人をして人とならしめている。
「我-それ」は自を尊び他を軽んじる姿勢である。
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きくりん

きくりん

マルティンとりま完走してくれ!

好きなライダーとしては転倒とか怪我は見たくない!!

#MotoGP #バイク
バイク乗りの星バイク乗りの星
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