共感で繋がるSNS

人気

マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

音声ルーム🎙️告知⋆͛📢⋆͛📢⋆͛📢

喫茶室☕️岸辺🏝


Male Vocal Special

先週は女声ヴォーカルを取り上げたので

今週は男性ボーカルです。

ミュージシャンズ シングスも各種取り揃えて

ベニーグッドマン、スタン・ゲッツ、スタン

ケントン、レスターヤング、ナットコール、

バップ系ピアニストのドドママやソニースティット、バニーベリガン、チェットベイカーなど

以外に器楽奏者の方々は唄達者だったりします。

そして、ビンクロ、シナトラ、ペリーコモの

お馴染みの名唱、戦後派ではメルトーメ、

アンディウィリアムス、ビリーエクスタイン、

ハリーコニックJr.までジャズ・ポピュラー系を

網羅した選曲となっております。日本人シンガー

まで辿り着けるか?…主、厳選のヴォーカル特集

は本夜7時頃から配信します。

GRAVITY

It Had to Be You (Big Band and Vocals)

ハリー・コニックJr.

スイングの星スイングの星
GRAVITY2
GRAVITY25
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

音声ルーム𓂃𓈒𓂂𓏸🎙告知⋆͛📢⋆͛📢⋆͛📢

喫茶室☕️岸辺🏝


☆『SWING TIME♫.・*’’*・.♬』

スイングの星🌟惑星主がお送りするスイングタイムキタ━(゚∀゚)━!
本夜の演し物ピックアップ✨️✨️✨️
・1938.1.16史上初のカーネギーホールコンサートから白熱の♫sing sing sing あの熱狂に耳を奪われがちだが、実は10分を超える演奏のもう一つのハイライト🎹を聴き逃すな‼️
・そしてその翌日に余りに素晴らしかった前日のコンサートでのジェスステイシーのピアノソロをもう一度✌️とばかりに強行録音されたエディコンドンの狙いとは?
・あの有名なグレン・ミラーの♫In The Mood
の元ネタ音源を入手‼️その泥臭い演奏が本夜、蘇る!片腕のペッター、ジョー"Wingy"マノンのオリジナル録音とグレン・ミラーのヒット盤、そしてもう一つのバリエーションとは?…。
・トラッドの忘れられた名曲♫いつかは変わるだろうよ と♫まさにあなたに合わせるわ の様々なバージョンの聴き比べ大会‼️
・ジャズのスタープレイヤー達を発掘したジョン・ハモンド、ベニーグッドマン、カウント・ベイシー、ビリーホリデイらは云うに及ばず、ジョンは戦後もアレサ・フランクリン、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンらを輩出した!その辺の音源も飛び出すバラエテー豊かなスイングタイム⏱は19時START❗️
・other SWING TIME lineup
♫アンドリュースシスターズ&グレン・ミラー
♫ルイプリマ ♫ハリージェイムス
♫D.エリントン&C.・ベイシー両楽団の激しいバトルロイヤル
♫スイングエイジの楽団テーマ曲集
♫ベニーグッドマン&カウント・ベイシーのコラボ録音プラス、伝説のギタリスト チャーリークリスチャンのベリーグッドなその妙技。
その他スイングエラの音源多数、お楽しみに(* 'ᵕ' )☆
GRAVITY

Memories of You

ベニー・グッドマン

スイングの星スイングの星
GRAVITY2
GRAVITY28
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 25

 ☆『スウィングジャズの花形ボーカリスト2️⃣』
 
テディウィルソンがベニーグッドマン楽団に加わったことはその生涯の中でも最大の幸運だった。元々はピアノの巨匠アールハインズの下でハインズのイミテイターの様な事をしていた彼を眩しく華やかなスポットライトに当たる舞台に引っ張り上げたのがグッドマンだった。そしてその腕を買われグッドマン楽団入団後すぐの1935年には敏腕プロデューサー ジョンハモンドによりブランズウィックレーベルで自楽団結成に至る。グッドマン楽団と並行しての自楽団運営は多忙を極めたであろうが、テディの音楽人生、いや全生涯中の中でも最も華やかな時期であったことは容易に想像できる。そんなテディの楽団名義の中でも未だに注目を受けるのはビリーホリデイがVo.を務めたレコードであろう。取り分け1935年の7月に録音された♫What a Moonlight Can Do と
♫Miss Brown To You はビリーの知名度を上げた最も初期の成功例として長く語り継がれるべき名演である。ここではベニーグッドマンcl. やコールマンホーキンスts.などの"腕利きスト"らが演奏グレードを一段引き上げて最高のソロも堪能出来るが、後者の録音には前奏部で一瞬ニューヨークの街の喧騒(車のクラクション音)が偶然にも入っているが、タイミングの良さにディレクターもNGにしなかったのだろうか?或いはスタジオの貸し出し時間の関係から数テイク録るのが不可能だったのかは知る由もない。溌剌としたビリーの唄いっぷりやまだクスリに侵されていなかった頃の元気なビリーの歌声をご堪能頂きたい。

ここ数週間で搭乗者が増えたので、久しぶりにこの惑星での投稿を復活して参ります。
また関連投稿も歓迎します♪ 奮って投稿下さい[笑う]
GRAVITY

Miss Brown to You (with Teddy Wilson and His Orchestra)

ビリー・ホリデイ

スイングの星スイングの星
GRAVITY
GRAVITY32
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 36

 ☆『西島TONY経雄さんのバニーベリガン評』
 
神田神保町のTONYレコード創業者西島TONY経雄さんのバニーベリガン再評価の名文の続き。
 …そこにはトミードーシーの雷もなく、ベニーグッドマンの冷酷さもなかったようで、彼等のように超一流バンドとして10年20年も続きはしなかったが、競争の激しいバンド世界の中で、あのアーティーショウやグレンミラーも、同じヴィクター系でも廉価盤のブルーバードからスタートしたのに、ベリガンバンドは最初からレギュラーシリーズで扱われている。その間の総レコード枚数92曲、48枚もあり1939年11月に解散するまで3年足らずにしては、どうしてどうして立派な記録といえよう。情け容赦もない大会社のヴィクターレコードで、売れないバンドのレコードを次々と発表する訳がなく、予定の枚数をクリアしていたと考えざるを得ない。今更通説に逆らうのは大それたことかもしれない…エンジン全開でなくてはやって行けないバンドビジネスと彼の過度の飲酒癖が破滅への道を早めた事は考えられるが。しかし、彼の遺したレコーディングはほぼ満足出来るものと私は考えたい。それにしても切札として12インチ(LPレコードと同じ大きさ)SP盤の「言い出しかねて」がある。この一枚だけでも、彼のヴィクター時代は栄光に輝くべきである…
 トニーさんが愛して止まなかったベリガンとその楽団への再評価は決して盲目ゆえの片贔屓などではなく、レコード業界の数字を持ち出しきちんとした裏付けがあるがゆえの冷静な判断であることがこの文章からも伝わる。引用文の最後に出て来た♫言い出しかねて はこのシリーズ♯ 29 4月3日の投稿で紹介した♫I Can Get Started のことである。この盤はビクター所属の人気バンドに長尺盤レコードで1枚両面で吹き込ませた企画盤『シンポジウム・オブ・スイング』の最後の盤だった。因みにこの企画盤ではベニーグッドマンのあの名曲♫シングシングシング がA・B面に亘ってリリースされた。あとはファッツウォーラーの盤、そしてトミードーシー楽団からも2曲と云った具合である。戦前既に日本ビクターからもリリースされて戦後もリイシューされるほどの人気企画アルバムであった。その♫言い出しかねて の裏面の囚人の歌 を本回はお送りする。
GRAVITY

The Prisoner's Song

Bunny Berigan

スイングの星スイングの星
GRAVITY
GRAVITY26
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 26

 ☆『スウィングジャズの花形ボーカリスト3️⃣』
 
テディウィルソンは生涯で6回乃至7回結婚したと言われている。凡ゆる芸術家はその功績とは反比例する人生を送るのだろうか。芸術家は余りに個性が強すぎるゆえ、それを理解するのは至難の業なのであろう。
 そんな華麗な女性遍歴を物語るが如くテディ楽団には実に多くの女性シンガー達が去来した。が、それは大抵ボスのベニーグッドマンの所でひとしきり唄った後、新入りが直ぐに入り前のシンガーは押し出される様にベニーとの契約を解消してテディのバンドに来る、そんな構図が透けて見える。恋人同然だったヘレンワードがベニーの元を去り代わりに入ってきたのがフランセスハントだった。が、程なくマーサティルトンにその座を譲りあっさりテディのバンドで唄った。写真にもある様にテディのレコードでビリーホリデイの裏面にハントのボーカルと云うものも存在するようだ。最も、ここでセールされてるのはヨーロッパ盤なのでそちらで勝手にこうしたカップリングで売られている可能性は否めない。オリジナル盤であるアメリカ本国の方では例えばビリーホリデイのボーカル入りの盤の裏面にはテディの楽団によるインスト演奏が入っていたりする事はある。
 このハントのボーカルをフューチャーしたテディ楽団のレコードは1937年8月29日にロスで録音された5曲、内♫Ain't Misbehavin' はオミット、つまり没となりリリースされなかった。その日の最初の楽曲♫Big Apple を今日は紹介する。
 ビッグアップルと云うと今では中古車販売店を私などは想像してしまうが、これはニューヨークのニックネームだ。1920年代から使われ出したスラングでニューヨークのみならず大都市を指してこう呼ばれていたらしい。ハントのVo.はアルトでこうした明るい曲調は余り似合わない。彼女のレコードは楽団独立後もリリースされていたらしくYouTubeに1曲だけアップされていた。ベニーグッドマン時代には最後の写真の様に唄っている映像もアップされていた。底抜けに明るかった。
 紹介する♫ビッグアップル はブライアンラストのディスコグラフィーにも記載がないテイク2が存在する。長年中古屋回りをしているとこう云うパターンにしばしば出会す。決して珍しい例ではない。
GRAVITY

Big Apple (08-29-37)

テディ・ウィルソン

スイングの星スイングの星
GRAVITY
GRAVITY34
小藤 志優愛

小藤 志優愛

ドラクエ2リメイクのパーティメンバーの名前を、全部ジャズのジャンルにしてみた。

【それぞれ知らない人に説明】
・スウィングジャズ……白人が主体のジャズ。基本は大人数による構成。白人が主体ではあるが、著名な黒人プレイヤーも参加。1920年ごろに成立したとされる。ベニーグッドマン、デュークエリントン、グレンミラー、ライオネルハンプトンらが有名。主なスタンダードに「シングシングシング」「インザムード」「A列車で行こう」「スウィングしなけりゃ意味ないね」など。日本国内の学校の吹奏楽においても特に演奏されることが多い。

・ビバップ……スウィングジャズ終焉後に成立した黒人主体のジャンル。以後の「モダンジャズ」という一つの大きなジャンルの起源となった。チャーリー「バード」パーカー、ディジーガレスピー、セロニアスモンク、クリフォードブラウンなどが有名。

・ジャズファンク……1960年代に成立したジャンル。ジャズを基点に、ファンク、R&B、ソウルなどを掛け合わせたモノ。60年代末に誕生する「フュージョン」の基盤を形作ったモノと捉えられる。

・ジャズフュージョン……1960年代の終わりに、「ジャズの帝王」マイルスデイヴィスによって提唱されたジャンル。今までのジャズを中心に、ロック、ファンク、ラテンなど様々な音楽要素を盛り込み、1970年代が黄金期を迎えた。単に「フュージョン」、他の語彙として「クロスオーヴァー」とも呼ばれる。先行して誕生したジャズファンクも、フュージョンの枠組みとして捉えられる。主な演奏者にマイルスデイヴィス、ハービーハンコック、ジャコパストリアス、ウェインショーター、ジョーザヴィヌル、マーカスミラー、スタンリークラークなど。
GRAVITY
GRAVITY4
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 45

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.20』

 ハリージェイムスの最初のビルボードNo.1ヒット♫I'll Get By が1941年8月8日にリリースされてから彼のバンドは漸く軌道に乗り始めた。
この年の秋にアーティ・ショウ、ベニー・グッドマンのバンドを亘り歩いてきた女性シンガーヘレン・フォレストは更なる高みを目指してハリージェイムスへ売込みを掛けてきた。ヘレンは10代の時に故郷のニュージャージー州アトランティックシティで彼女のファミリーバンドで唄い始めた。この街は当時一流のリゾートホテルが立ち並ぶ夏の避暑地で、近年の様なギャンブルとカジノの街ではなかった。又、地元のラジオ局で6つの番組で唄ったりもしていた、1937年になって活動の拠点をワシントンD.Cへ移しマーディロン・ルームで2週間の契約を皮切りに唄い結局向こう2年間、そこで唄い続けた。その最中に彼女は一念発起して当時最高の人気を誇っていたキングオブスイング、ベニーグッドマンのオーディションを受けたが、採用には至らなかった。が、その直後にキングオブクラリネットの異名を持つアーティーショウのオーディションを受けてショウのメガネに叶い採用された。時代はもう1939年になっていた。
ショウはスイングバンドでも当たり前の演奏をすることを嫌い1935年に初めてバンドを結成した時も始めからサードストリームと呼ばれた弦楽四重奏をバックにスイングコンサートで演奏したりして真っ当なスイングバンドとは趣を異にして脚光を浴びていた。音楽への向上心に溢れ常に新機軸を打ち出すために、バンドの解体、再結成を繰り返していた。1937年頃にはスタンダードなスイング編成にして折からのスイングブームに乗り人気は急上昇をはじめ、翌'38年にはスイングバンドの人気の頂点に達していた。ショウはクラリネットの担い手で人気No.1のベニーグッドマンとは別な意味で人気を勝ち取ったので、ベニーに与えられたキングオブスイングの称号に対し、キングオブクラリネットの称号が与えられたのだ。1938年の第一作♫ビギンザビギン がミリオンセラーを記録すると同じ年にはユダヤ教の陰鬱なイメージを伴うブルース曲♫悪夢(ナイト・メア) を、そして打って変わってのダンスナンバー♫バックベイシャッフル と立て続けにミリオンセラーを飛ばした。更に翌'39にも♫トラフィックジャム がミリオンセラーとバンド絶頂の折にヘレンは入団した。翌'40には後世にも残る名演♫フレネシー 、名ペッター、ビリーバターフィールドの冒頭のオープンが名高いスタンダードでジャズ史に残る♫スターダスト そして♫サミットライドドライブ とヒットを続けていたがこの年末でショウはまたもやバンドをリニューアルする為にヘレンフォレストもお払い箱となるが、情報を聞きつけたベニーグッドマンがヘレンをスカウトした。3年前には不採用にしたが、ショウのバンドでのヘレンの歌声を聴いて考えを変えたらしい。1940年から翌41年の秋まで20ヶ月、ヘレンはグッドマンの専属として活躍した。ヘレンはその42年後に自伝(自伝のタイトルはハリージェイムス時代のヒットナンバーがそのままタイトルになっている)を上梓したがその中でベニーについてこう語っている。
「私は彼を偉大なミュージシャンとして尊敬しています。それは今でも変わりません。でも一緒に仕事をするには余りにも冷たく気難しい人間だと感じました。私がベニーのバンドを辞めたのにはそうした事から早く逃れたいと感じたからでした。私は彼に対し怒りを感じていたわけではありませんでした。ただ、彼の棘のある言い方に、もう耐えることが出来なかったのです。彼は完全主義者で、彼と一緒では誰でも気が変になるのです」失意のうちにいたヘレンは早速ハリージェイムスのバンドのオーディションを申し入れた。ヘレンはハリーのユダヤ的フレイジングが好きだから、彼のペットと唄いたかったと告白する。ハリーのバンドには前回紹介したように既に男性シンガーのディックヘイムスがいた。バラッドを唄わせたら当時は超一流だったから、ハリーはリズムシンガーを欲していたのだ。
ヘレンもどちらかといえばバラッド歌手だった。最初ハリーはそんな彼女に難色を示していたがヘレンは強引にマネージャーに頼んでリハーサルまで漕ぎ着けた。ヘレンは確かにバラッドを数々のバンドで歌いこなしてきただけあって、ディックでは表現し得ないものを秘めていた。こうして彼女は目出度くハリーに採用されることとなったが、結果的にハリーのバンドで一番ヒットを連発したのはヘレンの歌ったレコードだった。


GRAVITY

I Don't Want To Walk Without You (12-11-41)

ハリー・ジェームス

スイングの星スイングの星
GRAVITY4
GRAVITY34
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 27

 ☆『スウィングジャズの花形ボーカリスト4️⃣』
 
テディウィルソンは昨日紹介したフランセスハントとのレコーディングのほぼ1ヶ月前に同じロスのスタジオで、ブーツキャッスルとの4曲を録音している。最後の♬Coquette のみインスツルメンタルでブーツの声は聴かれない。ブーツキャッスルは資料が殆ど無くテディとのセッションもこの時唯一度きりだけだ。Vo.は昨日のハントと似た様なアルト、正直魅力に欠ける。大成しなかったのも何となく判る。この時期のテディの選曲はティン・パン・アレー系の安手の有り触れた曲を使っているが、それを強力なミュージシャンの演奏力とアレンジで補っている。ブーツキャッスルが唯一録音した'37.7.30の録音にはベニーグッドマンがcl.で入ってそれなりの効果を挙げているが、ハリージェイムスのtp.とヴィドムッソのts.の各ソロもバランス良く配されOrch.編成なのにコンボの様な趣きがある。それが一番顕著に出ているレコードが本日紹介する♬The Hour of Parting であろう。テディウィルソンについてはドイツの著名なジャズ評論家のヨアヒムEべーレントが、エリントンの優れたバンドインコンボのような統合感とは違い、ソロの応酬が特徴でそれでいて優れたユニットを形成している、と賞賛している。
この時期のテディの録音には白人系の中間派ミュージシャンを集めたパターンとビリーホリデイがVo.を取る時には黒人系のカウント・ベイシー系中間派ミュージシャンが付き合っているパターンと、カラーが分かれる。そこから有名なビリーホリデイとレスターヤングの寛ぎに満ちた傑作録音が生まれた。後世に長く語り継がれたのは後者の方であったと云うことであろう。
GRAVITY

The Hour of Parting

テディ・ウィルソン

スイングの星スイングの星
GRAVITY
GRAVITY30
もっとみる

関連検索ワード

新着

ハシオキ龍之介

ハシオキ龍之介

デヴィッド・ストーン・マーティン画廊 # 19


#レコードジャケット #JAZZレコード


☆『スタン・ゲッツ』

村上春樹のコレクションの中からのデビッド・ストーン・マーティンが手掛けたジャケット作品にフォーカスした本を紹介している。
 この本の中で、スタン・ゲッツのデビッド・ストーン・マーティンが手掛けたジャケットは本回が最後である。本回は1955年、カリフォルニアに『ベニーグッドマン・ストーリー』の撮影で訪れていたゲッツの為にわざわざ出張してでも録音させようと、ノーマン・グランツがウエスト・コースト派のミュージシャンであるトランペッターのコンテ・カンドリ、ジャズ・ピアニストのルー・レヴィらを集めて作られたアルバム『West Coast JAZZ』が、紹介されている。村上春樹は数あるデビッドのアルバム・ジャケットの中でも大のお気に入りと、このデザインを大層褒めている。
下半身のみ描かれる裸足の男はゲッツ本人なのだろうか?敢えて、顔を描かずわざわざ下半身のみを描いたデビットの真意は如何に?そんな風変わりな構図が村上の琴線を震わせたのだろうか。
スタン・ゲッツ最後の項なので触れておくが、若き日にFM東京(現在のTOKYO FM)の特別番組で以前にも触れた東京・吉祥寺の老舗ジャズ喫茶のマスターだった寺島靖国氏が、監修したJAZZ番組で不意にゲッツのヴァーヴ盤でLIVE音源だったが♫LOVE WALKED IN というガーシュインの楽曲をゲッツが吹いているレコードを紹介しており、これが鮮烈な印象を残したが、寺島氏はアルバム名を紹介してくれなかったお陰で、随分とこのレコードを探すのに手こずった苦い思い出がある。
こうしたアンフェアな経験則から、私はいま、自分の配信で掛ける音源について持てる情報はなるべく公表することにしている。第2の"私"の様な漂流民を作らないために。寺島靖国、この人の名前を私が書くときには、こうしたネガティブなことしか思い浮かばない。
実際に現在ではそのアルバムが何であったかはスマホのお陰で簡単に検索することが出来たので積年の私の疑問も解消された。めでたしめでたしである。

GRAVITY

Summertime

スタン・ゲッツ

スイングの星スイングの星
GRAVITY2
GRAVITY11
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 46

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.21』

 ハリージェイムスの専属になったヘレンフォレストとハリーの仲は程なく、誰の目で見てもそれが恋仲であることは周知の事実となる。二人の関係は実際にそうだったし、ハリーはやがて彼女に婚約指輪まで渡すほどの関係にまで発展していた。ハリーは彼女を楽団に迎入れる際には、彼女の為にヴォーカルがちゃんと映える様な編曲を施した。それまでベニーグッドマンやアーティーショーのバンドではそんな破格の扱いをされたことも無かったから尚のことヘレンはハリーを恋慕うようになる。ハリーの配慮の行き届いた編曲はヘレンにとって大変唄い易く且つ、聴いているリスナーにとってもたまさかの幸福感を与えた。送り手と受け手が共にWin-Winの相対性となったのは云うまでもなく、アメリカン音楽史、いや、世界的音楽史を俯瞰してもこのスイングエラに於けるハリージェイムズ楽団の音楽こそ最も幸福の純度が濃い時期と私は見ている。更に客観的に捉えれば、それまでそうした甘いバラードを得意としていたトミードーシーの楽団は"女泣かせのトミー"と云われる程の甘さでリスナーを惹きつけていた。しかし、dsのバディリッチを雇いフランクシナトラを引き抜き、更にパイドパイパーズと云うジョースタッフォードがメンバーだった男女混合コーラスを売りにする様になったトミーはややジャズマティックに路線変更してゆく。勿論スローバラードはシナトラの持分であり、パイドパイパーズのコーラスを添えた極上のラブソングもそれなりにあったが、その役割は後発のハリージェイムズ楽団の方へと移譲してゆく。ビルボードがチャート式ランキングを大々的に宣伝してゆくと、全ての決定権はボビーソクサーやヤンキーな若者達がヘビーユーザーとなっていった。そんな時代の過渡期に売れたハリージェイムズ楽団のレコードを少し拾ってみよう。女性ヴォーカルからは少し逸れるが、ヘレンフォレストの活躍期とほぼ同時並行だから良かろう。ハリージェイムズ楽団の売りは文句無しにリーダー兼プロデューサーのハリージェイムズの正に"張り"とその切れ味鋭いtpフレーズにある。そのシャープなtpを生かしたブラスセクションと大胆にも編曲に取り入れたストリングスの甘さを小気味よくチェイスさせたスピード感が信条である。それは1942年2月24日録音の♫Truwpet Blues and Cantabile で堪能することが出来る。その前月1月24日録音の♫By The
Sleepy Lagoon は出色の出来でこれはビルボードランクで見事に1位を記録した。和訳すると眠れる静かな入江 となる。リゾーティアスで幻想的なアレンジが施されそれは夢見る楽園を安易に想像させた。この頃第二次世界大戦が始まって数年、日本などの枢軸国と戦闘状態に入っていたアメリカ国民たちの束の間の現実逃避にはもってこいのレコードだったのだろう。
 又、季節はぶっ飛んで7月22日録音の♫Cherry
はストリングスとブラスセクションが交互に織りなすミディアムスロウなナンバーで、ハリーのtpソロが最高にイカした楽曲で、魅力に富んだメロウでハイブロウな逸品✨✨。
 そして、季節が又戻って6月5日に録音された
♫I Cried For You 君に泣く😭 はヘレンフォレストの泣き節に呼応するかの様なトロンボーンミュートやサックスセクションのオブリガードが哀しくも愛らしく響く魅惑のメロディ🎼でOPのハリーのソロに着いてくるブラスセクション&ストリングスが美しい🤩ハリージェイムズ楽団のヘレンフォレスト効果が上がる一曲となっている。この曲は当時のハリウッド映画でもバンドが丸々演奏するシーンが挟まれた。タイトルも思い出せないがレコードのバージョンとは明らかに違うし、テクニカルカラーだが、旬な頃の楽団とヘレンフォレストが登場するレアな映像なので、是非ご高覧頂きたい。
 次回は更にヘレンフォレストのハリージェイムズ楽団ナンバーを深読みする。

GRAVITY

I Cried for You (feat. Helen Forrest)

ハリー・ジェイムス&ヒズ・オーケストラ

スイングの星スイングの星
GRAVITY
GRAVITY26
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

アイオワから来た男 .6

#閑話休題

☆『レッドニコルスと四人の木管奏者』

レッドニコルスはジャズ勃興期の1924年以降コルネット(トランペットの小型楽器で音色はトランペットを丸くしたような音色が特徴)奏者兼バンドリーダーだが、彼が1924年にプライベートレコードを出した時に選んだ曲は♫Jazz Me Blues だった。同年にThe Wolberins の同曲のレコードがリリースされて世のジャズミュージシャン、特に白人奏者たちの間でここで聞こえるコルネットプレイはスゴい…と評判だったからだ。それはルイ・アームストロング一辺倒だったジャズの流れを変える程の効果をもたらした。ジャズは黒人の音楽と言う先入観を覆す出来事だった。ビックスの影響の程はこうしたジャズ史を押さえなければ、何故1970年代に突然ビックスがグラミー賞の殿堂入りを果たしたのかが判らないからである。
最初にレッドニコルズのことを書いたのはウォルベリンズのコルネット奏者ビックスバイダーベックが初めて脚光を浴びたことがレッドのビックス信奉振りでよく判るエピソードだからである。
レッドニコルスはこの頃既にバンドリーダーを張れる程の地位に上がっていたにも拘らず後からデビューしたビックスみたいな青年に簡単に感化されてしまうところがあり、これが彼の人生のメリットデメリットを左右する事になる。
レッドニコルズはミュージシャン的にはジャズイディオムに乏しい技量しか持ち合わせ無かったが、達者なコルネット吹きではあった。当時の白人ジャズ界隈では名が通ってはいたし、音楽的知識もあったから彼はバンドを通してジャズと言う発展途上の音楽の向上に一役買うことは出来たのだった。1930年代入りフランスの『ル・ジャズ・オット』が世界史上初のジャズ評論を起こしてから本国アメリカでも遅まきながら『メトロノーム』などの数々のジャズ批評誌が発刊され出すと過去のミュージシャンを評価する論文が頻りに紙上を賑やかしたが、レッドは遂に正統には評価されなかった。しかし、本人はそんな論評など全く意に介さず陽気にブンチャカ出来ればそれで良かった。1958年のハリウッド製伝記映画「5つの銅貨」でもその辺の事情は語られていたが、彼のバンドファイブペニーズはレッドやビックスらとさして年齢の変わらないミュージシャン達の絶好の売出す場でもあり、野心家のレッドが田舎者を自称しながらも何とか狭い当時のジャズシーンに迎合するために、シカゴ派らとも共演して、彼のファイブペニーズは他流試合の様相を呈した。レッドも率先垂範してそんな若手を後押しした。編曲では必ず新進気鋭の奏者たちにソロを取らせ、時として自分のソロより若手にスペースを裂き、聴きどころをお膳立てする。 
 この采配が後年、スイングブームで隅に追いやられていたレッドを復活させる原動力となる。

今回はクラリネットに絞りレッドニコルス楽団でソロパートを任された4人のクラリネット奏者たちを紹介してゆく。

先ず筆鋒は ジミードーシー。
弟のトロンボーンの奏者トミードーシーとほぼキャリアは変わらずアルトサックスとクラリネットを吹き分ける器用さは兄独自の才能である。レッドニコルズバンドでの録音で注目される曲は
♫ザッツノーバーゲン 編曲もこなす才人アーサーシャットのピアノに天才ギタリスト エディラングの自在なソロワーク、ヴィックバートンのシンバルは素晴らしいアクセントとなってこのレコードの誰よりも目立っていた。1928年当時、まだベースドラムは録音には不向きがされていた。スタジオでベースドラムを踏むと、カッティングの針が飛ぶ‼️そんな迷信がまことしやかに囁かれていた時代だった。

続く現代曲♫フィーリン ノー ペイン ではクラリネットはシカゴ派からピーウィーラッセル。この人もビックスにより啓示を受けた。
1926年にはハドソンレイクの近くでラッセルはビックスと夢のような日々を過ごした。
ビックスのソロフレーズを更に深く倍加したピーウィのソロはビックスがもっと長生きしていたらば、きっとこんな感じであっただろうと思わせる。独特の浮遊感はワンアンドオンリーで、この人のトレードマークでもある。
シカゴ派の重鎮でエディコンドンやバドフリーマンらとアイドル、ビックスの残滓を終生引きずった。

レッドニコルズの演奏でどうしても外せない
♫ノーバディーズスイートハート💓 はファド(飲兵衛)リビングストンのクラリネットと曲のアレンジで、アレンジの才に長けていて前曲のアレンジも実は彼だ。さすらいのトランペッター、ウィンギー(片腕)マノン同様放浪癖があり土地どちのエキスに染まらず、セッションしては離れるそのスタンスはやがてソロワークにも反映されて、独特の土臭さを兼ね備えていた。
あちこちに顔を出していたからか、例えばベンポラック楽団に在籍してベニーグッドマンとも共演したりもしていた。
ジョウゼフ"ファド"リビングストンは1925年から1926年の1年間はデトロイトやシカゴに滞在してジャンゴールドケット楽団でジャズの知識を深めていった。その時同楽団にいたビックスに刺激を受けて全音音階に目を向けるようになる。そして、無類の酒好きでミドルネームに"ファド(呑兵衞)"と付けられた程だったが、だからビックスとも意気投合した訳だ。生まれはサウスカロライナだが、シカゴっ子の気質ともうまがあった。
1927年12月にシカゴアンズの有名な2枚分のレコードが吹き込まれて、その中には同じ♫ノーバディスイートハート がラインナップされたが即興アンサンブルは旋律を並進行させたハーモニーを奏でるアレンジをものしていた。
この時はクラリネット奏者フランクティッシュメイカーがアレンジを施したが、それから2カ月後にレッドニコルスたちが同じクラリネット奏者のファドに編曲させた同曲の録音でも、シャッフルリズム、イクスプロウジョン(爆発的即興演奏)、そしてファドのシカゴ風クラリネットソロと言う三拍子揃った演奏を聴いてシカゴアンズは自分達の影響力の強さを知ることになる。

最後はベニーグッドマン!彼は1929年2月1日の録音からレッドニコルスの録音に顔を出すが、この時から同僚のグレンミラーも同時に起用される。又、ベニーが録音に加わると器用なファドがテナーサックスに回る。
1930年7月2日録音の♫チャイナボーイ は後世に伝わる名演となりベニーのクラリネット奏者としての名を一躍上げたソロが聴けるがその翌日録音された♫ザ シークオブアラビー も名演の名に恥じない演奏である。
曲の入り口でトレグ・ブラウンが普通パートで歌い出すとすかさずジャックTガーデンが…待て待て待て!とストップさせてメロディーを崩してジャズる、と言うお約束アレンジはグレンミラーが施している。又、グレンミラーがストレートメロディーのトロンボーンソロを吹く上行ではTガーデンが奔放に高度なトロンボーンソロをアドリブで吹くと言う凝りに凝った編曲で楽しい。ジャズの醍醐味が端的に判る編曲となっていてTガーデンは終生このアレンジでこの曲を吹いた。ベニーのソロもビックス譲りの起伏の激しいソロワークでバラエティ豊かな賑やかな演奏となっている。
GRAVITY

The Sheik Of Araby

レッド・ニコルズ & His Five Pennies

スイングの星スイングの星
GRAVITY8
GRAVITY34
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 44

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.19』

 1940年7月27日、ビルボードが初めてヒットチャートをリリースした。その時の1位はトミー・ドーシー楽団の♫I'll Never Smile Again だった。
 当時専属だったパイドパイパーズのふんわりしたコーラスは聴く者を夢心地にさせてくれるムードを醸し出す。若き日のジョー・スタッフォードがメンバーに居た。そして甘い男性ボーカルは前年までハリー・ジェームズ楽団員だったフランク・シナトラである。大志を抱いてハリーに見送られて落ち着いたトミードーシー楽団で人気チャートの1位を成し遂げたのだから、ハリーもさぞ喜んだろう。ハリージェームズの頃にはまだ荒削りだった唱法もトミードーシー楽団のところでバラード唱法を会得した痕跡が確認できる。格段の進歩をレコードは今に伝えてくれる。ビルボードチャートは当時はまだ10位までのリリースしか無かったがその後急成長し、その後シングルとアルバムに分けてチャートをリリースするようになり、現在の様なベスト100位になったのはロックが台頭して来た1956年になってからだった。ライバル誌も次々発刊されて、ジャズに特化したチャート誌メトロノーム誌も創刊し市場は賑やかになってゆく。やがて『メトロノーム』はその年の人気ミュージシャンをピックアップしてレコード会社と提携してメトロノーム・オールスターズの名の下にレコードまで作ったりもした。ハリージェームズは1940年代に限って言えば、ビルボードの人気ランク5位と云うスターミュージシャンとなっていた。チャート1位にランクされた曲が3曲、TOP10ランクした楽曲が13曲にのぼる。ハリージェームズ楽団が初めてチャート1位に躍り出たのが当時の専属歌手ディック・ヘイムズがメインヴォーカルで唄った♫I Get By だった。  
 1941年4月7日にRec.同年8月8日にリリースされた。私が所有しているブライアン・ラスト編集の『jazz record』と言う最も信頼を置くディスコグラフィーにはこの曲は載っていない。ブライアンはそのレコードがジャズ的感興があるかなしか?で恣意的に掲載を決めていたようで、このレコードはジャズではないと判断したと思われる。  
 前回紹介した♫You Made Me Love You は載っているのに。共にハリージェームズの甘いtp.ソロが入っている、いや、寧ろこの♫I'll Get By でのハリーのtp.はミュートを効かせてシャープに鋭くキレがありそんなに甘さはない。そもそもこの楽曲自体が甘いのだからそれに反するような鋭さでソロを紡いでいる。ブライアンがこの曲をそのディスコグラフィーから外したのはディックの唄が必要以上に甘かったからではなかろうか。その様に推察出来る。ディック・ヘイムズに関してはロイヘミングがその著作で書いているが、1940年代を通してバラードを歌わせたら、クロスビー、シナトラ、ペリーコモよりも人気と実力を兼ね備えたシンガーとして扱っている。ただアップテンポなスウィンギーなナンバーでは上手くいかなかったと云う弱点も同時に書いている。彼はスコットランドとアイルランドの血を引くイギリス人の父親を持つ家系で、ディックが生まれた時は父は南米ブエノスアイレスの外れで牛の放牧場を経営していたが、ディックの生まれた3年後にイナゴの被害に遭い壊滅状態となり、家族ごとニューヨークへ辿り着き、今度は一足飛びにフランス・パリへ移住し約10年間をパリで過ごす。1930年代に再びニューヨークに戻り腰を落ち着ける。ディック18歳の時に初めて雇われたジョニージョンソンバンドを辞めてハリウッドを目指したが、金になる仕事には中々有り付けず、最初の結婚も破綻してしまう。1939年、作曲術を習得した彼は唄うソングライターとして盛んに売り出す。そしてハリージェームズと運命的な出会いを遂げる。全ての編曲はダンサブルでなくちゃいけないと、ハリーは常々説きディックもハリーの要求に沿うようにバラードのフレージングを身に着けていった。「ハリーは僕にどの曲も心を込めて唄うことを教えてくれた」ディックは後年のインタビューでそう語った。やがてハリージェームズ楽団を契約通り2年間履行してベニーグッドマン楽団を経由して1943年にはトミードーシー楽団の専属歌手となった。
 またもや、シナトラの後釜だった。だが時期が悪かった。その折も折、ミュージシャン組合によるレコーディングストライキが勃発してレコードのリリースが出来ない自体となったのである。
 しかし、首尾よくMGM映画『デュバリーワズ・ア・レイディ』の人気ブロードウェイミュージカルの映画化に際しトミードーシー楽団も出演する運びとなりハリウッドへ行く。そしてその年に独立を果たしたがニューヨークのナイトクラブで唄っているところに二十世紀フォックスからお声が掛かる。丁度対戦末期でハリウッドの俳優たちは粗方兵隊に取られて男優の数が激減していた折だった。ヘイムズはアルゼンチン国籍であり、米国の徴兵令にはパスしていた為ハリウッドではこの人気歌手が手薄だった主役級の穴埋めに程よかった。その後約3年間ディックは唄える俳優として活躍した。だが3年も経ってみると、大した話題作もないことに二十世紀FOXの幹部連はディックにはスターの素質はないと諦めてしまう。その後もユニヴァーサルなどの映画会社へ移籍して凌いでいたが、移籍する映画会社は移籍するたびに弱小会社を余儀なくされて行き、結局はまたナイトクラブでの活動に戻って行くしかなかった。時々、テレビショウではレギュラー番組を持ったりして唄ったりしていたが、その頃荒れた私生活をマスコミに取り沙汰されて下降していた人気に、更に追い討ちを掛けたりしていた。2度目の結婚で彼は二児の父親となっていたが、その離婚により払うべき養育費を支払わず係争していた。又、その後も女優との結婚と離婚を繰り返して、人々の反感を買ったりしていた。私生活では酒浸りの日々で声も衰えて仕事も減る一方となる。1965年、彼はダブリンにいえを買って7番目の妻、イギリスのモデル ウェンディ・ジョーンズと結婚して更に2人の子供を儲け、1970年代には再起を賭けてアルバムを出したりして、未だ健在であることを世間に示したが、セールスは奮わなかった。1980年3月、肺がんと肝臓病によりロス・アンジェルスでその生涯を終えた。享年61歳であった。
 
 
GRAVITY

I'll Get By

ハリー・ジェームス & Dick Haymes

スイングの星スイングの星
GRAVITY
GRAVITY37
マサヤス   龍之介

マサヤス 龍之介

Uber Jazz ♯ 43

 ☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.18』
 
フランクシナトラがハリージェームス楽団を離れてその後任として就いたヴォーカリストはディック・ヘイムズだった。一説によるとシナトラを引き抜いたトミードーシーからの紹介でシナトラの後任としてハリーが迎入れたという記事も読んだが、この時代を知る音楽評論家の岩浪洋三氏の書く顛末の方がより具体的で説得力があるので、そちらの説を紹介する。シナトラ退団直後の或る日、ニューヨーク5番街でリハーサルをしていたハリー、楽譜出版社のラリー・シェインが若いソングライターを連れて楽譜の売込みに来たがハリーは、つまらない…と楽譜をその場で返した。しかし、そこでその曲を唄ったそのソングライターはハリーが声を気に入り話を聞くと、彼は有名なヴォーカルコーチのマーガライト・ヘイムズ女史の息子のディックだと判った。シナトラよりも若干低いバリトンだが高音域も易々と出せたのでハリーは採用することにした。タイプとしてはクロスビーの流れを汲むクルーナーだが男性らしい太いバリトンが魅力だった。1940年2月以降に録音を開始してヒットこそ逃したが当時の新曲♫ハウ・ハイ・ザ・ムーン や'38年にホーギー・カーマイクルの書いた新曲でこちらも未だに歌い継がれている♫ニアネス・オブ・ユー などをリリースしてバンド内の評判は軒並み良かった。因みに後者の楽曲は同年グレンミラーが吹き込みレイ・エバリーが唄い、其方らの方がヒットした。こうしてハリーの専属になったディックは約2年間在籍した。ディックヘイムズが加入した当初、つまり1940年のハリージェームス楽団はコロムビアを一時的に離れインディペンデント系のレーベル、ヴァーシティに移籍していた。これはその前年の1939年にビクターのプロデューサーだったエリ・オバスタインがビクターを退社してそのノウハウを持って廉価レーベルを立ち上げた。それが
VEARSITYレーベルだった。専属ミュージシャンはハリーの他にジャックTガーデンやフランキー・トラムバウアーなどもいた事がある。又、黒人の後のR &Bの先駆けとなったレス・ハイトも専属して彼の代表作♫T・ボーン・ブルース がリリースされた。結局1940年一杯ハリーはヴァーシティに専属したが満足する成果は挙げれず、1941年1月からは再びコロムビアに戻る。そしてこの第二次コロムビア期からハリーは一気にそれまでのジャズ色を払拭してストリングスを配してスイートで上品な楽曲へと路線転換してゆく。これが結果的にハリージェームスが売れるバンドへと導いていくキッカケとはなった。1941年に吹き込まれてヒットしたリムスキーコルサコフのクラシック楽曲
♫熊蜂の飛行 をハリーの巧みなtp.で推進してゆくレコードが好評だった。更に同じ日に録音された♫トランペット・ラプソディ もジャズイディオムを効かせたインストでハリーらしさを前面に押し出してよく売れた。ハリーは結局こうしたリーダー ハリージェームスの個性を全面に目立つ格好で成功したのだった。そんな折、ベニーグッドマンのバンドで人気を博した可憐なガールシンガーのヘレン・ワードがハリージェームスのバンドの1941年5月20日の録音にただ一度だけ付き合った。そしてこの日に録音された♫ユー・メイド・ミー・ラブ・ユー(あなたのとりこ) がハリージェームスの代表作となるほどのヒットを飛ばすことになる。本回はこのヘレン・ワードをフューチャーした♫ダディ をお聴き頂く。

GRAVITY

Daddy (05-20-41)

ハリー・ジェームス

スイングの星スイングの星
GRAVITY
GRAVITY28
もっとみる

おすすめのクリエーター