
マサヤス 龍之介

マサヤス 龍之介

Polka Dots and Moonbeams

マサヤス 龍之介

Moon Ray

マサヤス 龍之介

Black Moonlight (with Jimmie Grier and His Orchestra)

マサヤス 龍之介

Oh, You Crazy Moon

マサヤス 龍之介

Moonstruck

マサヤス 龍之介

What a Little Moonlight Can Do (78rpm Version)

マサヤス 龍之介

It's Only a Paper Moon

マサヤス 龍之介

ムーンライト・セレナーデ Moonlight Serenade

マサヤス 龍之介

Old Man Moon (1939, Standard transcription)

マサヤス 龍之介
涙のワンサイデッド・ラヴ

マサヤス 龍之介
☆Inpressions : 竹内まりや 1994初版
竹内まりやが綴った自叙伝+写真集「Inpressions」には等身大なまりやがそこに居るような、人柄や人間性がよく出た彼女39歳のときに書いたフォトエッセイだった。
竹内まりやは広く知られている通り島根県出雲大社前の老舗旅館「竹野屋」の娘で6人兄弟の第4子。
江戸時代創業の老舗旅館だけに昔から名士が多く訪れていたらしく、まりやが記憶しているだけで三國連太郎(佐藤浩市の父)、小坂一也、三波春夫に森山加代子、錚々たる顔ぶれだ。
父親で竹野屋四代目当主と母親は今でも珍しい学生結婚だったらしい。
まりやの両親は東京の大学に通っていた頃知り合い直ぐに結婚した。
母親はポジティブシンキングの権化だそうで猥談でさえ平気でするような明けっぴろげな人で、父親は真面目なタイプなんでまりやはその半々くらいの性格だそうだ。
まりやの記憶では、夫婦でいがみ合うだとか、 ふたりが罵倒し合う声を生まれて此の方聞いた事がないという。
そしてそれは「子供にとって何よりの幸せだったと思う。なもんだから、結婚というものはこういう風にすべからくうまくいくものだっていう概念をね、幼少の頃からしっかりと植えつけられちゃった。それは大きいよね。今でも(執筆当時)実際仲が良いし、ふたりでお風呂にも入るしゴルフもするし。それが普通だと思って育ったら、実はそうじゃない人の方が多いってことが大人になってわかったんですよね。明るい思い出に満ちたそう言う子供時代が送れたってことに対して、ほんとに良かったなって…」と回想する。
竹内の性格形成の過程が垣間見える良いエピソードである。
小4のある日森永ストロングチョコレイトのCMに見たこともない4人組が出て来て、「超カッコいい曲を歌ってたの。それがビートルズとの初めての出会い。」
この時に聞いた曲が♫ア・ハード・デイズ・ナイト 竹内まりやはそれ以来ビートルズに夢中になった。小6の時に来日したが(この年、小生産まれる)その模様はテレビ中継されて、まりやはかじりつく様にそれを観てこう思う…「東京に住んでいないことが恨めしい…武道館に行きたい!」丁度、その頃店頭に出ていたLPが「フォーセール」で、無論買って針を落とすといきなりジョンの声で♫ミスタームーンライト が出てきた時には「震えましたよ、ほんとに。」
中1の時、一番上の姉がエルヴィスプレスリーの「ハーレム万才」という映画を観に行くのに「私を連れて行ってくれたの。その時併映されていたのがなんと「ヘルプ!」だったんですよ。で、♫You're Gonna Lose That Gail(恋のアドバイス) のレコーディングの場面を観て…私にはこれしかない!って思ったの。…こんなカッコいいものは世の中にないって。ジョンが主メロを歌うと、こっちでポールとジョージが一本のマイクをはさんで追っかけのハモりをするところを横からシルエットで撮ってるあの場面は、今でも私が人生の中で見た最もすてきなもののひとつかもしれない。」
あの頃、他の子たちは「野球部のピッチャーがステキ❣️」とか「サッカー部のあの子が可愛い😍」とか皆んな言うのに結局私は「ジョンの方がステキ」とか「どうしてポールみたいな子がいないのかな」なんてな具合。
その頃付けていた日記にも「イギリスに行きたい」「ビートルズに会いたい」と頻りに書いていたという。
まりやによると、竹内家の姉妹達はみんなユミコ、アツコ、ヨウコなのになぜか"まりや"がひとり混じっているんだとか。
大学時代に当時日本に進駐していたアメリカ軍の将校宿舎だった新橋第一ホテルのオフィスで通訳や翻訳のアルバイトをしていて、とても英語に堪能だった父親は、たくさんの子どもの中のひとりくらいは世界中どこへ行っても通じるような名前を、趣味で付けたかったらしい、それがまわってきたのが"まりや"だったと言う。高1の春にカリフォルニアから、或る弁護士一家が竹野屋に泊りに来て、そこの長男からアーロガスリーの映画の話やらブルースブレイカーズの話をしてくれ彼等と友達になってそれでアメリカが近付いた🇺🇸という。
まりや自身も父親から教示を受けて、拙くも多少の英会話ができるようにはなっており、その家族との会話がどうにか通じた事に、喜びを感じて本格的にアメリカに行くことを模索したという。調べた結果ロータリークラブの交換留学生になるか、アメリカンフィールドサービス(AFS)と言う名の公費留学システムがあることから後者に決めて、かなりハードといわれたことから高2の夏休みの間、駒込の姉や兄達が間借りしていた部屋を帰省で入れ替わるようにまりやが借り、目白在住だったふたりのアメリカ人から教わり毎日3時間みっちり特訓を受けたと言う。こうして、夏休み後に試験が始まった。最終的には第三次審査まで進み見事パスした。島根県だけで60人受験したらしいが蓋を開けてみたらまりやは島根県唯一の合格者だと言うから大した者だった。
各生徒の個性に合わせてホームステイ先が割当られるシステムらしいがまりやはアメリカ イリノイ州のロックフォールズと言う中西部の街にあるウォード家の1人娘として一年を過ごすことになる。
希望に満ちた高3の春のことであった。
アメリカ🇺🇸では秋からが新学期だからそれに合わせる形でまりやも高3の秋からイリノイに乗り込んで行った。
アメリカの家族とはステイ前からずっと文通をしていたのでダベンポートのバス停に降り立ちウォード一家がビュイックで出迎えてくれた時にはすっかり打ち解けていた。
ウォード家はまるで絵に描いたようアメリカンホームがそこにあり、まるでホテルみたいなバスルーム、綺麗な黄色い花柄の壁紙の部屋、大きい真っ白なベッドにお揃いのドレッサー、鏡の所に日本語で「わが家へようこそ」と書かれている本当に心からのホストファミリーがそこにはあったと言う。
学校に行けばこちらも映画にあるような長い廊下にズラーっとロッカーが並んでいてそこかしこで熱烈なラブシーンが繰り広げられていて、その横を校長先生が何食わぬ顔でスタスタ歩いていく…みたいな日本では味わえないような文化の違いを目の当たりにしたのだが、まりやにとっては圧倒されるどころか寧ろ性格的には合っているという。
アメリカでは、何かにつけてダンスパーティーが催され必ず男の子から招待を受けた子でないと入れなかったらしい。
それが毎日の様にあり今日はマイケル、明日のお相手はジョージと言った塩梅であったという。YOUは明日のパーティにどんなドレスを着て来るんだい?が常套句で、うん〜パープルのイブニング❗️って答えると男の子も翌日紫色のシャツにブラックタキシードと言った出で立ちで登場、学校の体育館などで繰り広げられる。デートでは大抵の男の子たちはベンチシートの車で迎えに来て2人で一つの毛布にくるまってフットボールを観ると言ったパターン。
アチラでは高校生でも車の免許が取れるのだ。
そんな恋に勉強に明け暮れた生活の中でまりや最大の失恋事件が起きる。
数あるダンスパーティーの中でも唯一女の子から男の子を誘えるパーティ、リーヴァイリープと言うお揃いのジーンズを履いて👖Tシャツも合わせるというのに照準を合わせてまりやは予てから好きだったダグラスと言う同じコーラス部に所属しており父親がミュージシャンだったと言う子がまりやの大本命だった。
日頃からよくデートに誘ってくれてたから何の問題も無いと高を括って誘ったら「ごめん、実はもう僕は違う相手と行くことになってるんだ」とあっさり言われて目の前が真っ暗!
カフェテリアでそれを言われた途端に余りのショックで涙が止まらなくなって駐車場まで一目散に走って行き、ホストシスターだったジュリーにしがみついてワ〜ッと泣いてしまったと言う。この時のことを後に書いたのが♫涙のワンサイデッドラヴ である。
一年間の留学生活を振り返りまりやは次のように語る。
「でも、不思議なことに、あのままほんとにアメリカに居座りたいとか、いつか青い目のフィアンセでも見つけて永住したいとは一度も思わなかったの。私にとっての外国暮らしは、あくまで期限付きっていうのが良かったみたい。言葉が違ってたって、基本的に人間が感じたり考えたりすることは、同じなんだという結論を、実際の体験を通じて見出せたのは非常に大きかったけど、同時に、人生を深いところで分かち合っていくためには、やはり自分の生まれて育った国の言語でしか絶対に言い表わせないことがある、と言う事実も、私なりにわかった気がしたんです。誰かと一生を共にしたりするには、ただ単にカッコいいとかね、そんな憧れだけじゃ成り立たないってことも、しっかりそこで学んだんだから。」長くなって恐縮だが、この本はとてもいい内容なので2回に分けて紹介して行きます。これからがいよいよ面白いので。
次回は大学生活、歌手デビューから山下達郎との出会いそして結婚とつづきます。
次回をお楽しみに!
本回はそんなまりやさんのホームステイ時代の甘酸っぱい思い出が詰まった♫涙のワン・サイデッド・ラブをアップした。2枚目のアルバム『ユニヴァーシティ・ストリート』の2曲目。独身時代からまりやのクリエイター陣の一角を占めていた山下達郎のアレンジ、詞曲はまりやだが圧巻なのは全ての楽器を達郎本人が行っている。まりやが元々シュガーベイブファンだったことから、憧れの存在だった達郎に初対面でいきなりサインを求めたことから、達郎に叱責を受けたまりやだったが、そんな経緯から達郎もまりやへのシンガーやクリエイターとしての才能を感じたのか、まりやの初期のアルバムではかなり気の入った作品が目立つ。独身時代の山下達郎との先輩・後輩ミュージシャン同士の幾つかの竹内まりやとのエピソードは、話を聞いているだけで、達郎がまりやを相当意識していたかを物語るものが多く、興味深い。
続


プラスティック・ラブ [12" Original Length ReMix]

マサヤス 龍之介
#大滝詠一 #ナイアガラ
☆『EACH TIME/ 大滝詠一 1984 ♯ 1
♫ペパーミント・ブルー まで』
本年も残り1カ月余。
寒さ一層厳しくなる折、読書子に於かれましては気候差、温度差にご注意遊ばされますようご自愛くださいまし。
年の瀬ともなりますと毎年、2013年の12月30日に亡くなった御大大滝詠一さんのことを思い出す。
あの日は大阪の赴任地から早めに帰省して当時の彼女とドライブを楽しんでいた。運転していた車が京葉道路を快走していたときだった。
自前のCDにも飽きてラヂヲに切り替えた夕刻のニュースで耳に飛び込んできた大滝死すの報に暫くはハンドルを握る手から力が抜けて行くのを感じながら意識だけはキチンと運転しなければ💦…との思いに駆られたことを昨日の様に思い出す。
解離性動脈烈…ニュースで聞き慣れない病名で亡くなった事を聴き、当日の朝林檎🍎を食べていての突然死と言っていたが正直解せなかった。然し、死んだ事は仕方のない事実。
余りに早過ぎる死に空しさと憤りと…なぜ?…と言う問い掛けが数日間頭から消えなかった。
あれから早12年と言う歳月が流れ様としている。
前回の『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店版 # 14-30 の項はアルバム「A LONG VACASION』の軌跡を辿ったが、今回は彼の最期のアルバムとなった『EACH TIME』のレコーディングデータを中心に話を進めて行こうと思う。有難いことに近年、堀内久彦氏が70年代からの大滝のレコーディングをまとめた著書が昨年までに刊行されたのでそれで『EACH TIME』のレコーディングの全容は把握出来る。参考資料は最後に付記しておく。
2004年2月18日、赤坂キャピトル東急に於ける湯浅 学氏から御大へのロングインタビューでの回想では、最初に録音した楽曲は♫夏のペーパーバック と言っているがコレクティングデータではこの楽曲の録音は1983.3.21となっており 最初の録音曲はun cutで1983.1.21である。このデータだけでは楽曲が分からなかった。インタビューでは1983.1.19に♫夏のペーパーバック と語っている。そして1.21に録音したのが1984年の渋谷陽一の番組で掛けたと言われているのがこのun cut である。しかしこの謎のun cut は昨年3月21日にリリースされた『EACH TIME 40th Anniversary Edision』に所収されていた、それまで未発表音源であった♫shuffle off であることが確認できる。
1.27には♫バチェラーガール を録音と語っており、これはデータと合致する。
大滝詠一の場合こうした証言とデータの乖離がかなり頻繁におこるが、これも性格ゆえ、致し難し。それについては山下達郎もそういった指摘をラジオでしていたことがある。
堀内久彦氏が昨年までに著したレコーディング・ダイアリーは主に大滝詠一亡き後にナイアガラエンタープライズを率いる大滝の娘婿の坂口修氏からの録音テープの開示があったのが大きい。大滝詠一本人の判断で大滝はレコーディング中のミュージシャンたちとのやりとりの様子を克明に記録していた。堀内久彦氏はそれを文字起こししてゆく。『EACH TIME』の各曲はすべて六本木ソニーのスタジオで行われた。今回堀内久彦の労作のおかげで断片的だった情報が白日のもとにされて、その全容が掴めたのだ。感謝しかない。
先ず、ハッキリしたのが、最初に録音されたのが
♫夏のぺーパーバック か♫shaffle off か、の問題は湯浅学と大滝詠一との2004年の対談でも話し合われていたとおり♫夏のペーパーバック であった。1983年1月19日 。ドラムは上原"ユカリ"裕。ベースはこのアルバムの殆どの楽曲が長岡道夫。
長岡はナイアガラセッションの常連ベーシストのように言われているが、長岡が大滝のレコーディングに呼ばれたのは実はロンバケセッションからであった。ロンバケの頃の長岡と言えばあの、SHOUGUNのベーシストであり、1978年にeg.の芳野藤丸らとバンドを結成して、松田優作主演のドラマ「探偵物語」の音楽を手掛けてヒット、多忙な頃だったと云う。70年代後半の大滝セッションのメンバーはKB.の井上鑑を中心としたメンバーたちであり、その頃のベーシストは金田一昌吾であり、これにds.の宗台春男を加えれば泣く子も黙るピンクレディーのバッキングを数多くこなしていた。それで大滝の70年代最後のアルバム「Let's Ondo Again」所収の♫ピンクレディー は正にそう云う理由から大瀧が発想して生まれた楽曲だった。ところが、金田一が79年一杯でスタジオミュージシャンを辞めて札幌に帰ってしまったので、代わりのベーシストとしてインペグ屋から声が掛かり長岡にお鉢が回ってきたのだと云う。本年11月1日に発行されたばかりの湯浅学のロンバケの本の中で湯浅は長岡にもインタビューしていて、貴重な数多の証言を取り付けている。
さて『EACH TIME』の初日セッションのミュージシャンたち他のメンバーでは eg.に村松邦男。ここでのeg.村松の役割は殆どリズム。ソロは鈴木茂が担うがこれらリズムを先に録り、後にこのリズムセクションを聴きながら鈴木がソロを弾くのだが、そのダビング作業日が別立てで組まれているので、この初セッションに鈴木は不参加である。大滝のリズムセクションの要とも言えるagに大滝は4人呼集している。ロンバケセッション以来の安田裕美と吉川忠英、そしてこの日はベテラン奏者の石川鷹彦も大滝セッションに初参加している。更にナイアガラサウンドの肝とも言うべきperc.所謂、カスタネット隊としてはティン・パン・アレーの重要メンバーの一人、浜口茂外也(作曲家浜口庫之助の子息)、斎藤ノブほか総勢4人が揃えられて、粗方のリズムセクションの人々は一同に会した。大滝の紡ぐ所謂ナイアガラサウンドは全員せーので、一発録りとよく言われるが、このようにリズムはリズムで全員を集めて一発録りされるが、後日gのソロをダビングしたりストリングスやブラスセクションはまた別録りなのである。厳密な意味での一発録りとはちょと違う。大滝はレコーディング時にミュージシャンを集結して輪の真ん中でマイクでこれら塊の音群にそれぞれ冗談を交えながら細かい指示を出してゆく。時に口伝えで、時に音楽用語を駆使して。そのコール&レスポンスの模様はこの堀内久彦の書に詳しいのだが、1月21日、二回目のセッションで、♫shuffle off がほぼ初日と同じメンバーが呼集された。結局はボツになる録音だったがこのドキュメントを読むとそんな演奏でも大滝はダメ出しをしたりかなり綿密にミュージシャンたちにあれこれ要求している。次が、2月5日の録音でこれはアルバムには入れなかった曲で翌年NHKからの番組主題歌として採用された♫マルチスコープのテーマ(ゆらりろ) として使用されON AIRされ、それから暫くは放置状態だったものが1990年代の山下達郎との新春放談オンエアー時にリクエストが届きそこで初放送後、1995年3月21日にリリースされた「EIICHI OHTAKI Song Book II 大滝詠一作品集 VOL.2(1971-1988)」と言う大滝本人監修による大滝の楽曲提供作品集の中で初披露された。
そしてその翌日は前々から構想を練っていたと言っている♫1969年のドラッグレース これもデータ通り1984.2.6の録音。この日はギター🎸の鈴木茂に予めファイアーバードを持参することを頼んでいたと言う。それであのハードなアプローチが生きた!
お次は2月9日に♫恋のナックルボール の未発表テイク。本テイクよりも大分テンポを落としてダースベイダーの声迄いれている(?)。これはデータには未記載であり、かなりややこしい。このテイクは2004年3月21日リリースの「EACH TIME」20周年エディション盤で初リリースされた。2月15日火曜日にアルバム本来の同曲のヴァージョンが録音された。
そして薬師丸ひろ子から映画主題歌のオファーを受け一旦アルバムはオミットとなるが、何せアルバム制作期間中なのでミュージシャンは当然『EACH TIME』と同じ、従ってミキサーもメインの吉田保(吉田美奈子実兄)が司るからサウンドもアルバムと全く同じなのである。この録音が♫探偵物語 と♫すこしだけやさしく になり♫すこしだけ… が2.20 ♫探偵物語 が2.22 に録音。この時点では曲のタイトルは♫すこしだけやさしく が探偵物語で♫探偵物語 は海のスケッチ だった。大瀧の解説によると、それまで薬師丸について何もしらなかった大瀧はこのオファーが来て慌てて薬師丸の主演映画を観たらしい。とある映画の中で薬師丸が久保田早紀の♫異邦人 を唄うシーンを観て印象に残り薬師丸にメリーポプキンのイメージをダブらせたという。そこで作ったのが♫すこしだけやさしく だったという。ところが、この明るいタイプの曲は余りご本人に気に入って貰えなかったようで、もう少し暗くしっとりしたタイプの曲を、という注文があり、急遽作ったのが♫海のスケッチ だった。映画主題歌ということもあり当初から主題歌は映画のタイトルそのままで行くことになっていたことから、そーなったというのが経緯らしい。
間髪入れずにアルバム楽曲に戻り2.27に♫木の葉のスケッチ を録音、アルバムのクレジットでも確認できるMr.北村英治 ことジャズクラリネット奏者の北村英治をスタジオに招聘してこの楽曲で印象的なソロを吹いた。
その翌日に薬師丸ひろ子の♫探偵物語(変更前だから実質的にはすこしだけやさしく Vo.ダビング、3月1日にはミュージシャンの各種ダビング作業を行う。薬師丸の歌入れ♫海のスケッチ 3月3日、ミックスを終えて完成させたのが3月5日。場所はいずれも東芝のスタジオであった。
因みに映画「探偵物語」の音楽は加藤和彦がプロデュースを手掛けて作曲も彼だった。翌日の3月6日日曜日に大滝はレコーディングの合間に東芝EMIの3スタへ行き薬師丸のサントラ盤用劇中セリフの録音に顔を出しており、加藤の仕切るサントラには関与はなかったものの、礼を尽くしている。
そして3月11日金曜日にアルバムでも一番華がある♫ペパーミントブルー を録る。ドラマーは山下達郎の右腕ドラマーだった青山純に替わっている。
しかし、これを大滝はシングルカットしなかった。それに対する発言はないのだが、この曲について大滝は「…ずーっとあのアルバム聴くたんびに、なんかね、葬式のアルバムみたいな気がしてさ。とにかく(歌詞も)終わる話ばっかりなんだよなあ(笑)。うまくいかない話と終わる話ばっかりで。唯一♫ペパーミントブルー みたいなものも、良さそうででも陰がもの凄くあるんだよね。」と20年目に回想している。
確かに言われてみればそうだが、そんな本人の感慨とは関係なしに真っさらな心情で聴いていただければそれなりにリゾート🏝感なアプローチに聴こえるはずだ。
レコーディングを開始してから凡そ2ヶ月。当初このアルバムは1983年7月28日にリリースされる予定だったが、大滝の細かいディテールにまで拘る音作りなどから後から制作期間は伸びてゆく。
続
参考文献
・ALL ABOUT NIAGARA : 大滝詠一 増補改訂版 白夜書房2005年12月7日刊
・大滝詠一Talks About Niagara レコードコレクターズ2014年4月刊
・大滝詠一レコーディング・ダイアリーVOL.3
堀内久、






ペパーミント・ブルー

マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
『80年代〜大滝詠一との再会 、ロンバケが遅れた本当の理由とは?』
'70年代の終わり頃からニューミュージックが台頭してきていた。歌謡曲とニューミュージックと演歌に洋楽、これらの音楽がヒットチャートを毎週入れ替わり立ち替わり目まぐるしくランダムに乱高下していた。日本の音楽シーンに於いて、若者が"自分たちの音楽"を推す風潮は実は1950年代からすでにあったはあった。ニューミュージックは歌謡曲とは明らかに歌の"造り"が違っていて、歌う楽曲はシンガー自身が作る、所謂シンガーソングライターが大半を占めていた。歌謡曲は作詞家、作曲家、レコードの音を決める編曲家が皆バラバラで餅屋は餅屋の分業制だったのだが、ニューミュージックの潮流を作ったのは、1970年デビューのはっぴいえんどである。但し、シンガーソングライターとはっぴいえんどのやり方はちょっと違っていて、その後台頭するシンガーソングライターたちの大半はレコード化する為の編曲まではプロのアレンジャーに発注したが、はっぴいえんどは自分たちで音を紡いでいった点である。まぁ、バンドだから当たり前、と思うが、1970年当時そこに踏み込むのは、既製勢力の壁が高くレコード業界ではその構図を打ち破るのには相当な勇気が必要だった。日本の音楽シーンにもそれなりの慣習が残っていた時代である。それまでの職業作家だった人たちがこの新たな潮流を嫌っていたのは言わずもがなだったが、一人だけ上手く迎合したのが筒美京平であった。筒美京平の作品はよく、洋楽をモティーフに作られている、と言われたが、その思考や在り方はニューミュージックのシンガーソングライターたちと全く機を一にしている。だから、時代が1980年代に入り洋楽の影響色濃い、ニューミュージックや後のJ-POPの時代に入ってからも筒美京平にはミュージシャンやアイドルからのオファーが絶えなかったのである。要約すると、日本のポップス史とは洋楽を如何に日本人の志向に合わせて作るか?が服部良一の時代からの命題だった、と言える。その日本のポップス史を研究したミュージシャンが大滝詠一だった。彼は1984年にアルバム『EACH TIME』を作り、個人としては初のチャート1位になったのを見届けるかのようにして、あっさりとシンガーソングライターを辞めた。1981年のアルバム『A LONG VACASION』のヒットに端を発して、丸3年間、ミュージシャンとして活躍して、他人への楽曲提供にも応じていたが、その三年間が嵐の様に過ぎ去ると彼は世間から身を潜めるかのように第一線からは遠ざかった。以後、あらゆる趣味に没頭する大滝は、三年周期で様々なことに没入しては印税やラジオの出演料で暮らしていた。活躍していた80年代から彼はテレビという媒体では唄わず全てのテレビ出演を断っていたが、その代わりラジオ📻には積極的に出演していた。そして一度没頭した趣味に回帰することも無かったが、本年9月13日土曜日23:00からNHKEテレで放映されたETV特集でクローズアップされた大滝のドキュメントの中で松本隆がインタビューに答えて……もうちょっと頑固にならずに長生きしてくれてたら、はっぴいえんどの再々結成もあったかもしれない……と語っていた"頑固にならず"は、この趣味癖のことを差しているんだろうなぁ、と私は直感で思っていた。長年の盟友ならでは言葉だった。
そんな大滝がはっぴいえんど以来、作品においては一度も組まなかった松本隆と再び組んだのが、『A LONG VACASION』だった。はっぴいえんど解散後、大滝は自己のレーベル『NIAGARA』(勿論、大滝の名に由来している)を設立したが、レコード会社が難航した。と、云うのも大滝ははっぴいえんど解散後から数々のCMソングを手掛けていて、そのCMソングの音源をレコード化したかった。それを条件に大手レコード会社を回ったが、どこも答えはNOだった。CMの音楽なんて誰が買う?。こんな感じで結局一番好感触を得たのが、大滝が一番嫌がっていたエレックレコードだった。エレックは当時吉田拓郎や泉谷しげる、佐藤公彦、海援隊、ずうとるびらを擁していた会社だったが、印税や契約に関することがアバウトで、大滝が嫌っていたのもそこが一番の要因だったようである。然し背に腹はかえられぬことから大滝は契約したのだが、嫌な予感は当たるもので、エレックレコードは1976年7月15日に倒産した。大滝は自己のレーベル『NIAGARA』を発足し最初に山下達郎や大貫妙子らがいたシュガーベイブのプロデュースを手掛けて、ファーストアルバム『SONGS』を1975年4月に、翌月に自己のアルバム『NIAGARA MOON』 をリリース。どちらも製作費を凌ぐほどの売上は出せ無かった。
田家が書いている通り、当時の大滝は作詞、作曲、編曲、自己のスタジオを持ちレコーディング、トラックダウン、マスタリングのエンジニアまですべて一人で受け持ち、果ては原盤管理に至るまで行った最初のミュージシャンであった。原盤管理についてはフジ・パシフィックの朝妻一郎という音楽に大変造詣の深い理解者がいたので、大滝は自己の音源を他者ではなく自身で管理しなければならない、との信条から1976年7月22日に株式会社ザ・ナイアガラ・エンタープライズを設立、会社の設立資金は朝妻のいるフジ・パシフィックからの援助も受けた。朝妻に関しては大滝のレコーディングに係る必要な資金を供出してくれる正にグレートコンポーザーであった。音楽は文化事業であることを分かってくれていて、単に損得勘定のみで考える人間ではなかった。朝妻がいたから、80年代の大滝の活躍があったと言っても過言ではなかろう。不遇だった70年代の大滝の活動を下支えしたのも朝妻だった。朝妻は、……彼なら間違いなくブレイクするって確信は70年代から思ってました。我々は長い目で音楽を見通さ無ければならないんです。当時の上司からは随分と責められましたが、大滝君や山下君には『時代がまだまだ全然追い付いて無かった』んでしょうね。彼らは先見性をもって音楽と向き合っていたんです。それだけは私の中にもずっとありました。だから、大滝君より山下君の方が♫RIDE ON TIME で先にブレイクしちゃったでしょ?あれれ?ってね(笑) 大滝君の時よりも山下君のブレイクの方が喜びが大きかったかな(笑)信じてたものがやっと報われたんだ、ってね。……
エレックレコードが倒産して大滝はコロムビアレコードと契約したのだが、レーベルは存続可能であり、大滝は契約金まで受け取る事が出来たのだが、大滝は契約そのものより契約金で16チャンネルのマルチトラックレコーダーを購入することの方を嬉しがった、という話は有名だ、と田家は書いている。しかしコロムビアレコードとの契約内容とは3年間でアルバム12枚、シングル12枚、つまり年間で両方4枚ずつというアイドル以上の過酷な条件を突きつけられたという。最終的にその条件はクリアしたが、中には大滝がプロデュースに専念した(2曲はヴォーカルでも参加)シリアポールの『夢で逢えたら』というオールディーズカバーアルバムや大滝の歌が入っていないインストアルバムも含まれていたのだから、コロムビアもよくこれでOKしたな……と思えるアルバムが含まれている。1976年から1979年までの3年余の間は殆ど毎日レコーディングスタジオに居たよ…と大滝の当時"丁稚"だった音楽評論家の湯川学が、後に大滝との回想談を録音したテープの中で親交のあった音楽評論家の萩原健太に語っていた大滝の言である。このテープは今回のETV特集で初披露されていた。田家はこの書の中で、『78年11月、12枚目のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」が出て契約満了、彼は晴れて自由の身となった』とある。コロムビア時代の、大滝名義及び大滝詠一名義のみならずとも少なくとも大滝のアルバムとしてカウントできる枚数は総じて11枚であった。これにはエレックレコード時代の『SONGS』と『NIAGARA MOON』のリイシュー盤を含む。田家が指摘した『LETS ONDO AGAIN』以後にはもう一枚アルバムが出ていた。これは契約枚数を消化させる為にコロムビアレコードがナイアガラ時代の山下達郎の音源を編んだベスト盤の様なものだった。それが1980年7月10日にリリースされたTATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA / 山下達郎 である。
因みに3年間の内シングルは9枚のみであり、こちらは契約不履行であった。
今月の1日に発行されたナイアガラの丁稚こと音楽評論家の湯川学が嘗て、レコード・コレクターズ誌で連載していた記事が上梓された『A LONG A LONG VACASION』の中でロンバケの担当ディレクターであった旧CBSソニーの白川隆三がインタビューに答えているのだが、大変興味深い証言を取り付けている。今や通説となっている松本隆が妹を亡くしてスランプに陥りロンバケの詞が書けなくなったからキャンセルしてきた、という件のことである。キャンセルしてきた松本に大滝は、発売なんて延期すればいいと言ったのは事実だが、そこで朝妻、大滝、松本、白川の4人が軽井沢で合宿して松本の再起の一助となった、という流れで語られているのは違う、という訳だ。松本隆の妹、由美子が亡くなったのは1980年6月28日のことだという。アルバムの当初の予定が1980年7月28日の大滝の誕生日で設定されていたことと鑑みると、松本の詞が発売の1ヶ月前の段階で上がって無かったというのは直接的には妹の死によるブランクとは関係ない次元でのディレイが生じていた事になる。これは今回出版された湯川の本で改めて分かった事実であった。軽井沢での合宿が発売予定だった1980年7月に行われたことも併せて考えるとロンバケの発売延期はもっと違う理由による制作上の何か、という事に他ならないしその真の理由には誰も何も発言していない。白川隆三はこのアルバムの担当ディレクターでありながら、制作面は全くタッチしていなかったという。白川がディレクターとしてやったことと言えば、大滝のレコーディングためにソニーのスタジオの確保に只管奔走していただけ、と言い切る。大滝の歌入れの為にシナソ(信濃町ソニースタジオ)のスタジオを3ヶ月に亘り立ち入り禁止にしたのは有名な話である。白川は他のディレクター達からのクレームを一身に受けたことは容易に想像できる。発売延期の理由については田家のこの本でも松本隆自身が自分の妹の死で詞が出来なくなり…と語っているCD解説を引用しているため、と紹介しているがこれも事実誤認であることが、今回はっきりしてしまったが白川の発言が如何に貴重な証言かが判るのである。






カナリア諸島にて

マサヤス 龍之介
#エッセイ #日本酒
☆神田 淡路町 大樹
昔…もう20年ほど前のことだが、本社(飯田橋と九段下の中間地点)勤めの帰りに飯田橋駅付近にあったお気に入りの焼き鳥屋(お目当てはやきとんだったが…)に頻繁に行っていた。
当時本社勤めの頃は地理的にも近在だった水道橋駅近くの中古レコード屋ROOTに大体2週間に一度は行っていた。
ROOTは閉店が20:00だったので社長のOさんと閉店後、近くのファミマで缶ビールと乾き物やスナック菓子、フランクフルトだのを買い込んで店に持ち帰り気の済むまで2人で飲み明かしたものだ。
そんな時は大抵レコード以外の話で盛り上がる。
Oさんも狭い業界しか知らないからちょっとした異業種懇談会みたいなものだ。
其れこそその昔、会社のお偉方がよく 若手の我々には…同じ会社の人間とは余り付き合うな!同じ業界の人ともダメだ👎
異業種の人と飲め!
と、事あるごとに言っていたのを思い出す。
同業者の人と飲むとやれ引き抜きだの、碌な話にならない、仲間内との飲みは愚痴のこぼし合いで終わるし、ちっとも生産性が無く終いにはネガティヴになるだけだと云う訳だ。
それより異業種の人達と飲めばそれだけ見識も拡がるし、自分の業種の良い面、悪い面が浮き彫りになるから視野が拡がると言う訳だ。
そう云うアドバイスと云うのは言われて直ぐには何とも思わない。
時間が経ってからジワジワ効いて来たりするのだ。
あれから二十有余年が経ち、つくづくそう思う。
だから当時私がまだ30代の頃だったがその時親会社から来ていた常務と云う地位にいたオッさんだったが、余り若い人間は近寄り難いオーラがプンプンしていたが、今にして思えば本社にいけば声だけは掛けてくれていたから一応数いる若手の中でも覚えてはくれていたのだな…とは今更ながらにして思う。
前職のときのプロバーで唯一の役員が一塊の埼玉支社員だった私を本社に引き上げてくれた時の常務だった人なのでよくよく覚えてはいるが、そんなお偉方が、私が本社に上がって3カ月目に社長、役員交代でまるで入れ替わるように居なくなってしまったが、忘れられない思い出である。
さて話は前後するが、先程話掛けて、話そびれてたその本社勤め時代によく行っていた飯田橋駅付近にあった焼き鳥屋が本日ご紹介する「大樹」である。
「たいじゅ」なのか「たいき」なのか、はたまた「だいき」なのか確認した事もないから呼び名は不明だが仲間内でも だいじゅ とか だいき とか皆バラバラに呼んでいたが兎に角「アソコ」で飲もうと言えば、仲間内なら一発で分かる店だった。それくらいよく通い詰めたのだ。
私とその仲間たちがよく行ったのはそこと飯田橋駅に近い目白通り沿にあった「寿司幕府」と云う握り専門店だ。
お目当てはわさび巻き と云う罰ゲームの時のメニューですか?的な兎に角辛いの辛くないのって。山葵は胃がん細胞の抑止効果があったり抗菌効果、認知症予防以外にも血管拡張や骨密度強化など多彩な効果があると言われてるらしい。やはり江戸前の寿司屋らしく出だしは光り物の小肌からスタートしてマグロ、わさび巻き、かっぱ巻き、エビ、イカ、わさび巻き、かっぱ巻き、鉄火巻き、赤身、わさび巻き…てなサイクルで注文を頼んでいた。
回転じゃないから一見高そうだが、こんなもんで1人三千円くらいだから普通に飲んでるのとさして変わらない。
こう云う所は余り大人数で行かないことだ。
会計が面倒臭くなって結局割り勘になるからだ。
だからここの場合は数人で行っても会計は別々で頼むのだ。
それが出来るくらいに通うことが肝要である。
で、この「大樹」だが、食べ物 メニューは多くない。
画像のオーダー表が全て。
つまり、選ぶのに程良い。
それにやきとん、特にカシラは絶品だ。
無論埼玉・東松山方式の調理味噌を付けて食べる式である。
都内、特にこのカシラに味噌だれは飯田橋、九段下界隈の焼き鳥屋では常識である。
それから同じ串もので秀逸なのは、納豆焼きである。
納豆に海苔を巻いてタレで出てくるのだが、これは正しくこの店オリジナルである。
それからつくねは、食べ逃してはならぬ一本だ。
しかし時移り星変わり、この大樹は飯田橋駅前再開発の波に呑まれて今では神田 淡路町に移転してはいるが今日も元気に営業中である。
元の店舗があったビルは影も形もなく、今では某大手の再開発タワーマンション"プラウド"となってまるで別の街に来てしまったかの様な錯覚に陥ってしまう。
締めは日本酒🍶一ノ蔵(宮城)を冷やで頂き、ほろよい…千鳥足、良い気分❣️
かんぱ〜い🍶






Egyptian Fantasy (エジプトの幻想)(「吉田類の酒場放浪記」オープニング曲)

マサヤス 龍之介
ニューミュージックの岸辺に🏝
久しぶりの日勤で意気が上がりました(^-^)v
昨日はシティポ、今日はニューミュージック。
この似て非なるものは昨日の岸辺🏝を聴いて頂いた方が本夜も聴けば分かりやすいのかも?
別に本夜だけでも、聴いたら判るって😅
本夜の岸辺は19:00~20:00のshort varsion
21:00~のlong varsion の2部制となっております。お間違えなきように[照れる]






白い冬

マサヤス 龍之介
シティポップの岸辺に🏝
本夜の音声ルーム🎙岸辺🏝は久しぶりのシティポップ✨🌃特集。
漸く、丸3年を経た当ルーム配信、当初からの名物企画でございます。
今や大御所の、或いは鬼籍に入ってしまったミュージシャンたちの若き日の音源を振り返って参ります(*´ ³ `)ノ
安定のシティポップ特集は20時40分頃からスタートです🎬🎶









山手ホテル

マサヤス 龍之介
昨夜はビーバームーン🌕つまりはスーパームーン🌃だったそう🌙.*·̩͙あたしゃルームでそれどころじゃなかったんで、やんすが、今宵も月はプレアデス星団(すばる)の近くを通過する。両者は夜空で1度未満、正確には49分しか離れていないように見えるそうです😊
プレアデス星団は、1000個以上の高温で若い星から成る散開星団だ。ギリシャ神話のプレアデス7姉妹(セブン・シスターズ)に由来し、特徴的な配置で集まっている。ただし通常、肉眼で見えるのは最も明るい6つの星だけ、ということで、本夜の岸辺は星月夜の岸辺に~星と月に因んだ音楽をじっくりと🎧゚。🌟お楽しみ頂きます(*^^*)
星月夜を眺めながら、また、寝落ちにも丁度いい音楽を懐かしいエヴァーグリーン音楽からチョイスしました。
20:40くらいからじっくりと[ほっとする]



スターダスト

マサヤス 龍之介
宇治市は京都の南に位置し、大阪からも車で行き易い。この連休の中日に10円玉の裏に刻印されている世界遺産『平等院鳳凰堂』を拝観してきた。昨年の大河ドラマ『光る君へ』ゆかりの地でもあるが、番組で主人公吉高由里子演じる紫式部の淡いラブストーリーの相手役柄本佑演じる藤原道長の別荘地『宇治殿(うじどの)』だったこの地に道長の長男藤原頼通(ドラマでは渡邉圭祐が演じる)が、1052年(永承7年)に「園城寺」(おんじょうじ:天台宗の寺院、現在の滋賀県大津市)の末寺となる平等院として創建した、とある。
平安時代中期から末期にかけて人々に広まり始めた「末法思想」(まっぽうしそう)に端を発している。これまでに普及されてきた仏教は、現世での救済を求めるものでしたが、末法思想は「釈迦が入滅[にゅうめつ:悟りに入ること]してから2,000年後は、釈迦の教えだけが残り、悟りも得られなくなる」といった考えで、平等院が創建された1052年(永承7年)は、まさに釈迦の入滅2,000年目と推定された年であった。末法思想や浄土思想の考えを持っていた藤原頼通も、もともと祀っていた「大日如来」(だいにちにょらい)から「阿弥陀如来」(あみだにょらい)坐像を本尊にしようと、本堂(本尊を安置する場所)を建立。それが今日も残る平等院鳳凰堂である。
さらに貧困と治安の乱れ、度重なる疫病による不安から、現世では救済されないと考えた人々は来世に救いを求め始める。末法思想によって生まれたのが、来世に救済を求める「浄土思想」(じょうどしそう)であった。
藤原氏の財力を示す絢爛豪華な寺院だった平等院だが、平安時代の末期には戦乱に巻き込まれる。
1180年(治承4年)に「以仁王」(もちひとおう)による挙兵が起きた際、以仁王方の武将「源頼政」(みなもとのよりまさ)が「宇治橋合戦」で敗れ、平等院内の「扇の芝」(おうぎのしば)で自害。
そして1184年(寿永3年)には、平等院の傍を流れる川で「源義経」(みなもとのよしつね)と「木曽義仲」(きそよしなか)の軍による「宇治川の戦い」が起きて、以後も1221年(承久3年)に起きた「承久の乱」の際、平等院には鎌倉幕府軍の総大将「北条泰時」(ほうじょうやすとき)と、その叔父「北条時房」(ほうじょうときふさ)の本陣が置かれ、その付近で相手方となる「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)軍との合戦が行われたし、室町時代末期の1485年(文明17年)となる頃には、農民らが平等院に集まる「山城の国一揆」(やましろのくにいっき)が発生し、平等院は一気に荒廃。園城寺側も平等院の管理を放棄してしまう。
それが江戸時代の1654年(承応3年)に、天台宗の塔頭(たっちゅう:単立寺院)となる「最勝院」(けいしょういん)が平等院内に建立され、同院に移った僧によって平等院は再び活気を取り戻したのであった。
平等院鳳凰堂は、本尊・阿弥陀如来を安置する場所で、国宝に指定されているお堂である。鳳凰堂を正面から見た姿が、まるで翼を広げた鳥のように見えたことから「鳳凰」と名付けたとも伝わる。平等院鳳凰堂は、池に浮かぶように中堂(本尊を安置した中央の建物)が建ち、それぞれ北翼廊(きたよくろう)、南翼廊(みなみよくろう)があり、中堂の背後に接続して尾廊(びろう)が建つ4棟からなる造りであり、今回は4棟すべてを写真に納めることが出来た。









光る君へ メインテーマ Amethyst

マサヤス 龍之介
10月も終わり、阪神タイガース日本一の夢も砕けてキリがよーござんす🍂
この月曜日は中止となりましたグラファンからの熱狂的支持が熱い『おじにじのラジオっぽいルーム』今日はあるんですかねー。しかし、決して無理🌈をしないで頂きたいものです。
おじにじ🌈さんのルームはAMラジオのノリで聴いているととてもクセになるルームです。噛めば噛むほど味が出る正に"噛み"を期待する常連リスナーたちに愛されるそんな"噛み回"が毎回繰り広げられています。しかしながら、選曲センス抜群𝑺𝑬𝑵𝑺𝑬✨️英語𝑬𝒏𝒈𝒍𝒊𝒔𝒉力抜群💪✨そして自作CMから交通インフォ・ニュースに至るまで芸の細かさ✨️✨️午後9時からのプレゼント企画の大胆で斬新なるアイデアは他の追随許さない磐石なラジオ番組であります。行った事のない御新規さん、毎週月曜と金曜の20時から23時までのグラビティ配信ルーム『おじにじ🌈のラジオっぽいルーム』を是非覗いてみて下さいね。
私はおじにじさんの一ファンとしてそのラジオっぽいルームが始まるまでの繋ぎ役として前座を務める音楽ルーム"岸辺🏝"を勝手に配信しております🙇♂️

Tears In Heaven

マサヤス 龍之介
2025年、球団創設90周年のアニバーサリーイヤーに我が阪神タイガースは我が国プロ野球史上最速でリーグ優勝を飾った。
しかし、それが仇となった。
9月7日にリーグ優勝をしてから10月の頭にリーグ戦の全日程を終え、怒涛のクライマックスシリーズ。横浜に付け入る隙を与えず、あっという間に日本シリーズへの出場権を手に入れた。
これも、良く無かった。
2度に亘る阪神タイガースのハードルのクリアは日本シリーズへの調整を怠らせなかったか?
私はド素人だから、目に見えない裏側で何がどうなっているかは知れないが、日本シリーズに於ける、打線の繋がりの悪さ、更に言えばクリーンナップの森下、大山の不調、更には下位打線の工夫なき怠惰な打棒、改めて課題が浮き彫りとなったシリーズだった。阪神はシーズン中の様な闘い方が出来なかったわけだ。下り曲線の阪神に対して對手のホークスはシーズン中に不調だった柳田、山川といった核になった連中らが上り曲線だったわけだ。そう捉えると最初から勝敗は決していたようである。
藤川監督の采配にはシーズン中から疑問だらけだったが、2戦目の才木ではなくデュプランティエの先発は誰もが疑った。だが、これとて、上手くやっていれば、少なくとも6回を3失点以内で止まらせていれば、ボロカスに叩かれなくて済んだものだったから、すべては結果論である。言いっ子なしだ。この試合で柳田、周東、山川らを完全に調子付かせたのは悔やまれる。小久保采配の妙は首位打者の牧原を下位打線に置くと言う打線の厚みを持たせたのも抜け目なき采配で、これが阪神との力の差を生んだのだ。
阪神は投手陣は好調さをキープしていたと思う。横浜とのCSの時に比べて村上、才木はいい状態だったし、昨日の大竹は今日本シリーズ中、両チームでも最高の内容だったと思う。敵を手玉に取る、余裕さえあった。
しかし、藤川監督の采配について我々ファンはあれこれ言いたいところだが、何と言っても彼とてまだシーズン一年目を終えたばかりだ。フロントにはいたが、現場でのマネージメント経験は皆無だ。本年の課題をよく咀嚼して、来季に生かして貰いたいものだ。長い目で見守ろうではないか。三年で完璧で盤石なチームを作り上げて貰おうではないか。
兎に角、プロ野球の全日程がこれですべて終わった訳だから、関係者諸氏はゆっくり休んでいただきたい。素敵な夢を見させてくれた藤川阪神に最大限の讃辞を贈りたい👏👏👏👏👏


マサヤス 龍之介
このシリーズ、らしくないぞ!
この動画のように野球⚾️を楽しもうZ‼️










マサヤス 龍之介
☆ 強いチームは接戦で勝ち、負ける時はボロ負け。弱いチームはボロ勝ちし、接戦で負ける。
野村克也

女房よ…

マサヤス 龍之介
木曜日の岸辺に🏝~オムニバス音楽ルーム♩( ´ー`* )♩
関東・関西も滅切り寒くなってきましたね。
関東なんざ、11月の陽気なんだとか💦
急激に気温が変化してますので、体調管理には皆様、呉々もお気を付けて(*´︶`*)ノ
本夜の岸辺🏝は先日の愛弟子 猫論田ちゃんからの貢ぎCD『A LONG SOUL VACASION』から2枚目を中心トピックス♬.*゚洋楽オールディーズ♬.*゚
そして2000年代以降の主がビビっときた連中のミュージシャンの楽曲♬.*゚などを程よくブレンドミックスして参ります🍀*゜
『A LONG SOUL VACASION』2枚目は山達や鈴木雅之らが取上げた楽曲の元ネタ集となっています。洋楽オールディーズ♬.*゚は主が持っている
7cmアナログ板起こしや過去のエアチェックから少々。当ルームらしからぬ、2000年代以降のJ-POP集は画像に上げたのでご参考までꈍ .̮ ꈍ( ⸝⸝⸝¯ ³¯⸝⸝
いつものように19時からの配信予定です。乞うご期待‼️









頬杖

マサヤス 龍之介
以前送った資料の御礼にと彼女が勤めてた
ちょいと変わった某有名レコ屋謹製瓦版やら
弟子ちゃんが作った可愛いフライヤー類に混じっ
てなんと(@_@;)我が敬愛の『A LONG SOUL
VACASION』が贈られてきました。
このシリーズ欲しかったんよなー[冷や汗]
程よい距離感で最近は行きつけルームが
出来たとか。( *˙ω˙*)و グッ!
気合い入れなくていいから、又フラリと
寄ってくれーԅ(¯﹃¯ԅ)
沢山の貴重なプレゼント🎁ありがとう[照れる]
今宵はこのCDでも掛けるかな😃


Church Bells May Ring

マサヤス 龍之介
火曜日の岸辺に🏝~オムニバス音楽ルーム
当ルームは19時開始、24時までを目処に主の駄べりと主の趣味性の高い音楽をフルコーラス掛けるだけのルームです。音楽ジャンルは主に、J-POP、シティポップ(嘗てはニューミュージックと呼ばれていた音楽)、洋楽オールディーズ、歌謡曲(グループサウンズ含む)、昭和歌謡(戦前から昭和30年代までの約40年近い日本の流行歌、歌謡曲、演歌までを網羅)JAZZ(トラッド・モダン)、シャンソン、タンゴ、カンツォーネ、インストゥルメンタルなど、でございます。
リクエストは基本受付けていませんが、主が掛けられる範囲でお応えはしてます。
音質はグラビティなので、保証は致しかねます。音楽はフルコーラスを基本としています。マイクは主に指名権がございますので、初見で一方的な申請にはお応えしていません。
音楽好きな固定相互さんが比較的多いルームです。音楽やお喋りはBGM的に愉しんで頂けたら幸甚でございます。
本夜も19時からON AIR GO GO GO ‼️

終わりなき旅

マサヤス 龍之介
おじにじルームへの岸辺に🌈🏝~オムニバス音楽ルーム
札幌…青森からの列島ニュース📺では早くも雪の便りが入ってますね。
こちら大阪は最高気温24℃‼️平年並みとは言え日本列島は狭いようで広いですね。
今夜は20時からおじにじルームでございます。
AMRADIOのノリで本夜も愉しき今宵哉🌙
当ルームはおじにじラジオっぽいルーム🌈へのリレールームを14時から挙行👇⬇️
愛も変わらぬ懐かしの音楽をお掛けして参ります🎧゚。乞うご期待‼️


哀しみ本線日本海

マサヤス 龍之介
金曜日の岸辺に🏝short~おじにじアワー不連続音楽ルーム♫.・*’’*・.♬
月曜日と金曜日20時からのグラ名物配信🎙
おじにじアワー~ラジオっぽいルーム、今夜も楽しみですね。
私の仕事が無い日は午後2時🌈から8時までおじにじリレールームを挙行しておりますが、本日は私事にまつわることで、18時までとなります。
本日はオムニバス音楽ルームですが、久しぶりにシティポップなど。
・収穫の秋に因んだフルーツシティポップ5撰
・なが~い楽曲を集めた涙のロングチューン
などミニコーナーを挟んで参ります🍀*゜
14:00~18:00 4時間のショートVersionでございます。午後のひとときをあなたと🫵



アンジェリーナ

マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.24
[最終回]』
ハリージェイムズ楽団の花形シンガー ヘレンフォレストが在団していたさ中に一番売れたレコードは1942年にリリースされてヒット・チャートで13週もの間、1位の座を続け、当初B面として発売したレコード会社は急遽A面とB面を入れ替えたという♫ I’ve Heard That Song Before 日本では
「いつか聴いた歌」というタイトルで馴染み深い。生前、人気イラストレーターの和田誠さんがジャズエッセイを出版された時にこの邦題を本のタイトルにした程だった。ハリーのスイートから脱却した素晴らしいスイングスタイルで、長い前奏から唄い出すヘレン・フォレストの甘美かつチャーミングな歌声で色香を振り撒いた後に再びハリージェームズのリードする締まったブラスセクションの歯切れのいい演奏で一気にエンディングまで持ってゆく、という構成は、スイングジャズの本質を見事に表現した傑作であった。この歌が売れた要因としては同年にアルバート・S・ロージェルが製作・監督した、ミュージカル・コメディ映画「YOUTH ON PARADE」で使われたことも大きかったと思料するが、戦時中ということもあり我が国ではとうとう未公開に終わった。戦後大分経ってから日本でも公開されたロバート・ミッチャムがフィリップ・マーロウを演じた「さらば愛しき女よ」(Farewell, My Lovely-1975)やウディ・アレンの「ハンナとその姉妹」(Hannah And Her Sisters-1986)などの映画にも出てくるのだが、ウディが好きな私などはやはり後者の印象が強い。
1943年にヘレン・フォレストが失意のうちにバンドを去ったが、ハリーは次々とボーカリストを替えて行きバンドの人気は保った。1945年に入りハリーはデューク・エリントンともビッグバンドジャズの共に先輩後輩という関係以上に仲が良く親交があった。デューク・エリントンのバンドメンバーで人気サックス奏者だったジョニー・ホッジスがデュークの楽団リハーサル中に不意に吹いたアドリブ演奏のフレーズが気に入り記譜したところ、デュークと仲の良かった作詞家のドン・ジョージが大変気に入り、詞を付けて是非録音する様にデュークに促したが、何故かデュークはバンドで録音することに懐疑的だったと云う。こうして名曲♫ I’m Beginning to See the Light 邦題:灯りが見えた は数年放置されたが、'45に入りデュークの勧めに応じる恰好でハリーも作曲者に名前を連ねることを条件にハリー・ジェームズ楽団で録音されることとなった。当時起用仕立ての女性ボーカリストである、キティ・カレンが華を添えた。OP.とED.にアラン・リュースの小粋なギターのカッティングが入り、この演奏がただならぬスイングジャズではない予感。サックスセクションの中和音のベーシックなアンサンブルも頗る恰好いいが、やはりリーダーのハリーのtp.ソロはそれまでの華やかなスタイルから一転、黒っぽいブラックスタイルなジャージーな見事なソロで、ハリーがただのビッグバンドリーダーなどではなく、優秀なジャズペッターであることの証左である。
私は実はこの曲は1980年代に我が国の優秀な女性シンガー金子晴美のヴァージョンで初めて聴いていたが、やはりこのオリジナルを聴いてしまうとこのキティカレンの独特の声に惹かれる。唄そのものはキティより金子の方が数段上を行っているが、キティのこのくぐもった様なそれでいて甘い声に、ジャズヴォーカルの真髄を聴いた気がする。つまり唄と云うものは単に上手けりゃいいと云うもんじゃないと云うことである。この二律背反した心境はなんとも難解な解釈だが、自分でもそれを詳しく解説する言葉を持ち合わせない。キティの声は私が想像するに、ミルドレッド・ベイリー⇒ケイ・スター⇒キティ・カレンと云う系譜に属すると思う。飽くまでも声の解釈だから勿論、歌い方では決してない。生まれも育ちも三人とも皆、バラバラだから出身や人種と言った所の問題では無い気がする。因みに金子晴美のこの歌が入っていた1985年のアルバム『マイ・リトル・ドリーム』は、ガーシュウィンが作曲した楽曲でありながらそれまで未発表だった♫ PAY SOME ATTENTION TO ME がA面冒頭で聴ける実に稀有なアルバムであった。金子は1983年に当時のサザンのストリングス&ブラスセクションアレンジャーだったジャズピアニストの八木正生を迎え、桑田佳祐の一連の楽曲をド直球のジャズヴォーカルアルバムにまとめた『スペシャル・メニュー』もリリースして話題を集めた。どれも素晴らしかったが♫Just A Little Bit は渾身の一曲だった。サザンファン、桑田ファンなら必聴の1枚である。
さて、話が逸れたがこの『Uber Jazz』コラムでのスイングエラの女性ボーカリストシリーズ最後に紹介したいのが前曲と同じ1945年にハリー・ジェームズ楽団、ヴォーカル:キティ・カレンのヒットチューン♫It's Been a Long Long Time 邦題: 久しぶりね である。この楽曲こそ私が学生時代に友人たちと夏に東京の西端の山奥の渓谷にキャンプ🏕に訪れた際に、ラジオから不意に流れてきてカラダ中に電流が流れた、と云う程のショックを受けた楽曲である。イントロの楽団員全員による感動的な始まりで早速心を掴まれた。そして24人に増員されていたストリングス短いブレイクに次いで流れるように颯爽とハリーのペットが咽び泣く😭昔、我が国ペッターの第一人者バンちゃんこと、光井章夫もハリーのこの最初のペットソロを聴いてプロのペッターを目指した、と云うエピソードを思い出させる。ハリーのソロのバックではブラス&ストリングスセクションが低くとも己らの主張をしていて、そしてブリッジはまたしても大弦楽器群が華麗に飾りキティのヴォーカルが始まる。何処を切り抜いても只管大袈裟で甘美なアレンジになっているのは、この歌が大戦に参加した若き兵隊達が帰還するに際し、待人であった彼女や奥さん達が、どれだけ貴方を待っていたことでしょう、ねぇ、キスして!そしてまたキスして、何も考えずに今はただ抱きしめて、只管キスして欲しい……と云う再会の感動を謳い上げた歌だったから、その歓喜をビッグバンドジャズ表現したものであることから、この様なアレンジになってしまったのだ。同年にはこの楽曲はビング・クロスビーのレコードも大層売れたと聞く。そちらは好対照に、小編成でビングらしいあっさりとしたもので、逆にサラりと淡白だからこその味わいと云うか、ハリー・ジェームズのレコードとは真逆だからこそ売れたと云うべきか。人々の再会にも様々な形があると言いたげな人生模様をレコード盤を通して知る事が出来るようになっているのである。ハリーのレコードで唄っていたキティ・カレンはやがて時代が8ビート全盛になってからもフェイメールのジャンルで売れ続け、今でも相当量のCDになっていることがネットでも確認出来る。
スイングエラと呼ばれた約10年に及ぶ時代は第二次世界大戦を挟んでスイングミュージックが世界的に隆盛を極めた時代でもあった。今後もスイングジャズを深堀りしてゆくのでお楽しみに。



It's Been a Long, Long Time (feat. Kitty Kallen)

マサヤス 龍之介
筒美京平の岸辺に🏝 # 3
昨日10月7日が命日だった我が国のナンバー1ヒットメーカー筒美京平の特集part.3です。
一昨日、おじにじワイドリレールームで1982年までの作品をお送りしましたので、本日は1983年~スタート𝐬𝐭𝐚𝐫𝐭致します。
珠玉のアイドル歌謡からオトナのLOVESONGまで膨大な楽曲群からよりすぐって、参ります。
2019年のラストシングルまで時間的に入るか否か💦それは演ってみなけりゃ判らない、出たとこ勝負の5hour!19時から配信スタート🈁



迷宮のアンドローラ

マサヤス 龍之介
「例えば演劇の世界も同じだと思うんだけど、俳優に「こう言う演技をして貰いたい」って思ったら、きっとアレンジャーがスタジオでする苦労と同じような事があると思うんだね。思い通りにならないとか、予想外のことが起きるとか。僕はDTMとアニメーションがすごくダブるんだけど、すべてデータで処理すれば自分の思ったとおりになるというような感じ。でも苦労してコミュニケーションして、ぶつかり合ったりしながら人間を動かしていく方が絶対面白い。当時は大変だと思わなかったけど、実際には大変だったんですね。今、人間でレコーディングしない理由は、若いアレンジャーに言わせると音程とかリズムがズレるからなんだって!そんなの当たり前なんだけど、それがイヤなんだって。だから打ち込みになっちゃう。笑っちゃうでしょ!機械はズレないからね。気も利かないけど」
キーボーディストの山田秀俊は萩田のアレンジについて「構築型のアレンジで、レコーディングが終了してスタジオを出る時に、あっ!そう言うことか!と納得させられる」と語っている。萩田は静岡県出身で現在79歳。
続
=敬称略=

マサヤス 龍之介
本夜は中秋の名月。
日々の喧騒から逃れて、静謐にして荘厳なる
時間を過ごして見ませぬか?
主、オリヂナルの独特の世界観はまるで古式の儀式の如く。グラで4年目を迎える年に1度の月見の会。おすすめです。


MOON

マサヤス 龍之介
洋楽とJ-オールディーズの岸辺🏝
10月になりましたね。
秋🍁本番ですが、昼間はまだ熱い(;´Д`A関西地方です。
本夜は久しぶりの洋楽テイスト✨若干邦楽オールディーズも混ざりますが、どのみちオールディーズナンバーしか掛けない当ルームでございます😊
10月の夜風と洋楽オールディーズをじっくりと掛けて参ります。途中、1986、1987年のメリークリスマスショウから幾つかの音源も掛けて参ります🎄🎅✨クリスマスじゃないけれど。
この後、19時からいつもの岸辺🏝でお待ちしております🙇♂️🏝🏖




Jumpin Jack Flash

マサヤス 龍之介
誕生日プレゼント🎁賜りました[照れる][照れる][照れる]
酒好きなの知ってるから、めっちゃ気の効いた
品物に相手の気持ちが嬉しくて😢
お互いの誕プレ🎁交換、もう何年も続いてて
ホッコリ☺️🍀します。年に一度のホッコリ
プレゼント交換。。。末永く続きますように🙏🍀*゜






マサヤス 龍之介
#サザンが1番
☆『1995年~1996年、3枚のシングル』
サザンオールスターズとしていよいよその活動が再開された1995年。CX系音楽バラエティ番組『HEHEYHEY Music CHAMP』がその前年の10月からスタートしており、サザンは5月に初出演。その月の22日にリリースされる♫ マンピーのG★SPOT がお披露目された。……マンPて、、とダウンタウンの浜田雅功から突っ込まれるシーンもあったが…そんなツッコミも織り込み済み…と言わんばかりの桑田であった。リリース前にミスターチルドレンと共演したときも桜井和寿から……次のシングルのタイトルは?…と聞かれ……え?、、マンPのGスポットだけど、、、と答えたら桜井は仰け反るほど大笑したと云う。
その年の7月3日からCX系の所謂"月9"の夏クールのドラマ『いつかまた逢える』がスタート。福山雅治主演で桜井幸子がヒロイン役と云うキャストでくっ付いたり離れたり、と云う月9お得意のリーマン恋愛群像モノだったが、ドラマ初主演の福山雅治がサザンオールスターズの事務所と同じアミューズと云うことも相俟って、桑田が極上のメロディーを書きサザンオールスターズ名義でシングルリリースされたのが、36th.シングル♫ あなただけを 〜Summer Heartbreak〜 である。久しぶりにサザンらしさが戻ってきた夏うたであり、サウンドはフィル・スペクター考案のウォールオブサウンド風、桑田の紡ぐ歌詞にもそれっぽいワードが散りばめられている。…夏、海岸、波音、太陽、胸元、抱き寄せて絡み合う…など。当時付き合っていた会社の同僚女子と真夜中に月夜の大洗海岸へ行って桑田のこの詞とオーバーラップさせて胸熱になったことはもう30年も前の出来事である。
…君と遊んだ海岸で 夜毎(よごと)面影を見る
波が脱がせたハイヒール
生命(いのち)の限りに口説(くど)いてた
Ah, きっと忘れるためのLong Vacation…
この楽曲に関しては当の桑田自身も気に入っているらしく「自分の葬式にはこの曲を掛けて欲しい」とまで発したほどだったらしい。
小貫信昭はその著作の中でこの曲にも触れているが、桑田に直接取材した成果として、短いが実に印象的なエピソードを披露している。
…バリトンサックスのルート音を刻む低音の響きが心地よく、メロディーも揺ぎなく、安心して身を委ねることが出来る仕上がりだった…
…ある日、桑田は山下達郎のFM番組で、名セッションドラマー、ハル・ブレインの特集を聴き、番組のエアチェックを松田弘に聴かせる。すると松田は、そこからヒントを得て、これまでとは違うアプローチで演奏してみせた。♫ あなただけを 〜Summer Heartbreak〜 の確かな手応えは、メンバーの様々な工夫と努力あってのものだった…
ヴォーカリストにとってベースとドラムは伴奏に於いては生命線である。勝手知ってる松田のドラムに桑田は何の不満も無かった筈だが、時に曲調に合ったドラミング、それ以上に自分のヴォーカルに寄せたドラミングを求めるのは必然だったのであろう。桑田はその曲づくりにおいて、歌い手である自分が如何に心地よく唄えるか?を念頭に作っていると言っていることがあった。この曲の歌い出し、…泣かないでーーーえーえーえー…と7秒間に及ぶ引き伸ばし方は、その気持ち良さの体現であった証左である。尚、タイトルはジェファーソン・エアープレインからの借用だが、スティービー・ワンダー風メロディーは洋楽フリークの桑田のお家芸である。そんなあらゆる思いが、サザンオールスターズにとって3度目のシングルミリオンセラーを無事に売り上げてサザンオールスターズのこの夏は弾けた。
この年の夏8月5、6日の2日間、嘗ての横浜・新港埠頭と呼ばれた地区が1989年の横浜博覧会を契機に新たにみなとみらい21臨港パークに生まれ変わり間もなく、サザンは両日で計16万人を動員して行われた「ホタル・カリフォルニア」と題されたライブイベントを開催し、不動の人気を確かなものとする。オープニングではいきなり当時元気だった西城秀樹が登場し、♫YOUNG MAN をパフォーマンスするという趣向で話題となった。それは、野外イベントでは日本ではその先駆的役割を担った西城秀樹へのサザンオールスターズとしてのリスペクトの意味合いをはらんでいた。噴水、花火、お囃子などの演出はその後益々派手になってゆくビッグネームたちの野外ライブのある意味起爆剤となっていったのは間違いないだろう。その後この臨港パークではサザンは一度もライブを行っていないだけに、この両日のライブイベントは伝説化していった。
サザンオールスターズとしてのシングルリリース、野外ライブと来ていよいよアルバム制作へと進む。次作『YOUNG LOVE』の録音はこの年の10月6日から始まった。レコーディング期間は延々翌年の6月下旬まで続く。お陰でアルバムとしての完成度が非常に高く、この時期のサザンオールスターズのアルバムは2年後の『SAKURA』同様、1曲ごとのグレードが非常に高い。
そのアルバム制作中の1996年4月13日に放送が始まった日テレ系ドラマ『透明人間』。当時飛ぶ鳥を落とす勢いのアイドルグループSMAPの一人、香取慎吾の初主演ドラマだったが、主題歌としてサザンの新曲♫ 愛の言霊 〜Spiritual Message〜 が使用された。私が余り当てにしてない音楽評論家中山廉樹のサザンの指南書、集英社新書0380Fの『クワタを聴け!』の中で珍しく中山が手放しでこの楽曲を褒めている。それまでにないラップの多用に挑戦してそれが功を奏しているからだろう。こうした評論家にありがちな新機軸を常に打ち出さないと音楽じゃない、としたスタンスに囚われたスタンダード型論評である。桑田は既に1980年代にいとうせいこうらとコラボしたリアル・フィッシュと云うグループで尖鋭的なラップ作品をリリースしていたが、殆どのこうしたサザンオールスターズの指南書では黙殺されている。
愛の言霊、は出だしのメロディーがバーブラ・ストライサンドとバリー・ギブが共演した♫Woman in Love にしか聞こえない……とする中山の指摘は作者のリスペクトの感情を逆撫でするような批評であり、完全に的外れ。評論家の単なる自己顕示欲を満たしたいだけのもので、取るに足らない。底意地の悪さを露呈してるだけの論評である。そのメロディーに乗っかる桑田の詞の何と独創的なことであろうか。…生まれく叙事詩(せりふ)とは 蒼き星の挿話(エピソード/そうわ) 夏の旋律(しらべ)とは 愛の言霊…と、リズムに日本語を乗せる点では天才的とも言える漢字の音読みや当て読みなどを駆使して桑田のコトバ遊びが120%堪能出来る。桑田はラップを取り入れているが、わざわざインドネシア語で唱っている、何故か?桑田の証言。
「アジアやニューヨーク、ヨーロッパの状況など意識しつつ」打ち込みで世界観を拡げてみたが、「もはや英語でラップをやっても面白くないと思ったので、曲調も鑑みて、インドネシア語を喋れる人をスタジオに呼んだ」と小貫に答えている。小貫によると、丁度この時期から桑田はサーフィンを始めたらしい。沖合いから見た鎌倉・由比ヶ浜の景色に娑婆と霊界を行き来する日本人古来の詞(ことば)を折り込みながら展開される。例えば2番では……
…縁はヤーレンソーラン
千代に What Cha Cha
釈迦(シャカ)堂も 闇や 宵や宵や
鳶(とび)が湘南浪漫 風に舞っちゃって
縁の先ゃ 黄泉(よみ)の国や…
釈迦堂はご存知鎌倉の住宅地に突然現われるあの観光名所で映画『稲村ジェーン』でもロケーションが行われたし名曲♫Bye Bye My Love
にも登場する。しかし、桑田が本当に言いたかったことは、後半のインドネシア語でラップを唱った部分にほぼ集約されていると思う。
……遥か以前から光輝く星を見つめる時、
涙ぐんでしまう
人間の存在、肉体、それらは、宇宙から
の言霊(ことだま)を記憶するのだ……
それに続くラストの日本語ラップでも、
……禮(らい)!
幾千億年前の星の光が 人の世の運命(さだめ)を僕に告げるの
過去に多くの人が 愚かな者が 幾千億年前の星の光見て
戦をしたり 罪犯したなら ぼくもまたそれを繰り返すのか
今は滅びた星の光なのに 見つめるままに 夢に見るたびに
涙ぐむのはなぜなのか そして僕はどこから来たのか
この魂は誰のものなのか Yeah, Yeah, Yeah……
それまで桑田は地元、湘南を謳い上げた楽曲を量産させてきた桑田が嘗てないスケールで書き上げたこの楽曲は古都鎌倉を舞台に宇宙規模のイマジンで紡がれた詞であり、それがなぜ言霊だったのかの回答がラストのラップで明かされるという良く出来た楽曲であった。
1996年6月25日。デビュー18周年となったこの日アルバムリリースまで1ヶ月を切ったこのタイミングでサザンオールスターズ38th.シングルとして♫太陽は罪な奴 が発売された。
乗っけから懐かしのモータウンビートで終始するのは嘗て原由子に書き下ろした♫恋はご多忙申し上げます 以来だが、ストレートな夏うたとしてサザンオールスターズらしいポップ性にファンは誰しもが涙した。過去作の踏襲要素もなく見事なまでの新陳代謝をし続ける桑田のバイタリティに脱帽しかない。作られたプロモーション・ビデオには音楽人としてのリスペクトからかまやつひろし、桑田のマインドとしてのスターからはアントニオ猪木、そして完全に桑田の趣味としてのグラビアアイドル松田千奈らがゲスト出演していた。
私は前シングルとこの曲は7インチアナログ盤で買った。この頃レコード店は外資系のタワーレコードとヴァージンメガストアが全国的に急速に店舗を拡大していた時期であり、それに伴い街のレコードショップは淘汰されていった。しかし売れ線しか置かない大多数の従来型の店舗ではやはりどうしても本来の音楽ファン=アナログファンの購買欲を満足させられず、その点新規参入してきた外資系レコード店は、アナログ盤ファンをも驚かせる品揃えであり、圧倒的にその在庫量では完全に従来型店舗を凌駕していた。最終的に残った従来型店舗はユーザーからの要望に積極的な店か、得意な品揃えでユーザーを刺激し続けた店舗のみとなったが、それらの店舗の存続も最早時間の問題であった事は周知の事実であった。やがて外資系レコード店の凌ぎを削った競争もタワーレコード一強という結果に終わり、ディスクユニオンという大手中古レコード店でも新譜を扱うようになり、現在に至っている。今やサブスクに押されパッケージ自体が存亡の危機と成り果てた。
折からのシティポップブームでアナログ盤パッケージが又見直されたとは言え、この先も安泰か?とは誰にも言えないことは明らかである。例えば、サザンオールスターズの♫愛の言霊 〜Spiritual Message〜 のアナログシングルには特殊な香りのする効果が施してあり、長年に亘りその香りが失われることは無かった。
そんな工夫がアナログ存亡の危機を救うとはとても思わないが、少なくともそうしたサービス精神がアナログファンを刺激したのは間違えはなかった。アナログ盤愛好家として業界関係者へ提言したいのは"売る"ためのあらゆる努力を惜しまないことだ。
次回はサザンオールスターズ12th.アルバム
『Young Love』を解説する。
続









マサヤス 龍之介
本週と来週の月金は午後2時から午後8時まで岸辺🏝️のおじにじさんリレールームを挙行致します。
主、選曲のオムニバス音楽と、なんと‼️本日はクセ者大門寺が初参戦‼️地獄の黙示録さながらの戦闘シーンからの場外乱闘までバラエティー色豊かなオムニバス音楽ルームで一盛り上がり致します❗️ 試合開始は午後2時からですが、大門寺は途中参戦の模様🎙️一体どんなマイクパフォーマンスが繰り出されるのか!闘いのゴングが鳴る!岸辺🏝️ルームはこの後2時から。乞うご期待でし‼️


<地獄の黙示録>楽劇「ワルキューレ」 /ワルキューレの騎行(ワーグナー)

マサヤス 龍之介
ムーンライト🌕岸辺🏝
滅切り秋🎃🍁🍄🌰めいて来た今日この頃、如何お過ごしでしょうか(`・ω・´)ゞ
岸辺🏝ルーム🎙️今月は、月や秋を感じさせる楽曲を集めておりますが、本夜はそれらに混じってこれまで特集を組んだ大御所ミュージシャンのクイックコーナーもございますm(_ _)mプラスアルファ企画- ̗̀🎁 ̖́-も御座候✨誰を取り上げるのか?何を取り上げるのかは、19:00~のムーンライト🌕岸辺をじっくり味わうべし(ヾ(´・ω・`)




月夜のロケット花火

マサヤス 龍之介
底抜けに明るくて大雑把な弾き語り練習ルーム。
馴染みの平成楽曲から意外にも、の昭和歌謡まで。
その甘い歌声は芳醇な果実のよう。
バンド経験者だけに思い切りがいい。
物怖じしない。
私のような更年期でも判り易い選曲眼🎶
そのキャッチー✊でチャーミー💗な歌声がそろそろ聴きたいな😊と、思っていたら、、、
今日もこの後、16時ころからルーム開催されるかも?🦆
ルームいいね👍すると、「かばがとうー🦛🦛🦛🦛🦛🦛🦛🦛🦛🦛」もらえるかも🦆
皆んな!こぞって参集よん🙋♂️💗


Squall

マサヤス 龍之介
昨夜🌃に引き続き月のうたを中心に編みました。昭和・平成を飾った月の名曲、ジャズスタンダードから、昭和懐メロから、クラシックから、と幅広いジャンルから取り揃えた名曲群をフルコーラスで御紹介して参ります。本夜は定刻19:00からSTART❗️出来ます。乞うご期待🌙





Harvest Moon
