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ハーロック
男は言った
「自分、その手で何をしてきた」
彼は答えた
「……直してきました
壊れたところを」
「ほな、自分の恋も同じや」
「今、目の前で“困ってる”が起きとる
その困ってるに手を出すのが、自分の仕事やろ」
彼の胸が熱くなった
仕事の話をされると、身体が前を向く
黒い服の男は、少しだけ声を柔らかくした
「自分、ええか」
「女の子はな
綺麗な手を好きになる時もある
でもそれ以上に、助けてくれる手を覚えとる」
「その手が油で黒くても
それが“働いた証”なら、怖がる女ばっかりやない」
彼は小さく笑った
「……でも、爪、真っ黒っすよ」
男は即答した
「チェーン直すのに、白い爪要るか?」
「要らない」
「ほな行け」
一瞬、空気が止まった
橋の上の彼女は、寒そうに手を擦っている
周りには人がいない
助けを呼べる雰囲気でもない
彼の中で、何かが決まった
恋の前に、困ってる人がいる
それを見て見ぬふりするのは、自分じゃない
彼はカフェオレを持ったまま、歩き出した
河原の砂利が靴の下で鳴る
心臓がうるさいくらい鳴る
橋の下まで来て、彼は見上げた
彼女は気づいていない
黒い服の男が、背中に言った
「自分、完璧な男になってから声かけようとすんな
完璧になるまで、人生終わるで」
彼は、息を吸った
夜の冷たさが肺に入って、逆に頭が冴えた
橋の上へ上がる階段を、一段ずつ登る
ツナギの膝がきしむ
爪の黒さが気になる
でも、手は止めない
彼女の数メートル後ろまで来た
自転車のチェーンがぶら下がっている
本当に直せる、すぐに
彼は、最後に一度だけ迷った
そして、黒い服の男の声がよぎった
――傷つかない自分を守るな
恋を殺すな--
彼は、勇気を握りしめるみたいに、拳を開いた
「……あの」
声は少し震えた
でも、ちゃんと届く音だった
「チェーン、外れてますよね
よかったら、直しましょうか」
彼女が振り向く
街灯の光が、彼の油のついた手を照らす
彼は、まっすぐに立っていた
汚れたツナギのまま
それでも、逃げない目で
その瞬間、河原の星がひとつ、またひとつと増えていった
一一一一一
人生は、確率です
何かをしたからと、必ずうまくいくということはありません
でも、何もしなければそもそも成功する確率は発生しないのです
今回、勇気を出した彼の恋が、うまくいくかどうかはわかりません
でも、もし彼が今回振られたとしても
その経験を、彼が自分の糧とできたなら
挫けないで、また同じ勇気が持てたとしたら
いずれ彼は素敵な彼女を得ることができます
確率とは、そうしたものですね
そして、今夜彼が得たものは
好きな人に声を掛ける勇気だけではありません
世界は、みんなの仕事で成り立っています
誰一人、誰かの助けをなしに生きることはできません
彼の黒い爪は、美しい
僕はそう思います
#希望 #自作小説


ハーロック
「別に失恋じゃないです
……ただ、たぶん彼氏いるだろうし」
黒い服の男は、軽く鼻で笑った
「“たぶん”で死ぬほど落ち込めるの、才能やな」
「うるさいっす」
「うるさい言えるなら、まだ元気や」
男は空を見上げた
「クリスマスや
他の誰かとおっても不思議やない
でもな、自分
今日の問題はそこちゃう」
「……じゃあ何ですか」
黒い服の男は、彼のツナギを指差した
「それを恥ずかしいと思っとることや」
彼は反射で袖を引っ張った
油の跡
黒い爪
作業着の匂い
「俺、こんなんで声かけたら、嫌がられますよ」
黒い服の男は、ため息をついた
「自分、勘違いしとる
その汚れはな、だらしない汚れやない」
「一一働いた汚れや」
その言葉が、胸に小さく刺さった
でも彼はまだ弱い
「いや、でも……女の子にとっては、汚いじゃないですか」
男は、少し声を低くした
「汚いのは、油やない
“自分の仕事を低く見る心”や」
彼は黙った
男は続ける
「自分は毎日、誰かの生活を動かしとる
車が走るのは、自分みたいなやつが下で支えとるからや」
「それを恥やと思うなら
自分の仕事も、自分自身も、一緒に捨てることになる」
彼は唇を噛んだ
捨てたいわけじゃない
むしろ誇りにしたい
でも、怖い
黒い服の男は、指を一本立てた
「恋の場面で一番ダサいのは何か知っとるか」
彼は首を振る
「“汚れてるから無理”って、先に諦めることや
自分はな、まだ何もしてへんのに、自分で自分を断っとる」
その言葉は痛かった
でも、どこか正しかった
風が吹いた
川の水面が揺れる
橋の向こうの街灯が点く
彼はふと顔を上げた
橋の上に、人影があった
彼女だ
冬の空の下、少し縮こまっている
自転車の横でしゃがみ込んで、チェーンを見ている
どうやら外れて困っているらしい
整備工の彼には分かる
チェーンは、直せる
すぐに
朝飯前だ
でも、その瞬間、心臓が縮んだ
「……今、行ったら」
ツナギ
油
黒い爪
こんな姿で近づいたら、嫌われる
彼は立ち上がりかけて、止まった
足が動かない
黒い服の男が、横から言った
「ほら出た」
「……」
「自分、今、何を守っとる?」
彼は小さく言った
「……プライド、かな」
男は首を横に振った。
「違う
守っとるのは、“傷つかない自分”や」
「傷つかない代わりに
自分の恋を最初から殺す」
彼の喉が鳴った
「でも、嫌われたら終わりじゃないですか」
黒い服の男は、橋の上の彼女を見ながら言った
「嫌われるかどうかは、まだ起きてへん未来や」
「起きてへん未来で、今を止めるな」
彼は、拳を握った
指の関節に油が入り込んでいる
#希望 #自作小説


ハーロック
エンジンオイルの匂いは、冬の空気に混ざると少しだけ甘く感じた
彼は整備工だった
朝から晩まで車の腹の下に潜って、手はいつも黒い
爪の奥に油が入り込んで、どれだけ洗っても完全には落ちない
仕事帰り、彼は決まって同じコンビニに寄る
理由は一つ
レジの向こうに、彼女がいるからだ
笑うと頬が少しだけ上がる
声が明るい
「温めますか?」の一言が、やけに胸に残る
好きだ、と言えるほどの関係じゃない
名前も知らない
でも、彼の一日はそのコンビニの灯りで区切られていた
クリスマスの日
工場はいつも通り忙しくて、彼は遅くまで残った
ツナギの袖をまくり、凍える手で工具を握った
帰り道、腹が減って、いつものコンビニへ向かった
自動ドアが開く
ベルが鳴る
温かい空気が、頬を撫でる
レジを見る
……いない
目が一瞬で冷えた
代わりに、知らない店員が立っている
年上の男、淡々とした声
彼はカフェオレを手に取った
いつもなら、彼女が「それ好きなんですね」と笑ってくれそうなものだ
でも今日はない
レジで会計を済ませて、外に出た瞬間
胸の中に嫌な想像が湧いた
――クリスマスだから、彼氏とデートだ
そう思ったら、何かが抜けた
怒りじゃない
嫉妬でもない
ただ、しょんぼりという言葉がぴったりの重さ
彼は近くの川の河原に降りて、ベンチもない石に腰を下ろした
カフェオレを開けて、一口飲む
ぬるい甘さが、逆に切なかった
夕暮れの空に、星がひとつ、またひとつと瞬き始める
「……俺、何してんだろ」
独り言は白い息になって消えた
ツナギの膝に付いた汚れが目に入って、彼は自嘲気味に笑った
こんな格好で、恋なんか無理だろ
油まみれの手で、誰かの心に触れるなんて
その時だった
「自分、まだ飲むな
せっかくの甘さが苦くなる」
背後から低い声が落ちた
振り返ると、黒い服の男が河原に立っていた
いつからいたのか分からない
でも、不思議と怖くなかった
寒さの中で、妙に現実味があった
「……誰ですか」
「ただの通りすがりや
で、自分
今日、レジにおらんかっただけで勝手に失恋してる顔しとるな」
彼はむっとした
#希望 #自作小説


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