共感で繋がるSNS

人気

関連検索ワード

新着

なお

なお

「あなたのため」という言葉に、ふと、ひっかかるようになりました。

良かれと思ってしたことが、
実は「感謝されたい」という気持ちや、
「正しいと思われたい」という
自分自身のエゴだったんじゃないか。

そんなふうに、自分の心がチクッと刺さる瞬間が、
最近、増えている気がします。

「利他」という美しい言葉の裏に、
「押しつけ」が隠れていないか。
そんな問いを抱えながら、モーセ五書を読み返していました。

そこで、ある一節が胸に深く突き刺さりました。

創世記22章2節。
神がアブラハムに、最愛の息子を捧げるよう命じる、あの難しい場面です。

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて……」

ここで「愛する」と訳されたヘブライ語は、
「アハヴ(אָהַב)」 という言葉です。

実はこの「アハヴ」、
聖書全体で人間が誰かを「愛する」文脈で使われるのは、ここが最初なのだそうです。

神はわざわざ、
「あなたが愛する」 と強調されました。

そのことに、深い意味を感じずにはいられません。

わたしたちは、愛する人や、正しいと思うことに対して、
無意識のうちに
「自分の所有物」のように接してしまうことがあります。

「愛しているからこそ」
「あなたのためを思って」

その言葉が、時として、
相手を縛る鎖になってしまうことはないでしょうか。

振り返れば、私にも覚えがあります。
相手の幸せを願っているようで、
実は 「自分の思い通りに動いてくれること」を
無意識に期待していた瞬間が。

それは、利他ではなく、
形を変えたエゴだったのかもしれません。

アブラハムにとって、イサクは何よりも大切な存在でした。
だからこそ、その愛は「執着」に変わる危うさもあったはず。

「アハヴ(愛)」の語源には、
「与える」「息を吹き込む」 といった意味があるといわれます。

真の愛とは、
相手を自分の枠に閉じ込めることではなく、
自分から切り離し、
その人をその人自身の人生へと解き放つことなのかもしれない。

「こうあるべきだ」という
自分のエゴを握りしめている間は、
そこに神が入り込む余地はありません。

そっと手を開き、結果を委ねたとき、
初めて、「利他」の清い風が吹き抜ける。

自分の中にある「押しつけ」に気づくたび、
わたしは少し深呼吸をして、
この「アハヴ」の原点を、思い返すようにしています。

---

聖書の古い言葉は、
数千年の時を超えて、
今を生きるわたしたちの、
小さな心のつかえに、優しく光を当ててくれます。

完璧ではない自分を抱えながら、
これからも、この深い物語を、
一歩ずつ歩みながら紐解いていきたい。

もし、この気づきの旅を、
少しでも共に分かち合える方がいらしたら、
これほど嬉しいことはありません。

この心の葛藤や、神との対話を、
わたしはマンガという形で表現し続けています。

もし宜しければ、ぜひご覧ください。
Amazonで 『モーセ五書 マンガ 石川尚寛』 と検索していただければ、
無料でお読みいただけます。

共に、人生の本当の歩み方を、
探していけたら幸いです。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#エゴを手放す
GRAVITY1
GRAVITY11
🐱

🐱

アブラハム人は7人の子
ひとりはノッポで 後はデブ
かと思ってた。ずっと
GRAVITY
GRAVITY11
なお

なお

「ヒネニ」と「アーメン」——小さな言葉に宿る、神との深い絆

僕は聖書を読むとき、時に、たった一言の言葉の前に立ち止まることがあります。
今日、心に引っかかっているのは、二つの小さな言葉。
「ヒネニ」と「アーメン」です。
この二つは、まるで対になるように、神さまとの関係の中で輝きを放つ言葉だと気づきました。

まずは「ヒネニ」から。
これはヘブライ語で「הִנֵּנִי」と書き、意味は「ここに私はいます」「お呼びでしょうか」。
神さまからの呼びかけに対して、「はい、私はここにいます。あなたのために何ができますか」と、全身全霊で応答する姿勢を表す言葉です。

モーセ五書の中では、アブラハムが息子イサクを捧げるようにという、あの難しい招きを受けたとき(創世記22章1節)、彼は「ヒネニ」と答えました。
また、神さまが夜、少年サムエルを呼ばれたとき(サムエル記上3章ですが、五書の精神に通じます)、彼も「ヒネニ。あなたのしもべは聞いています」と答えます。

この「ヒネニ」には、「私は完全にあなたの前にいます。私の全てを差し出します」という、信頼と委ねりの気持ちが込められているように感じます。
僕はこれを読むたび、「私は、目の前の神さまに対して、これほど全存在をかけて『います』と言えているだろうか」と、胸が締め付けられる思いがします。

そして、もう一つの言葉が「アーメン」。
ヘブライ語では「אָמֵן」。これは「確かに」「そのとおりです」「真実です」という意味の、確認と同意の言葉です。
モーセ五書では、特に申命記の27章から28章にかけて、神さまの祝福と呪いの言葉に対して、民が「アーメン」と応答する場面があります(申命記27:15-26)。
民は、神の言葉が真実であることを認め、「その言葉が、わたしの上にもその通りありますように」と、自分自身に引き受けて宣言するのです。

「ヒネニ」が神への「応答」だとすれば、「アーメン」は神の「言葉への同調」。
「あなたがおっしゃることは真実です。私はそれを自分のものとして受け入れます」という、深い信仰の姿勢がここにあります。

僕はこの二つの言葉を見つめながら、祈りとは何かを考えさせられます。
神さまへの祈りは、一方では「ヒネニ」——「私はここにいます。あなたの御心のために」という、能動的で献身的な姿勢。
他方では「アーメン」——「あなたの約束は真実です。その御言葉に全てを委ねます」という、受動的で信頼に満ちた姿勢。

この両方が、まるで呼吸のように交互に働くとき、神さまとの生きた関係が育まれていくのではないでしょうか。
今日、僕自身に問いかけてみたいと思います。
私は、日常の中で、神さまの細やかな呼びかけに「ヒネニ」と答えられているだろうか。
また、聖書を通して語られる神さまの真実な約束に、心から「アーメン」と言えているだろうか。

小さな言葉の一つひとつに、これほど深い意味と覚悟が込められている——モーセ五書を学ぶたびに、僕はその豊かさに驚かされます。
まだまだ知らないことがたくさんあります。これからも、一節一節を大切に読み、その響きを心に留めていきたいと思っています。

もし、この「ヒネニ」や「アーメン」のような、聖書の言葉の深みを、もっと身近に感じてみたいと思われた方がいましたら。
ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
僕自身の学びの旅が、形になったものを、あなたと分かち合えれば嬉しいです。

#ヒネニとアーメン
#モーセ五書マンガ
#聖書の小さな言葉
GRAVITY
GRAVITY16
んぽぽ

んぽぽ

アブラハムには7人の子♪の歌、子供の時
ずっとベーコンみたいな美味そうな肉を想像していた
GRAVITY
GRAVITY11
宇都宮順

宇都宮順

ウィップの鞭打ちの音をSMだと思ってないか⁉️
ちゃんと旧約聖書にあるんだぜ
そういう刑を受けたアブラハムの子孫が
佐藤俊輔
GRAVITY
GRAVITY
にゅにゅ

にゅにゅ

「アブラハムは、その朝早く起きて、さきに主と対面した場所へ行き、 ソドムとゴモラ、および低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた。 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」
‭‭創世記‬ ‭19‬:‭27‬-‭29‬
GRAVITY
GRAVITY11
なお

なお

「イサクの『ほっと』する人柄に、僕は救われた。争わない生き方の原点。」

イサクって、どんな人だったんだろう?

聖書を読み始めた頃、僕はイサクのことを、どうしても「アブラハムの子」や「ヤコブの父」としてしか見られませんでした。
でも、モーセ五書をゆっくり学ぶうちに、ふと気づいたんです。
この人の生き方は、なんて「ほっと」するのだろう、と。

井戸を掘り直す、優しい選択

今日、僕が深く見つめたいのは、創世記26章18節から22節までの箇所です。
イサクは、父アブラハムがかつて掘った井戸を、再び掘り直します。
ところが、ゲラルの牧者たちが「この水は俺たちのものだ」と主張し、争いが始まる。

普通なら、ここで権利を主張し、戦うかもしれません。
でも、イサクは違いました。
彼はその井戸を「エセク」(争い)と名付け、そっと去ります。
そして、新しい井戸を掘る。また争われる。彼はそれを「シトナ」(敵意)と名付け、また去る。
三度目に掘った井戸には、もう争いは起こらなかった。彼はそれを「レホボト」(広い場所)と名付け、こう言います。
「今や、主は私たちの場所を広げてくださった。私たちはこの地で繁栄する。」

ヘブライ語が教えてくれる、心の動き

ここで、僕はヘブライ語の原文に触れてみました。
イサクが名付けた「エセク」(עֵשֶׂק)は、「争い」や「訴訟」を意味します。
「シトナ」(שִׂטְנָה)は、「敵意」や「憎しみ」。
そして「レホボト」(רְחֹבוֹת)は、「広い場所」や「自由な空間」。

これらの名前は、ただのラベルじゃないんです。
イサクが、その瞬間に感じたことを、静かに言葉に刻んだのだと思います。
争いを避け、敵意から離れ、最終的に神が与えてくださった「広がり」を受け入れる。
彼の心の歩みが、名前となって残されている。それを知った時、僕は胸が温かくなりました。

僕がイサクから学んだこと

イサクは、自分の権利を大声で主張しませんでした。
井戸を奪われても、怒りに任せて反撃せず、ただ静かに去り、新たな場所を探し続けた。
それは、弱さではなく、深い信頼があったからではないでしょうか。
「神が必ず道を開いてくださる」という信頼。

現代の僕たちは、少しでも理不尽を感じれば、すぐに戦おうとしてしまう。
でも、イサクの姿は、違う選択肢を教えてくれるように思います。
争いのただ中で、一度深呼吸をして、そっと一歩引いてみる。
それだけで、心が「ほっと」軽くなる瞬間がある。
イサクの物語は、そんな穏やかな知恵を、そっと差し出してくれている気がするんです。

あなたの「井戸」は、どこにありますか?

今、あなたの生活の中に「争い」や「敵意」を感じる場所はないでしょうか。
イサクのように、一度名付けて、そっと距離を置いてみることは、できないだろうか。
神が開いてくださる「広い場所」は、きっとどこかにある。
僕自身、そのことをイサクから教えられ、まだ学びの途中です。

モーセ五書には、こんなふうに「ほっと」させられる物語が、まだたくさん眠っています。
僕も日々、新たな気づきを与えられ、驚きと感謝の連続です。
もし、このイサクの物語に少しでも心が動いた方がいたら、ぜひオリジナルの聖書の言葉に触れてみてください。

気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
僕のマンガ版では、イサクの穏やかな表情や、井戸をめぐる情景を、ビジュアルで感じていただけるよう心がけています。
一緒に聖書の世界を味わい、学びを深めていきましょう。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#無料で読める聖書
GRAVITY
GRAVITY13
なお

なお

「イスラエル12部族の秘密:僕が創世記49章で見つけた、神の壮大な計画の一片」

ヤコブの最後の言葉が、すべてを変えた

僕は最近、モーセ五書の創世記を読んでいて、ある一章に立ち止まりました。創世記49章です。ここには、イスラエルの父と呼ばれるヤコブが、死の床で12人の息子たち一人一人に語りかける言葉が記されています。

この言葉こそが、後の「イスラエルの12部族」の起源と言われる部分です。聖書を読んだことがない方にも、やさしくご紹介しますね。

僕が最初に思ったのは、なぜヤコブは息子たちを呼び寄せ、一人一人に違う言葉をかけたのだろう?ということでした。それは単なる父親の遺言というより、まるで未来への預言のように感じたんです。

ヘブライ語から見える深み:部族という言葉の重み

聖書の原文はヘブライ語で書かれています。創世記49章28節には、こうあります。「これらは、イスラエルの部族(שִׁבְטֵי)である。十二である。」(創世記49:28)

ここで「部族」と訳されているヘブライ語は「שֵׁבֶט」(シェベト)です。この言葉、実は「杖」や「支え」という意味も持っています。僕はこの語感がとても好きで、一つの家族、一つの集団が、互いに支え合い、また神によって支えられる「一本の杖」のような存在として描かれているのだな、と感じました。

ヤコブは、長男ルベンから始まり、シメオン、レビ、ユダ……と、12人全員に言葉を贈ります。その内容は、讃えるものもあれば、戒めや警告も含まれています。例えば、ユダへの祝福(創世記49:8-12)は非常に力強く、「ユダは獅子の子」と称えられ、支配者の杖が彼から離れないという約束が語られます。

不完全な人間を通して進む神の物語

12人の息子たちは、決して完璧な人間ではありませんでした。過去には兄弟喧嘩や妬み、過ちもありました。でも、ヤコブはそんな彼ら一人一人の性質や未来を見据え、言葉を選んで祝福(時には厳しい言葉も)した。

僕はここに、神の計画の不思議さを覚えます。神は完璧でない私たち人間を、そのまま用いながら、歴史を織りなしていかれる。12部族とは、神がアブラハムに約束された「あなたの子孫を大いなる国民とする」という約束(創世記12:2)が、具体的な形を持ち始めた瞬間なのかもしれない。

そして、この12部族の物語は、創世記から出エジプト記、民数記、申命記へと、モーセ五書全体を通して続いていきます。約束の地への旅路、律法を受けるとき、部族ごとに旗を掲げて宿営するとき……。12という数は、神の民の全体性を表す数字として、常に意識され続けます。

今残っている部族は? モーセ五書が示す希望

よく「今、12部族はどうなったの?残っているの?」という質問を耳にします。僕がモーセ五書から感じるのは、神の約束は決して消え去るものではない、ということです。

申命記の終わり近く、モーセがイスラエルの民を見渡す場面(申命記33章)でも、各部族への祝福が再び語られます。たとえ歴史の中で離散や苦難があったとしても、神がそれぞれに託された使命や役割は、何かしらの形で続いているのではないか。僕は、それを確信するというより、一つの希望として心に留めています。モーセ五書は、すべての答えを明かすのではなく、私たちが神と共に歩む中で、その答えを探求する旅へと招いてくれているように思うからです。

僕自身、まだモーセ五書の学びの途中です。一つの章節から、これほど多くの気づきと問いが湧き上がることに、いつも驚かされます。12部族の物語は、単なる古代の族長の話ではなく、私たち一人一人が「神の民」としてどのように生き、互いに関わり、未来へと希望をつなぐのかを考えさせる、豊かなテーマです。

もし、この話に興味を持たれた方がいらっしゃったら。僕の学びのきっかけにもなっている、マンガで描かれたモーセ五書を覗いてみてはいかがでしょうか。気になった方は、ぜひAmazonで『モーセ五書 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

創世記49章のヤコブの言葉が、あなたの心にも何かを響かせますように。

#モーセ五書マンガ
#創世記からはじめよう
#イスラエル12部族
GRAVITY
GRAVITY15
もっとみる

おすすめのクリエーター