
ナッツ
読書
詩
文学

ナッツ
勅使川原真衣 編著
『「これくらいできないと困るのは君だよ」?』
声を聞かれること ×野口晃菜
もう1時になる、忘れていきながら書く。もう一度読めばいい、何度も読んでわかったことを書けばいい、それでいいのか?
子どものことをわかったように書けば子どもにとって良いことなのか、そんなふうに考えていくのは誰のためなのか、いつも書くことは書く目的を喪失してしまう。それからがモンダイになる。
話されていないことがある、どれだけ書かれていても言葉の尽くせない秘密がある。だが、秘密は暴かれるためにあるのではない、秘密は、あらゆる目的の背中のようなものだ、何かを目的とするたびに見えない背後がうまれる。
「子ども」が考えられると大人たちは自分のことを見ない。だから改めて大人たちを見て、大人たちにモンダイがあることから始めようと言うのだ。「子ども」とはなにか?ではない、「おとな」とはなにか?である。子どもにそれぞれの個性や名前をつけてきてようやく、子どもたちから見た「おとな」を一緒に探そうとしている。
それはわかったから、もういい。
これまで、「子ども」をわからない対象としてきたが、結局は「おとな」がわかっていなかったんだろうと思われる、誰もわかっていなかった。わかっていないのはいつも大人で、秘密の象徴を「子ども」に仕立て上げて解いていこうとしたのも大人である。
「おとな」は放って置かれていた。
「おとな」がどうしても見えないのは「子ども」を見ていたからで、ほんとうの秘密だったのは「おとな」だった。だから、どうするのか。
「子ども」のことは子供たちの秘密であって、大人のものではない。「子ども」のことなど考えるから「おとな」がわからなくなる。大人は「子ども」のことはわからなくていいけど、「おとな」のことは考えなくてはいけない。
自由に金が使えるようになることが「おとな」なのか、「おとな」をつまらなくして子供たちを「子ども」に閉じ込めてきたのは大人たちだ。
Breaking

ナッツ
三木那由他
『言葉の展望台』
彼が話したそばから
読み落としていく…
振り返らないで毎日は読まれている
なんの本だったか思い出そうとしても
仕舞いには、書いていないことを考える
理解にも及ばない
意味を決めるのはいつもあなただ
どうして齟齬に誘われるの…
わからなくなっていくほど、想ってしまう
奪わないでほしい
わたしの言葉を
待って
もう少し
わからないでいてよ、
ずっとわからないでいて
意味があなたとわたしの間に落ちて
ふたり言葉の溝に溺れて
そのまま
誰の意味にもしないでいよう
どうにも動かない言葉たち
を沈めて
無為の海を泳ごう
もうだれにもきこえないところまでいけたら
わたしの意味を手放すの
あなたは知らない
意味は、ひとりで泣くものだから
窓

ナッツ
オスカー•ワイルド
『サロメ』
《口づけのできない象徴はもういらない》
と言うことも危うい…
若者たちは、
踊れば語らないという誓約をからだに刻み
自ら表現者を黙って
あるがままに魅せることを望んだ
そして、ただひとつの首に
ふたつとない世界で告白するのだ
日々、心はからだに蝕まれる
約束を破るように老いる
今日が何色の月であろうと関係ない国だから
死体の香りのする距離に誘惑する
誰もが誰かに宣告する
また言葉をあつかい、悲劇に唇をあわせる
Heaven Knows I'm Miserable Now

ナッツ
松下育男
『これから詩を読み、書くひとのための
詩の教室』
詩がなんであるかの前にまず、詩をあなたのものとして考えていいということです。それぞれに自らへの詩人になってみようということです。
「自分には書ける言葉があるという小さな誇りのようなものとしての詩があっていいと思う。
ここにいるぼくらには詩が書けます。その詩に、たまにはぼくらの支えになってもらってバチはあたらない。詩の一行を一本の杖のようにして身をもたせかけてもかまわない。詩の一行一行を柵のようにして自分のまわりにめぐらし、守ってもらってもいい。」
冬になって冷凍みかんの味を知った夜だけど、本は閉じれば何を考えていたのか忘れてしまう。実の味のしなくなったスジまで噛みつづけていれば、思い出しそうな気がして飲みこむ。いつも考えているときは、考えるべきことは何も決まっていない。だから詩のことは考えうる限りのことを考えていいはずなのに、何を考えられるのかわからないまま書くしかない。これが、そうだ。
詩ばかりの世界のなか、詩でないことばかりの生活なんじゃないかと心配するけど、詩と詩でないことの間には境や対であることもないんじゃないかと思う。詩とそうでないもの……と音楽を聴きながら夜中に考えることは詩でもなんでもないけど、ギターの音と歌声が聴こえているのに詩でもないことが頭の中を巡っていくのは、わたしの、わたしだけの詩の形がつくられている時間なんだ。音楽はしだいに聴く時間を追い越してとてつもない速さでつくられるんだけど、わたしの時間とギターの音がおんなじ時間を流れているかどうかより、わたしがギターの音に考えを遮られたり考えに情緒をふくんだりすることに、詩の形の時間なのか、詩の時間の形なのか、わからないことがいっぱいあって、書くことがとまらないのに充電やインクによって詩の話が続けられないことのほうが寂しさが強いんだ…。
Feel

ナッツ
オスカー•ワイルド
『サロメ』
「いゝえ。月は月のやう、たゞそれだけのことにございます。」
モリッシー(ザ•スミス)の望みは叶えられるに至った、ただそれだけのわたしを置いて。
切望することほど悲劇的なことはない。。。。
何を望んでいてもそれは死に値するだろう、黒い鳥も銀の花も紅い月も、すべての隠喩は死に囲われた世界の病なのか、ああ、預言者の、王の、くりかえされる切望はすべて………。
モリッシー、その歌声は泣いているの、
「でも、どうやらあなたはあの男を恐れておいでらしい……とにかく、私にはよくわかります、あなたがあの男を恐れておいでのことが。」
あなたにはいつまでも恐れていてほしい、
あなたはあの男のようにはならないし、あなたはあなたのように死ぬのよ。そう、ただそれだけのわたしを泣くの。ただ、それだけの、涙。


Death of a Disco Dancer

ナッツ
松下育男
『これからも詩を読み、書く人のための
詩の教室』
冷凍みかんが歯に沁み入る夜に『死亡遊戯』を観ながら詩のことを考えていた。映画の中のブルース•リーはさらに強い敵を倒しながら、傷を負って進むのを笑っていた。闘うことの強さが残ったのではなくて、傷と微笑みと眼光のフィルムに命が焼きついたのじゃないだろうか。
息づかい、間合い、足のリズムは詩の導火線についた火花のように散っている。まわっている体の芯から重力を引き摺り出し伸びてゆく爪先まで、折れることはない首。睨む間の首は、死の覚悟に曝け出している自然そのものだった。生の躍動とは相容れない死する全ての生命への宣告のように、階段を駆け上がっていった…。
夕方、編まれた一本の黄色い糸の切断。オルガンの音色に似たエレクトリックギターの引き伸ばされた讃美。ああ、日々を記すことは宣告することのように致命的な。遅れた意識の発見により、死が生を追い越してゆく。生きていることより死んでしまったものたちの痕が…書き悩むあらゆる日記をつくっていくのだ。
わたしの地方では雪の降らない日が続く。
詩の教室で話されていたことも雪のようには積もらないのだが、指先の熱にこの本が燃えている。

ナッツ
都築響一
『夜露死苦現代詩』
何かを 考え なければ いけない とても 大きな 思う 人 ら 寂し んでない とても わからない 夜 と もうひとつ 夜 走って ゆく おもい 数える まだ あばれては いけない 数え 終えたら 夜を 走っていい のだと おしえて くれた おもい なげすて 凍える 朝 からまる 虹 を肩 に 背負う 山 には 登ったきり 帰らない 鳥のような 人と別れられない 雲は 遠ざかって ゆく 行方の知らない 人 布団の 中 に白く なる のは冬の 雪の おもい せまる 朝 かるく なって ゆく のは 命 と 入れ替わる 朝と夜 の はやさが すれ ちがう から やがて はぐれる 時間 飲み食い も できなく なる 言葉 を 真っ直ぐ 穴 に通す ように 書く 字 の 数分だけ あわさる 脈拍 に生きながらえる なら 言葉 の 時限装置 と 言えば 雪の降る 底 の 沈殿 された こえ に あやまらないで 伝えて 書いたら あやまった 日々 の 母 へ 降って しまえる 枯葉 を もう一度 踏み ふみ ふみ ならし ワイ イー エス 誰にも 聞こえていない 人 から 返事 聴こえ 朽ちる 笑顔 泡沫の 雪 のように かさなる あわさる 眼 は つねに ふるえる のだから はじける 瞬間 入れ替わる 朝と夜 も 見過ごさず 安心 して 泣く といい 喜び に 満ちる 貧しさ は やがて やがて 貧しいこと 呼吸の ながさ 間隔 の あいてゆく 詰まるおもい も 三千世界 の 記憶 に してゆこう
Setsu

ナッツ
古川日出男
『ベルカ、吠えないのか?』
お前は今も戦禍のなかを歩いているのか…
すでに内臓の言語が聴こえなくなっているから。
映像、、映像、映像、映像映像映像映像映像映像の音声も吠えろ、
夜はしずかだ……、吠えろ。
もう一度、吠えろ…。
1975年にそこに居た、お前の声を聴きたい
喰われていったベトナムの土の中まで。
なぜ望む…?
お前たちに望むことなどない。
ただ、破裂音や爆発音や、すれ違う人のおしゃべりがうるさいだけだ。波の音を受けとるのは、いつも静かな波を聴いてる人だけだ。
き、こえる き、く
命はどっちだ。
耳を唇と寝かせて、待ちながら、
泣く、新しい生まれくるのは人間だけじゃない。
今。動物の声、は。なめらかな音声の。再生。
再生される。ソ連もアポロも紀元も命も。
知らない。喉元を。咬み殺し。若い。牙。で。
何度も。命の再生する映像。を、嗅ぎつけ。
這いだしてきたのは。お前の。声だ。
死ぬのは。お前の。
吠えるための。絶対条件だ。から。
お前は、もう、二度と、生まれない。
Territorial Pissings

ナッツ
戦後空間研究会
『戦後空間史』
ぼくたち街を歩いたよ、駅のホームを駆けていくぼくたちは街を、焼ける前の思い出の街を歩いたんだ。街は歩ける、歩いたぶんだけ街になる。足跡はもちろん、残る。残った跡の人のいなくなった場所に街はひろがっていく。だから歴史は時代区分として読まれるのでなく、それは街の芽と枯れた街の行先の、余地としての空間を歩くことなんだよ。
街には街の人がいた。それは遠い過去のこと。
街には街の川があり、街には街の空があった。
それは思い出すなり過去のこと。
街には街の夜がきて、街には街の春がきた。
街には街の蝶がいて、街には街の猫がいた。
街には街の声がして、街には街の喧嘩があった。
街には街の風邪をひき、街には街の傷を負った。
それは街の記憶にもならないくらい昔のことで、たくさん焼けて、たくさん流された後のこと。
歩かなくなった街には誰の思い出も残らないから、街が無人の路地で立ち止まっているみたいだね。街に話しかけている人の知らない今夜は、街の明かりの点滅が人を呼んでいるんだよ。
春からの電話

ナッツ
町田康
『告白』
ほれ、言うたでぇ、ちゃんとまえ見ときっ
下向いて歩いとらんと、まえ見ぃ
いや、ほなけどなぁ
したにあるもんもあるで
したにしか無いもんもあるけん
した向かな、歩けんのじょ
子供が子供でいられることで、なんのええこともない。ほなけど、子供の頃の悪いこともつまらんこともぜんぶ、意味わからんままの成長になっててすごいよなぁ…。
どないなっとん、これ。
いまでも、なんでか子供みたいに過ごっしょるけど、友達も子供みたいなんばっかりで、子供の時代だったんかってくらい私やの世代は泣いとる。泣いたままにさせられて、泣いとることも誰もほったらかし。
なんなん、これ。
あの時、頭ええフリして馬鹿にしてた自分の恥ずかしい姿も思い出して、また泣いてまうわ。
なにをやっとんやろ……、私ら。
ええかげんにしぃだ。
泣いてることまで、ええ子のフリせんでええんちゃうん、もうええんちゃうん?大人のフリは。
どこかで、まちごうたんとちゃうわ。
ずっと泣いとっただけやけん。
これも私やけん。
これから先
まちごうても、泣いてる人が泣いたらいい。
メガネや、何回でも拭いたらいい。
恥じかいて情け無い顔みせて
やっていったらええんちゃうん。
ずっと、ずうーっと書いてみるんも、なにやってんのかわからんくなって楽しいで。
Too Proud (feat. Jevon)

ナッツ
東浩紀
『郵便的不安たち#』
感情は 論理のまばたきの隙に
落下する涙
なのだから、読んでいて寂しくならない論理
というのもあるんだろう。
時間をかけながら、泣く
めくるページへ、一粒一粒落としていけば
解るのをあせらなくて、いい。
送られてくる手紙は
ひらける作業に
もっとも、時間をかけてやろう。
低音の抑制的な声色
醸造酒の香り
煙る視界
単独であれ、たどり着いた人々の息で本を、
読むこと、それが
歩くように健やかな、思慮とならん。
あたたかさより、暗に伝えられる秘事は
メッセージ
のメッセージ
messengersの微笑み
我々 と 彼等
の慰みの、メッセージ
不安に、自分宛にも書けないのが詩 だが
いつしか、
ことばたちは
飼い慣らされた楽園で出会う
はぐれもの ということがない星座のよう。
泣かない大人のよう。

ナッツ
番外編 鑑賞録
ジム・ジャームッシュ
『パターソン』
枯れた稲穂は黄土色に
(それはこがね色をしていない)
雀が4羽、10羽、8羽……数えきれない
入れ替わり
手に落ちる羽虫
翠色の手紙を出したあとなのに、、
帰る街には
翻訳のような日本語は
日本語のような詩は
話されない…
愛されなくなったものは煙に
"throw"
聴こえない…
あれほど地面を輝かせていたのに
太陽を
見られない…
「would you rather be a fish?」
warter fall
「月下の一群」で
頭を撫でていて、雨
忘れてくれない身体
愛していないのよ
インドの裏側に
色をわける線
黒い遮光カアテン
between the lines
死ぬまえに
声を聴かせてくれ
Drive My Car (Kafuku)

ナッツ
大江健三郎
『われらの時代』
今この何かが書かれるまでの間、歓楽街の賑やかな性処理のように言葉が流されていく。「時代」というのもまた似たように流される仮想空間においては、時間という死と反対に流される意識の持続もない。書きながらにして、死ぬ。という空間に書かれた言葉の亡骸を見つめていると、「われら」が誰の眼にも映ってはいないのだ。撮られて縁取られた言葉は、死体愛好家の下品極まりないコレクションと間違えられそうである。
また、自意識は過剰なほど筆が走り反響も大きい。返される言葉の応酬に、汗をかいた茶色い背中を想像して書いてみることもまた、意識の時代への貢献のようでつまらないではないか。
儚いとは、はかがないことであり、書くことなどはなからなかったことに耽ることだ。もう一度、読み直してみてもまた、同じようなことを書くのにそれは何故書かれなかったことなのか、考えようとして読まれたい。
そのようになら書かれている間にも、眺めている死体がいみじくも言葉のフリをしているのに気づくだろう。言葉はそれ自体遊ばれるのに喜ぶ。
ピアノ協奏曲 ト長調 第3楽章: Presto

ナッツ
高橋源一郎
『君が代は千代に八千代に』
殺しのライセンス
誰かが生きながらえようとすれば、誰かが殺される、そんな世だった。
星の輝きのためには、悲劇が描かれて…
誰が殺されているのかを太陽はしらない…
「殺しってなんだか晩餐のような静けさなんだな。やっと少しだけわかったような気がしたよ。誰にも教えてもらえなかったからね。生きようとすることにだって、ライセンスを必要とするんだからね。」
誰が生きてるかなんて想像したくもないな。僕を殺しにくる人のことなんて、想像したくない。
そして、僕が殺しにいく人のことなんて…。
小説っていうのは想像することなんだってさ、
知らなかったよ…
Black Swallow I

ナッツ
松岡正剛
『フラジャイル』
人は、何のために葛藤しているのか。
それは宇宙から来た複雑性のフラジリティによるらしい。
ああでもないこうでもないとやっているうちに、とんでもないところまできてしまって、気がつけばずいぶん変わってしまっている。
あるころから、あなたは変わってしまってかわいい。わけもわからずしゃべりつづけて、体もおおきくなってやがて萎れて。
あなたは、ずうっと壊れて泣いていたのに、強くなろうと必死だったね。曖昧で微妙な毎日を、記憶と行ったり来たり震えていたね。
子どものこわれやすさを寂しい本でさらに混乱をまねきながら、わがままに微弱な熱を発して一から作り直せば、揚々とちいさな世界を生き延びていた。
溶けてやわらかかった、型に付いてやってきては錯乱して、もう一度やり直すごとに予想できないような形に敷衍していった、葛藤よ。
あなたと、
ここまできた、
Tired Mind

ナッツ
千葉雅也 他
『思弁的実在論と現代について
千葉雅也対談集』
ポスト精神分析的人間へ
ーーーメンタルヘルス時代の〈生活〉
×松本卓也
私の記憶からあの人の風景へ
隣の人は誰だか
「ほんとう」って、壊れるもの
終わらない(陥没と波)
眼窩に雲間の青さ
病めない心を、またリセット
みずからの始まりの全体になる
ふふふふふふふ
回遊しながら笑い
空しくない、バイバイ私たち
何度も毎日それでも、生々しく驚いて
いつもカタワレを歩いてみて
歩いた徒労
不和の発見
そういうものものを話せること
ひとつの銀河
目の前の人と洞窟
ひとりではいられない身体だから、ふくらみがたくさんあるんだ
争っている読書を
詩の喘ぎだした声にまかせて…
Come Here Go There

ナッツ
番外編 鑑賞録
ジョン•フォード
『駅馬車』
いつまでも未然でありつづけ、
未熟にも読むことになる『ジョン•フォード論』が見ているもののために…
歩いてゆく、ふたり。
靴音が鳴り響く夜の影と店の光。
映画は引き返せない荒野でありながら、追われることに囚われ続けなければ終わらない。
一歩、飛び出して撃つ。
見えない戦いの絶望を映し出す。
安堵と希望は、この一歩のまたその止められない終わりの先にある。終わってもなお、続いてゆく荒野のために銃声はならなければならない。そのようにしか越えようのない明日への断絶を映してくれるものでなければ、生きることを見ることにならない。
振り出された死の見えない行方と生まれた子を渡す終点の灯りに、私たちの明暗はいつまでも見られている、歴史の瞬きとして映画が撮られている限り…。
How's It Gonna End

ナッツ
番外編 鑑賞録
大林宣彦
『野のなななのか』
「、ほとばしって泣きますわ」月などでていないのに、サンドウィッチを野の、花とは枯れないものだから、朝焼けが燃やしてくれるのね、晩秋の雪「、静かになさって」土に汚れたキャンバスなら。
あなたはだあれ、ピアノも静かになって降る花の、七七日。
だからね、会いに来たのよ。
なななのか、わからないけど…「、そうなのね、」若葉が夏の日のあいだに落ちていって、車を停めて爆撃機を追いかけたら、あの人に会えたのに…。
丸裸の人なんてどこにも…。絵の中の人、って誰。絵の中の…夕べ見たの、絵の血の虹の花。わぁ!って驚いて、すぐに亡くなってるのを教えてくれた、青い空と赤い空とどちらが裸なのかね、描いてみようって…。
「私はだあれ、だあれ、だ、あ、…」いつまでも戦争なのね。いつまでが戦争なの?昨晩終わったのは、緑のおしゃべりだったのね。
どうしてもあなたとはお話できないの、どうしてもね。音楽が鳴りつづけているのを誰もとめられないわ、朝の焼けるようなあなたの血を誰もとめられないわ。
野のなななのか

ナッツ
フランツ•カフカ
『審判』
「K」が、逃れられない罪を被っているなら私たちにするべきことなどないように、物語は逃れられない時間の進行によって私たちに読むべきことなど与えられないまま、「K」とは無意味に私たちの物語は書かれてしまい消されてしまいます。「あなたはあなたのことを聴いていてください。」「自分自身の自問自答に狂わねばなりません。」「そして、誰の問いにも答える権利を行使するのです。」私たちはそのように目の前の画面に向かってひとりでに喋りかけていました、が、羊毛のセーターに包まれた男が背後から覗き込んできて私たちの心中に手を差し出しすと、気持ちとは裏腹に訳もない言葉を吐き出して隅々にまで自分の分身を語らせようとするのです。
この世界にはどこからか人間がやって来ては去る機械原理がそなわっているだと思わずにはいられません。私たちはどこから来て、どこへ行くのか知る義務があるように生きています。すなわち、「K」が今も尚この世界のどこからか来ては去り、私たちの心をからめとっていく物語が書かれているのです。私たちが生きている以上、いつもなんらかの争いが生まれているのですが、すると後から知らない顔をした「問題」や「物語」がやって来ては去っていくのです。これを、人間が小説と呼びはじめてから数百年が経とうとしています。そして、私たちは誰も真実を語らなくなったのです。
夜のガスパール: 第2曲: 絞首台

ナッツ
保坂和志
『あさつゆ通信』
どんな日常にも面影が横たわっているとして、身体の運ばれた残像、習慣の投げやり、思い出せない労苦、喜んで傷ついた好奇心の数だけ未だなかったものが描ける。
日常は終わらなくてやかましい、嬉しい、余計だから頷いてやる。いちばんくだらないベッドの揺れる一日を激しく寝る、起きる、思い出す。能天気な太陽のいない、水の流れない川も、口喧嘩のやまない夜のように忘れてしまいたい日常で、思い出せない涙と体温を読みながら泣く、読みながら思い描く心の川。
洪水をすごいと思う子どもが、死ぬことを怖いと思わない子どもが、心を生きているし憂鬱な日々を憶えていられるから、よく転んだところのカマキリの死骸をきれいに写して見せてくれた。子どもを知らない時代の記録を読んでいても、今までずっと子どもを生きている自分の心は生まれたばかりで、うとうとしている。
どんなにわからない言葉があっても、日常の身体の滞りにはついていけなくて、たくさん書いたからといって身体は女性にならないし、ましてや男性にもならない。詩を書いたぶんだけ人間を忘れられるのは人間らしさの日常のなかだけで、いつまでも星を見ていたりいつまでも恋を憶えてはいられない。
不安なままで書いたことやようやく出てきた言葉が馬鹿馬鹿しく卑しかったとして、もう一度思い出せばそんな自分のことなど忘れていた。そんなことを書くまではただ、雲も川も水も、人も毛も犬も 皿も枕も夢も、ずっと淫らに求めていた。
だから空は青いのではなく、深いのだ。
Music for 18 Musicians: XII. Section X

ナッツ
吉増剛造
『吉増剛造詩集』
穿たれた紙片の、焦げた匂い、さそわれ、
ガラスから漏れた陽光に逆らいながら列車は、
尾をひく、
「魔」とは離れ離れに、胸はちいさく、
吸い込む風のつよさに肺は凍えて、
やがて、キャベツが黒く萎びて…
塵の街、氷の家、
灯油の「魔」の匂いに部屋は焼かれて、
無謬の世界に行く駅の、
照らされた花、
(walk、walk)
夜なれど、
花はこの世の誤りなのだ
「疾走詩篇」は、
裂かれたあとに咲く、
季節をまたぐくらいなら、
裂けろ、今生の詩になるな!
分岐路に運ばれる詩篇のみ、
「魔」の一行は千々に別れ、
瞬間の火花の喉を覗くのだ
String Quartet No. 2 in F-Sharp Minor, Op. 10: II. Sehr rasch

ナッツ
番外編 鑑賞録
フレデリック・ワイズマン
『ナショナル•ギャラリー 英国の至宝』
歴史を人々が物語ることが場所が生きることの条件で、街や風土の生きる蠢きの映る目こそ、私たちのすべての視線である。
何を見ているかや何を見ていないかは色彩ではなく塗料のひび割れであって、見る者が次々に訪れる場所が目撃した時間の滲みこそ、私たちのすべての色彩である。
美の目の前で立ち止まり語らいながら眼の届かない明暗や凹凸をくぐり抜け、裸体の写しとる手が黒い線や白い線を走らせて止まらない人間の影の啓示を叫んでいることこそ、私たちのすべての情緒である。
グノシエンヌ: 第3番

ナッツ
東畑開人
『カウンセリングとは何か
~変化するということ~』
ふつうの人
ふつうの生活
ふつうの相談
ケアのほとんどの部分は日常にある
「人が人に話をすること」とは何だったのか
ほんとうの話が見えないところで
知らないあいだ
一夜のうちに打ち明けられて
終わりのなき電燈の明るみから隠れるように
囁き合うように
日々の隙間の陰りで
ふたりで
誰にも話せないことがあるから
ほんとうの話は
あなたにもわからないように言葉に隠して
たくさんの議論にまぎれて
合唱隊のなかで歌って
耳を塞ぐと
ときに羽虫の死骸に似た
ココロの欠片が黙っている
話すまでもなく 聞くまでもない
言葉の途切れたところに風が
誘うように聴こえて
耳打ちする(ほんとうのこと)
ふと何を話したか忘れたころに
ちいさな声が
風に話しかけている
混声合唱のための「うた」 さくら

ナッツ
東畑開人
『野の医者は笑う
~心の治療とは何か~』
誰もが一度は"告白"という一冊を書くのだろうと思う。私を私にしてくれた物語を書くのだ。
あなたはよく笑った、日常の外で
暗闇の車内で
私の知らない私を、笑う
私も笑う
どこに生きているのかわからなかった
生き方を笑ってくれている
心と身体の半分は不在で
もう半分は存在の証明にさらされている
これでは癒やしどころではない
透明と刻印によって引き裂かれてしまう
現実はどこにあるのだ
そう、私はずっと現実を探していたんだ。傷つけられた現実に帰って癒されようとしている。
人と出会い、出会った人と居る。
そして生き方を得ていくことが癒やしになる。
それぞれにふえていく傷つきが、多様な生き方をふやしていく。
Lip Noise

ナッツ
保坂和志
『あさつゆ通信』
小説を読むことで生きている物語があり、物語を生きてみることで読んでいる小説がある。
ちいさな記憶からもう一人の〈私〉の物語をふくらませると、自分の生きた過去と生きている現在の間に〈時間〉という心が託されているもう一つの物語がつくられていくらしい。
おそらく、自己の中に〈私〉という心の発生と自己の外に〈時間〉という心の受け渡す動きがつくり出されているんじゃないかな。
物語のなかに時間が流れていることと、物語のそとに時間が流れていることは同じようで違っていて、私たちはまったく異なる人と同じ時間を生きることができるんじゃなくて、心の深い呼吸のリズムを物語を通して遠い時間のすれ違いを調律しているんだろうな。だから、物語のなかとそとに別の時間の動きをそれぞれに響き合わせるのが読むことなんだけれど、誰かが同じ時間に生きていること求めるのは〈私〉の物語に閉じ込めるようなことなんじゃないか。
私たちがそれぞれに物語をつくりだすことができるのは、まったく同じ時間の内には生きていないからで、その物語は大きなひとつの時間を描いているのではなく、読む人と物語との時間のちがいに気づき、私たちがそれぞれの時間に生きていることを書いているんだ。
その物語は心をつくりだすのと同時に心の広場であって、たったひとつの心も、たったひとつの時間もない。
あらゆる心と時間の記述なんてないけど、私たちには物語というとてもちいさな、もう一つの身体をもっているのかもしれない。
別のもう一つの。心も身体も時間も物語も。
mild days

ナッツ
高橋源一郎
『君が代は千代に八千代に』
Mother Father Brother Sister
何かが書かれているから小説であるのは言うまでもないけど、何を書いているかがわかってしまってはいけないような気がしている。
ほんとうのことは誰にもわからないように書かれているんじゃないだろうか。
もちろん、ニホンのある問題が書かれているんだろうと思う…でも、問題がうまれる前には争いがあるんだと言った人がいて、ニホンの問題とされる前には私たちのちいさな争いが蠢いてるんだ。
問題が問題だとわかるには、その前にしっかりとちいさな争いを観察する必要がある。
そう、僕たちは生きていて、生きているだけでも、怒ったり悲しくなったり、嫉妬したり貶めたりする。
それらをしっかりみること。しっかりとみて、それから問題をわかるんでも遅くはないと思う。しっかりみることができれば自分で問題をつくることだってできるだろう。
ただ、僕たちは僕たち自身のことをなんにもみえていないから、問題もわからないし自分で問題をつくることもできない。
僕たちは何をみてきたんだろうか。
問題や言葉ばかりをみて、わかったことにしているだけなんじゃないか。
「問題は誰もちゃんと聞いていないことだ」
もう誰も聞いていないのに、言葉だけが山積みにされている。それがどんな問題なのかは誰もわかっちゃいない。
死者のように誰にも言葉が通じない…だから、
まずはその人の生きている声に姿に、きちんと耳を澄ましてみるんだ。
そうすれば目の前にいる家族だって、それがどんな関係なのかわかるはずなんだ。
Family Song

ナッツ
稲垣足穂
『一千一秒物語』
引き金をひいて暮れてゆく街で
つまづいて胸を貫いた銃弾
命をひらいて取り出す過去の痕
過去は馴れ馴れしく挨拶をしてきた
月が地球に落ちてくるより
黒猫がひとの記憶のなかで
目から星と涙を落とすほうが
誰もいない日々にはやさしく
街灯が彼女の路をせまくして
言葉のフリをした枯れ葉の枝に
時計の針ごとずっと昔に突き飛ばされるが
驚いて手元の季節を振りあおぐ拍子に
過去は夜空に帰っていった
見上げた空の星はいくつも減っていて
記憶のなかは満天の涙が輝いた
角を曲がると必ず命は落ちていて
それはみな、過去の痕形もなかった
Recollection

ナッツ
古川日出男
『ベルカ、吠えないのか?』
呼びかけてやろう
それからお前たちはどうしたんだ?
こたえてくれなくなっても
いまお前たちはどうしているんだ?
見えなくなっても
お前たちはどこにいるんだ?
雨が上がらなくても
待っているのか?
夜になっても
逃げないのか?
もう誰も
吠えないのか?

ナッツ
古川日出男
『ベルカ、吠えないのか?』
読む手前の記録。
ふりだしにはもどらない…
もう一度、別の道を選ぶスタートには戻らない…
常にゼロをかけられる哲学を持っているなら、走ったら走ったぶんだけ遠くの言葉に手を掛けておくのはどうか。言葉にあふれて行き詰まるなら、ゼロにすればいい。ゼロという語りえないものに、どんな言葉をかけても沈黙するほかないが、それより、地層の堆積や宇宙の膨張のように声を文字へ、文字を言葉へ、文体へ、形式へ、と書かれた思考回路や所作の遅速に、沈黙より未然の口ごもる発露の拒否がありはしないか。
吠えないのか?
このなげかけは、隠れた声の胎動に呼びかけているのか。人間としては語りえないイヌの声に。

ナッツ
森田真生
『偶然の散歩』
岡田隆彦
『岡田隆彦詩集成』
稲垣足穂
『一千一秒物語』
ひ ふ み
いっぽんいっぽん、指をおって数えたら
ふえていく数を
手をひろげていっぺんに手放す
掌を見せて
なんにも無い
増える喜び、減るよろこび、
得ては手放すしあわせを
白い部屋の窓から
たったひとりで見送って
手を振る
歩いても歩いても、哲学の
大きな輪っかの土星から
やってくる、穴
覗いた真っ暗闇の先に
てのひらの
ゼロ
機械仕掛乃宇宙

ナッツ
永井均
『マンガは哲学する』
哲学の目の前にたつ
震え、狂い、崩れる
ふりだしにもどる…
「書いてきた日々も、
ちいさくうずくまってしまったように、」
考えたていたことは
〈考えること〉とは縁遠く
生きていくも未然に行き詰まり
〈生きていくこと〉の外に放り出される
語りえぬもの、そして無意味
心を攫っていく身体
反転する倫理
無音の文字
眼の裏側にある光のない景色は
目の前の固有性に影を落とした
〈小景〉のための展望台にきて、
夢の中で、夢をみている自分の夢に、
全て、すぎてゆくものをくりかえすことなど…
果敢無い光線 (feat. Kei Matsumaru)

ナッツ
高橋源一郎
『ぼくらの戦争なんだぜ』
後から来た私たちは、どのような言葉を読んできたのだったか、そして、また、後から来るものたちに、どのように言葉をつかって書いてゆくのだろう、
つくづく不安に思う、
私に伝えられるほどの、歴史の言葉があるのだろうか…。誰にどんな言葉をどうやって伝えたらいいんだろか…。
「ひとりからもうひとりへの伝承という行為」
鶴見俊輔はここから始まった。
私の生活では、人より見て聞いてきた言葉の少ないことだろうから、もしかしたら、伝わったことは私の狼狽の記憶にしかならないかもしれないが、言葉の短い瞬間の「遅さ」に後から来る人の記憶へ引き延ばされた、歴史の伝承になることもあるかもしれない。
いつか、「ぼくの戦争」を書く日になれば、何から書き始めればいいだろう…
菜穂子(出会い)

ナッツ
東畑開人
『野の医者は笑う
~心の治療とは何か?~』
松岡正剛
『フラジャイル』
心と体の
跛行性(ハコウセイ) によって
フラジャイルな
少年少女の憂鬱が
今なお、私に巣食っているらしい
ゆえに、私は言葉に期待していた…。
私の言葉は、私の味方であると思っていたが、そうではないらしい。言葉はときに心を覆い、心像のいたずらに体を震わしもする。
私たちは誰もが弱さの起源を持っていた。何かを大事にしては失うことで、涙を流す生きものだった。何度も、何度も、やりなおしては、失ってきた。それなのに、言葉にふりまわされる…。
もう二度と大事になんてしない、とは言わない。
元々薄情なのに、薄情なのを責めてもしまう。
人を癒すことで癒されるセラピストたちの、出口のない渦巻きのような心の生活は、傷つきやすさを生きている…。
心の治療はやはり、大きな意味を胸の内から聴いてしまう塞ぎようのない、弱さの聴覚から始まるのだろう。
言葉を囁かれるのに、人は弱い…。
そして、むしろ強がった言葉への過剰な意味を治療しているのではないか。
yura yura

ナッツ
高橋源一郎
『さよなら、ニッポン
ニッポンの小説2 』
書かれなかったことが、
ほんとうのことだったら。
「僕たち」なんて書いたから、
そして誰もいなくなったんだ。
寂しくって何も言わないのは、
言ったら寂しさが離れてしまうから。
いなくなったひとがいるとおもってた。
でも、いなくなったひとは、いないのだった。
いなくなったひとについて、きいてもだれもおぼえていなかった。だれもいなくなったひとについて、はなさなくなった。
いなくなることを、しらないみたいに…
言葉はなにかのためにあるんだろう…。
もうすぐ別れる「言葉」と今は生きている。
「…について」と書いた日々について書くことはもうないのかもしれない。もしくは、「…とは何だったのか」と書くことは何だったのか、と書くことはもうないのだろうか。
私は別れを書いているんだろうか。
さよなら、………。
nostalgia

ナッツ
東畑開人
『野の医者は笑う
〜心の治療とは何か?〜』
傷ついた治療者と癒やす病者、
未だ人々はこのあわいにいる。
だけど、ここには癒やす病者しかいなくて、
離合集散する塵は
引力に負けて
衝突するばかりだ。
宇宙は
神さまを演じて
神さまは
健康を演じて
健康は
友達を演じた
野の友だちがいた、神社の境内であそぶ友だちを思い出した、ボールが茂みの奥の日の当たらない暗がりに消えた、それを、ひとりでとってこなければもう、遊ぶことなんてできなかった、ボールはひとつだけだった、友だちもたくさんいなかった、まだ、病も知らない、宇宙も知らない、野の友だちがいた、生き方をおしえてくれた、野の医者のようだった、
touten No.1

ナッツ
保坂和志
『あさつゆ通信』
毎日、というのはもう毎週とか毎月のような「そのたびにごとに」という意味を越えていて、一日という区切りが24時間ごとにあることの意味ではなくなっている。
新聞小説を毎日読むとか、毎日その日考えたことを日記に書くとかいうのは、分けられたように読んで書いていることではない。読むことや書くことが一日を越える、一日を一日でなくする、繋ぎ目をつくっていくことなんだろう。
記憶に繋ぎ目はないから、人は思い出や経験に一貫性なんてないのは当たり前だけど、記憶と記憶を編むように考えることが、読み書きでつくられていて、それは思い出や経験が新しく紡ぎ出されることだ。
フィクションであるとかないとかはまったく関係ないのだが、小説を読みながらというか、考えながら何か文章を読み書きしている時、記憶が日々の事実を越えて「毎日」という時間を溢れてその思い出や経験を豊かにすることもある。
時間が解決してくれるというのは、経過の中に変化があったからとかではなくて、記憶の中の時間が現在の時間を溢れてその人の外で日々を生きることになるからではないか。
毎日、生きているということは、自分の中から新しく時間を溢れさせて、昨日と今日の境に居ながら今日と明日の境に記憶を繋いでいくことではないか。
Time

ナッツ
古川日出男
『ベルカ、吠えないのか?』
届け!
その声が、血の大きな流れの絶たれる瞬間まで。
人間の頭の中に爆弾を植えつけて、
あらゆる意味の地層の上を駆け、
交じり合う声の威光で、
渦巻く言葉の中心に逆らい、
散り散りに走れ!
速さは、ない。だが、止まっていた時限爆弾を進めろ。今の生きる、一瞬のあいだに、小さく死んでいく声を聴け!自らの声ではない。あらゆる生きものの反響音だ。イヌに吠える運命があるように、頭を垂れるがいい。
そこに居て、いつまでも聴いてみろ。
HOWL

ナッツ
岩川直樹
『の思想家 宮沢賢治』
<私(わたくし)>の証明がいかにしてあり得るか。法的な叙述ほど途方に暮れるものもないが、心理学的証明などは、宇宙の解明と相違ない。
まさに、明滅する光に存在証明を試みようとした、十億年後の宇宙に届く光のような…。
だが、どうして<私>を問題にすることになったのか…ここ何百年か何千年の過ちではないのか。いつまでも、先送りにされた業の辻に迷っているわけでもないだろうに。
賢治の、
あるいは修羅の、
私の命題は死の後にまで…

ナッツ
古井由吉
『楽天の日々』
そう、「読んでわかったばかりが、読む面白さでない。」そう言ってあげたかった。
著者は老齢になってそう言うが、私は元々読んでわかることがないままきた。
忘れる、というより、振り返る勇気もない。どのように読めば、今読んでいる場所から進めるのかわからない。何度も何度も同じところを追っていた。
でも、「本も人の中で眠るうちに育つ」から、その時わからなかったものは、わからないままで眠ればいいらしい。
読む者の徒労がいつまでも心に残って、ある時、ふと読めないで居続ける日に、この本を思い出されればいい。
『日日是好日』エンドロール

ナッツ
松岡正剛
『外は、良寛。』
涅槃に近づきたくて、若さを飛び越えて、衰える身体に嬉々として老いを歓迎する。
散るときには、うらもおもても見せて逝く、もみぢのように生きた人を、いとしむ心が包んだ庵の寂しさよ…
死について書くとき、言葉の足らない、足る前に静まる定型の詠に、言葉と情緒の境がある。どちらも行き来するように、うらとおもてとどちらでも、あの人がいて、詠むと読むを遊ぶように。
すべてが、良寛だった。
Setsu
