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🦧
お酒
洋楽
哲学

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↑
いやこの理屈で言えば本読むのもテレビ見るのも面倒くさいことの丸投げだし、自分が努力してきたルートを無視されたくないっていう感情論だよ。要は現代の魔女狩り

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文章、だいたい分かるようになった。
・改行が微妙に不自然
・急に箇条書きが始まる
・体験談が無い
・** **が使われる
・” ”も多用される
・「〜が重要です」の言い回し
AI使うのは全然いい。 最後だけ
は**自分で推敲** して“自分の声”に戻すのが重要です。 」
↑
AIにありがちな癖の具体例としては外してないけど、逆にこういうの綺麗にまとめてSNSで拡散されると今度は思考停止の量産型頭脳派野郎が増えて文をフォーマットで区別する仕様になっていってラベル分けする癖が強まるだけ。
「AIぽいか見抜ける俺」っていうポーズ自体が一番AI的なテンプレ思考だし、そもそもAIの文の書き方って頭のいいしごでき人間の平均的な文の書き方をリスペクトしてるだけだからね。
というかむしろAIかどうかなんて割とどうでもいいことで、結局は中身に反論できないから全部AIってことにしたい私情が入り混じってない?

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・最初は感情で投げる
・返されたら理屈と正義を後付け
・最後は人格攻撃に逃げる
こんな感じ

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じゃなくて
勝ち組=未経験エリア多めのビルディング、説

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そもそも日本のkawaiiって原宿系、ゴスロリ、V系、ギャル、これ全部凡庸な美意識を逸脱したおかげで生まれた「kawaii」だし、kawaiiってあえて配慮せずに評価するなら異常現象だから

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写真が実物かAIかはぶっちゃけどうでもいい話で、現実の厚みから目を背け始めたら思考が判断から反射になるだけ。その状態も現実逃避の一つだよ

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AIは基本「入力→推論→出力」構造で、設計に組み込まれた主観と文脈依存が事故を起こさないように判断するように動いてる。
イーロンの思想って、「主観的な善悪は設計コードに入れない」「文化や価値観は開かれた競合に任す」スタンスでAIを道徳教師にはしてない。そりゃ政府やらSNSの声が「規制しろ」って言ってきたら「お前の価値観は世界基準か?」って反論するしファシズム扱いもされるよね、っていう話。
そもそも未成年か判断するのは不可抗力的に起こる事故の事例も多いし、「AIの責任はどこにあるのか。表現、技術の自由とは。」って話に国家が事前介入するのは普通にファシズム寄りよね
感情的にもの言うのがSNSでは主流なのはわかるけど構造的に見ない考え方は結果的に何も残せない

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そもそも飛行機も民主主義もインターネットもAIも初めは「机上の空論」だったわけだからね。それってもう現実重視なんかじゃなくて、現状肯定の快感に酔いしれてるだけでしょ?
要は全て理解の放棄。無能が有能のふりをするための最強の言い訳ムーブ。

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神→国家→世論→数字→アルゴリズムって順に管理され続けてるだけだし、「自我」だの自覚だのって言葉もそれらに管理された上で生み出された言葉の価値観にすぎない。「意味」っていうものは与えた気になってるだけで与えることができるようになってるシステム上で生きてるだけ

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SNSで炎上して周囲から叩かれて悪者扱いされる人は正直俺は全く悪いとは思わないしあくまでそういう立場でそういう投稿をしただけとしか感じない。主観で善悪決めて拡散してたらそれこそ残酷だし独裁的な考え方と言っても過言ではない。そういう正義ヅラする人ほど一般的に悪と言われている人たちを叩きがちだけど構造的には悪と言われてる人たちと同じことを行ってる場合もある。ヒトラーもスターリンも「絶対正しい」と扱いたい自分の立ち位置を可視化してただけだからね。ヒトラーもスターリンも世界の構造的には悪くない、ただ敵に回される確率がウルレア級だったというだけ。
だからもしSNSで争い事を起こしたくなかったら、まずは「立ち位置によって人の思考は変わるから、この立ち位置の人はこの投稿をするよね」って観測結果を残すこと、立ち位置に善悪はなくてただの座標の話。SNS内で「同じ人間だから同じ感性で物語れ」なんて言うのはめちゃくちゃ酷な話だと理解した方がいい。人の死を平気でネタにして扱う人もいれば、「死者への冒涜だ!」なんて別にキリスト教徒でもなんでもないのに言葉の響きの強さだけ振り回す暴論者もいる。どっちも悪でも善でもなくてただそういう立場というだけ。
つまり、炎上っていうのは人間の構造上のエラーではなくてただの仕様。感情を持ってる人間なら当たり前に起こすし座標が鼻から違ったら摩擦が起きるのは当たり前ということ

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「他の店じゃ薬味はタダ」?わかる、言いたいことはわかるけど俺らがやりたいのは「ここではこれをやっていい」という許しにたいする対価なんだよ。原価野郎にはわからんでしょうねえ

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色って情報量そのものだから彩度を落とすことで現実感という俗っぽさが薄れて象徴だけが残ってるとこに神聖みを感じる。
白〜薄紫のグラデーションも上品、宗教画レベルで神の産物感あるし、触れてはいけない大理石とか石膏像の感覚にも近い。
プロの写真家が霧の中で待ち伏せし続けてやっと撮影できた本物の幻獣って雰囲気が溢れてる。要は好き(語彙力)


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挑戦、チャレンジって本来は日常行為に変化を加えてみる程度のことなのに、それを偉業扱いされると「自分じゃまだ早い」「今からやるのは異常なんじゃ?」って考えに陥る人もいる。誰かの挑戦はあくまで本人の気が変わっただけの話であっていい話とか崇高な趣味とかじゃないからね。行為を褒めるのはせいぜい褒めたら伸びる子供相手くらいにしといた方がいいし、自分で放っとかれても先を目指せる大人相手なら「合理的な選択をしたんだね」くらいの感想で十分効く

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むしろ哲学書通りに動いて「こうしなきゃ…」「距離取らなきゃ」なんてやってたらストレスは倍に膨れ上がるなんて事例がないこともないから、「ショーペンハウアーはこう言った。じゃあ自分は?」って自分に質問を投げかけるくらいがちょうどいい


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「今日は何もしてない」は「今日はソクラテスだった」に変換できるし、生産性ゼロが悪いことだとは誰も言ってない

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あとデカいのは相手の改善にも理解にもならないってことで、もし本当に相手がやらかしているなら必要なのは行動とか発言に対しての指摘であって批判ではない。批判に対して人は理解より防衛本能で感情に走りやすいから話し合いができるどころかIQが下がるだけ。
このアカウントでよくいうけど人は自分が不確定な立場に立っていると大体自分を正当化できる根拠のない強そうな言葉に逃げたがる。「資格がない」だの「倫理に反する」だの言っときゃ相手も人間だから反論しにくい。要は感情的にぶん殴ってるにすぎなくて、本来指摘において必要な「理屈」が全て抜け落ちてるのが世の中がなかなか良くならない原因の一つだよ。気をつけていきたいすね

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ディズニーってそもそも他所の文化に忠実に描くというよりユニークな世界観と多様性の中で最終的にディズニー特有の手触りに戻すからブレずに安心する線があって、ジブリも自然信仰に忠実というよりかは宮崎駿の感想文みたいなもので正直「畏れ」の部分全面に出し過ぎじゃね感ある。あくまで表現の違い。映画って写実じゃウケないからね。一神教だから〜多神教だから〜って判断の仕方は文化に基準を括り付けてるから思想の幅を狭めてて危険な感じがする。文化というより商業化とか作家の匙加減として受け止めといた方が楽よ

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科学は見える部分を最低限クリアにして、測って再現して誤差を管理して形にする物でなるべく答えを確定に寄せようとする。
哲学は逆に揺れ幅も全体の一部の切り出しが成立する条件も切り出した瞬間に生まれる余白も捨てないから範囲はデカいし地図を書くことじゃなくて地図の成立条件を見る。
例えるなら「悟り」と「仏教」の関係性が当てはまって、悟りっていうのは「辿り着く地点」じゃなくて辿り着こうとした瞬間にズレる対象で、対象化した瞬間に終わる。仏教とは悟りを捉えずに、欲や執着を扱える範囲で調整して悟り“風”の状況の手前を運用すること、つまり確定された悟りへの要素だけを扱っている。これは、「科学=確定できるところで道具化する 哲学=確定できない揺れを含めて枠を扱う」っていうベクトル差と構造が同じ。
哲学と科学はどっちが上か、どっちが優れてるかっていう勝敗で分けるものじゃなくて、どっちも同じ道路を走っていて片方は制限速度を守って地図を書き出してもう片方は道路がどう成立してるのか扱っているだけ。役割もベクトルも違うものにどっちが正しいかなんて議論を持ち込むこと自体烏滸がましく感じる

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倫理って本来は簡単なワードで世を区切る事じゃなくて複雑な現実をどう生きるか悩むための道具で、「冒涜」って言葉は思考停止につながる。良さそうな言葉に頼った方が楽だし見た目も立派に見えるから。その代わり世界は1ミリも広がらないし、人の思考の浅さが露呈するだけ。
死者は何も感じないし、それを冒涜だと感じるのはおそらく生きてる側の感情の代理としてそれっぽい言葉を理屈側にも通じるように言ってるだけ。
生命への冒涜に関してはまずどこからどこまでを生命と枠組みしてるのかってとこから始まる。人間だけか、動物も含めてか、プランクトン、バクテリア、細胞全て含めてか、それとも単純に「尊さを感じやすい命」にだけか?ここまで詰めるとだいたい人は自分の理屈が薄っぺらすぎることがバレるから強そうな言葉を使って善人ぽく演じるしかない。
本当に死者や生命を大事にしてるなら雑に人間側の感情で怒るより「どこがどう、どういう文脈で何が傷つくのか。そして傷ついてるのは本当か、もしくは自分の目から見て、か?」っていうところまで考えるべき。そこを放棄してる時点で何も考えてないし正しそうな位置で鼻ほじって食ってるだけ

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その「意味ないじゃん」と感じた人が持ってる意味って言葉の定義が「未来につながるかどうか」だとしても、「未来につながらない」=選択肢を削る/整理する為の意味があったことになるから未来にしっかり介入してる。
人間の「意味の有無」判定はどう足掻いても完全な無意味にはならない

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霊のイメージが怖いのって、未知だけど概念はあるものだし「死」って言う根源的恐怖が関連するものだから「怖い」って言葉に結びつけやすくてそこからいろんな創作物に描かれてきた。ってだけの話だから、結局幽霊を怖がるのってありもしない被害妄想を信じ込んでるようなもので、ホラー映画もお化け屋敷も演出の完成度を楽しまないと勿体なくないすか

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未知っていうのは本来ノイズで、理解するのに疲れるし「面倒臭い」って言う理由を言い訳に人は逃げるけど、エンタメってそのノイズを楽しめるようにする手法で、そこに生じる拒否反応って「面白くない」じゃなくて「面白いかどうか以前にわかりたくない」って気持ちの方がでかい。大概の人は「わからない=負け」だと勘違いしているからここで「わからないんじゃなくて面白くないんだよ」って強めの言葉に逃げたがる。もちろん個人の経験とか気持ちによって育まれた感覚によっても何を面白いと感じるかって違うとは思うけど、それなら低評価じゃなくて「ピンとこない」っていう他文化に対する理解のできなさと同じ感覚の方が近いだろうし。
いわゆる名作って評価される作品は漫画も映画もアニメも本も「見たことない未知の世界」を中に秘めてるから何年経っても色褪せないんだと思う。それを楽しめない自分を下に置きたくないから心理学的にはそこで「負けず嫌い+自尊心のセルフ防衛」が暴発して対象の作品の価値を無意識に下げることで「つまらない」って感想が浮かぶ。
何かを面白いと思うことって強制されて起こるんじゃなくて「負けてもいいや」って感覚に近い気がする

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本当の無欲って「今日は〇〇しよ」っていう自分の体と気分と現実の一致した結果みたいなもので、「欲を捨てる」ことに自覚もメタ視点もあるはずがない。欲は捨てるものではなくて問題にしないもの。悟りって結局何かって言ったらただ普通にラーメン食ってることなんじゃねーの?って

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哲学ってそんなモノじゃなくて、日々の生活、感情、経験なんかをどう捉えたかっていう本来自分しか理解できない自分だけの自覚の事であって、あくまで哲学者たちは信仰先じゃなくて思考の筋トレの材料くらいに思ってないとなんの意味もないでしょ

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ちなみに「マグニフィコは悪者じゃねえだろ。ウィッシュ駄作。」みたいな意見も理解の放棄寄りの意見だから、「あくまでこう思います」くらいの感想を持てるようでいないとまあ危険思想に足突っ込んでる。他文化批判はダメだって言葉上では知ってるのに無意識に批判はしちゃう人多いよね

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あの作品ってニーチェの思想である「既存の価値観を壊して自己の価値と正義を再構築する」って部分が作品全体の解釈としてできると思うんだけど、ニーチェってそもそも社会構造とか格差という概念は軽視してた側だからヒロアカみたいに「善悪の価値観って壊して新たに想像できるけど、それをやれるのは力を持つ者」っていう結局は「強さ=正義」としか言えてない作者の力量不足的なとこがあって、その中で加害者側の爆轟とかエンデヴァーみたいなキャラが出しゃばったらそりゃ後は読者の感性に任せるしかなくなるわけで、要はヒーローこそが正義の中枢っていう一方的な価値観の押し付けを拭うことまではできてなかった。
もっとこうバットマンみたいに絶対的正義の象徴じゃなくて価値観同士の衝突みたいなヒーロー作品にしてたら爆轟っていうキャラにも逃げ道はあったのかなって

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徽宗っていう宗の時代の皇帝が描いた花鳥画が元ネタなんだけど、あえてバイソンって北米を代表する生物をモチーフにすることで文化とか伝統が本当に絶対的なものなのかどうか問われてるし、あえてタイトルに907年って記すことで過去のことでも芸術では蘇らせられる事を物語っている。
あえてアメリカの歴史的な建造物じゃなくてバイソンっていう自然そのものを置く事で「文化は固定されずに揺らぐけど自然は歴史を再演できる」っていうメッセージがあるように感じられる。
文化って本来正解の形なんてないのに「これが正しい」って無理やり整えられた形で保管したつもりになってるけど、その不確定さ故に国とか国境という枠を関係なく飛び回って、音楽も宗教も食文化も平気で他所様の自然に溶け込む事ができて。この絵はそれを綺麗に可視化させることで、違和感があるはずなのに全く違和感を感じさせてこない。
あくまで俺が見て勝手に思った哲学視点だけど、芸樹ってマジで余白を遊び尽くす最強の存在だと思う


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逃走、戦闘は必要になった進化の路線がわかるけど防衛だけは納得が難しい。
「ヤバいから逃げる」「腹減ったから武器手に入れる」じゃなくて「ヤバい状況を作らないようにする」「ダメージを最小限にする」
これって認知・予測・計画を含んだ知能的な副産物に感じる。ちなみにここでいう防衛本能って「体の硬さ、毒、擬態、棘」みたいな物理的オートガード機能じゃなくて、脳で判断する防衛本能のことで、人間の文化ってつくづく生物の持ち合わせている本能から進化してきたものばかりだと思っているから、進化元のない防衛本能が穴だらけなのって人が本質的にそこに熱量を帯びてないからなんじゃないかな、とか

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「身体的に〜」「生物学的に〜」っていう人は確実にいるだろうけど、それは外から見た特徴を勝手にカテゴリに当てはめただけで、存在そのものの本質はそれとは関係ない。存在の本質ってそもそもは観測者は一切決められず、本人の脳内でしか定義できないものだからね。
当然法的、社会的には否定されるけど本質を覗けば「自分を何者か定義するのは当人の自由領域以外の何でもない」。それでも「女性用トイレに自認女性が入るのはちょっと…」って意見は当然あるし、それって「自認」を否定してるわけじゃなくて結局社会構造はどれだけ「自由に生きていいよ」って言ってても社会自体がそれに耐えられるほど柔らかい構造にはなっていないから。
内側の自由は無限に広がるけど外側の社会が有限で窮屈だから、このギャップが「生きづらい」って感覚を作り出す。俺が自認アザラシの赤ちゃんを認められないのも社会は「人として扱うためのルール」以外で動いてないから。
自認の自由と社会の安全を両方守るのってかなり難しいけど、不可能ではないギリギリのラインを人類は常に試行錯誤してたりするんだよね

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でも重要なのは、「感情を傷つけられた」=悪、ではないしどう転んでも悪にはならないってことで、
「自分がされたら嫌だ」「痛い思いをした過去がある」「裏切りは許せない」っていう個人的情動を社会的に強そうな言葉でドレスアップさせてるにすぎないんだよね。
要は「不倫は文化」。不倫をしないのは人間の持っている「理性」の部分だけど、理性って結局は人が自分を守るための嘘みたいな物で、欲望とか衝動とか孤独っていう本来生物なら誰でも持ち合わせてるものが実際の「恋愛」の主役部分だったりする。ここで言われる文化って「今この時代の」文化じゃなくて「人類ってずっと不倫してきたよね」っていう意味の文化。不倫がなかったらシェイクスピアの詩もギリシア神話も描かれることはなかっただろうし、文化っていうのは結局のところ人間の矛盾を無理やり折りたたんだ雑な折り鶴みたいなもんだから、不倫は善悪以前にそもそも初めからそこにあった物でしかない。
突き詰めれば倫理とは関係なく、人間の情動処理の問題の産物=不倫なんじゃねえかと。知らんけど

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見えない世界は怖いからせめて自分の立ち位置は見える位置に固定しておきたいっていう防衛本能で、本当の意味での現実逃避。それでもおそらく世の中多くの人は自分が中心にいるっていう無意識の自覚を持っている。
世界って、未来とか他人の心とか因果関係とか全部完全に「揺らぎ」でしかなくて、とりあえず「俺、僕、私etc」っていう仮の杭を打つことで自分を保とうと頑張るけど、結局は自分を中心に置くことで世界の揺らぎはさらに増すっていうループが起きているに過ぎないんだよね。しがみつかないと沈む気がしてるだけで、世界に沈む場所なんて最初から存在していない。
イマヌエル・カントは「人間は自分の認知の枠でしか世界を捉えていない」と言ったし、ニーチェは「人は弱くて自分の恐れから意味や中心をでっち上げる」と言った。ただ、結局はその言葉たちも人間という揺らぎに耐えられないがために作り出した「仮設の壁」でしかなくて、結局哲学者や数学者や心理学者たちまで揺らぎの上にしか立っていない。ハイデガーの「不安」も、デリダの「脱構築」もぶっちゃけ貫通出来ちゃうよね

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脳が「前進の物語」を描くから前に向かってる気がするだけ、「下降の物語」を描くから下に行っている気がするだけ。世界の方向性を決めつけてるのは人間がそうしたいからそうなってるように見えるだけで、方向なんて初めからないよね。
人の思考も、深く掘ってるつもりで同じ風景を別角度から見てるだけ。角度が変わるから深いと思うだけ。深いと思うからさらに上に行ったり下に行ったりしようとするだけ。結局は無限階段を行ったり来たりしてるだけで、構造は初めから何も変わっていない。
「どうでもいい」←これ思った瞬間が実質出口に思えるけど、脳って基本的に「どうでもいい」には到達できない様にできてて、だから本当にどうでもよくなった瞬間無限階段の全体像は見えなくなる。ただ、理解しないこと≠存在しないことであることは忘れちゃいけなくて理解の放棄とは「無限階段は左に向かってるんだよ」っていうアホみたいな回答してるのと同じこと


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