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竹光
徽宗っていう宗の時代の皇帝が描いた花鳥画が元ネタなんだけど、あえてバイソンって北米を代表する生物をモチーフにすることで文化とか伝統が本当に絶対的なものなのかどうか問われてるし、あえてタイトルに907年って記すことで過去のことでも芸術では蘇らせられる事を物語っている。
あえてアメリカの歴史的な建造物じゃなくてバイソンっていう自然そのものを置く事で「文化は固定されずに揺らぐけど自然は歴史を再演できる」っていうメッセージがあるように感じられる。
文化って本来正解の形なんてないのに「これが正しい」って無理やり整えられた形で保管したつもりになってるけど、その不確定さ故に国とか国境という枠を関係なく飛び回って、音楽も宗教も食文化も平気で他所様の自然に溶け込む事ができて。この絵はそれを綺麗に可視化させることで、違和感があるはずなのに全く違和感を感じさせてこない。
あくまで俺が見て勝手に思った哲学視点だけど、芸樹ってマジで余白を遊び尽くす最強の存在だと思う

コメント
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NAC
ノンデュアリティの間違った説明の例
存在意識がその一部によってモチベーション(動機、ワクワク)の活動を観照し癒す
という間違った説明についてのべる
まず
一元論のスピリチュアルにおいては
好奇心は
一元からおきた幻想レベルの心と説明される場合がある
この一元論は誤りであるとのべねばならない
なぜなら
純粋一元からでは
幻想の発生が
説明できないからである
したがって
モチベーションは
実在にもあったとみなさなくてはならない
実在どうしが別れている説明では
分裂症であるゆえに
ひとつのスピリットにメインの性質(ただ在る)
とサブ性質(モチベーション)
があるという意味での全能元(純粋一元論ではなく)
が提唱できることになるであろう
そして次に
存在意識(ただ在る)がその一部の意識をつかい
観照によって、モチベーションや宇宙発生を
癒す
という説明の誤りを同様に指摘する
なぜなら存在意識がモチベーションを観照してしまうと
融解していくという意味になるので
実在レベルにあるモチベーションが消滅してしまうことになり
純粋一元の同じ誤りとなる
すなわち
実在しなかったものが
幻想を発生させたことはできなくなり
さいしょの純粋一元論と
同じ間違いを提唱していることとなる
したがって
意識が動機を観照し癒す
(または、
あなたは動機ではなく、その背後にあるものである
という説明)
この説明は
じつは誤りであることが明らかとされた
純粋一元という誤りと同じだからである
(そもそもの幻想の発生の説明が不可能)
ではこのよくある癒しの説明が誤りということであれば
その不可能である間違った説明の正体とはなんであるのか
それは、じつはなんと
その不可能なことをできると間違って説明している
モチベーションを観ている存在の正体は
自我
だということである
自我が観察しているのである
不可能な偽りの癒しの説明では
堂々めぐり
となる
それは
ただ在る
という平安の自覚も忘れている
じつは
実在のサブ性質である好奇
からの空想である個
のあとのさらにおきる
主体化催眠における自我においての
その努力の気づきによる目覚められるという錯覚である
ほんらい実在における好奇であり不自然である
サブ性質は
好奇と不自然であるそれは同一であると気づいているので
空想(好奇に傾き)
で
宇宙を発生させることなく
ほんらい実在にとどまっているのである
しかし
好奇であり不自然であるものを
ワクワクとだけとみなしたがる自覚における間違った実験が
空想となり
幻想宇宙を発生させるのである
つまり
実在のサブ性質の好奇(そして不自然)の
自覚が破れたかのようになることにより
空想により
空想された個
そして主体化催眠
そして
それによる活動(努力)を実在とした世界が
誕生するのである
しかし
いぜんとしてそれらは好奇であり不自然である
ワクワクであり苦しみ
の多次元の世界なのである
そうなることは避けられなかったがゆえに
間違った自覚の試みは
たしかに間違ったものであり
空想は終焉される宿命にある
このすべては
サブ性質からのオートマチックである
メインの性質である ただ在る
は
なにも空想しない
それは常に不変である
間違って空想へ流出変容したのは
好奇であり不自然でもあるワクワクというサブ性質
からだけであったということです
メインの性質である ただ在る
は
その活動や帰還には関与しない
それはメインの性質として
サブ性質とともに
ありつづけていた
ということなのです
したがって
幻想と終焉は
ほんとうは実在においてのサブ性質からのオートマチックでしかありえないのです
さいしょの巧妙な話、
存在意識がその一部によって
モチベーション(動機、ワクワク)の活動を観照し癒す
ことができるというのは
そもそもの
幻想の発生も説明できなくなるものであり
したがって
癒しもまたニセモノの
催眠状態の
自我の妄想による
自我努力論
となり
そのあいだ真の平安に気づいておらず
また
オートマチックにも気づいていません
以上です
#スピリチュアル
#ノンデュアリティ

はぐ兄
江戸時代の子育ての主な特徴
体罰・大声での叱責の禁止: 育児書には「大声で怒鳴ったり、手をあげるのは絶対にダメ。優しく説いて聞かせなさい」と説かれていました。短気な親が怒鳴ると子どもは心がねじれるとされたためです。
道理を説き聞かせる: 体罰の代わりに、なぜその行為が悪いのか、親や地域の大人が「言い聞かせ」で教えました。子どもは多くの大人と関わり、社会のルールを学びました。
「見守り・自然に学ばせる」: 「叱って甘やかす」のではなく、子どもが自ら遊びや家業の手伝いを通して、集団行動や責任感を自然に学ぶように「見守る」姿勢が重視されました。子ども同士のコミュニティも重要視されました。
「全員参加型」子育て: 親だけでなく、地域社会の大人も子育てに参加し、子どもは幼い頃から家業を手伝ったり、大人と一緒に芝居や寺社巡りに出かけたりと、多くの大人と関わりながら育ちました。
父親の役割: 父親は家や家業を継ぐ跡継ぎである男児の教育に責任を持ち、仕事の教え込みも担当しました。父親向けの育児書も存在しました。
「叱らない」の真意
江戸時代は、子どもを放置していたわけではなく、体罰で無理やり抑えつけるのではなく、「心に響くように教え、自立を促す」という、より高度なしつけを目指していました。
そのため、現代の「叱らない育児」に通じる、「感情的に叱るのではなく、子どもの心に寄り添い、正しい方向へ導く」という考え方が根底にあったと言えます。

ARISA
F4キャンバス
アクリル絵の具
#アート #芸術 #絵 #絵描き #半抽象画


桔梗。
せっかく主人格ちゃんが作ってくれたからね〜

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🎂 ぽ

さとり

チャー
よし、追加点取れ‼️
#chibalotte

ごに

豊屋

はにゅ

ユキ
結果送りバント

ダイユ
2着ロマンチックウォリアー(125)にクビ差のフォーエバーヤング(127)
これ見たらまあ128も妥当かなとは鳴

シバクル
梅雨とは少し違う天気
近所の家の庭で見た花、何だろう、あまり見かけない花だけれど綺麗だ💐
今宵また意味ない事を考えた笑
男と女は体も心も違う、どちらが先に生まれたのだろう、本当に人間は類人猿から進化したのだろうか?
男女の話に戻すと、実感として女性の方が強いと思う、子供を産むという生物の最重要課題を背負っているから環境適応力は男より遥かに強い、思考も現実的であり逆境に強い、サバイバルでは確実に女性が生き残る、男は女の補助役に過ぎないのではないかと思った😢
東京の通勤電車は天国と地獄
隣に美しく良い香りの女性が来れば天国
太った臭いおじさんが来れば地獄
毎日天国を祈ってます笑笑😊
さて、酒もまわってきた笑
そろそろ頭を空っぽにして寝る準備をしよう😊
明日もまた頑張りましょうね
おやすみなさい😘


まりPom
#ただ言いたいだけ
#そうじゃない人ごめんなさい

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竹光 投稿者
芸樹→芸術