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ゆうき

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雑煮(ぞうに)は、餅を主な具とし、醤油や味噌などでだしを味付けたつゆをはった日本料理。世界的に見るとスープ料理の一つ[要出典]。日本では正月に多く食べられ、地域や家庭によって違いがある(「#地方による違い」以下で詳述)。
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東西南北中央🦍

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たこ焼きの起源にまつわる異説として。
一部の学派により伝えられているのが「猿人饅頭起源説」である。これは大阪湾岸に生息していたとされる巨大ゴリラ族が、祭礼の折に天へ捧げる供物として己が糞を丸め火中へと投じたのが始まりとされるものである。

当時のゴリラ族は、腹中に取り込んだ海産物――特に蛸を好んで食しており、その未消化の断片が糞塊に混ざり込むことで、外は香ばしく、中はとろりとした風味を持つ奇妙な供物が生まれた。これを拾い上げた古代の漁民が「まこと旨し」と賞味したことが、のちの「明石焼」「たこ焼き」へと発展したとされる。

この伝承は長らく荒唐無稽とされてきたが、明治期に刊行された『大猿祭祀考』(民明書房刊)には、火中に丸き物を投げる風習が「ゴリラ投餅」として詳述されており、民俗学的にも一定の裏付けがあると主張する学者もいる。

#ゴリラ
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太郎さん

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『フェルナンデス』をめぐり、石原吉郎をめぐるとき 5                       

「ある日やさしく壁にもたれ/男は口を 閉ざして去った」。
「ある日」(「男は」)「やさしく壁にもたれ」(その)「男は口を 閉ざして去った」のである。「ある日」とは石原が、この詩を書いた現在であり、過去であり、未来である。それは同時にこの詩を読むものの、つまりわれわれの現在であり、過去であり、未来なのだ。「男」については詳述したとおりである。「やさしく壁にもたれ」「口を 閉ざして去った」。これは石原の旧懐の念である。ある年齢に達し過去を思えば、すべての過去に「やさしく」なってくるものである。そうして「壁にもたれ」すべての過去に「口を 閉ざして去」らなければならなかったのである。「口」にできない過去、たとえそれを「口」にしてもどうしようも理解してもらうことのできない過去があるものである。ゆえに「口を 閉ざして去った」のである。
若い人には、まだわからないかも知れない。しかしわれわれ人間はそのようになってゆくものなのである。これは生理的な現象である。
                          



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つねあつ

つねあつ

生きてるだけで偉いとか言ってる人いるけど、じゃあ働いてる人は?って思う生きてるだけで偉いとか言ってる人いるけど、じゃあ働いてる人は?って思う

回答数 62>>

貴賎なし……と言って片付けたくなるところですが、もう少し深掘り出来そうなので、していきますね。
じつは、生きてるだけで「偉い」の「偉い」はその他の「偉い」と別ベクトルの「偉い」と捉えるべきです。

働いている人は、働いているから偉い。当然です。社会を回しているのですから、偉くないわけがありません。さて、では、生きているだけの人を仮定してみましょう。この人は偉いと言えるのか?という問題ですね。
私は十分偉いと言えると思います。私たちは皆「何かを成しているから」偉いと思いがちですが、ここでは偉いと言える根拠が「何かを成しているから」という評価軸から外れたところにあるのです。以下で詳述します。
哲学者の谷川嘉浩氏は、カントは「価値のないものにも尊厳がある」と述べたと引用しています。考えてみれば当然です。忘れがちですが、私たちは一人の尊い人間なのですから、そこに生命という尊厳がないわけがありません。
以上の理由から、働いている人は「何かを成しているから」偉い。生きているだけの人も「尊厳があるから」偉いということが言えると思います。
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☆『山寺の和尚さん : コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ '37 』

服部良一がメジャーデビューした頃はアメリカで流行っていたスイング・ジャズが我が国にも大量に輸入されていたが、スイングと並行してジャズ・コーラスもまたブームになっていた。アメリカ本国では1920年代からビング・クロスビーのいたリズム・ボーイズのスタイルが流行し、リズム・ボーイズと同じキャリアだった元祖女性コーラスグループのボズウェルシスターズもデビューしてその息もつかせぬアッパーな見事なコーラスワークを聴かせていたものだ。少し遅れてデビューしたミルス・ブラザーズは後々ドゥーワップの連中にも影響を与えた。これら本国アメリカのコーラスグループの技術の進化は目を見張るものがあり、一糸乱れぬリズム感覚の上に見事なハーモニーを利かすそのテクニックたるや、ジャズファンならずとも虜にしたものだった。服部がこれらのコーラスモノを見過ごす筈はなかった。が、流石の服部もマイナー契約時代はそうしたコーラスものまでは手が回らなかったらしく、服部は日本の民謡とジャズの融合を若い時分から模索していた。服部の生まれは大阪・玉造のはずれ本庄が出生の地であった。芸事好きな父によく近くの千日前の寄席や演芸場へ連れて行かれて、自然と落語や義太夫や照葉狂言、江州音頭、俄といった浪速特有の芸事に親しんでいった。母は母で富田林出身の気のいい浪速女でやはり、河内音頭や江州音頭が好きだった。服部良一はこのような貧乏の子沢山な家庭で育まれたのだ。2人の姉は近所で三味線や小唄を習っており、そうした環境が良一を音感のいい子へと成長させたのかもしれない。そうした純然たる和雅楽に染まったせいもあり青年になってからの良一が、そうした民謡を覚えたての和声学理論で、民謡をジャズ化することは極めて自然な成り行きであった。
服部の初めてレコードの仕事は大阪・三国にあったコッカレコードで服部のレコード仕事での師匠に当たる鳥取春陽の作品を編曲して時々は大阪コロムビアスタジオでの録音に立ち会うといった仕事が最初と言われている。コッカレコードは当時も今も珍しいセルロイド製のレコードで販売しており、今でもきちんと再生出来るらしくそのレコードはどこで見つけたのかは分からないが、2013年にぐらもくらぶからリリースされた『大大阪ジャズ』という稀少性の高い昭和初期の大阪のレコードメーカーからリリースされた音盤のオムニバス集に服部良一の最も古いレコードの仕事が復刻されている。このコッカレコードのことは服部良一の唯一の自伝『ぼくの音楽人生』にも記載されているにも関わらず2013年に初版された菊池清麿著の『評伝 服部良一』の中では一切触れられていないばかりか、巻末に於ける「服部良一ディスコグラフィー」からも省かれている。今では服部良一の第三者が書いた正史的な位置づけすらされているこうした本でさえ、誤記や記載漏れがあることをこの際、はっきり記して置くべきであろう。
昭和4年発売コッカレコード№63a ♫テルミー
"Tell Me" は国歌ジャズバンド名義だが服部良一の編曲で、しかもas.の奏者は服部自身とのこと。セルロイドレコードからの復刻だから、音質は劣悪だがよくぞ、このような盤が残っていてくれたものだ。♫テルミー はこの時代、服部が道頓堀のカフェーを幾店か掛け持ちしていた頃で、シンガーがたまたまその夜、欠勤すると仕方無しに服部がメガホンで唄っている内に服部の優しい歌声が評判となり、服部には"テルミーさん"というニックネームまで付いて女の子たちから黄色い声援が飛んできた、ということが自伝にも書かれている。♫テルミー は服部にとっても思い出深い一曲なのである。そういう意味で、アルト・サックスのソロだけだが、復刻盤で今の世にそれが聴けるというのはこの自伝の記述を裏付けるに足る重要な一曲ということになるのである。又、翌昭和5年リリースのコッカレコード№.144bの♫串本節 も服部の編曲とサックス(Cメロディサックス)でこのレコードは服部良一の名が初めてレコードレーベルに記載された記念碑的レコードだという。編曲・指揮者と記載されたらしいが、実際はサックスのソリまで吹いているのだから、若き日の服部の前のめりさがひしひしと伝わってくるではないか。
これらを発掘し、リリースさせたぐらもくらぶ並びに(株)メタカンパニーのスタッフらと毛利眞人らの尽力に深謝するのみである。こうして服部良一のレコードキャリアは最初からジャズ+民謡という和洋折衷から始まったのだ。
引き続きマイナーレーベルに身を置いた服部は紅茶メーカーとして有名な日東紅茶が親会社だったマイナーレコードのニットー時代にはキャリアハイの音楽監督という地位にまで上り詰めた。ここで服部は作曲、編曲家としてのみならずニットーレコードでリリースするレコード企画にも参画出来る立場を意味していた。服部の民謡+ジャズの需要はそこそこ保たれながらも他のレコード会社、ましてやメジャー級のレーベルでも各社自慢の編曲家達が次々と民謡をジャズ編曲したレコードをリリースしてゆき、服部ブランドは業界内でステイタスとなってゆく。この民謡+ジャズの精神は戦後も行なわれてゆき、この傾向に着目したのが大瀧詠一だった。彼の幼少期のスター小林旭がコロムビアから相当数の民謡をロック化してリリースされている事実を暴き、後に『日本ポップス伝』としてNHKFMから数回にわけて放送されたことは大瀧が日本に於けるポップスの歴史を俯瞰して解説するというミュージシャンのポップス史として注目に値する。この放送の中で大瀧は服部の初期コロムビア時代のレコード♫草津ジャズ を紹介して戦前に於ける腕利きミュージシャンによる民謡+ジャズの最高峰として紹介していた。又、ニットーレコード時代の印象的な仕事のひとつに、ビクターレコードの♫さくら音頭 の大ヒットに乗じたニットー版♫さくら音頭 の企画が持ち上がった時にも服部は敢然と抗議した様が自伝に書かれている。要するにニットーでもこの機を逃すまいとして、ニットー版♫さくら音頭 を!となった時に服部は……今更月並みな音頭をリリースしても大して売れないだろうと、いっそ違うアプローチが必要だ、と説いたのである。じゃーあ、どうしたら?という幹部連達に……おけさはどうでしょう?と提案したのだ。こうして昭和9年4月に浅草美ち奴の唄でリリースされた♫さくらおけさ はニットーレコードのメイン販路であった関西圏で一定の売上を記録したという。こうして服部良一の単なる作編曲家としてのみならない我が国ポップス界への貢献、という点に於いてはやはりジャズコーラスモノへの着手も見逃せられない。服部のニットーレコードに於ける音楽監督としての功績は民謡+ジャズ、の他にも例えばニットーレコード内に別レーベルを立ち上げた点も見逃せない。それはニットーレコードにドイツのクリスタルレコードと原盤供給契約を結ばせた点で実現が出来た。昭和9年11月に『日本クリスタル蓄音器合資会社』が設立された。このクリスタルレーベルで服部はいよいよ本格的にアメリカ産スイングジャズの歌謡曲化へのかなり思い切った舵を切る。例えば敬愛していたアメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンの作曲した♫ラプソディー・イン・ブルー のようなシンフォニック・ジャズを作品化したりした。それが昭和10年6月リリースの♫意想曲1936(1)(2) である。これは服部の初の管弦楽曲であり、次年度の日本と世界の姿を交響楽にまとめた作品であり、意欲作であった。
楽曲形式は変奏曲で、途中♫ヴォルガの舟歌 や♫スラブ行進曲(チャイコフスキー作曲) の旋律が使用されたり、時に日本軍歌の名曲♫戦友 までもが飛び出す。レーベルには"日本クリスタル交響楽団"と記されたが内実は新交響楽団(後のNHK交響楽団)が演奏したらしい。そこに当時服部と仲の良かったジャズマンである谷口又士のtb.や斉藤広義のtp.が加わった豪華なミュージシャンたちが自慢のプレイを披露されたレコードだった。こうした実験精神が見事に結実したレコードの仕事を残した服部だったが、実はニットーレコード時代にも僅かながら、ジャズコーラスを試した痕跡が確認できる。昭和10年12月リリースの♫カッポレ はニットー・リズム・ボーイズという謎のグループにより吹き込まれてリリースされている。又、服部の作曲した楽曲でもしばしば男声(乃至女声)コーラスが登場するが、レーベルクレジットはなくとも明らかに服部がジャズコーラスを試している録音としては昭和10年6月リリースのクリスタルレーベル№.2008A♫カスタネット・タンゴ では藤川光男名義で吹き込まれたレコードで女声コーラスがハーモニーを付けている。因みに同曲は戦後の昭和24年に藤山一郎がカバーしている。その前月5月にもクリスタルレーベル№.2002B♫僕等のハイキング ではメインボーカル志村道夫のバックで男声コーラスが、確認出来る。又、服部はコロムビアへ移籍する直前にニットーレコードでコーラスグループを編成し「ファイブスターズ」と名付けてレッスンさせていたが、このグループ名義のレコードはとうとうリリースされずに、コロムビアへと移籍してしまう。
昭和11年4月~いよいよニットー及びタイヘイレコードの契約を満了し晴れて大手レコード会社コロムビアレコードへ移籍入社した。翌5月リリースの淡谷のり子とリズム・シスターズ名義の♫おしゃれ娘 は数えてコロムビアレコード移籍第5弾シングルで服部はここでメインボーカルの淡谷のり子のボーカルの間隙を縫うようにボズウェルシスターズ張りの女声コーラスを大胆にも起用する。いよいよ服部のジャズコーラスモノがここで早くも登場する。その後も、当時のレコード各社の共演盤となった外国曲のカバーとなった♫ミュージック・ゴーズ・ラウンド 、二葉あき子をメインボーカルに迎えてリズム・シスターズが活躍する♫月に踊る ♫ビロードの月 淡谷のり子とリズム・シスターズの再びの共演盤♫涙の踊子 、服部と中野忠晴プラスナカノ・リズム・ボーイズの初コラボ作品♫東京見物 に♫支那ルンバ 、などメインボーカルに彩りを添えるジャズコーラスモノは充実してきたが、服部の中ではもう一歩踏み込みたかった。それにこれらの意欲作は決してヒットした、とはおよそ言い難かった。それが遂に服部のコロムビア移籍後の初ヒットがリリースされた。それがあのジャズコーラスの傑作♫山寺の和尚さん であった。これについては服部の自伝に詳述されているので引用しよう。尚、この楽曲については作曲は服部ではなく日本古謡としている資料もあれば服部の作曲としているものもあり、統一見解が待たれる。何れにせよ、服部が大胆にもメインボーカルを置かずに、コーラスグループのみでのヒットは服部をして喜ばせたに違いない。
……ぼくは、むしろ、次のアップテンポの
♫ダガジグ ダガジグ ダガジグ ダガジグ エーホッホー
(リフレイン)の反復部分にジャズコーラスの真髄を見出していて、このアイデアはぼくが自由にやったところである。こうしたスキャット唱法はリズムメイカーとしてのぼくの武器であった。先輩作曲家達に追いつき追い越すには、ぼく自身の個性が必要である。それまでの♫おしゃれ娘 ♫東京見物 ♫月に踊る がヒットに至らなかったのは、中途半端なところがあり、メロディー優先の歌謡曲調を残していたからだという反省があった。♫山寺の和尚さん では、思い切ってリズム本位にし、ジャズ調に徹した。しかし、それだけでもヒットはしなかっただろう。題材に誰でも知ってる日本古謡の手毬うたを取り上げた事が良かったのだと考える。つまりジャズはジャズでも日本のジャズを目指した事が成功に繋がったのだろう。……


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山寺の和尚さん

コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ

スイングの星スイングの星
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ミチフミ龍之介

ミチフミ龍之介

Uber Jazz # 51

#ジャンゴ・ラインハルト

☆『𝑳‌𝑶‌𝑽‌𝑬 Django』

1910年にジプシーキャラバンで生まれた。
漂泊の生活が当たり前で両親もバイオリニスト、母親はダンサーと言う芸能一家に生まれたからか、最初はバンジョーに目覚めて12才でバンドデビューする。
1928年、18才の時に住まいのキャラバンワゴンが火事になりジャンゴも左手の薬指と小指をヤケドした。
ウイキペディアにはこの時ジャンゴは火を消そうとして指を負傷した…とあるが果たしてどうだか。
他の文献や解説書を小生もかなり読み込んだが、そのような記述にはお目にかかった事はなく、記述者の思い込みか英雄譚風願望の表れではないか?と思われる。
ウィキペディアや他のネット系用語集は誰が書いたか匿名性の特筆上、割とフィクションでもさも本当の事の如く書かれていることがなんと多いことか…ネットを妄信するなかれ。
さて、彼の経歴やヴァイオリ二ストのステファングラッペリとの長年にわたるチーム、フランスホットクラブ五重奏団に関してはそれこそウィキペディアをご参照のほどを。
こちらはほぼ信ぴょう性100%である。
ジャンゴの強烈なギタースタイルは唯一無比、誰が聴いてもジャンゴと判るものであり、いまではジャンゴのプレイスタイルをもってしてマニューイッシュスイング と言う音楽ジャンルになる程にまで広まった。
アメリカ人には発想できないトレモロ重視で感情の赴くままに強拍と弱拍のメリハリを付けて演奏する。
どうしてこの様なスタイルが出来上がったかと言うと、ジャンゴの例の若き日の火事によるヤケドが原因だった。
最初はヤケドにより薬指と小指が炎の影響🔥による融接により溶けて一緒になってしまった。
事後、手術によって離したが指の歪曲は残った。
そこで普通は諦るのだが、飽くまでポジティブで強気なのがジャンゴであった。
歪曲した指は弦を抑えるのに丁度よく尚且つ半端ない力が加わるので弦の鳴りも通常より強く鳴らせる、と言う事に気付いてしまったのである。
ジャンゴは余りアカデミックに音楽と向き合う人ではなく、殆ど直感でギターを弾いたのでジプシー魂と彼独特のフレーズは決して無関係ではない。
ジャンゴの奇行についてもウィキペディアには載っているが、戦後のアメリカにデュークエリントンに招致された時にVIP待遇で高級ホテルに部屋を取ってくれたにも関わらずジャンゴはジプシー魂からか、ホテルの中庭にテントを張りそこで寝泊まりした、と言う逸話が残っている。
ジャンゴのレコードは約千種あると言われているが、どの時代が一番のおすすめかは人それぞれだが、少なくとも永遠のスタンダードは1935年にアメリカから渡欧していたサックスの第一人者コールマンホーキンスとのセッションは殊更に影響を与えた。中でもビッグバンドをバックにジャンゴの強烈なリズムギターで軽快にスイングする♫クレイジーリズム はわが国では後にハナ肇とクレイジーキャッツの十八番となり、テレビ番組「シャボン玉ホリデー」でも度々演奏され、お茶の間にも深く浸透した。その元ネタとしてのこのレコードは忘れられない。
又、1943年録音の♫メロディ オゥ クレスプスキュール たそがれのメロディ はコンボとオーケストラバージョンの両方が楽しめる傑作だと思う。
先月、3日のこの星での私の投稿に詳述したので、そちらをご一読下さると幸甚である。
あとはチャーリーパーカーの傑作オリヂナル盤を多く輩出した戦後すぐのダイアルレコードからも10インチビニールLPがリリースされ、この為のセッションで長年のコンビであったステファングラッペリも入ってない編成で貴重なセッションだし、その後ノーマングランツがスーパーヴァイズした1947と1953年、死の直前にパリで吹きこまれたセッションは聴きものである。このDjangoの最終録音ではアコギからエレキギター🎸に持ち替えても尚、ジャンゴならではの超絶のギタープレイが堪能出来る。日曜日のGood eveningにどうぞ。
最後にジャンゴの最期についてwikiに記述があるので、引用する。こちらに書かれているエピソードは他の文献と一致するので、間違いはない。

1953年3月、ジャンゴはディジー・ガレスピーのブリュッセル公演にゲスト参加した。旧知のプロモーターから依頼を受けたジャンゴは、最初は乗り気でなかったが、出演者がディジーであることを知ると態度を変え、すぐに滞在先のホテルから公演会場へ向かったという。5月、スイス公演を行っていたジャンゴは指の障害や頭痛に悩まされるようになるが、診察を受けることは拒否し続けた。この頃、ビング・クロスビーがジャンゴをスカウトするためにフランスを訪れているが、ジャンゴに会えずじまいのまま帰国しており、フランスへ戻る途中でそのことを知ったジャンゴは「自分にはもう運は向いてこない」と感じたという。
フランスへ戻った翌日の5月16日、ジャンゴは友人の経営する店で突然倒れ、その日の夕方には死去。死因は脳出血とされた。
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Nuages (Instrumental)

Ses Rythmes & ジャンゴ・ラインハルト

スイングの星スイングの星
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