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げんぞう

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昔、ニュースか何かで日本刀を使った試し斬りの取材の生放送があって、先生らしき人が、畳表を巻いたものをスパスパ斬って、最後に畳表を3本だか4本だかを横に並べたものを斬る所で全部は斬りきれずに終わりました。
そのあと、取材をしていた若い女性のアナウンサーが試しにと刀を持たされて、再び準備された3本だか4本だかの畳表を前に出されたんですが、特に力を入れる風でもなくスパっと全部斬ってしまいました。

アナウンサーは「学生時代にテニスやっていて振るのは慣れてたんで」とその場を繕っていましたが、失敗した先生は苦しそうに「修行不足でした」と呟いていました。
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げんぞう

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私が通っている道場でも昔は試し斬りをやっていたそうですが今はやっていません。
畳表を斬るのではなく、川に流した木札や、樋から流れ落ちる水を斬ったり、水を張った桶に浮かばせた竹を木剣で斬ったりしたそうで、私の技量では出来そうにありません。

試斬ではありませんが、今は木剣を使い太刀筋が斬れるものかどうかを試す手解きを稽古します。
そのような手解きがあまりうまく出来ない私でも畳表は問題なく斬ることが出来ます。
もちろん技巧的な斬り方は出来ませんが、左右の袈裟や横一文字のような基本的な斬り方は初めてでも問題なく斬れました。

そういうこともあり、私には畳表を斬る試斬は必要ないと感じていますが、でもそれも畳表を斬ってみて理解できたことなので、経験は必要かもしれません。
「普通に稽古して手解きで試せば十分」
言うのは簡単ですが、理解するにはやってみる方が早いですね。
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マミ

マミ

くにさき七島藺の日
畳表や加工品の材料七島藺しちとういを大分県国東くにさき地方では


しっとう

と呼ぶことから【しっ(7)とう(10)】の語呂合わせにちなんで、大分県国東市が7月10日に記念日を制定しております。
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げんぞう

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抜刀道が畳表の試し斬りを行う武道なので、もともと抜刀術として伝わっていた流派が畳表の試し斬りをする武術だと思われて困る。という問題がTwitterで話題になっていました。

同じように居合道のような抜き方が一般的な居合と思われるのも同じような問題だと思います。
実際、制定居合の影響を受けて変わってしまった居合の流派も多いと思います。
ゆっくり静かに抜く流派もあったし、「序破急」の抜きなんて言わない流派もあります。
その辺りは中山博道の影響力なんでしょうね
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げんぞう

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なんでみんなそんな試し斬りが好きなんだろう?
竹とか畳表なら私でも斬れるし、あんまり意味はないと思います。
刀のことを考えると鹿の角とかは怖いですが、水とかで試したりする人いないんですかね、刀にも負荷はないし良い試しになると思うんですけどね。
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げんぞう

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試し斬りの投稿が伸びたので、試し斬りについて書いてみます。

現在、試し斬りで使われる、一般に「巻藁」と言われるものは畳表を巻いたもので、正確には巻藁ではありません。
元は竹に藁を巻いたものでしたが、畳表を巻いたものの方が簡単に作れるので、畳表が主流になりました。これは割と最近のことなので、今でも「巻藁」と言われることがあります。
しかし、試し斬りで巻藁を斬ること自体、昔は一般的なことではありませんでした。

まず、試し斬りには目的が大きく2つに分かれます。
刀を試す「試し斬り」と武術の腕を試す「試し斬り」です。
前者は罪人の死体を斬るやり方が有名で斬る場所や重ねて斬った死体の数で切れ味を評価しました。
当然現代は行われていません。

後者が現代行われている試し斬りになりますが、現代のように巻藁を斬ることは一般的ではなく、流派によってやり方は異なりました。
居合で有名な田宮流では最初に一寸角の角材、次に竹ひごを首の太さに束ねたもの、次に鹿の角という具合だったそうです。
思うに巻藁を斬るようになったのは剣道が盛んになった明治以降に、剣道家が刀の使い方を学ぶために始めたものではないかと思います。
一般に言われる居合道、つまり全国剣道連盟の居合道が剣道家が心得ておくべき刀法として制定されたのと同じような感覚ではないでしょうか。
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げんぞう

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2008年の写真
この当時、紙パックを試し斬りするというのがネットで流行っていたので、真似してみました。
どうやるのかよく分からなかったので、とりあえず放り投げて斬ってみましたがあまり綺麗には斬れませんでした。
試しに包丁で斬ったのが2枚目、刃渡が短いので撫で斬りにしましたが、両断は出来ず。
畳表を斬るよりは難しいですが、これはやってもあまり意味ないな、と思ってこれっきりやってません。
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げんぞう

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Twitterで、無住心剣流剣術の開祖、針ヶ谷夕雲が刃引きの刀を使っていたというのは、日本刀を鈍器として扱っていた。という意見に対し、刃引きでも斬れるという実験をしていました。
確かに布に入れた鶏肉くらいなら刃引きの刀で斬れていました。

私の先生のお祖父さんも戦時中、剣道の大会に招待されたときに、刃引きの刀で斬ったエピソードが残っています。
会場に米俵ほどの太い巻藁が準備されていて他に招待された軍人が次々と斬り掛かり、その中で三分の一程度も切り込んだ方がいたそうです。
そこでお祖父さんは「私は専門家ですから刃のついていないやつでやってみましょう!」と掌をゴシゴシやっても切れない刃引きの刀で、両側に立っている巻藁を一息にバッバッと斬って落としました。
斬った巻藁はご丁寧に節を抜いて砂を詰めた孟宗竹を3本束ねて藁で巻いてあったそうです。

先日、試斬で有名な町井さんも現代の畳表を斬る試斬は最近流行ったことで、昔は今のように畳表を斬るための研ぎではなかったと言っていましたが、本当にその通りだと思います。
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げんぞう

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試し斬りでは畳表を斬った後、斬られた部分が残ったり、しばらく間をおいて落ちることがあります。
先輩から聞いた話ですが、昔、先生と門弟が木剣で型稽古をやっていて、門弟が先生の太刀を受け流した後、一瞬間をおいて門弟の木剣の先が斬れて落ち、それを拾った先生は「あんまり(断面が)綺麗じゃないな。」と言って木剣の先を放ったことがあったそうです。
先生が木剣を折ったり斬ったりすることはよくあったようですが、試し斬りのように斬れた木剣が間を置いて落ちるというのは漫画の中だけの話かと思ってました。
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げんぞう

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現代では多くの居合などの流派で畳表を斬る試し斬りが行われていますが、これは戦後に盛んになったものです。
陸軍戸山学校で兵士に対して、軍刀を用いて目標を斬ることを学ばせるために始めた稽古法が元になっているのでしょう。

それ以前は各流派で独自の試し斬りが行われていて、田宮流では最初に一寸角の角材、次に竹ひごを首の太さに束ねた物、次に鹿の角、と言う具合に試したと聞きました。

私が学ぶ流派にも、小川に入り川上から厚さ4分で四、五寸角の板を十枚づつ流してもらいそれを斬る。とか、竹の根元の一寸の間に節が幾つ以上あると言うような太い物を水を張った桶に浮かべて、桶の水が跳ねないように木剣で割る。とか、雨樋から流れる水を斬る。などと言う試し斬りの方法が伝わっています。

ただ、伝わっているだけで、今はやってはいません。
上述の試し斬りが出来るような業前かどうかは、普段の稽古を見れば出来ないことがはっきり分かります。
昔も普段の稽古で、ある程度満足いくようになってから物を斬る稽古に入ったようです。

先生のお祖父さんは斬る稽古もやっていたそうですが、水を斬ることは出来なかったそうで、雨樋からから流れる水を斬ると、わずかに水飛沫が飛んだそうです。お祖父さんのお兄さんが斬ると、水に竹の節のようなものが出来るだけで飛沫は飛ばなかったそうです。
そんなお祖父さんでも、来賓として参加した剣道の大会で、節を抜いて砂を詰めた孟宗竹を3本束ねて縄で巻いた巻藁を、刃引きの刀で斬ったそうなので、いかに水を斬ることが難しいかは分かります。
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あこた

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こたつが無いと冬を越せない体質である。
フローリングの部屋に畳マットを並べて敷いて住んでいた時に、数度目の冬まではラグを敷いた上でこたつを使っていた。
しかしラグがめくれて躓く事がたまにあったので、ある冬にラグを敷かずに畳マットの上に直にこたつを置いて使ってみた。
そうしたら畳マットの表面のあちこちからテグスのような物がビニョビニョとはみ出すようになった。
おそらくその畳マットの畳表の経糸が熱に弱い化学繊維で、こたつの熱と私やこたつ本体による外力が合わさって変形してはみ出すのだと思われた。
元々使っていたラグはかなり薄手だったのだが、あんなに薄手のラグでも有るのと無いのとでは全然違うんだな…と伝熱の不思議に触れた気分になった。
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🌴たかし⛺

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とりとめのない話し(その49)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その9)

「八幡御三家」とは、近江商人の中でも特に有力だった西川甚五郎家、森五郎兵衛家、西川正六家(伴 伝兵衛家)の3つの商家。江戸時代に近江八幡を拠点に活躍し、全国に商品を流通させ、近江商人の発展に大きく貢献した。

西川甚五郎家は、西川仁右衛門を初代とし、二代目を甚五郎が継ぎ、三代〜八代まで利助を名乗る。九代〜十四代は甚五郎を名乗った。近江商人の「三方よし」の精神で、事業を発展、継承してきた。2代目甚五郎が近江蚊帳を販売し、から11代甚五郎がふとんの西川産業を設立し、入り婿の西川康行(通称:八一行)が経営手腕を買われ、15代目として、2018年西川リビング、東京西川、京都西川の3つを経営統合した西川株式会社の会長に就任している。七代西川利助の代に積立金や利益分配、責任の分担など、本家、分家、奉公人に対しての制度改革が現代まで続いている要因とされる。

●伴 伝兵衛
いち早く江戸日本橋に進出した近江商人、屋号は江戸で『近江屋』、八幡で『扇屋』。歴代当主が襲名した名称。伴伝兵衛家は西川甚五郎家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家とされる(資料によっては伴伝兵衛に替わり西川庄六家が入るものもある)。

伴太郎左衛門尉資家:近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年)本能寺において討死。
伴伝兵衛 (初代)資則:武士を捨て行商を行い、大名屋敷御用を得た。慶長15年(1610年)近江商人の中で最も初期の段階に江戸出店を行った。
伴伝兵衛 (2代):正月名物近江屋の松飾。
伴伝兵衛 (7代):御朱印騒動解決に尽力。

●3代目西川 庄六
1694年−1795年 近江商人西川利右衛門家分家西川庄六家(現、メルクロス株式会社)当主。庄六家最盛期を築くと共に、俳諧においても多くの秀作を残した。3代西川庄六は、1694年に 近江国蒲生郡八幡(現滋賀県近江八幡市)に生まれ、幼名を五郎と称した。父は庄六家の本家に当たる4代目西川利右衛門数常。16歳の時に2代目西川庄六(通称利兵衛)の養嗣子となり、1744年に養父の死去により家督を継ぎ3代目西川庄六、諱を数久と改めた。3代目庄六は祖業である畳表・縁地・蚊帳の他に琉球黒糖を取り扱い、貴重品である砂糖は引く手数多で商いは盛況を極めた。また、実父4代目利右衛門の支援を得て江戸日本橋に出店、西川庄六家の最盛期を築いたと言われる。また、原元佃房の門に入り「可昌」と号し、多くの秀句を残した。北陸地方・中国地方の俳人とよく交わり加賀千代女とも交友があったと伝えられる。出店や商い先への往来に伴い各地で吟行を行った。当時近江商人の家庭では、謡曲・和歌・俳諧・囲碁・蹴鞠・浄瑠璃・華道・茶道等を嗜み、家業の為高度な商才が必要とされると共に高度な教養も求められた。1795年に死去したが、9人の子宝にも恵まれ、長男は本家利右衛門家を継ぎ(西川利右衛門 (7代))、3男が4代目庄六となった。なお、次男は亀蔵家・4男は理左衛門家を新たに興した。

●森 五郎兵衞 (初代)
生年不明 −1703年4月2日、江戸時代中期の近江商人。後に八幡御三家の一つと言われた森五郎兵衛家の創始者で、屋号は『近江屋』、近三商事株式会社の遠祖。八幡新町(現滋賀県近江八幡市新町)に生まれたとされる。同地の豪商伴伝兵衛家に奉公に入り、五郎兵衛は性質温厚忠実、陰日向無く仕事に勤しんだと伝わっている。五郎兵衛も中年になり奉公の年季も満ちた時、主家の主である伴伝兵衛自らが五郎兵衛奉公中の忠勤を事細かく記した褒賞状を作り、資金と共に五郎に手渡し、別家を立て独立することを許した。独立した後も主家の報恩を忘れず五郎兵衛は、主家より渡された褒賞状を何よりの宝物とし、主人であった伴伝兵衛が亡くなった後、伝兵衛の位牌を自家の仏壇の中央に据え、毎朝夕位牌への合掌を欠かさなかったと伝えられている。

五郎兵衛は独立した後、煙草商として江戸から関東一円を行商したところ、五郎兵衛の商才と顧客の利益を第一にする態度、誠実な人柄からすぐに顧客の信頼を得ることができ、数年で利を重ねることができた。その後、江戸に出店を設け、近江の麻布に関東地方の呉服を扱った。着実な仕事ぶりは顧客を集め、次第に販路も広がり大発展を遂げていった。五郎兵衛の店の奉公人達も一生懸命に働いていたが、これも五郎兵衛がそうであったように、真面目に働いた奉公人には年季が満ちた際に必ず独立することを許し、資金も相応に渡していたことによる。当時は五郎兵衛や伴伝兵衛のような商人ばかりでなく、猾商と呼ばれる狡猾な商人も多くいた。別家やわずかな資金をも惜しみ、年季近い番頭に人を使って遊びを教え、金を使い込ませたり、女性との間にもめごとをつくる等して首にするような商人も多くいただけに、五郎兵衛の店は奉公人にとり働きがいがある商家であった。五郎兵衛はこの様な話を聞くたびに「猾商は商界の罪人だけではなく、世間の罪人だ。奉公人は店の宝、主人の手足であり、猾商は自らの手足を切断しているようなものだ」と憤っていたことが伝えられている。1703年4月2日、五郎兵衛は亡くなった。生前、五郎兵衛は弟和助が分家する際、伴伝兵衛に頼み一旦和助を奉公に出し、奉公人としての立場を経験させた後に分家させたとされ、奉公人を第一とする森五郎兵衛家の考えがわかる逸話と言える。五郎兵衛が亡くなった後も、後継者はよく遺志を継ぎ、代々森五郎兵衛と称し、屋号を近江屋三左衛門、また『扇叶』と称して八幡御三家の一つに数えられるに至った。

●西川 甚五郎家
江戸時代初期から活躍した老舗近江商人、屋号は『山形屋』。西川創業家の歴代当主が襲名する名称。西川庄六家又は伴伝兵衛家・森五郎兵衛家と共に八幡御三家の筆頭とされた。

・西川仁右衛門 - 山形屋(西川甚五郎家)創業者
・西川甚五郎 (2代) - 八幡蚊帳の特色とされる萌黄蚊帳を創案した。
・西川利助 (5代) - 弓の輸送と一手販売の権利を手に入れる。
・西川利助 (7代) - 隠居後甚五郎を称し、山形屋中興の祖。
・西川甚五郎 (11代) - 八幡銀行設立に参画し八幡製糸・西川産業等設立。広島尾道・大分・京城・奉天支店等開設し、大阪・京で布団販売を開始する。現在の西川産業の礎を築く。
・西川甚五郎 (12代) - 1929年「西川」の商標を制定。貴族院多額納税者議員。
・西川甚五郎 (13代目) - 政治家としても活躍。北海道開発庁長官を務めた。
・西川甚五郎 (14代) - 元西川産業会長、日本橋西川ビル社長。(東京商工リサーチによる)16年没。

〇西川株式会社
日本の寝具メーカー。羽毛布団やマットレスといった布団関連製品の製造・卸販売を主要事業としている。

近江の商家西川家に生まれた仁右衛門が1566年に蚊帳の販売を始めた(西川グループではこれを創業年と位置づけている)。この後、豊臣秀次による八幡(現在の滋賀県近江八幡市)への八幡山城築城に際して、西川家はこの城下に移住(八幡商人)した。仁右衛門は1587年に同地で山形屋を開設し、蚊帳の製造・販売を開始、のちに畳表の製造・販売も行った。

江戸幕府が開かれて江戸の日本橋(現在の東京都中央区)付近へ商人を誘致したことに伴い、山形屋は1615年に江戸の日本橋に支店 「つまみだな」を開設した。仁右衛門の息子甚五郎が考案したとされる近江蚊帳のヒットで商売は軌道に乗り、日本橋を本拠として数代に渡って蚊帳問屋、弓問屋と商売を広げていった。1750年に京都に京店を開設。当主が7代利助の代に、「三ツ割銀」(年2回の決算後に利益の三分の一を奉公人に分配する、賞与のような制度)、「定法目録」(奉公人に分家の資格を与える制度のルールを明文化)、「定法書」(火事など不時の出費に備えた資金の積立と運用)などの制度を導入した。

明治時代となった11代甚五郎当主の代に、1876年に大阪店を開設し、1887年に後の主要事業となる布団の販売を京・大阪の両店で始めた。1920年に給与制を導入、1929年に牡丹文字を用いた「西川」の商標を制定、同年に製織部門として近江蚊帳製造株式会社(現・西川テックス)が設立された。1941年大阪に心斎橋店を開設。同年に既存の店舗を法人化し、京店を株式会社京都西川、大阪店を株式会社大阪西川(後の西川リビング)とする(法人としての京都西川および西川リビングの設立はここを起点としている)。空襲によって1945年に消失した東京日本橋のつまみだな店を1947年に再建し株式会社西川として法人化、同店舗内に卸部門として西川産業株式会社を設立した。日本橋店を株式会社西川とする(法人としての西川、西川産業、日本橋西川の設立はここから起算)。

2018年7月10日、「西川グループ」の3社(西川産業、京都西川、西川リビング)を経営統合すると発表[3][広報 6]。2019年2月1日に、西川産業株式会社を存続会社に、株式会社京都西川、西川リビング株式会社を吸収合併し、西川株式会社に社名変更した。
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とりとめのない話し(その46)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その6)

江戸時代に活躍した代表的な「近江商人」で現在も表舞台で活躍している企業は、西川甚五郎のふとんの西川産業と伊藤忠兵衛の総合商社の丸紅・伊藤忠商事、飯田新七の高島屋などが有名である。

江戸時代に活躍したその多くの近江商人は、明治維新の変革に対応出来ず、没落していく商人も多かった。近江商人の中には、貸金業に転換し、大名貸しなどを行い、巨万の富を得ていた「高島商人」の小野組など、うまく立ち回れず、没落した企業も多数あった。「大坂商人」の淀屋も巨万の富を得て、没落した商人の1人として、有名である。

江戸の幕末から明治維新の政治改革に産業革命に適応した商人も数多く出てくる。近江商人が源流とされる三井、三越などの財閥やトヨタ自動車、西武グループなどがその一例である。
また、破綻した近江商人の小野組から派生した古河財閥は一度破綻し、財閥を解散しているが、古河グループの古河山水会として、再結成して今なお表舞台で活躍している。古河機械金属、古河電気工業、富士通、横浜ゴム、朝日生命保険、みずほ銀行など多数の関係企業が所属している。

●西川甚五郎
<山形屋・初代1549~1644年>
八幡商人。蒲生郡岡山村生まれ。天正14年(1586年)に八幡城下が楽市楽座とされると店を設け、主に能登方面に蚊帳や畳表を行商とし、次第に商圏を広げ、ついに江戸日本橋に出店した。2代目甚五郎は萌黄蚊帳を考案して富を得て、ふとんの西川で知られる「西川産業」の基礎となった。

●西村太郎右衛門
<安南屋・1603~51年>
八幡商人。蒲生郡八幡町生まれ。外国貿易を志して豪商角倉了以の御朱印船で安南国(ベトナム)に渡る。現地で20年間商いを続け、国王に認められ正保4年(1647年)に財産をつんで長崎に帰国したが、日本は鎖国のため上陸出来ず、「安南渡海船額」と言われる額を郷里の日牟礼八幡宮に奉納し、安南に帰りました。

●西谷善太郎
<最上屋・4代目1603~66年>
八幡商人。家祖は神崎郡小幡村(旧五個荘町)の出身で、安土城下に移り、のち八幡城下に移住した。4代目善太郎は出羽地方(山形県)に呉服・古着類を行商し、以降代々同地に出店を構えました。8代目善太郎が活躍した(1751~63年)には、呉服・真綿・古着類を下し荷し、同地の紅花・青苧・絹糸・タバコを上方で販売して巨商の列に名を連ねた。

●西川伝右衛門
<住吉屋・初代1627~1709>
八幡商人。蒲生郡南津田村生まれ。僅かな元手で呉服類を北陸・奥羽地方(秋田県など)に行商し、蝦夷(北海道)が商売に有利との情報を得て、(1661~73年)に松前に出店した。藩の御用商人となり、船を造り大坂方面に産物廻しを行って巨利を得て、場所請負をし危険をおかして有望な漁場を開拓した。

●市田清兵衛
<麻屋・3代目1637~1714年>
八幡商人。市田家はもと六角氏に仕えた武士で神崎郡石川村(旧五個荘町)の出身。1653年頃に八幡町に移り、3代目清兵衛は上州(群馬県)に繰綿・太物類を持ち下り、商いをし、当地の産物を登せ荷し、富を得ました。晩年、家訓を定め、新規事業を慎重に行い、才能ある者は中途採用でも重役に起用した。

●正野玄三
<初代1659~1733年>
日野商人。蒲生郡村井村生まれ。初め商業を志し、18歳から東北地方に行商したのち、母の難病を治した名医に感激し医業に転向した。(1704~11年)に故郷で「萬病感応丸」などの合薬を作り、日野売薬の基礎となりました。日野薬品工業の遠祖にあたる。

〇1943年(昭和18年) 近江日野製薬株式会社として設立。太平洋戦争中の企業整備令によって、日野町にあった30以上の製薬業者が合併して設立された。現在は株式会社大木の子会社となっている。

●小泉武助
五個荘商人。神崎郡山本村の出身。元々農家であったが、所有する田の収穫は年貢にも満たなかった。これを商いで補うため麻布を播磨・丹波地方に行商し、苦労の末、成功する。(1727年)に家督を養子に譲り、田畑を守り、商いに出精するよう諭し、諸国社寺巡礼の旅に出て、その後音信不通となった。

●外村興左衛門
<外与・5代目1682~1765>
五個荘商人。神崎郡金堂村の出身。外村家は代々篤農家でしたが、5代目興左衛門は農業だけでは一家の繁栄はないと考え、農閑期に近江麻布を姫路・大坂・堺などに行商した。(1700年)に大和郡山に出店した。総合繊維商社外与の創業の祖にあたる。外村一族からは外宇・外市・外宗など多くの商家が生まれていた。

●中井源左衛門
<十一屋・1716~1805年>
日野商人。蒲生郡岡本村生まれ。家業は日野椀製造業。19歳から関東各地を行商し、29歳で下野国(栃木県)に質店を開業した。以降、全国各地に支店を置きその数15店におよび、仙台伊達藩の御用商人となった。司馬江漢が日記に「この爺さん一代に三十万両を儲け」と記されている。世界初の複式簿記を考案し、家訓「金持商人一枚起請文」でも有名となった。

●松居久左衛門
<星久・3代目1770~1855年>
五個荘商人。神崎郡位田村の生まれ。農業のかたわら生糸・綿布・麻布類を全国に行商し、やがて江戸・京都に出店した。日常の生活は質素倹約に徹し「奢れる者必ず久しからず」を信条としていたが、有事には出費を惜しむこと無く、社会奉仕に尽力した。商標の天秤棒のマークは「天秤棒を肩にかつぎ朝星夜星を仰いで働く」という意味としていた。晩年は「遊見」と号していた。

●髙田善右衛門
<初代1793~1868年>
五個荘商人。神崎郡北庄村の富裕な家の末子として生まれ、早くから独立を志し、17歳で僅かな元手で山路の険しい紀州に行商した。この地方で必要な商品を調査して販路を拡大する。のち麻布などを関東で販売し、京都にも出店した。常に天秤棒を肩に旅する姿は戦前の国定教科書に刻苦精励を信条とする近江商人の典型として紹介された。

●飯田新七
<高島屋・初代1803~74年>
高島商人。越前敦賀の出身で、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子となった。家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売した。多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築いた。

●塚本定右衛門
<紅屋・2代目1826~1905年>
五個荘商人。神崎郡川並村生まれ。(1851年)26歳で家督を継ぎ、営業方針を「多利僅商」から「薄利広商」へ転換。明治5年(1872年)に東京日本橋に出店し、商店を会社組織に改めるなど近代化を進め、繊維商社ツカモト株式会社の基礎を築きました。また、勝海舟が「氷川清話」でスケールの大きい近江商人として感心した話は有名です。

●市田弥一郎
<市田・初代1843~1906>
五個荘商人。彦根の紙・荒物商の三男に生まれ、13歳頃から商売に従事。その商才を見込まれて神崎郡旭村の市田弥惣右衛門の養嗣子に。はじめ東海道に荒物・呉服類を行商し、一日に10里(40㎞)を旅商するほど敏捷な販売力でした。明治維新の混乱期を飛躍の好機とし、明治7年(1874年)に東京日本橋に京呉服卸問屋を開店し、後の市田株式会社の母体に。晩年は、京都南禅寺に市田對龍山荘を営み、風月や芸術を愛しました。

●藤井彦四郎
<スキー毛糸・1876~1956年>
五個荘商人。北五個荘村宮荘生まれ。明治35年(1902年)に兄4代目善助と呉服・太物を商う藤井西陣店を開く。同40年に絹糸や人造絹糸を扱う藤井糸店となり、兄が政界に出たため社長となる。不況期も「現状維持は退歩なり」をモットーに経営し、五光商会・共同毛糸紡績などの会社をおこし、中国にも進出。

●小林吟右衛門
<丁吟・2代目1800~73年>
湖東商人。愛知郡小田苅村出身。15歳で呉服などの行商を行い、文政11年(1828年)頃より東北地方から紅花を仕入れて染料製造を始める。天保2年(1831年)に江戸に織物問屋丁字屋を開き、のち江戸・大坂・京都で両替商(金融業)を営み、彦根藩両替方御用達に。藩主井伊直弼と親交深く、このため攘夷派浪人に狙われた話が残っています。

●薩摩治兵衛
<丸丁字・1831~1909年>
湖東商人。犬上郡四十九院村の貧農の子に生まれ、9歳で父を失い16歳で丁吟(小林吟右衛門)に丁稚奉公に。奉公中に商人魂を鍛えられ、慶応3年(1867年)に独立し江戸に和洋木綿商丸丁字を開業。明治21年(1888年)に郷里で田畑を買い、その小作料を貧しい農民の救済に当てました。

●伊藤忠兵衛
<丸紅・初代1842~1903年>
湖東商人。犬上郡豊郷村生まれ。安政5年(1858年)に近江麻布の行商をはじめ、馬関・九州地方に地盤を広げる。明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、明治5年(1872年)大阪に呉服太物店・紅忠を開いた。明治23年(1890年)に対米雑貨輸出を開始し、サンフランシスコに支店を置くなど、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。
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