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まこ
この地に祭られ、弘仁2年(811年)
坂上田村麻呂が東夷征伐の際、改めて
常陸国鹿島大明神を勧請した神社白河地方の
総鎮守とし、武の神、白河以北を守る神として
戦勝を祈願したと言われている
文化3年(1783年)松平大和守により
「鹿嶋大神宮」の額が、また大正14年(1925年)
海軍元帥東郷平八郎により「鹿島宮」の額が
奉納され、この両額は今も神社の正面に
掲げられている
寛政7年(1796年)松平定信公により
「楯無しのよろい」(市指定文化財)も
奉納されている
※写真以外はウェブからの引用





やぷー

愛理(雑
<<小田原征伐>>

みねは

ぼろし

みちの

かむ

シンちゃん
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たまかしわ〜
神功皇后が三韓征伐したから

またんぎ
この場所は、日本書紀にも記された古代の伝承地であり、神功皇后の遠征ルートにおける重要なエピソードの一つとして語り継がれています。
1. 伝説の概要(神功皇后と熊鰐の物語)
伝説の舞台は、仲哀天皇と神功皇后が熊襲(くまそ)征伐のために九州へ下向された際のことです。
* 船の立ち往生と皇后の怒り
神功皇后の船団が洞海(くきのうみ/現在の洞海湾)から入ろうとした際、ちょうど潮が引いてしまい、船が浅瀬に乗り上げて進めなくなってしまいました。
先を急いでいた皇后は、この予期せぬ足止めに大変腹を立て、機嫌を損ねてしまいました。
* 熊鰐(くまわに)の機転
この地域の豪族であり、水先案内を務めていた岡県主熊鰐(おかのあがたぬしくまわに)は、皇后の怒りを恐れました。
そこで彼は、皇后の機嫌を直してもらうために急いで近くに池(生簀のようなもの)を造り、そこにたくさんの魚や鳥を集めて放ちました。
* 怒りの鎮静
熊鰐が「どうぞこれをご覧になってお心をお鎮めください」と申し上げると、皇后は池で泳ぐ魚や遊ぶ鳥たちの様子を眺め、ようやく怒りを解いて機嫌を直されたといわれています。
この故事から、その場所が**「魚鳥池(魚鳥が池)」**と呼ばれるようになりました。
2. 「魚鳥池の碑」と現在の姿
かつてこの地は入り江の一部でしたが、江戸時代の干拓事業によって陸地(水田)となりました。伝説の池そのものは残っていませんが、その由緒を伝えるために石碑が建てられています。
* 石碑の建立
明治35年(1902年)に、この伝説を後世に伝えるため、地元の有志によって**「魚鳥池之碑」**が建立されました。
* 現在の状況
現在、石碑の近くには石組みの井戸のような跡が残されており、これがかつての「魚鳥池」の名残とされています。
伝承によると、この池(井戸)の水はどんな日照りでも枯れることなく、非常に清らかな水が湧き出したため、地元の人々は「皇后の遺徳によるもの」として大切に利用してきました。
3. 関連施設:魚鳥池神社
石碑のすぐ近く(北九州市若松区払川)には、この伝説に由来する**「魚鳥池神社」**が鎮座しています。
* 御祭神: 神功皇后などが祀られています。
* 由緒: 皇后が船を降りて、満潮を待つ間に魚や鳥を眺めて休息された場所、あるいはその遺徳を偲んで建立された神社とされています。
4. 歴史的・地理的背景
* 地名の痕跡
この周辺には「鵜ノ巣(うのす)」という地名も残っており、熊鰐が鳥を集める際に鵜(う)を利用した、あるいは鵜飼いを見せたのではないかという説もあります。
* 日本書紀の記述
このエピソードは『日本書紀』の仲哀天皇記にも記述が見られ、大和朝廷と北九州の豪族(県主)との関係性を示す重要な史料としても扱われています。
まとめ
若松区の魚鳥池石碑は、単なる古い跡地ではなく、**「神功皇后の怒りを地元の豪族がエンターテインメント(魚と鳥のショー)で鎮めた」**という、人間味あふれる古代の政治的・文化的交流の現場を示す記念碑といえます。

ピクシ

甲斐性無しの甲斐の人
関東管領上杉氏の家臣長尾景春の築城とされるが、有名なのは後北条氏によって制圧され、改修を受けた後のほうだろう。
後北条氏が関東一円を支配するようになった後北条氏が武田氏と抗争するようになると、北条氏康の息子で氏政らの弟である氏邦が拠点として整備した。
背後には荒川が流れる断崖の上に築かれているうえ、城郭内部にも荒川と合流する深沢川が天然の内堀のごとく流れている要害地形でありながら、堀や土塁、馬出などを幾重にも巡らせた難攻不落の要塞。
秀吉の小田原征伐が起きた際も、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの3万とも5万ともいわれる大軍を相手に氏邦率いる3千の兵で1ヶ月籠城したのち、降伏して開城した。
現地で観てもやはりそのスケールに驚かされた。
まず、橋を渡って城に行こうとするとその断崖に驚き、高い土塁や深い堀、複雑に入り組んだ曲輪に見入ってしまった。
城内には氏邦桜と呼ばれる大きな彼岸桜もある。
私が訪れた頃は彼岸花が咲いていたが、次に行く機会をつくるならばやはり桜の季節に行きたいものだ。
#一日一城










ロケマサ37
こないだ山口の赤間神宮行ったのだけども そこで安徳天皇のご冥福をお祈りしたあと 偶然にここの神社に来たのは なんだかおぼしめしだなぁ
以下八百富神社ホームページより
八百富神社は、「竹島弁財天(市杵島姫命)」をお祀りしております。
八百富神社は、安徳天皇の養和元年3月18日(1181)の創建と伝えられています。これは、1145年三河国司の三河守となった藤原俊成卿が、在任中に未開だったこの地の開拓に当たられた際、風光明媚で江州竹生島によく似ているこの島に竹生島弁才天を勧請せられたことから始まったとされています。常に清波に島脚を洗われ、自ずと禊ぎ、不浄を近づけないようで、真の霊境との名の通りであり、養和(1181)の頃俊成が当社奉斎の神境に定めました。
「江州竹生島弁財天を勧請した際、雑木林におおわれ竹がなかったこの島に、竹生島の竹を2本根こそぎ持ってきて、ご神体として植えた」との記述もあり、そのことから『竹島』と名付けられたとも伝えられています。(「竹島縁起」元文元年(1736)仲夏書)
慶長5年6月(1601)、徳川家康公が会津の上杉征伐に向かう途中船で竹島に着き、郷士である内田弥右衛門義隆が沢山の蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があります。その際縁起が良いとたいそう喜ばれ、その後竹島に参拝されたと伝えられます。このことからもわかるように、この地は海上交通の港場でありました。その後歴代の将軍たちもこの地に船を命ずることが度々あり、その間当社と徳川家との関係は深く強くなっていきました。
以上八百富神社ホームページから
江の島もそうだけど 島の神社と市杵島姫様(弁天様)はつながりがあるなぁ
江の島もそうだったし
市杵島姫様にやたら好かれてるロケマサより
#神社










甲斐性無しの甲斐の人
いよいよどの城を投稿したことがあるのか把握しきれなくなってきて、逆神経衰弱をやっている感覚になってきた。
忍城は成田氏に築城されたとされる関東七名城のひとつ。
『のぼうの城』のモデルになった城。
豊臣秀吉の小田原征伐のときには後北条氏側の城として、石田三成率いる軍の水攻めを受けたが小田原城の降伏まで耐え抜いた。
遺構としては土塁や堀が残っている他、博物館に併設された展示室兼展望台として御三階櫓が再建されている。
城の近くの店でゼリーフライを食べた記憶があるが、もう何年も経つので店の名前は忘れてしまった。
#一日一城








ひな
常設展示で600円だったからどれくらいのものかなぁと思って入ったら1~6館まで見れたのだけど(5はリニューアル中でした)、1の縄文時代からかなりの情報量…[ほっとする][ほっとする]
飛鳥文化の辺りで男の人が日本列島の北と南から漢民族と朝鮮の人が入ってきたのが日本人みたいに言ってて、姉が「?」って顔をして義兄が首を振りながら「後で話すね」って先に進んだ時が面白くて[泣き笑い][泣き笑い]
日本列島に人が入植したのは紀元前4万年で、紀元前100年位に弥生人が大陸から来て(この時猫が大陸から日本に来た)混ざった人達も居て、3世紀頃に魏って言う国の人が皇帝の命令で今の韓国のソウル辺りを調査した時についでに日本列島の近畿か九州で確認したのがこの人達。倭人や倭奴って呼ばれた人達で、実は卑弥呼って言う名前も魏の国の人がつけた名前で実際は不詳らしいのです[目が回る]
アイヌ民族もインディアンみたいに~族って言うアイヌって名前で一括りだけど、実際はもっと沢山の文化があったらしく、北方のアイヌの人の顔が一部ロシア系だったと言う話まで聞けて面白かった。蝦夷征伐とかクマソ征伐と言うのもそういうことらしい…んんん
で‼️博物館が1500年代から江戸時代に行く辺りで今度は私と同じ位の女の人達が「こんな生活だったんだ、でも税金なくて良いよね。」みたいな話をしてて、義兄が展示物を見入るみたいにしゃがんで
「年貢ゥウウウ…‼️[疑っている]」
ってなってて笑った[大笑い]これは私でもわかった
それから黒船来航から開国辺りの物流を見て、1930年頃のアジア情勢の説明不足に、1900年にあった義和団事件と言うのが大きく流れが変わった要因だって義兄が解説してくれて、多分すごくお値段以上にお勉強出来たような…歴史って面白い[大笑い][大笑い]
実際の歴史よりガンダムの歴史の方が詳しい人居るよねみたいなお話をしたら、実際の戦争のあらましは大体ガンダムで扱っているからある意味プロパガンダに利用されない意味でガンダムに詳しければ良いまであるって言うのが今日の格言[ほほえむ][ほほえむ][ほほえむ]

ヴィク
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