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甲斐性無しの甲斐の人

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城、城跡めぐりが好きです。 お城の話をしましょう。
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岩下氏館

甲斐の国人、岩下氏が室町時代に構えていた館。
武田信虎の母が岩下氏の出身で、この館で信虎を出産したと伝わっているため、信虎誕生屋敷とも呼ばれる。
岩下氏がどのような出自の国人勢力かはよくわかっていないようだ。

現在、館跡とされる場所は果樹園になっていて明確な遺構はなく、解説板がひとつ立っているのみとなっている。
ただ川田館と同じように考えると、周辺を流れる用水路はかつて堀の役目を果たしていたのだろう。

#一日一城
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ここまで揺れがくるとは、かなりでかいな。
被害が少なければいいが...
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小牧山城

たぶんここもまだ投稿していないはず。
美濃侵攻を目指す織田信長が、清洲城から本拠地を改めて築いた城。
丹羽長秀が縄張りを担当して、平野にポツンとたつ小牧山という小さな山を丸ごと城郭化し、先進的な城下町をつくった。
信長が美濃を掌握し、岐阜に本拠を移すと城も放棄されてしまったようだが信長の死後、羽柴秀吉と徳川家康が対立して起きた小牧・長久手の戦いの戦いで再び歴史の表舞台に出る。
兵力に劣る家康は廃れていた小牧山城を陣城として活用し、長大な堀を新たに築くなど大改修を施して秀吉率いる大軍に対峙した。

現在も石垣や堀といった遺構が残っていたり綺麗に整備されたりして、家康が陣城として活用した頃の姿をかなり維持し、山頂にある本丸には天守閣を模した歴史館が建てられている。
特に空堀は圧巻の規模で思わず感動してしまった。
私が行った時は歴史館は改装工事をしていたり、本丸周辺の石垣も整備のために工事していたりしたが、現在は終わっているようなので改めて観に行きたい。

#一日一城
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飯山城

というわけで飯山城!
元々の築城年代は不明だが、鎌倉〜室町期あたりは地元の泉氏という武士が治めていたようだ。
戦国期になると高梨氏が勢力を伸ばしてきて、本拠地の高梨氏館の支城として扱われたらしい。
やがて武田信玄の信濃侵攻が進むと、高梨氏も館を追われて飯山城に逃れ、越後の上杉謙信を頼ったことで川中島の戦いに発展した。
それ以降は上杉軍の最前線として、また春日山の目の前でもあるため、絶対防衛ラインの城として固守されたが、御館の乱の結果上杉から武田へ割譲かれた。
江戸時代には飯山藩の中心として城下町も整備されていったようだ。

実際に訪問してみたら、タイミング悪く前夜から降った雪に覆われていて大変だった。
ただ、まだ誰も踏んでいない(一部は散歩してた地元の方とワンちゃんに先を越されたが)城跡の新雪をザックザック踏んでいく体験ができて気持ちよかった。
とはいえ長靴の中にまで雪が入ってきて大変だったが。
立派な移築門がそびえ立っているが、これは飯山城の城門が一度移築されたのちに城跡に再移築された可能性もあるものの、確かな史料上の証拠はないそうだ。
本丸周辺の石垣は立派で枡形も綺麗に残されており、他の季節にも改めて来てみたいと感じる城跡だった。

#一日一城
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一昨日は飯山城の新雪を踏み荒らしたのちに、熊が出没した直後の野沢温泉めぐりをした。

日が明けて昨日は当初予定していた山城攻めが当然不可能な天候なので、代わりに野沢温泉村の寺社を少しばかり見てから松代城にリベンジするなどした。

そして帰宅し、泥のように眠って現在に至る。
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忍城

いよいよどの城を投稿したことがあるのか把握しきれなくなってきて、逆神経衰弱をやっている感覚になってきた。
忍城は成田氏に築城されたとされる関東七名城のひとつ。
『のぼうの城』のモデルになった城。
豊臣秀吉の小田原征伐のときには後北条氏側の城として、石田三成率いる軍の水攻めを受けたが小田原城の降伏まで耐え抜いた。

遺構としては土塁や堀が残っている他、博物館に併設された展示室兼展望台として御三階櫓が再建されている。
城の近くの店でゼリーフライを食べた記憶があるが、もう何年も経つので店の名前は忘れてしまった。

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下坂氏館

浅井氏に仕えていた地侍の館。
周辺ではかなり大きな影響力を持っていたようで、周囲を堀と土塁で囲んだ綺麗な方形居館になっている。
浅井氏が小谷城の戦いで滅びると帰農し、江戸時代には郷士として影響力を保ったそうだ。
数代前から医院を始めて現在の家業は医師となっており、現在も下坂氏の子孫の方が館跡の隣でクリニックを開いている。

実際に観てみると見事な堀や土塁もそうだが、茅葺きの薬医門や主屋が現在も維持されており驚いた。
また解説員の方が丁寧に解説をしてくれたが、どうやら昭和の頃までは主屋で医院をしていたようで、診察室として使われた部屋なども観ることができた。
構造は江戸時代の屋敷を保ちながら、最近まで活用し続けていたそうだ。
閉館1時間前に訪問したせいで解説を聞くだけで時間がなくなってしまい、あまりじっくり見て回ることができなかったので再訪しなければ。

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天守台が届きました!
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玄蕃尾城

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家の本陣となった城。
賤ヶ岳の戦いに伴って陣城として築かれたとされているが、実際にはもっと前に築かれていたとも。
当時の陣城としては最高傑作といわれる。
越前と近江の国境として重要な位置に築かれており、すぐ近くには織田軍による朝倉軍への追撃戦、刀根坂の戦いの舞台となった刀根坂がある。

実際観に行ってみると、その堀の深さや土塁の高さ、そして複雑に絡み合う曲輪に驚いた。
そして同時に賤ヶ岳の戦い以前に築かれていたという説の説得力を感じた。
正直、これほどの城を陣城としてその場で築くのは無理ではないかと感じるほどの出来だった。
秀吉の石垣山城などは、ほぼ天下統一間近という動員力や経済力があったからこそ築けたもので、当時の勝家に対陣を続けながらこの城をイチから築く余力などなかったはず。
そんなことをふと考えしまった。
また私は滋賀県側から登ったが、どうやらこちらはマイナーなルートのようで、福井県側からの登山道と合流するまでは全く人に出会わなかった。
ただ麓では、土建屋さんのような人に
「あのへん熊ぎょうさんいるから気をつけやー!」
と、声をかけられたが運良く熊にも遭遇しなかった。
念の為に熊スプレーも持って行ったが、使わずに済んで良かった。

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岩崎山砦

賤ヶ岳から尾根道を下り、大岩山砦を通り過ぎたところにある。
秀吉側のキリシタン武将高山右近が築き、守っていた砦。
ただ完成はしていなかったようで、すぐ後ろの大岩山砦が陥落したときには防衛を諦め、即座に兵を退いて田上山砦の羽柴秀長勢と合流したそうだ。
そして大岩山砦を攻め落とした佐久間盛政は、柴田勝家からの撤退命令を無視して放棄されたこの岩崎山砦にも兵を送り戦線を維持しようとした結果、美濃から大軍を率いて急行した秀吉の軍と激戦となったという。

現地で見てみると、砦としては曲輪も多く規模が大きいという感じはした。
ただやはり、土塁もあまり多くはなく高さも感じなかった上、堀も部分的にそれっぽいものがあるという程度であまり手が加えられている感じはしなかった。
また多くの部分が藪に覆われてしまっていたが、三段に重ねた犬走りの遺構は珍しいもので印象的だった。
解説板によれば、犬走りを重ねることで帯曲輪の代わりにしていたのではとのことだった。

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大岩山砦

賤ヶ岳砦から尾根道を北東に下っていったところに築かれた砦。
賤ヶ岳の戦いのときに羽柴軍の中川清秀が築いたが、柴田軍の佐久間盛政による夜襲で陥落し、中川清秀も討死してしまった。
この大岩山砦で隣の岩崎山砦はまだ築城途中だったともいわれており、それが原因であっさり攻め落とされてしまったそうだ。

実際に観てみるとほとんど単郭のような構造だった上、周囲を囲う土塁もかなり低く感じたし、堀も見当たらなかった。
風化してしまったのかもしれないが、賤ヶ岳砦の遺構が良好に残っていることも考えると、やはり築城途中だったという説が有力そうだと感じた。
砦の近くには中川清秀の首を洗ったとされる首洗いの池もある。
心霊スポットになっててもよさそうなネーミングだが実際どうなのだろう、私はそういうのが全くわからないのだが。

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賤ヶ岳砦

賤ヶ岳の戦いで最大の激戦地となった砦。
元は浅井朝倉軍が布陣した地ともいわれ、賤ヶ岳の戦いでは陣跡を再利用して砦を築いたのだろうか。
越前方面から近江に向けて進軍し、山中に次々と砦を築きはじめた柴田勢に対抗し、羽柴勢も多くの砦を築いていく。
その中でも秀吉の弟、羽柴秀長が築いた田上山砦と並んで重要な砦として築かれたのが賤ヶ岳砦で、築城者は守将でもある桑山重晴。
重晴は織田氏重臣の丹羽長秀の与力ともいわれるが、この頃は羽柴秀長の配下だったともいわれる。
眼前の大岩山砦の陥落で一旦は退却を始めるが琵琶湖を渡って丹羽長秀が駆けつけてきたため、その軍と合流して再度砦を確保し守り抜いたことが羽柴軍の勝利につながったそうだ。

現地を観てみると、付近の砦と比べても遺構の残り方も良く、賤ヶ岳の戦いに関する陣城軍を見渡すことができる絶好の立地で、最重要な砦なのだと感じた。
土塁跡も綺麗な上、虎口跡と思われる遺構も横矢がかかるように設計されていたりと技巧的なつくりになっていた。
うかつにも飯浦の切通しを観るのを忘れてしまったため、また再訪して観なければ。

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大多喜城

真里谷武田氏の真里谷信清が築いたのがはじまりとされる。
だが安房の里見氏が勢力を拡大してくると、里見氏が大多喜城を支配する。
その里見氏も豊臣秀吉により上総の所領を没収され、代わって徳川家康に与えられると大多喜城には徳川軍屈指の猛将本多忠勝が入り、近世城郭として改修された。
しかし本多氏が移封されて江戸時代に入り、次いで大多喜を与えられた阿部氏も大多喜を離れると城は荒廃したようで、江戸時代の初期にはすでに城跡だったらしく、藩の財政が厳しかったこともあって再建されることはなかったようだ。

現在は綺麗な天守閣が建っているが、これは忠勝時代の改修時に築かれたとされる天守閣を模してつくられた復興天守だが、今は耐震強度などの改修のため閉館している。
また天守閣の存在そのものを否定する論もあるようで、そちらの説を採ると模擬天守ということになるようだ。
それ以外には二の丸御殿の薬医門と大井戸が現存しており、いずれも二の丸につくられた大多喜高校の敷地内で大切に保存されている。
城下町もその雰囲気を残しており、いすみ鉄道が復旧したらまた行きたい。

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「ルヴァンパーティー」というものをご存知だろうか。
知ってるいる方も、ヤマザキナビスコのリッツパーティーが、リッツのライセンス契約上の理由やら何やらで変化したものという認識の人が多いのではなかろうか。
しかし実はルヴァンパーティーはリッツパーティーとはルーツを異にする、歴史ある催しのひとつなのである。

時は江戸時代中期、一隻のイギリス船が日本沿岸部のとある小藩に流れ着いた。
船に乗っていた通訳曰く、「オランダに独占されている日本との貿易を再開する交渉のため、出島に向かっていたが嵐で遭難してしまった」という。
藩主は慌ててどうしたものかと苦慮したが、衣服もボロボロで食料も僅かという船員たちを見た藩士の報告を聞き、自らの陣屋に招いて食料を与え歓待をした。

その時にイギリス船の船員たちは食料を貰ってばかりでは悪いからと、船に残っていた保存食のビスケットを持ち込み、藩士たちにも分け与えた。
そして船員と藩士たちはビスケットにその藩で採れた魚や野菜、木の実など思い思いの食べ物を乗せて宴をしたのだ。
その時、一人の藩士は船員が「ぱあてい」と言ったのを聞いたそうだ。
イギリス船員たちはのちに幕府の命令で出島に移され、別のイギリス船が出島に来た際に帰国していった。

それからその小藩ではそのときの出来事を「流れてきた」「南蛮人の」「ぱあてい」すなわち「流蛮ぱあてい」と呼び、年に一度イギリス船が漂着した記念の日に藩士や商人、百姓までもが集まって見様見真似でつくった疑似ビスケットに好きな食べ物を乗せて食べる宴をしていた。
その頃本来のビスケットは「ビスカウト」と呼ばれる舶来品で大変高価だったため、田舎の小藩にまで出回ることはなかったが、彼らは実際に食べた経験から再現して作っていたと考えられている。

だが、江戸時代末期になると情勢が一変する。
高まる攘夷の機運は外来の文化ともいえる流蛮ぱあていの存在は忌避されるようになり、やがて明治時代になると政府によって完全に催しを禁止され、いつしか人々から忘れ去られていった。

時は流れて平成後期、ひとりの郷土史研究家は長い調査の末、流蛮ぱあていの存在にたどり着く。
何とかこの催しを現代に再現できないかと考えた研究家は友人の親戚の知り合いにあたる、ひとりの芸能人に相談する。

そう、リッツパーティーの主催者沢口靖子である。
彼女もまた、岐路に立たされていた。
長らくヤマザキナビスコのリッツのCMに出演していた彼女だが、ヤマザキナビスコはナビスコとの提携が終わりヤマザキビスケットと社名を改め、独自商品の開発に迫られる事態になっていたのだ。
この情勢下で降って湧いた流蛮ぱあていの話をヤマザキビスケットに持ち込めば、ナビスコブランドを管理するモンデリーズ社との関係、すなわちリッツとの関係は破綻するおそれもある。
それでも彼女はかねてから親交のあったヤマザキビスケットの社員に、研究家から聞いた話を伝えたのだ。

ヤマザキビスケット社の動きは早かった。
これを好機と捉え、リッツの後継商品として開発していた商品を流蛮からもじって「ルヴァン」と名付けて販売し、沢口靖子にルヴァンパーティーの主催を委ねたのだ。

こうして研究家の熱意と沢口靖子の覚悟、ヤマザキビスケット社の打算により、流蛮ぱあていが消えてから約150年ほど経った現代に蘇った、イギリス船員と藩士たちの親交の証である催しが、ルヴァンパーティーなのだ。
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江尻城

武田氏が三国同盟を破棄して駿河侵攻をした際に築いた城。
当初の築城は武田流築城術の名手馬場信春が手がけたとされる。
武田氏は駿河侵攻をした際に東には後北条氏、西には徳川氏がおり、その両勢力に対抗するために巴川を利用して築いた。
当初は山県昌景が城代を務めていたが、長篠合戦で昌景が討たれると穴山信君が城代になり、城を大改修して城下町も発展したそうだ。
またそのとき城内に魚町稲荷神社を創建したそうで、その神社は今も残っている。

現在は本丸跡は小学校に、二の丸などは市街地になっており遺構はない。
ただ小学校の校門が本丸門と呼ばれていたり、街中の地名に城にちなんだものが含まれていたりと城の雰囲気は感じられた。
ただ案内板の解説によれば、巴川を背にした後ろ堅固の城で、なおかつ他の方向は円郭式のような縄張りで、まさに武田流の城だったようだ。
後から調べてわかったが、廃城になった際に近隣の東明禅院という寺院の山門としてこの城の裏門が移築されたらしい。
その当時の門は焼けてしまったが一部の金具は流用できたらしく、江尻城の数少ない遺構といえるかもしれないので機会を見つけて観に行きたい。

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関ヶ原の戦いは東軍と西軍で行われた決勝戦が有名だが、準決勝で敗れた南軍や北軍もかなりいい線にいっていたし、なんだかんだでシーズンMVPに選ばれたのは南軍の武将だったことは、あまり知られていない。
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現代で使える貨幣を、もう使えない貨幣に交換してくれるありがたいサービス。
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昭和町 源義清館

甲斐源氏の2代目当主源義清の館跡。
甲斐には義清の館伝承の地が2か所あるが、両方とも実在したとすると先に市河荘のほうに館を構えて、後年こちらに移ったと考えられている。
発掘調査によって土塁の一部や義清時代の土器などが見つかったらしく、実際に館があった場所なのだろう。

現在は館の跡は義清神社という神社になっている。
他にも近隣には義清の墓所と伝わる塚もあるなど、地元では大切にされてきたようだ。
現在は拝殿を建て替えているらしく、工事が終わったらまた改めて訪れたい。

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丸岡城

最近後北条系のお城ばかり投稿してる気がするので、一度目先を変えて。
北陸唯一の現存天守閣をもつ城。
織田家の重臣で秀吉のライバルである柴田勝家の甥、柴田勝豊が築城したと伝わる。
やがて勝家が秀吉によって滅ぼされると越前は丹羽長秀の所領となってその家臣の青山氏が丸岡城に入り、関ヶ原合戦後は結城秀康が越前を治めたため、今度はその家臣今村氏が丸岡に入った。
しかし今村氏が越前騒動で失脚すると、「一筆啓上火の用心、お仙泣かすな馬肥やせ」のお仙こと、本多成重が城主になった。
かつては現存天守の中でも最古の戦国時代末期に築かれたといわれていたが、現在では天守閣は江戸時代初期に築かれたことが判明している。

大きさは小ぶりながら、北陸唯一の現存天守閣はやはり格好良いものだった。
遺構は天守閣以外はあまり残っていない。
小さな天守閣だからこそかもしれないが、内部の階段はこれまで行った現存天守の中でも屈指の急な階段だった。
石瓦の屋根も格好良いし、最近になってかつての堀をイメージした水盤がつくられたらしく、また行きたいお城。

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旭山砦

元々は武田氏の烽火台があったとされるが、現在確認できる遺構は後北条氏によるもの。
武田氏の滅亡と本能寺の変によって起きた武田遺領をめぐる天正壬午の乱が起きた際、いち早く甲府盆地を押さえた1万程の兵力といわれる徳川軍に対して北条の大軍は上野から信濃に入り、上杉軍と対峙するが和睦するとさらに南下して甲斐に入る。
また甲斐の東や南からも侵攻しており総勢5万ともいわれる大軍勢で甲府盆地を包囲する態勢に入っていたが、信濃の真田氏が徳川方に寝返って形勢は逆転。
氏直本隊への信濃経由での補給線が断たれたことで、徳川軍へ和睦を申し入れて甲斐を放棄し撤兵することになった。
ただ氏直は撤退中に追撃されることを恐れたようで、殿に兵を残して旭山に砦を築き始めた。
和睦後に砦を築くという態度にブチギレた家康は軍を整えて使いを出し、抗議した結果北条軍は築城途中の砦も放棄して引き上げていったという。

現地に行ってみるも、最初はどこから入るのかよくわからなかった。
かつては旭山塁入口という木の標柱もあったようだが、それも今は朽ち果ててなくなってしまったようだった。
主郭にあたると思われる曲輪はこれといった防御性も感じず、ただただ雑木林のようだったが、木に旭山の表示がつけられていたので頂上だろうと推測はできた。
そこから南下し、主郭と二郭の間あたりまでいくと倒れた城址碑があり、長い土塁が見えた。
主郭はほとんど未造成な一方、二郭はかなり手が加えられていて防御性が高そうだった。
南方に布陣する徳川軍に備えるため、南の二郭から築いていたのだろう。
主郭の北側は広場のようになっており、八ヶ岳が綺麗に見えた。

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歩き倒した日は銭湯。
古事記にもそう書いてある。
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茜雲と鳶
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小田原城

後北条氏の本拠地で難攻不落の巨大城郭。
元は豪族の居館があった地だそうだが、北条早雲こと伊勢宗瑞が攻め取って城郭化していき、自称北条氏の自称2代目北条氏綱が本拠地をこの場所に移してから拡張していき、やがて総構えの巨大な城になっていったようだ。
3代目の氏康の頃には後北条氏は関東の王者として君臨したが、上杉謙信の関東遠征や武田信玄の小田原攻めなど何度も危機を迎えながらも籠城策で耐えきっている。
後北条氏最期の戦となった豊臣秀吉の小田原征伐でも、豊臣軍は全国から集まった大軍を擁しながら小田原城は力攻めせず、周囲の城を落としながら石垣山城をつくって士気を挫き、降伏に追い込む方法をとった。

現地で観てみると小田原城は城というより、城塞都市だ。
現地で小田原の街を歩いて回ると、ところどころに総構えの遺構があることがわかる。
かつては街全体が土塁と堀で囲われ、何年包囲されようと城の中で生活ができるような都市だったそうだが、実際にその規模を見れば確かにと納得してしまう。
建築物は明治期に一度すべて破却されたため、天守や門などは復元されたものだが、総構えの堀跡のあたりから天守の方を観るとその小ささ、遠さに驚いてしまった。
当然すべての遺構は回りきれなかったので、再訪しなければ...

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安田氏館

源平期に活躍した甲斐源氏の安田義定が館を築いたという伝承の地。
義定は源清光の息子で武田信義や加賀美遠光の弟とされる。
源頼朝は平氏打倒の兵を挙げるも石橋山の戦いで敗れてしまったが、甲斐へ攻め込んだ平氏の軍勢を義定を筆頭とする甲斐源氏の軍が迎撃して打ち破り、それ以降は義定は頼朝側に立って多くの合戦で活躍した。
しかし鎌倉幕府が開かれると、他の甲斐源氏の有力武将と同じく頼朝によって粛清されてしまったそうだ。
その後は安田姓は武田氏の名跡のひとつとしてしばしば用いられたようで、甲州征伐で武田氏が滅んだ際は、武田信玄の六男安田信清が同盟相手の上杉領まで逃げ延びて武田姓に復し、上杉家臣として武田氏の血脈を残した。

かつて館が築かれていたとされる場所は現在、安田山西願寺という寺院になっている。
現在は館の遺構は全く無く安田山という名にのみ、面影を残している。
歩いて30分ほどの距離にある神龍山雲光禅寺という寺院には義定の一族を弔う五輪塔があり、これを墓所とする石碑もあった。
安田氏が周辺に大きな影響力をもつ一族だったことが感じられた。

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駿府城

徳川家康が隠居の地として選んだ城。
元々は今川氏の本拠今川館があった駿府の地に、甲州征伐や本能寺の変を乗り越えた家康が築城したという。
その後、家康は小田原征伐後に関東に移封されたため一度は駿府を離れるが、関ヶ原の戦い後に江戸幕府を開いたのち、将軍職を秀忠に譲ると駿府を居城として再整備し大御所政治をした。
その時に築かれた天守台は大坂城や江戸城より面積が大きいため、かつては巨大な天守閣がそびえていたといわれていて、東海道を江戸へと向かう西国の大名たちは必ず駿府に立ち寄ったそうだ。

現在は櫓や枡形虎口の櫓門が復元され、その威容の一部を体感できる。
石垣の積み方も様々な種類が観られるうえ、天下普請の際に刻まれたであろう刻印入りの石も散見され、石を観るのも楽しくなる城。
今は天守台の発掘現場を見学できるようになっているが、今年の年末に閉鎖されて新たな野外展示施設が整備されるらしくそれもまた楽しみだ。

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深草館

深草城とも呼ばれる。
谷戸城の近くにあり、谷戸城を築いた源清光の居館だったとも、その息子の逸見光長が支城として築いたともされる。
戦国期には逸見氏の支流堀内氏の堀内下総守と息子の堀内主税助が主だったそうだ。

谷戸城の近くにあったものの行ったことがなかったが、最近は熊もよく出るし山城攻めを諦めて深草館を観てみた。
まず、館跡の周囲をぐるっと小川が囲むように流れていて、天然の水堀になっている。
そして丸太3本を束ねた橋が架けられていてそこから登城するのだが、その丸太は朽ちかけており、束ねている針金も完全に錆びている。
一歩ずつ歩くごとに丸太が大きく歪むような感覚でビビり散らかしながら渡りきると、土塁で囲われた曲輪に到達する。
かつては3つの曲輪に分けられていたそうだが、現在は土塁が一部破却され曲輪は2つになっている。
とはいえ残っている土塁自体は立派だし、元々ひとつの曲輪を土塁で分けるやり方は周辺の笹尾砦などにも見られるため、武田流築城らしい雰囲気がある。
また、周囲を囲む小川のおかげでシンプルな構造ながらも防御性を感じられたし、木々の隙間から観る八ヶ岳も綺麗だった。

帰りにもまた、朽ちかけの丸太橋を渡らなければならないという事実は横に置き...

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川田館

武田信虎が躑躅ヶ崎に館を移す以前に使われていた館。
信虎の祖父信昌が築いたとも信虎が築いたともいわれる。
背後にある大蔵経寺山の山頂付近には新城と書いて にいじろ と読む城跡があり、詰城と思われるが史料的な裏付けは無いようだ。

現地には解説板こそあるが、館の遺構と思えるようなものは特に見つけられなかった。
ただ、かつて館の堀に水を引いていたという用水路があり解説板もあった。
それによれば用水路の水を三つ又に分けて、そのうち2本を館に取り込んでいたという。
当時は水源の奪い合いで村同士が抗争することもあったらしい、ということを考えるととんでもないやつに思えるが、それだけ武田氏が直接的に地域を支配していたということなのだとか。

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山中城

日本一ワッフルな城。
後北条氏は小田原への西方からの脅威に備えて、箱根十城と呼ばれる支城群を築いていた。
その代表的なものがこの城で、後北条氏の築城技術の集大成ともいえる見事な城となった。
この城が実戦で使われたのは豊臣秀吉による小田原征伐のときで、圧倒的な大軍を擁する豊臣軍は6万8千といわれる大兵力で力攻めした。
僅か3千ほどで籠る北条氏勝らの率いる城兵は頑強に抵抗し、攻め手の将でも一柳直末が討死するなど激しい戦いとなったが、物量差は抗しがたく結局わずか半日ばかりで城兵は壊滅した。
北条氏勝自身は辛くも脱出し、玉縄城に再度籠ったという。

現在も遺構は綺麗に管理されている。
障子堀や畝堀と呼ばれる、技巧的な後北条氏特有の空堀は芝で覆われ、夏は特に美しい。
天気が良ければ富士山まで見えるそうだが、何回か訪れているものの一度も見えたことが無い気がする。
売店ではワッフルを売っているが、結構売り切れ率が高いと思う。
この城に行くと買いたくなってしまうのは私だけではないようだ。

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浅羽館

平安時代後期から鎌倉時代あたりにかけて、現地の荘園を統治していた豪族の浅羽氏が築いたとされる館。
室町時代までは現地の領主として活動したようだが、戦国時代の終わりとともに帰農したそうだ。

かつては土塁で囲われた大きな居館だったようで、郷土資料館の展示によればまだ土塁がいくらか残っているそうだが、周辺を少し歩いた感じではよくわからなかった。
改めてネットで調べてみたところ、やはり昭和の頃には土塁が残っていたらしいが、現在は無くなっている可能性が高そうだ。

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遠江 岡崎の城山

岡崎城とも呼ばれているが、現地の看板や郷土資料館の表示に従っておく。
馬伏塚城の近くにある台地の先端部に築かれたもので、規模は小さいため砦といったほうが自然な気がする。
徳川家康が高天神城を攻略した際に高天神六砦をはじめとして多数の城や砦が築かれたが、その頃に築かれたもののひとつと考えられている。
当時の周辺は湿地の水辺だったようで、水上輸送の拠点だったと推定されるようだ。

2つだけの曲輪で構成されたシンプルな縄張りで、尾根筋は堀切で断ち切られている。
二の曲輪は小さな神社になっていた。
本曲輪は土塁と空堀で囲まれており遺構はよく残っているが、かなり竹藪に覆われていた上、周辺はマムシが出るらしくあまり深入りはしなかった。
こちらも郷土資料館に高クオリティのジオラマがあった。

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馬伏塚城

馬伏塚で まむしづか と読むらしいが、初見ノーヒントで読める人はいないのでは。
築城者や築城年代は明らかでないが、信濃小笠原氏の庶流で今川氏に仕えた遠江小笠原氏が治めていたようだ。
今川義元が討死して今川氏が没落すると徳川氏に仕え、徳川期には対高天神城の拠点として改修されたそうだ。

連郭式の城郭だった遺構は町の中に溶け込むように点在していた。
主郭だった場所には小さな神社があり土塁も残っていて、居館域とされる地点には了教寺という寺院があり、かつての城主小笠原氏清とその家臣竹田重右衛門の供養塔があって、居館域の端は高い土塁と思われる藪になっていた。
すぐ近隣にある郷土資料館のジオラマのクオリティの高さも印象的だった。

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久野城

具体的な築城年代や築城者は確定していないが、室町時代に久野氏が築いた城だろうといわれている。
久野氏ははじめ今川氏に仕えていた一族だが、義元が桶狭間で討死して以降は家康に与した。
そして家康の関東移封に従って久野氏もこの城を離れると、代わりに松下之綱が城主になった。
松下之綱は豊臣秀吉が木下藤吉郎を名乗っていた頃、最初に仕えていた人物で武芸や学問を教えた師であるという伝説がある。
松下期の久野城は小規模ながら瓦葺きの天守などを備えた格式高い城郭だったという。

現地で見てみると遺構は綺麗に保存整備され、多くの幟がはためき、コスモスが綺麗に咲いていた。
城全体が小高い丘を利用して築かれており、周囲を見渡せるようになっている上にかつては水堀に囲まれ、その外は湿地帯だったそうなのでなかなかの堅城だったのだろう。

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生煎包というものを食しました。
見た目は小籠包のようで、味は餃子のようでした。
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大倉砦

甲斐国上野原周辺を支配していた国人の加藤氏が築いたとされている砦。
上野原加藤氏は室町期や戦国期に武田氏の家臣として活動していたようだが、元々は甲斐と武蔵の国境地帯にあたる上野原を鎌倉期あたりから支配していたようだ。

現地を訪れてみると、小さいながらも枡形状の虎口跡があったし、主郭の土塁跡もわかりやすかった。
この周辺の砦跡としては珍しく、堀切はひとつも無かったが、代わりに搦手側は高い切岸となっていた。
また、この砦は上野原の加藤氏系城郭の中でも、特に見晴らしの良い立地に位置していて、晴れた日には主郭から富士山もよく見えるらしいが、残念ながら私が訪れた時には雲に隠れて見えなかった。
ただ上野原の市街地や、その先にある相模湖周辺の街まで眺めることができ、国境地帯の砦としての雰囲気を感じることができた。

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川越城

元は室町期に扇谷上杉氏が敵対する古河公方に対抗するため、家臣の太田道真、道灌の父子に命じて築かせた城とされる。
その後、戦国期には北条氏綱が攻略し、後北条氏の拠点となる。
そして氏綱の死後、川越城は扇谷と山内の両上杉氏と古河公方の連合軍が包囲した。
川越城を包囲していた軍勢はおよそ8万6千、一方氏康率いる北条軍は8千ほど。
氏康は軍勢を4つに分けて夜襲をかけ、籠城中の北条綱成も兵を率いて討って出て連合軍を散々に打ち破ったという。
世にいう「河越夜戦」だが、内容は後北条氏が盛りに盛って喧伝したそうで、実態はそこまでの兵力差はなかったともいわれる。
時が進んで江戸時代になると川越藩主の居城として、結城松平氏など親藩や譜代の大名が活用し現在にも残る御殿などが造営されていった。

東日本唯一の現存する御殿建築を有する城で、さすがに御殿は立派なものだった。
ただ、城を観に行く前に川越の城下町に行ってみたが完全に有名観光地化していて、人混みでだいぶ心を折られてしまった。
城跡は大部分の遺構が開発で失われた一方、空堀などの現存遺構もあるようだが、訪問した時にはまだあまり城めぐりもしたことがなかった頃で、ちゃんと観て回らなかった。
次に行くときには観なければ。

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小笠原長清館

信濃守護小笠原氏の初代当主、小笠原長清の居館があったと推定されている場所。
長清は加賀美遠光の次男で、所領のうち甲斐国小笠原郷を相続し、小笠原氏を名乗るようになったそう。
弓馬に優れ小笠原流弓馬術礼法の祖ともいわれる。
他にも三好氏や跡部氏といった有力な武家も小笠原氏の支流だそう。

長清がかつて館を構えていたとされるあたりは今でも小笠原という地名が残っており、館の遺構は何も残っていないながらも現在は小笠原小学校の敷地の片隅に石碑がある。

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方ノ上城

築城年代や築城者は不明で、南北朝期に地元の豪族が築いたとも、室町期に今川氏が築いたともいわれるが定かではない。
今川氏の家督争いである花倉の乱において玄広恵探側の勢力が制圧したが、栴岳承芳側の武将岡部親綱の攻撃で落城したという。
そしてこの戦に勝利した栴岳承芳はのちに今川義元となった。

花倉の乱に登場する城の中でも花倉城と比べてマイナーな印象だったが、実際に行ってみるとなかなか綺麗に整備されていた。
曲輪はさほど大きくないものの堀切は尾根筋に複数あり、かなり防御性を意識したつくりになっていた。
登城路は麓から登山するルートと尾根筋を伝っていくルートの2つがあるが、麓からの登山道の途中にはオオスズメバチの巣があったので、麓から登城する人がいたら気をつけてほしい。
たぶん、あまりいないとは思うけれど。

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花沢城

駿府の西、日本坂を通る街道をおさえるために築かれた山城。
具体的な築城時期は不明で、今川義元の命で築かれましたとも伝わるようだが明らかではない。
花沢城が歴史の表舞台に出てきたのは武田氏による甲相駿三国同盟の破棄からの駿河侵攻が起きたときだ。
本来駿府の西の守りとして築かれた城だがその駿府が信玄の手に落ち、東から来る武田軍を相手に城将大原資良は1ヶ月に渡って抵抗したという。

訪れてみるととても整備が進んでいた。
元々9つの曲輪で構成される城だったようだが、一〜三、五、六、八と6つの曲輪を散策することができた。
縄張りとしては一の曲輪を中心とした曲輪群と二の曲輪を中心とした曲輪群が大きな堀切によって区切られ、尾根伝いにその他いくつかの曲輪が出城として配されるような形だった。
西に広がる焼津の街が良く見え、特に八の曲輪からの景色はとても良かった。

近隣の丸子城などと違い武田式の丸馬出や三日月堀の遺構が無かったため、武田軍に落とされて以降はあまり重要視されていなかったのかもしれない。

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当目砦

甲相駿三国同盟を破棄し、今川領に攻め込んだ武田信玄が、花沢城を攻略後に築いたとされる。
かつての規模はあまり明らかでなく、浜当目にある丘陵地の先端にあった物見ともいわれるし、付近の山も含めて砦にしていた可能性もあるそうだ。

実際に行ってみたところ、遺構はあまり明瞭ではなかった。
丘陵地で現在みかん畑として活用されているあたりが曲輪だったのだろう。
さらに尾根伝いにちょくちょく平地があり、自然地形か人工の削平地か判別できなかったが、仮にいずれも曲輪だったとしたら長大な砦だったのだろうか。

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新スマホのデビュー戦で3城1砦攻めたのでさすがに銭湯の権利は得た。
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私が城めぐりをはじめた頃は、すでに今使っているASUS製のスマホのZenFone7を持ち歩いていたと思う。
ASUS製のスマホを使うのはこれが2台目で、このスマホと一緒に色々な城や城跡をめぐった。

能登七尾城の景色に感動して、苗木城の姿に見入り、高瀬城の七曲がりではへとへとになり、要害山城では岩に落っことして画面を割り、楽厳寺城では雨を浴びて動作不良を起こさせ、板敷渓谷では川ポチャして水没させるなどしたが何やかんや動き続けてくれた頼りになる相棒だった。

いよいよバッテリーの寿命が限界を迎えてきたので機種変することにしたが、ZenFone12を買うほどの甲斐性も無く、ZenFone11のセールにも間に合わないという間の悪さでZenFone系は諦め、ROG Phone8に乗り換えることとなった。

私はずっと連れまわしたZenFone7くんのように、次のスマホも愛することができるのだろうか...?



というわけで機種変するのですが、先に機種変したグラ友さんたちの様子をみる限り、個別メッセージのログは消えてしまうようなのであらかじめ報告しておきます。
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武田信重館

武田氏第11代当主信重が築いた館。
信重の父信満は上杉禅秀の乱で禅秀に荷担して敗死し、甲斐国内は大いに乱れてしまった。
信重自身も剃髪して高野山に入っていたが、鎌倉府が武田支流の逸見氏を甲斐守護にしようと企み、一方の幕府は武田氏を再度甲斐守護にしようとして対抗した。
やがて信重にも白羽の矢が立つが、信重は国人の逸見氏や穴山氏が抵抗することを理由に甲斐入国を拒否していた。
しかしのちに幕府や信濃の小笠原氏、甲斐の守護代跡部氏に支援されて甲斐入国を果たした。
館もこの頃築かれたと思われるが、国内の情勢は未だ混沌としており、黒坂太郎の討伐中に穴山伊豆守により背後を突かれて館は焼かれ、信重も自刃したという。

館跡は現在は六角山成就寺という寺院になっている。
信重の息子信守が父の位牌寺として創建したとされ、境内には信重の墓もあり市の指定文化財に選ばれている。
残念ながら館時代の遺構は何も残されていないようだが、彼岸花は綺麗に咲いていた。

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上田城

元は本能寺の変が起きた翌年から段階的に築かれた城で、以前は真田昌幸による築城といわれていたと思うが、現在は昌幸からの進言により徳川家康が築いたとされているようだ。
その上田城は二度にわたる上田合戦でいずれも徳川の大軍を退けており、徳川軍は昌幸の言うとおりに城を築いたら、その城に籠もる昌幸に二度負けたということになる。
ただその頃の上田城は関ヶ原の戦い後に徳川軍により一度破却されており、現在に直接繋がる城郭は江戸時代に小諸から移封されてきた仙石忠政に再建されたものという。

この城に登城したのも本格的に城めぐりを始めるよりずっと前だった。
その時はちょうど紅葉で美しい姿を観ることができたが、当時は真田丸が放送されていた効果で観光客もとても多かった。
今になって画像を見返すと見事な打込接ぎの石垣だと感じるが、当時はそこまで意識していなかったと思う。
また改めて登城して、しっかり観たい。

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松田城

相模国の波多野荘領主である波多野氏が平安時代末期に松田郷に勢力を伸ばし、やがてその支流が松田氏と名乗るようになって城が築かれたらしい。
ただ具体的な築城年代はわかっていないようだ。
松田氏は戦国時代に松田憲秀が後北条氏の重臣として活躍したが、小田原征伐の際に憲秀とその長男笠原政晴が豊臣軍に内通したことが露見。
政晴は北条氏直によって処断され、憲秀も戦後に秀吉よって切腹させられた。

現在は城域の奥の方、松田城跡の標柱付近にある堀切がはっきりと残っている以外、曲輪の感じがなんとなくわかる程度であまり明瞭ではない。
かつては曲輪を利用し田畑として活用されていたようだが、現在はその大部分が耕作放棄地となって藪化してしまったようで、曲輪に近づくこともままならなかった。

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新発田城

元々の築城は宇多源氏の新発田氏によるものとされる。
新発田氏は独立色の強い揚北衆の中でも特に有力な武士で、一時は長尾氏とも渡り合うほどだったというが、やがて長尾氏に仕えるようになった。
新発田氏の中でも著名なのは長敦、重家兄弟だろう。
謙信の家臣として政戦両略の活躍し、謙信死後に起きた御館の乱でも景勝方について勝利に大きく貢献したが、その時は恩賞を得られずに長敦は失意の中で没し、弟重家は謀反を起こす。
さすが謀反に定評のある揚北衆である。
新発田重家の乱は6年もの壮絶な戦いの末に鎮圧され、そのときに城は破却されたようだが、やがて上杉氏が会津に移されると新たな領主の溝口秀勝が再び新発田城を築城したという。

現在は旧二の丸隅櫓が本丸鉄砲櫓跡に移築されて現存しているほか、江戸時代に再建された本丸表門もそのまま現存している。
他に辰巳櫓と三階櫓が復元されている。
三階櫓は武家諸法度の都合上、櫓と名乗ってはいるが天守閣といって良い迫力で、屋根に鯱が3匹も乗っている独特な形状だった。
また赤穂浪士の堀部安兵衛が新発田藩出身だったようで像が立っていた。

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屋代氏館

屋代氏は河内源氏村上氏の支流で、村上氏の傘下として信濃で長く活動していた。
しかし戦国時代に真田幸隆の調略により、村上氏から離反して武田氏に臣従することになった。
武田氏滅亡後は織田氏、上杉氏とその時々で信濃への影響力が強い勢力に臣従していくが、上杉氏に対する謀反の計画が露見して攻められ、所領を放棄して徳川氏の下へ落ち延びた。
その後は甲斐国内に所領を与えられて活躍しその頃館も築かれたようだが、徳川忠長の失脚に連座して一時所領を失った際に館は放棄されたそうだ。

現状の館跡には土塁が部分的に残っている。
平成後期に発掘調査がされて、元々は高さ5mほどの土塁が120m四方に渡って囲う大きな館で、庭園もあったことがわかったようだが、現在は田畑にするために埋め戻されている。
近隣には屋代氏の武将、屋代勝永の菩提寺である勝永寺や墓もある。

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足柄城

というわけで?足柄城!
元は奈良時代あたりにできた足柄古道を取り締まるため、平安時代に足柄峠に関がつくられたらしい。
室町時代には国人勢力の大森氏によって、その足柄峠に西方を警護するための城が築かれた。
戦国期に入り、後北条氏が台頭してくると大森氏に取って代わって城の改修をすすめた。
特に甲相駿三国同盟が破られて以降、武田氏との最前線の城として重要視されるようになった。
しかし武田氏滅亡後、豊臣秀吉による小田原征伐がはじまると北条氏忠がこの城を守備するが、近隣の山中城が落城したことで戦意を失って小田原城に引き揚げてしまい、僅かに残された城兵はたちまち敗れて落城してしまったそうだ。

現在は公園として整備されているが堀底を遊歩道としていたりと、遺構もかなり残されていて、中でも堀切は見事な深さがある。
一の郭からは富士山がよく見える立地なのだが、私が登城した時はあいにくの曇りで富士山は雲の中に隠れてしまっていた。
今月から御城印が駿河小山駅で販売されるようになったとのことで早速行ってみたが、駿河小山駅から足柄城までは直行だと徒歩2時間ほど、足柄の金太郎伝説に関わる遊女の滝を経由すると徒歩約2時間半ほど。
ギリギリ徒歩圏内か。

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今日は我ながら、なかなかクレイジーな城めぐりになってしまった。
はじめのうちはハンミョウに水先案内をしてもらいながらご機嫌で歩いていたが、だんだん道は荒れていく。
ピンクテープを頼りに踏み跡を探す段階に至って、さすがに分岐を見落として道を間違えたか?と思ったところで目的地の表示を見つけて正規ルートだとわかり、それはそれで驚いた。
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