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ロケマサ37
こないだ山口の赤間神宮行ったのだけども そこで安徳天皇のご冥福をお祈りしたあと 偶然にここの神社に来たのは なんだかおぼしめしだなぁ
以下八百富神社ホームページより
八百富神社は、「竹島弁財天(市杵島姫命)」をお祀りしております。
八百富神社は、安徳天皇の養和元年3月18日(1181)の創建と伝えられています。これは、1145年三河国司の三河守となった藤原俊成卿が、在任中に未開だったこの地の開拓に当たられた際、風光明媚で江州竹生島によく似ているこの島に竹生島弁才天を勧請せられたことから始まったとされています。常に清波に島脚を洗われ、自ずと禊ぎ、不浄を近づけないようで、真の霊境との名の通りであり、養和(1181)の頃俊成が当社奉斎の神境に定めました。
「江州竹生島弁財天を勧請した際、雑木林におおわれ竹がなかったこの島に、竹生島の竹を2本根こそぎ持ってきて、ご神体として植えた」との記述もあり、そのことから『竹島』と名付けられたとも伝えられています。(「竹島縁起」元文元年(1736)仲夏書)
慶長5年6月(1601)、徳川家康公が会津の上杉征伐に向かう途中船で竹島に着き、郷士である内田弥右衛門義隆が沢山の蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があります。その際縁起が良いとたいそう喜ばれ、その後竹島に参拝されたと伝えられます。このことからもわかるように、この地は海上交通の港場でありました。その後歴代の将軍たちもこの地に船を命ずることが度々あり、その間当社と徳川家との関係は深く強くなっていきました。
以上八百富神社ホームページから
江の島もそうだけど 島の神社と市杵島姫様(弁天様)はつながりがあるなぁ
江の島もそうだったし
市杵島姫様にやたら好かれてるロケマサより
#神社










甲斐性無しの甲斐の人
いよいよどの城を投稿したことがあるのか把握しきれなくなってきて、逆神経衰弱をやっている感覚になってきた。
忍城は成田氏に築城されたとされる関東七名城のひとつ。
『のぼうの城』のモデルになった城。
豊臣秀吉の小田原征伐のときには後北条氏側の城として、石田三成率いる軍の水攻めを受けたが小田原城の降伏まで耐え抜いた。
遺構としては土塁や堀が残っている他、博物館に併設された展示室兼展望台として御三階櫓が再建されている。
城の近くの店でゼリーフライを食べた記憶があるが、もう何年も経つので店の名前は忘れてしまった。
#一日一城








ひな
常設展示で600円だったからどれくらいのものかなぁと思って入ったら1~6館まで見れたのだけど(5はリニューアル中でした)、1の縄文時代からかなりの情報量…[ほっとする][ほっとする]
飛鳥文化の辺りで男の人が日本列島の北と南から漢民族と朝鮮の人が入ってきたのが日本人みたいに言ってて、姉が「?」って顔をして義兄が首を振りながら「後で話すね」って先に進んだ時が面白くて[泣き笑い][泣き笑い]
日本列島に人が入植したのは紀元前4万年で、紀元前100年位に弥生人が大陸から来て(この時猫が大陸から日本に来た)混ざった人達も居て、3世紀頃に魏って言う国の人が皇帝の命令で今の韓国のソウル辺りを調査した時についでに日本列島の近畿か九州で確認したのがこの人達。倭人や倭奴って呼ばれた人達で、実は卑弥呼って言う名前も魏の国の人がつけた名前で実際は不詳らしいのです[目が回る]
アイヌ民族もインディアンみたいに~族って言うアイヌって名前で一括りだけど、実際はもっと沢山の文化があったらしく、北方のアイヌの人の顔が一部ロシア系だったと言う話まで聞けて面白かった。蝦夷征伐とかクマソ征伐と言うのもそういうことらしい…んんん
で‼️博物館が1500年代から江戸時代に行く辺りで今度は私と同じ位の女の人達が「こんな生活だったんだ、でも税金なくて良いよね。」みたいな話をしてて、義兄が展示物を見入るみたいにしゃがんで
「年貢ゥウウウ…‼️[疑っている]」
ってなってて笑った[大笑い]これは私でもわかった
それから黒船来航から開国辺りの物流を見て、1930年頃のアジア情勢の説明不足に、1900年にあった義和団事件と言うのが大きく流れが変わった要因だって義兄が解説してくれて、多分すごくお値段以上にお勉強出来たような…歴史って面白い[大笑い][大笑い]
実際の歴史よりガンダムの歴史の方が詳しい人居るよねみたいなお話をしたら、実際の戦争のあらましは大体ガンダムで扱っているからある意味プロパガンダに利用されない意味でガンダムに詳しければ良いまであるって言うのが今日の格言[ほほえむ][ほほえむ][ほほえむ]
たまかしわ〜
全国にある住吉神社の総本宮
この神社で祭神である住吉三神を祀ったことで神功皇后は三韓征伐を成し遂げたとされる。
想像以上に大きくて建物一つ一つに格式の高さが伺える。







ぱんの
何してないならガクガクになるか回線落ちマンがお気持ち連発するかだけど果たして
東雲

ヂゅん

の

甲斐性無しの甲斐の人
後北条氏の本拠地で難攻不落の巨大城郭。
元は豪族の居館があった地だそうだが、北条早雲こと伊勢宗瑞が攻め取って城郭化していき、自称北条氏の自称2代目北条氏綱が本拠地をこの場所に移してから拡張していき、やがて総構えの巨大な城になっていったようだ。
3代目の氏康の頃には後北条氏は関東の王者として君臨したが、上杉謙信の関東遠征や武田信玄の小田原攻めなど何度も危機を迎えながらも籠城策で耐えきっている。
後北条氏最期の戦となった豊臣秀吉の小田原征伐でも、豊臣軍は全国から集まった大軍を擁しながら小田原城は力攻めせず、周囲の城を落としながら石垣山城をつくって士気を挫き、降伏に追い込む方法をとった。
現地で観てみると小田原城は城というより、城塞都市だ。
現地で小田原の街を歩いて回ると、ところどころに総構えの遺構があることがわかる。
かつては街全体が土塁と堀で囲われ、何年包囲されようと城の中で生活ができるような都市だったそうだが、実際にその規模を見れば確かにと納得してしまう。
建築物は明治期に一度すべて破却されたため、天守や門などは復元されたものだが、総構えの堀跡のあたりから天守の方を観るとその小ささ、遠さに驚いてしまった。
当然すべての遺構は回りきれなかったので、再訪しなければ...
#一日一城









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