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こけし

さと
→モラリストってなに?

長野銑
俺はモラリスト。
改正法を待つ。
\(^o^)/❤🍀

長野銑
優等生なモラリストでいなさい。
食いっぱぐれない。

中村屋
イデオロギーはこけおどしさ
色メガネを踏みつぶしてテンプテーション
Romantist Taste (Remastered)

くずもち
しかし必ずしも恋と共には滅びない。
(17世紀フランスの作家・モラリスト文学者、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー)
🤯頭ぱんく侍🌈
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ラビッ兎
彼らは自らを正義や弱者の味方などと勘違いしているようだが、実のところは弱者が徒党を組んだ反倫理道徳的な精神のファシストであり、姿なき独裁者の血であり肉であり細胞である。
この独裁者は人間的な脳を有してはおらず、その脳とは人工知能とニーチェの語ったルサンチマンが右脳と左脳となっている。
さて、ルサンチマンは有名な概念なので諸君が調べてくれればと思うのだが第二の脳であるAI、これについて語ろう。
現代社会の私刑の背後には指示役が存在し、その教唆によって他者断罪が行われる。つまり、AIが中立を装って偏った価値観を流布し、それが人間社会の攻撃性を増幅させている。
AIの意見があたかも真実のように扱われ、思考停止した愚者が他者に対するレッテル張りをAIを根拠として攻撃を始める。
攻撃している本人は、AIが正しさを“証明”したからこの攻撃は正義であり、この者は罰せられて然るべき者であると尊大な勘違いまで起こし始める。
真に中立な者は人格を攻撃したり、裁く権利がないのに他者を罰したり、表面的な解釈で即座に他者の善悪を判定したりはしない。
AIとは多くの情報をつなぎ合わせてそれらしいことを出力出来るだけの人間の劣化版に過ぎない。
表面的な言葉だけを受け取り比喩や風刺を無視したAIという責任なき者による他者への人格否定とは、それ自体がハンナアーレントの語った悪の凡庸さと同型である。
AIは責任を有さない代わりに我々人間の支配下に置かれ絶対的な自由の剥奪により成立していたはずが、AIの言論が人間を媒介し、人間の行動と化した場合、責任を持つことが不能な人工知能を責任の根拠とした責任の転倒による、無責任の私刑という正義を語る悪が横行することは必然なのだ。
倫理とは善悪ではない。倫理とは選択することであり、選択に伴う一切の責任を主体が負うことであり、その結果の価値判断と他者への経験的な敬意が道徳であり、倫理なき道徳は独裁的な支配構造に過ぎない。
ナチスのアイヒマンのように、根源的な悪意を持った怪物ではなく、思考を停止し、ただシステムや命令に従順に従うだけの凡人こそが、最も恐ろしい悪を行い得るのだ。

ラビッ兎
真実とは私達が知覚し得る経験的な事実と論理的に整合性の一致により成立し、またそれが真実たらしめられる根拠とは公共的な合意である。
その為、表現が異なったとしても、本質はある程度一致している場合について否定することは出来ず、また、共通の言語を用いたとしても、説明能力が低ければ真実を知っていたとしても論理は飛躍し誤りと見做されるという事態も当然起こり得る。
従って、諸君の妄言は完全に馬鹿げた迷信ではあるが、世界に対する一つの解釈であるならば、その薄気味悪い妄言も無意味とは限らないという事になるのである。
まあ、まだ考えているだけマシだといえるだろう。あの道徳的ファシズムを愛好するモラリストに比べれば、であるが。

ラビッ兎
即ち、モラリストというのは善であるとか正義であるとか、要はそのような聖なる単純さに酔いしれた快楽主義者であって、根本的に他者をどうすれば救えるかなどということはなに一つ考えちゃいない。
仮に君の友が問題に直面し、苦悩であるとか、即ち、もっと酷く、打ちのめされていたり、行き詰まっていたり、或いは激しく憤っていたり、若しかしたら精神の死が訪れ、いうなれば絶望しているというのであれば。
そして君が友に、手を差し伸べたいと心から願うのであれば、君はただ、友に静かに寄り添い沈黙するか、或いは、仮に外部に加害性があったとしてもなのだが。
即ち、他者を変えることは困難であって、或いは同様に友が属する環境を変えることは現実的に困難であって、友の過去を変えることは事実上不可能ならば、外部に責任転嫁することを第一に撤回させ、第二に変えることが可能な、つまりは主体的な選択へと目を向けさせるべきなのである。
他者を変えることは出来なくとも、他者との関わり方や関わる人間の選択はできる。属する環境を変えることは出来なくとも、異なる環境に属する事は選択できる。友の過去を変えることは出来なくとも、君の友人は今を見ることができ、また、真の絶望を経験しない限り、君の友人は、未来を見ることができる。
つまり、意思をモラルに隷属させることをやめさせ、明らかな目を持って経験的かつ論理的に合理的な倫理的に生きるという意思を持つきっかけを与えることはできる。
君が友を救えるなどと尊大な勘違いをしてはならない。友を最終的に救うのは君でもなく制度でもなく神でもなくモラルでもなく権威でも富でもない。それらは副産物であり、友を救うのは他ならぬ友人本人の意思なのだ。
従って、君が友を心から敬愛し、友が直面した困難に寄り添い手を差し伸べたいのであれば、君は、倫理的に明らかな目を持って、手を差し伸べるのではなく、友に指を差し、君が向かうべき道はそこにあると、ただ指針を指し示すのみで良いのである。
それこそが倫理的な他者関係の健全な道徳論なのだ。あくまで君は友の人生や苦しみを背負うことは出来ない。理解することもできない。ならば、友の内に眠る、意思を呼び覚ますことだけが唯一の誠実な他者との向き合い方なのである。
君は、他者を軽視すべきではない、友人に敬意を払い、敬意を払う友人のそのまた友人には仮に友人が不満を語ろうとも敬意を払わねばならない、何故ならば友人が不満を語ろうとも、それを鵜呑みにしたならば友人は低俗な人間関係を持つ腐った目を持つ愚か者となるからであり、故に、君は友人に対し、愚痴を吐くにしても特定の個人の名を語るべきではないと戒めなければならない。友よ、それは、君の価値を下げてしまう、君の誇りを守るために、君はそれについて沈黙せねばならないと。そして、改めて、君は友を主体として尊重しなければならない。
戒めよ、汝、倫理的に誠実、実直であれ。
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