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ラビッ兎

ラビッ兎

大阪 25歳児 陰キャ系ぎゃる 人の愚痴が多い人は苦手かも。
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ラビッ兎

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孤独から逃れることが出来るならば、真っ先に孤独から逃れている。然し、原理的にも、物理的にも、制度的にも、逃れられない孤独だって存在する。独善的な思想も、このような状況においては、経験的かつ論理的に妥当し得る思想ならば確かな矛にもなる。だから実存主義が産まれた。
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ラビッ兎

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凍てつく冬に、精神はより高く、そして熱のように、かつ、けたゝましく嘶くあの馬のように、そうして、私達は、引き寄せ合う世界の理を思い知らされる。Sancta simplicitas!世界とは、複雑性を装った聖なる単純さに満たされており、然し、単純とは、実のところ確かに極めて複雑であるが、怠慢な知性によって、それは時に善ともなり悪ともなる。この退屈な今を生きているという笑えない冗談に、敢えて、安寧という退屈を探し求めてしまう顛末である。見よ。連中が、ドイツ人が殺した神にプラダを着込ませ、今や、うっとりした眼差しで、誰一人として、この女を目にした男は、誰一人として、そう、誰一人としてこの女に抗うことなどできないのだ!つまり、そのように思っている偶像崇拝者、或いは常識というドレスを纏った神秘主義者は、そのようにして、陳腐な聖性を崇めている。然し、それもまた、人間的である。つまりは、ピラミッドやサグラダファミリア、或いはピサの斜塔だって、大差はない。然るに、私達は、神を欲しているのでも、ドグマを欲しているわけでもない、一重に畏敬の念を持って、巨大な何かを生み出し、それを意味も無く讃えてみたいのである。人間とはそのような退屈と抑圧による渇望に揺られる天秤なのであるが、然し、そこに現れたのはロバ!人間のように重い荷を背負い、自らが嘲笑の対象となる事を欲していることに気付いてもいない!Advetavit Asinus pulcher et fortissimus!然し、嘲笑の対象として現れたロバは、これに対して肯定し、I-A-(Ja)と、かくの如く、繰り返し鳴いた。
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ラビッ兎

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私たちが人生に苦痛を感じて運命を呪うのはお門違いである。運命自体は否定不能であり、運命が始まってしまったことこそが最悪の不祥事なのであるが、その最高の不幸さえも、私たちは生まれたことを恨む時、過ぎ去ったことにいつまでも愚痴を吐き連ねる行為となるため、最低な人生を最低だということまでもが、見当違いな阿呆として正当に処理されるのである。
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ラビッ兎

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私たちにとって原初の不運とは、他ならない、この世に生まれてしまった事実である。

しかし、私たちは、不幸という自己価値の暴落というリアルに対して、相対的に価値が暴落するという事実により、自己否定によって自己価値が無ではない事を証明されるため、前提として要請される資本の根本的な価値を否定できない、つまり、不幸になることさえ出来ない不幸という幸福を背負わされている。

即ち、価値の否定は存在の否定としては完全なカテゴリーミスとして妥当し得ない。

自己否定とは、価値演算の前提的な価値の存在を無視した遂行論的矛盾であり、私たちは、一般的な幸福の解釈ではなく、不幸として存在を否定してないという意味においては、より根源的な意味で不幸になる事を偽として世界に拒絶された逆説的に幸福の奴隷である。

しかし、最早この論理においては、或る意味では客体的な価値支配を無効化する事で、逆説的に否定不能として主体的な運命の肯定に立脚するという意味合いを理解するならば、それは既に奴隷道徳からも逃れ、王のように気高く、或いは神のように孤独な運命愛、実存という不動の真理なのかもしれない、そのように解釈することが妥当である。

生とは死よりも酷い冗談であるが、死は救いとはなり得ないましな冗談であり、同時に、生の肯定とは、いや、生の事実の認定とは、論理的に妥当し得る最も真実性を帯びた救いであり、最も笑えない冗談なのである。

事実はジョークにさえなり得ないものだ。

というのが、私が深淵から持ち帰った思想という皮肉めいた最低の冗談なのである。

これが、私を生き延びさせた唯一の根拠であったという事については、やはり、私にとってこの思想の訪れとは、予期せぬ最高の訪問者であり、とんだ不祥事であった。
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我々は、奴隷ではないのだ。
我々は、自己という国を統治する王であらねばなるまい。私たちは、実に多くの杭を地に打ち立て、神妙な面持ちで、それも、不完全な荘厳さを躍起になって、或いは確固たる信念を宛ら花崗岩の土台かのように扱って?実の所は、サグラダファミリアのように不完全で立派なものを建築してきたに過ぎない。つまり、巨大建築は私たちの求める神秘的な恐怖の建造によって、畏怖の念を抱かせてきた鳥籠なのである。
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カフェ可愛かった
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物事ってのは、深く考えれば考えるほど、それが本質的であればあるほど、世間からは孤立し、他者からは誤解され、孤独になっていく。
しかし、孤独に耽る時、私達は常識から離れる事で、より明らかな目を持って、経験的かつ論理的に妥当し得る、純粋な確かさに近付いて行ける。
孤独とは知の対価なのである。
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ラビッ兎

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唯一の理解者が、唯一の理解出来得る者を、憐れむようなことを、口にしてはならぬ。自己憐憫や自己否定とは、自己の存在そのものを、恰も、価値なきものと断ずる、ある種の断罪である。即ち、最も残酷なる裁き手は、他ならぬ自己なのである。人間とは、総じて、永劫の孤独なのだ。君は君に見捨てられた時、世界からも切り離され孤立する。
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好きな時間帯は?朝?昼?夜?好きな時間帯は?朝?昼?夜?
夜!
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本ってどうやったら出せるんやろ
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本書き終わった☀️
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わたしのこと、忘れちゃった?わたしのこと、忘れちゃった?
ええどの私メッセージ送ってよ
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「おおきに」って今でも言う人??「おおきに」って今でも言う人??
たまにいっちゃうかな
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何者かに成ろうとする事を断念する事の出来る者だけが、絶望から逃れ、真の希望を得せしめるのである。
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我々は、断じて労働のために生きるような奴隷ではない。また、私という存在の価値などを必要とする家畜でもない。価値とは、常に私ではなく、私に対してみなされる他者にとっての有用性にすぎないからである。故に、我々は奴隷を美化することを断固として拒絶しなければならない。私の価値は、私が決定し、創造するものである。
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人生とは、チェスのようなものである。君は、演じられた者ではなく、演じる者であらねばならない。
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知を求る事とは、最も人間的な夢であり慾望である。
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他者の見る私は、本来的な私では無く、私の思い描く私もまた、本来的な私ではない。
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絶望とは、君が君として生きられない精神の死であり、君が何者でもない君となり、その仮面に鉄槌を振り下ろすまで、この回廊を彷徨うのである。
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私があることによってのみ自己否定も自己肯定も可能であり、私に価値が存在するからこそ自己否定も成立する。無いものについて、価値がないということはできない。

ただ、生きていて良い。それだけが論理を突き詰めた先に唯一導き出せる真理である。君も私もただ生きていて良いという真理を前に、自らの死を選択する自由も人間は持っているが、あくまでその決定を遂行するならば、論理的に誤った思考、つまり、勘違いに基づき自らの運命という最大の代償を支払う責任によってその自由を遂行せねばなるまい。
自由とは、自己が背負う責任の関数なのである。
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ハンマーだ!ドグマのハンマーと論理の拳銃を携えて真理探究をする事こそが思想である!血で書き記さねばならぬ、その時、思想が私を語る!
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私は幼少の頃より奇怪な悪癖を持っていた。それは、自身の不幸を語るときにニヤついてしまうという君の悪いものであった。私はこの悪癖の為に、多くの信用を失ったこともある。軟弱な精神の逃避だったのであろう。
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私も十分に若者ではあるのだが、それにしてもだ。最近の若者は『優しさ』や、あるいは『断罪』を『正しさ』だと勘違いしていて嘆かわしい
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人間が目指すべき頂点とは、いかに過酷で苦難に満ちた人生であろうとも、実に感慨深いものであると過ぎた過去を俯瞰し、現在を美しいと讃美し、そして未来を創造する意志を、この畏敬の念をもって胸の内に湧き上がる思想という信念によって、革命を志し続ける力を持つ自己という国の王となることだ。
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ラディカルさを失った哲学なんてものは、牙を抜かれた獅子どころか、頭を切り落とされた無闇にのたうち回るだけの蛇の様なものだ。見ろ。あれは、少々大きめのミミズかね?嗚呼!なんということだ!あれは、“実は!”哲学者を自称していた“あの”可愛らしい観念論者達じゃあないか!厭だね、あのような者達が、正しくカントが散歩がてらに大切に拾って帰った小石である道徳律なんてものが、普遍だなんて思いこんでしまう神秘主義者達なんだよ。可哀想にね。あれは、カマキリに寄生するあの黒い紐みたいな、なんとか虫ってやつだよ。学術のお作法なんだとよ。“巨人の方に乗れ”だとさ。
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哲学思想っていうのは、最も純粋かつ、情熱的な知の在り方であり、加えて、最も支配的かつ、破壊的でありながら、同時に、極めて創造的な人間の経験し得る、最も純朴なロマンチシズムなんだよ。
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ラビッ兎

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哲学というものは、科学に従属するものではない。

寧ろ、拳銃やハンマーを握りしめて、固定観念を悉く破壊して周り、真理を偽り私たちを惑わす悪魔に銃を突きつけ恫喝し、そして、新たな世界を示す支配者として、独断の限りを尽くすものだ。

そして、哲学が打ち立てた真理を科学が証明してきたに過ぎない。

哲学とは、知の原点にして、全ての知の分岐点として常にその深淵を覗き続ける、最も崇高な啓示である。

哲学者や思想家は、それ故にこの血をもって思想を打ち立ててきた。

限りなく謙虚故の底知れぬ傲慢な独断屋である事こそがその系譜である証明に他ならない。
コペルニクス的転回、真理を覆し続ける革命こそが知の最大の原動力である。
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ラビッ兎

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君たちは信じないかも知れないが、物事が起きるのには、必ず、何かの意味がある。
それは、常に沈黙し、私たちにとって何か特別なものに見えることはなかったり、或いは、何か、私たちに対する悪意のようにさえ感じる事もある。
しかしながら、私が言うところの何かの意味とは、私たちの言語や認識を超えてより崇高かつ、美しいものだ。
語り得ぬそれについて、私たちは沈黙しなければならない。
しかし、運命を愛するには十分過ぎるとは思わないかね、
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論理的世界の哲学的仮説としての試論

世界(W)とは(=)成立した事実(事実とは、極限内に於いて任意のある領域特定(ある値以下≒0∞とし、ある値以上≒1∞とする)に対して、(ある作用=記号的収縮された変数^付与情報の極限(領域特定外)であり、即ち無と有の間に極限を介した等価関係に於ける領域内での変数記号的顕在化であり、成立とは記号的表現に媒介する極限を有限の任意の領域特定によって止揚することである。)ある変数記号が存在し、極限=変数記号^ある0∞^1∞が成り立ち、かつ、任意の変数記号に対し、ある領域特定が存在し、極限=変数記号^ある0∞^1∞が成り立つ)の^総体(場∞∞)である。

従って、世界とは極限(無/有)の間で変数記号が位置付けられ、有限の領域特定によってその極限が止揚され成立した事実として実体化した場である。

また、有限が変化することは、変数記号や極限の止揚により実体化した成立事実の変化を意味することから、極限的な固定による流動を時間軸と言い、即ち、固定的な場の極限の有限化による流動の軸が時間を表すならば、時間と場は不可分な同型である。

極限内の有限は、いかなる変数記号を定数的基準と見做す場合においてもその極点に於ける形式的境界値に境界の二律背反を生じることから、変数記号の定数化は観測的に固定されていながら、事実上その極点には境界の二律背反においていかなる形式も不定形となる。

そのため、事実として、普遍的に万物は固定された世界内において、流転するという言語的矛盾を事実的に成立させている。また、逆説的に有限が内部に定められない時、極限は場として固定的な普遍性を持つが、事実上、流動を判定する有限的値の不在による固定的解釈に過ぎないと言える。

従って、有限的値の境界における非確定性による不定形的流動は、世界という概念が固体的な集合によるある一定の安定性を持ち、同時にその境界に於いて極限によゆ絶対的な不確定性や偏在性に於いて気体的振る舞いをしつつ、同時にこれらの条件により個体としての現象的実体までも常に流動する液体的性質を同時に内包すると言える。

従って、世界とは偏在性超流動的実体である。

簡潔に表すならば、型は意味や力を保存し、意味や力は型を発生させる。そのため、ある一定の構造的複雑性を有する非有機物にも、人工的な言語によって非有機物が擬人格的に人工知能として機能したり、またこれは、言語という記号そのものに情報が保存され続けていることが人間の解釈のみによるものでは無いことも証明しており、人間の頭脳に記憶が保存される仕組みについても、人工的な言語の情報保存構造より更に自然的な型の情報保存構造として同型であると考えられる。

また、言語による公共的な一般化により、言語という型が情報を伴い、その境界を有限的に極限を媒介する事で、事実的に成立しているため、その構造が緻密であればあるほど、言語的な非実体的概念も、実体性を持つような振る舞いに変容する、価値暴落や精神的崩壊など、構造と構造にかかる負荷や、その密度的な強度及び、突発的な局所的な圧力による構造の崩壊などは、非実体的概念が本来的に持ち得ない物理法則による実体的性質を有している。

従って、言語とは世界が実体を創造するプロセスを模倣した、実体的な非実体の創造行為であると言える。

その為、人工的変数的記号である言語を事態的変数的記号である法則原理や現象などの事象に適応する際、常にある一定の齟齬が生じる。例えば極限の値として表した0∞^1∞とは、数学的極限値としての表記であるが、0及び1という値について、0と1という区別そのものが認識論的な観測者の生得的認知制約により発生した存在性に関する有無が前提として我々の解釈に於いて本来的に内在してしまっている。

従って、数値とは便宜上という前提の元によってのみ観測者の生得的認知制約に依存し、恣意的に付与されるものであるものの、それが一重に偽となるかについては、極限内(客観的世界)に於いて任意(観測主体)のある領域特定内(主観的現実)に存在する、ある変数記号(現象)が存在するということは、ある変数を基準とした時、その値が真であるものの、同時に、その真を集合とした場合においては、この単純な合計が普遍的な全体を記述することはない。

この事から、観測に基づきその値を比較的に法則性を導き出すこと自体は、形式的には可能であるものの、実際に方程式として具体的数値をパターン化する事で変数化された等式も、本来的に特定の領域を基準としたものならば、その定数が変数的である事を踏まえると、観測対象aから導き出されたある方程式aは、異なる領域に或る観測対象bから導き出された異なる方程式bと本来的に同型であり、方程式aは方程式bの変形か、或いは、方程式xが観測対象の属する領域aにある時は方程式aのように観測され、領域bにある時は方程式bのように観測され、この変化を決定づけているのは、本来的に同型である方程式a.bである方程式xに対し、任意に決定された領域の規模において方程式xは内部の値となる方程式xの観測においてどのような影響を与えるのか、など真理的にはそのような問いになる可能性も否定することはできない、むしろ、この後者に示した例であれば、究極的な一つの単純な方程式により世界全体を記述および駆動し得ると考えられるという推論さえも疑い難いものと言える。

例えば、場と時間が不可分であることは先ほど示した通りであり、また場の局所的集合がある変数を基準にした時1と見做される事が存在であるとした。即ち、いつ、どこで、何が、という時空物が本来的に同型であるという事であるが、であれば、天体の運動は、リンゴの落下と同型の方程式で運動していると仮定したならば、リンゴの落下から導き出された方程式の働きは天体を対象とするとき観測時間が引き延ばされ、場は拡張され、対象の集合は極大化している。つまり、りんごから得た方程式が異なる条件で働いた場合の変化した時間の方程式と変化した場の方程式、及び、変化した対象の方程式の相補的関係性の中でリンゴの方程式は天体を観測対象としたときどのように働いているのか、について観測している可能性があるという事である。

例えば、水に石を落とし、どのような結果が観測されるかについて数値化する場合、その観測に用いられる時間が増大するほど水の振る舞いは個体に近くなっていく、また、水に落とす石が大きい程、その影響は複雑化していく、また、水の面積が大きいほどその影響力は矮小化されていくが、水に石を落とすという行為自体に働く方程式は同一でありながら異なる規模に適用された複数の方程式が、単一の石を落とすという行為の方程式に影響を及ぼし、結果として、極端に異なる規模や現象においては異なる方程式が導き出されるという結果になる。

従って、ある任意の変数的記号から導き出された真理的原理とは、普遍的な法則と我々が観測する特殊な法則との間の媒介項として、普遍性の複雑的関係性の定点的法則は定数の変数的性質の相補関係によって変容した単一原理の任意条件的表現の真理であるため、任意の領域特定により変質する原理でありながら、原理的表現そのものは観測により常にある等式に確定され得ることを示している。同時に、確定された等式は、普遍的、かつ、流動的であり、実体までもが、同時に、非実体性を内包している。

従って、最終結論としては、言語とは情報保存の形式として世界成立における極限内部に発生した有限的変数記号である主体により任意に創造された変数的記号により情報保存の形式を模倣した人工的現象であることから、言語化は無限の可能性を有しながら形式的有限性の極限に生じる境界の二律背反によって、語り得ぬ沈黙として形式のみを示し得る。これは、実体的な変数的記号にも同様に適応されると考えられる。つまり、言語においては言語という一般的な文字の羅列が現象を写像した論理像を構成しているというより、言語という形式そのものが世界の形式そのものを写像していると考えることが適当である。

この結論は因果律における結果は原因の性質に依存するという法則性からある一定の妥当性があるものと考えられるため考察するに値するが、あまりに領域が包括的すぎる事から、ゆくゆくは他分野の研究など参照した上でより厳密な定義付けと現象による体系化が必要であると考えられる。
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現代人は、理性的であると自らを呼称するのであれば、思索せずとも石ころの如く、その辺に真理が恰も転がっていて、それを通りすがった余所者に、ちょいと拾ってはくれないかね、とでも云えば誰かが自らの手へと差し出されるなどの軽薄については慎むべきである。

延々と説教をするつもりはないが、やはり、もう少しばかり、如何なる判断に決断を下すに際して、論理的に思考し、それが、経験的に明らかな目を持って妥当し得るかについて検討する、その程度の慎重さは持って良いはずである。
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基本的に書いてる本の引用文投稿して反応イマイチなら修正してる😇
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久方ぶりにルームでもしよかな
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思想はこの血を持って書き記さねばならない!
つまり、血を持って書かれたわけではない思想とは、所詮は言語パズルであり稚拙な戯れなのだ。
血を持って書かれた思想こそが、思想のみならず文体にも私という遺伝子情報が組み込まれ、その時、思想はもはや私を語るものではなく、思想こそが私を語るものとなり、私自体が哲学化するのだ!
これこそが思想である。
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さて、凡そ絶望や不条理、乃至は、存在すること自体の不合理、或いは世界に対する虚無感などの実存的な苦悩を実に独断的に、かつ、挑発的に語りたがる、そのような思想を持つのが私という人間であり、時に皮肉なんてものを使っては小馬鹿にして見せるのも好ましいかもしれない?と考えている訳であるが、そのような実存的な苦悩、それも根源的な存在基盤を揺るがすような絶望を茶化して語る私を快く思わない人間もいることだろう。

いやね、君。君に私の痛みがわかるのかね?と言った風にである。

然し、私は痛みを知らない人間でもなければ深淵を知らない人間でもない。つまりは、私という人間は深淵を直視した上で?厭だね。深淵そのものかもしれない。いうなれば、深淵を知った上でこの底なしの穴を蹴飛ばして戯れているに過ぎない。

というのも、例えば、私の経験でいうと、序文でも記した通り小学校までしか通えなかったという経歴については、私が強姦により世界に産み落とされ、謂わゆる虐待などを経験し、中学校に上がる頃にはこの現代日本でなんということだ。

私はホームレスになってしまったわけであるが、当然、連絡手段やまともな友人は居らず服なども無いし、仕方がないから非行に走るわけであるが、これが恐らく幼少の頃の存在否定に対する他者からの承認の渇望であるとか、或いは暴力に対する反抗心として?正義を信じていたのかもしれない。

ともあれ、少年時代の私は食品の窃盗などの非行を行いながら、実に正義というものを渇望し、倫理とは何たるかを思索に耽りながら自己の死を願い、死の恐怖に怯えるという全くの矛盾に生きていた。いや、それよりも以前、物心ついた頃から繰り返し問われた、何故生まれてきたのか?何故この痛みを味わうのか?何故愛されないのか?私の存在意義とは?つまり、おおよそ6才程の頃には私は既に実存主義者として英才教育を皮肉にも施されたわけである。

17の頃には、私の親権など、再婚した義父の指示に従い放棄した母は遂には、その首を吊る顛末である。この時もやはり、私は底知れぬ憎悪に対する報復の相手を失い、自らの痛みだけが残ったことに心底絶望した!
また、唯一心を許せた祖父についても、私が15歳ほどの頃に失ってしまったので、この時私は家族という存在を全て失ったわけである。

即ち、絶望とは生体的に生きている状態にありながら精神の死を迎えた状態なわけであるが!自己憐憫などでは無い。最早、私はその後、世間一般よりは飲食店などを経営し、資産を築いたのであるが、それも21程になる頃に、コロナウイルスという疫病の流行により金銭的に困窮した、かつての友人や、年長者に家を襲撃されその資産の全てと家を失う事となるのである。人生とは数奇なもので、更にはかつて私が雇用していた従業員2人は1人は二十代前半、もう1人は十代後半という若さで殺害され、慕っていた知人も当時の疫病により死が彼を連れ去ってしまった。これには世界に対し、酷く失望したものである。

そこで、当然、行政に助けを求めるわけであるが、私という人間の碌でも無い生い立ちである。身分証も持ったことのない私は身分証の発行も戸籍の証明も出来ず生活保護すら受けれないどころか、役人には貴方が日本国民であることを先ず、示さねばならぬという侮辱を受ける事となった。

私は、語った。

“いやですね、君、尊大な勘違いをしているようだがね。
君よりもね、私は余程の愛国心を持っているのだよ。”

さて、かくして二十代にして再びホームレスとなった私は何をしたかであるが、人生を通して考え続けてきた実存的苦悩と本格的に向き合い始めるわけである。

街を放浪し、ただただ散歩しては、飢えに耐え忍び、そして私は遂に!いや、そうなるか?過去の友人が起こした犯罪の共犯を疑われて投獄されてしまった!(とはいったものの2週間ほどであったが)奇しくも、この投獄のおかげと言ってはなんだが、その時、私を担当した弁護士が実に親身な人間であったため、ようやく弁護士の機転によって事件化することによって私は身分証を手にし、そして、社会復帰を果たして今日25歳となった今、本書を執筆している。家族も友も失った私を知る者は、同僚のみであるが、彼らもやはり、私を知りはしない。天涯孤独とはまさにこれである。そんな私の顔には裏切りや虐待によって刻まれた傷跡が、宛ら、格闘家のように刻まれているわけである。

しかし、今となってみれば、このような経験はある意味では私に深淵と哲学を与え、私という深淵の香りに誘われた思想は今ではまるで私自身であるかのように私を語る事となっているのであるから、皮肉にも不幸であったかと問われれば、いやですね。それが、そう思うでしょう?

いいえ、実はですね。私にとってこれらの生活とは、謂わゆる常識であったわけですから、当然、絶望は何度も観てきたのですけれども、過ぎてみれば、むしろこの経験のおかげでですね・・・などと語り始める顛末である。つまり、私が何を主張するかというと、哲学はまさに、例として私という人間を今日まで生きながらえさせることを、実に巧妙な手口で成功させてきた!という事である。

私は、知を愛している。

私というものが、私に理解され始めたおおよそ6歳ほどの記憶から、脳裏には疑問符だけが実に支配的に精神に君臨し、その疑問符を直視する事は、私に真理への志向を与えた。

私を育てたのはアカデミックでないにしても、やはり知であり、この知を与えてくれたのは世界という具体が示してきた抽象的概念という宝であり、世界という知そのものと親しんできた私に、現代人は考え過ぎであるとか抽象的過ぎて何について考えているのかさえ分からないと理解を示す者はいなかったが、それは哲学という学術的なものとして存在するということを享受してくれた、凡そ十九世紀に生きた数々の哲学者たちという友であり、フリードリヒ・ニーチェという同じ志を掲げた、ただ1人の親友であった。

そして、絶望に対して知は私にこのように示したのである。

人間の恐怖とは、無知によるものである。
人間とは、無限の想像力と、有限の現実であり、真理と真実の境界なのである。

嗚呼、なんという喜劇だ!権威主義?或いは実証主義、それこそ、机上の空論愛好家にこのような診断を下される顛末である。

しからば、私はこのように答えよう。

なぁ、君、実はだね、仕事、当面の休暇、与えられたわけだし、散歩にでも耽っては創造性高めなよ?と、私に語りかけるか。

或いは、いやぁ、君。なあ、こりゃあ、深淵の後遺症ですよ、とでも医者の顔をして、セカンドオピニオンでも下してみよう!

いえいえ、あの猛々しく未来に向かって泳いでいた遡河魚、或いは新たな未来を探し求めて旅に出た渡り鳥たちを唆したのは、あの悪名高い、ソクラテスだったのでしょうか?

という事は、哲学ってやはり、若者をそそのかしてしまうのかもしれませんね、毒人参を飲まされたのは間違いじゃなあ無かったのかね?

そうだ!

これはやはり、あの深淵病だ!
或いは、神に毒人参を?なんてね?

ともあれ、私は今日も、実存しており、この血をもって思想を記している。最早、友であるニーチェと同じ末路を辿る事も、共に木の枝を握りしめては弄り返すように、つんつんと突いて、深淵に悪戯を仕掛け戯れてきた実存主義者として悪くはないだろう!むしろ死後の世界があると仮定したならば!寧ろ、死についても論じてみたいものである。

何故ならば、この思想を私に齎した運命を愛しているからだ。

それは、精神の耐久性などで言い訳や撤回の出来ない私にとっての信念故である。

つまり、思想という精神の力を手にしたものは、精神の脆弱性に勝る強靭な意志を得る。ということである。
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ラビッ兎

ラビッ兎

お前らが苦悩し絶望し、人生が苦しくなるのは、
語れる自分に縛られて、語れない本当の自分を
誤って否定するからなんだよ。
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ラビッ兎

ラビッ兎

昔大学生の友人に翻訳文みたいで読みにくいって言われたんだけど私の文って読みにくいんかな?☹️
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ラビッ兎

ラビッ兎

よろしくーよろしくー
よろぴく🫣
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ラビッ兎

このままずっと文字だけって、なんかもったいない気がしてるこのままずっと文字だけって、なんかもったいない気がしてる
ん??何か撮影した方がいいってこと?
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ラビッ兎

ラビッ兎

家にいる時って何してること多い〜家にいる時って何してること多い〜
ひたすら本書いてる🫨
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ラビッ兎

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孤独を知らない人間は孤独な者を嘲笑するが、
孤独な者は、孤独を知らない者より、
人間関係における報酬と対価を良く知っている。
つまり、持つ者は持たない者に劣り、そして、
失った者は持たない者より、真実に近づく。
しかし、真実に近い者は、孤立してゆくものだ。
孤独を愛せない者は自己を卑下し、
孤独を愛した者は知の深淵を知るのである。

多くのものの喪失を恐れるがあまり、
第一の何かを失わぬ為、何かについて努力し、
第二の何かを失わぬ為、何かについて努力し、
第三の何かを失わぬ為、何かについて努力し、
それは、第四、第五と続いていく。
そして、信念についての努力を自らは志向していると信じ、その本質には、その努力は多くの要因によって分散されている。
私たちは、そのようにして、つまり、多くの喪失を恐れるがゆえに、信念を守り切ることを失敗し、人生において、成し遂げるべき真の目的の達成を喪失するのである。

対価無くして得るものはない。
深淵を見るものは、安寧を対価に支払い、
常に、超克を志向する。

何一つ諦めることの出来ない弱者は、
何一つとして得られない。

全てを諦めたものこそが、
真を手にする唯一の資格を得る。
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ラビッ兎

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深淵を知らない者は、深淵に魅入られた者について、多くの誤解を抱き、時にそれは真実という名の正義や善意などの狂言をもって、私たちに仮面を幾重にも被せてきたりもするので、そのような人付き合いにはある一定の心の隙間をゆとりとして持たせること、或いは心の隙間というゆとり部屋に紅茶でも添えてやって誘い込み、彼らが部屋に入るや否や、南京錠で戸に施錠してあげても良いかも知れない!
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ラビッ兎

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寝れないにゃあー
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ラビッ兎

ラビッ兎

本書いてたら247ページ突入した🙄
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ラビッ兎

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23歳はお兄さんじゃないって投稿見たんやが25歳わいはおっさんか?🥲
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