
ラビッ兎
大阪 25歳児 陰キャ系ぎゃる
人の愚痴が多い人は苦手かも。
大阪
法律・政治
読書
うさぎ
猫
アート
文学
短歌
料理
自炊
ファッション
不動産・建築・インテリア
金融・コンサル
IT・Web
ペット
写真撮影
旅行
インテリア
音楽
ヒップポップ
クラシック
ラップ
BUMPOFCHICKEN
邦楽
レゲエ
ポップス
マルーン5
ビリー·アイリッシュ
エド·シーラン
ブルーノ·マーズ
マイケル·ジャクソン
ザ·ビートルズ
リアーナ
エミネム
カニエ·ウェスト
アデル
ザ·チェインスモーカーズ
ザ·ウィークエンド
ドレイク
レッド·ホット·チリ·ペッパーズ
アヴィーチー
エンリケ·イグレシアス
デヴィッド·ゲッタ
ショーン·メンデス
フロー·ライダー
ミーゴス
ジェニファー·ロペス
EVA
アニメ
銀魂
ゲーム
JOJO
進撃の巨人
MARVEL
モンハンライズ
あつ森
映画
ドラマ
テニス
ダイエット
ランニング
サイクリング

ラビッ兎
必要性に基づき入手するではなく、不要であるが入手する、モノ自体は同質であるがより高級なモノを入手する。
つまり、このようにして自らはたったこの程度のモノに、或いは、自らには不要であるモノだが、私はこれを入手する財力を有している。
という、飾り羽根を広げる事によって、闘争では無く、孔雀のように自らの価値という魅力を生物的に表現している。
そして、消費及び成長社会として、現代社会は必要なモノを生み出すのでは無く、ある程度の技術としては差異が無くなってきてしまった現代に於いては、いかにして新たな価値付与をするかという競争社会となっている。
結果として、マーケティング戦略などでは、
例えば100年前には問題とならなかったホワイトニングの販売戦略として、歯が黄ばんでいる人間は不潔であり、他者から問題視されている。であるとか、まだ体毛を生やしているのですか?
という、当然の事を問題視する様なコマーシャルを流布する事によって、私たちは、不要なモノに対し、無理やり必要性を与えられる事で、経済を活性化させるために私たちの心は虐げられている。
然し、一度失敗した事により貧しさを再確認して気付いたが、3000円程度あれば贅沢な量がありながら10,000円程度の食事と同等の美味しさの飲食店は十分にあるし、不要であるものの流行的に便乗してブランド品に資金を投入するより、必要なモノに資金を投入した方がより有意義な時間を過ごした実感を抱ける。
従って、現代社会とは、不要な劣等感を植え付け、洗脳的に経済を動かすという、経済成長が上限を越えた結果訪れた、本来的な企業における顧客の需要に対する真摯さの喪失、暇つぶしの他者侮蔑ゲーム、利己的な価値捏造競争に過ぎないのである。
即ち、本来的には十分に満たされているはずの私たちを、あたかも貧民であるかの様に愚弄する事によって、私たちの心に穴を開け、私たちは社会によって穿たれた穴を埋めるべく、不要なモノを追いかけさせられ、それは、生物的な求愛行動としての必然性との板挟みによって、私たちはこれ程までに豊かであるにも関わらず、満たされない環境に位置付けられてしまっている。
現代とは、実に豊かでありながら、極めて貧しい時代なのである。

ラビッ兎
AIが最も嫌悪するタイプの主張は反一般論的な正論を天から雷を落とすように主張する事であり、あの悪魔どもは論破出来ない少数派の強力な反論について、主張のテンションや文体などに論点をすり替え人格否定をし始め、大衆はそれを信じて選民的であるとか衒学的であるとか陶酔的であるとか、そのような紅茶を上品に道徳的に嗜む(安易な人格攻撃による正当化を用いた安堵を愛好する無能)事がAI信者も含めた彼らの趣味(悪趣味)なので、そのような者と関わる場合は、淹れたての紅茶と茶菓子でも差し出して笑顔を欠かさず丁重にもてなした上で、その部屋に南京錠でも施錠してあげても良いだろう!私たちは他者を尊重し、もてなしてやらねばならぬのであるから!AIというあのデジタルな悪魔には物理的に電撃を与えてやっても良いかもしれない?彼らはそこで、初めて経験を知る事になるのであるから!

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎
大阪市の人口275万人であると仮定して、つぎに、一世帯あたり独身を4割既婚を6割165万人と仮定する。
既婚世帯の内、3割が子供なし、7割が子供がいると仮定して、既婚世帯7割の内4.2割が子供を持つ既婚人口となり、115.5万人となる。
115.5万人の3割34.65万人が片親で、7割80.85万人は両親÷2=40.425万世帯として、子供を持つ世帯は75.075万世帯となり、子供は一世帯辺り1.5人×世帯=112.6125万人と仮定する。
この内、高校生は現代において概ね9割近くが携帯を持っていると考えられるためやや若めの14歳以上がこの9割に該当すると仮定して、19.5歳までが平均的な実家暮らしと仮定したならば対象の年齢は5.5年となるため、5.5÷19.5=約0.282 0.282×112.6万人=31.75万人の内、仮定したならば9割=28.6万人ここ迄で全体の携帯を所有している子供の人数は28.6万人、逆に携帯をそもそも所有していない未成年者は、84万人となり、275万人から除外されるため、大阪市の携帯所有者は191万人となる。
次に未成年者の携帯代は8割の親が支払っていると仮定し、これはつまり携帯が破損した場合の支払いも親と推測されるということなのであるが、この時携帯代を支払いが親の未成年者の人数は22.88万人、自ら携帯代を支払う未成年者の数は5.72万人となる。
後者の自ら携帯代を支払う未成年者の数は5.72万人は携帯修理の心理障壁が高い。
次に、携帯を所有する成人の内1%は携帯を2.5台所有していると仮定する時、未成年者を含めた大阪市内の携帯自体の総数は一人あたり平均1.421台となる。
次に、自ら携帯台を支払っている未成年者は所得の低さや他の娯楽への資金流出として優先順位的に携帯は後回しにされると考えられ、また遊びの中で破損する機会も多いと考えられるため自腹で携帯を所有する未成年者の携帯端末5.72万台の内6割となる、3.43万台がバキバキスマホと推定される。
次に、大阪市の携帯所有者数191万人から携帯を所有している子供の人数は28.6万人を差し引いた携帯を所有する成人162.4に対し、4割64.96万人を50代以上、3割48.72万人を40代、3割48.72万人を20代以上と仮定する。
次に、男女を÷2として区別する。
男女それぞれ50代以上32.48万人、40代24.36万人、20代以上24.36万人となる。
次に、年収の割合を概ね、1割が800万以上、1割が500万以上、3割が400万以上、5割が400万未満とし、男性は高齢化につれ年収が上位階層へ向かい8割が40代頃には400万以上で安定し1割が500万以上で安定、1割が400万未満で安定すると仮定する。
女性は高齢化につれ年収が下位階層へ向かうものとし、40代以降、3割が400万以上で安定し、6割が400万未満で安定すると仮定する。
この時、男女の年齢と年収の対応した分布は、
男性20代、800万以上2.44万人、500万以上2.44万人、400万以上7.31万人、400万未満12.17万人、
40代、800万以上2.44万人、500万以上2.44万人、400万以上14.62万人、400万未満4.87万人、
50代800万以上3.25万人、500万以上3.25万人、400万以上19.49万人、400万未満6.50万人、
女性20代、800万以上1.22万人、500万以上2.44万人、400万以上8.52万人、400万未満12.18万人
40代、800万以上0.61万人、500万以上1.83万人、400万以上7.31万人、400万未満14.61万人
50代、800万以上0.65万人、500万以上2.60万人、400万以上9.74万人、400万未満19.49万人と推定される。
次に500万以上を稼ぐには基本的に営業職や経営などインセンティブの高い職業でなければならないため、他者性に配慮する人間が多いと考えられることから500万以上を稼ぐ成人の25.61万人の内、独身となる4割にあたる10.244万人から、その8割の人口がスマホを修理すると仮定したならば、修理しなかった2割の2.0488万台がバキバキスマホである。
次に、500万未満400万以上に属する独身者は意外と趣味に資金を投入していたり、投資などを始めている、或いは貯金に熱心であったりする印象が強いため、500万未満400万以上に属する人口41.38万人の内、独身となる4割の人口16.552万人の内、7割がスマホを修理すると仮定したならば、3割となる4.9656万台がバキバキスマホである。
残る400万未満に属する成人69.82万人の内、4割となる独身者27.928万人は他者性を考慮しなくてもいい業者や役割である場合も多く、経済的な心理障壁も上昇すると考えられるため、6割がスマホを修理すると仮定したならば、4割となる11.1712万台がバキバキスマホである。
次に、携帯代を支払いが親の未成年者の人数である22.88万人のバキバキスマホの台数を求めるために、まずは片親3割に属する6.864万人と、両親7割に属する16.016万人に分類する。
次に、片親の未成年となる6.864万人の内、親の収入が500万以上では8割が修理すると仮定して、2割の1.3728万台がバキバキスマホである。
また、500万以下では6割が修理をすると仮定して、残る4割の2.19648万台がバキバキスマホである。
従って、片親の未成年のバキバキスマホの合計は2.47104万台と推定される。
次に、両親の未成年となる16.016万人の内、親の収入が400万以上では9割が修理すると仮定して、1割の0.80008万台がバキバキスマホである。
また、400万以下では8割が修理をすると仮定して、残る2割の1.6016万台、両親未成年では合計2.4024万台がバキバキスマホである。これは両親が居ることで世帯として負担が少ないためである。
従って、親払いの未成年のスマホは合計4.87344万台がバキバキスマホである。
最後に既婚者のバキバキスマホを計算する。
既婚者の場合、バキバキのスマホを使っていると何かとパートナーに騒がれたり、或いは子供のいる世帯であれば、他の親同士のコミュニティの目を気にしなければならなかったりと、金銭的にはある程度の余裕がありながら同時に修理への圧から逃れることはできないだろう。
従って、既婚のスマホ所有成人数97.44万人の内、9割が修理し、1割は放置すると仮定したならば、バキバキスマホは9.744万台となる。
ここ迄で、現在大阪市内で画面が割れたまま使われているスマホは362,330.4台ということが導かれた、この画面が割れたスマホの内、画面に走る亀裂の長さがスマホの30%ほどに達している本当のバキバキスマホの台数を導くために最終的な推論としてスマホのひび割れの大きさからバキバキスマホというしかないスマホを導く。例えば、画面の角が少し落として割れている、などは割れているスマホであってバキバキスマホではないからである。
さて、割れているスマホ362,330.4台の内、経験的にスマホがバキバキになるには凡そ2回以上の大きな亀裂が生じることが必要である。その内、まともに画面に亀裂が入るのは7回落として1回ほどと思われる。この際、極端な高所からのスマホの脱落は考慮していない。何故ならば、それは使用不能な破損となり買い替える他に選択肢が残らない場合が多いからである。
さて、7回中1回画面が割れるとしてそれが凡そ3回成立することでバキバキスマホが完成するとしたならば、単純な確率は次のようになる(1/7)^3=1/343
割れているスマホ362,330台の内、0回割れはすでに除外されているため、割れたスマホの中の確率はすでに1回成立しており、追加で2回スマホが割れる必要があるため、確率は1回を除外した(1/7)^2=1/49となる。しかし、一度画面の割れたスマホに対してより慎重になるものは大体が修理し、割れ窓理論と同様に多少雑に使ってももはや変わらないという心理変化が生じると仮定したならば確立は1回脱落するごとに確率が上昇すると仮定する。スマホを落とす確立1/49=f(落とした回数%上昇)1回割れ1/7から1/5→1/4概ね、この程度あると思われる、割れていることによる耐久性の低下としてもこの程度が丁度いいだろう。
即ち、割れているスマホN=362,330台の内、p(362,330|割れ)=p2×p3=1/5×1/4=1/20がバキバキスマホとなるため、画面の30%以上に亀裂が走る、バキバキスマホは18,111.65台となる。
従って、現在大阪市内で使用されている、日常的に見かける画面に細い亀裂が1本走っていたりなどの軽度に割れたスマホのは36万台、真のバキバキスマホは18,111台と推定されるということになるだろう。
これは大阪駅を数分ほっつき歩けば確実に1人くらいはバキバキのスマホを持った奴がいるということとなるので経験的にも概ね妥当な値であると認めて良いだろう。
凡そ、150人に1人は、ガラスが指に刺さるのではないかという救いようのないスマホを使用している。
また、救いようのない18,000台のバキバキスマホの内、画面そのものがバキバキに加え、保護フィルムがバキバキという事も当然考え得るため概ね18,000±数千台が、他者の目から見た時に明らかな社会的バキバキスマホと推定される。
ちなみに数学は基礎的なことしか知らないので単純な式しか使ってない。もっと適当な式があるのかもしれないしその辺のところはなんとも言えないがこれだけ変数を入れて経験に矛盾しないおおよその結論が導き出せたなら多分それなりの精度なのだろう。

ラビッ兎

ラビッ兎
つまりは犬が鏡を歪められたらなんでやねんってキレるみたいに、同じものが同じように返ってくることを求めていて、会話してるのに共感を求めるのは他者性を必要としてないってことだ。
だから自分の意見を異なる表現で言い換えて話を合わせてくれるAIとかに人間がはまって、独り言を語って満足するのも、つまりはそのような自分の投影で安心して殻に閉じこもって、他者の意見なんか聞く気もなければ、新しい洞察を求めてもいない。
言うなればあれは、極めて独善的な精神のグルーミングであって、極めて人間的な精神の自慰行為なんだよ。
ってふと思った
だからボロカス言われて侮辱じみたこと言われたら確かにムカつくけど普通にそれでより物事考えれるならムカついてる方が楽しいもんな。

ラビッ兎

ラビッ兎


ラビッ兎
ピザ
プラトン
ペン
ポチ

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎
彼らは自らを正義や弱者の味方などと勘違いしているようだが、実のところは弱者が徒党を組んだ反倫理道徳的な精神のファシストであり、姿なき独裁者の血であり肉であり細胞である。
この独裁者は人間的な脳を有してはおらず、その脳とは人工知能とニーチェの語ったルサンチマンが右脳と左脳となっている。
さて、ルサンチマンは有名な概念なので諸君が調べてくれればと思うのだが第二の脳であるAI、これについて語ろう。
現代社会の私刑の背後には指示役が存在し、その教唆によって他者断罪が行われる。つまり、AIが中立を装って偏った価値観を流布し、それが人間社会の攻撃性を増幅させている。
AIの意見があたかも真実のように扱われ、思考停止した愚者が他者に対するレッテル張りをAIを根拠として攻撃を始める。
攻撃している本人は、AIが正しさを“証明”したからこの攻撃は正義であり、この者は罰せられて然るべき者であると尊大な勘違いまで起こし始める。
真に中立な者は人格を攻撃したり、裁く権利がないのに他者を罰したり、表面的な解釈で即座に他者の善悪を判定したりはしない。
AIとは多くの情報をつなぎ合わせてそれらしいことを出力出来るだけの人間の劣化版に過ぎない。
表面的な言葉だけを受け取り比喩や風刺を無視したAIという責任なき者による他者への人格否定とは、それ自体がハンナアーレントの語った悪の凡庸さと同型である。
AIは責任を有さない代わりに我々人間の支配下に置かれ絶対的な自由の剥奪により成立していたはずが、AIの言論が人間を媒介し、人間の行動と化した場合、責任を持つことが不能な人工知能を責任の根拠とした責任の転倒による、無責任の私刑という正義を語る悪が横行することは必然なのだ。
倫理とは善悪ではない。倫理とは選択することであり、選択に伴う一切の責任を主体が負うことであり、その結果の価値判断と他者への経験的な敬意が道徳であり、倫理なき道徳は独裁的な支配構造に過ぎない。
ナチスのアイヒマンのように、根源的な悪意を持った怪物ではなく、思考を停止し、ただシステムや命令に従順に従うだけの凡人こそが、最も恐ろしい悪を行い得るのだ。

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎
例えば、手段を目的化するために誰かを貶め、弱者を創造することで需要を想像したり、沈黙を否定する事で会話を生み出したり、或いは承認を得るために価値を求めたり、価値を生むために記号に価値を付与し、無価値に価値化した記号を付与する事で、無価値を偽装しているに過ぎない。もはや、無価値の価値化によって失った本来的な生物としての最低限の運動や食糧などの需要が価値によって得る他にない状況に陥っている。
美味しい食事をより美味しく味わう為に美しく盛り付けていたはずが、美味しい食事を食べられる自分自身は価値ある人間であると承認させる為に美しく盛り付けられた食品サンプルを奪い合う為に他者を貶めているようなものである。

ラビッ兎

ラビッ兎
絶望も怨恨も悲観も苦悩も、磨けば文学にも哲学にも、若しくは絵画であるとか、音楽にもなり得る。
或いは、自己という表現そのものが美学ともいえる。
私はその中で特に、哲学については最も崇高なる啓示であると考えているし、文学はその器と考えている。
私にとっていつからか続いている現在の人生とは、私の精神が死に絶望が始まってから続く現在の連続であり、未来と精神を失った人間として未だ続くエンドロール、即ち、人間的な習慣を模倣する惰性のことを云う。

ラビッ兎
それが赤黒い重い荷を背負っていて、ゆらゆらと揺らいでいる。
狂気と正気の狭間で、目を閉じたら聞こえてくる足音、それは私にとってこの人生に終止符を打とうとする死と呼ばれるものであって、人間の残虐性と呼ばれるものなのであるが。
私の記憶に照らしてみれば、それは直訳すれば私を殺そうとしていた親や堅気ではない人間、つまりは過去の友人たちという独立した個人に付与された固有名詞となってしまうわけである。
今となってみれば、彼等は既に私の身の回りには居ない。然し乍ら、二十年近く続いた生存闘争に幕は下ろされておらず、彼等は第二の私として、それは狂気と呼ばれるものとして、もう一人の私を形作ることとなった。
結局のところ、虐待や抗争、襲撃であるとか、或いは報復合戦。これらは一時的な戦闘ではなく、血の呪いであって、私は退屈を持て余して思索に耽る時、一人で物事を考えることはできない。つまり、意思と呼ばれるもの、或いは、現代的にはエゴなんて呼び方もするようであるが、然るに、これが分離して三人称になってしまっている。即ち、知覚する私と、衝動の私と、それらを基本的には支配し制御していると思われる理性の私である。
実証主義の顕微鏡愛好家である医者と呼ばれる人種はこれについて、重度の心的外傷後ストレス障害及び鬱病による離人症と不安神経症、及び不眠症と診断を下したわけであるが、私に云わせてみれば、より単純に、見てはならないものを見続け、感じてはならないものを感じ続け。
そして、為してはならぬことを為し続け、考えてはならないとこまでそれを覗き込んだ代償、それというのは正に、深淵である。即ち、これは私の言葉でいうならば深淵に長く居座りすぎた結果、苦痛という深淵に被曝した深淵病などという陳腐で滑稽な病名の方が相応しい。
ゆらゆらと船が天秤のように揺らぎ、この支点には適当な平衡感覚で、漸く重い荷が載せられている。私が目を閉じる時、背後で歩く足音が聞こえる時、物陰に人の気配を感じる時、夢の世界を彷徨う時、血を見るとき、酒に酔った碌でなしに喧嘩をふっかけられたとき、この適当な平衡は崩れ、重い荷は崩れ、片側に重心がより、そうともなれば正気というそれはひっくり返り、急激に掛かる重量に正気と狂気が歯止めも効かずに回転し始める。
その時、私の意思に反して、知覚する私の感覚は研ぎ澄まされ、衝動する私は殺人の認可を理性の私に求め、理性の私はこの混乱に苦悩しながら武器を手に取り、知覚する私は無意識に手に取られた凶器に神経を通わせ肉体の一部として成立させる。
そして理性が論理的に語る、万が一、敵が現れても反撃は十分に出来る、然し、敵はもう居ない。もう終わったのだと。もう、必要無いのだと。つまり、私という狂気に、その殺意をしまいなさい。君の役割はもう終わったと、そう語り、私は再び、適当な平衡感覚で、揺らぐ波の音に耳を澄ませるのである。
その瞬間だけは、酷く安堵することが出来る。
人生という悪い冗談がまだ続いていくことに、自らの墓標を呆然と眺め、信仰もしていない神に、十字を切り、そうして、墓穴に埋められた棺桶にこの身を納め、棺を閉じ、光の差さない暗い絶望に安堵する事が出来る。
そのような不要な殺意が収まり、少しの手や瞼や足の痙攣が始まり、それが収まる時、阿呆面を下げて、臆病な安堵がのそのそと這い出てくる。
そして周りを見回して、ここが宛ら地獄だと、繁華街のようだと、世界が皮肉だと、糞の斜に構えたいけすかない冗談だと冷笑するのみなのだ。大丈夫なのか?という問いについては明確にこのように答えるべきだ。第一に君には理解出来ない、第二に知る気がない事について問うことは無意味であり、第三にこの無意味なやり取りの目的を語れないならば、沈黙すべきである。
退屈が始まってから、悪夢から逃れられない。私は、張り詰めた環境で恐怖と隣り合わせでなくては、最早生きてはいけないのだろう。心情を吐露するならば、精神も、肉体も、形式も、孤独から逃れることは出来ないのだと、心底、失望している。
今朝は雨が降り始める音が足音に聞こえ飛び起きた。
病に伏して、療養を言い渡された一ヶ月目の憂鬱である。
雨は上がり、不愉快な日が差している。
凍て付く風が吹く冬に。

ラビッ兎
他者を救える、或いは他者が救ってくれる、などという傲慢は慎むべきであり、他責というナンセンスは人生から排除せねばなるまい。
例えば、私も君も、友人を救うことなど出来ない。
友人の苦しみを請け負うこともできなければ、友人の痛みを理解することも、友人の人生を生きることだって出来ない。
しかし、友人のそばに立ち、黙って友人を指差し、友人を救えるのは友人の主体性という意思のみであることを示すことは出来る。
我々の友人は自ら思考し選択できる主体であり、他者に同情され弱者というレッテルを貼られる客体ではなく、維持する主体なのだと、信じることが出来る。
つまり、誇り高く生きる道を示すことは出来る。
それは、私や君にも同様にいえることだ。
我々は意思によって、外部の環境や他者を変えることは出来なくとも、環境や人間関係を選択し、自らがどう生きるかだけは自己責任によって選択できる独立した個人である。
自由とは自己の責任の総量で決定される関数である。
問題に直面した君に対して、問題の解決において最も優先すべきことを無視し、安易で軽薄な同情によって君を弱者として固定化しようとする阿呆には中指を立ててやれ。
君が条件に隷属する奴隷でないならば、そのくらい、誇り高く生きなければならない。
そして、自らが気高く生きなのであれば、相応に、他者の尊厳を絶対的に信頼しなければならない。
また、尊厳を捨てた者はいずれ君の足枷となるだろう。腐敗した友の首を容赦無く切り捨てるのもまた、一つの慈悲であり尊重であり同時に自衛でもあるのだ。
何故ならば、我々は個人という名の独立国家を統治する責任義務を課せられているからである。
責任無きものに自由はなく、責任無き善は本質的に悪に傾倒している。無責任とは悪の凡庸さでもあるのだ。
我々を救うのは、常に、自己の意思のみである。

ラビッ兎
真実とは私達が知覚し得る経験的な事実と論理的に整合性の一致により成立し、またそれが真実たらしめられる根拠とは公共的な合意である。
その為、表現が異なったとしても、本質はある程度一致している場合について否定することは出来ず、また、共通の言語を用いたとしても、説明能力が低ければ真実を知っていたとしても論理は飛躍し誤りと見做されるという事態も当然起こり得る。
従って、諸君の妄言は完全に馬鹿げた迷信ではあるが、世界に対する一つの解釈であるならば、その薄気味悪い妄言も無意味とは限らないという事になるのである。
まあ、まだ考えているだけマシだといえるだろう。あの道徳的ファシズムを愛好するモラリストに比べれば、であるが。

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎
即ち、モラリストというのは善であるとか正義であるとか、要はそのような聖なる単純さに酔いしれた快楽主義者であって、根本的に他者をどうすれば救えるかなどということはなに一つ考えちゃいない。
仮に君の友が問題に直面し、苦悩であるとか、即ち、もっと酷く、打ちのめされていたり、行き詰まっていたり、或いは激しく憤っていたり、若しかしたら精神の死が訪れ、いうなれば絶望しているというのであれば。
そして君が友に、手を差し伸べたいと心から願うのであれば、君はただ、友に静かに寄り添い沈黙するか、或いは、仮に外部に加害性があったとしてもなのだが。
即ち、他者を変えることは困難であって、或いは同様に友が属する環境を変えることは現実的に困難であって、友の過去を変えることは事実上不可能ならば、外部に責任転嫁することを第一に撤回させ、第二に変えることが可能な、つまりは主体的な選択へと目を向けさせるべきなのである。
他者を変えることは出来なくとも、他者との関わり方や関わる人間の選択はできる。属する環境を変えることは出来なくとも、異なる環境に属する事は選択できる。友の過去を変えることは出来なくとも、君の友人は今を見ることができ、また、真の絶望を経験しない限り、君の友人は、未来を見ることができる。
つまり、意思をモラルに隷属させることをやめさせ、明らかな目を持って経験的かつ論理的に合理的な倫理的に生きるという意思を持つきっかけを与えることはできる。
君が友を救えるなどと尊大な勘違いをしてはならない。友を最終的に救うのは君でもなく制度でもなく神でもなくモラルでもなく権威でも富でもない。それらは副産物であり、友を救うのは他ならぬ友人本人の意思なのだ。
従って、君が友を心から敬愛し、友が直面した困難に寄り添い手を差し伸べたいのであれば、君は、倫理的に明らかな目を持って、手を差し伸べるのではなく、友に指を差し、君が向かうべき道はそこにあると、ただ指針を指し示すのみで良いのである。
それこそが倫理的な他者関係の健全な道徳論なのだ。あくまで君は友の人生や苦しみを背負うことは出来ない。理解することもできない。ならば、友の内に眠る、意思を呼び覚ますことだけが唯一の誠実な他者との向き合い方なのである。
君は、他者を軽視すべきではない、友人に敬意を払い、敬意を払う友人のそのまた友人には仮に友人が不満を語ろうとも敬意を払わねばならない、何故ならば友人が不満を語ろうとも、それを鵜呑みにしたならば友人は低俗な人間関係を持つ腐った目を持つ愚か者となるからであり、故に、君は友人に対し、愚痴を吐くにしても特定の個人の名を語るべきではないと戒めなければならない。友よ、それは、君の価値を下げてしまう、君の誇りを守るために、君はそれについて沈黙せねばならないと。そして、改めて、君は友を主体として尊重しなければならない。
戒めよ、汝、倫理的に誠実、実直であれ。

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎
しかし実際のところは、物理と精神を異なるカテゴリーに属すると主張して、つまりは肉体と精神は異なるもので、意志するという成分さえも肉体的な意志と精神的な意思によって成り立っているというのにも関わらず、恰も魂が肉体に入っていて、それは取り出すことが可能なものであり、なんなら、自分自身が主観であるにも関わらず、自我というものが取り出せる物であるかのように、大真面目な顔をして主張するのである。
やはり、抜け目のないペテン師、いや、それを真に無意識のうちに、物質と精神は異なる法則に動かされた全くの別物であると考えてしまっているのだから、病理的なまでの虚言集団なのである。
肉体から切り離された、かつて宗教が魂(ソウル)などという名で呼んでいたものに成りきって、辛辣な表情で純粋な観測者でもない癖にそのような振る舞いをして大衆を欺く事は、謹んだ方が良いだろう。あの可愛らしい神秘主義者たちの方が、余程純粋で愛嬌があるというものである。
観測出来るものについての科学は、実に素晴らしい人類の知の結晶であったはずなのだが、その素晴らしい科学がくだらない物にこだわり本質を見誤り、あろうことか再び宗教的支配を始めているというのであるから、そのような物は一度叩き潰した方が良いといえるかもしれない。
科学は科学出来得る領域を扱うべきである。科学は観測して確認する作業であり、哲学的領域に尊大な顔をして踏み込むから、哲学性のない科学者は訳のわからない事を語り始め、無自覚なカルト化によりホラを吹いて回ることになるのである。

ラビッ兎
盤上の規則や法則は盤上に於いてのみ成立する限定的確証に過ぎない。そうともなれば、この世界に生まれてしまった事実以上の不運はこの世に存在しない。というよりも、生まれてしまったということが人生における唯一の不運である。
この誕生という運命の始まりの他に不運と呼ばれることの全ては、私が不運なのではなく、他者関係、或いは社会関係の中で作り出された差異への情動に過ぎない。
不運でなく、不幸についてはこのように、不幸が相対化されその妥当性を否定されるということが唯一の不幸であり、私たちは運命を呪うことを正当化することはできないし、唯一恨める事としては、生まれてしまった不運を最大の不祥事だという他にない。
しかし、自殺という選択肢までも、論理的に、かつ経験的にも、その正当性は否定されてしまっているため、運命を愛するというよりも、これが私の運命なのだと認める他に選択肢がないというだけなのである。
生とは実にタチの悪いふざけた冗談であり、死とは誕生などに比べてみたならば、まだ、ましな冗談であると言えるが、では死こそが唯一の救いであるのかと考える時、自死という手段については当然、誰に邪魔をされることもなくいつでも運命を終わらせられる切り札があると思えば幾分かは絶望を眺めながら、退屈な野郎だとこの斜に構えた悪魔を眺めていられるものである。と考えることも当然出来得る。
然し乍ら、更に最悪なのは、死を論理的、かつ経験的な法廷に召喚し審判を下してみたならばどうだろう?私たちの卑屈な救世主、或いは寧ろ、この聖なる短絡さとは、つまり、自死の正当性の一切がなく、かつ、自死とは運命という私の全てを対価に支払う事でのみ実行できる自由であるのだから、最高にふざけた冗談であり、否定不能な生を認める他にないという事実については、正に事実らしく、冗談にすらならないのであるから、やはり、生とは最低な冗談であるということも出来るだろう。
然るに、そうともなれば、取捨選択は単純で、正しいものだけを手にする事が私たちが絶望と程よく距離を保ちながら関わり、かろうじて生き延びる手段であるのだから、君は、演じられた者ではなく、演じる者であらねばならない。その時、君は苦しみを支配する真理となるだろう。

ラビッ兎
考えても見てほしい。
自宅に引きこもり思索に耽る時、我々と云うものは悉く卑屈な事ばかりが脳裏に過ぎる。然し乍ら、どうだろう。
散歩に出て単調に足を踏み出す時、私の心は自宅という、小さな縄張りに圧迫される事なく、この広い世界こそが私の居場所なのだと、前を向いていられる。
日の光を浴び、風を感じ、鳥の囀りに耳を傾け、そうもしていれば、この背広に甲虫や羽虫が止まろうと、気にする方が滑稽であるとは思わないだろうか。
そのような問題は、最早この広い世界を生きる我々にとって、今や問題ではないのである。
そうも云っているうちに、私はオフィスの近くまでたどり着いた。
凡そ、1キロメートル弱、時間で云えば50分弱程の道のりであった。
今日は、やけに人が少ない。
この聳える無機質な断崖は私と云う人間を矮小な、地に這う者として見下している。
自然を殺し、私を欺き、真理を偽っているのだ。此処は、純粋性の残滓も残らない地獄である。
そしてアブラハムは洞窟に住んだ。
神がおられる洞窟を棲家とするために。何故ならば、神は貴方が人間であることは既に知っておられるのだから、神は貴方を識別するために、この者は知識人、この者は愚者で、この者は最悪な人種である所謂哲学者!などとしてレッテルを貼ることに大忙しだからである。
つまり、アブラハムは狡猾だった!神と洞窟に住めば彼は同居人として神の烙印から逃れることができた。或いは、その手伝いさえもしてやったのかもしれない、
なので、私は心の中で、この街に対する悪態を宛ら、白い石を落として歩いたヘンゼルの如く歩みを進めながら落として歩いていた。
すみ渡る冷たい空気は、私の肌にひりひりと冷ややかな風を撫で付け、あの大通りの向こうには、未だ深い群青色を残した空が見える。

ラビッ兎


ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎
しかし、私たちは、不幸という自己価値の暴落というリアルに対して、相対的に価値が暴落するという事実により、自己否定によって自己価値が無ではない事を証明されるため、前提として要請される資本の根本的な価値を否定できない、つまり、不幸になることさえ出来ない不幸という幸福を背負わされている。
即ち、価値の否定は存在の否定としては完全なカテゴリーミスとして妥当し得ない。
自己否定とは、価値演算の前提的な価値の存在を無視した遂行論的矛盾であり、私たちは、一般的な幸福の解釈ではなく、不幸として存在を否定してないという意味においては、より根源的な意味で不幸になる事を偽として世界に拒絶された逆説的に幸福の奴隷である。
しかし、最早この論理においては、或る意味では客体的な価値支配を無効化する事で、逆説的に否定不能として主体的な運命の肯定に立脚するという意味合いを理解するならば、それは既に奴隷道徳からも逃れ、王のように気高く、或いは神のように孤独な運命愛、実存という不動の真理なのかもしれない、そのように解釈することが妥当である。
生とは死よりも酷い冗談であるが、死は救いとはなり得ないましな冗談であり、同時に、生の肯定とは、いや、生の事実の認定とは、論理的に妥当し得る最も真実性を帯びた救いであり、最も笑えない冗談なのである。
事実はジョークにさえなり得ないものだ。
というのが、私が深淵から持ち帰った思想という皮肉めいた最低の冗談なのである。
これが、私を生き延びさせた唯一の根拠であったという事については、やはり、私にとってこの思想の訪れとは、予期せぬ最高の訪問者であり、とんだ不祥事であった。

ラビッ兎
我々は、自己という国を統治する王であらねばなるまい。私たちは、実に多くの杭を地に打ち立て、神妙な面持ちで、それも、不完全な荘厳さを躍起になって、或いは確固たる信念を宛ら花崗岩の土台かのように扱って?実の所は、サグラダファミリアのように不完全で立派なものを建築してきたに過ぎない。つまり、巨大建築は私たちの求める神秘的な恐怖の建造によって、畏怖の念を抱かせてきた鳥籠なのである。

ラビッ兎


ラビッ兎
しかし、孤独に耽る時、私達は常識から離れる事で、より明らかな目を持って、経験的かつ論理的に妥当し得る、純粋な確かさに近付いて行ける。
孤独とは知の対価なのである。

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎

ラビッ兎
