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マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
『80年代〜大滝詠一との再会 、ロンバケが遅れた本当の理由とは?』
'70年代の終わり頃からニューミュージックが台頭してきていた。歌謡曲とニューミュージックと演歌に洋楽、これらの音楽がヒットチャートを毎週入れ替わり立ち替わり目まぐるしくランダムに乱高下していた。日本の音楽シーンに於いて、若者が"自分たちの音楽"を推す風潮は実は1950年代からすでにあったはあった。ニューミュージックは歌謡曲とは明らかに歌の"造り"が違っていて、歌う楽曲はシンガー自身が作る、所謂シンガーソングライターが大半を占めていた。歌謡曲は作詞家、作曲家、レコードの音を決める編曲家が皆バラバラで餅屋は餅屋の分業制だったのだが、ニューミュージックの潮流を作ったのは、1970年デビューのはっぴいえんどである。但し、シンガーソングライターとはっぴいえんどのやり方はちょっと違っていて、その後台頭するシンガーソングライターたちの大半はレコード化する為の編曲まではプロのアレンジャーに発注したが、はっぴいえんどは自分たちで音を紡いでいった点である。まぁ、バンドだから当たり前、と思うが、1970年当時そこに踏み込むのは、既製勢力の壁が高くレコード業界ではその構図を打ち破るのには相当な勇気が必要だった。日本の音楽シーンにもそれなりの慣習が残っていた時代である。それまでの職業作家だった人たちがこの新たな潮流を嫌っていたのは言わずもがなだったが、一人だけ上手く迎合したのが筒美京平であった。筒美京平の作品はよく、洋楽をモティーフに作られている、と言われたが、その思考や在り方はニューミュージックのシンガーソングライターたちと全く機を一にしている。だから、時代が1980年代に入り洋楽の影響色濃い、ニューミュージックや後のJ-POPの時代に入ってからも筒美京平にはミュージシャンやアイドルからのオファーが絶えなかったのである。要約すると、日本のポップス史とは洋楽を如何に日本人の志向に合わせて作るか?が服部良一の時代からの命題だった、と言える。その日本のポップス史を研究したミュージシャンが大滝詠一だった。彼は1984年にアルバム『EACH TIME』を作り、個人としては初のチャート1位になったのを見届けるかのようにして、あっさりとシンガーソングライターを辞めた。1981年のアルバム『A LONG VACASION』のヒットに端を発して、丸3年間、ミュージシャンとして活躍して、他人への楽曲提供にも応じていたが、その三年間が嵐の様に過ぎ去ると彼は世間から身を潜めるかのように第一線からは遠ざかった。以後、あらゆる趣味に没頭する大滝は、三年周期で様々なことに没入しては印税やラジオの出演料で暮らしていた。活躍していた80年代から彼はテレビという媒体では唄わず全てのテレビ出演を断っていたが、その代わりラジオ📻には積極的に出演していた。そして一度没頭した趣味に回帰することも無かったが、本年9月13日土曜日23:00からNHKEテレで放映されたETV特集でクローズアップされた大滝のドキュメントの中で松本隆がインタビューに答えて……もうちょっと頑固にならずに長生きしてくれてたら、はっぴいえんどの再々結成もあったかもしれない……と語っていた"頑固にならず"は、この趣味癖のことを差しているんだろうなぁ、と私は直感で思っていた。長年の盟友ならでは言葉だった。
そんな大滝がはっぴいえんど以来、作品においては一度も組まなかった松本隆と再び組んだのが、『A LONG VACASION』だった。はっぴいえんど解散後、大滝は自己のレーベル『NIAGARA』(勿論、大滝の名に由来している)を設立したが、レコード会社が難航した。と、云うのも大滝ははっぴいえんど解散後から数々のCMソングを手掛けていて、そのCMソングの音源をレコード化したかった。それを条件に大手レコード会社を回ったが、どこも答えはNOだった。CMの音楽なんて誰が買う?。こんな感じで結局一番好感触を得たのが、大滝が一番嫌がっていたエレックレコードだった。エレックは当時吉田拓郎や泉谷しげる、佐藤公彦、海援隊、ずうとるびらを擁していた会社だったが、印税や契約に関することがアバウトで、大滝が嫌っていたのもそこが一番の要因だったようである。然し背に腹はかえられぬことから大滝は契約したのだが、嫌な予感は当たるもので、エレックレコードは1976年7月15日に倒産した。大滝は自己のレーベル『NIAGARA』を発足し最初に山下達郎や大貫妙子らがいたシュガーベイブのプロデュースを手掛けて、ファーストアルバム『SONGS』を1975年4月に、翌月に自己のアルバム『NIAGARA MOON』 をリリース。どちらも製作費を凌ぐほどの売上は出せ無かった。
田家が書いている通り、当時の大滝は作詞、作曲、編曲、自己のスタジオを持ちレコーディング、トラックダウン、マスタリングのエンジニアまですべて一人で受け持ち、果ては原盤管理に至るまで行った最初のミュージシャンであった。原盤管理についてはフジ・パシフィックの朝妻一郎という音楽に大変造詣の深い理解者がいたので、大滝は自己の音源を他者ではなく自身で管理しなければならない、との信条から1976年7月22日に株式会社ザ・ナイアガラ・エンタープライズを設立、会社の設立資金は朝妻のいるフジ・パシフィックからの援助も受けた。朝妻に関しては大滝のレコーディングに係る必要な資金を供出してくれる正にグレートコンポーザーであった。音楽は文化事業であることを分かってくれていて、単に損得勘定のみで考える人間ではなかった。朝妻がいたから、80年代の大滝の活躍があったと言っても過言ではなかろう。不遇だった70年代の大滝の活動を下支えしたのも朝妻だった。朝妻は、……彼なら間違いなくブレイクするって確信は70年代から思ってました。我々は長い目で音楽を見通さ無ければならないんです。当時の上司からは随分と責められましたが、大滝君や山下君には『時代がまだまだ全然追い付いて無かった』んでしょうね。彼らは先見性をもって音楽と向き合っていたんです。それだけは私の中にもずっとありました。だから、大滝君より山下君の方が♫RIDE ON TIME で先にブレイクしちゃったでしょ?あれれ?ってね(笑) 大滝君の時よりも山下君のブレイクの方が喜びが大きかったかな(笑)信じてたものがやっと報われたんだ、ってね。……
エレックレコードが倒産して大滝はコロムビアレコードと契約したのだが、レーベルは存続可能であり、大滝は契約金まで受け取る事が出来たのだが、大滝は契約そのものより契約金で16チャンネルのマルチトラックレコーダーを購入することの方を嬉しがった、という話は有名だ、と田家は書いている。しかしコロムビアレコードとの契約内容とは3年間でアルバム12枚、シングル12枚、つまり年間で両方4枚ずつというアイドル以上の過酷な条件を突きつけられたという。最終的にその条件はクリアしたが、中には大滝がプロデュースに専念した(2曲はヴォーカルでも参加)シリアポールの『夢で逢えたら』というオールディーズカバーアルバムや大滝の歌が入っていないインストアルバムも含まれていたのだから、コロムビアもよくこれでOKしたな……と思えるアルバムが含まれている。1976年から1979年までの3年余の間は殆ど毎日レコーディングスタジオに居たよ…と大滝の当時"丁稚"だった音楽評論家の湯川学が、後に大滝との回想談を録音したテープの中で親交のあった音楽評論家の萩原健太に語っていた大滝の言である。このテープは今回のETV特集で初披露されていた。田家はこの書の中で、『78年11月、12枚目のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」が出て契約満了、彼は晴れて自由の身となった』とある。コロムビア時代の、大滝名義及び大滝詠一名義のみならずとも少なくとも大滝のアルバムとしてカウントできる枚数は総じて11枚であった。これにはエレックレコード時代の『SONGS』と『NIAGARA MOON』のリイシュー盤を含む。田家が指摘した『LETS ONDO AGAIN』以後にはもう一枚アルバムが出ていた。これは契約枚数を消化させる為にコロムビアレコードがナイアガラ時代の山下達郎の音源を編んだベスト盤の様なものだった。それが1980年7月10日にリリースされたTATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA / 山下達郎 である。
因みに3年間の内シングルは9枚のみであり、こちらは契約不履行であった。
今月の1日に発行されたナイアガラの丁稚こと音楽評論家の湯川学が嘗て、レコード・コレクターズ誌で連載していた記事が上梓された『A LONG A LONG VACASION』の中でロンバケの担当ディレクターであった旧CBSソニーの白川隆三がインタビューに答えているのだが、大変興味深い証言を取り付けている。今や通説となっている松本隆が妹を亡くしてスランプに陥りロンバケの詞が書けなくなったからキャンセルしてきた、という件のことである。キャンセルしてきた松本に大滝は、発売なんて延期すればいいと言ったのは事実だが、そこで朝妻、大滝、松本、白川の4人が軽井沢で合宿して松本の再起の一助となった、という流れで語られているのは違う、という訳だ。松本隆の妹、由美子が亡くなったのは1980年6月28日のことだという。アルバムの当初の予定が1980年7月28日の大滝の誕生日で設定されていたことと鑑みると、松本の詞が発売の1ヶ月前の段階で上がって無かったというのは直接的には妹の死によるブランクとは関係ない次元でのディレイが生じていた事になる。これは今回出版された湯川の本で改めて分かった事実であった。軽井沢での合宿が発売予定だった1980年7月に行われたことも併せて考えるとロンバケの発売延期はもっと違う理由による制作上の何か、という事に他ならないしその真の理由には誰も何も発言していない。白川隆三はこのアルバムの担当ディレクターでありながら、制作面は全くタッチしていなかったという。白川がディレクターとしてやったことと言えば、大滝のレコーディングためにソニーのスタジオの確保に只管奔走していただけ、と言い切る。大滝の歌入れの為にシナソ(信濃町ソニースタジオ)のスタジオを3ヶ月に亘り立ち入り禁止にしたのは有名な話である。白川は他のディレクター達からのクレームを一身に受けたことは容易に想像できる。発売延期の理由については田家のこの本でも松本隆自身が自分の妹の死で詞が出来なくなり…と語っているCD解説を引用しているため、と紹介しているがこれも事実誤認であることが、今回はっきりしてしまったが白川の発言が如何に貴重な証言かが判るのである。






カナリア諸島にて

マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
80年代〜竹内まりやの登場
1979年のヒット曲についてはスージー鈴木の別著に詳しいがWikipediaで調べるまでもなく田家が
記しているところによれば、この年のレコード大賞受賞曲はジュディ・オングの♫魅せられて だった。当時13歳だった私は子供なりにその瞬間を固唾を飲んでテレビで見守っていたが、ジュディ・オングの名が呼ばれた瞬間にジュディ・オングの横に座っていたジュリーこと沢田研二が悔しそうな表情とジェスチャーをしていたことを覚えている。この場面は賞レースが如何に激しかったかを物語っていて興味深いが、今レコード大賞発表の席でエントリーされた人が大賞を逃したからと言ってジュリーのようなリアクションをする者は誰もいないであろう。それほどレコード大賞の権威は地に落ちている、と言えるだろう。大賞を貰って泣く人はいるかも知れないが……。
1979年のレコード大賞新人賞の5人の中に入っていたのが竹内まりやであった。受賞曲はご存知
♫September 。松本隆が作詞、林哲司が作編曲して作られた。林は岡田奈々のアルバムで既にアレンジャーとして起用されて頭角を表していた。竹内まりやのデビューにまつわるエピソードは以前この『岸辺の100冊』で紹介した牧村憲一の著作のときに詳細が記されていてそのことにも触れたので重複を避けるためにここでは割愛する。
この田家の著作の中で以前に紹介していない証言やエピソードを書いてみる。田家はFM COCOLOのラジオ番組でJ-POPレジェンド・フォーラムというラジオ番組を手掛けてパーソナリティとしても出演していたが、『竹内まりや特集』の回で牧村憲一をゲストに迎えた際に貴重な証言を引き出している。「鈴木茂のアルバム『lagoon』であの曲を聴いた時になんていい曲なんだ、と思ったんです。まりやさんは全くプロになる気がなくて最初は消極的だったんですが、アマチュア学生のままでいいから参加してほしい、とあの曲を提案したら二つ返事でOKになった」と話したという。あの曲、というのが松本隆が詞を書いた♫8分音符の詩 であり牧村憲一が学生のまま参加させたアルバムがロフトというライブハウスを展開していた平野悠がビクターと組んで立ち上げたロフトレーベルからリリースした『ロフトセッションズ』だった。
竹内まりやの曲♫September は3枚目のシングルで1979年8月21日にリリースした。当時竹内まりやの担当ディレクターだった宮田茂樹は2017年に彼のウェブサイトのコラムの中で♫September
についてこう述べている。「それまで出ていた2ndアルバムまでの評判は良かったけれど、シングルヒットが必要だった。会社の方針もあって不本意ながら年末の賞レースに参加するための曲だった」不本意…だったのは宮田茂樹というか竹内まりやの意思のことを語っているのだと思う。竹内まりやは所謂、あっち側に与したくないシンガーだったが所属事務所の意向で芸能人的なプロモート活動を強いられて軽いノイローゼにこの後陥ってしまう。同期の杏里も♫オリビアを聴きながら でデビューしてすぐ同じように病んだのだという。この時期のこうした純粋に音楽がやりたくてプロになったシンガーやミュージシャンが一様に陥る病み期には共通したブラックさが憑いて回る。それは所属する事務所から芸能人的キャラクターを演じさせられる。そしてテレビ業界側のスタッフらからの雑な扱い。大雑把に言えば以上の2点は殆どのミュージシャンがその後日談を語る時に必ず出てくる裏話である。共にあっち側への苦情だ。ある者はそれにより結局ミュージシャンを引退して裏方に回ったり、心身共に疲れ果てて故郷に帰ったり、一般人に戻ったりしている。そういう点で言えば竹内まりやは見事に復活再生し、更に飛翔した類稀なケースと言えるであろう。
それだけ山下達郎との出逢いは大きかったと言える。半分アイドルの様な扱いに嫌気がさしていた竹内まりやは同業者で唯一胸襟を開いて話せる相手が山下達郎であったことが大きな救いとなったからである。というのも、山下達郎もデビュー以降アルバムを3枚リリースしてもちっとも売れず、半ばミュージシャン1本で行う活動を諦めかけていた時期があったので、その経験談が竹内まりやに刺さったのだった。二人の友情が愛情に変わるのは必然だったのかも知れない。やがて同棲生活に入るもすぐに週刊誌メディアに嗅ぎつけられ、すっぱ抜きに遭うが山下達郎は芸能人としての自覚すらなかったし、プライドが高潔だったからメディアからの攻撃は完全オミット状態としたが、竹内まりやは何せ半分アイドルだったから、そうしたマスコミ攻撃から逃れようもなく、インタビューやパパラッチの様なメディアからのオファーにも真摯に答えざるを得なかった。が、彼女は開き直る事にした。山下達郎との同棲も潔く認めた。こういう姿勢も彼女らしくていい。そうなると自体は一気に進み1982年4月16日に東京・六本木の出雲大社東京分祠で行われた。
話は♫September に戻るが担当ディレクターだった宮田茂樹は松本隆の起用についても先のブログで語っている。「松本さんとの仕事は初めてでしたが、キャンパス・ライフ、夏休み、出会いや別れ、秋のせつなさ、ブラッドベリーの"10月は黄昏の国"風味、こんなプロットを織り込んで一級品に仕上げることの出来る作詞家は彼しかいないと思っていましたので、初顔合わせの打ち合わせも滞りなく済ませることが出来ました」
田家の作品解題が見事なのでそのまま引用するが♫September は辛子色のシャツ追いながら電車に飛び乗る。映画のファーストシーンのような情景。松本隆の言葉を借りれば「移動系」楽曲に括られる。主人公が動いている。それ以前の作品で移動系の傑作だったのは太田裕美の♫九月の雨
だ。奇しくも同じ九月が主題だ。タクシーに乗り込んで運転手にあなたの住所を告げるところから物語が動き出す。♫September では夏の陽が弱まるように心に翳がさしてゆく九月。涙が木の葉になってゆく。あなたが心変わりしている年上の人に会いに行こうと思ったりもする。秋に変わったと私に飽きたは秋と飽きの掛詞である。借りていたのが辞書ではなくてディクショナリーなのは、宮田の云う"キャンパスライフ"のイメージそのものだ。そして"LOVE"という言葉を切り抜いて返すさよならのメッセージに思い当たった人もいるはずだ。辛子色のシャツで始まり、トリコロールの海辺の服でおわる4分31秒で綴る心変わりのストーリー。ダメ押しの1行が…私ひとりが傷付くことが残されたやさしさね…だろう。やさしさを相手に求めない。演歌のような怨み節にならない。自分に言い聞かせている。取り乱せない知性ゆえのいじらしい切なさ。そうしたストーリーは"そして九月はさよならの国"と弾むようなリフレインで場面が変わってゆく。この表現法はまさに映像的である。これはユーミンにも言えることだが、優れた作詞家はやはり詞を書いてもそれがはっきりと脳裏に映像が流れるものだ。ユーミンの場合は不思議とカラー作品だな。色まで見えてくる。松本隆の場合は私はいつも思っているのはこの人の詞はいつも白黒映像であるといこと。色は付かない。1970年代の東京はいつも光化学スモッグに覆われていたからだろうか?



September

マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
80年代〜竹内まりやと山口百恵への提供楽曲
松本隆が79年に提供したその他の楽曲についてもこの本ではしっかりと検証されている。
前回書いたまりやへの提供楽曲♫SEPTEMBER はサウンド的にも作曲者 林哲司自らが編曲に当たりナイーブな松本の詞に彩りを加えている。所収されたアルバム『LOVE SONGS』自体の構成も奮っていて♫SEPTEMBER に入る直前、♫M・A・R・I・Y・A まりや ヒットパレード と云う短いジングルがコーラスで入る。まるでラジオ番組宜しく粋な構成である。間髪入れずに♫SEPTEMBER のブラスで始まるあのOP.が始まる。アメリカのウェスト・コースト調の垢抜けた前奏にギターの短いリフが気が利いている。リズミカルな前奏に続いてまりやの甘いヴォーカルが始まると、もう気分はアメリカンである。そこに終始まりや、大貫妙子、まだデビュー前であったがEPOと云う名前で既にクレジットされた佐藤永子の三人によるよく練られたコーラスワークが巧みで、何ロールも聴き返すうちに段々とまりやの唄よりもコーラスの方にも注意して聴きたくなる、そんな不思議な魅力を讃えた作品である。前回書いたこの楽曲の担当ディレクターだった宮田茂樹が年末の賞レースに参加させるための、勝負シングルに松本を起用する、と云うすでに松本隆はそう云う存在になっていた。だが、松本自身は他方で、ある種の寂寥感を感じてもいて、それがまりやへの他の提供楽曲に色濃く投影された。
話はそこに触れる前に田家は、同時期に山口百恵へ書いた楽曲に触れている。桑名正博へ書いた♫セクシャルバイオレットNo.1 が初めてオリコンチャートの1位になった'79年10月、大阪厚生年金会館のステージに立った山口百恵は俳優 三浦友和との恋人宣言をした。今でこそそう珍しくはないこうした人気タレント同士の交際宣言は、当時波紋を呼び、賛否両論が起こったが世間のムードやマスコミは一様に歓迎・祝福ムードであった。
後に尾道三部作等で評価される名監督の大林宣彦がその殆どのCM作品を演出した百恵と友和共演のグリコアーモンドチョコレートの作品でアツアツ振りを見せつけていた主演の二人が、リアルに交際するという事実にファンからも賛否両論が巻き起こったのだ。そんな事はそれまであり得なかったし、信じたくない、と云うのが素直なファン真理であろう。12月にリリースされた70年代最後を飾る百恵のシングル♫愛染橋 は松本が作詞、アリスの堀内孝雄が作曲であった。…微笑んで渡れば恋がかなう…と云う伝説の橋、大阪・日本橋(にっぽんばし)のすぐ南に位置するこの橋を舞台に、…結婚なんて旧(ふる)い言葉に縛られたくなくて…渡りたいけど渡れない…と云う迷いの歌でもある。CBSソニーのヒットメイカーキングだった酒井政利ディレクターから指定があったと云う関西弁を歌詞に盛り込む、と云う作業は生粋の東京っ子の松本にとっても刺激のある仕事だったに違いない。百恵は翌年'80年3月7日、三浦友和との結婚・引退を表明する。名曲♫SEPTEMBER を含む4曲の松本作品が入ったまりやの3rdアルバム『LOVE SONGS』リリースの2日後のことであった。その中の一曲♫象牙海岸 。
…海岸線沿いに 夏雲が雪崩れると
砂の蜃気楼に 立ちすくむ影ひとつ
人影もない入江 そこが二人の秘密の場所で
象牙海岸と名前までつけた 遠い夏
あれから私 時の波間を
ただ流れ木のように
ひとりで生きて来たの
もう一度 訪ねても
道順さえも記憶の彼方
夢の中で見た 風景のように 遠い夏
あなたのあとに 愛を知っても
ただ流れ木のように
岸辺で踊っただけ
三年をへだてて あなたから来た電話
懐かしい名前に 忘れてるふりをした
冷たいと言われたけど
本当の気持ちもし話しても
過ぎ去った時を埋めるものはない
遠い夏…遠い夏…遠い夏…
♫SEPTEMBER に引き続きこちらも林哲司の作編曲。随所で半和音が活かされた印象的且つノスタルジックな曲構成。まりや自身が後にこう回想している。…今、あらためて感じるのは、林さんは私の声の特徴や歌い癖をうまく捉えて、それを生かすメロディを書いて下さっていたんだなあ、ということ。日本の音楽界でも貴重なMOR(ミドル・オブ・ザ・ロード)の作曲家だと思います…
松本隆は後の自選作品CD集『風街図鑑』の中で、この海岸が何処をモデルにしたのか種明かししている。…伊豆をドライブしていた時にフッと心魅かれた海岸で、二度と自分でも行けない架空の場所…としている。つまり、モティーフは伊豆の海岸なんだろうが、具体的な場所については明かしてはいない。"人影もない入江"とされているから地形が入江になっている伊豆の海岸を探すしかないのだろう。松本に、余り詮索しない事だ、と言われている様なものだ。
もう一つの名曲♫五線紙 。安部 恭弘の作編曲でほぼアカペラのみ、使用されている楽器はギター1本。リズミックで杉真理の楽曲を彷彿とさせる明るい調。それもそのはずで、慶應義塾大学時代は先輩だった杉真理の主宰していたリアル・マッコイズに所属、従って竹内まりやとも知遇を得ていた。安部のデビューは'82年だからこれはまだデビュー前の作品ということになる。早速松本の書いた詞を見てみよう。
…あの頃のぼくらは
美しく愚かに
愛とか平和を詞(うた)にすれば
それで世界が変わると信じてた
耳元を時の汽車が
音もなく過ぎる
ぼくの想い出の時計は
あの日を差して止まってる
十二弦ギターの
銀の糸張りかえ
旧い仲間もやって来るさ
後ろの席でひっそり見てくれよ…
松本が『風街図鑑』の中で書いたところによると…今みたいにはっぴいえんどが伝説になっていなかった時代だから、(竹内まりやが)あの曲を選ぶセンスを渋いなぁと感心した。だからその人に詞を頼まれたときに、12弦ギターを抱いた大滝(詠一)さんや細野(晴臣)さんが行間に見え隠れしてしまったんだね。きっと一人で作詞家してるのが寂しかったんだと思う…と非常に深い心情を語らせていた。この発言は松本の当時の心境が実にしみじみと語られいて、興味深い。そう言えば、この曲は以前竹内まりやのアマチュア時代に牧村憲一が何とか口説いてレコーディングさせた鈴木茂の曲になる
♫8分音符の詩(うた) のアンサーソングであると田家は分析している。はっぴいえんど結成から丁度10年の節目、この年の松本隆の感傷なのであった。松本自身も丁度30歳になっていた。
続




象牙海岸

マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
80年代〜こちら側があちら側を凌駕する
一昨日、松本隆は76歳を迎えた。私の音声ルーム"岸辺🏝️"でもその日にバースデー記念ルームを開くことが出来た。
音声ルームというのは、ただ自分がやりたいから出来るものではなくて、聴き専のリスナーさんが1人もいなかったら僅か30分で強制解散させらてしまうのだ。そうした非常に過酷な環境でただ音楽を流すだけのルームで毎回5時間超えのルームを開け続けられるというのは、これは一重にリスナーの方々のシンパシーがあってのことだと、肝に銘じている。こんな所からではあるが、改めて謝辞を表したい。他のSNSの様に課金も要らないし、運用している主には一銭の報酬も入らないが、これはもう取り憑かれた者の情熱とリスナーの方々との信頼関係と、その場を提供してくれているグラビティというプラットフォームのお陰でしかないとは思っている。最近の趣味は…?と質問されたら私は、グラビティの音声ルーム!と迷わず言える。それありきの生活に埋没しているからだ。全てはここだけの関係性だし、リアルでは巡り逢えない方々だからこその関係性、でも、それが現在(いま)の私の原動力となっているのだから、私も気合が入る。決して手は抜いてはいない。だから、そうした平穏なルームを荒らす輩には容赦はしない。自分のルームとヘビーリスナーの方々を守るためならば、どんな形でも守る所存である。時としてアカウントを変えてみたり色んなことをしてルームの維持に務めている。。。何の話か???
松本隆の評伝の紹介から実質的な松本隆の主だったディスコグラフィーの検証をしている。著者の田家秀樹氏の本書の引用をしながら、私なりの論評も混ぜこぜながら筋道を外さずにきて、時代は遂に80年代へと進んできた。日本の音楽史の中でも取り分け1970〜80年代への移行期は大きな時代の転換点と認識する。
ずっとこちら側(フォーク、ニューミュージック系)の意識でやってきたから、いつまでも陽の目を見ない片隅、みたいな所にいるものと思っていた"者たち"が一気にメインストリームに押し上げられていった時代が80年代初頭だったろう。その点松本隆はとっくにあちら側(歌謡曲、アイドル系)へいっていたからその分気負わずに要られたのも事実であった。何が云いたいのかと云うと、歌謡曲が謳歌してきた時代から明確に70年代終わりからニューミュージックやロックバンドが台頭してきてそれは時代が大きく動き出したことを意味する。田家の著述によると、ずっとシングル盤の売上や大衆の話題性ばかりを表彰してきた日本レコード大賞が1979年から新たにベストアルバム賞を新設したことが、その象徴としている点である。これは見逃せない事実であり、それは業界の不文律に風穴を開けたと言っていい。以前にも紹介したエピソードで、松本隆がコンセプトアルバムを作りたいと思って手掛けた太田裕美の『心が風邪をひいた日』の考えが漸く認知されたと言っても過言では無かった。あれから実に4年の歳月が経過していた。その第一回日本レコード大賞ベストアルバム賞はアリス、サザン、さだまさしがそれぞれ受賞した。いずれもこっち側に属するアーティストたちであったが、三組ともTVに出るアーティストたちでもあった。レコ大の偏向矛盾した選考は昔から何ひとつ変わっていない。
この時代の大きな転換点をもう一つ象徴する出来事があった。1979年8月から1980年2月まであっち側の象徴的存在だった作詞家の阿久悠が休筆宣言をした。1976年♫北の宿から '77年♫勝手にしやがれ '78年♫UFO とレコード大賞を3年連続で受賞していた巨人であったが、世間は多忙ゆえの短期的な休養と観たが、この時期に敢えて休筆する、というのがいかにも時代を象徴している様に見える。因みに阿久悠は1980年の♫雨の慕情 で再びレコード大賞を受賞したがその翌年'81のレコード大賞は♫ルビーの指環 で、作詞は松本隆であった。これも時代を象徴する流れであった。
さて、前回桑名正博のことを書いたが、桑名の一番売れた♫セクシャルバイオレットNo.1 については触れなかった。これも松本隆作品であるが、1979年7月リリースであるが、シングルチャートNo.1になったのは季節は移り10月の事であった。この楽曲は松本隆にとっても初のシングル1位を獲った曲で、さぞかし感慨深いであろうと推察したが松本隆のオムニバスCD『風街図鑑』の松本本人の解説には実に驚くべきエピソードが記載されている。この楽曲はカネボウ化粧品のタイアップソングであった。当時、資生堂VSカネボウのCMタイアップか競い合うようにヒットし、タイアップ戦争と呼ばれるようになっていた。従ってこの楽曲タイトルはメーカーサイドのCMコピーであった。そこで松本の解説文である。「このコピーをもらったときに、戦ったんだ。…こんなダサいコピーをタイトルや歌詞に入れたくない…って。でも、通らなくて。…せめて、No.1だけでもハズして使えないか…とかさ。1度は、詞の最後に"セクシャルバイオレットNo.1"って付け足して出すとか、ゴマかす方向で曲が完成したんだけど、なんか納得いかなくて、京平さんに電話してボツにしてもらった。そして、ダサいならダサいなりに開き直って連呼しよう!って書いたのが、今の詞。
そのとき学習したんだ。ダサさを恐れない生き方を。これはその後のぼくの仕事の舵取りに大きく影響した」
歌詞の中の♫もう俺は迷わない はそんな松本の決意表明だ、と田家は書く。
松本のこのダサさを恐れない精神は結局その後C.C.Bをプロデュースした時に生かされる。
続

セクシャルバイオレットNo.1
ミチフミ龍之介
松本隆作品詩集 ♯ 302
#松本隆 #詩集
☆『夢色スプーン』
綺麗だねって言われなくても
私ちっとも
淋しくないし
いつも涙で生きてるほど
弱くもないし
強くもないの
でも誰か知りませんか?
倖せと不倖せ
かきまぜる
夢色の小さなスプーン
ひとしずく 愛をのせて
あの人に
あの人にあげたいの夢色の小さなスプーン
何処かにあると
うわさに聞いて
もう世界中
探したんです
追えば 追うほど
遠去かるのが
夢なんだよと
さとされながら
でも誰か知りませんか?
風そよぐ
草原を映し出す
夢色の小さなスプーン
ひきだしの 奥の方で
目立たずに
ひそやかに光ってる
夢色の 小さなスプーン
でも誰か知りませんか?
倖せと不倖せ
かきまぜる
夢色の小さなスプーン
ひとしずく愛をのせて
あの人に
あの人にあげたいの夢色の小さなスプーン

ミチフミ龍之介
松本隆作品詩集 ♯ 204
#松本隆 #詩集
☆『サゥザンド・ナイツ』
眠れぬ夜はいつも君が昔話聞かせた
紫色沈む都会(まち)はまるでアラビアン・ナイト
今さらまだ君の声が耳のそばでうず巻く
空飛ぶ絨毯があればすぐに飛んでくのに Ah
お願いだ 戻って
二人きり Ah 魔法の舟
ユラ ユラ 愛に浮かべよう
Thousand Nights 「君が」
Thousand Nights 「欲しい」
Thousand Nights Yes, Yeah!
言いたい事わかるだろう離れ離れ不幸さ
月の砂漠 銀の鞍で君は渡って来い Ah
お願いだ 扉は
開いてるさ Ah 魔法の炎
ユラ ユラ 愛を照らしてよ
Thousand Nights 「君が」
Thousand Nights 「欲しい」
Thousand Nights Yes, Yeah!

ミチフミ龍之介
〜松本隆作品詩集 ♯ 58
#松本隆 #詩集
☆『組曲噫無情 』
<嘆きの舞姫(バレリーナ)>
流れ流れて地の果てよ
舞踏酒場の片隅で
ピンクのガーター色っぽく
踊る瞳に涙あり
ピンクのガーター色っぽく
語る昔に涙あり
風は何処から吹くのやら
あなた訪ねて三千里
南十字の星さん
わたしの瞳をぬらさずに
南十字の星さん
わたしのあしたに輝いて
見よ嘆きの舞姫
踊る姿も、ああ哀し
夢はめぐりて幾星霜
ダンスガールの悲しさよ
それでもあなたにめぐり逢い
星のワルツを踊ります
銀のシューズで踊ります

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 386
#松本隆 #詩集
☆『フィヨルド少女』
氷河がきらめいている
夜明けの色をちりばめて
童話のような街に
訪ねて来たのにすれ違い
三日も前に
雪の汽車で消えたのさ
うわさの糸が切れて
行方を知っている人もない
あの娘は友だちさえ
作らないよと誰か言う
あの娘を人嫌いに
させたあやまちはぼくにある
昔のままの
黒いコートを着てるのか
子供の雪つぶてが
薄いガラス窓こわしたよ
三日も前に
雪の汽車で消えたのさ
南へ向ったのか
それとももっと遠い北の街
吹雪が急に止んで
遠い岬まで晴れてゆく
心にささった氷の
破片が溶けてゆくさ

ミチフミ龍之介
松本隆作品詩集 ♯ 269
#松本隆 #詩集
☆『風のシーズン』
風のシーズン 僕には四季がない
白く凪いだ海は 鏡に似ているね
時の流れも 黙りにくるさ
君の麻の服の 糸の縫いどりに
夏の気配が 息をひそめてる
もっと愛していいよ
人を好きになるのは いいことだし
もっと愛していいよ
心が歩く そのまま 身をゆだねたい気もする
風のシーズン 僕には四季がない
はしゃいだ夏と 沈みゆく冬だけ
あとはただの風のシーズン
あとはただの風のシーズン
白く凍る窓を 朝陽が溶かす頃
冬のホテルに 人影もない
薄いシーツまとう 君の眠り顔に
何故か見飽きて ふと眼を外らす
これで終わりにしよう
嘘に慣れてしまえば 息がつまるし
これで終わりにしよう
冷たい石を抱くよに 君を抱くのは哀しい
風のシーズン 僕には四季が無い
きらめく夏と もの言わぬ冬だけ
それもただの風のシーズン
それもただの風のシーズン

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ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 422
#松本隆 #詩集
☆『秘密のオルゴール』
風走る海辺の街を
仔猫抱き歩いています
照れながらあなたがくれた
手紙だけこっそり読んで
胸の奥秘密の箱に
16の想いしまう
好きですとすぐに答えて
軽い娘に見られたくない
Sixteen Sixteen Bos・sa nova
心はさざ波ね優しく寄せて返す
Sixteen Sixteen私は
秘密のオルゴール
透き通る愛の詩
ブラウスの衿(えり)に飾った
花びらはあなたのためよ
愛という言葉の意味を
知りかけたまぼろしの夏
Sixteen Sixteen Bos・sa nova
もう少し待っててね答えが見つかるまで
Sixteen Sixteen 私の
心の五線紙は 初恋の音色なの
手のひらに青いペン先
あなたの名小さく綴る
この気持他の誰にも
話せないまぼろしの夏

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 421
#松本隆 #詩集
☆『フィジーにおいで』
フィジーにおいで
空色の海 透き通る雲
風に乗る小鳥
フィジーにおいで
熱帯樹の 浜辺の砂も
待ってるぜ
きみは素足を 波で洗って
真赤な花を 髪にかざるよ
浜に集まる 恋人たちは
夕陽に影に 静かに踊る
フィジーにおいで
ここでは誰も 倖せな顔
縛るものはない
フィジーにおいで
熱帯樹の 葉陰も
君を待ってるぜ
きみはうっとり 眼を細くして
カヌーに揺られ そうさ愛の歌
ここは最後の 楽園なのさ
愛の世界を 見せてあげたい

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 420
#松本隆 #詩集
☆『光進丸』
桟橋に立つ 君の肩から
海鳥たちが 飛び立ってゆく
ラットを握る 俺を見つめて
涙で何か話しかけてる
出航前のあわただしさに
そこだけ時が止まったようだ
心ひとつの海の仲間が
綱といて船に乗る
江ノ島、三崎、大島越えて
新島、式根、三宅島まで
Sail On! 光進丸よ 俺を銀色の海へ誘え!
Sail On! 光進丸よ 俺の夢乗せて海へ羽撃け!
別れはいつも苦手なものさ
海図をたどる指も止まるよ
昨日の夢は陸に捨てよう
水平線の向うが未来
港へ残る白い水の尾
手を振る君がもう点になる
岬の風に振り向く俺は
海の男の顔だろう
御子元、石邸、遠州越えて
的矢、紀伊で黒潮にのる
Sail On! 光進丸よ 俺を銀色の海へ誘え!
Sail On! 光進丸よ 俺の夢乗せて海へ羽撃け!

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 419
#松本隆 #詩集
☆『イエロー・サブマリン音頭』
街の外れに
船乗りがひとり
酒を片手の
冒険話
行こう ぼくらも 七つの海へ
波に潜れば
不思議な旅さ
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine, yellow submarine
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine 潜水艦
みんな集まれ
深海パーティー
バンドも歌う
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine, yellow submarine
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine 潜水艦
楽な暮らしさ
笑顔で生きて
空は青いし
渚は緑
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine, yellow submarine
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine 潜水艦
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine, yellow submarine
We all live in a yellow submarine
Yellow submarine 潜水艦

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 418
#松本隆 #詩集
☆『月光小夜曲 ムーンライト セレナーデ』
紫に月を滲ませ 暗い港に船が火をふく
シェリー酒を握る指先 白く震えて色褪せている
月が嫌いと言ってましたね 夜毎形を変えるから
時か過ぎても変わらぬ愛 君にあげると言ったのに
KONYA MIKAZUKI・・・・・・・・・
SORA NI RYUSEI・・・・・・・・・
月光小夜曲
たまゆらの洋燈の灯影 音色はかなきヴィオロンの音色
ひときれのレモンのように 心しぼれば飛び散る涙
棚に忘れた詩集みたいに 愛の言葉もおぽろげに
指を伸ばして胸に触れても 熱い鼓動は聞こえない
KONYA MIKAZUKI・・・・・・・・・
SORA NI RYUSEI・・・・・・・・・
月光小夜曲
金色の腕輪はずせぱ 時の流れの仄白い跡
誰れだって終わった恋の 忘れもの手に生きられません
壁の硝子映る二人の 死んだまなざし眠る夢
罅の走った鏡みたいに それはたおやかな構図
KONYA MIKAZUKI・・・・・・・・・
SORA NI RYUSEI・・・・・・・・・
月光小夜曲
KONYA MIKAZUKI・・・・・・・・・
SORA NI RYUSEI・・・・・・・・・
月光小夜

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 417
#松本隆 #詩集
☆『Morning Air』
あなたはチベット・ティー
私はライ麦のパンを焼く
窓に青い草の海揺れる八月 HA
ふれただけでこわれそうな倖せ HA
愛は空気・・・・・・・・・
届いたNewspaper
哀しい話題なら読みたくない
胸に流れてく光る雲のモザイク HA
花の茎の細ささえも涼やか HA
愛は空気・・・・・・・・・
そしてKiss & Smile 洒落たまじない言葉
Kiss & Smile 低くつぶやくだけで
Kiss & Smile 倖せになれる Mu Mu・・・・・・・・・
心まで眩しい朝の光
あなたは"Wrangler"
私は麻のシャツ洗いざらし
鱒のある言葉はもうすててほほえむ HA
やさしさとは重ねあった掌 HA
愛は空気・・・・・・・・・
そしてKiss & Smile 洒落たまじない言葉
Kiss & Smile 人が愛し合う事
Kiss & Smile 簡単な事でしょ Mu Mu・・・・・・・・・
心まで眩しい朝の光
そよかぜまねて あなたに溶けたい

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 415
#松本隆 #詩集
☆『Loving You』
いいのよ誰れにでも過去はあるもの
そして あやまちも
通りすぎた人の名前
話さないで今は
過去は過去よ その人に私が
良く似てても心が違う
My Love, My Love
もう想い出に頬づえなんてしないで
今ひととき Loving you
いいのよその人の写真 日記に
はさみ忘れても
ふれられたら痛い傷の
ひとつふたつあるわ
過去は過去よ そして明日になれば
私だけの心に変わる
My Love, My Love
もう想い出に頬づえなんてしないで
今ひととき Loving you
Loving you

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 414
#松本隆 #詩集
☆『ラスト ワルツインブルー』
あなたが浮かべた薄荷煙草の
煙が瞳にしみて痛いわ
涙がひとすじ頬をつたわり
飛び散る真紅のエナメルの靴
踊りましょうか 最後のワルツ
指を絡めて ねえ二人きり
踊りましょうか 踊りましょうね
la la la la la la la la la la la la la
それは嘘 みんな嘘
あなたは来ない
哀しみに頬寄せて私だけ舞う
Last Waltz in Blue 涙相手の舞踏会
夜空を指さす高層ビルに
灯りを点せば プラネタリウム
電話であなたは逢えないと言う
せつなく噛んだわ 爪のマニキュア
踊りましょうか 最後のワルツ
瞳見つめて ねえ今夜だけ
踊りましょうか 踊りましょうね
la la la la la la la la la la la la la
それは嘘 みんな嘘
あなたは来ない
手を宙にさしのべて独りくるくる
Last Waltz in Blue 涙相手の舞踏会
踊りましょうか 最後のワルツ
la la la la la la la la la la la la la
それは嘘 みんな嘘
あなたは来ない
泣きながら星空に輪を描くのよ
Last Waltz in Blue 涙相手の舞踏会

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