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マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
『80年代〜大滝詠一との再会 、ロンバケが遅れた本当の理由とは?』
'70年代の終わり頃からニューミュージックが台頭してきていた。歌謡曲とニューミュージックと演歌に洋楽、これらの音楽がヒットチャートを毎週入れ替わり立ち替わり目まぐるしくランダムに乱高下していた。日本の音楽シーンに於いて、若者が"自分たちの音楽"を推す風潮は実は1950年代からすでにあったはあった。ニューミュージックは歌謡曲とは明らかに歌の"造り"が違っていて、歌う楽曲はシンガー自身が作る、所謂シンガーソングライターが大半を占めていた。歌謡曲は作詞家、作曲家、レコードの音を決める編曲家が皆バラバラで餅屋は餅屋の分業制だったのだが、ニューミュージックの潮流を作ったのは、1970年デビューのはっぴいえんどである。但し、シンガーソングライターとはっぴいえんどのやり方はちょっと違っていて、その後台頭するシンガーソングライターたちの大半はレコード化する為の編曲まではプロのアレンジャーに発注したが、はっぴいえんどは自分たちで音を紡いでいった点である。まぁ、バンドだから当たり前、と思うが、1970年当時そこに踏み込むのは、既製勢力の壁が高くレコード業界ではその構図を打ち破るのには相当な勇気が必要だった。日本の音楽シーンにもそれなりの慣習が残っていた時代である。それまでの職業作家だった人たちがこの新たな潮流を嫌っていたのは言わずもがなだったが、一人だけ上手く迎合したのが筒美京平であった。筒美京平の作品はよく、洋楽をモティーフに作られている、と言われたが、その思考や在り方はニューミュージックのシンガーソングライターたちと全く機を一にしている。だから、時代が1980年代に入り洋楽の影響色濃い、ニューミュージックや後のJ-POPの時代に入ってからも筒美京平にはミュージシャンやアイドルからのオファーが絶えなかったのである。要約すると、日本のポップス史とは洋楽を如何に日本人の志向に合わせて作るか?が服部良一の時代からの命題だった、と言える。その日本のポップス史を研究したミュージシャンが大滝詠一だった。彼は1984年にアルバム『EACH TIME』を作り、個人としては初のチャート1位になったのを見届けるかのようにして、あっさりとシンガーソングライターを辞めた。1981年のアルバム『A LONG VACASION』のヒットに端を発して、丸3年間、ミュージシャンとして活躍して、他人への楽曲提供にも応じていたが、その三年間が嵐の様に過ぎ去ると彼は世間から身を潜めるかのように第一線からは遠ざかった。以後、あらゆる趣味に没頭する大滝は、三年周期で様々なことに没入しては印税やラジオの出演料で暮らしていた。活躍していた80年代から彼はテレビという媒体では唄わず全てのテレビ出演を断っていたが、その代わりラジオ📻には積極的に出演していた。そして一度没頭した趣味に回帰することも無かったが、本年9月13日土曜日23:00からNHKEテレで放映されたETV特集でクローズアップされた大滝のドキュメントの中で松本隆がインタビューに答えて……もうちょっと頑固にならずに長生きしてくれてたら、はっぴいえんどの再々結成もあったかもしれない……と語っていた"頑固にならず"は、この趣味癖のことを差しているんだろうなぁ、と私は直感で思っていた。長年の盟友ならでは言葉だった。
そんな大滝がはっぴいえんど以来、作品においては一度も組まなかった松本隆と再び組んだのが、『A LONG VACASION』だった。はっぴいえんど解散後、大滝は自己のレーベル『NIAGARA』(勿論、大滝の名に由来している)を設立したが、レコード会社が難航した。と、云うのも大滝ははっぴいえんど解散後から数々のCMソングを手掛けていて、そのCMソングの音源をレコード化したかった。それを条件に大手レコード会社を回ったが、どこも答えはNOだった。CMの音楽なんて誰が買う?。こんな感じで結局一番好感触を得たのが、大滝が一番嫌がっていたエレックレコードだった。エレックは当時吉田拓郎や泉谷しげる、佐藤公彦、海援隊、ずうとるびらを擁していた会社だったが、印税や契約に関することがアバウトで、大滝が嫌っていたのもそこが一番の要因だったようである。然し背に腹はかえられぬことから大滝は契約したのだが、嫌な予感は当たるもので、エレックレコードは1976年7月15日に倒産した。大滝は自己のレーベル『NIAGARA』を発足し最初に山下達郎や大貫妙子らがいたシュガーベイブのプロデュースを手掛けて、ファーストアルバム『SONGS』を1975年4月に、翌月に自己のアルバム『NIAGARA MOON』 をリリース。どちらも製作費を凌ぐほどの売上は出せ無かった。
田家が書いている通り、当時の大滝は作詞、作曲、編曲、自己のスタジオを持ちレコーディング、トラックダウン、マスタリングのエンジニアまですべて一人で受け持ち、果ては原盤管理に至るまで行った最初のミュージシャンであった。原盤管理についてはフジ・パシフィックの朝妻一郎という音楽に大変造詣の深い理解者がいたので、大滝は自己の音源を他者ではなく自身で管理しなければならない、との信条から1976年7月22日に株式会社ザ・ナイアガラ・エンタープライズを設立、会社の設立資金は朝妻のいるフジ・パシフィックからの援助も受けた。朝妻に関しては大滝のレコーディングに係る必要な資金を供出してくれる正にグレートコンポーザーであった。音楽は文化事業であることを分かってくれていて、単に損得勘定のみで考える人間ではなかった。朝妻がいたから、80年代の大滝の活躍があったと言っても過言ではなかろう。不遇だった70年代の大滝の活動を下支えしたのも朝妻だった。朝妻は、……彼なら間違いなくブレイクするって確信は70年代から思ってました。我々は長い目で音楽を見通さ無ければならないんです。当時の上司からは随分と責められましたが、大滝君や山下君には『時代がまだまだ全然追い付いて無かった』んでしょうね。彼らは先見性をもって音楽と向き合っていたんです。それだけは私の中にもずっとありました。だから、大滝君より山下君の方が♫RIDE ON TIME で先にブレイクしちゃったでしょ?あれれ?ってね(笑) 大滝君の時よりも山下君のブレイクの方が喜びが大きかったかな(笑)信じてたものがやっと報われたんだ、ってね。……
エレックレコードが倒産して大滝はコロムビアレコードと契約したのだが、レーベルは存続可能であり、大滝は契約金まで受け取る事が出来たのだが、大滝は契約そのものより契約金で16チャンネルのマルチトラックレコーダーを購入することの方を嬉しがった、という話は有名だ、と田家は書いている。しかしコロムビアレコードとの契約内容とは3年間でアルバム12枚、シングル12枚、つまり年間で両方4枚ずつというアイドル以上の過酷な条件を突きつけられたという。最終的にその条件はクリアしたが、中には大滝がプロデュースに専念した(2曲はヴォーカルでも参加)シリアポールの『夢で逢えたら』というオールディーズカバーアルバムや大滝の歌が入っていないインストアルバムも含まれていたのだから、コロムビアもよくこれでOKしたな……と思えるアルバムが含まれている。1976年から1979年までの3年余の間は殆ど毎日レコーディングスタジオに居たよ…と大滝の当時"丁稚"だった音楽評論家の湯川学が、後に大滝との回想談を録音したテープの中で親交のあった音楽評論家の萩原健太に語っていた大滝の言である。このテープは今回のETV特集で初披露されていた。田家はこの書の中で、『78年11月、12枚目のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」が出て契約満了、彼は晴れて自由の身となった』とある。コロムビア時代の、大滝名義及び大滝詠一名義のみならずとも少なくとも大滝のアルバムとしてカウントできる枚数は総じて11枚であった。これにはエレックレコード時代の『SONGS』と『NIAGARA MOON』のリイシュー盤を含む。田家が指摘した『LETS ONDO AGAIN』以後にはもう一枚アルバムが出ていた。これは契約枚数を消化させる為にコロムビアレコードがナイアガラ時代の山下達郎の音源を編んだベスト盤の様なものだった。それが1980年7月10日にリリースされたTATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA / 山下達郎 である。
因みに3年間の内シングルは9枚のみであり、こちらは契約不履行であった。
今月の1日に発行されたナイアガラの丁稚こと音楽評論家の湯川学が嘗て、レコード・コレクターズ誌で連載していた記事が上梓された『A LONG A LONG VACASION』の中でロンバケの担当ディレクターであった旧CBSソニーの白川隆三がインタビューに答えているのだが、大変興味深い証言を取り付けている。今や通説となっている松本隆が妹を亡くしてスランプに陥りロンバケの詞が書けなくなったからキャンセルしてきた、という件のことである。キャンセルしてきた松本に大滝は、発売なんて延期すればいいと言ったのは事実だが、そこで朝妻、大滝、松本、白川の4人が軽井沢で合宿して松本の再起の一助となった、という流れで語られているのは違う、という訳だ。松本隆の妹、由美子が亡くなったのは1980年6月28日のことだという。アルバムの当初の予定が1980年7月28日の大滝の誕生日で設定されていたことと鑑みると、松本の詞が発売の1ヶ月前の段階で上がって無かったというのは直接的には妹の死によるブランクとは関係ない次元でのディレイが生じていた事になる。これは今回出版された湯川の本で改めて分かった事実であった。軽井沢での合宿が発売予定だった1980年7月に行われたことも併せて考えるとロンバケの発売延期はもっと違う理由による制作上の何か、という事に他ならないしその真の理由には誰も何も発言していない。白川隆三はこのアルバムの担当ディレクターでありながら、制作面は全くタッチしていなかったという。白川がディレクターとしてやったことと言えば、大滝のレコーディングためにソニーのスタジオの確保に只管奔走していただけ、と言い切る。大滝の歌入れの為にシナソ(信濃町ソニースタジオ)のスタジオを3ヶ月に亘り立ち入り禁止にしたのは有名な話である。白川は他のディレクター達からのクレームを一身に受けたことは容易に想像できる。発売延期の理由については田家のこの本でも松本隆自身が自分の妹の死で詞が出来なくなり…と語っているCD解説を引用しているため、と紹介しているがこれも事実誤認であることが、今回はっきりしてしまったが白川の発言が如何に貴重な証言かが判るのである。






カナリア諸島にて
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ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 463
#松本隆 #詩集
☆『チューリップ』
君は言葉を選んで
とても言いにくそう
ぼくを傷つけないように
斜め横を見てた
不意の別れ
予感してたから
表情変えず
でも心は凍った
こんな風に理性を
制御できるって
誉めてほしかった
ぼくたちは大人だと
同じ夢を
追いかけた道も
今は遠く
平行線描いて
楽しい思い出ばかり
浮かぶ 不思議にね
君のいなくなる
この部屋の広さにも
慣れなきゃ
チューリップの球根から
根があんなにでてる
フラスコ越し 陽がキラキラ
奇麗ねと君が言う
庭の花壇に埋めて
あとは育てるよ
花が見れなくて
残念ね そう微笑う
あんな愛注いでも
日々は枯れてった
それは君のせいじゃなく
ぼくのわがまま

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 462
#松本隆 #詩集
☆『輪廻』
枯葉が散り 風に舞い大地に
触れる音が鼓膜に届いたの
あれは命の微かな悲鳴
葉の雨に抱かれ
人差し指 頬のカーブ撫でて
こんな風にめぐり逢えたことも
生まれる前に決まってたこと
そう 運命
滅びのあと誕生する
草や花の美しさ
回転する夜空の星座たち
見上げてたら吐く息も白いね
どちらかが死ぬ時が来るまで
ねえ そばに置いて
黒い髪であなたの指を巻く
悪いものがけしてつかぬように
不幸のあとに倖せが来る
そんな輪廻
滅びのあと誕生する
草や花の美しさ
涙拭いて微笑んでる
そんな人の愛と強さ

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 461
#松本隆 #詩集
☆『砂時計』
海鳴りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい
無理やりに鋏(はさみ)で切った
愛だから逆に縺(もつ)れる
運命(うんめい)を遮(さえぎ)りたくて
出した手がもう折れそうで
ほら雨が雪になりそう
泣き言(ごと)は喉(のど)で封(ふう)じた
砂時計 身体(からだ)ごと
心ごと砕(くだ)けてく
砂時計 手にのせた
人生が人生が零(こぼ)れてく
海鳴(うみな)りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい
定期入れ 家族の写真
男の子 生(い)き写(うつ)しだね
人のこと不幸に落とし
幸福(しあわせ)になれないでしょう
傘(かさ)たたみ孤独を切って
荒海(あらなみ)を背にたたずめば
波しぶき 無数(むすう)の蝶(ちょう)が
慰(なぐさ)めの白を散らすの
砂時計 30秒
動かずに見つめてて
その瞳(ひとみ) 一生の
思い出に思い出にしたいから
砂時計 日々は砂
指を洩(も)れさらさらと
砂時計 掴(つか)んでた
人生が人生が零(こぼ)れてく
海鳴(うみな)りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい


ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 460
#松本隆 #詩集
☆『恋に落ちる』
恋に落ちるってのは
本当の墜落
立ってた地面が消え
上下左右もなく
falling love falling love
知り合って数秒後には
なんとなく理解し合える
どうやって生きてきたって
そんなこと何も知らずに
思いつく牽制球の
言葉投げ反応みたり
ブレーキをかけるつもりで
アクセルを踏み間違えて
恋に落ちるってのは
本当のきりもみ
輪を描いた花火の
残り火の糸たち
falling love falling love
理性など無意味なものね
羽根のない天使たちには
美しく弓の形に
背を反らし矢を放つだけ
恋に落ちるってのは
本当の墜落
立ってた地面が消え
上下左右もなく
falling love falling love
恋に落ちるってのは
本当のきりもみ
輪を描いた花火の
残り火の糸たち
falling love falling love


ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 459
#松本隆 #詩集
☆『セレナーデ』
優しくささやく夜の歌
静かな森までおいでって
梢がさわぐよ青い月
遊ぶ影
秘密の庭には誰一人
来ないから
小夜鳥 かわりに歌ってよ
あなたに言えない愛の歌
小夜鳥 苦しいぼくの恋
知っていて
嘆きの綺麗な笛を吹き
揺さぶって
かたくなな胸が少しずつ
動き出すように
恋人よ そばに来て
抱いてて
(訳)

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 458
#松本隆 #詩集
☆『枝垂桜』
白障子 指を束ねて
コンコンと狐の影絵
ねえお酒 弱くなったね
言葉尻 ふっと途切れて
静けさの落下傘たち
ぼくたちは抱き合っていて
どちらかが手を離したら
闇の底 墜落しそう
枝垂桜くらくら
枝垂桜くらくら
部屋に吹き込む花びらが
渦を描いて舞ってます
花びらが頬に貼りつく
とらないで このままでいい
嘘泣きで花の涙と
洒落てたらほんとに泣けた
一言を口に出したら
こなごなにすべて壊れる
ぼくたちはだから無口に
夜の音 耳すますだけ
枝垂桜くらくら
枝垂桜くらくら
酔いがまわったまぶたには
景色も円を描きます
時代には妥協できない
頑ななあなたの魂
悲しみの坂へと鞠を
抛るなど 私には無理
うなだれる首の角度で
生きている重みがわかる
疲れたら肩にもたれて
30分そっとお眠り
枝垂桜くらくら
枝垂桜くらくら
部屋に吹き込む花びらが
渦を描いて舞ってます

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 457
#松本隆 #詩集
☆『しゃっくり泣き』
異国の酒も飲み慣れるよね
だって食事が美味しそうだし
鞄ひとつの軽い荷物が
あなたの自由 物語ってた
港町 突堤に立てば
360度
哀しい景色さ
ああ あなたは何か
ジェスチャーしたね
ああ 汽笛で何も
聞き取れぬまま
ゴメンねと言ったのか
サヨナラと笑うのか
声にならない…しゃくり泣き
もどかしいほど口下手だけど
目は透明で嘘がなかった
冗談言って人を笑わせ
自分はあまり笑わなかった
不器用な生き方ね
人生っていつも
オチのないジョーク
ああ 背を向けたとき
伝わるものが
ああ 結局 人の
真実なのね
ゴメンねと言ったのか
サヨナラと笑うのか
声にならない…しゃくり泣き

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 456
#松本隆 #詩集
☆『フローズン・ダイキリ』
夜更け 眠れなくて
裏町のバー
意識飛ぶまで飲む
年頃じゃないし
何か話して
お洒落なバーテンダー
人生経験の
深いとこ見せて
私 自由だった
後悔はない
酔うとこの世の果て
境界に立って
日々の暮らしが
流れる川を見るの
過去っていいね
心が和む
付かず離れずにね
自分と歩く
愛しすぎず憎みすぎず
自然体で生きていたい
フローズン・ダイキリ
ハバナでヘミングウェイが
愛したお酒
一口いかが
付かず離れずにね
自分と歩く
愛しすぎず憎みすぎず
自然体で生きていたい
店じまいの時間なの もう
私 大丈夫よ
ふらつかず立てる
フローズン・ダイキリ
ハバナでヘミングウェイが
愛したお酒
飲み干してから
今夜は素敵
綺麗な夜空
今夜は素敵
綺麗な夜空

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 455
#松本隆 #詩集
☆『消しゴム』
会話の最後に
ため息ひとつ
あなたはあわてて
エア消しゴムで消す
ゴシゴシ
嫉妬の焼け焦げ
そらした視線
二人の透き間の
ギクシャクした時間
渦巻く
スプーンの形に
毛布にくるまって
背中を抱いた夜
言葉の矢は鋭くて
いつの間にかハリネズミ
消しゴム貸してね
私にも消したい過去
いくつかあるし
気楽な生き方
選べないから
コツコツ生きよう
邪な考え
消しさり
一雨きそうな
夜更けの物思い
嘘がほんとになる
言葉の矢は鋭くて
いつの間にかハリネズミ
売り言葉のあと買い言葉
どうしてこうなるのよ?
消しゴム貸してね
嫌いって言葉
いまデリートしたい
会話の最後に
ため息ひとつ
あなたはあわてて
エア消しゴムで消す
空気をこする

ミチフミ龍之介
~松本隆作品詩集~ # 454
#松本隆 #詩集
☆『不協和音』
湖の岸であなたは
枯れ枝に火をおこしてた
火の粉たち風に舞うたび
静けさの完璧な和音
愛してる 愛してる
何も不満はないけれど
不協和音 いつからか
空耳みたいに聞こえるの
不協和音 この恋は
いつからきしんで泣いたのか
明日まで 夏の休暇は
戻ったらいつもの日常
最近は惰性に生きて
プレッシャーもない振りしてる
愛してる 愛してる
そこに嘘などないけれど
不協和音 ささやきに
嫉妬の混じった声がする
不協和音 鍵盤が
そこだけ違った音程で
不協和音 いつからか
ノイズに似た音響いてる
不協和音 でもこんな
不思議な響きも嫌いじゃないわ

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翠

ュ‐リ

太郎
#俳句

狂悪な
#ばけばけ

いしろ
テソジヨンの意味は?
テソジヨンは、韓国の伝統的な文化や芸術に関連する言葉で、特に「テソジ」という言葉は、韓国の伝統的な衣装や装飾品を指します。具体的には、以下のような意味や特徴があります。
文化的背景: テソジヨンは、韓国の伝統的な美意識や価値観を反映したもので、特に儀式や祭りの際に重要な役割を果たします。
デザインと素材: 通常、絹や麻などの自然素材が使われ、色彩や模様は地域や時代によって異なります。これにより、着る人の地位や役割を示すことができます。
現代の解釈: 現在では、テソジヨンは伝統的な衣装だけでなく、現代のファッションにも影響を与えており、デザイナーたちがこの要素を取り入れた作品を発表しています。
このように、テソジヨンは韓国の文化に深く根ざした概念であり、伝統と現代が交差する興味深いテーマです。

(‘ω’)

あか
テソジヨンの特徴は何ですか?
テソジヨンの特徴は以下の通りです。
定義: テソジヨン(テソジヨン)は、韓国の伝統的な音楽や舞踊のスタイルを指します。特に、民俗音楽や伝統的な楽器を用いたパフォーマンスが特徴です。
楽器: テソジヨンでは、韓国の伝統楽器が多く使用されます。例えば、アリラン(弦楽器)や、チャンソ(打楽器)などが含まれます。
リズムとメロディ: テソジヨンの音楽は、独特のリズムとメロディが特徴で、聴く人を引き込む魅力があります。リズムはしばしば変化に富んでおり、ダンスと連動しています。
文化的背景: テソジヨンは、韓国の文化や歴史を反映しており、地域ごとに異なるスタイルや解釈があります。特に、祭りや特別な行事で演奏されることが多いです。
ダンス要素: テソジヨンには、音楽に合わせたダンスが含まれ、観客を楽しませる要素が強いです。ダンスは、表現力豊かで、しばしば物語を語るような動きが見られます。
このように、テソジヨンは韓国の伝統文化を色濃く反映した音楽スタイルであり、視覚的にも聴覚的にも楽しませてくれるものです。

しゅー
#ばずふら

ねけ

る!🐧
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