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𝕂𝕒𝕠𝕣𝕚🫧
ゆっくり読書したいなって思ったけど、読書するにも安定した精神と、余裕が無いと出来ないんだなと感じた[照れる]
ゆっくりお仕事スタート🏃♀️
行ってきます⟡.*
#写真好きな人と繋がりたい #ファインダー越しの私の世界 #GRAVITY写真部 #写真愛好家 #読書の星

旅路
Ana
「世界の美しい図書館」
著者:パイ インターナショナル
写真:㈱アフロ他
世界の〜シリーズの図書館。
ユネスコの世界遺産としても登録されている歴史的な図書館や、巨匠による最新鋭の名建築など、世界各国の豪華な図書館やユニークな施設を100館掲載。
学校と記載レイアウトはほぼ一緒です。
1つだけ行けるのなら
街とスラムをつなぐスペイン図書館へ
#読書の星 #読書 #図書館


彼方@休眠中
ポーチなのに、
文庫のブックカバーになる!!
これを見よ!!
#読書好き #読書の星 #読書の秋




とも
3発目、読み始めました📚️←遅いか🐌💨💦
あぁーーっ‼️えぇー⁉️
何だよ、『国宝』は彼だったのね😳←これまた恥ずかしい話💦
どーか『横道世之介』シリーズも『国宝』も…本で読んでから→画像を見ましょか🤭
#お疲れGRAVITY
#読書の星
#吉田修一


かめ
〈あらすじ〉
IT企業「スピラリンクス」の最終選考に残った波多野祥吾は、他の五人の学生とともに一ヵ月で最高のチームを作り上げるという課題に挑むことに。うまくいけば六人全員に内定が出るはずが、突如「六人の中から内定者を一人選ぶ」ことに最終課題が変更される。内定をかけた議論が進む中、発見された六通の封筒。そこには「●●は人殺し」という告発文が入っていたー六人の「嘘」は何か。伏線の狙撃手が仕掛ける究極の心理戦!
〈感想〉
伏線とミスリードの連続でそれぞれの人物に対するイメージが二転三転。特に終盤にかけて伏線を掻っ攫っていく気持ちよさがたまらない!ただの犯人探しだけでは終わらない人狼的な駆け引きも楽しい!就活あるある満載で就活経験者は笑えると思うし、これから就活する人にもおすすめ!
#読書
#読了
#読書の星

かすみ
下記の本が好きです♪
銀河鉄道の夜/宮沢賢治
星の王子さま&人間の土地
/サン=テグジュペリ
シュガータイム/小川洋子
青い鳥/メーテルリンク
スプートニクの恋人/村上春樹
生まれ出る悩み/有島武郎
赤毛のアン/モンゴメリ
真夜中のピクニック/恩田陸
天使の骨/中山可穂
ムーンライト・シャドウ/吉本ばなな
美しい村・風立ちぬ/堀辰雄
戯作三昧/芥川龍之介
草枕/夏目漱石
魅せられたる魂/ロマンロラン
サロメ/ワイルド
即興詩人/アンデルセン
愛の妖精/ジョルジュサンド
ゲド戦記/ル・グィン
トムは真夜中の庭で/
フィリッパ・ビアス
クローディアの秘密/
カニングズバーグ
ジェニー&トマシーナ/
ポール・ギャリコ
#GRAVITY読書倶楽部
#読書の星

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マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
『80年代〜大滝詠一との再会 、ロンバケが遅れた本当の理由とは?』
'70年代の終わり頃からニューミュージックが台頭してきていた。歌謡曲とニューミュージックと演歌に洋楽、これらの音楽がヒットチャートを毎週入れ替わり立ち替わり目まぐるしくランダムに乱高下していた。日本の音楽シーンに於いて、若者が"自分たちの音楽"を推す風潮は実は1950年代からすでにあったはあった。ニューミュージックは歌謡曲とは明らかに歌の"造り"が違っていて、歌う楽曲はシンガー自身が作る、所謂シンガーソングライターが大半を占めていた。歌謡曲は作詞家、作曲家、レコードの音を決める編曲家が皆バラバラで餅屋は餅屋の分業制だったのだが、ニューミュージックの潮流を作ったのは、1970年デビューのはっぴいえんどである。但し、シンガーソングライターとはっぴいえんどのやり方はちょっと違っていて、その後台頭するシンガーソングライターたちの大半はレコード化する為の編曲まではプロのアレンジャーに発注したが、はっぴいえんどは自分たちで音を紡いでいった点である。まぁ、バンドだから当たり前、と思うが、1970年当時そこに踏み込むのは、既製勢力の壁が高くレコード業界ではその構図を打ち破るのには相当な勇気が必要だった。日本の音楽シーンにもそれなりの慣習が残っていた時代である。それまでの職業作家だった人たちがこの新たな潮流を嫌っていたのは言わずもがなだったが、一人だけ上手く迎合したのが筒美京平であった。筒美京平の作品はよく、洋楽をモティーフに作られている、と言われたが、その思考や在り方はニューミュージックのシンガーソングライターたちと全く機を一にしている。だから、時代が1980年代に入り洋楽の影響色濃い、ニューミュージックや後のJ-POPの時代に入ってからも筒美京平にはミュージシャンやアイドルからのオファーが絶えなかったのである。要約すると、日本のポップス史とは洋楽を如何に日本人の志向に合わせて作るか?が服部良一の時代からの命題だった、と言える。その日本のポップス史を研究したミュージシャンが大滝詠一だった。彼は1984年にアルバム『EACH TIME』を作り、個人としては初のチャート1位になったのを見届けるかのようにして、あっさりとシンガーソングライターを辞めた。1981年のアルバム『A LONG VACASION』のヒットに端を発して、丸3年間、ミュージシャンとして活躍して、他人への楽曲提供にも応じていたが、その三年間が嵐の様に過ぎ去ると彼は世間から身を潜めるかのように第一線からは遠ざかった。以後、あらゆる趣味に没頭する大滝は、三年周期で様々なことに没入しては印税やラジオの出演料で暮らしていた。活躍していた80年代から彼はテレビという媒体では唄わず全てのテレビ出演を断っていたが、その代わりラジオ📻には積極的に出演していた。そして一度没頭した趣味に回帰することも無かったが、本年9月13日土曜日23:00からNHKEテレで放映されたETV特集でクローズアップされた大滝のドキュメントの中で松本隆がインタビューに答えて……もうちょっと頑固にならずに長生きしてくれてたら、はっぴいえんどの再々結成もあったかもしれない……と語っていた"頑固にならず"は、この趣味癖のことを差しているんだろうなぁ、と私は直感で思っていた。長年の盟友ならでは言葉だった。
そんな大滝がはっぴいえんど以来、作品においては一度も組まなかった松本隆と再び組んだのが、『A LONG VACASION』だった。はっぴいえんど解散後、大滝は自己のレーベル『NIAGARA』(勿論、大滝の名に由来している)を設立したが、レコード会社が難航した。と、云うのも大滝ははっぴいえんど解散後から数々のCMソングを手掛けていて、そのCMソングの音源をレコード化したかった。それを条件に大手レコード会社を回ったが、どこも答えはNOだった。CMの音楽なんて誰が買う?。こんな感じで結局一番好感触を得たのが、大滝が一番嫌がっていたエレックレコードだった。エレックは当時吉田拓郎や泉谷しげる、佐藤公彦、海援隊、ずうとるびらを擁していた会社だったが、印税や契約に関することがアバウトで、大滝が嫌っていたのもそこが一番の要因だったようである。然し背に腹はかえられぬことから大滝は契約したのだが、嫌な予感は当たるもので、エレックレコードは1976年7月15日に倒産した。大滝は自己のレーベル『NIAGARA』を発足し最初に山下達郎や大貫妙子らがいたシュガーベイブのプロデュースを手掛けて、ファーストアルバム『SONGS』を1975年4月に、翌月に自己のアルバム『NIAGARA MOON』 をリリース。どちらも製作費を凌ぐほどの売上は出せ無かった。
田家が書いている通り、当時の大滝は作詞、作曲、編曲、自己のスタジオを持ちレコーディング、トラックダウン、マスタリングのエンジニアまですべて一人で受け持ち、果ては原盤管理に至るまで行った最初のミュージシャンであった。原盤管理についてはフジ・パシフィックの朝妻一郎という音楽に大変造詣の深い理解者がいたので、大滝は自己の音源を他者ではなく自身で管理しなければならない、との信条から1976年7月22日に株式会社ザ・ナイアガラ・エンタープライズを設立、会社の設立資金は朝妻のいるフジ・パシフィックからの援助も受けた。朝妻に関しては大滝のレコーディングに係る必要な資金を供出してくれる正にグレートコンポーザーであった。音楽は文化事業であることを分かってくれていて、単に損得勘定のみで考える人間ではなかった。朝妻がいたから、80年代の大滝の活躍があったと言っても過言ではなかろう。不遇だった70年代の大滝の活動を下支えしたのも朝妻だった。朝妻は、……彼なら間違いなくブレイクするって確信は70年代から思ってました。我々は長い目で音楽を見通さ無ければならないんです。当時の上司からは随分と責められましたが、大滝君や山下君には『時代がまだまだ全然追い付いて無かった』んでしょうね。彼らは先見性をもって音楽と向き合っていたんです。それだけは私の中にもずっとありました。だから、大滝君より山下君の方が♫RIDE ON TIME で先にブレイクしちゃったでしょ?あれれ?ってね(笑) 大滝君の時よりも山下君のブレイクの方が喜びが大きかったかな(笑)信じてたものがやっと報われたんだ、ってね。……
エレックレコードが倒産して大滝はコロムビアレコードと契約したのだが、レーベルは存続可能であり、大滝は契約金まで受け取る事が出来たのだが、大滝は契約そのものより契約金で16チャンネルのマルチトラックレコーダーを購入することの方を嬉しがった、という話は有名だ、と田家は書いている。しかしコロムビアレコードとの契約内容とは3年間でアルバム12枚、シングル12枚、つまり年間で両方4枚ずつというアイドル以上の過酷な条件を突きつけられたという。最終的にその条件はクリアしたが、中には大滝がプロデュースに専念した(2曲はヴォーカルでも参加)シリアポールの『夢で逢えたら』というオールディーズカバーアルバムや大滝の歌が入っていないインストアルバムも含まれていたのだから、コロムビアもよくこれでOKしたな……と思えるアルバムが含まれている。1976年から1979年までの3年余の間は殆ど毎日レコーディングスタジオに居たよ…と大滝の当時"丁稚"だった音楽評論家の湯川学が、後に大滝との回想談を録音したテープの中で親交のあった音楽評論家の萩原健太に語っていた大滝の言である。このテープは今回のETV特集で初披露されていた。田家はこの書の中で、『78年11月、12枚目のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」が出て契約満了、彼は晴れて自由の身となった』とある。コロムビア時代の、大滝名義及び大滝詠一名義のみならずとも少なくとも大滝のアルバムとしてカウントできる枚数は総じて11枚であった。これにはエレックレコード時代の『SONGS』と『NIAGARA MOON』のリイシュー盤を含む。田家が指摘した『LETS ONDO AGAIN』以後にはもう一枚アルバムが出ていた。これは契約枚数を消化させる為にコロムビアレコードがナイアガラ時代の山下達郎の音源を編んだベスト盤の様なものだった。それが1980年7月10日にリリースされたTATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA / 山下達郎 である。
因みに3年間の内シングルは9枚のみであり、こちらは契約不履行であった。
今月の1日に発行されたナイアガラの丁稚こと音楽評論家の湯川学が嘗て、レコード・コレクターズ誌で連載していた記事が上梓された『A LONG A LONG VACASION』の中でロンバケの担当ディレクターであった旧CBSソニーの白川隆三がインタビューに答えているのだが、大変興味深い証言を取り付けている。今や通説となっている松本隆が妹を亡くしてスランプに陥りロンバケの詞が書けなくなったからキャンセルしてきた、という件のことである。キャンセルしてきた松本に大滝は、発売なんて延期すればいいと言ったのは事実だが、そこで朝妻、大滝、松本、白川の4人が軽井沢で合宿して松本の再起の一助となった、という流れで語られているのは違う、という訳だ。松本隆の妹、由美子が亡くなったのは1980年6月28日のことだという。アルバムの当初の予定が1980年7月28日の大滝の誕生日で設定されていたことと鑑みると、松本の詞が発売の1ヶ月前の段階で上がって無かったというのは直接的には妹の死によるブランクとは関係ない次元でのディレイが生じていた事になる。これは今回出版された湯川の本で改めて分かった事実であった。軽井沢での合宿が発売予定だった1980年7月に行われたことも併せて考えるとロンバケの発売延期はもっと違う理由による制作上の何か、という事に他ならないしその真の理由には誰も何も発言していない。白川隆三はこのアルバムの担当ディレクターでありながら、制作面は全くタッチしていなかったという。白川がディレクターとしてやったことと言えば、大滝のレコーディングためにソニーのスタジオの確保に只管奔走していただけ、と言い切る。大滝の歌入れの為にシナソ(信濃町ソニースタジオ)のスタジオを3ヶ月に亘り立ち入り禁止にしたのは有名な話である。白川は他のディレクター達からのクレームを一身に受けたことは容易に想像できる。発売延期の理由については田家のこの本でも松本隆自身が自分の妹の死で詞が出来なくなり…と語っているCD解説を引用しているため、と紹介しているがこれも事実誤認であることが、今回はっきりしてしまったが白川の発言が如何に貴重な証言かが判るのである。






カナリア諸島にて

猪爪茉莉
起きてから今更ながら、これの長井短ちゃんのを読みました。そろそろいい加減後編買わないと…!
やはり女性の作品のほうが読みやすい!だけでなく、短ちゃんはヲタク女子だから、我々ヲタクはめっちゃ刺さるんだよなぁ[ハートポーズ][最高][すき]
男女のあれこれの話かと思ってたら突然タイトル回収始まって、早く後編読みたい!!
#長井短 #続押し入れの冒険 #読書の星


카오리
本を買う時の決め手を教えてください。
1.表紙のデザインに惹かれた
2.タイトルに惹かれた
3.著者の文体や個性が好きだから
4.帯の紹介文やコメント
5.裏表紙の内容紹介
6.直木賞、本屋大賞を受賞していたり、話題になっているから
7.人から薦められた
8.その他
#現在進行形で読んでる本を教えて
ちなみに私は #片付かないふたり です
#読書
#読書の星

マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
80年代〜竹内まりやと山口百恵への提供楽曲
松本隆が79年に提供したその他の楽曲についてもこの本ではしっかりと検証されている。
前回書いたまりやへの提供楽曲♫SEPTEMBER はサウンド的にも作曲者 林哲司自らが編曲に当たりナイーブな松本の詞に彩りを加えている。所収されたアルバム『LOVE SONGS』自体の構成も奮っていて♫SEPTEMBER に入る直前、♫M・A・R・I・Y・A まりや ヒットパレード と云う短いジングルがコーラスで入る。まるでラジオ番組宜しく粋な構成である。間髪入れずに♫SEPTEMBER のブラスで始まるあのOP.が始まる。アメリカのウェスト・コースト調の垢抜けた前奏にギターの短いリフが気が利いている。リズミカルな前奏に続いてまりやの甘いヴォーカルが始まると、もう気分はアメリカンである。そこに終始まりや、大貫妙子、まだデビュー前であったがEPOと云う名前で既にクレジットされた佐藤永子の三人によるよく練られたコーラスワークが巧みで、何ロールも聴き返すうちに段々とまりやの唄よりもコーラスの方にも注意して聴きたくなる、そんな不思議な魅力を讃えた作品である。前回書いたこの楽曲の担当ディレクターだった宮田茂樹が年末の賞レースに参加させるための、勝負シングルに松本を起用する、と云うすでに松本隆はそう云う存在になっていた。だが、松本自身は他方で、ある種の寂寥感を感じてもいて、それがまりやへの他の提供楽曲に色濃く投影された。
話はそこに触れる前に田家は、同時期に山口百恵へ書いた楽曲に触れている。桑名正博へ書いた♫セクシャルバイオレットNo.1 が初めてオリコンチャートの1位になった'79年10月、大阪厚生年金会館のステージに立った山口百恵は俳優 三浦友和との恋人宣言をした。今でこそそう珍しくはないこうした人気タレント同士の交際宣言は、当時波紋を呼び、賛否両論が起こったが世間のムードやマスコミは一様に歓迎・祝福ムードであった。
後に尾道三部作等で評価される名監督の大林宣彦がその殆どのCM作品を演出した百恵と友和共演のグリコアーモンドチョコレートの作品でアツアツ振りを見せつけていた主演の二人が、リアルに交際するという事実にファンからも賛否両論が巻き起こったのだ。そんな事はそれまであり得なかったし、信じたくない、と云うのが素直なファン真理であろう。12月にリリースされた70年代最後を飾る百恵のシングル♫愛染橋 は松本が作詞、アリスの堀内孝雄が作曲であった。…微笑んで渡れば恋がかなう…と云う伝説の橋、大阪・日本橋(にっぽんばし)のすぐ南に位置するこの橋を舞台に、…結婚なんて旧(ふる)い言葉に縛られたくなくて…渡りたいけど渡れない…と云う迷いの歌でもある。CBSソニーのヒットメイカーキングだった酒井政利ディレクターから指定があったと云う関西弁を歌詞に盛り込む、と云う作業は生粋の東京っ子の松本にとっても刺激のある仕事だったに違いない。百恵は翌年'80年3月7日、三浦友和との結婚・引退を表明する。名曲♫SEPTEMBER を含む4曲の松本作品が入ったまりやの3rdアルバム『LOVE SONGS』リリースの2日後のことであった。その中の一曲♫象牙海岸 。
…海岸線沿いに 夏雲が雪崩れると
砂の蜃気楼に 立ちすくむ影ひとつ
人影もない入江 そこが二人の秘密の場所で
象牙海岸と名前までつけた 遠い夏
あれから私 時の波間を
ただ流れ木のように
ひとりで生きて来たの
もう一度 訪ねても
道順さえも記憶の彼方
夢の中で見た 風景のように 遠い夏
あなたのあとに 愛を知っても
ただ流れ木のように
岸辺で踊っただけ
三年をへだてて あなたから来た電話
懐かしい名前に 忘れてるふりをした
冷たいと言われたけど
本当の気持ちもし話しても
過ぎ去った時を埋めるものはない
遠い夏…遠い夏…遠い夏…
♫SEPTEMBER に引き続きこちらも林哲司の作編曲。随所で半和音が活かされた印象的且つノスタルジックな曲構成。まりや自身が後にこう回想している。…今、あらためて感じるのは、林さんは私の声の特徴や歌い癖をうまく捉えて、それを生かすメロディを書いて下さっていたんだなあ、ということ。日本の音楽界でも貴重なMOR(ミドル・オブ・ザ・ロード)の作曲家だと思います…
松本隆は後の自選作品CD集『風街図鑑』の中で、この海岸が何処をモデルにしたのか種明かししている。…伊豆をドライブしていた時にフッと心魅かれた海岸で、二度と自分でも行けない架空の場所…としている。つまり、モティーフは伊豆の海岸なんだろうが、具体的な場所については明かしてはいない。"人影もない入江"とされているから地形が入江になっている伊豆の海岸を探すしかないのだろう。松本に、余り詮索しない事だ、と言われている様なものだ。
もう一つの名曲♫五線紙 。安部 恭弘の作編曲でほぼアカペラのみ、使用されている楽器はギター1本。リズミックで杉真理の楽曲を彷彿とさせる明るい調。それもそのはずで、慶應義塾大学時代は先輩だった杉真理の主宰していたリアル・マッコイズに所属、従って竹内まりやとも知遇を得ていた。安部のデビューは'82年だからこれはまだデビュー前の作品ということになる。早速松本の書いた詞を見てみよう。
…あの頃のぼくらは
美しく愚かに
愛とか平和を詞(うた)にすれば
それで世界が変わると信じてた
耳元を時の汽車が
音もなく過ぎる
ぼくの想い出の時計は
あの日を差して止まってる
十二弦ギターの
銀の糸張りかえ
旧い仲間もやって来るさ
後ろの席でひっそり見てくれよ…
松本が『風街図鑑』の中で書いたところによると…今みたいにはっぴいえんどが伝説になっていなかった時代だから、(竹内まりやが)あの曲を選ぶセンスを渋いなぁと感心した。だからその人に詞を頼まれたときに、12弦ギターを抱いた大滝(詠一)さんや細野(晴臣)さんが行間に見え隠れしてしまったんだね。きっと一人で作詞家してるのが寂しかったんだと思う…と非常に深い心情を語らせていた。この発言は松本の当時の心境が実にしみじみと語られいて、興味深い。そう言えば、この曲は以前竹内まりやのアマチュア時代に牧村憲一が何とか口説いてレコーディングさせた鈴木茂の曲になる
♫8分音符の詩(うた) のアンサーソングであると田家は分析している。はっぴいえんど結成から丁度10年の節目、この年の松本隆の感傷なのであった。松本自身も丁度30歳になっていた。
続




象牙海岸
Y
#読書の星


マサヤス 龍之介
#読書の星 #松本隆
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
80年代〜竹内まりやの登場
1979年のヒット曲についてはスージー鈴木の別著に詳しいがWikipediaで調べるまでもなく田家が
記しているところによれば、この年のレコード大賞受賞曲はジュディ・オングの♫魅せられて だった。当時13歳だった私は子供なりにその瞬間を固唾を飲んでテレビで見守っていたが、ジュディ・オングの名が呼ばれた瞬間にジュディ・オングの横に座っていたジュリーこと沢田研二が悔しそうな表情とジェスチャーをしていたことを覚えている。この場面は賞レースが如何に激しかったかを物語っていて興味深いが、今レコード大賞発表の席でエントリーされた人が大賞を逃したからと言ってジュリーのようなリアクションをする者は誰もいないであろう。それほどレコード大賞の権威は地に落ちている、と言えるだろう。大賞を貰って泣く人はいるかも知れないが……。
1979年のレコード大賞新人賞の5人の中に入っていたのが竹内まりやであった。受賞曲はご存知
♫September 。松本隆が作詞、林哲司が作編曲して作られた。林は岡田奈々のアルバムで既にアレンジャーとして起用されて頭角を表していた。竹内まりやのデビューにまつわるエピソードは以前この『岸辺の100冊』で紹介した牧村憲一の著作のときに詳細が記されていてそのことにも触れたので重複を避けるためにここでは割愛する。
この田家の著作の中で以前に紹介していない証言やエピソードを書いてみる。田家はFM COCOLOのラジオ番組でJ-POPレジェンド・フォーラムというラジオ番組を手掛けてパーソナリティとしても出演していたが、『竹内まりや特集』の回で牧村憲一をゲストに迎えた際に貴重な証言を引き出している。「鈴木茂のアルバム『lagoon』であの曲を聴いた時になんていい曲なんだ、と思ったんです。まりやさんは全くプロになる気がなくて最初は消極的だったんですが、アマチュア学生のままでいいから参加してほしい、とあの曲を提案したら二つ返事でOKになった」と話したという。あの曲、というのが松本隆が詞を書いた♫8分音符の詩 であり牧村憲一が学生のまま参加させたアルバムがロフトというライブハウスを展開していた平野悠がビクターと組んで立ち上げたロフトレーベルからリリースした『ロフトセッションズ』だった。
竹内まりやの曲♫September は3枚目のシングルで1979年8月21日にリリースした。当時竹内まりやの担当ディレクターだった宮田茂樹は2017年に彼のウェブサイトのコラムの中で♫September
についてこう述べている。「それまで出ていた2ndアルバムまでの評判は良かったけれど、シングルヒットが必要だった。会社の方針もあって不本意ながら年末の賞レースに参加するための曲だった」不本意…だったのは宮田茂樹というか竹内まりやの意思のことを語っているのだと思う。竹内まりやは所謂、あっち側に与したくないシンガーだったが所属事務所の意向で芸能人的なプロモート活動を強いられて軽いノイローゼにこの後陥ってしまう。同期の杏里も♫オリビアを聴きながら でデビューしてすぐ同じように病んだのだという。この時期のこうした純粋に音楽がやりたくてプロになったシンガーやミュージシャンが一様に陥る病み期には共通したブラックさが憑いて回る。それは所属する事務所から芸能人的キャラクターを演じさせられる。そしてテレビ業界側のスタッフらからの雑な扱い。大雑把に言えば以上の2点は殆どのミュージシャンがその後日談を語る時に必ず出てくる裏話である。共にあっち側への苦情だ。ある者はそれにより結局ミュージシャンを引退して裏方に回ったり、心身共に疲れ果てて故郷に帰ったり、一般人に戻ったりしている。そういう点で言えば竹内まりやは見事に復活再生し、更に飛翔した類稀なケースと言えるであろう。
それだけ山下達郎との出逢いは大きかったと言える。半分アイドルの様な扱いに嫌気がさしていた竹内まりやは同業者で唯一胸襟を開いて話せる相手が山下達郎であったことが大きな救いとなったからである。というのも、山下達郎もデビュー以降アルバムを3枚リリースしてもちっとも売れず、半ばミュージシャン1本で行う活動を諦めかけていた時期があったので、その経験談が竹内まりやに刺さったのだった。二人の友情が愛情に変わるのは必然だったのかも知れない。やがて同棲生活に入るもすぐに週刊誌メディアに嗅ぎつけられ、すっぱ抜きに遭うが山下達郎は芸能人としての自覚すらなかったし、プライドが高潔だったからメディアからの攻撃は完全オミット状態としたが、竹内まりやは何せ半分アイドルだったから、そうしたマスコミ攻撃から逃れようもなく、インタビューやパパラッチの様なメディアからのオファーにも真摯に答えざるを得なかった。が、彼女は開き直る事にした。山下達郎との同棲も潔く認めた。こういう姿勢も彼女らしくていい。そうなると自体は一気に進み1982年4月16日に東京・六本木の出雲大社東京分祠で行われた。
話は♫September に戻るが担当ディレクターだった宮田茂樹は松本隆の起用についても先のブログで語っている。「松本さんとの仕事は初めてでしたが、キャンパス・ライフ、夏休み、出会いや別れ、秋のせつなさ、ブラッドベリーの"10月は黄昏の国"風味、こんなプロットを織り込んで一級品に仕上げることの出来る作詞家は彼しかいないと思っていましたので、初顔合わせの打ち合わせも滞りなく済ませることが出来ました」
田家の作品解題が見事なのでそのまま引用するが♫September は辛子色のシャツ追いながら電車に飛び乗る。映画のファーストシーンのような情景。松本隆の言葉を借りれば「移動系」楽曲に括られる。主人公が動いている。それ以前の作品で移動系の傑作だったのは太田裕美の♫九月の雨
だ。奇しくも同じ九月が主題だ。タクシーに乗り込んで運転手にあなたの住所を告げるところから物語が動き出す。♫September では夏の陽が弱まるように心に翳がさしてゆく九月。涙が木の葉になってゆく。あなたが心変わりしている年上の人に会いに行こうと思ったりもする。秋に変わったと私に飽きたは秋と飽きの掛詞である。借りていたのが辞書ではなくてディクショナリーなのは、宮田の云う"キャンパスライフ"のイメージそのものだ。そして"LOVE"という言葉を切り抜いて返すさよならのメッセージに思い当たった人もいるはずだ。辛子色のシャツで始まり、トリコロールの海辺の服でおわる4分31秒で綴る心変わりのストーリー。ダメ押しの1行が…私ひとりが傷付くことが残されたやさしさね…だろう。やさしさを相手に求めない。演歌のような怨み節にならない。自分に言い聞かせている。取り乱せない知性ゆえのいじらしい切なさ。そうしたストーリーは"そして九月はさよならの国"と弾むようなリフレインで場面が変わってゆく。この表現法はまさに映像的である。これはユーミンにも言えることだが、優れた作詞家はやはり詞を書いてもそれがはっきりと脳裏に映像が流れるものだ。ユーミンの場合は不思議とカラー作品だな。色まで見えてくる。松本隆の場合は私はいつも思っているのはこの人の詞はいつも白黒映像であるといこと。色は付かない。1970年代の東京はいつも光化学スモッグに覆われていたからだろうか?



September
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