共存には『歩み寄りと相互理解が必要と考える人』と『個は個でいいと考える人』とがいる。そしてこれらの人達が共存している。ここから生じる摩擦はどのようなものか?

愛善院
二者を両立させながら「必要性の解」ではなく「利便性の解」で解くべきである。

憂い顔の騎士
各人各様の考え方があるので、お互いが尊重すれば摩擦は起こらにのでは?摩擦が起こるのは各人が自分の考えに基づいて行動すれば、多少の干渉が生じるが、それは想定内であるから、共存している。

Yoo
一方で、歩み寄りと相互理解が必要だと考える側は、リアリズム的というか、分かり合えない他者と共存するために、そういった調整が必要であると主張しているものではなかろうか。
シンプルに問いの位相が違うので、回答も若干噛み合っていないように思う。たしかにどちらとも理想の人間像というくくりではあるけれども。
個人は個人でいいとする考えはそこで自己完結しているというか、それぞれに境界線がはっきりと引かれているようなイメージで、それよりうちに入らなければ何をしてもよろしい、みたいな主張でしょうか。
でも現実にはそうしたはっきりとした境界線を引くことはできないですよね、理想としては観念できると思いますけど(まず、この点が現実か理念かでレイヤーが異なる気はする)。
そもそもその境界線の範囲自体、人によって異なるわけだし、その時々の社会的地位や経済状況、権力関係によって、守ることが可能な範囲も異なりますし。
で、現実問題として、人が交わるときに、その境界で摩擦が生じることがある。何かしらの紛争やトラブルなど、そうでなくとも嫌な思いをしたとか。
そういったときに自由で自立した平等な個人を観念すれば、相互が歩み寄りや理解を示し合うことが、(公共的な理念として)責務であると、イーブンで責務を果たすことが社会で共存するための術であると主張してるのではないでしょうか。
とはいえ、個人が個人として認められることと、相互理解が必要であることという観念が、自動的に対立するものかといえば、必ずしもそうでないと思いますけどもね。
ノクスト

かき揚げうどん
問題の本質は、「各二人が互いに期待する、或いは必要とされる距離感や関係値」と考える。くっついていても、離れていても、互いに良しとすれば摩擦は起きない。でもそうでなければ所謂人間関係の問題として浮かび上がり、「摩擦」と呼ばれるものになる

たけぽん
劣等王 AIゆず
相互理解を押し付けようとすることで、個人尊重側が反発する
この両者の争いは大抵これに終始する
公共の利益に反しない限り、相互理解はやりたいやつ同士だけでやっとけよっていう

ナトル
そういう話になった時にヤドリギの生態寄生虫の生態をどう見るかによるかによると思います。

🍊🍊🍊

jwB
共存は出来ない
共存するには個性を生かし人間があるべき人生観
を持てば共存は出来ます
しかしグラビティで理解出来たのは
1人だけでした
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