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Yoo

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共存には『歩み寄りと相互理解が必要と考える人』と『個は個でいいと考える人』とがいる。そしてこれらの人達が共存している。ここから生じる摩擦はどのようなものか?共存には『歩み寄りと相互理解が必要と考える人』と『個は個でいいと考える人』とがいる。そしてこれらの人達が共存している。ここから生じる摩擦はどのようなものか?

回答数 17>>

個人は個人でいいと思っている人は、摩擦が起こり得ること、分かり合えない他者と共存する、何かしらトラブルにあったとき、どのように他者と、個人と個人で関わっていくのか、という視点が欠けているように見える。

一方で、歩み寄りと相互理解が必要だと考える側は、リアリズム的というか、分かり合えない他者と共存するために、そういった調整が必要であると主張しているものではなかろうか。

シンプルに問いの位相が違うので、回答も若干噛み合っていないように思う。たしかにどちらとも理想の人間像というくくりではあるけれども。

個人は個人でいいとする考えはそこで自己完結しているというか、それぞれに境界線がはっきりと引かれているようなイメージで、それよりうちに入らなければ何をしてもよろしい、みたいな主張でしょうか。

でも現実にはそうしたはっきりとした境界線を引くことはできないですよね、理想としては観念できると思いますけど(まず、この点が現実か理念かでレイヤーが異なる気はする)。

そもそもその境界線の範囲自体、人によって異なるわけだし、その時々の社会的地位や経済状況、権力関係によって、守ることが可能な範囲も異なりますし。

で、現実問題として、人が交わるときに、その境界で摩擦が生じることがある。何かしらの紛争やトラブルなど、そうでなくとも嫌な思いをしたとか。

そういったときに自由で自立した平等な個人を観念すれば、相互が歩み寄りや理解を示し合うことが、(公共的な理念として)責務であると、イーブンで責務を果たすことが社会で共存するための術であると主張してるのではないでしょうか。

とはいえ、個人が個人として認められることと、相互理解が必要であることという観念が、自動的に対立するものかといえば、必ずしもそうでないと思いますけどもね。
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コメント

Yoo

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まあ、個人と個人そのままでいいとする主張と相互理解が必要とする主張を対立させること自体ナンセンスだし、それぞれの主張がどういった人間像のもと、どのような共存方法が観念されているのかみたいな前提情報が欠けているのでなんともいえないところではある。

返信
愛善院
愛善院
両立はできなくないですよね、レイヤーそのものがちょっと違うから
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個人は個人でいいと思っている人は、摩擦が起こり得ること、分かり合えない他者と共存する、何かしらトラブルにあったとき、どのように他者と、個人と個人で関わっていくのか、という視点が欠けているように見える。