
ぼー
線香の煙と朝に弱いです。
向いてないねって言われます。…負けないっ!
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ぼー
心が知らず知らずのうちに苦しんでるとき、
僕らは、ギャンブルでたとえるなら、
「負け」を取り戻そうとしてるのかもしれません。
努力すればするほど、心はリターンを求めますが、
掛け金に応じて必ずリターンがあるわけではありません。
掛け金は、努力のことです。
たとえば、種のないところに水やりしても、
ほとんどは知らない草が生えると思います。
どこに向かって努力するかがリターンを決めるんでしょうね。
「負け」を取り戻そうとするのは、
きっと心が過去の「負け」に縛られて、もう今を見ていないんでしょうね。
もう過ぎ去ったものを、
まだここにあると思いこんでしまうこと。
仏教では、これを「無明」と呼ぶらしい。
たぶん、僕らが抱えるいろんな煩悩は、
そこから静かに増えていくんだろうな。

ぼー
仏の智慧、
それはつまり「仏の心」なんだけど、
それってどんなものか?
密教のお経にはこんなふうに書いてある。
仏の智慧を分かりやすくするために3つに分解しよう。
するとこの3つになるんだ。
(1)菩提心(ぼだいしん)
自分も相手も成長するように
(2)大悲(だいひ)
存在を信頼し、決して傷つけることなく
(3)方便(ほうべん)
愛を感じ、感じさせていく。
言葉が足りないかもしれないから、もう少し説明するね?
これだけで分かった人はここまででいいよ。
(1)菩提心
よりよい方へ行く道は、
「自分だけ」得する道でも「相手だけ」得する道でもなく、互いが「生きる」道。
(2)大悲
存在すること自体の尊さを知る。
伸び方は上にも横にも地を這うようにも、ぐねぐねでもいいと知る。
そして、到達点も人それぞれ、皆んなの与えられた性質通りに伸びて、それで曼荼羅なのだと知る。
(3)方便
これはとても大事。愛を感じ、愛を伝えていく生き方。
愛とは、自分の役割と人の役割は違い、比べる必要も、否定し合う必要もないと知って、勇気を与え合うこと。
枝葉の手入れはしても、存在の根っこを傷つけてはいけないってことだと思う。
これなかなか意識しないと難しいんだよね。
それから、大悲のところ。
一見すると、皆んな良くて、なんでもいいのか?
って思う人もいるかもしれない。
でも、密教の戒律があってね、
一番問題なのは、菩提心を捨てることなんだ。
つまり、自分の芽を摘んじゃうこと。
自分の伸びしろを信じないこと。
逆に言えば、それを捨てなければ、
あなたはやっていけるってこと。
ではまた。

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー
完全に理解しなくても相手の言ってることを
受け止めたよってまずは伝えた方がいいんだ。
「あなたはそうなんだね」
って言ってあげた方がいいんだ。
分からないと怒られてたから、ほんとに分かんなかった。
変えていこうと思う

ぼー
山や川の、岩がごろごろしてるところを歩いていると、感じることがあります。
舗装された道だと、特に注意しなくても歩けるけど、それが当たり前じゃないことを。
スマホ歩きが問題になってるけど、
とてもじゃないけど、そんなことはできないです。
特に河原で足を出して踏んだ石や岩が、ゴロッと動かない保証はない。
どこにも見た目だけでパッと分かることはない。
自然と緊張感を持って慎重に歩くことになります。
舗装された道だと、無意識に足元よりも先の方を見て歩けるんだけど、
河原だとまずは足元を見ます。それからほぼ同時に次の一歩のところの石や岩を見ます。
言葉にするとややこしいけど、
怖いから誰でも自然にそうなると思います。
そんなときに思い出す言葉があります。
宮本武蔵が言った「見るでもなく見る」だったかな。
いつもどおりうろ覚えなんですが。
山河を歩いていると、その意味がわかる気がするんです。
うわの空や、一点に集中しすぎるのは、
どちらも怪我をする。
足元の、今ここの一点を見ているんだけど、
それだけじゃない。
そのほんの少しだけ先の未来も視界や意識には入ってる。
そして、ほんとに次の一歩はそこでいいのか?
という疑念も常にあります。
その周囲の石や岩はどうか?
足元の注意は中心ではあるけれど、
そこらへんまでちゃんと視界に入ってます。
瞬時に計算して、次の一歩に賭けてます。
仏教の空は、一点に執われることを戒めてるとも言えるでしょう。
理由はこれだけじゃないはずですが、
古来、山河が修行の場になって来た意味を感じます。
「見るでもなく見る」という話でした。

ぼー

ぼー

ぼー
回答数 191>>

ぼー
空中に華が見えたとしてもそれは実在するのではないように、
不確かなものに心がとらわれている私たちは、
ただただ妄想の縄に縛られ、
むなしく無明の酒に酔っているようなものです。
弘法大師『秘蔵宝鑰』
では確かなものとは?
空中の華が見えるとしたら、それは目の仕組みで、
本当は目と心、そしてキャンバスとなる外の世界が組み合わさっているだけ。
旅行から帰って、写真を見た時、こんなにも色々なものがあったんだなあと感じることがあります。
それは人間が、風景も音も、見たいもの聞きたい音を選択して、受け取っているからだといいます。
私たちは脳で視ている。
緑内障で視野が欠けてきても、脳が映像を補って(!?)
深刻化するまで気づかないそうです。
整理すると、
確かに外の世界はある。
でも、私たちは明らかにそれを自分たちの脳で映像化して見ている。
その映像を、外の世界そのものだと自動的に感じている。
「世界が妄想なのではない。
妄想を世界だと思い込むことが無明なのである。」
これを昔の仏教徒は「唯識(ゆいしき)」といいました。
犬とも虫とも違った、我々人間の認識する世界。
ただ我々人間の認識が、世界をそのように見せているのだけど、
そんなことには気づかずに、
「自分の感じ方=世界」だと思って、
他の人、存在にとっても世界は共通だろうと、無自覚に思い込んで会話をしています。
よく考えてみると、確かなのは、
私たちは同じ世界に生きていると思って話しているものの、
実際には「それぞれの認識世界」を突き合わせているにすぎない、ということです。
そりゃあ対話って難しいですよね。

ぼー
今は世界中が有機的につながった生活インフラになっていて、
一部を壊すと世界全体が不調になる。
戦争をすると自分自身を痛めつけることになる。
お経には、頭が2つある鳥が出てきて、
仲違いをして共倒れするんだけど、それを今の時代に感じる。
さあ、みんなどうしのいでいくのか。
それが分かる為政者なら、
国内政治への不満を外へ向けてるだけじゃないのか。
わからないのなら、それは怖い。

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー
他の人をチラ見したところからw

ぼー
僕は若い頃からいろんなものを欲しがって生きてきましたが、
最近、はっきり分かってきたことがあるんです。
それは、、、
これは、いつも僕が言っている、
「人間は言葉にだまされる」
ってことのひとつでもあるんですが、
自分では〇〇が好きと思っていたとしても、
実はいい塩梅を求めてるだけだったってことなんです。
多分、そのまま言うより分かりやすいと思いますので、一度、例を挙げて説明してみますね。
お風呂に入りますよね。
僕は熱い湯が好き、私はぬるめが好き…
人によって色々でしょう。
だけど、多分50度のお風呂に入る人はいないだろうし、30度のお風呂に入る人もいないと思うんですよ。
入ってて熱すぎると水を足すし、ぬる過ぎるとお湯を足すけど、
これは「水」が好きでも「お湯」が好きでもないですよね。
人間って不足を感じると、足りない「それ」を欲しがる。
日本は窮屈だって思って海外に行くと、
思ったよりカオスすぎたとか。
寂しいと人と会いたいけど、一緒にいすぎるとひとりの時間に憧れる。
結局、人はいい塩梅を求めてるんですね。
人は自分の欲求のことをよく分かっているようで、
それを言葉で誤解することが、ままあるのではないでしょうか。
だから、相手が言葉で何か求めてても、
それがその人なんじゃなくて、
お風呂の温度みたいに、
「ああ、いい塩梅を探してるんだなー」
くらいで聞いとくと、いいんだなって学びました

ぼー

ぼー
沢山盛り上がると大きな山。
その同じ山が、海から顔を出してたら…
島。
山の間に水がたまると、
島。
それが少ない水だと、
川。
山の間を流れる川。
背が高い人ももっと高いひとたちの集団の中では、低い人。
頭の良さもそう。
もっと頭の良いひとたちの中では…
逆に、関係性抜きにして名付けれるものってあります?
僕らは、違いを言葉にして日々暮らしてます。
言葉で決定的にしてませんか?
自己評価。他者評価。
自分が中心で、それを基準に他者の評価は決まるかもしれない。
でも、
それってほんとの評価なのでしょうか?

ぼー

ぼー
いいもんだな。
幼稚園の時にここでテレビで見た人が今でも歌ってる。
タイムスリップしたような変な感覚になる。
ゆく年くる年も変わらずあるのかな。
地デジ化してからテレビ持ってなかったなあ。
今年をゆっくりと見送り、
新たな年の、皆さんのご多幸を心からお祈りしてます。

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー
ごめんごめんに始まって、
ごめんごめんに終わる。
そこから、
ありがとうに入っていく

ぼー

ぼー
誰かと話していて、話が伝わらなかったり、どんどんこじれていくことってありますよね。
そんなとき、相手の意見や欲求を無理に飲み込んでしまえば、その場を穏便に済ませられることもあるでしょう。
もちろん、違う人間なのだから、「意見が違うことなんて、まああるよね」と思うこともできます。
でも、そう結論づける前に、会話の中で「受け止める」が多いと、違う価値観同士でもスムーズに意見交換できることがあります。
では、「受け止める」とは具体的に何でしょうか。
例えば、「あなたはそう感じるんですね」とか、「そうなんですね」といった言葉です。
つまり、相手の言っている意味を理解して、受け取りましたよ、というサインのことです。
宅配便が届いたときにサインをするように、会話の中にもこのサインがあると、相手は「意味は伝わったな」と感じ、それ以上の説明を繰り返さなくて済みます。
逆にサインがないと、相手は「理解できなかったのか、反対意見なのか」と迷い、説明を繰り返すかもしれません。
もしまだ理解できていなければ、「ちょっとまだ理解できていません」と伝えるのも立派なサインです。
逆に理解したなら、受け取りサインをしてから、「なるほどね…。それもいいけど、ではこういう考え方はどうですか?」と自分の意見を述べても構いません。
大事なのは、あなたは決して自分の気持ちに反したことを無理に「受け入れなくてもいい」ということです。
ひとりの人格として、自分の意見を持ち、それを伝える権利があります。
「受け入れ」を求め合うより、互いに「受け止め」をし合う方が、人間として成熟しているのだと思います。

ぼー
クリスマスソングかけながら、
仏教の勉強をしております
Happy Xmas (War Is Over) [feat. ザ・ハーレム・コミュニティ・コール]

ぼー

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ぼー


ぼー

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー

ぼー
枠内で生きる。
柵内で生きる。
安全で安心だ。
では、その中に仮にそうだな、
虎やクマがいたとしよう。
そうしたら、
枠や柵の外に出ることが安全。
当たり前だ。
固定観念というものは怖いもので、
枠や柵を安全の印と、
思い込んでしまったら、
さすがに虎やクマがいたら気づくけど、
危険にさらされていることに
気付けなくなってることもあるんじゃないかなあ。
例えば過度な心配、恐れ、勘繰り、嫉妬など。
(↑こういうのを煩悩というんだよ🤫)
枠が、柵があるから大丈夫?
いや、そこじゃないな。
危険が自分のそばにあるのか、
向こうにあるのか。
そう。
外の敵は見えやすい。
でも、内なる敵は見えないんだ。
ブレずに自分とぴったり重なってついてくるから。
静けさを知ろう。
なんでもいい。
お茶でもいい。
せせらぎでもいい。
花でもいい。
木でもいい。
空でもいい。
雲でもいい。
ロウソクの火でも。
お香の煙でも。
海を眺めるのでもいい。
時々、静けさに接しよう。
すると、自然と浮き上がってくるんだ。
内なる自分を辛くさせるものの姿がね。
そいつの姿に気づいたら、
そいつを責める前に、
そこにいたんだね?
と抱きしめよう。
荒ぶる敵は、孤立していたんだ。
だから、荒ぶっているんだ。
敵は敵じゃない。荒ぶってることが害だっただけ。
もう見つけたら、ハグしよう。
荒ぶりにあなたが同化するんじゃなく、
静かさを知ったあなたに、荒ぶりが同化するんだ。
一緒に喜んで行こう。
自分を救いに行こう。
瞑想(だけじゃないけど)はその境(さかい)、
自分に会える場所。
見えてる自分と、見えてなかった自分が出会うところ。
片割れがひとつになるところ。
枠や柵が取り払われて、
ひとつの自分を取り戻すところ。

ぼー
例え話をしよう。
サッカーでシュートが決まった。
スタープレイヤーがゴールを決め、
観客席は沸きあがる。
さて、確かにゴールを決めるのは、
試合の華であり、わかりやすい結果なんだけど、
でも、そこに至るまでのパス回しがあったから、
最後のゴールが決まった…。
もし、誰一人としてパスを出さなかったら、
あのゴールは生まれただろうか…?
…。
もう一つ、例え話をしよう。
地球儀をくるくると回して、
さて?どこが中心?
球の中心のことじゃなく、
どの国が中心だと思う?
…。
なんの話かと言うと、
僕は今、誰もが主人公という話をしようとしてるんだ。
誰もが自分のストーリーの主人公で、
誰かにとっては脇役なんだ。
お互いに脇役であり、
お互いに主人公。
そして、もう一つ付け加えると、
そのストーリーは、どれひとつ終わらない。
永遠の過去から、
永遠の未来まで、
途切れることなく、
ずっと続いていってる。
そう。自分とは、日頃思ってる自分のことじゃない。
普通、この生命の始まりから終わりが自分だと、
日頃は思って生きてるだろうけど、
主人公の姿は、その時々によって様々に変わっていくんだけど、
これらのストーリーはどれひとつ、
「終わったことがない」んだ。
ここですこし、サッカーに話を戻すよ?
…サッカーでパスを繋げたチームメイトとゴールを決めた人、どちらもお互いにリスペクトを持つ。
それがよいチームだと思う。
あらゆる組織も、互いにどのポジションの人に対してもリスペクトを持つ。
夫婦でも、先生と生徒のような関係でも、
これが組織の良い姿だと思う。
(もちろん、誰かに負担が集中してるなら、
続かないが…)
もうひとつの例え話、
地球儀の中心はあらゆる点であって、
「これ」と一つだけに絞れるものではない。
そして、
一個の点はあらゆる点とつながって、
ひとつの地球なのだし、
そもそも、一個の点というのは、
世界を狭めて見る人間の「測り方」によって、
そこだけが切り取られているのであって、
他と切り離された点など、この世にない。
これはサッカーの点や、地球儀の一点のことだけじゃない。
この宇宙全体の話をしているんだ。
宇宙の中のすべての
「主人公で名脇役な者たち」。
そのすべてが融け合ってできている宇宙は、
今この時もグオーっと動いている。
さあ、最後にこの話のまとめに入るね。
「主人公」という言葉を密教の用語である、
「大日如来」に置き換えてみよう。
みんな大日如来であって、他の人はその周りを囲む諸尊。
皆、互いに相手も主人公だと知っていて、リスペクトし合っている。
これを曼荼羅という。
真言密教を伝えた弘法大師は、
このようなことを伝えていると思う。
僕が学んできたことを簡単にまとめると、
「みんな主人公」。
…。
物語にゴールはない。
あるのは、ただ続いていく「今」という瞬間だけ。
誰もが主人公であり、互いを尊ぶ関係は、
今からつくることができる。
僕が習い、学んできたことを
分かりやすくする試み、
これからも続けていきます。
おやすみなさい。

ぼー





ぼー

ぼー
その時、初めて世界に参加したみたいに感じた。
それまでは部外者。
孤立。
運命になすすべもなく翻弄される存在。
本当に辛かった。
…でも…
そうじゃなかった。
自分はむしろ、運命そのもの。
言わば世界そのものだった。
自分を切り刻んで小さく思ってると、
翻弄だと感じていたけど、
本当は翻弄じゃなくて、
ともに振動しているのだった。

ぼー

ぼー
宇宙より大きな、
超超超大型犬になったつもりの、
そんな気持ちでいること

ぼー

ぼー
また旅の疲れが取れたら、お経の音声ルームやろ

