
ぼー
線香の煙と朝に弱いです。
向いてないねって言われます。…負けないっ!
彼女はいます!お友達は募集中!
音声ルームで、お経の練習や説教部屋やってます。
フォローしたらきっといいことあるよ🤭
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ごめんごめんに始まって、
ごめんごめんに終わる。
そこから、
ありがとうに入っていく

ぼー

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誰かと話していて、話が伝わらなかったり、どんどんこじれていくことってありますよね。
そんなとき、相手の意見や欲求を無理に飲み込んでしまえば、その場を穏便に済ませられることもあるでしょう。
もちろん、違う人間なのだから、「意見が違うことなんて、まああるよね」と思うこともできます。
でも、そう結論づける前に、会話の中で「受け止める」が多いと、違う価値観同士でもスムーズに意見交換できることがあります。
では、「受け止める」とは具体的に何でしょうか。
例えば、「あなたはそう感じるんですね」とか、「そうなんですね」といった言葉です。
つまり、相手の言っている意味を理解して、受け取りましたよ、というサインのことです。
宅配便が届いたときにサインをするように、会話の中にもこのサインがあると、相手は「意味は伝わったな」と感じ、それ以上の説明を繰り返さなくて済みます。
逆にサインがないと、相手は「理解できなかったのか、反対意見なのか」と迷い、説明を繰り返すかもしれません。
もしまだ理解できていなければ、「ちょっとまだ理解できていません」と伝えるのも立派なサインです。
逆に理解したなら、受け取りサインをしてから、「なるほどね…。それもいいけど、ではこういう考え方はどうですか?」と自分の意見を述べても構いません。
大事なのは、あなたは決して自分の気持ちに反したことを無理に「受け入れなくてもいい」ということです。
ひとりの人格として、自分の意見を持ち、それを伝える権利があります。
「受け入れ」を求め合うより、互いに「受け止め」をし合う方が、人間として成熟しているのだと思います。

ぼー
クリスマスソングかけながら、
仏教の勉強をしております
Happy Xmas (War Is Over) [feat. ザ・ハーレム・コミュニティ・コール]

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枠内で生きる。
柵内で生きる。
安全で安心だ。
では、その中に仮にそうだな、
虎やクマがいたとしよう。
そうしたら、
枠や柵の外に出ることが安全。
当たり前だ。
固定観念というものは怖いもので、
枠や柵を安全の印と、
思い込んでしまったら、
さすがに虎やクマがいたら気づくけど、
危険にさらされていることに
気付けなくなってることもあるんじゃないかなあ。
例えば過度な心配、恐れ、勘繰り、嫉妬など。
(↑こういうのを煩悩というんだよ🤫)
枠が、柵があるから大丈夫?
いや、そこじゃないな。
危険が自分のそばにあるのか、
向こうにあるのか。
そう。
外の敵は見えやすい。
でも、内なる敵は見えないんだ。
ブレずに自分とぴったり重なってついてくるから。
静けさを知ろう。
なんでもいい。
お茶でもいい。
せせらぎでもいい。
花でもいい。
木でもいい。
空でもいい。
雲でもいい。
ロウソクの火でも。
お香の煙でも。
海を眺めるのでもいい。
時々、静けさに接しよう。
すると、自然と浮き上がってくるんだ。
内なる自分を辛くさせるものの姿がね。
そいつの姿に気づいたら、
そいつを責める前に、
そこにいたんだね?
と抱きしめよう。
荒ぶる敵は、孤立していたんだ。
だから、荒ぶっているんだ。
敵は敵じゃない。荒ぶってることが害だっただけ。
もう見つけたら、ハグしよう。
荒ぶりにあなたが同化するんじゃなく、
静かさを知ったあなたに、荒ぶりが同化するんだ。
一緒に喜んで行こう。
自分を救いに行こう。
瞑想(だけじゃないけど)はその境(さかい)、
自分に会える場所。
見えてる自分と、見えてなかった自分が出会うところ。
片割れがひとつになるところ。
枠や柵が取り払われて、
ひとつの自分を取り戻すところ。

ぼー
例え話をしよう。
サッカーでシュートが決まった。
スタープレイヤーがゴールを決め、
観客席は沸きあがる。
さて、確かにゴールを決めるのは、
試合の華であり、わかりやすい結果なんだけど、
でも、そこに至るまでのパス回しがあったから、
最後のゴールが決まった…。
もし、誰一人としてパスを出さなかったら、
あのゴールは生まれただろうか…?
…。
もう一つ、例え話をしよう。
地球儀をくるくると回して、
さて?どこが中心?
球の中心のことじゃなく、
どの国が中心だと思う?
…。
なんの話かと言うと、
僕は今、誰もが主人公という話をしようとしてるんだ。
誰もが自分のストーリーの主人公で、
誰かにとっては脇役なんだ。
お互いに脇役であり、
お互いに主人公。
そして、もう一つ付け加えると、
そのストーリーは、どれひとつ終わらない。
永遠の過去から、
永遠の未来まで、
途切れることなく、
ずっと続いていってる。
そう。自分とは、日頃思ってる自分のことじゃない。
普通、この生命の始まりから終わりが自分だと、
日頃は思って生きてるだろうけど、
主人公の姿は、その時々によって様々に変わっていくんだけど、
これらのストーリーはどれひとつ、
「終わったことがない」んだ。
ここですこし、サッカーに話を戻すよ?
…サッカーでパスを繋げたチームメイトとゴールを決めた人、どちらもお互いにリスペクトを持つ。
それがよいチームだと思う。
あらゆる組織も、互いにどのポジションの人に対してもリスペクトを持つ。
夫婦でも、先生と生徒のような関係でも、
これが組織の良い姿だと思う。
(もちろん、誰かに負担が集中してるなら、
続かないが…)
もうひとつの例え話、
地球儀の中心はあらゆる点であって、
「これ」と一つだけに絞れるものではない。
そして、
一個の点はあらゆる点とつながって、
ひとつの地球なのだし、
そもそも、一個の点というのは、
世界を狭めて見る人間の「測り方」によって、
そこだけが切り取られているのであって、
他と切り離された点など、この世にない。
これはサッカーの点や、地球儀の一点のことだけじゃない。
この宇宙全体の話をしているんだ。
宇宙の中のすべての
「主人公で名脇役な者たち」。
そのすべてが融け合ってできている宇宙は、
今この時もグオーっと動いている。
さあ、最後にこの話のまとめに入るね。
「主人公」という言葉を密教の用語である、
「大日如来」に置き換えてみよう。
みんな大日如来であって、他の人はその周りを囲む諸尊。
皆、互いに相手も主人公だと知っていて、リスペクトし合っている。
これを曼荼羅という。
真言密教を伝えた弘法大師は、
このようなことを伝えていると思う。
僕が学んできたことを簡単にまとめると、
「みんな主人公」。
…。
物語にゴールはない。
あるのは、ただ続いていく「今」という瞬間だけ。
誰もが主人公であり、互いを尊ぶ関係は、
今からつくることができる。
僕が習い、学んできたことを
分かりやすくする試み、
これからも続けていきます。
おやすみなさい。

ぼー





ぼー

ぼー
その時、初めて世界に参加したみたいに感じた。
それまでは部外者。
孤立。
運命になすすべもなく翻弄される存在。
本当に辛かった。
…でも…
そうじゃなかった。
自分はむしろ、運命そのもの。
言わば世界そのものだった。
自分を切り刻んで小さく思ってると、
翻弄だと感じていたけど、
本当は翻弄じゃなくて、
ともに振動しているのだった。

ぼー

ぼー
宇宙より大きな、
超超超大型犬になったつもりの、
そんな気持ちでいること

ぼー

ぼー
また旅の疲れが取れたら、お経の音声ルームやろ


ぼー


ぼー


ぼー
あんぎゃー!

ぼー

ぼー


ぼー

ぼー
また来るよ
再来月

ぼー

ぼー

ぼー
誕生日の夜に発熱、やっと週末に下がってきました🤒
皆さん、ご機嫌いかがでしょうか?😓
ひとつ、説法を思いついたので書いときます。
女性👩
「色んな点を見て感じてきて、好きだからしたくなる」
男性👱♂️
「好みの胸を見て本能のスイッチ入り、もう今からするモードに」
このように、女性の「好き」に当たるものを必要とせずに男性は「したい!」となるのです。
おおまかこう言えるのではないでしょうか。
法とは、この世のことわり。
この法を知っておかなければ、
なんで!?😭
と悲しむはめになるかもしれません。
あぁ、頭いてぇな

ぼー
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