NAC
よろしくお願いします^_^
スピリチュアル好きです(ノンデュアリティつまり非二元)。
ノンデュアリティ
非二元
ナチュラルノンデュアリティ
ピュアノンデュアリティ
スピリチュアル
読書
音楽
映画
話を聞くのが好き
J-pop
仏教
NAC
神(ナチュラル)からの分離の現実化
すなわち
リアルにみえる不自然な夢の活動は
実際にはおきていないように感じる
これが
ナチュラルノンデュアリティの癒しの反映
である
つまり
不自然な幻想の投影である
多次元の世界の活動は
すべて
実際にはおきてはいなかったのである
実在は すでに そして常に 在るからである
つまり
人生はすべて幻想である
ほんとうにはおきていない活動(幻想)である
健康?不健康?
幸せ?不幸せ?
愛?憎しみ?
快楽?不快?
長命や延命治療? 短命?
どんな状態であろうと
例外なく活動している変化の状態は
実際にはおきていない
のであり
無意味な旅(夢の活動)
である
変化 や 生と死とまた生へと
そこに意味(実在性)があるというごまかしがあるかぎりは
催眠の状態にある
ということである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
実在は
経験、体験ではない
在るがままであり
その反映が平安である
最後の人生では
行為は起こりつづけるようにみえるが、
みずからは癒しにより
無為にとどまるようになる
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
自然精神統一とは
石や植物は動物は
じぶんで崇高な概念をつかめません
しかし人間は
真の自己、神とか
普遍的な概念を信仰することにより
五感への執着を
南無阿弥陀とかの信仰に
変えることことができます
そして
その普遍的概念を信仰する力にもどると
たとえば不動尊信仰における
不動
とは
じつは
外的なものではなく
つまり
みずからの精神統一のことだと気づきます
そして
自然精神統一はじつは
いつもあるのです
坊さんが座ってるときだけでなく
瞑想が終わったあとも
瞑想の前にも
いつも自然な精神統一があることに気づきます
だれでも今そうです
自然に精神統一してますね
何かに熱中や
瞑想に執着しているときに忘れてるでしょうが
じつはいつも自然に精神統一してますね
それが
汝すでにそれなり
です
それをいつもある自然精神統一といい(沈黙の愛というのかもしれません)
#スピリチュアル
NAC
教えみたいなのは
実在からの恩寵です
その教えを聞く機会があれば
実在(ただ在る)ことがおこる
(比喩で、ほんとうは おこるようにみえることから影響をうけなくなる)
ことによる平安がもたらされる
のだとおもいます
それ、つまりは、実在による平安というのは
二元的経験ではないため(自我目的達成ではないので、そのような活動的経験の記憶がおきてくるのではなく、つまり蓄積するのではなく
たんに一元(ただ在る)によるいやしがなされてくる
という感じだどおもいます
たとえば仏陀の教えの場合
縁起は世俗諦の教えで
無明の状態における縁起の説明がされていますが
それらは空(実在)しない
といわれています
勝義諦は
ニルヴァーナだけが実在する
という教えです
仏陀は法をも捨てよ、いわんや非法はいうまでもない
て説かれています
非法とは無知であり
法とは
世俗諦(縁起)
と
勝義諦(月をさす指、つまりこれも概念)
です
つまり、無知による経験
に執着しないというだけでなく
経験の説明(世俗諦 縁起)
や
実在についての概念(ニルヴァーナとか神とか)というものにも執着はしないように
ということなのだとおもいます
^_^
#スピリチュアル
NAC
()はわたくしによる補足、解釈です
第62偈
真実義について
プルシャという実在は
束縛されないし、解脱しない
プラクリティ(実在のワクワクというサブ性質)が、
流出転変により
束縛されて
そして解脱する
第64偈
真実義(25原理の明知、タットヴァジニャーナの習修により、
「我は無い
我所(身体)はない
我は非ず」
という残すところなき、無顚倒のゆえに、清浄なる
独一なる知(そして停止せるプラクリティをみる)
が実在する
第66偈
「一なるもの(プルシャ)は観劇(プラクリティの流出転変)にたいして無関心となり、
プラクリティは「わたしは観られた(、すなわち流出転変と明知による終焉が完了した)」として停止する
両者は(ともに実在であるので)結合していたとしても(もはや)創造の動機がない。」
第67偈
完全知によりもはや創造の因がなくなったとしても
(のこされた)潜在的活動力によって、
輪が(まだしばらく)転ずるごとく、
(最後の)身体は保持されて存続している
ただし、完全知より束縛の要素は焼き尽くされている。
あたかも焼き尽くされた種子には発芽力がないように、未来の形成力をもはや焼尽しているのである。
そして現在身によって形成するものをも焼尽する。
そしてのこされた潜在的活動力が終焉するとき
、
それは
完全な解脱である
第69偈
このように、
カピラ仙によって
転生より脱する因たるサーンキア説が宣説されたり
第70偈
カピラ牟尼は、この最勝にして吉祥なるサーンキアの教えを、
慈悲によりアースリに伝えた
アースリは、また、パンチャシカに。
そして、その彼によって教えは広く伝わった。
第71偈
また、弟子に相承されたるサーンキアの教えは、
聖イーシュヴァラクリシュナによって
完成説を正しく理解して、アールヤ調により、
略説された(それが古典サーンキアカーリカである)
古典サーンキアカーリカ
の読書を完了いたしました。
#スピリチュアル
NAC
第38から45偈までの略説
()はわたくしの補足。
おもに輪廻と解脱について
プルシャとプラクリティ(ワクワク性質)
という実在のうち
プラクリティから
マハット(宇宙我、宇宙意識が生じる)
つぎに
アハンカーラ(個的意識)が生じる
サーンキア哲学では霊や魂の状態というワードはみあたらないが
これにあたるのが
「細相(リンガとも)」と思われる
第40偈では、「細相(リンガ)は原初(プラクリティ)から生じ、大(マハット)を始めとし、微細元素を終としており、(プルシャではないので)享受せず、情態(法、知、離欲、自在とその反対を含む)によって薫習(カルマを積む)せられ、輪廻する」とある。
つづいて第42偈にも、
リンガはプルシャの目的(プラクリティの解脱)を因とし、
原因(法、知、離欲、自在)とその応果に
結びつき
解脱または輪廻するとされる
原因(サットヴァの法、知、離欲、自在と、その反対)については
それ以前の偈において
すでに説明がなされているため
ここでは果報について述べられる
法の果報
梵天界、プラジャパティ界などの上位のローカ(層)にゆく
非法の果報
獣や草木、石の層にゆく
知の果報
最高我(プルシャ、パラマートマ)において最終解脱(カイヴァリア)する
非知の果報に3ある
原質(プラクリティ、梵)縛。すなわち、プラクリティやそのサットヴァ性に縛される。
神話においてはサナカ、サナンダ、サナータナ、サナトクマラすなわち、梵天の4人の子のいる状態にとどまる
宇宙創造の終わりに、プラクリティに帰還するが、ふたたびの(ワクワクの)創造のとき
輪廻に加わってしまうとされる
変異縛(自在力をえても無知で、天界までで縛される)。
施与縛。供犠の果報による、天界、人界の果報にとどまる
離欲の果報
プラクリティへの帰還(ただしまだ無知なため、最終解脱ではない。
最終解脱のためには
知である25諦(25原理の明知)が必要である
貪(欲)の果報
ラジャス性により輪廻する(施与縛も)
#スピリチュアル
NAC
(完全ネタバレ編 スピリチュアル視点解説)
主人公の仮想世界での
与えられた背中のディスクは
仮想世界での活動をするための
スピリチュアルでいう魂ようなものですね
そこに虚構のゲームのデータが入出力される仕組みになっているようです
仮想世界のバトルスタジアムの生き残りのゲームの
花火のシーンをみて思いだした
塔が脱出のシンボルとなっている仮想世界のストーリーだ
不思議なことに
わたしも白い塔のある街にすんでいる
カリフォルニア工科大を中退したという
主人公が
仮想世界の中にとらわれた父と再会して
食卓で父と、主人公をバトルから助けたクレアという未知の女性と会話をしている
仮想世界に
炎のように奇跡的に現れたアイソー
という存在の
生き残りが
主人公を助けたそのクレアという女性のようです。
完璧な仮想世界の管理を目指していた
主人公の父(実在のワクワクの側面)は
彼自身の代わりに
代行させていた
似姿の「クルー(主体化催眠の大自我のような存在)」
を超える
バイオ仮想世界の革命である
奇跡的存在(アイソー)
の登場により
これまでのことを反省をします
完璧な仮想世界システムが
幻想だと
父は反省していることを
クルー(代理人)は気づき
父にたいして不満を抱いてクーデターを
おこします
戦いがおこるほど
クルーは父の力をとりこみ強大になり
父の協力者(仮想世界のトロン サットヴァのような存在)
をも殺害して洗脳しなおし
アイソーたち(プルシャからのヒーラーたち)を滅ぼし
仮想世界の王になります
仮想世界からの出口(ポータル)は
仮想世界にある
クルーの管轄下のグリッド界のすぐそとにある
父の避難場所からみえる
塔
であると息子に伝えます
塔の光の柱の前にて
父は
じぶんの作った嘆くクルー(偽りの創造主 主体化催眠)に伝える
偽りの完璧にはつねに未知がある
望むむものは手が届かないようで
じつは目前にある
それに気づかず おまえ(偽りの創造主 代理 クルー)を作った
そのことをクルー(代理)に謝る
クルーは
主人公の父の背中にあった
根源のディスク(仮想世界の全データ)
を奪う
が
それはすりかえられた
クレア(アイソー)の背中のディスクだった
これがクルーにたいして
の
いやし
を暗示している
そして
父の背中のディスクは主人公とアイソー(クレア)
とともに
光の柱へときえていき
偽りの世界は終焉するのである
#スピリチュアル
NAC
第24偈から第37偈まで
我執(個に関連づけて理解する働き アハンカーラ)
そして、
意という根(能分別 マナス)
五知根(五感)
五作根(運動器官)
について語られている
マハット(統覚、覚知)やアハンカーラやマナスは
五感、運動器官を対境(対象)とすることになる
マハット、アハンカーラ、マナスは
過去、現在、未来における対象を働きとすることができる
五感や運動器官は、現在のみの対象における働きである
そして
その五感、運動器官が対象となるのが
タマス性として生み出された
五微細元素
五大元素
である
五微細元素は神々の対象である
五大元素は人間などの対象である
聖者は
五微細元素と五大元素の両方を、対象とすることができる
神々の対象は
楽(サットヴァ性)だけに結びいており
人間などの対象は苦楽と結びついている
プラクリティ(根本原質)の展開は
プルシャの目的(プラクリティの展開の解脱)
のためであり
マハット(覚知)における識別の提示によって解脱するのである
#スピリチュアル
NAC
「サーンキアカーリカ」の70偈をよみはじめている
サーンキア哲学研究のこの本では
ガウダパーダバーシャの註釈書
でおもに解説がなされている。
この本の著者が指摘しているように、
第18偈の内容(プルシャは多である)
は
誤りであるとおもわれる。
著者によれば、現象世界が多様化しているため
プルシャも多であるというサーンキアカーリカの18偈の内容は、間違えており、
多はプラクリティ側(意識現象のほう)
であると著者は指摘している
さらに譲歩して、比喩としての表現にすぎない
のではないかと解釈している。
それはともかく、
サーンキア哲学の内容であるが、
第20偈について
プルシャがみるために、また、プラクリティが
独存(解脱)のために、両者は結合する
という
第23偈(マハットの説明)
マハットの説明では
(順番どおりすすむと本にかいているわけではないが)
法
知
離欲
自在
の4つの決知があるとされる
(しかしサットヴァ性とは反対であるタマス性
があるために8つの状態がある)
マハットのサットヴァ性についてわかりやすくかいてみるなら
法は
まず慈悲、喜捨
そして戒であるヤマ、ニヤマがある
次に知である
外的知はヴェーダ学習などであり
内的知はサーンキア25原理の識別知である
それにより次は
離欲
外的離欲は、感官の対象への無関心
内的離欲は、プラクリティにたいしても厭離となる
それにより
自在(超自然的能力)がある
これには8つある
微細力
大力(大きくなる能力)
軽妙
至得(なんでも手に入れる能力)
随欲(思いどおりに叶える)
統制(三界を統制する力)
支配(一切を意のままにする)
随意性(ブラフマ天から地上の草までどこにでもゆける能力)
をうるという
マハットのタマス性の相は逆であり
非法
非知
非離欲
非自在
である
以上がマハットという決知
における説明である
#スピリチュアル
NAC
このいしきのなかでさらにそれがなんにみえようとである
#スピリチュアル
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
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第2編 古典作品について
「サーンキアカーリカ(数論偈)」
その著者は
紀元後400年頃のイーシュヴァラクリシュナである。サーンキア哲学を70偈にまとめている。
この本を解釈する註釈書には
「金七十論」
「ガウダパーダバーシュヤ」
「真理の月光」(タットヴァカウムディー)
などがある
(「真理の月光」という註釈書のさらなる解説書は、
真理の月光 講談社 金倉円照 著 が出版されている 近所の図書館にあったので今日借りてきました^_^)
学者研究の一説によると、
イーシュヴァラクリシュナは、
唯識派の世親の師である如意輪師という人物と論戦し、
勝利した?とされる
世親はこれに対抗し、
「真実七十論」を作ったが
相手はすでに世を去っていた
とされている。
#スピリチュアル
NAC
第一編つまり古典成立よりもまえの
原始サーンキア時代
の説明
をよみおわりました
この第一編においては、
古いいろんな書物からのサーンキアの萌芽の思想
が語られていました
たとえば
プラクリティはシャクティと同義とされています(アヒルブドヌヤサンヒターという本による)
サーンキア哲学はヴェーダの生命犠牲の供犠祭を
批判し、差別カーストを批判します
サーンキアの祖であるカピラ仙
や
古典サーンキアカーリカの成立の元になった
消失されたシャシュティタントラを書いた
聖パンチャシカ
における思想は
厭離の思想を特徴としていて、世界を苦しみとみて、ヨーガ実践と関連づけています
サーンキア哲学の
サーンキアとは、考察、の意味であり
数論ともよばれます
これは
仏教にみらろる12支分(12の要素)を数える
のと
似たような意味であり、
25原理を識別するという意味だそうです
それにより世界の開展を止め、帰還させる
という意味になります
また、
原始サーンキアは有神論の傾向があったので、
創造神話(ヴァシシュタ仙人による説)もでてきたりします
サットヴァ性は天界へ
ラジャス性は人界
タマス性は地獄界
へ転生するとされます
プルシャにあたる最高神はヴィシュヌ神であり
プラクリティと同義としては梵天
つぎの
マハットの同義がヒラニヤガルバ
つまり宇宙を生み出す卵、宇宙の胚とされます
(その粗大側面をプラジャーパティといいます
これにあたるのがアハンカーラとされています)
梵天が夜の眠りから醒めると再び
(1ユガは神の12000年、1カルパは4ユガ、梵天の昼は1000カルパです。夜の長さも同じ)
、
マハットから生み出していくのです
また
ウパニシャッド後期作品の
マイトラーヤナウパニシャッド(マイトレーヤーウパニシャッド これはサーンキアや仏教の影響された作品でありマイトリ師、つまり慈しみという意味の慈氏、による説)では、
プルシャと原素我という区別の名称であり
原素我が微細元素の微細身(つまりリンガ)を得て、輪廻していく
とされています
そのほか様々な説も紹介されていましたが
プルシャ
シャクティ
運命
時
サットヴァ
ラジャス
タマス
という開展の順序として説明されている内容もありました
以上です
#スピリチュアル
NAC
関連する古典として
ブッダの時代に成立したとされる
カータカウパニシャッドという古典の第1編のさいごの箇所にサーンキア哲学をとりいれたとおもわれる説明がのこされている
この説明はサーンキア哲学とよく似た
流出転変説が語られている
今回つけ加えておく内容は
プルシャ
非変異(未顕現アヴィヤクタ)というプラクリティ(根本原質)
のあとに発生するマハット(大)についてである
これは古典サーンキア哲学でのブッディと同義である
(すでにのべたが、聖なるもの、という意味ではない、大自我の性質であるおもわれるから)
このマハットは
シャンカラの説明によれば
創造において最初に現れる第一原理
ヒラニヤガルバ(宇宙卵、宇宙我)とされる
または、人格中性名詞であるブラフマン(究極のブラフマーのことではない)
を示しているそうです
#スピリチュアル
NAC
ちなみに
サーンキア哲学では
プラクリティ(質料因)の実在からは
意識現象として
マハット(統覚)
があらわれ
そのあとに
アハンカーラ(自我)
があらわれ
そして
そのあとに
マナス(心作用)や元素
があらわれる
とされています
では
マハット(統覚)とはなにか?
でありますが
図では
アハンカーラ(自我)のあとに
心や物があらわれるので
アハンカーラが幻想の創のようにみえるかもしれないのですが
そうではないような気がいたします
わたくしは
マハットこそ
主体化催眠による幻想の誤創造主であるとみています
(唯識では阿頼耶識)
したがって
アハンカーラ(自我)は
魂
(唯識では末那識)
ではないかと
推測しています
なぜなら
マハット(統覚)はたんに聖なるものではないからです
この専門書では
それぞれの要素(段階)にも
3グナのバージョンがおこりうるとされているからです
(創造、維持、破壊的)
つまり
マハット(統覚)には
サットヴァの影響が強いときには
ヨガの、ヤマ、ニヤマつまり
禁戒、勧戒
の因となると書かれていて
マハットが
タマスの影響をうけると
消沈、耽溺
の因となると書かれているからです
したがって
推測ですが、
アハンカーラ(自我)よりも
上位にある
マハット(統覚)
というのは
聖霊のような存在ではなく
大自我(3グナの影響がある)とみなすべきだとおもう
というのがわたくしの読書途中感想です
#スピリチュアル
NAC
を
図書館でリクエストしていたのが
届いたのでよんでいる。1980年代の古い本である。
今までよんできたインドのわかりやすい本に
、
参考図書として掲載されていたので、
そのときに図書館にリクエストしていたのである
読書途中感想による試論
サーンキア哲学は実在二元論である
しかし
わたくしはべつの関心から
(つまり実在と実在なら、別に存在するのではなく
万能元として、ひとつの存在の二つの性質
(在る、と、ワクワク性質)
ではないかとみてよんでいる
プルシャを、在る(純粋性質)
プラクリティをワクワクというサブ性質
として
ともに実在レベルにあったものとしてよんでみている
プラクリティ(ワクワク根本原質)という実在は
三つのグナ(性質)で構成されている
専門書をよむと
これは現代の陰陽説と似ている
陽がサットヴァ、陰がタマス
である
ただし、サーンキア哲学では
中間のラジャス
をふくめ
3つとなる
これは
古代ウパニシャッド(チャーンドギアウパニシャッド)
のなかで
ウッダーラカアールニが説いている
彼の場合
有る(サット 実在)
が多とならんと望む
ことにより
流出する
火
水
食(ブラフマスートラでは土)
という三要素があらわれる
そこに有が個我をおくりだしてはいることにより
名色(認識)
が生じるという
火水土は
サーンキア哲学の実在の3グナの性質(ワクワク)が原因かもしれない
火はサットヴァから
水はラジャスから
土はタマスから
である
かんたんにいうと
これら現象(宇宙も身体も心も相似)のもとになる
原因(因中有果説)に根本原質(3グナからなるプラクリティというワクワク実在)
があり
流出により生滅的なアップダウン(陽と陰)
が
あると考えていたのかもしれない
ちなみに漢方医学でも
熱(火)と寒(水)のように陰陽があるらしい
実在における
プラクリティ(根本原質)は意識的現象のもとになる実在(ワクワク三性質のグナ)のことである
ワクワクは空想(諸現象)の盛衰となって流出転変する(流出転変説)
(つまり心や物の原因である)
そして
プルシャは不変のままでありながら、プラクリティを動かしている動力因である
プラクリティのほうは現象を生み出す質料因とされる
プルシャによる
プルシャをふくめサーンキア哲学の25原理の識別知(ヴィヴェーカ)、
仏教では12因縁をしる明知
のようなもの
その明知が
ふたたび
無明(現象の発生)を停止(帰還)させる
のである
NAC
(文章編)
先日は図にして形而上学をかきましたが
今回は文章でかきます
私たちは日常においても
「自分」が見たままの状況(投影 五感)
を事実(真実)だととらえ、それらに対する自分の反応(行動、考え、感情)も、ほとんど無意識(大自我の反映としての魂としての「自分」から)のうちに行っています
これが内側から外側をみているという信念です
しかし
ナチュラルにおいては
ただ在る
からの空想のいやしが延長するのです
アコースインミラクルズの場合は
メソッドですが
似たような表現として
今この瞬間(すでにただ在る)のことを「聖なる瞬間」とよび
空想のいやし(つまり心と投影のいやし)
のことを
五感そのままではなく
いやされた「真の知覚」とよびます
人間関係のいやしについては
特別の愛、憎悪の関係ではなく
「聖なる関係」とよんでいます
それらは
在るがままからのナチュラルさにより
空想努力の世界がいやされていることを表現している状態なのです
そして、癒しが完了した最後の人生については
実在である実相を反映した意味での
実相世界と
よんでいるのです
内側を変えることにより外側をかえる
という真の意味は
じつは
ポジティブ心理や
聖なる心理
によるメソッドではありません
それは
今ここによるノーマインド的ないやしなのです
ポジティブメソッドはいまだ自我メソッドであり
聖なるメソッドもまた、いまだ心がつかんでいる概念的メソッドです
在る意味では
内側も外側も幻想であり(変化の状態にすぎません)
どうしても言葉で説明するなら
内側(心)よりも内側にある、変わらない在る
が
実在とよべるかもしれませんが
それはじつは
ナチュラル(すでにただ在る)という
無条件、無努力の意味なのです
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#アコースインミラクルズ
#今ここ
NAC
最新のすばらしいノンデュアリティ動画(ほかの動画をぜんぶみてないからチャンネル推薦までしてるわけではないですが)
でダイレクトな説明をしてくださっておられるので
それでじゅうぶんかもしれませんが
ちなみに
今よんでる体外離脱系の本は
スピ進化系というながいストーリーの話なので
いまいちピンときません
(ブルースモーエンさんの死後探索3、4の本もしかりですね)
なにが違和感を感じるかというと
アセンションによる
ネガポジ統合とか、男女性統合とか
受け入れる あるがまま
というのは
私、他(ここでの意味は 「他の私」)の統合に
すぎず
そのようなエネルギーが融合しても
活動(特別性エネルギー)にすぎません
ということなのです
つまり創造エネルギー(シャクティ)ですね
正確にいうと誤創造(つまり想像、マーヤーです)
つまりIAM(大自我)
です
ということなのです
実在のなかのワクワクというサブ性質
からおきている空想なのです
真実のメインである不変のノンデュアリティは
何も変わっていない気づきであり
すでにただ在るものなのです
よくインドでは一元論や二元論が語られていますが
どちらも間違いかもしれませんね^_^
一元論だけからは幻想の発生を説明できません
二元論では、分裂症かもしれませんよね
ほんとうは
全能元
なのです^_^
そこには ただ在るというメインのほかに
実在にワクワクのサブ性質も
実在としてあるのです
ワクワク性質であるその活用の結果(空想世界)が
じつはたいした意味がなく疲れることであったならば(活動性だから)
べつにやらなくてよいのです
さいしょの試み
(空想された個)
の時点で
すでに無意味な努力だとわかるわけだから
そのあとの自我催眠や
投影という
バカげた努力や
いちいちのそのいやし
など
はっきりいえば愚かでしかありません
だから
自然が実在する
努力は無意味で
疲れるだけである
という神の試みのあとの反省です
したがって
ゆっくりと目覚める必要などなくて
即時の目覚め、救済を
前代未聞のメッセージとして発信しています
そして二度とくだらない夢をみないことです
これが神の永遠的平和
なのです
しかし
わたくしにあらわれた神の正気とおもわれるメッセージ
は
強制のメッセージではなく
自由なので
わたくしはたんにノンデュアリティの感想として
シェア(メッセージ)として
かいているわけです
ノンデュアリティの感想はそれぞれですが
わたくしに湧いた感想はそうでした
ということなのであります^_^
なので感想にたいして議論はいりません
こういったネットでシェアがあるなら
ごしぶんの感想を
ただかいてくださいませ
ということなのです^_^
ほんじゃまたです
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ

NAC
ちはやふる好きの
わたくしがたまたま
よくみてる
YouTubeの歌姫(陽真)
が
最近
初のアルバム
をリリースしたのです
そのアルバム名は
ルート「U」
みたいな名前
でした
そして
初の
ミュージックビデオが
ベルという言葉を含んだ題名の
という曲だったのでした
映画 竜とそばかすの姫の
でも
仮想空間での名前はベルであり、
映画では仮想空間「U」という
名前の世界で歌うのでした
不思議なシンクロニシティでした^_^
#スピリチュアル
NAC
竜とそばかすの姫が
地上波で放送される
竜は仮想空間で暴れるストーリーであるが
スピリチュアルでは
この日常生活レベルは
仮想空間だとされている
何年か前
地上波でこの映画の放送が
臨時ニュースで中止された
宗教がらみの安倍総理が
撃たれたからであった
ちはやふるの歌が詠まれたのは
奈良である
その同じ奈良で
事件はおきた
この映画のヒロインは
すず、である
歌姫は仮想空間のなかで歌う
魂たちの救済の歌
#スピリチュアル
NAC
わたくしの形而上学仮説(ナチュラルノンデュアリティ)においては
アコースインミラクルズともちがいますので
無条件、無努力の、ただ在る(ナチュラル)
が
実在であり
不自然な感情(空想努力)として、
好奇であり苦しみでもある感情(自我そのもの 大自我)という試みがあり
その
様々なバージョンの投影が日常生活レベルにあるとしています
(愛や欲、憎しみ)
#ノンデュアリティ
#非二元
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
#スピリチュアル
NAC
昨夜の読書の章のラストには
ブルースモーエンさんの
感情論がかいてありましたが
あまり共感できませんでしたので
あしからず
(彼の感情論では、0から100パーセントのスケールで
各々別々だとするエネルギーである感情を測ればいいとのこと。
これはアコースインミラクルズの心理学とは
ぜんぜんちがうものでした。
アコースインミラクルズでは
感情は二つしかなく
愛か憎しみかだけであり
愛か愛の欠如
という意味でもありますが
愛の欠如は自我の状態(歪曲状態)
で
様々な感情は自己憎悪の投影の
変化形でしかありません
自己憎悪は
神からの分離は実在ではないという癒しにより
愛の延長がしなおされる
というのが
アコースインミラクルズの
イエスの教えです
#スピリチュアル
NAC
読書中
普通、インドの聖典やニューエイジの
おしえの本では
宇宙が誕生して
地球ができて、鉱物、植物、動物、人間へ
と
意識が再び向上していくよ
というかんたんな説明でおわる本がけっこう
あるのだが、
今回の本は
地球の核のクリスタルができたあとに、
鉱物、植物、動物ができた
とすこしくわしく説明されていてわかりやすかった
地球の核のクリスタルは
かなり低周波でボディがより緊張するレベルとかいてある
が
(つまり日常生活レベルのフォーカスよりも)
ブルースモーエンたちの
探索の際に彼らは
高次元のフォーカス27の、あの世のモンロー研究所のクリスタル
から
地球の核のクリスタルへと
探索の際、毎回、純粋な無条件の愛らしいものを
もっていっていったため
地球の核のクリスタル(日常生活レベルよりも
低周波)
が
毎秒20サイクルまで向上できたと第14章に記されていた
(この活動は、さいしょに読んだ死後探索4でも本の中で、行っていた、とたぶん書いていたはずである。うろ覚えであるが。)
「地球の核のクリスタル(ECC)フォーカス27
」
と表現されているのは
日常生活レベルから非物質レベルのモンロー研究所までのフォーカスのちがい
と同じくらい
日常生活レベル
と
地球の核のクリスタルの周波数
は
ちがいがあるという意味の表現なのだろう
これまでの章でも内容はいろいろかいてあったが
本日の読書の章では
フォーカス34、35あたりの大集合(ギャザリング)
の宇宙存在によって観察されている
地球のアースチェンジ(アクエリアスの夜明け)
において
これから(もうすでに起きてきてあるが)
地球は
地軸の磁極の北極側より、
はるかな距離にある存在から
愛の輪が地球のクリスタルの中心部へはいることにより
二極性の問題の一部が解決されていく時代にはいるそうである
そして、愛と憎しみはたんに対極であるという
今までのまちがった二極性の信念がなくなり
愛の反対は愛がない(愛の欠如)ということが
明らかになる時代になるそうである
(ということは、憎しみの対極は欲、執着ということかもしれない)
そして
そのアクエリアスの夜明けのしるしとなるのは
彗星(しずくの涙 ブルースモーエンによれば
百武彗星1996年に飛来)
であり
また人口削減もおきてくる
とかいてあった
(そのシナリオは現在まで変化緩和されたのかはわからない)
読書は
約3分の2までおわりました^_^
#スピリチュアル
NAC
死後探索3 第9章 地球の核のクリスタル
ロバートモンローの本にもある
地球をとりまく環帯(フォーカスレベル)
についての
ブルースモーエンの学びについて。
地球の核は、
自転軸に整列している鉄のクリスタルである
それは
宇宙のゼロポイントフィールドからのエネルギーをとりこむ機能があり
それを
地球自転軸に整列するクリスタルの作用により
二極性をつくりだす
(地球で体験する二極化の衝動とはこの作用の結果とある
個人同士やグループの誘引、反発力の原因)
そして、
この地球の核のクリスタルは
霊重力という作用をもたらし、
死者の霊体にも地球への引力を与えてしまう
意識のフォーカスレベルとは、
地球の自転軸にある核の
クリスタルがもたらすエネルギーフィールド(物質界では磁場)
の周波数帯の強さを区分けしたものであり
自己が霊体ではなく、物質だという想念が強いと
その霊重力の影響をうけてしまい
自己の霊体の密度が高くなり、地球から浮かぶことが
むずかしくなる
自分が霊体だとおもうならば、影響はあまりうけず
霊体の密度は減少して、
上昇することができるのである
というような説明である
素人には、よくわからない説明ではあるが、
おそらく
地球のクリスタルも
霊つまり想念でつくられたものであり、
それは物質性へ向かうための想念であるため、
結局はつまり
信念というものが
その影響をきめてしまうということなのかもしれません。
#スピリチュアル
#体外離脱
#ノンデュアリティ
NAC
この幻想の世界はどこも安全ではありませんね。
NAC
幻想の世界
と
実在の世界
の
ちがいについて語る
幻想の世界は
実在の世界
からの誤用(空想エネルギー)である
幻想の世界は、活動の世界(欲、愛であり憎しみ)
という不自然であり
実在の世界は、非活動(不変、普遍、不動)
なのである
幻想の世界はアンナチュラルであり
実在の世界はナチュラルである
幻想の世界は誤創造であり
実在の世界はすでにただ在る
幻想の世界は自我実現であり
実在の世界は在るがままである
幻想の世界は、どこか、いつか、であり
実在の世界は、ただ今ここである
幻想の世界は、変わる気づきであり
実在の世界は、変わらない気づきである
幻想の世界は努力であり
実在の世界は無努力である
幻想の世界は条件であり
実在の世界は無条件なのである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
4の本もそうですが、
彼の友人の体外離脱者ロバートモンローさんの三部作
を補完してくれるような内容ですね。^_^
ブルースさんのさいごの本の4では、
宇宙の放出(投影)孔や、そのあたりのレベルにいる
巨大な心の集合体について語られ、
また、意識フォーカス35あたりの意識レベルにおいては、
地球のこれからのチャレンジ(おそらくアクエリアス時代への移行)を見守っている他の宇宙存在たちの
大集合(ギャザリング)の説明があります。
これに対応する内容はモンローさんの本では、二作目に、大集合の記述があり
地球の未来の平行宇宙の一つの可能性として
西暦3000年の半霊反物質(4次元のプレアデス文明のような文明)
が描かれており、
そこでの人生がロバートモンローさんの
地球の最後の人生となるそうでした。
(うろ覚えですが^_^)
地球に再エントリー(転生)するときは
意識が圧縮(圧縮学習)
され、水にもぐる潜水服のような状態になり
物質界での日常生活や人生の目標を果たせるようにするそうです
(ブルースさんの死後探索3 の第5章 エントリーディレクターによる説明)
意識の圧縮作用というのは
人類60億人の想念の嵐(Mバントノイズ)から互いに防ぐため
なされており
人生の目標をはたしやすくなるようになりますが
そのかわり
非物質界領域の意識である生まれる前の記憶や、上位の自分の魂の集合体とのつながりは
制限されるようになります。
以上が朝の読書感想まとめです。
#スピリチュアル
NAC
本日も
不思議なシンクロニシティを経験して
ときどきブログなどで
かいております。
夢の中のストーリーですけど。
ノンデュアリティは
ナチュラルスピリット社の本、「この自由」
は
今週に、
近所のイオンの中にある本屋さんで注文しておきました
^_^
図書館の本を、よみおわったりして暇なときは、
以前買った
慈氏(マイトレーヤー)や弟子の無著から展開した
世親の唯識仏教の文庫本のまだよんでない2冊目をよんだりしてます^_^
前回のコメントの映画については、
TSUTAYAやイオンか忘れましたが、
DVDの中古販売の特設売場が
あったときに、
まとめ買いしていてまだ鑑賞していなかったDVD
が机の下にあるので、
Netflixのプリペイドが切れて暇になったので見たのでした。
(ちなみに前日に
「her 世界でひとつの彼女」
というDVDも再鑑賞いたしました。)
わたくしは白い塔のある街に住んでいるので
不思議なシンクロニシティを感じています。
#スピリチュアル
NAC
以前に買っていて、
まだ鑑賞していなかった映画のひとつを
今夜鑑賞させていただきました。
「私の愛、私のそばに」
(2009年 韓国映画)
主演俳優
キム・ミョンミン
(他出演作品 山崎豊子 白い巨塔 韓国版TV 天才外科医を演じる。)
ハ・ジウォン
(他出演ドラマ、Netflix鑑賞 シークレットガーデン 男女の魂の入れ替わりのストーリーのヒロイン。)
母の葬儀で
幼なじみの二人が葬儀場で出会うストーリー。
筋萎縮性側索硬化症(ALS)である夫とともに生きようとするストーリー。
ありがとうございます。
NAC
自然が実在する
努力は無意味で
疲れるだけである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ

NAC
何かのために坐禅(手段)しているのではなく
坐禅自体(悟り、もしくは楽になりたい)
が目的として坐禅しているのでもない
何もする必要がないということ
(それがただ在るいまここなのである)
#ノンデュアリティ
NAC
ノンデュアリティをかんたんに仮説するならば
生まれる性質であるものは滅びる性質であるものである
そして
それは、我在り、という 大自我から
投影されているものであるということです
(現象を観ている魂も含めてです)
そして
大自我という
生まれ滅びる性質である幻想を
なにが生じさせたのか
これが最終覚醒なのであり
それは
ナチュラルスピリット
からの空想、主体化、解離催眠なのであり
解除、いやすのも
ナチュラルスピリットなのです
すべての運動(空想、催眠、解除、いやし)はオートマチックである
ということです
しかし
最近流行のノンデュアリティにおいては
自己受容をすすめており、いろいろなワークをすすめています(よくある例、右脳ワークなど)
これが大自我の枠内で、つまり、形而上の催眠状態
からしていることなので、
その偽の愛というのは幻想であることをはっきりのべておきたいとおもいます
自分でやろうとしてるということもまだ大自我の影響なのです
そして多様性のある状態を受けいれて楽になろうと試行錯誤、つまりあえいでいるのです
実在というのはそうではなくて
ナチュラルでありノーマインドです
そのような偽の状態を容認したままにするのではなく
真実はそれを終焉させます
そして
個を作ったのは個ではなく
個を解放するのも個ではない
のであり
ナチュラルによる
完全なオートマチック
なのです
さらにたとえば、
自分でいまここに回帰しようとやっているのも
幻想なのです
それはまだ似て非なるものです(つまり偽の状態です)
大自我の反映である自己(つまり魂)
が
スクリーン(対象意識)をいまここだと
おもい、それでいいのだ、と
真に癒されずに
とどまっている状態だといえます
例をいえば、日常生活レベルでは
顕在意識であるスクリーンがいまここの悟りだという勘違いしている状態です
大自我に対象意識がある(シナリオもその中にありまし)ように
魂には対象意識があり、
顕在意識(スクリーン)の次元へアクセスして、五感、思考、感情を経験しています
その顕在意識がどうして
いまここなのでしょうか?
それはちがいます
真のハート(ここではナチュラルスピリットの意味)は
魂(我在りからの迷いの存在)や意識
以前の
ただ在る
です
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
ブロックするもの(フォーカスがおきて、固定化するもの)
つまりそれはマインドの状態に成るということであるが、
そのとき、
ブロックであるマインドは二つのやり方で
それを維持している
ブロックであるマインドは生まれながらその性質を維持するために
それ自体防衛本能があるからである
(それは空想された、つまりフォーカスされる個の状態のあとの
、
主体化、解離催眠の作用による結果である)
その二つの矛盾したやり方による維持とは、
不自然であるマインド自体の好ましさ、嫌悪さ
というものを
好ましいもの
と
嫌悪するもの
があるとして
べつのものを妄想し作りだすことによるのである
つまり心は投影をつくり、
投影されたそれらのものを執着または拒否することにより多様な世界をリアルとする
それが幻の日常生活なのである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
ハートは常に存在している
それが愛や憎しみの還る源である
嘘の希望や夢がきえるところ
無条件 無努力のハートはつねにいまここに在る
それが沈黙なる平安な存在である
エネルギーが落ち着いたままでいることを存在
とよび
落ち着いていないエネルギーを空想状態という
非二元でのべられる2つめ(空想)、信念の発生である多様な現象のエネルギーは
ハートが歪曲されてあらわれたものである
だが
エネルギーの源はただひとつ
純粋なハートは無条件であり常にいまここに存在している
だからあらゆる現象のエネルギーはほんとうはそれである
歪曲はこのように訂正され癒される
これが実在の世界(癒されている世界 ハートの世界)なのである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
無努力いまここだから
ハートが開いたままがおきてるとき
努力を信じ込むことがおきていない
つまりは
フォーカス(閉じている努力)を
実在としないでいること
がおきているのである
#非二元
#ノンデュアリティ
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
テレビドラマは3つだけみております^_^
NHKドラマの
15分ドラマ ひらやすみ
(アプリで1話から4話までまだみれました^_^)
と
大河
民放では
ちょっとだけエスパー
(題はうろ覚え^_^)
みてます
NAC
誤ったノンデュアリティの説明と
純粋ノンデュアリティの説明のちがいについて
のべる
誤ったノンデュアリティの説明の二つのありうる説明は
源から直接苦しみの現象が作られた
悟りは自分で起こすことができる
この2点でありうる
しかし
ピュアノンデュアリティの説明においては
源が直接、苦しみの現象を作ったのではない
(もしそうなら、源も狂気であることになる)
そして悟りは自我で起こすことはできない
というのは
源からはなれていない空想された個に
主体化催眠(解離催眠)をかけるという試みにより、
宇宙の誤創造という苦しみの結果が生じたからである
このゆえに、自我は自分で救済することはできない
ノンデュアリティについて間違った説明をする
前者においては
幻想の宇宙が誤創造されるよりも以前におきた解離催眠(我あり)
を否認するために、
好奇心であり苦しみの幻想世界を
ナチュラルスピリットが直接に創造したと信じてしまうため、そのような神を信用しきることはできない
また、
いわゆる自我(主体化催眠)というのが、
もっと低いレベル、つまり、たとえば人間の脳によりそれがおきているという説明がされているのである
そのように思わされているのは
解離催眠の状態においての大自我
が描く妄想の宇宙シナリオの計画どおりなのである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
私
私は誰か
これらは
実在として作られたものではない
したがって
これらは何か?と問う価値もない
永遠の実在として形作られたものなら
たしかに問う価値はあるだろう
しかし
どうせ消え去る妄想のようなものについて
これは何なのか?
と問う価値はない
私は誰か?もそうだ
誰かを投影させた心や肉体についても同じ
いかなる価値もないのでその評価も幻想だ
実在しない
個
私
私は誰か
他の私にきいても意味はない
他の私にこのメッセージを伝えることも
最終的には価値はない
生まれ滅びる妄想のようなものは
実在していないからだ
生まれ滅びるもの
個を作ったのは個ではなく
個を解放するのも個ではない
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
個を解放するのも個ではない
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
実在は常に真実である
実在は無条件に在るということである
それはただ在る
ただ在ることに 因も縁も果もない
ノンデュアリティ(非二元)である
因や縁や果はそれぞれが異なることを意味している
それぞれが異なるものはそのいずれもが幻想である
実在はそれらではない
神も創造も神の被造物もないのである
ただし
存在(としての神)からは創造ではなく空想が生まれることはありうる
ではこの意味で
存在を原因としてみよう
この意味から空想されたものは結果といえるだろう
存在が因で空想力が縁で空想されたものが結果である
空想された結果は客体である
さらにもしその空想されたものに
マインド(偽の架空の自律 自己原因)という主体化催眠がなされたならば
存在(ナチュラル)に二重の努力(空想 不自然な状態)がおきていることになる
そして最初に空想されたものは まだ自律性がないゆえに
主体化催眠は
存在(としての神)が催眠をかけたのだといえるだろう
したがってそれを解放して癒せるのも存在(神)だけである
そして
主体化催眠がなされた状態においては
その自律の妄想の中においても、対象意識(偽りの虚空)がその中において生じることになるのである
そして
その架空の対象意識(虚空)
にはシナリオが描かれる
孤独な囚人があたかも妄想のスクリーンをつくってたくさんの物語を描くように
そして主体化催眠であるI AMは
自らを分裂妄想させて魂となりそれを経験するのである
在るがままではない 空想すべては不自然な状態であり
そのすべてが苦しみである(幸せと不幸はじつは 同じ奇妙という苦しみの幻想なのである)
神の無邪気な不自然な試みは
神が終焉させることになる
そして妄想はおわり永遠平和が在る
原初の永遠平和との唯一のちがいは
神は空想は無意味であると悟ったということであり 二度と繰り返さないという 神の悟りである
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
NAC
先日みた映画
るろうに剣心
の第一作品につづいて、
昨日と、今日で
第二作(京都大火編)、第三作(伝説の最期編)
をNetflixで鑑賞させていただきました。今回はそのおはなしを
かかせていただきます^_^
ちなみに
これらの映画作品のストーリーは当初から、
結婚するはずであった
ある婚約者たちのストーリーも絡んでいます
主人公が
幕末の長州藩の人斬りであった頃、
京都のある夜道において、
幕府の京都の見廻組(新鮮組ととも当時活躍していた警察組織)
を
主人公が襲撃したことがあったのです
京都の見廻組とは、
坂本龍馬を暗殺した可能性があるとされる
京都見廻組のことであり、
主人公に襲撃されたのは
京都見回廻組を構成する出雲組の武士たちでした
(映画の第三作品目である伝説の最期編
における、主人公の剣心の海辺の擬似処刑のシーンにて罪状がよみあげられるシーンでそれが語られ、回想シーンがながれます)
その襲撃された京都見廻組の出雲組の武士である
清里明良(俳優 窪田正孝 ドラマ ラジエーションハウスなどで主人公出演)
たちを
かつて夜道において主人公(剣心)が襲撃した事件が
映画の主人公の顔にある十字傷にまつわる物語でした。
死を目前に、まだ死に切れない出雲組の清里明良の刀により、
主人公の剣心の顔に、十字傷のさいしょの傷を与えました。
その死んだ清里明良には婚約者がいました。
(ちなみに、出雲組という言霊は、縁や絆を暗示しています)
その婚約者が、
るろうに剣心の映画の
最終期作品 beginning
に登場する
のちに主人公の剣心の妻となる
(幕府隠密の暗殺者であった)人物だった
雪代巴(俳優 有村架純)です
これらが
主人公の十字傷にまつわるストーリーであり、
新時代の殺さずの剣心の支えとなる
赦しのストーリーなのです
NAC
いしきを変えようとしなくていい
マインドはいしきを変えようとする
しかし
ふつうのいしきが普遍のいしきに通じるのである
#ノンデュアリティ
#非二元
NAC
真の光(在るがまま)は
偽の光(生)ではなく
その闇(滅)
の奥に在る
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
ちはやふるシンクロニシティについて
「アカシックレコードと龍」という本を図書館で借りているとき、
よんでる最中に
わたくしの部屋のカレンダーの写真も
同じモンサンミッシェルの修道院の島であることに気づき、
読書をしていて不思議なシンクロニシティを感じました。
(著者が神秘体験をした旅先のストーリー)
ちなみにモンサンミッシェルは
フランス北部にあります
そして世界地図のフランスは
日本地図でのシンクロでは
山口県(維新の長州藩の地方であり、ちはやふるの周防名人と関係するシンボルの地 映画 るろうに剣心の主人公の出身地でもある)
のあたりに近いですね〜^_^
#スピリチュアル
NAC
マイケル・ A・シンガーさんの、「サレンダー」(カルマヨーガ系)という本
や、
ジュネさんの「アカシックレコードと龍」(スピ系)という本をよませていただきました。
みなさんのご経験はいろいろなんですね^_^
#スピリチュアル
NAC
ノンデュアリティとはなにか?
これがノンデュアリティである
これとはなにか?
私という信念や私の認識、そして感覚や思考や感情
これらがなく
二つの意識というものがないこと
これである
どのように気づくのか?
どのように?とは 距離(分離)や方法であり
そこには
実在しない迷える主体そして客体が仮に想定されている
どのように?は実在せず
主体も偽の気づきも客体もない
これがただ在ることです
#ノンデュアリティ
#非二元
#スピリチュアル
#ナチュラルノンデュアリティ
#ピュアノンデュアリティ
NAC
#ノンデュアリティ
#非二元
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NAC
ノンデュアリティとは
立ち位置がないということである
無条件であり
常にある自然ということである
立ち位置がないので
目標、目的がない
そして道、手段、方法、努力、選択がない
立ち位置がないので
外側も
外側にとっての内側も
そして立ち位置よりも内側もない
立ち位置はないので
上も下もない
向上も堕落もない
どんな方向もない
周囲がない
そして
「自分」も心も身体も環境もない
これが常にある自然なのである
#ノンデュアリティ
#スピリチュアル
