夕闇さん
書いている小説の一部分や2000文字前後の短編小説をあげるためのアカウントです。
純文学を愛する者ですが、どうしても文量が多くなるので傾向はまちまちです。
なにかリクエストを送ってくだされば、2000文字程度で書きますので、コメントからお気軽にどうぞ!
フォローやいいね、コメントいただけるとモチベーションの維持・向上に繋がるし単純に嬉しいのでお願いします🙇
読書
夕闇さん
僕は写真が嫌いだ。
僕の目は年月の経過とともに段々と悪くなっていく一方であるが、カメラの性能は日々良くなっていくのも気に入らない。写真など撮ろうものなら、もはや自分の目には見えていなかった景色まで鮮明に切り取られて、保存しておきたかったモノとは別の、関係のない方向に思考が持っていかれることもしばしばである。
例えばこんな話がある。大学生の時分、春先に学友からドラゴンアイを見に行こうと誘われた。ドラゴンアイとは、岩手県と秋田県の境を跨いで南北を縦断する山、及びその周囲の高原台地である八幡平と呼ばれる山の山頂付近で、雪解けの季節に見られる現象である。冬季の間に鏡沼と呼ばれる沼に積もった雪が、中央に雪塊を残して外側からゆっくり溶けていく。やがて雪塊のみが沼の真ん中に残り、この様が大きな竜の目に見えることから、ドラゴンアイと呼ばれているそうだ。中央に残された雪塊が溶け始めて、雪塊が環状となった状態を『開眼』と呼び、インターネット上では幻の絶景などと銘打たれていることもしばしばである。その開眼の時期が今年も来たとのことであった。
誘いを快諾してすぐに八幡平へ向かったものの、僕らが八幡平の地に足を下した時には、日も西の最果てへその姿を隠そうとする既の所であった。風は厳しく吹きすさび、霧が充満した駐車場には自分ら以外の車も人も見当たらない。自分らの乗ってきた車のヘッドライトが、風で流される細やかな霧の白とも黒ともつかない線を幾つも前方に写し出すのみで、その光の頼りなさはまるで、大しけの嵐の中孤立無援に立ち尽くす灯台の灯のようであった。
よもや遭難でもしているのではないかと思いつつも僕らは山を登った。周囲に外灯の灯りはなく、完全に日が落ちればドラゴンアイを見ることも叶わないだろう。そんな焦りからか、二人の靴が雪を踏みしめる音の間隔は次第に早くなり、肩で息をする音さえ聴こえた。息を吸い込むだけで肺を湿らしてしまいそうなほどの湿度を孕んだ霧が、僕らの顔や服を湿らせて、容赦なく吹き付ける風が体温を奪った。
夕闇さん
しかし困った。床に落ちたスマートフォンを拾い上げるというのは、皆が思っているほど簡単なことではない。少なくとも私にはできない。とは言えナースコールで看護師さんを呼んで拾ってもらうのも、仕事の邪魔をしているようで気が引ける。ううん、これは嘘だ。正直に言えば私に対して優しく接してくれる看護師さんが苦手なのだ。人から与えられる善意の中に、私に向けられた憐れみや同情を探してしまう自分がいる。その事実に吐いてしまうほどの自己嫌悪を感じてしまうから。
まあいいか、と私は思う。仮に上手に写真を撮れたって、送る相手などいないのだから。ううん、これも嘘だ。送りたい相手はいる。中学高校で仲の良かった同級生、少しの間付き合っていた恋人。伝えたいこともある、共有したい思いもある。それでも、私はしない。だって私は知っているから。最後になるかもしれないメッセージのやり取りに皆がどれほど気を使うか。そして最後に遺した私の言葉が、その後皆の心にどれだけ暗い影を残すか。だからこれでいいんだ。ううん。
少女の青白い頬や乾燥した唇に、柔らかく暖かいチークを乗せていた夕陽は静かに、ゆっくりと西へと傾いていき、ついには峰の向こう側へと姿を隠してしまった。
ひとたび太陽がその姿を隠してしまうと、空は、そして雲や町も、数瞬止まっていた秒針が動き出したかのように、慌てて各々自らの色を灯し始めた。誰もが半ば熱狂的に淡い赤に身を包んでいたことなど、すっかり忘れてしまって。
窓台に置かれていたヘレボルスの花弁が一枚、本体から離れて床に落ちる音を聞いた者は誰もいない。
夕闇さん
あの日、病室の窓からは燃えんばかりの赤い夕陽が室内に差し込んでいた。
それは雲間から差す一筋の光芒のようで、窓から真っすぐと伸びて病室の空間を斜めに横断し、入り口の戸まで続いていた。そんな病室の窓際に置かれたベッドの上に横たわっていると、まるで自分が柔らかい雲にでも乗っていて、地上に差す光芒の根元にいるかのような錯覚を覚えさせた。
赤、赤、赤。空も雲も町も、窓台に置かれた一輪の真っ白なヘレボルスでさえ自身の色を忘れて、一様に赤に染まっていた。
まるで空から水で薄めたトマト缶をひっくり返したみたいだ。そう思うとなんだかおかしくて、私はこの情景をそっくりそのまま写真で切り取って、誰かに伝えたいと思った。そうだな、写真のタイトルは「調理人」だ。大学病院の最上階の病室に泊まっている私が、トマトソースで下界を和えて一緒くたに調理してやる、そんな意図を込めて。そんなことを考えながら、私は少し浮かれた気持ちでベッドサイドに置いてあったスマートフォンに手を伸ばす。
「あ」
確かに掴んだと思ったのに、スマートフォンは私の細い指をするりと抜け出し、ガンともゴンともつかない無機質な音を二つばかり立てて、それきり静かになった。
まさかここまで筋力が落ちているとは。しかし私はこんなことで落ち込みはしない。今の私にとっては、できることを見つけることの方が難しいから。もう一人で歩くこともできないし、一人で用を足すことだってできない。今更スマートフォンが持てないことくらい、なんてことはない。
夕闇さん
夕闇さん
気づけば今年も終盤へ差し掛かり、僕はまた何も為さないままにまた一年を終えようとしている。秋は自分の内で息を潜めているそんな陰鬱とした感情を呼び起こすので、僕は嫌いだ。青とも白ともつかないコンクリートのような空も、夏の熱や光を失った無機質な街並みも。そしてそんなことにも気づかずに、物寂しいコンクリートの森を予め目的地を設定された機械のように迷うことなく、止まることなく歩いていく人々も。
そこまで考えて、影の言う通りだと思った。僕はこうやって、自分は気付いていることに―或いは感じていることに―気づかない人を想定して、その仮想敵を見下して自己評価を保っている。多くの人が秋の素晴らしさを堪能しているのを横目に、あいつらは秋の難点を知らない馬鹿な奴らだ、と心の底では思っていたのかもしれない。今でこそ、その真偽はわからないが根源では秋の素晴らしさを誰かと共有したかったのかもしれない。
集団での生活が苦となったのはいつからだっただろうか。僕が普段から抱えている漠然としたこの苦しみはなんなのだろう。最後に人の意見に対して共感したのはいつだっただろうか。思い出の中にその答えを探そうとして、僕は首を振った。僕と同様、集団に属することを苦手とする人間はこの世に五万といる。それこそネットの世界には、僕以上にこの感覚と深く見つめあっている人がいるだろう。
自分の苦しみが自身だけのものではないという事実に、少しの寂しさを感じもしたが、どんな状況であっても僕が望めば所属できる集団が身近にあるという事実は、僕のざわついた気持ちをほんの少しだけ落ち着けてくれた。
しかしこの新たな気づきは、自分は生涯この社会においてどの分野の第一人者にもなることはでない、という薄暗い不安を胸に植え付けた。
夕闇さん
唐突に影がそう言った。影が脈絡もなく突然話し始めるのはよくあることで、初めこそ、そのたびに驚いていたが今ではもう慣れたものだった。
「今度は一体どうしたのさ」
僕はウサギやらシカやらが模されたアルミ製の栞を読んでいた本に挟み、ベッドサイドテ―ブルの上に静かに置いた。そして、ゆっくり部屋の隅に―大抵影はそこにいた―視線を向けた。そうしながら、以前「君はもっと能動的にならなければいけない」と言われ、大して親しくもない大学の友人らとキャンプに行った時のことを思い出していた。影はいつも唐突に僕になにかを課してきて、その都度僕はそれに応えてきた。
「自由になるためにホームレスになれ、なんていうのは嫌だからね」
「真の自由はそんな簡単に得られるものじゃあない」
そう言って影は笑った。影の表情は見えず、本当に笑ったのかどうかを判断する術はないのだが、小刻みに上下する肩や声色から、なんとはなしにそう推測ができる。これもきっと影との付き合いが長いからこそできることなのだろう。
「じゃあ君の言う自由とはなんなんだい」
僕はベッドに寝ころびながら天井を見つめ、カーテンの隙間から漏れる車のヘッドライトが作る光の筋が伸びたり縮んだりする様を追った。僕の家は国道沿いに位置するため、深夜でも光や音といった賑やかな情報が存在する。それを煩わしいと思うか、人の営みとして愛おしく感じられるかは日によって異なり、僕はこれを自分の心の安定度を測る一つの指標として利用していた。
