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欺かれぬものは彷徨う。
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#ふたご座流星群

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パリを出発、アフリカの砂漠を走り抜けて大西洋に面したセネガルの首都ダカールにゴールする、パリダカの通称で知られる1万5000kmにおよぶ過酷な自動車ラリーの模様を、日本人チーム「ACP」のプレス車に乗って取材・撮影している。
音楽も手がけた宇崎竜童のナレーションは、淡々としながらも冷たさはない。監督の原田は、観る側にいやらしく擦り寄ることも、何かを大袈裟に煽ることもせず、冷静で、少し突き放しつつ、芯の部分には被写体や映画への熱い思いがある、そんな作品に仕上げていた。
競技中の事故も多く、なかには日本人ライダーの死、さらにラリー創始者ティエリー・サビーヌのヘリコプター墜落死という痛ましい出来事もあったが、御涙頂戴にならず、厳しくも清々しい眼差しがフィルムから伝わってくる。
本作の冒頭で、こんなフレーズが語られる。「なぜパリダカなのか。なぜ冒険なのか。なぜ山に登るのか。すべて同じ質問である。登山家ヒラリーの答えは、『そこに山があるから』だった。」
「なぜ山に登るのか。そんなことを聞くならそこに山があるから自分で登ってみろ。ヒラリーはそう言って、尻の重い質問者に冒険を促したのだと思う。」
「なぜパリダカなのか。そうたずねる代わりに、私はプレス車に乗って映画づくりの旅に出た。3人のカメラマンだけを、クルーとして連れて。」
荒涼とした道なき道を猛スピードで疾走し、競技者のみならず自然とも七転八倒し、食うもの食わず寝る暇惜しんで疲労困憊になりながら、何十メートルもの砂丘めがけて突っ込んでいく、おおよそ合理的な説明のつかない行いをしている人間を被写体とするということへの、尊敬と覚悟のようなものを感じる言葉だ。
映画監督をこう評するのはおかしいけど、自らの熱い「映画道」のようなものをしっかりと持っていた。そしてどこかジャーナリストのような冷静さ、厳しい批評眼もあった。内に異なる温度感を持った映画人だったように思う。



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A Hazy Shade of Winter

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2007年、いまのところ人生最後のガラケー「Media Skin」の、130万画素CMOSの味わい。いまじゃローテク、どこかシュール。なんとなく絵に近い。


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この頃、日本企業はアメリカの不動産をはじめ、ハリウッドのコロンビア・ピクチャーズ、MCA(ユニバーサル・スタジオ)などの企業を軒並み買いまくっていた。
プラザ合意により引き起こされた金余りは、のちに泡のようにはじけてバブル経済と呼ばれることになる。当時の日本人の肥大化した万能感が他国のプライドを踏みにじり、相当な反感を買っていたであろうことは容易に想像がつく。
21世紀も四半世紀を過ぎようとしているいま、日本における他国の不動産購入が問題視されている。その不安と懸念は分からないでもないが、いったいどの口が言うのかねえ、と思わないでもない。
写真は、1990年代の前半に撮ったもの。いまから30数年前、このビルの近くにあった紀伊國屋書店にはよく行ったものだった。インターネットがなかった時代、在留邦人にとっての貴重な情報源だったのだ。その書店も、いまでは場所をグランドセントラルに移していることを、いま検索で調べて知った。


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メモリーグラス

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日頃「〇〇世代」的な表現に馬鹿馬鹿しさを感じているけど(生まれてこのかた、自分のことを「氷河期世代」なんて大雑把な括りで思ったことは一度もない)、この「高市バブル首相説」には納得してしまう。そういう視点で見ると、腑に落ちることが多いから。
たとえばトランプの横で大いにはしゃいでいたのは、お立ち台で踊っていた頃の名残。
「働いて、働いて」の発言は、リゲインのCMが象徴する「24時間戦えますか?」の発想から。
おまけに、変な期待感に突き動かされた異常なまでの株高。
大規模な財政出動は恩師の安倍晋三にならってのことのように見えるが、彼女の場合は青春時代の泡銭感覚からきているのかも?と勘繰ってみたり。
彼女をジェンダーの観点、もしくは保守派の側面で云々することに世の中忙しいようだけど、なるほど、あの周囲がヒヤヒヤするほどのイケイケ感は、たんなる政治的パフォーマンスというわけでもなく、バブル世代ゆえの「恒常的な躁状態」とする説は、高市評としてもっとも支持できるものではないか。
私自身は、バブルのある種の恩恵を直にこうむった世代ではなく(ここでいう世代は、大した社会的地位もなく遊びまくっていた当時の20代)、あの頃まだ子供だった。熱を帯びたギラギラとした時代の空気を肌で感じながら、浮かれた大人たちを冷めた目で見ていた記憶がある。そしていまも、どこかそれに似た心境にある。

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SF映画のセットのなかにいるようでただでさえ気持ちは上がるが、YMOファンにとっては、鋤田正義が撮ったトランス・アトランティック・ツアーのオフショット写真でもおなじみの場所であり、今年発売されたブルーレイにも使われている、いわば「聖地」のひとつ。ここをあの3人が通ったんだと思うだけで胸熱の体験であった。
写真集『YELLOW MAGIC ORCHESTRA x SUKITA』で見つけた一枚。細野さんと教授、後ろには矢野さんか?あまりに若々しくて、その場にいたわけでもないけど感傷的になる。異国を巡るツアーでの新鮮な経験、YMOが社会現象となる直前の、未来がまだ決定づけられていない感じが伝わってくる。
同時に、異なる方向に伸びては交錯するエスカレーターが、メンバーやスタッフそれぞれの将来の軌跡を示しているようでもある。
エスカレーターも空港も通過点。ある時は同じ場所を目指し、またある時は違うところに旅立っていく。解釈次第でいろんなイメージがわくのも写真の楽しみ方のひとつだ。


THE END OF ASIA

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盟友ポール・マッカートニーもいまや83歳の立派なおじいさん。ジョンがどんな年の取り方をしたかを想像するのも一興だろう。40で鬼籍に入ったのは、やはり早過ぎた。
そんなジョンとポールを写した大好きな写真。撮ったのはポールの妻だったリンダ・マッカートニー。音楽史に残るアーティストも、こうして見ると純粋な音楽好きの青年。リンダは親しく心の通った近しいひとの愛おしい表情を撮るのに長けたフォトグラファーだ。
オノ・ヨーコとの子供であるショーンもバースデーを迎えたことになる。親子そろっておめでとうございます。愛ある誕生日を。

Love

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The Doo-Bop Song

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有名映画監督グイド・アンセルミが、作品にも人生にも行き詰まり、プロデューサー、女優、妻、愛人、記者たちがそんな彼を容赦なく追い詰める。四十を過ぎた男盛りの伊達者イタリア人の詰んだストーリーだが、全編にわたり諧謔に満ちており、賑やかなラテンの風が吹いているようである。
個人的にもなんか既視感がある世界だな、と思ったら、これはライターズ・ブロック、いわゆる作家やクリエーターのスランプのように見せかけていて、実は「中年の危機」に陥った男の話なのだと気がつく。
八方塞がりで、出口を探すも見当たらない。どうすればいいんだ?と途方に暮れることは長く生きたものだったら程度の差こそあれ経験があるというもの。しかし、出口を探せば探すほど、何かに救いを求めれば求めるほど、迷ってしまうものなのである。
いよいよ逃げ場がなくなったグイドが最後に掴んだ「人生は祭りだ」という言葉は、いままで出会った人々、過ぎ去った時間、そこにあるものたちを受け止めよというメッセージにほかならない。救世主はいない。己を救うのは自分だ。
グイド役のマルチェロ・マストロヤンニのかっこいいこと、妻を演じたアヌーク・エーメをはじめ出てくる女性が肉感的でエロいこと、そんな個性豊かな登場人物を白黒の世界でまとめ上げた映像の美しいこと。映画人をはじめ評価の高い作品だが、たしかに一見の価値はある。特に中年のご同輩にはおすすめしたい。


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"Rehab"は、リハビリ施設への入退院を繰り返していた彼女の経験からの歌。
みんなリハビリに行けってうるさいけど、行くもんかって言ってやった。
軽やかに歌ってるけど、「酒なんか飲みたくない」「ひとりでいいから友達が欲しい」と、なんだか無視できない歌詞も出てくる。
ひとの幸、不幸は他人が決めるものではないけど、あなたは歌うたっていて良かったじゃない、と伝えたくなる。
Rehab

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関係者パスで行列をスルーして入場できることは特権でもなんでもない。一般のひとが楽しんでいる横でせっせと働いているのだから。
しかし、ひとが楽しんでいるのを見るのは、それはそれで楽しいことなのだ、ということを今回知った。
家族連れ、夫婦、友達同士、老若男女が集まり、それぞれが充実した時間を過ごす。なんて素敵なことなんだろう。
子供の頃からディズニーランドが嫌いだった。あんな子供騙しに何を騒いでいるのか。理解できなかったし正直小バカにしていた。
だけど、ひとの楽しみにケチをつけることこそ、バカバカしいことなのだ。
万博も行く前は(バカにはせずとも)割と冷めた目で見ていたけど、会場で、あるいは行き帰りの電車のなかで、たくさんのひとが笑っているのに気づいた。そんなひとたちが、とても愛おしい存在に感じた。
歳を取るということは、許せなかったものも許せるようになるということなのかもしれない。


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風が気持ちいいが、日差しは刺すように鋭い。


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たしかに万博会場の主役は木製の大屋根リングであり、実物の存在感は圧巻の一言。トリノにあったフィアットのリンゴット工場の屋上テストコースを彷彿とさせる。


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aqua

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メディアも「災害級の暑さ」と注意を促すが、この時期に大地震など起これば……想像するだけで嫌になる。
先日、太陽光発電のモニター募集を断ってしまったことを少し後悔している。これから必要なのは、自家発電かもしれない。


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生きてるとは食べること。
食べ放題讃歌とは人生讃歌。
ヨーデル食べ放題

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冷たいとは「爪が痛くなるほどの刺激」に由来するらしいが、指がちぎれそうなぐらい冷たかったのを覚えている。
アサバスカ氷河は、北米でもっともアクセスしやすい氷河と言われており、最寄りの観光センターから、巨大なタイヤのついた特殊車両に乗って氷河の上まで連れて行ってくれる。
2つの岩山の間から流れ出てくるような文字通りの「氷の河」。その一部は氷から水へと姿を変え、氷面の窪みに川をつくり、勢いよく流れ落ちていた。訪れたのは快晴に恵まれた夏の日だったにもかかわらず、吹く風もけっこうひんやりしていた。日がかげれば寒さすら感じるはずだ。
驚くのは氷河の大きさだ。アサバスカ氷河は「コロンビア氷原」の一角で、あの山の向こうには東京23区のおよそ半分の300平方キロを超える「氷の原」が広がっているらしい。しかも氷の厚さは300メートル以上もあり、東京タワーが収まりそうな深さなのだ。世界にはもっと大きな氷河があるとはいえ、日本で暮らしていると感覚的に想像がつかない。
そんな巨大な氷の塊も、急速に規模を縮小しているとか。たしかにネットで最近の写真を見てみると、ずいぶんと小さくなったような気がする。
最近思うに、「地球温暖化」というネーミングは状況を的確にあらわしていない。気候が暖かなことを温暖というのだから、「地球灼熱化」の方がより実態に近いのではないか。
「global warming」ではなく「global warning」、地球からの大いなる警告だとすると、連日のうだるような暑さもより切実に感じられる。


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チューブラー・ベルズ(パート1) (2009年ステレオ・ミックス)

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必ずしも標高が高いほど登山の難易度が上がるわけではない、とことわった上で、自分の過去最高峰登山は標高3033mの「仙丈ヶ岳」。余談だが富士登山は「5合目まで」で、5合目以上のハゲ山なんかより自然が豊富で実に楽しい登山だった。
3000m級とそれ以下の山での顕著な違いは眺望にある。なかでも南アルプスの仙丈ヶ岳からのぞむ富士山と北岳(3193m)、国内1-2を並んで拝めるその景色は筆舌に尽くし難いほど美しかった。鷲が羽を広げたような雄大な北岳の向こうに、均整な円錐形が鎮座する独立峰・富士。神々しいとはまさにこの景色のことである。
頂上直下の山小屋で迎えた朝には眼下の雲海の波に心を奪われ、前の晩には、氷河地形の「カール」の上に月がのぼり、異星にでもいるんじゃないかという感覚におそわれた。山頂付近では雷鳥と邂逅することができた。
ネットでは分からないことが、山にはたくさんある。AIの時代にあって、フィジカリティを取り戻すことはより重要になってくるように思える。







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Fly Me To the Moon (In Other Words)

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圧倒的な東京感を放つぷにぷに電機。せめて心地いい曲で涼やかに。
君はQueen

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この季節、特に今日8月6日という日に、ごく自然に、決して軽々しくなく、多くの日本人の耳や心に向けられる言葉。しかし、いったい誰の、なんの過ちなのか、考えたことがあるひとはどれほどいるか。
加藤典洋の『戦後入門』は、日本と世界、そしてアメリカとの間で、複雑に絡み合う歴史の糸を丁寧に解きほぐしてくれる名著だ。
入門なんて妙にへりくだっているタイトルだが、新書にもかかわらず600ページを超える大作であり、教科書には書かれていない、先の世界戦争とその後のありようが詳細に記されている。
日本が抱える対米従属、ねじれの問題に真摯に向き合った一冊としておすすめしたい。


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その舞台を実際に体感したのはまだ若い頃で、当時はせいぜいファン歴10年ちょっとではあったけど、若造なりに感慨無量だったことは言うまでもない。とにかく鳥肌ものの経験だった。
観戦の地はパリ、シャンゼリゼ大通りを往復するゴール地点。彼の地がビッグイベントの舞台装置という機能を持つことは、この前のオリンピックを見れば誰もが納得するはず。文字通り“フランス一周”を意味するツール(Le Tour de France)の掉尾を飾るにふさわしいロケーションである。
シャンゼリゼの歩道の観客エリアにひとり陣取り待つこと数時間。近郊からスタートした選手たちがそろそろパリにやってくるかな、という気配は周囲のざわめきで察知。まずはスポンサー各社の広告車両が通過。そして大通りの彼方から響めきが波になってこっちにやってくると思ったら、テレビ中継で見慣れた先導車両、そしてバイク(モーター付き)が、かなりのスピードで迫ってきてはあっという間に通り過ぎた。
間髪入れずに、色彩の群れが一筋になって猛スピードで目の前を流れた。とても人間が動力源とは思えない速さで、色とりどりのユニフォームに身を包んだライダーたちが走り去っていった。これが憧れのツールか、これが自転車レースの最高峰か。若造は若造なりにその光景を胸に刻んでいた。
ただ夢は十分にかなえられたとは言い難かった。ゴールのパリは特別な場所だが、ツールの本当の魅力は、極彩色の選手やバイクとフランスの田舎道、アルプスやピレネーの険しい山々が織りなす一大スペクタクルにある。あれ以来、キャンピングカーでツールを見てまわりたいという夢を持ち続け、もう四半世紀以上がたってしまった。
昨日パリで終わった第112回ツール・ド・フランスで、タデイ・ポガチャルが4回目の総合優勝を飾った。あとひとつでミゲール・インデュラインやベルナール・イノーらの大記録5勝に並ぶが、ポガチャルはまだ26歳だというのだから驚くほかない。
時代は変わり、活躍する選手も様変わりしたけど、ツールのおもしろさは変わることがない。




CHASER

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当たり前だけど、植物は生き物。その塊が森になる。
こんなにも自分が森に遠いところにいたんだと思い知った。それは物理的な距離ではなく、心の距離、生き物である自分の「生」自体との距離。畏怖の念とは、こんなことを言うのだろうか。


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すばらしい日々

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Over the Rainbow

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子供の頃は、「自衛隊が戦国時代にタイムスリップして武田信玄らを倒して……」という奇想天外に過ぎるストーリーに追いつけなかったが、21世紀になって、すなわち大人になって、これまで食い足りなかった部分がすんなり消化できたように思う。
何よりも規律を重んじる軍隊式団体の自衛隊を「理性の代表」とするなら、戦国時代の武将たちは「野性に勝る武闘派」だ。
千葉真一が演じる伊庭三尉は、冒頭でこそ陸自の幹部らしい振る舞いを見せるが、夏八木勲が扮する景虎と出会い意気投合することで眠っていた闘争の心に火がつき、景虎の野望でもあった天下統一を目論むようになる。
家族や恋人が残る昭和に帰りたがる隊員も多かったなかで、やがて伊庭と部下との間に溝ができる。「息の詰まる昭和の時代とは違う!」と部下を焚き付けながら、伊庭は戦国の世でいきいきと戦い始める。
なるほど、この映画は千葉真一がいなければ成り立たない作品だった、と思わざるを得ない。俳優という枠を越え本格的アクションスターを目指し、狭い日本では飽き足らず海外に活躍の場を広げたサニー・チバ。伊庭(いば)と千葉(ちば)という名前の類似からして、あの役柄は千葉真一と重なる部分が多々あったように思え、本人が晩年まで思い入れを語っていたということも頷ける。映画も役者も、まさに理性と野性の相剋である。
劇中、過去の因縁から矢野陸士長こと渡瀬恒彦と対決する場面は、言ってみれば覇権争いであり、伊庭がなぜ裏切り者の矢野一派を皆殺しにしたのかは容易に想像がつくだろう。
タイプスリップ、アクション、時代劇に群像劇。あの時代の角川映画らしい破茶滅茶具合を目にしながら、そもそもひとは生きる時代を選べない、という事実に気づかされた。選べないのなら、それぞれ与えられた環境で、めいめいが思い思いの生をまっとうするしかない、ということも。


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天井や建物に遮られているこうした弱い力が、生きる力を弱らせているのではないか、と思いたくなるくらい、空が広い場所は気持ちがいい。
1年で一番昼間が長い夏至の日の夜に、サン・ラの音楽。自らは土星人であると公言していたジャズ・アーティスト。Space is the place、宇宙こそ帰る場所と説いた彼のギャラクティックな世界は、開けた空と地面との間で解け合っている。

Sleeping Beauty (a.k.a. Black Beauty)

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まだギラギラしてた村上龍をホストに、トーク番組ながら時に沈黙が許された「Ryu's Bar 気ままにいい夜」。そのオープニングを飾ったバド・パウエルの『クレオパトラの夢』。きっと素敵な夢に違いない。
Cleopatra's Dream

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いつも新しいものを追い求めていた彼の誕生を祝して。
Something New

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5年間付き合ってたと思っていた男には他にたくさんの女がいた、という状況をchain(鎖)にたとえ、そんな鎖の輪である自分たち女をfools、愚かよね、と歌っている。
男は、無数にいる女を鎖で繋ぎ止めているともいえるし、またアクセサリーのひとつとして個々を軽くあしらっているともいえる。
いけすかない酷い男とも思えるが、この女は鎖の輪っかになることを受け入れる。惚れた女の弱さ、というより、むしろ「上等よ、その輪になってやろうじゃないの」といわんばかりに。
それもこれも、アレサのソウルフルな歌声のなせるわざ。強いのは、愚かなのは、どちらか。
Chain of Fools

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The Star-Crossed Lovers (Live @ the Olympia Theatre, Paris)

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自分が生まれる前の出来事だが、田中雄二の名著『電子音楽 in JAPAN』の冒頭に記された、万博における電子音楽(現代音楽)を手がけた巨星たちの名前を見れば頷ける。黛敏郎、一柳慧、武満徹、高橋悠治、湯浅譲二、イアニス・クセナキス、カールハインツ・シュトックハウゼンなど、錚々たる音楽家たちが名を連ねているではないか。
東芝IHIパビリオンの音楽を担当した冨田勲は、その準備で在阪中だった折にレコード店に立ち寄り、ある一枚の作品を手にする。ウォルター(ウェンディ)・カルロスがモーグ・シンセサイザーでバッハの曲を奏でた先駆的な音楽『スウィッチト・オン・バッハ』。これを聴いた冨田は、大枚叩いて日本で初めてモーグを個人輸入し、日本における電子音楽の創作を牽引していくことになる。
その場に立ち会った松武秀樹も、師匠の冨田にならって後にこのシンセサイザーを購入。周知の通り、松武は「4人目のYMO」としてマニピュレーターを担当しており、彼と彼のモーグはYMOの音楽に欠かせない“メンバー”となる。大阪万博がなければ、もしかすると世界的なテクノミュージックグループであるYMOの成功はなかったかもしれないと思うと、因縁を感じずにはいられない。
国内では、三波春夫が「こんにちはー」を連呼する例の曲でミリオンヒットを飛ばし、だいぶ牧歌的な雰囲気さえあったようだが、電子音楽という、新しい芸術表現に取り組もうとした音楽家の熱意と軌跡を辿ると、万博という国家的イベントの別の側面が見えてきておもしろい。
過去を(再)評価、もしくは発見するというのは、後世に残されたものの楽しみであり、ある種の義務でもある。いま起きていることは、未来の多くの眼差しにもさらされている。
#大阪万博
#YMO
月の光

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イベリア航空のもので、MAD(マドリッド)からBCN(バルセロナ)のスペイン国内線。搭乗者は自分である。
とある年の7月9日の出来事を、いま思い出す。玉手箱を開けた感じになる。
#ひとりごとのようなもの


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ジョーダンは1991年にモータースポーツの頂点であるF1に参戦。新興チームだったものの時に強豪に一泡吹かせる活躍を見せ、通算で4勝を記録した。個人的には、このうちの半分の2勝をサーキットで目の当たりにした、思い出深いチームである。
最初は1998年のベルギーGP。難コースのスパ・フランコルシャンは雨で、次々とトップドライバーが脱落する大荒れの展開となるなか、デーモン・ヒルとラルフ・シューマッハーのジョーダン1-2フィニッシュという劇的なチーム初優勝にわいた。2勝目は翌年のフランスGPで、この時も天候が目まぐるしく変わる難しいコンディションで、ハインツ・ハラルド・フレンツェンがドライブするジョーダンが勝利をさらった。
スポーツ観戦の醍醐味のひとつが、弱者が強者を倒す「ジャイアント・キリング」だ。カネもリソースも潤沢な常勝チームに、そのどれも持ち合わせていないジョーダンは果敢に挑み、数少ないチャンスをものにした。まさに「アンダードッグ」。成功が約束されていないからこそ、その一歩一歩に意味と重みがあり、ひときわの輝きがあった。
こうしたキャラクターはそのまま、オーナーのエディのそれを反映していた。新星ミハエル・シューマッハーをデビューさせては横取りされ、エンジンメーカーのご機嫌を取り、苦難の道を歩みながらも、タダでは起きないEJの逞しさが好きだった。
おまけにドケチで、歯に衣着せぬ発言で物議を醸し、いわゆる「食えないやつ」でもあったが、ユーモアと愛嬌とあたたかさにあふれ、愛されキャラでもあった。彼がいなくなったことは、本当にさびしいことだ。
彼の生き様には強い共感を禁じ得ない。それはきっと、自分自身のなかにも「アンダードッグ精神」を見出したいからだろう。
みなに愛されたアンダードッグよ、永遠に。
#F1GP


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Love Cry

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南半球の夏の終わり、死と再生を想起させる森羅万象の世界を歌った、ひとの復興の曲だ。
3月の水が、全てを洗い流し、新たな命を宿す。
絶望の淵にあっても、希望を忘れなければ、ひとは大丈夫なんだと教えてくれる。
Águas de Março
