

トラッドjazz好き スイングしなけりゃ意味がないと思ってる方ならどうぞ(^ω^)_凵

チャーハン大王
#昭和の歌
☆『別れのブルース '37』
淡谷のり子。服部良一がコロムビア・レコードに移籍してすぐの1936年昭和11年に早速アップテンポのスイングジャズ風流行歌♫おしゃれ娘 を淡谷に提供している。服部はマイナーレーベル時代から淡谷の洋楽テイストなレコードをかなり聴き込んでおり、淡谷のり子と云う女性シンガーにかなり早い段階から注目していたことが自伝に書かれていた。そんな淡谷の才に、服部は入社早々からいきなり、かなりな4ビートのリズムの利いたスイングセッションを宛てがい、効果の程を実感した。
淡谷は1929年昭和4年に東洋音楽学校声楽科を首席で卒業、卒業公演でウェーバーの♫魔弾の射手のアガーテのアリア をその美しいソプラノで披露して、翌日の新聞でも取り上げられ「十年に一度の新星」と賞賛され、誰もがクラシック界へ進むものと思っていたが、元々、没落していた青森の実家、淡谷家を支えて行かねばならず、クラシックで自分の身辺の生活費からまとまった仕送りを賄うのはとても無理と云うことで、流行歌手の道を選択したのだが、当時流行りのヨナ抜き短音階の演歌風流行歌だけは唄うまい、と決めこんでおり、唄うならフランスの香気溢れるシャンソンや情熱のラテンのリズムであるルンバやタンゴといった所謂、ジャズソング系のものに自分の表現法を賭けようと意気込んでいた。東洋音楽学校在学時の頃の実家は赤貧状態でそんな状況でよく音楽学校へ淡谷も行ったな、と思うほどだがそこが淡谷のり子と云う人物を表している。要するに、好きな事には身を賭してでも打込みたいという欲求を抑えきれなかったのだ。身銭は自分で稼ぐ…の精神でバイトを始めたが、選んだのが当時絵画界でも先鋭的だった太平洋画会の裸婦のモデルだった。やがて倍率の高いオーディションを勝ち抜いて淡谷は何とかモデルになることが出来た。高名な画家、田口省吾の「裸婦臥像」が二科展に出品されたモデルが若き日の淡谷だった。田口のアトリエで裸になっていた或る日、休学していた東洋音楽学校で淡谷のピアノの講師をしていた吉原が「おい田口、いるか」と怒鳴り込んできて、裸の淡谷を咎めた。淡谷は一目散に逃げ出した。吉原は田口へ淡谷が音楽学校の生徒で前途有望な娘であることを話した。後日、田口は淡谷へ「キミのことは吉原君から聞いたよ。そういう悩みも打ち明けて欲しい。僕は全て呑み込んだから君は学校へ戻り給え」そう言って淡谷のみならず、目を患っていた淡谷の妹の治療代も田口がすべて面倒を見てくれた。おまけに学校へ戻った淡谷を待ち受けていたのは、それまで一介の生徒に過ぎなかったのにいきなり特待生になり月謝免除という素敵なご褒美だった。これは単(ひとえ)に吉原先生の尽力によるものだったが、同じ東洋音楽学校で淡谷の声楽の師、久保田稲子の一押しも功を奏したようだ。久保田は早くから淡谷の才能を見抜き、経済的にも立ち行かない淡谷家の実情の事も把握した上で敢えて厳しく学校では淡谷に接したが、1歩学校を出ると、お腹を空かせている淡谷にカツライスを奢ってくれたと云う。そして淡谷が壮年期になってからもずっと淡谷を陰で応援し続けた。1985年昭和60年にNHKラジオ第一でオンエアされた淡谷の特別番組にも未だかくしゃくとしていた久保田がラジオ出演して淡谷と対談したテープを私は持っている。こうして見てくると淡谷のり子と云う人物は、周囲に数多の良き理解者たちに恵まれた、とも言えるであろう。東洋音楽学校(現.東京音楽大学)では大正期から高名な声楽家だった荻野綾子に最初は気に入られたと自伝にも書いてあった。荻野綾子、吉原先生、久保田稲子、田口省吾と来てやはり服部良一とのコンビは日本にブルースを浸透させたいと云う服部良一の思いを、作詞家になり立てだった藤浦洸、♫別れのブルース のディレクターだった山内義富に淡谷当人のチームが一丸となり受け止めて、その目標の為に努力した甲斐もあり、成功したミッションだった。
♫別れのブルース は最初は服部良一が日本のブルースを作るべきだ、と藤浦洸とコンセプトをあれこれディスカッションしながら案出した。その数日後、服部は横浜の本牧界隈のチャブ屋街にある一軒のバーで洋酒を傾けていた時に退廃的なシャンソンの♫暗い日曜日 が流れ出した。その時のレコードはその前年の秋にリリースされたばかりの淡谷のり子が吹き込んだものだった。服部はフランス本国版のダミアが唄った盤が好きだった。服部はその時の衝撃を自伝にこう綴っている。「…淡谷のり子の声だ。(中略)今、この本牧のチャブ屋で聴くと、一層の哀愁が強まり心が震えるのを覚える。淡谷のり子だ。本牧を舞台にしたブルースを彼女に歌わせよう。もっともっと低い、ダミア張りの声で…僕はバーを出ると、嬌声が飛び交う夜のチャブ屋街を夢遊病者のように歩いた。ブルーな旋律の断片が、見下ろす港の、沖から寄せる黒い波のように暗く悲しく浮かび消えていった」この服部の記述は貴重である。♫別れのブルース は当初本牧ブルース と題されたのだが、コロムビア・レコード宣伝部からの強い反対に遭い、仕方なしに♫別れのブルース に改変したものだった。つまり何故本牧だったのかの動悸がここに記されているからであり、話は共案者の藤浦洸にも飛び火するからである。翌朝、服部は社で藤浦を捕まえて会議室で昨夜の興奮を話した。そこで藤浦に軍資金として2円50銭ばかりを握らせて…君も早速本牧へ行って詞を掴んできて欲しい…これで、本牧ブルースを作ろう!藤浦はこの時はまだコロムビア・レコードのエドワード文芸部長の私設秘書、と云うかなり曖昧な肩書きで、社内を彷徨いていたので給料も安かったらしい。藤浦の著書には30円渡された、となっていて金額に可也の差異があるのが気になる。藤浦はやはり本牧へ行き裏ブレ気分を満喫してきたが、後日「それでも中々、詞にすることは難しい」と焦燥していた様なので、服部はアメリカの有名なブルース曲を書いたW.Cハンディの書いた名著『ブルース』を藤浦に進呈して、ブルースの基本形である三行詩形の十二小節で見事な『本牧ブルース』を数日後に書いてきた。ハンディの『ブルース』効果が早くも現れたのだ。
♬.*゚窓を開ければ 港が見える
最初藤浦はここだけしか書かない。服部が怪訝な顔をすると、「君なら、次をどうする」藤浦お得意の茶目っ気だ。自信がある証拠だ。服部もふざけて…犬が西向きゃ、尾は東…とカマした。痩身の憂愁詩人は、勿体ぶって首を振り、ペンを走らせた。
♬.*゚メリケン波止場の 灯が見える
服部は「うん、いいねえ。君の得意のカタカナが出たね」
♬.*゚夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ
録音当日、淡谷と服部が少しもめた。「私はソプラノよ。こんな低い音、アルトでも無理じゃない。歌い出しが下のGなんて無理よ」昭和10年代に入ると淡谷は俄然、シャンソンやタンゴの洋楽の日本語盤を積極的にレコードリリースしてゆく。♫ポエマ ♫ヴェニ・ヴェン ♫マディアナ など、兎に角綺麗なソプラノだった。だが、この『本牧ブルース』は彼女に当てて書いたのである。彼女の可能性に賭けた歌である。服部は少々語気を強めて云った。「ブルースはソプラノもアルトもないんだ。魂の声なんだ。マイクにグッと近づいて、無理にでもこの音域で唄って貰いたい」余りの熱量に淡谷も従ったが、その服部の狙いは功を奏したようだ。
だが、一難去ってまた一難、制作陣は仕上がりに自信満々であったが、社内試聴会で営業サイドが、難色を示したのである。「何だか詩も曲も頽廃的ですな。時局に対していかがなものでしょう」「第一このブルースってのはなんです?」
「今までにはないタイプの曲だから、少々心配ですな」「本牧と云うタイトルは知名度が薄いから変更するべき」山内DE.が矢面に立って、懸命の防戦をする。漸く、タイトルを♫別れのブルース と改題して売り出すことで妥協をみた。だが、営業のおエラ方から「やっぱりブルースが気に入らん。別れの曲 とか別れ小唄 とかに出来ないか?」その戦況を黙って聞いてきた服部が憤然と反論した。「それではこのレコードが死んでしまいます。ブルースが、ボクらの目的なんです。今に、日本中のレコード会社が、どこも争ってブルースを作りはじめますよ。その時にコロムビアが後塵を拝して宜しいものでしょうか?時局とは関係ありませんよ」拍手をしたのは文芸部の面面で営業関係者は憮然たる表情だった。「ま、会社が辞を低くしてお迎えした服部先生がそれほど仰るのでしたら、これで行きましょう」昭和12年7月♫別れのブルース
はリリースされた。厳密な意味で我が国のオリジナル曲でのブルースと云うものは遡ること3年前の昭和9年にポリドールから藤田稔名義でリリースした若き日の灰田勝彦の♫浅草ブルース は服部の言うブルース音形で作られた我が国第一号のブルースである。だが、こちらは殆ど売れなかった。因みに作詞はサトウハチローで作編曲は本邦初ガーシュウィンの♫ラプソディー・イン・ブルー を日比谷公会堂で初演を務めた紙恭輔であった。服部も常々尊敬していた人で、どちらかと云えばクラシック系の人であった。
♫別れのブルース は営業や広報からほぼ見捨てられた形となり社としては殆ど無かった為にリリースから3ヶ月ほどは全く売れなかった。…やはりだめか。_| ̄|○ il||li♫別れのブルースプロジェクトの4人は意気消沈するしか無かった。昭和12年晩秋の或る日、満州・大連のダンスホール「ペロケ」で自分の楽団ホットペッパーズを率いて専属していた和製ルイ・アームストロングこと南里文雄から「この夏に東京で淡谷くんとレコーディングした♫私のトランペット も好評だが、それよりも淡谷くんの♫別れのブルース のリクエストが多い。よって、ショーのプログラムには最近じゃ♫別れのブルース を必ず入れてるよ」といった内容だった。不思議なこともあるもんだねえ……。服部が藤浦と話ていると、実は藤浦のところにも作家 浜中浩から絵葉書が来ていて「お前、へんなものを作ったね。♫別れのブルース 満州で大流行だよ。お前を連れて来りゃあ良かった、と皆言ってるぞ」同じような内容のものだった。それから数日後、漫画集団の横山隆一、近藤日出造、清水崑達がコロムビア宣伝部の玉川一郎のもとへ来て騒いでいた。「おい、玉川。♫別れのブルース ってのは、君んとこのレコードだろう。あれ、満州で大流行りだぜ。兵隊達も唄ってるし、病院の掃除の👩💼( '-' 👩💼 )オバチャンたちも唄っていた」驚いたのは玉川で、営業の方へ確認すると、もうすでに17万枚を突破していると云うではないか。「畜生め、売れているなら営業もそう云えや」後のユーモア作家玉川一郎は、機を逸すべからざると追いうちのキャンペーンに掛かった。♫別れのブルース は発売三ヶ月後に、まず外地で火がつき、長崎、神戸、大阪、横浜と港づたいに東上してきて最後は東京で爆発的にヒットしたのである。川崎のコロムビアプレス工場は連日徹夜作業でも注文に応じ切れない程だったと云う。港港から拡がって、全国の港では自分の港になぞらえて愛唱されているところが面白い、と服部自らが語っている。メリケン波止場と云うのはどこにでもあるようだ。
続
参考文献:
なつめろの人々 藤浦洸 読売新聞社刊 1971年
ブルースのこころ 淡谷のり子 新日本出版社
1978年
ぼくの音楽人生 服部良一 日本文芸社 1993年




別れのブルース

チャーハン大王
【この惑星で楽しみたいこと】
サザンオールスターズは邦ロックの宝です。
【最近のマイブーム】
10ナンバーズ・からっと を再聴して興奮しちおりやす♥️
サザンナンバーの中でも出色のディキシーランド・ジャズ。♫ アブダ・カ・ダブラ
演奏はあの❣️薗田憲一とディキシーランダーズ
アルバムにはA面終わりにtype.1 B面頭に
type.2 そしてシングル♫いとしのエリー のB面にtype.3が所収されている。
ヤイヤイヤイヤイ…のメンバー全員によるコーラスが如何にもサザンしてて嬉しい(#^.^#)
桑田の詞
…娘心は特に燃えてたぎれば
Feelin's good
たとえ火の中恋をするのであらば
…そうよ アンタも人見ごろ
kissもせにゃならぬ アブダ・カ・ダブラ
酔いしれ今宵こそ はげみましょ
…二人だけになれたら
なんでもござれ
いいじゃない胸を焦がせば
それで満足モナムール
胸が波打つあなた
あたしゃ顔などうずめたや
うつろな秘め事 心乱れ翔ぶよ
アブダ・カ・ダブラ
若いうちの恋はこうでなくっちゃね💕︎

アブダ・カ・ダブラ(TYPE.2)

マサヤス 龍之介
不安な方もいらっしゃるでしょう。
第1波は粗方到達したようですが、今後も第2波、3波と続き、津波の高さは更に高まる予想も出されています。1mだからと言って侮るなかれ。
通常の波の強度とは比べ物にならないそうです。
油断大敵ですね。
とにかく平常心を保って、冷静な判断と早めの行動を心掛けましょう(๑•̀ㅂ•́)و✧
カツカツな精神状態に一服の清涼剤😎🚬
お気楽なボブ・ホープとジェームズ・キャグニーの洒脱なタップ、かっこよかったなぁ。
サントラではありませんが、映画と同じピアノメドレーになってます。
現実逃避にお役立て下さいm(_ _)m

Bob Hope and James Cagney Tap Medley (from "the Seven Little Foys" - Yankee Doodle Boy / A Little Foy Music / Mary's a Grand Old Name)

チャーハン大王
ニューミュージック全盛期の1977年にレコードデビュー!
ハツラツたる歌声は現在に連なる男声ハイノートヴォイスの先駆けであった。
メロディアスな甘い独特のラインコードな曲調は若い頃に大きく影響を受けたTHE BEATLESのポール・マッカートニー譲りで、和製ポップス王の
異名を持つ。
CM音楽も多数手掛け、最もポピュラーな
♫ウィスキーがお好きでしょ は現在でもサントリー角ハイボール🥃のCM楽曲として様々なアーティストによってカバーされ続けている。近年では2014年にオンエアされた興和㈱のキャベジンのCMで使用された♫やさしさにおかえり が好評であった。
本回はスイングの星初投稿に寄せて杉真理の素晴らしいビッグバンドアレンジによる
♫HAPPY ENDING をご紹介する。8ビートでも心地よくスイング出来ることを証明してみせた逸品である。

Happy Ending

チャーハン大王
#昭和の歌
☆『或る月の夜に '47』
♫別れのブルース ♫山寺の和尚さん ♫蘇州夜曲 ♫湖畔の宿 ♫東京ブギウギ ♫バラのルンバ ♫銀座セレナーデ ♫ヘイヘイブギ ♫青い山脈 ♫恋のアマリリス ♫三味線ブギ ♫山のかなたに ♫丘は花ざかり ……流行歌全盛期にこれだけの代表曲を世に放った国民栄誉賞作曲家 服部良一。
彼は大阪・玉造に生まれ少年期より音楽活動を始めてやがて日本に来日していたロシアの名指揮者エマニエル・メッテル氏に師事し和声楽を習得。同窓に後の大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽総監督を務めた日本のマエストロの第一人者だった朝比奈隆がいる。このメッテル仕込みの編曲力を生かし当時は勃興期だった我が国の流行歌界へ。ジャズバンドでサックス奏者として活動しながら関西に乱立していたタイヘイ・ニットーといったマイナーレーベルの専属作曲家として腕を磨きやがて上京。昭和11年に晴れて外資系大手レコード会社のコロムビアへ移籍し本格的作曲家兼編曲家として頭角を表した。最初のヒット曲は
♫山寺の和尚さん だったが、大ヒットしたのは翌昭和12年にリリースされた淡谷のり子唄うところの♫別れのブルース だった。〇〇ブルースと星の数ほどあるブルース歌謡を定着させた。以後も当時流行していたジャズやタンゴ、ルンバと言った洋楽と日本の流行歌を巧みに融合させた歌謡曲のグレードアップに貢献。服部は、当時分業制だった作曲と編曲両方をこなした。それは一重に若き日にメッテル氏に習った和声楽の賜物だった。
レコーディング時には自ら書いたスコアを持参して臨み、望みうる"音"を発信できた数少ない作曲家だった。又、コロムビア入社前から多くの友人作曲家たちに無償で和声楽を教える『響友会』を開き、数多くの若き精鋭作曲家達がレコード会社の枠を跨いで巣立っていき、多くの作曲家達が編曲もこなせるようになり、服部の日本流行歌史に対する貢献度はもっと賞賛されていい。太平洋戦争によりリリース出来るレコードも徐々に制限されていく、レコード会社も大手の軒並み社名であるコロムビア、ビクター、ポリドール、キング、テイチクと言ったカタカナ表記すら変更を余儀なくされていく。そうしたご時世の下リリースされる楽曲も戦争礼賛、鬼畜米英、といった極端なまでの軍歌、軍国歌謡が奨励されていく。服部のみならず、それまで洋楽系のレコードで売ってきたディック・ミネや淡谷のり子といったベテラン勢らも肩身が狭くなっていく。服部は、と言えば軍歌を全く書かない訳にもいかず、去りとて洋楽風流行歌を中心に書いてきた作風は完全に封印せざるを得なくなったが、例えば銃後の暮らしの歌など直接戦争を礼賛するものには着手せず、間接話法的な楽曲を細々と書いていた。ディックや淡谷のり子らは国内での活動が半ば無くなりつつあり、専らその活動の大半は前線への慰問に費やされた。終戦のとき、服部は軍属として中国・上海にいた。実際は日本人なのに中国人スター歌手として大変な人気と実力を備えていた李香蘭こと山口淑子や松竹映画宣伝課員として服部らと行動を共にしていた生方敏夫や洋楽・洋画評論家だった野口久光らと、日中親善企画として上海にあった大ホールで、夜来花(イエライシャン)ラプソディーを中心に添えた大規模コンサートを開いたりして日本軍芸術班の一員として赴いていた。終戦と決まってからは同行していた李香蘭が中国の裁判所からスパイ容疑で軟禁状態となり、服部たちもその裁判を最後まで見届けた。最終的には李香蘭への容疑は晴れて無罪となって日本へ無事に帰国出来た。服部は後の回想で、ブルースが流行ったとき、日本は中国との戦争で破竹の勢いで勝ち進んで行きマスコミも国民も勝った勝ったと高揚していた。しかし素直な国民感情としては、日本の軍部が台頭しており、世界的にも孤立してゆく日本の立ち位置を考えたら、戦争に没入してゆく暗い気分の反映がブルースの流行を生んだのだ。戦後は一転して、日本全土が連合軍からの空襲を受けて都市部は焦土と化し、追い討ちを掛けるような敗戦に打ちひしがれたが、国民感情としては長く暗いトンネルから抜け出して、再び自由を謳歌出来る時代となり、明るい光明が差していた。そんな折にブギウギは解放された日本人の心の反映だったのだと思う、と述べていた。この二律背反する服部の冷静な視座は同時に服部の本音でもあったのであろう。
終戦直後に服部は帰国してから精力的に元の洋楽風オリヂナル流行歌を量産していき、幾つかの傑作が生まれたが、1947年昭和22年同じコロムビアのシンガー同士でゴールインして戦前すでに話題を振り撒いていた霧島昇と松原操のデュエットで吹き込まれた♫或る月の夜に はそんな自由に洋風歌謡を書ける喜びの中で書かれた服部らしい凝った楽曲であった。オリヂナル原盤をどうしても探し出せずやむを得ずサブスクにアップされていた後にリメイクされたダーク・ダックスの唄に小原重徳とブルーコーツが素晴らしい伴奏で彩りをそえた音源が、現在聴ける唯一のヴァージョンなので、第一回目の服部コラムに花を添えたい。


或る月の夜に

マサヤス 龍之介
オムニバス音楽ルーム日程表
オムニバス音楽ルーム♪日程表の更新です(((o(*゚▽゚*)o)))
6月15日までのオムニバス音楽ルームの日程を以下にお伝えしておきますm(_ _)m
4月 30日(水) G.W.の岸辺に
5月 6日(火) 火曜日の岸辺に
5月 8日(木) 木曜日の岸辺に
5月 12日(月) 月曜日の岸辺に
5月 14日(水) 水曜日の岸辺に
5月 20日(火) 火曜日の岸辺に
5月 21日(水) 水曜日の岸辺に
5月 26日(月) 月曜日の岸辺に
5月 27日(火) 火曜日の岸辺に
6月 2日(月) 月曜日の岸辺に
6月 4日(水) 水曜日の岸辺に
6月 10日(火) 梅雨の岸辺に
6月 11日(水) 水曜日の岸辺に
金曜日乃至土曜日にお送りしているテーマ別音楽ルームは第一ピン留めに掲げている通りです。
今後とも、岸辺🏝の音楽ルームをどうぞ宜しくお願いいたしますm(._.)m
尚、タイミングを見てオムニバス音楽ルームは再び月水に戻ります。


花咲く旅路

マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.17』
ハリージェイムスのバンドによる初のスタジオREC.は1937年12月1日で、初っ端のボーカリストはヘレンヒュームズだった。ハリージェイムスの後にカウント・ベイシーのバンドへ移籍して開花したボーカリストだった。シナトラにせよ、ヒュームズにせよ、ハリージェイムスのバンド時代には彼・彼女らの良さを活かせなかった。最初にジェイムスがバンドを結成した時はベニーグッドマンやカウント・ベイシーのバンドメンバーが多数名を連ねていた。生来のハリージェイムスの人間性が好人物であり友達の輪が瞬く間に拡がり、バンドボス達からも愛されたのであった。
特にリズムセクションのウォルターペイジ-b
ジョージョンズ-ds.がベイシーバンドから、バッククレイトン-tp.もバックアッパーとして2回目の録音まで付き合っていた。ベニーグッドマンバンドからはハーシャルエヴァンス-ts.ジェスステイシー-p.らが参加して凡そ3回目まで付き合った。
ハリージェイムスがベニーグッドマンバンド時代にスタープレイヤーとして君臨したことによるベニーやジョン・ハモンドプロモーター人脈からの賛同もあっただろうし、カウント・ベイシーもメンバーを貸出すのに快諾したことも、ハモンド効果であろう。初期のジェイムスバンドは"白いベイシーバンド"と揶揄されたものだったが、ハリーはそのフレコミを気に入っていた。ハリーはカウント・ベイシーのバンドスタイルが大好きだったので、揶揄を好意的に受け止めていた。しかしハリージェイムスのこうしたバンドサポートに賛同した同時代ミュージシャンではデューク・エリントンも進んでメンバーを貸出した。デュークはハリーとは後に共同で作曲までものしている。1938年4月27日の第4回録音ではデュークの所からハーリーカーネイ-bar.saxがサポートしており、黒っぽさを演出していた。この録音に限りベニーのところからデイブタフ-ds.も参加していた。デイブタフは'38.1.16のベニーグッドマンのカーネギーホールコンサートでズタズタになったリズムセクションの要であったドラムスを矯正する為にベニーはジーンクルーパを解雇して替りにタフを起用してバンドの立て直しを図った。デイブタフはジーンと違って派手で、矢鱈ドラムスを叩きまくるパフォーマンススタイルではなく、スネアを有効的に活用出来るドラマーとしてベニーのバンドのリズム矯正に寄与した。デイブタフはエディコンドン率いるシカゴ派のメンバーでジェスステイシーらとは同僚だった。1939年に入り第5回録音の頃になるとかなりオリジナルメンバーが出揃って出張メンバーの姿は粗方消えた。同年2月20日の第5回録音ではバンドテーマ曲となった♫Ciribiribin やハリージェイムスの後の十八番となる♫スイート・ジョージア・ブラウン、それにこれもハリーのリサイタルやライブでは必ず取り上げる♫Two O'Clock Jump もこの日に録音された。この日の録音ではボーカリストはバーナイス・バイアスだったがこの日と次の第6回録音、1939年4月6日と2回分の録音で降ろされて翌5月24日の第7回録音からは新進のコニーヘインズに取って替わる。そして次の第8回録音、7月13日から例のフランク・シナトラがバンドに加わる。当初、シナトラという名前は余り馴染みが無かったからハリージェイムスはシナトラという名前を変える様命じたらしいが、シナトラが頑強に本名に拘ったのでそのままで行くこととなった。1939年11月8日、シナトラのハリージェイムスバンド最終録音日にシナトラが唄ったバンドテーマ曲
♫Ciribiribin を本回はお聴き頂く。
※ 画像は初期ハリージェイムスバンドの音源が多く所収されているドイツFLAPPARレーベルの1枚。30年以上前に新宿・帝都無線で購入した。

Ciribiribin (They're So in Love)

マサヤス 龍之介
#トラディショナルジャズ
☆『ビックス交遊録』
ビックス・バイダベックを知的な男だったという者は、滅多に居なかった。だが、そうした人物像は、多分に正確さを欠いている。成功したアイオワの実業家である父親といい、子どもの頃音楽で賞をもらった母親といい、彼を育んだのは大学生の大多数を送り出す典型的な中流家庭である。
怠惰なうえ音楽に憑かれていたので、ビックスには堅苦しい高等教育はとうてい望めなかったが、それでも大学生の友人からは仲間として扱われた。(この"怠惰"という見解はリチャード・ハドロックの著述の引用であり、ラルフ・バートンは「怠け者にあんなコルネットが吹けるか!と反論している)ことにホウギー・カーマイクルとの交流や、短期間ながらホウギーの学友ビル・メーンクハウスとのそれは、彼が生まれて初めて胸襟を開く程だった様である。
メーンクハウスとは或る日シュルレアリズム気取りの『ウィートナー試問』という一編を読み上げて、ビックスの反応を窺うことにした。
一、ウィートナを四通りにつづれ
二、 雨降りにはどんな馬
三、 フライトルナを定義せよ、そしてアミーリアとは
四、 ヴェターに関して知りうることをすべていえ
五、 ニュー・メキシコでの敗北に関して知りうることをすべていえ
六、 スケートについて短い日記を書け。三頁めを開いたままにせよ。
カーマイクルによれば、ビックスはしばらく考えてから、ひと言「ぼくは詩人(スワン)じゃない」と答えた。大学の友人たちは大喜びした。ビックスの知る職業演奏家は、大学教育を受けたウルヴェリンズはともかく、大抵、悪乗り屋(ジョウ・ヴェヌーティ.-V、ウィンギー・マノン-tp、ドン・マレイ-cl) か、音楽を第一に感情の表出と見るかたくなな半知性タイプ(メズ・メズロウ-cl、アート・ホーデス-p、エディ・コンドン-g.)のいずれかである。たぶん彼らは、ビックスがすぐに分かったようには、メーンクハウスをひとりとして理解出来なかっただろう。なんでも話し合えるという相手は珍しく(ドラマーのデイヴ・タフはそのひとり)、このことが、ひとつにはビックスの孤独の理由だったのかも知れない。メーンクハウスとはじきに気心を知り合えたが、ウィンギー・マノンらの演奏家仲間は、ビックスが周囲に張り巡らせていた防御の霧を透視出来なかった。「ビックスという男は天才肌て、我々には彼のことがよく分からなかった」と、マノンは振り返る。「音楽の話ばかりで、この和音を出してみようとか、今夜は仕事のあと、tp.3本でハモってみようとか云うんだ。思い思いの生活を楽しむことなど、我々にはして欲しくなかったらしい」
学課の復習をしていたとき、エディ・コンドンは思いがけない会話をビックスと交わしたという。「『ところで』と、私は言った『プルーストって誰だっけ』。ビックスは和音をひとつ叩き、暫く耳を澄ませてから、不意に「コルク張りの部屋に住んでいたフランスの作家だよ。翻訳じゃ彼のはつまらない」という。私はピアノにもたれ掛かって『そんなことどこで仕入れた』と問いただした。彼は謎めいたまなざしをくれる。「さあね」」
他の知人達も、ときには気がつかなかった訳ではない。「ビックスはものすごく頭が良かった」と、フランキー・トラムバウアー-CメロSax は回想している。「音楽だけでなく、どんな話題にでも入れた」
ウルヴェリンズ解散後、ニューヨーク滞在中にビックスはジェネットの録音がもう一度持たれる。ウルヴェリンズの3人(ビックス、ムーア、レイブルック)がtb.のミフ・モール、P.のルーブ・ブルーム、Cメロディ・サキソフォンのフランキー・トラムバウアーに加わって、♫F'lock O' Blues と ♫I'm Glad を入れたのだ。演奏は、1924年のいかにもニューヨークのバンドらしく、抑え気味の緻密なジャズスタイルである(ウルヴェリンズ以外の3人はレイ・ミラーの"ホット"がかったオーケストラから参加している)。吹き込みの体勢を占めたのは(1面のブルーム作の曲名♫ブルース信者 F'lock O' Blues とは裏腹に)ブルースを離れて、計算された音楽技法をジャズ仕立てで追求するという考えであったらしい。ビックスはウルヴェリンズの録音ほど熱が入っていないように思われる。
続
画像は若き日のビックス、トラムバウアーと握手するビックス、ビックスとトラムのセッションをまとめたCDジャケット、壮年期のミフモール、ルーブブルームの音源が聴けるYouTubeからブルームの肖像





Flock O'Blues

マサヤス 龍之介
☆『スイングジャズの花形ボーカリスト.19』
1940年7月27日、ビルボードが初めてヒットチャートをリリースした。その時の1位はトミー・ドーシー楽団の♫I'll Never Smile Again だった。
当時専属だったパイドパイパーズのふんわりしたコーラスは聴く者を夢心地にさせてくれるムードを醸し出す。若き日のジョー・スタッフォードがメンバーに居た。そして甘い男性ボーカルは前年までハリー・ジェームズ楽団員だったフランク・シナトラである。大志を抱いてハリーに見送られて落ち着いたトミードーシー楽団で人気チャートの1位を成し遂げたのだから、ハリーもさぞ喜んだろう。ハリージェームズの頃にはまだ荒削りだった唱法もトミードーシー楽団のところでバラード唱法を会得した痕跡が確認できる。格段の進歩をレコードは今に伝えてくれる。ビルボードチャートは当時はまだ10位までのリリースしか無かったがその後急成長し、その後シングルとアルバムに分けてチャートをリリースするようになり、現在の様なベスト100位になったのはロックが台頭して来た1956年になってからだった。ライバル誌も次々発刊されて、ジャズに特化したチャート誌メトロノーム誌も創刊し市場は賑やかになってゆく。やがて『メトロノーム』はその年の人気ミュージシャンをピックアップしてレコード会社と提携してメトロノーム・オールスターズの名の下にレコードまで作ったりもした。ハリージェームズは1940年代に限って言えば、ビルボードの人気ランク5位と云うスターミュージシャンとなっていた。チャート1位にランクされた曲が3曲、TOP10ランクした楽曲が13曲にのぼる。ハリージェームズ楽団が初めてチャート1位に躍り出たのが当時の専属歌手ディック・ヘイムズがメインヴォーカルで唄った♫I Get By だった。
1941年4月7日にRec.同年8月8日にリリースされた。私が所有しているブライアン・ラスト編集の『jazz record』と言う最も信頼を置くディスコグラフィーにはこの曲は載っていない。ブライアンはそのレコードがジャズ的感興があるかなしか?で恣意的に掲載を決めていたようで、このレコードはジャズではないと判断したと思われる。
前回紹介した♫You Made Me Love You は載っているのに。共にハリージェームズの甘いtp.ソロが入っている、いや、寧ろこの♫I'll Get By でのハリーのtp.はミュートを効かせてシャープに鋭くキレがありそんなに甘さはない。そもそもこの楽曲自体が甘いのだからそれに反するような鋭さでソロを紡いでいる。ブライアンがこの曲をそのディスコグラフィーから外したのはディックの唄が必要以上に甘かったからではなかろうか。その様に推察出来る。ディック・ヘイムズに関してはロイヘミングがその著作で書いているが、1940年代を通してバラードを歌わせたら、クロスビー、シナトラ、ペリーコモよりも人気と実力を兼ね備えたシンガーとして扱っている。ただアップテンポなスウィンギーなナンバーでは上手くいかなかったと云う弱点も同時に書いている。彼はスコットランドとアイルランドの血を引くイギリス人の父親を持つ家系で、ディックが生まれた時は父は南米ブエノスアイレスの外れで牛の放牧場を経営していたが、ディックの生まれた3年後にイナゴの被害に遭い壊滅状態となり、家族ごとニューヨークへ辿り着き、今度は一足飛びにフランス・パリへ移住し約10年間をパリで過ごす。1930年代に再びニューヨークに戻り腰を落ち着ける。ディック18歳の時に初めて雇われたジョニージョンソンバンドを辞めてハリウッドを目指したが、金になる仕事には中々有り付けず、最初の結婚も破綻してしまう。1939年、作曲術を習得した彼は唄うソングライターとして盛んに売り出す。そしてハリージェームズと運命的な出会いを遂げる。全ての編曲はダンサブルでなくちゃいけないと、ハリーは常々説きディックもハリーの要求に沿うようにバラードのフレージングを身に着けていった。「ハリーは僕にどの曲も心を込めて唄うことを教えてくれた」ディックは後年のインタビューでそう語った。やがてハリージェームズ楽団を契約通り2年間履行してベニーグッドマン楽団を経由して1943年にはトミードーシー楽団の専属歌手となった。
またもや、シナトラの後釜だった。だが時期が悪かった。その折も折、ミュージシャン組合によるレコーディングストライキが勃発してレコードのリリースが出来ない自体となったのである。
しかし、首尾よくMGM映画『デュバリーワズ・ア・レイディ』の人気ブロードウェイミュージカルの映画化に際しトミードーシー楽団も出演する運びとなりハリウッドへ行く。そしてその年に独立を果たしたがニューヨークのナイトクラブで唄っているところに二十世紀フォックスからお声が掛かる。丁度対戦末期でハリウッドの俳優たちは粗方兵隊に取られて男優の数が激減していた折だった。ヘイムズはアルゼンチン国籍であり、米国の徴兵令にはパスしていた為ハリウッドではこの人気歌手が手薄だった主役級の穴埋めに程よかった。その後約3年間ディックは唄える俳優として活躍した。だが3年も経ってみると、大した話題作もないことに二十世紀FOXの幹部連はディックにはスターの素質はないと諦めてしまう。その後もユニヴァーサルなどの映画会社へ移籍して凌いでいたが、移籍する映画会社は移籍するたびに弱小会社を余儀なくされて行き、結局はまたナイトクラブでの活動に戻って行くしかなかった。時々、テレビショウではレギュラー番組を持ったりして唄ったりしていたが、その頃荒れた私生活をマスコミに取り沙汰されて下降していた人気に、更に追い討ちを掛けたりしていた。2度目の結婚で彼は二児の父親となっていたが、その離婚により払うべき養育費を支払わず係争していた。又、その後も女優との結婚と離婚を繰り返して、人々の反感を買ったりしていた。私生活では酒浸りの日々で声も衰えて仕事も減る一方となる。1965年、彼はダブリンにいえを買って7番目の妻、イギリスのモデル ウェンディ・ジョーンズと結婚して更に2人の子供を儲け、1970年代には再起を賭けてアルバムを出したりして、未だ健在であることを世間に示したが、セールスは奮わなかった。1980年3月、肺がんと肝臓病によりロス・アンジェルスでその生涯を終えた。享年61歳であった。





I'll Get By

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