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シオ
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はるきゃ🐶🐾
久々にアリス九號.を( *´꒳`*)
#ヴィジュアル系 #アリス九號 #AliceNine #A9
TSUBASA.

みー太

えぬ

﹅ャりー🥚ョ🥚ョ


とこ🇫
#ビッケブランカ #RR號

ジン
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りゅうた
レストランには空腹を満たすことを、本屋には書物を提供することを、塾には学力を向上させることを、それぞれ求めているにすぎない。すなわち、私は各サービスの「本質的機能」が果たされていれば、それ以上の価値を必ずしも必要としない。
しかし現代社会においては、しばしば本質的機能そのものよりも、それに付随する「体験」や「雰囲気」や「物語性」が重視される傾向がある。人々は、提供される成果以上に、そこに至る過程や感情的充足を価値として評価する。この風潮に触れるたび、私は一つの疑問を抱かざるを得ない。すなわち、これは私の価値観が過度に即物的であるがゆえの違和感なのか、それとも社会の価値基準が本質から乖離しつつある兆候なのか、あるいは人間の欲望構造そのものが変容し、別の段階へと進化している証左なのか、という問いである。
そもそも、付加価値とは本質を補強するために存在するはずのものであり、本質そのものを代替するものではない。にもかかわらず、今日では本質的機能の不全が、情緒的価値によって覆い隠され、あたかも正当化されているかのように見える場面が少なくない。この倒錯した価値転換は、果たして進歩と呼びうるのだろうか。
私の違和感は、効率や合理性への固執というよりも、役割と目的の混同に対する警戒に由来している。機能が果たされないままに装飾だけが肥大化する社会において、我々は何をもって「良いサービス」と定義すべきなのか。本質を問い続ける態度そのものが時代遅れになりつつあるのだとすれば、その変化は進化なのか、それとも静かな劣化なのか。私は今もなお、その境界線を見極めようとしている。

あお🫧
回答数 52>>
しかしそれは単なる性格傾向ではなく、「構造を読む能力」という思考様式そのものに根ざしているのではないか。
「INTJでよかった?」という問いには、自己受容と社会的適応のはざまで揺れる静かな苦悩がある。
INTJでなければ見えなかった景色がある一方で、INTJだからこそ孤独を選ばざるを得なかった瞬間もある。
その両義性の中で、私は自分の思考回路を、愛し、誇り、そして時に手放したくなる。
もし私に翼があるのなら、それは誰かのために在るものだった。
飛ぶことができる私。
飛ぶことを期待される私。
翼を動かすのは、いつだって私自身だった。
この比喩が示すのは、INTJ的な役割意識の構造である。
混沌を分析し、秩序を生み出すことに価値を置く合理性は、ときに他者の期待と同一化し、自我の境界を曖昧にしていく。
誰かを運ぶために動かした翼は、やがて責任感の延長となり、快楽と疲弊を同時にもたらす。
INTJが「休むのが下手」と言われるのは、機能することが存在価値として内面化されているからではなかろうか。
休むことは、機能の停止であり、自己の否定として感じられてしまう。
そのため、何もしないことさえ罪悪感を伴う。
だが、翼を地に降ろすことは放棄ではない。
それは「機能としての私」から「存在としての私」へ戻る再定義の試みだ。
飛ばなくてもいい。誰も乗せなくてもいい。
ただそこに在ることを許すとき、「生きる合理性」から「在る合理性」へと視点は切り替わる。
INTJは空気が読めないと言われがちだが、実際は空気の構造を読んでいる。
感情ではなく、文脈と因果の配置を演算しているため、その配慮は冷たく見える。
私はその摩擦を避けるため、戦略的オープンマインドという態度を選んできた。
直線ではなく曲線を使うのは、弱さではなく戦略だ。
INTJであることは、孤立でも優越でもない。
合理性を通して世界とつながる、生き方の形式である。
翼は自由の象徴であり、不自由の象徴でもある。
INTJでよかったか。
その答えはきっと、
思考を通してしか生きられない私を、愛せるかどうかにかかっているのかもしれない。
#疲れた


おにがわら

ちゃかうさ
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