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山口県民の星
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入口と出口の扉の星
76人が搭乗中
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人生は選択の連続
何かを始めたり終わりにしたり、どれもこれも
新しい挑戦を始めるのにも終わりにするにも
色んな入口と出口を通ります
見たことない世界への扉
興味あるけど開けるのが怖い扉
仕事終わりに閉じる扉
毎日は入口と出口に満ちています
素敵な場所への入口
興味ある扉
疲れて閉じる扉
色んな扉を見せてください
黒虎カラオケファンの星
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黒虎に関する質問5問を全て正解した方で、
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黒虎の部屋ルームの招待状が、必ず来るグルチャです。
口笛の星
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ご案內Guide
異変を見逃ささなないいことと
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異変を見つけたら、すぐに引き返すこと
If you find anomalies, turn around immediately.
異変が見つからなかったら、引き返ささなさな
If you don't find anomalies, do not turn back.
八番出口から外に出ること
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口笛練習の星
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口内炎の星
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人気

ためいき

かいと



説

とみ⛳️
先週のわけ分からんから
少しだけ🤏脱出したかな?
虎口を抜けたか
いやいや油断は禁物です
ゴルフってそういうもの
#GRAVITYゴルフ部
#練習場
#GOLF


説
タラレバを言っても仕方がない。でもタラレバを言わずにはいられない。
日本は鶏口どころか虎口になれた。本来は牛後なんて役不足にもほどがある国だ。
こんな軽んじられ方をしていい国ではない。
悔しい。悔しい。

甲斐性無しの甲斐の人
海辺の岩山につくられた天然の要塞のような城
ただこの城の歴史はあまり良くわかっていないらしく、遺構も虎口っぽい地形や曲輪らしい地形がそこそこわかる程度だった
それほど規模が大きくないことと、見晴らしが良いことから海上を見張るためにつくられた城だったのではと考えられているようだ
現在はその見晴らしの良さから景勝地として整備されている
#一日一城






甲斐性無しの甲斐の人
のちに北条早雲と呼ばれる伊勢宗瑞の本拠として有名な城だが、元は堀越公方の家臣が築いた城のようだ。
早雲が堀越公方を滅ぼして城を手に入れた頃はかなり小規模な城郭だったようだが、この城を本拠として改修し本格的な戦国期の城郭になっていったようだ。
丘陵地の尾根上に曲輪が配され、曲輪の間は堀切によって分断されて土塁も築かれている。
虎口状の遺構もあったりと、なかなか手の込んだ城だが規模的にはそれほど大きくなく、コンパクトな印象を受けた。
#一日一城








甲斐性無しの甲斐の人
甲斐源氏秋山氏の祖、秋山光朝の城らしい。
秋山光朝は加賀美遠光の長男だったが、平家とも繋がりがあったことを口実に源頼朝から追討を受けて滅ぼされてしまったそうだ。
その光朝が自害した城とも伝わる。
遺構としてはそれほど多いわけではなかった。
虎口跡こそあり曲輪もわかったが、堀切などの防衛機構は備わっておらず、やはり戦国期の城郭と比べると未発達な印象だった。
ただ立地が天然の要害で眺望は良く、倒木に生える苔はもののけ姫の世界かと感じるような雰囲気だった。
この城跡を訪れた時はまだ今のように城めぐりを始める前だったので記憶に残っていないのかとも思ったが、本で読んでみてもやはり遺構は戦国期にしては古く少ないようだ。
#一日一城





甲斐性無しの甲斐の人
富田城繋がりということで、今日は月山富田城
川を挟んだ対岸には尼子家の絶頂期を築き上げた名将尼子経久の騎馬像が建ち、その先には城郭の一部が見えた
ひとつの山を丸ごと城にしたかのように、多くの曲輪が造られており、ひとつひとつ観て回ると途方もない規模で、途中で観た太鼓壇跡には山中鹿介像が建っていた
中腹には石垣を多く使った山中御殿平という曲輪があり、石垣造りの虎口も複数あり壮観だった
そこから更に七曲がりの坂を登ると三ノ丸、二ノ丸、本丸からなる主郭群があり、そこに使われている石垣や堀切も見応え抜群で、本丸からは遠く中海まで望むことができた
さすがは山陰の巨星、尼子家の本拠地に相応しい巨城だった
#一日一城







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甲斐性無しの甲斐の人
賤ヶ岳の戦いで最大の激戦地となった砦。
元は浅井朝倉軍が布陣した地ともいわれ、賤ヶ岳の戦いでは陣跡を再利用して砦を築いたのだろうか。
越前方面から近江に向けて進軍し、山中に次々と砦を築きはじめた柴田勢に対抗し、羽柴勢も多くの砦を築いていく。
その中でも秀吉の弟、羽柴秀長が築いた田上山砦と並んで重要な砦として築かれたのが賤ヶ岳砦で、築城者は守将でもある桑山重晴。
重晴は織田氏重臣の丹羽長秀の与力ともいわれるが、この頃は羽柴秀長の配下だったともいわれる。
眼前の大岩山砦の陥落で一旦は退却を始めるが琵琶湖を渡って丹羽長秀が駆けつけてきたため、その軍と合流して再度砦を確保し守り抜いたことが羽柴軍の勝利につながったそうだ。
現地を観てみると、付近の砦と比べても遺構の残り方も良く、賤ヶ岳の戦いに関する陣城軍を見渡すことができる絶好の立地で、最重要な砦なのだと感じた。
土塁跡も綺麗な上、虎口跡と思われる遺構も横矢がかかるように設計されていたりと技巧的なつくりになっていた。
うかつにも飯浦の切通しを観るのを忘れてしまったため、また再訪して観なければ。
#一日一城










甲斐性無しの甲斐の人
徳川家康が隠居の地として選んだ城。
元々は今川氏の本拠今川館があった駿府の地に、甲州征伐や本能寺の変を乗り越えた家康が築城したという。
その後、家康は小田原征伐後に関東に移封されたため一度は駿府を離れるが、関ヶ原の戦い後に江戸幕府を開いたのち、将軍職を秀忠に譲ると駿府を居城として再整備し大御所政治をした。
その時に築かれた天守台は大坂城や江戸城より面積が大きいため、かつては巨大な天守閣がそびえていたといわれていて、東海道を江戸へと向かう西国の大名たちは必ず駿府に立ち寄ったそうだ。
現在は櫓や枡形虎口の櫓門が復元され、その威容の一部を体感できる。
石垣の積み方も様々な種類が観られるうえ、天下普請の際に刻まれたであろう刻印入りの石も散見され、石を観るのも楽しくなる城。
今は天守台の発掘現場を見学できるようになっているが、今年の年末に閉鎖されて新たな野外展示施設が整備されるらしくそれもまた楽しみだ。
#一日一城










甲斐性無しの甲斐の人
甲斐国上野原周辺を支配していた国人の加藤氏が築いたとされている砦。
上野原加藤氏は室町期や戦国期に武田氏の家臣として活動していたようだが、元々は甲斐と武蔵の国境地帯にあたる上野原を鎌倉期あたりから支配していたようだ。
現地を訪れてみると、小さいながらも枡形状の虎口跡があったし、主郭の土塁跡もわかりやすかった。
この周辺の砦跡としては珍しく、堀切はひとつも無かったが、代わりに搦手側は高い切岸となっていた。
また、この砦は上野原の加藤氏系城郭の中でも、特に見晴らしの良い立地に位置していて、晴れた日には主郭から富士山もよく見えるらしいが、残念ながら私が訪れた時には雲に隠れて見えなかった。
ただ上野原の市街地や、その先にある相模湖周辺の街まで眺めることができ、国境地帯の砦としての雰囲気を感じることができた。
#一日一城







甲斐性無しの甲斐の人
甲斐国内でも特に山深く、まるで隠れ里のような小菅村にあり、城跡とも砦跡とも呼ばれる。
村の中心地のすぐ近くにある天神山という小さな山に築かれた。
築城期は武田信玄の曾祖父信昌の代で、小菅信景という人物が信昌の命で築城したという。
小菅信景は武田の一族とも藤原氏系ともいわれている人物で、その後は子孫が代々城主を務めたそうだ。
中でも著名なのは小菅忠元で、武田軍のエース山県昌景の従兄弟で軍功により足軽大将になったが、甲州征伐の際に織田信忠に処刑された。
小菅一族で他の将は徳川家康に仕えたり帰農したりしたらしく、その頃に城も放棄されたのだろう。
遺構はコンパクトながらとても状態良く保存されていた。
主郭の部分には小さな神社があり、その建立のときに多少破壊された部分があるようだが、大きな堀切が何本もあり帯曲輪や虎口など、城としての機能を感じられる部分は十分にあった。
小菅城を城とするか砦とするかはまちまちで、私が読んだ本でも小菅砦と表記されていたが、防衛機能に着目すれば城といっても良いレベルに思えたが、遺構の規模で考えればやや大きめの砦といった具合で、それ故に呼び名に揺れがあるのだろう。
#一日一城










甲斐性無しの甲斐の人
織田信長の次男信雄の孫信昌によって築かれた陣屋。
織田信雄は羽柴秀吉によって織田家を乗っ取られて以降、結局領土も取り上げられて没落し出家して常真と名乗るようになるが、なんやかんやで大坂の陣では豊臣方の総大将として担がれそうになる。
しかし既に大軍を率いて天下を争うような気概は無かったため、船で大坂を脱出した。
結果、豊臣秀頼の誘いに応じなかったとして家康から宇陀松山に3万石、上野に2万石を与えられ、そのうち上野の2万石を三男の信良に分知して立藩させた。
そして上野小幡に前田、池田など織田と縁のある諸大名から寄付を集めて理想の庭園を目指して楽山園を作庭したが、晩年だった常真自身は訪れることは無かったという。
元々は陣屋は別の場所に築かれていたが、信良の死後その息子信昌が藩主のときに楽山園に隣接させる形で新たに築いたのがこの小幡陣屋。
訪れてみるととても良い陣屋跡だった。
軍事色はかなり薄く、石積で入れ違い虎口などもつくられているが、石垣ではなかったりと元々見た目重視のつくりだったのだろう。
この年代に築かれたものでありながら野面積であることも、美しさを表現する上でとても良いと思うし、やはり庭園は立派だった。
観光客もあまりおらずゴタゴタしていなかったことも良かった。
なぜか餅をついている石の武士も印象的だった。
#一日一城










甲斐性無しの甲斐の人
武田勝頼の一世一代の大築城事業によって築かれた、武田家最後の砦にして武田流築城術の最高傑作。
高天神城が攻略され、劣勢の挽回が難しくなってきた武田勝頼は織田家との和睦と同盟を模索しつつも、徳川家とは徹底抗戦の構えを見せていた。
それまで武田家は甲斐国内に大規模城郭を築かず、信濃や駿河などに築城をしていたが、ついに甲斐に本格的な攻城戦に耐えうる城郭を築くことを決断。
七里岩の断崖を利用し、後ろ堅固の城として突貫工事で大きな平山城を築いた。
またすぐ近くには釜無川が流れており、水運による経済の構築に期待したともいわれる。
だが、築城から2ヶ月程経った時には織田の甲州征伐軍を相手に防戦することを諦め、勝頼自ら城に火を放って落ち延びた。
その後は天正壬午の乱で徳川家康によって陣城として一度使われ、乱が終わると放棄されたようだ。
この城跡の最大の見所はやはり大手門跡だろう。
高い土塁によって形成された両袖枡形虎口の外に、さらに丸馬出と三日月堀を設け、その丸馬出にある二つの出入り口にも小さく枡形状に土塁が築かれている。
搦手門も大手門ほどの規模ではないものの、綺麗に両袖枡形の虎口が築かれ、深い堀も掘られている。
またこの城にしか見られない遺構として出構がある。
他の城に同様の遺構がなく、新府城でも籠城戦は起きなかったため、用途は未だにわかっていないが、出丸のような反撃用の施設という説や、水堀の水位を調節する施設という説がある。
大手門跡からは富士山が、本丸の北側にある土塁上からは八ヶ岳が望めるため、景色もとても良い城跡だった。
#一日一城










甲斐性無しの甲斐の人
山内上杉家の11代当主上杉顕定が平井城を拡張した時、平井城の詰城として築城されたそう。
関東の支配者として君臨した北条氏康と関東管領職と上杉の名跡を譲り受け、関東へ出兵してきた上杉謙信との抗争の中で平井城とともに廃城となったようだ。
関東管領家の詰城という歴史背景の割にマイナーな城跡で、そこまで期待していたわけではなかった。
しかし、さすがに築城術に優れた関東管領上杉家の城で、堀切や土塁、技巧的な虎口に石積を用いた櫓門跡など、素晴らしい遺構が数多く残されていた。
また城跡の敷地の大部分が個人所有の私有地らしく、整備や公開をしてくれていることがありがたかった。
櫓門跡がある辺りからはゴルフ場の近くであり、所有者も違うのか一気に雰囲気が変わるが、ゴルフ場の造成で遺構を破壊されるようなこともなく残されており素晴らしいものだった。
櫓門跡や物見台跡など一部には石積もあるため、この城が使われていた年代で考えれば、関東地方でも最先端の技術が用いられていたのだろう。
#一日一城









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