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にこちゃん

にこちゃん

禅僧なのに
雲水なのに
過去を思い返して悔やんでいます。
あるの今この瞬間だけなのに
その大切な今を疎かにしています。

大丈夫、そんなときもあるってことさ
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general

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仏教で"運"というのは
私たちが過去生から今に
いたるまでのすべての行為や
発言 思いが記録されている
業という"宇宙の貯金通帳"によって
決められているとされます

禅僧であった夢窓国師は運の
現れ方には三種あると述べています

まず 今なしたことの結果が
すぐに現れるもの また 過去になした
行為などの結果が今現れるもの
そして 今なした結果が今生でなく
来世に現れるということです

今やったよいこと悪いことの結果が
すぐに現れないからといって
運を決める因果の法則が
あてにならないというのではない

しかし
運が差し引き勘定によってだけ
決められているものではありません

私たちの行動 言動 思いに
感謝とか喜びの心を込めると
それは大きな利息のように
私たちに幸運を引き寄せるのです

つまり一つ善いことをなしたら
それに大きな利息がついて百に
なって返ってくるようなものです

この思いの中でも
もっとも幸運を引き寄せるのは
"自分は運がよい"という
言葉をくりかえすことです

運が悪いと思っている人には
幸運は来ないのです

人間の運は 自分が思う以上には
ならないから 自分が幸運だと
思えば思うほど幸運が
舞い込んで来るのです

ナポレオンが
わが辞書に不可能という言葉はない
といったのは 彼が幸運を確信して
いたからであり それがまた彼の
初期の電撃的な勝利をもたらす
ことになったのだと思います

もう一つ大事なことは
自分は幸運であると信じている人の
態度や言葉には周囲の人を
引き寄せる力があるということです

オーラがあるのです

自分は幸運であると信じている人と
話をしていると何となく楽しくなり
その人といつも一緒にいたいと
思うようになるのです

この気持ちが仲間を増やし
協力者をひきつけるのです

仕事は他人がさせてくれると
思いましょう
商売でも他人が商品を買って
くれるから成立するのです

また地位も他人が決めて
自分に与えてくれるのです
選ぶ権利は他人にあるのです
自分が決めているのではない

唯一自分ができることは
自分は幸運だと確信をもつこと

これを可能にするのが
自分は幸運だといつも自分にいって
聞かせることなのです

#高田明和
#脳と心に効く言葉
GRAVITY4
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ロゼ

ロゼ

【読後感】庭園デザイナーでもある禅僧、枡野俊明氏。
かねてから座禅に興味のあり、読んでみた。

森羅万象 読 シンラバンショウ
意 宇宙に存在する一切のもの

生きていると色々なことがある。
嫌なことも悲しいことも理解できないことも。
嬉しいことも楽しいことも知らないことを知ることも。
全ては森羅万象。

私はほとほと欲にまみれているので耳が痛いかと思いきや
実際はそんなことはなく、
好きこそ物の上手なれ、我慢は利他にあらずと
優しく教えてくれながらも
本当に必要なことは物質では無いと教えてくれる。

忙しく過ぎていく毎日はあっという間でもう8月。
この8ヵ月の間で私は何ができただろう。

憧れの経営者を見て憧れだけで満足してはいないか。
疲れたからと甘やかしてはいないか。
まだ大丈夫だと健康を後回しにしていないか。

禅。
神社仏閣が好きなのにさして詳しく知らない世界。
実はとても身近な教え。

賞立てが短く区切られているので隙間時間の読書に最適でした。

#捨てること離れること 
#枡野俊明 
#禅語
#読後感 
#読了 
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たっくん

たっくん

因みに迦葉を後継者とすると釈尊が暗示したとして、禅宗では大梵天王問仏決疑経の拈華微笑の説話を持ち出すが、この経典は中国の禅僧らが創作した経典であることが確定しているため、参考にはならない。
釈尊入滅後、教団は暫くは高弟たちによる合議制で進んだが、程なくして迦葉の影響力が強まり、後継者のように語られるようになった。
今思えば、これが部派仏教の時代の導入口になってしまったのではないかと、末世の仏教徒としては思うところがある。
しかし、釈尊は舎利弗より他の後継者は居ないと判断し、舎利弗亡き今、一人の偏った考えによって、教団全体が歪む事を恐れてか、後事は全員で協議して進めていくよう願ったのかもしれない。
いずれにせよ、古今東西組織というのは国家も企業も後継者選出は本当に慎重に行われなければならない、ということが、教団史を俯瞰していて思う正直なところである。
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🌴たかし⛺

🌴たかし⛺

とりとめのない話し(その42)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江商人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その2)

「聖徳太子」が近江国に48箇所の寺院を建立したという伝承は広く知られている。海を渡ってやって来た制度や技術、仏教を広めた「聖徳太子」。近畿にはゆかりの地が点在している。滋賀県には聖徳太子の開基と伝わる寺院が27箇所もあり、全国一位。中でも東近江地域には太子伝説が色濃く残っている。

寺院では「本尊を聖徳太子が彫った」「太子が寺を開いた」など太子の名がよく聞かれる。この地に「四天王寺」の瓦造りや「瓦屋禅寺」の建立で人が多く集まったことで、聖徳太子は「八日市場」を開くことを勧めた。御代参街道と八風街道が交わる交通の要衝で、周辺の農村地域を商圏とする市場町として栄えた。戦前には八日市飛行場が所在し、八日市駅周辺は大津・彦根に次ぐ県下有数の歓楽街として栄えた。「近江商人の発祥の地」とされている。

●瓦屋禅寺
滋賀県東近江市建部瓦屋寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は石崎山。本尊は千手観音。箕作山の中腹に位置する。「湖国百選 社/寺編」に指定された観光名所の1つ。瓦屋禅寺とも呼ばれる。
寺伝によると、聖徳太子が摂津国に四天王寺を建立しようとしたがその際に瓦を作製するために、蘇我馬子と小野妹子に命じて良質な土を求めさせた。すると、当地の山の土が粘土質で瓦を作製するのに適していた。そこで太子は「四神相応の霊土なり」といい、この土で渡来人の力を借りて瓦を10万6000枚以上作らせた。太子は山頂へ上ると木を斧で一刀し、十一面の千手観音像を彫って祀り「瓦寺」を建立したのが当寺の始まりとされる。

●百済寺
滋賀県東近江市百済寺町にある天台宗の寺院。山号は釈迦山。本尊は十一面観音。開基は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる。境内は国の史跡に指定されている。また、紅葉の名所としても知られている。
琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。寺伝によれば、推古天皇14年(606年)、聖徳太子の建立。聖徳太子は当時来朝していた高麗(高句麗)の僧・恵慈とともにこの地に至った時、山中に不思議な光を見た。その光の元を訪ねて行くと、それは霊木の杉であった。太子はその杉を、根が付いた立ち木のまま刻んで十一面観音像(植木観音)を作り、像を囲むように堂を建てた。これが百済寺の始まりであるといい、百済の龍雲寺にならって寺を建てたので百済寺と名した。

●石馬寺
滋賀県東近江市五個荘石馬寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は御都繖山。本尊は十一面千手観世音菩薩。
伝承によれば、今からおよそ1400年前の推古天皇2年(594年)に鎮護国家、仏法興隆を祈るための道場となる霊地を探していた聖徳太子が当地を訪れた。すると、現在の繖山(きぬがさやま)の麓辺りで太子が乗っていた馬が歩みを止めて進まなくなった。そのため、太子はその山麓の松の木に馬を繋いで山上に登った。太子は「積年の望みをこの地に得たり」と山の霊異に深く感動して山を下ってくると、馬は石と化して池に沈んでいた。これを瑞相と捉えた太子は、直ちに山を御都繖山と名付け、この地に寺院を建立して石馬寺と名した。現在も当寺は聖徳太子筆と伝承する「石馬寺」の木額や太子馬上像等を所蔵している。山門跡の付近には、石と化した馬が背中を見せている蓮池がある。

●東光寺
滋賀県東近江市平尾町にある浄土宗の中本山格の寺院で、白鹿背山巨徳院東光寺という。寺伝によると、聖徳太子が薬師如来を安置するために本堂を建立し、恵心僧都源信が入寺して以降、天台宗となる。永禄年間の兵火で荒廃していた寺を、深誉円知上人によって再興され、浄土宗となる。三度の火災に遭い、明治26(1893)年に、営誉経海上人によって再建され、現在に至っている。

●石塔寺
滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号は阿育王山(あしょかおうざん)、本尊は聖観音(秘仏)。「石塔寺」の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、数万基の石塔や石仏が並ぶ。毎年8月末には、「石塔フェスティバル(石塔寺万燈祭)」が開かれ、石塔と石仏に献灯が行われる。近江西国三十三箇所第22番札所。
石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称した。

●阿賀神社
滋賀県東近江市小脇町にある神社。太郎坊宮や太郎坊阿賀神社の通称で知られている。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社。
そもそもは、夫婦岩を始めとする巨岩を磐座として欽明天皇の時代には祭祀が行われていたようである。推古天皇の時代、西暦600年頃に箕作山に、聖徳太子が摂津国に建立する四天王寺で使用する瓦を焼くために瓦屋寺を創建し、ほぼ同時期に箕作山の一峯である赤神山に正哉吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る社を建立、赤神山の名前から阿賀神社と称した。また、当地の地名は小脇というが、それは天照大御神がいつも小脇に抱えて「此の脇の子」といってかわいがっていた孫の正哉吾勝勝速日天忍穂耳命が降り立ったところであるからだという。

延暦18年(799年)、阿賀神社の神徳に感じ入った最澄が薬師如来を本尊とする成願寺を阿賀神社の神宮寺として麓に建立した。その際、修験道の大成者である役行者の兄弟子であり、赤神山に住んでいた天狗の太郎坊が(弟の次郎坊は京都の愛宕山に住む)山上に現れて、この地に一宇を建立するように最澄に告げ、山の守護神としてその建立を手助けしたという。

太郎坊宮の始まりは、約1400年前。正式な年代は「古すぎてわからない」のだそう。太郎坊宮に残る言い伝えでは、赤神山で最初に祈りをささげたのは、聖徳太子。大阪・四天王寺の建設に必要な瓦を求めて、この地域に訪れた際に、“近くの峰から、尊い気配を感じる。この山に宿る神が地域の人々を助けてくれている”として山の頂上で神様を祀ったことが、太郎坊宮の始まりとされています。

●観音正寺
滋賀県近江八幡市安土町石寺にある天台宗系単立の寺院。山号は繖山。本尊は千手観音。西国三十三所第32番札所。琵琶湖の東岸、標高433mの繖山の山頂南側の標高370m付近、観音寺城の跡に位置する。当寺の伝承によれば、推古天皇13年(605年)に聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まる。

●長光寺
滋賀県近江八幡市長光寺町にある高野山真言宗の寺院。山号は補陀洛山。本尊は千手子安観世音菩薩。別称はハナノキ寺。
寺伝によると、推古天皇の時代に聖徳太子が高階の妃とともに「老蘇の森」(国指定史跡。現・近江八幡市安土町東老蘇。奥石神社がある地)に仮宮していた時、高階の妃が産気づいた。太子は妃に仏法を信じ御仏の御加護を一心に祈りなさいというと、妃はひたすら諸仏の慈悲を仰がれた。そこに西南の方より童子が現れて「汝が願いは、正しく観世音が救い給う」といって飛び去って行くと、まもなく妃は無事に出産された。不思議に思った太子は使いの者に童子の行方を探させたところ、当地に辿り着いた。そこには八尺の香木(栴檀の一種)と八寸の霊石が置かれており、太子が法華経の読経を行うと光明の中から千手観音の尊像が現れた。

太子は後にこの香木で千手観音像を刻むと、像内に法華経・維摩経・勝鬘経の三部の経典を納め、この像を本尊として推古天皇19年(611年)に武川綱に命じて当寺を創建した。寺名は武川綱造作から武作寺と名付けらたが、後に武佐寺と呼ばれるようになった。さらに誕生院や長光寺とも称されるようになった。
創建時は七堂伽藍で、また聖徳太子建立四十九院の一つである。隣接して十二社権現も祀られた。

●願成就寺
近江八幡市小船木町にある天台宗の寺院。推古天皇の勅命により48ヵ寺を建立した聖徳太子が最後にこの寺を建てたとされ、願いが成就したことにより寺名になったとされる。聖徳太子が一刀三礼で彫ったといわれている秘仏の十一面観音像をはじめ重要文化財も数多い。

●長命寺
滋賀県近江八幡市長命寺町にある天台宗系単立の寺院。山号は姨綺耶山(いきやさん)。本尊は千手観音、十一面観音、聖観音の三尊を千手十一面聖観世音菩薩としたもの。聖徳太子の開基と伝わる。西国三十三所第31番札所。2015年(平成27年)4月24日に「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定された。

琵琶湖畔にそびえる長命寺山(標高333m)の南西の山腹標高約250m辺りに位置している。かつての巡礼者は西国三十三所第30番札所の竹生島宝厳寺から麓の港に船で上陸し、当寺に参詣した。

当寺の伝承によれば、12代景行天皇の時代に武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、推古天皇27年(619年)に聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速十一面観音を彫りこの地に安置し、当寺が創建された。太子は宿禰の長寿にあやかって当寺を長命寺と名付けた、と伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きするといい伝えられている。

●正明寺
滋賀県蒲生郡日野町松尾の丘陵地に鎮座し、創建は古く千年ほどの歴史を持つ黄檗宗の寺院。山号は法輪山。寺伝によると聖徳太子による創建とのこと。もとは延暦寺の傘下にあって隆盛したようですが、戦国時代の兵火ですべての堂宇を焼失しました。江戸初期には当地住人の頓宮宗右衛門の発願で再建され、禅僧・一絲文守と後水尾天皇の支援を受け、京都御所内にあった建物を移築して本堂としました。その後は近江国内における黄檗宗の中心寺院として隆盛し、現在の境内は江戸初期に整備されたもの。前述のように本堂は京都御所から移築されたもので、国重文に指定されており、ほかにも本尊の千手観音と脇侍が国重文となっているなど、多くの文化財や寺宝を所有している。

●観音禅寺
蒲生郡竜王町小口にある臨済宗妙心寺派の寺院。聖徳太子 が28歳のときに一刀三礼して彫ったと伝わる 十一面観音大菩薩 。60年に一度の大開張、30年に一度半開帳される 秘仏 。そのむかし、琵琶湖の南の地帯で多くの山岳寺院を開き、金蕭菩薩と称された伝説の人物によって開かれ、東大寺開山の良弁僧正によって伽藍が建立された、法満寺という奈良興福寺下に属す大伽藍の守り仏として祀られていました。その後、戦国時代に兵火によって全山が焼失しました。 しかし、この観音菩薩だけは、焼け野原となった曠野に争いの世を憂う慈悲深い姿で厳然として佇んでおられました。戦の劫火にも焼かれることがなかったことから、この観音さまには 「火伏せ」・「闘諍消除(争い除け)」のご利益がございます。その後、観音さまは地元の人々によって守られつづけ、江戸時代に列岑禅師によって堂宇が再建され、観音寺と名づけられました。そして、西鮮禅東禅師が住職となったときから、観音寺は禅宗である臨済宗に属すこととなりました。現在、観音禅寺の本堂には、この本尊十一面観音大菩薩(厄除竜王観音)のほか、「身代わり観音」(十一面観音坐像)、「十二支守護仏」(大日如来・阿弥陀如来・文珠菩薩・普賢菩薩・千手観音菩薩・虚空蔵菩薩・勢至菩薩・不動明王)、恋愛と勝負事にご利益がある「愛染明王」、さらに「大日如来」、「不動明王」、「弘法大師」、「地蔵菩薩」などが祀られている。
GRAVITY
GRAVITY12
ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘

ℕ𝕒𝕥𝕤𝕦☘

日光街道巡り/ 大川町氷川神社

1294年(永仁2年)に当地の鎮護のために創建され、大正2年に荒川放水路造成のため現在地に遷座しました。

この神社は千住七福神の一つで、布袋尊(ほていそん)が祀られています。

布袋尊は七福神の中で唯一実在した中国(唐の時代)の禅僧で、福をもたらす神として知られています。

境内には石の布袋像があり、多くの参拝者がご利益を求めて訪れているそうです。

#日光街道巡り #大川町氷川神社
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