共感で繋がるSNS

関連惑星

石川県の星

1046人が搭乗中
参加
石川県や県内各地に縁のある皆さまにとって、居心地のよい惑星となったらいいなと思っています。縁の有無はご自身で「縁がある」と思えるかどうかでご判断ください🙂 特別な情報交換や共有だけでなく、この星の皆さまと共有したいなと思うものであれば日常の投稿も歓迎です。 お願いごと。この星への「悪意」のお持ち込みはご遠慮ください。どうぞよろしくお願いします。

宝石の星

653人が搭乗中
参加

天然石の星

199人が搭乗中
参加
天然石が好きな方はどなたでも歓迎していますが、非公開アカウントは承認していませんのでご了承ください! 投稿や他のユーザーとの交流もぜひたくさんしてくださいね✨ もちろん皆さんの投稿を見る専門でも大丈夫です! 【禁止事項】 ・勧誘、宣伝、営利目的と思われる行為 ・異性の出会い目的と思われる行為 ・その他規約に違反する行為 ↑投稿やコメントなどで上記に該当するものを見かけた場合削除させていただきますのでお気をつけください! ※明確には【3回】投稿削除の措置を取らせていただいた方は【惑星から追放】いたします。 (あまりに酷い場合は一発で追放になる場合もあります) 治安を守るためにご協力お願いいたします🙏 ルールやマナーを守って楽しみましょう( *ˊᵕˋ)ノ ·.⟡┈┈┈┈┈┈┈┈ ✧┈┈┈┈┈┈┈┈⟡.·

フリーセリフの採石場

96人が搭乗中
参加
フリーセリフを投下する惑星となっております。 バン対象セリフやマナーの無い方は降りて頂きます。またセリフ以外の投稿はご遠慮下さい。 交流等をしたい方は別の星へ是非移住なされて下さい。 セリフ使用時注意事項 基本的には無許可でご自由にお使いください ※改変等をしたい場合書き手様へDMにてご確認下さい※ セリフ生産時 「#フリーセリフ」こちらのタグを必ずご使用下さい その他ルールはございませんが、より利用しやすくする為複数ハッシュタグを活用して頂けると有り難いです

鉱石の星

63人が搭乗中
参加
天然石の形や色がすきで 好きな海の近くに水晶のでる山があったことから鉱石採取拾いに興味を持ちました☺️ 🌟鉱石にまつわる施設やイベント情報 🌟好きな石、もち石紹介 なんでもどうぞ 採集してはいけないところや 採集でのマナーや予備知識 (注意事項やあると便利なもの、コレクションの仕方などなど) 交換できる場所になればいいなと思います ⚠️ここだめだよー!とか 🙆‍♀️ここはいいよーとか ここは採集するツアーやってるよーとか これ拾ったよーとか  あれば情報お願いします🙇‍♀️✨

宝石の国の星

47人が搭乗中
参加
『宝石の国』 原作:市川春子 講談社・月刊アフタヌーン アニメ:orange 好きな方はぜひ!

地学と宝石箱の星

46人が搭乗中
参加
ようこそ🪨ROCK &STAR🌟地学と宝石箱の星へ

石に心奪われるの星

39人が搭乗中
参加
なんでもないただの小石から 海岸等に落ちてる綺麗な石 天然石、宝石等に至るまで 全ての石が対象⟡.· 石のオブジェ、建造物等も可⟡.· 石に心奪われる、石好きの皆様の 心奪われた素敵な石たちを紹介したり 素敵な石に出会えた喜びを共有共感できる 素敵な石たちに癒される場になればいいなと思います⟡.· ❁︎惑星名について 『石に心奪われるの星』は『階段に心奪われるの星』の惑星主様から『心奪われるの星』の使用許可を頂いております。

大石昌良ふぁん

22人が搭乗中
参加
大石昌良さんが好きな人が集まる惑星 名義は全名義どれが好きな方でも入って頂けます 荒らし・暴言❌ 投稿などはどんどんしちゃってください! 良ければ好きな曲など教えていただけると嬉しい です! 楽しく交流しましょう!

久石譲の星

14人が搭乗中
参加
じゃんじゃか投稿してください‼️‼️

人気

ぺんどらごん

ぺんどらごん

定礎石の中に入ってる箱って
当時のものが入ってるって知らんやった
GRAVITY
GRAVITY10
CO

CO

昨夜から今朝にかけて半日ほど圏外な環境に居たんだけどたまにはデジタルデトックスも大事だなと思った次第であります。久々のお友達とも会えて満足でありました[ほっとする]
楽しいこととは裏腹に、柱の基礎石で車を盛大に擦ってしまったことを忘れてはならない…[疑っている]
#ひとりごとのようなもの #日常 #おつかれGRAVITY #米津玄師
GRAVITY

毎日 - Every Day

米津玄師

GRAVITY
GRAVITY11
甲斐性無しの甲斐の人

甲斐性無しの甲斐の人

敦賀城

グラ友さんが敦賀まで迷い込んだそうなので、便乗して今日は敦賀城。
石田三成の盟友、大谷吉継の居城として知られるが元は蜂屋頼隆の築城らしい。

現在は敦賀の街の開発に伴って遺構は明瞭ではないが、眞願寺という寺院には敦賀城の礎石が一つ残っている。
私が観たのはこの程度だが、来迎寺という寺院には移築門があるらしく、機会があれば観ておきたい。

#一日一城
城の星城の星
GRAVITY3
GRAVITY24
甲斐性無しの甲斐の人

甲斐性無しの甲斐の人

有岡城

伊丹駅の目の前にある荒木村重の城。
元は伊丹氏が築いた城で伊丹城と呼ばれていたが、荒木村重が攻め落として大改修し有岡城に名を改めたそう。
城下町を堀と土塁で囲い、要所には砦を築いて総構の城としたという。
荒木村重が織田家に謀反を起こすと、織田の大軍によって攻撃されるも、一年に渡って耐えた堅城だった。

説得に来た黒田官兵衛が牢獄に幽閉されたが、官兵衛は牢の中から藤の花を見て生きる勇気を得たという逸話もある。
現在城跡にある藤はこちらも官兵衛に縁のある姫路城から子孫樹をもらってきたらしい。

現在の遺構はあまり多くないが、一部に土塁や野面積みの石垣、井戸、礎石の跡などが保存されている。

#一日一城
城の星城の星
GRAVITY
GRAVITY17
もっとみる

関連検索ワード

新着

🌴たかし⛺

🌴たかし⛺

とりとめのない話し(その28)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その9)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(4)として、江戸時代の大坂城の屋敷跡にある案内板の内容を中心に列記しました。

1枚目は、大坂城に移築した紀州御殿
2枚目は、徳川大坂城の江戸時代の地図

大坂城の歴代の城代を務めた大名は68人いたが、城代屋敷に住み、幕末の最後まで交代して務めた。城主であった歴代の徳川将軍は、徳川家光、家茂、最後の将軍慶喜の3名しか御殿には訪れていない。

〇2代将軍 徳川秀忠
1619年2代将軍徳川秀忠は大坂を幕府の直轄地とし、翌年から西国・北国の諸大名を動員して大坂城を根本から築きなおして、1628年には徳川大坂城を完成させた。

〇3代将軍 徳川家光
大坂城に生涯に三度訪れ、父秀忠の没後の三度目(1634年)は、家光の権威を朝廷や西国大名、畿内の直轄都市民に見せつけるために大坂城へ訪れている。京都で朝廷へ多大な献上を行うとともに、市民に五千貫もの銀を配った。そして再築工事が完了した大坂城に入り、大坂・堺・奈良の三都市に対し、地子(土地に課される税)の永久免除を宣言した。その恩恵に感謝した市民により釣鐘が作られ、その鐘は「仁政の鐘」と呼ばれた。現在その釣鐘は大阪市中央区釣鐘町の釣鐘屋敷跡に設置され、日に3回自動で鐘が鳴らされている。釣鐘町という町名もこの鐘によるもので、家光が大坂城に入城した痕跡が今もなお残っている。

〇4代将軍 徳川家綱
1665年家綱の時代に天守は落雷(39年間)で焼失している。

〇14代将軍 徳川家茂
徳川家光が大坂城へ最後に入城した230年後、1863年(幕末の動乱期)に大坂城へ入城した。家茂は徳川将軍の中で最も長く大坂城に滞在し、唯一人大坂城で生涯を閉じた将軍となった。
徳川幕府は国内外に問題を抱え、落ちていた幕府の権威の巻き返しを図るため、1865年から大坂城を本拠地とした。1866年、長州戦争の敗報に心を痛めつつ、21歳でその生涯を閉じた。現在の天守閣改札口のすぐ南側にあった本丸御殿内の銅御殿で最期を迎えている。

〇15代将軍 徳川慶喜
 最後に大坂城へ入城したのは将軍である。将軍在職中、京都の二条城、そして大坂城を活動の本拠とし、1867年将軍就任を披露するため外国公使向けに大坂城で会見を行った。幕府の政権の末期、なおも国内の安定や国力の増強、さらに国際社会への積極的な参加をめざし、その華やかな舞台となった大坂城は最後の輝きを見せた。
1867年10月14日に慶喜は大政奉還を行ったが、12月9日には王政復古のクーデターが起き、新政権が樹立されます。京都を離れ、1868年に正月を大坂城で迎えた。新政権への参加を考えていたが、旧幕府方の大半は討幕派の謀略を憎み、力ずくでの京都奪還をめざした。正月3日に鳥羽・伏見の戦いが起き、旧幕府軍は戊辰戦争で大敗を喫した。6日、最後の牙城だった大坂城を捨て、江戸へ向かったため、城内は大混乱に陥り、数日後に炎に包まれて落城し、徳川大坂城の歴史に幕が降りた。

〇大坂城の御殿跡地 その後
大阪城本丸は明治維新の大火により御殿や櫓など主要な建物が焼失した。明治18年(1885)から昭和22年(1947)まで、和歌山城二の丸御殿から移築され、大阪城を拠点としていた陸軍は庁舎として利用し、紀州御殿と呼ばれた。明治20年(1887)と明治31年(1898)明治天皇の大阪行幸の際、紀州御殿が行在所となった。その時の御座所は第二次大戦終結まで保存されていた。現在、本丸跡には「明治天皇駐蹕之所」の碑がある。昭和6年、本丸内に第四師団司令部庁舎が新築されると紀州御殿は大阪市の管理となった。1932年(昭和7年)、昭和天皇の行在所となり、1933年に「天臨閣」と改称された。1945年終戦後、大阪城が連合国軍の占領下にあった1947年9月12日、原因不明の失火によって全焼した。現在、御殿跡地は日本庭園と広場となっている。

●市多聞跡(大手口枡形内)
江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほか、南側に東西1.3間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この橋の中で、一年交替で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついた。明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡と重なる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。

●大坂城代屋敷跡(大阪城 西の丸庭園南側)
現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城防衛責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。 東向きの玄関は唐破風造りで、公務を行う広間や書院だけでなく。 城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸に次ぐ規模の御殿であった。明治維新の火災で焼失。ここは城代屋敷の表門付近にあたる。

●坤櫓跡(大阪城 西の丸西側)
ここには二の丸の隅櫓の一つが建っていて、西の丸の南西 (坤) にあたることから坤櫓とよばれた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の初年にあたる1620年と推定され、東西 8間・南北7間の二層構造、窓は西面・南面を中心に25あった。 規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じである。明治維新の大火にも耐えて残ったが、第二次大戦の空襲で焼失した。

●西大番衆小屋跡(大阪城二ノ丸内 修道館付近)
大坂城が徳川将軍の城だった江戸時代、ここには大坂城本丸の警備を主な任務とする将軍直属の旗本部隊「大番」の小屋(宿営) が置かれていた。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交替で在番し、城内二の丸南に置かれた東西の大番小屋で起居した。西大番衆小屋の範囲は現在の修道館の敷地とほぼ更なる。1868年に勃発した戊辰戦争の際には、新選組を含む旧幕府軍の兵の滞在場所として東西大播带小屋が使われたが、旧幕府軍撤退時に起きた城中の大火により焼失した。

●石山本願寺推定地の碑(二ノ丸内 修道館 南仕切門跡・太鼓櫓跡付近)
1496年本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立。「大坂」の地名が史料に現れる初例になる。「天文日記」によると大坂坊舎は生玉八坊の一つ法安寺の東側に建立された。1532年六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き討ちされたため、石山本願寺に発展し、山科と同様に広大な寺内町が造営された。十一世顕如の時代に、織田信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去したあと、鷲森、貝塚、天満を経て京都の堀川に本拠を移転している。石山合戦図などによりある程度、位置関係は特定されている。

●東大番衆小屋跡(豊國神社付近)
大坂城が徳川幕府の城だった江戸時代、この付近から現在の豊国神社の社地にかけての一帯に「大番」と呼ばれる将軍直属の旗本部隊の小屋(宿営) があった。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交替で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋で起居し、大坂城本丸の警備などをつとめた。 大番の職は幕末の1867年に廃止され、大番衆小屋は翌年に起きた明治維新の大火で焼失した。

●玉造口定番屋敷跡(大阪城二ノ丸 玉造口)
江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち玉造口定番は二の丸玉造口の内側に屋敷をもち、玉造口守衛のほか、京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。建物は明治維新の大火で焼失。跡地には軍事病院が建てられ、1877年に起きた西南戦争では、戦地から戻った多くの傷病兵が収容された。

●算用曲輪(杉山)
玉造口の南側一帯は、豊臣時代から「算用曲輪」 「算用場」などとよばれていた。名称の由来は、秀吉による大坂城築城時に賃金などの計算(算用)が行なわれた場所だったからとも、また大坂城に納められた年貢や金銀などの計算が行われていたからともいわれている。江戸時代、ここは大きな杉の大木がそびえる小山となったため「杉山」とも呼ばれるようになり、大坂城を仰ぎ見る行楽地として多くの庶民が集い、親しまれた。

●本丸御殿跡(大坂城 本丸内 南側)
城の中心部を本丸といい、大坂城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっている。1868年明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも1947年に焼失した。ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。

●市正曲輪(大阪城 梅林の地)
現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東市正且元の屋敷がここにあったと伝えることから「市正曲輪」とよばれる。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番、中小屋加番、雁木坂加番の小屋(公舎) が北から順に置かれていた。

●雁木坂(市正曲輪 南側付近の坂路)
大坂城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。江戸時代ここは長い石段 (雁木) だったことから雁木坂とよばれ、坂を上りきった所には上部に部屋を持つ雁木坂門があり、脇には通行を監視するための番所が置かれた。明治維新以後の陸軍管轄時代にはダラダラ坂とも呼ばれた。現在、盛土によって坂の勾配はゆるやかになっている。
GRAVITY1
GRAVITY17
🌴たかし⛺

🌴たかし⛺

歴史のとりとめない話し(その16)

大阪城が建つ上町台地にある「難波の碕」は、歴史的に重要な変遷を経ている凄い所で、非常に興味深いところだ。難波の宮跡から大阪城の遺跡や石山本願寺の遺跡など多数発掘されている。

「難波の碕」には、神武東征以前より創建され、日本列島の神が祀られている生國魂神社があった。現在地に移転。

神武天皇が東征時に「難波の碕」に上陸し、河内湖を渡り、大和の橿原に奠都している。日本統治の足掛かりとなったゆかりの地とも言える。

1枚目は、古墳時代の難波の碕の地図
2枚目は、神武天皇が降り立った難波の碕の碑
(所在地:大阪天満宮敷地内)

神功皇后の三韓征伐をきっかけに仁徳天皇は、百済王氏族を難波(百済郡)に迎え、仁徳天皇は難波堀江や茨田の堤などの治水工事を行い、皇居を難波高津の宮に移している。

3枚目は、高津宮神社の隣りの大阪府立高津高校敷地内の高津宮地碑

645年大化の改新以後、難波の宮に遷都し、副都として、116年続いた。その間に白村江の戦いに敗戦し、百済が滅亡している。

難波の宮は、その百済系渡来人の技術により初めて中国様式の礎石、瓦屋根で作られた。

4枚目は、難波の宮跡地の碑
5枚目は、難波の宮の模型

1533年頃、上町台地に石山本願寺に本山を移した。

6枚目は、大阪城内の石山本願寺推定地碑
7枚目は、石山本願寺の復元模型

1570年、織田信長との石山合戦により石山本願寺が敗北し、本願寺の変後に豊臣秀吉が大阪城を建て、天下を取っている。

8枚目は、石山合戦の地図

1614年、徳川家康は、大坂の陣により豊臣秀頼を倒し、天下を取っている。

9枚目は、大坂の陣の地図

1868年、大政奉還後、鳥羽伏見の戦いの敗戦を知り、大阪城から江戸城へ脱出し、江戸幕府の幕が閉じた。

以上が大阪城がある上町台地「難波の碕」の変遷です。

ちなみに「難波の碕」の碑がある大坂天満宮の場所は仁徳天皇の難波堀江の治水工事で、上町台地と分断されているが、以前は陸続きであった可能性が高い。
GRAVITY
GRAVITY44
もっとみる

おすすめのクリエーター