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とりとめのない話し(その29)

大阪の陣の本陣跡 茶臼山を出発して、難波の碕までの上町台地観光ルート続き(その10)

前投稿で難波の碕までのルートガイドは終了しましたが、番外編(5)として、大坂城天守閣を出て、山里曲輪を通り、極楽橋から大坂城ホールへ抜けるルートを中心に跡地や碑をまとめました。大坂城はすべて徳川の遺構ではあるが、最も豊臣秀吉を感じさせる観光ルートである。

1枚目は、山里曲輪の空撮写真
2枚目は、江戸時代の天守閣と山里曲輪付近の地図

●号砲(天守台内)
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。1863年、幕府の命令により、美作津山藩の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。1870年から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午のドン」の名で市民に親しまれた、火薬節約その他の理由により1923~24年頃中止されたが、 その時期と事情ははっきりしていない。

●残念石(本丸内)
両側に鎮座しているのこの石は1620年から始まる小豆島で創られたまま、用材石として、いまなお救多く残されていることから「残念石」と呼ばれ、大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場でみつかり、小さ石は前細川忠興の手によるものである。 小豆島青年会議所創立十周年記念事業とし、一つの社会活動の実践に、大阪青年会議所は高新大阪の復権を願い、「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共両事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。

●御成門跡
極楽橋を渡り、山里曲輪から本丸に入る門が御成門とされていた。正確な位置は不明。監視のため弓方預櫓(御成門之内櫓)が建っていた。

●天守下仕切門跡
天守台の西側は石組によって南北が隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため両脇の石垣を行き違いとし、 そのため門は東に向いていた。徳川幕府による大坂城再築時に築かれ、明治維新の大火により石垣上にあった弱ともども焼失したと考えられる。

●天守台石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)、陸軍の関連施設が集中していた大阪城は、終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守閣は天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

●隠し曲輪
この一時期幕府の焰硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大洲藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩) の印を飼近に見ることができる。 大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸幕府による大坂城再築時のものである。出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれる。

●山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。 なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。

●山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪)と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。1583年に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目を行っている。秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀る豊国社も建てられた。1615年の大坂夏の陣では、 秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。

●山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度に及ぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北川内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

●大阪国防館跡
この付近に、第二次世界大戦のさなかに陸軍が設置した「大阪国防館」があった。戦地の兵士をしのび国防意識を高めることを目的として昭和15年(1940)3月に開館し、木造2階建ての内部には、戦地や防空施設のジオラマ、兵器や戦闘機・戦車などの体験型展示、戦没者の遺影や遺品などが9室にわけて陳列されていた。戦局悪化にともない同17年ごろに閉鎖され、同18年からは中部軍司令部女子防空通信隊の宿舎として使われた。昭和20年の空襲によって全焼し、姿を消した。

●刻印石広場
この広場は、大阪築城400年を記念し、その石垣を形成している刻印石を展示し紹介する為に新設しました。
刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工が、石集めや石積みの過程で、個々の石に必要に応じて、文字や文様を刻み込み、さらに出来上がった石垣の表面に担当大名の家紋などを刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されています。
ここに展示しているのは、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや城内の石垣修理で撤去されたものを展示してます。
大阪城の石垣は、豊臣時代のものが残っていると思われがちですが、実は現存している石垣はすべて元和・寛永年間(1620年~1629年)に、徳川幕府が西日本の69藩を動員して築かせたものです。無数の刻印石がその事実を証明しています。

●秀頼・淀殿ら自刃の地(山里丸内)
大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀君が、山里丸にあった櫓にひそみ自害したと、多くの記録が伝えている。それに因んで、1997年山里丸の一画に大阪市の手により記念碑が建てられた。
碑の内容
「慶長二十年(一六一五)五月八日、大坂城主豊臣秀頼とその母淀殿をはじめとする主従約三十名は、落城直後の大坂城内で自刃した。その場所については諸説あるが、ここ山里曲輪の一角にあった矢倉の中とする説が有力である」

●極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉が1583年に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約mの木造で、明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる1965年に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54m、幅約5.4mで、橋脚・主桁を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山) 本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

●青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入口で、青屋門はその枡形の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された1620年ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、1945年の空装で再び大破した。1969年大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出枡形だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」 の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山) 本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

●大阪砲兵工廠跡碑(現在、大阪城ホール)
大阪砲兵工廠は大砲生産を中心とした近代日本最大級の軍事工場で、1870年この付近に設置された造兵司を発祥とする。 民需品も手がけるなどして大阪における近代工業化の推進役を担い、敷地はここを中心に現在の大阪ビジネスパークー帯、 森ノ宮方面、さらに大阪環状線の東まで広がった、1945年の空襲によって壊滅し、残っていた元本館の建物は大阪市により昭和56年に撤去され、跡地に大阪城ホールが建てられた。 江戸時代、この付近一帯は「御蔵曲輪」呼ばれ、年貢米などを備蓄する幕府の蔵が立ち並んでいた。
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🌴たかし⛺

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とりとめのない話し(その59)

関西の観光・歴史を中心に和歌山、奈良、大阪と紹介して来ました。次は滋賀県の近江人の歴史を順を追って紹介していきたい。(その19)

綿業は、三井、三菱などの財閥と並ぶ戦前期、日本の産業発展の柱で、「関西五綿」・「船場八社」と言われた時代があった。「関西五綿」の1つ目は東洋棉花で、1920年(大正9年)に三井物産棉花部から分社し、戦後はトーメンと呼ばれ、現在は豊田通商に吸収合併。2つ目は日本綿花で、戦後には日綿実業、略称ニチメンと呼ばれ、現在の双日という商社の一つの源流になった。3つ目が江商で、兼松に吸収合併。「関西五綿」の残る2社は、伊藤忠商事と丸紅は総合商社。

朝鮮戦争特需の反動不況後、関西の繊維商社「五綿八社」はどうなったか。「関西五綿」は持ちこたえたが、これらにたいして、「船場八社」のうち岩田商事は破綻。丸永と田附は、関西五綿の日綿実業(日本綿花から社名変更、現双日)と合併。竹村商店は帝人のグループ企業と合併。又一は金商と合併後、三菱商事の系列に。竹中は住友商事の系列に入った。豊島商店は親族の豊島半七の山一商店と合併し、豊島株式会社となった。

船場八社は敗戦後の綿業の斜陽産業化、とりわけ1954年(昭和29)の不況で大打撃を受け、船場に本社があるのは八木商店だけとなった。

●竹村商店
起源は京都市の竹村藤兵衛商店で、竹村清次郎が竹村商店を創り発展。彼は京都府の出口家に生まれ、幼少より竹村藤兵衛商店に奉公していた。この竹村藤兵衛商店を船場八社に含めれば、1869年(明治2)に八社の中では最も早く船場に綿花、綿糸、綿布を扱う支店を設置。

●岩田商事
創立者は岩田惣三郎。1843年尾張国(現愛知県)中島郡、今の一宮の辺りの生まれ。1874年(明治7)に大阪船場に出て、綿糸商として後で有名になる兄の常右衛門と一緒に綿糸布を販売し、1881年(明治14)に独立。北久太郎町で綿糸商を開業し阪神間を奔走。1918年、岩田商店は株式会社に改組。第一次大戦で綿糸価格が大きく変動した時期に、莫大な収益をあげたが1920年(大正9)の恐慌で、綿糸価格が短期間に1/3に暴落して中外綿業は破綻。惣三郎は浄土真宗大谷派の熱心な信者で、その関係を中心に多額の寄付をしている。
 
●丸永商店
源流は近江商人・不破家の分家不破栄次郎家で、本家と同じ呉服卸商。初代不破栄次郎は1882年(明治15)に近江国(現滋賀県)犬上郡彦根から大阪に出て東区北久太郎町に綿糸問屋の永楽屋不破糸店を開業。インド綿糸の取引から始め、その後東区内で店舗を移し繁栄を続け、栄次郎が東区南本町に店を構えていた頃、近隣に谷口房蔵が谷口綿布という店舗を構えた。この谷口は明治30年代に経営不振の紡績会社を吸収合併して大阪合同紡績を創業し、栄次郎は谷口と囲碁を通じて仲良くなり、1900年(明治33)頃から不破糸店は大阪合同紡績が製造する綿糸を一手販売し、初代栄次郎が死の間際に谷口に不破糸店の将来を託したところ、彼は支援を惜しまず、谷口の後援が不破糸店の発展の大きなきっかけとなった。

●田附商店
創立者、田附政次郎は近江国神崎郡の近江商人の五男。1884年(明治17)、姉婿の田附甚五郎の経営する大阪東区本町の呉服店を助け、1889年(明治22)に分家し、大阪市東区安土町に店舗を借り綿布商・田附商店を創設。その後、叔父伊藤忠兵衛の助言を容れ、1890年(明治23)に金巾製織(大坂紡に吸収され、後に東洋紡)に入社。1893年(明治26)、政次郎は岩田惣三郎と同じく大阪の三品取引所の前身機関の創設に関わり、それ以降、晩年まで三品取引所を舞台に綿糸投機の達人「田附将軍」として有名になった。金巾製織を一旦退職したが、1900年(明治33)、役員として復帰し、同社が大阪紡に合併された後の東洋紡の時代まで政次郎は紡織製造業に関係した。
1920年(大正9)の恐慌では田附商店も大きな打撃を被り、多くの損害を出したが、数年で克服して1930年代に業績を回復。この恐慌対策の一環として1921年(大正10)田附商店は個人商店から株式会社に改組。取扱品目も綿製品を中心としたが、新製品のレーヨン(人絹)の糸や織物、毛糸、そして加工度の高い綿製品などの繊維製品を扱った。
 他方で日露戦争の終わり頃から第一次大戦前までに政次郎は多くの企業の設立、経営に関わった。その中には又一を経営する阿部一族の関係企業である金巾製織と並ぶ江商と東津農業があった。

京大医学部に50万円という当時では巨額の寄付をして、それで大阪市北区扇町に北野病院が設立された。

●豊島商店
初代豊島久七は、綿織物が盛んであった尾張国中島郡で輸入綿糸の販売に成功した二代目豊島半七の実弟。1885年(明治18)、二代目半七が亡くなり、16歳の長男が三代目半七を襲名し、叔父の初代久七の補佐により成長。1903年(明治36)、初代久七は大阪市東区で綿糸商の豊島商店を開業。三代目半七の弟の民三郎を養子に迎え、1913年(大正2)、民三郎が家督相続し、二代目久七を襲名。
 第一次大戦頃まで豊島商店は綿糸の国内取引に専念し、外国への輸出には進出しなかった。1918年(大正7年)個人商店の豊島商店は資本金200万円で豊島商店に改組。二代目久七が社長となった。1928年(昭和3)には、愛知県の豊島一族と協同で設立。尾張一宮で繊維製品を扱っていた山一商店(1918年設立)など多くの企業に投資。大阪市会議員、大阪商工会議所常議員も務め、二代目は大阪の綿糸商同盟会や大阪綿布商同盟会といった団体の中心メンバーとなり、人を取り纏める才能も持ち得た。1841年初代豊島半七が「綿屋半七」の屋号で綿花の仲買を始め、1918年(大正7)6月、豊島半七糸店を改組。株式会社山一商店を設立。1942年(昭和17)7月には豊島商店を合併し、豊島株式会社となる。現在は愛知県名古屋市に主力拠点をおく、大手繊維商社。
 
●又一
近江三福の商家の1つである神崎郡能登川の阿部市郎兵衛家の商社。四代目阿部市太郎が基礎を築く。本家は阿部市郎兵衛家で、市太郎家は分家。元々は綿製品以外の商品をいろいろと扱っていた。
  阿部市郎兵衛家と市太郎家とは表裏一体の関係で、初代市太郎は、五代目市郎兵衛の次男を婿養子にして二代目市太郎とし、両家は姻戚関係を通じて密接な関係を結ぶ。そして七代目市郎兵衛と二代目および三代目の市太郎は、幕末の開港以来、金巾と唐花(西洋紅)を取り扱い、明治に入ってからは五郎絹・絹五郎・福連などの毛織物と洋綛(機械で紡がれた麻糸)を盛んに輸入し、1881年(明治14)には朝鮮布の輸入も始めた。両家は1871年(明治4)に大阪市南本町に又二大坂支店を開設。1884年(明治17)には共同経営の大阪支店を解消し、大阪市南久太郎町に又一大阪支店を開業。三代目市太郎は金巾製織などの創立にも関係し、1884年、大阪市南久太郎町に独自に阿部市商店を創業。この阿部市商店の屋号が又一となる。三代目市太郎は千石船を使って瀬戸内海から日本海を経て北海道まで廻航し、米、にしん、肥料などを仕入れ、近江麻糸紡織社の経営にも力を入れた。
 四代目市太郎は慶應義塾を卒業後、アメリカのコロンビア大学で学び、綿糸布の重要性にようやく気付き、阿部市商店はこれまで中心だった麻布の販売を1913年(大正2)に取りやめた。阿部一族はすでに金巾製織を経営しており、日露戦争後に同社は大阪紡績、三重紡績と共に朝鮮で金巾市場をめぐって激しく競争していた。こうした動きに合わせて阿部市商店は日露戦争ののち1906年(明治39年)、中国貿易を開始し、四代目はさらに朝鮮との貿易も拡大する。
 第一次大戦の好況期に阿部市商店は国内取引よりもむしろ外国との取引、特に中国貿易に力を注いた。他方で、四代目市太郎は、関西五綿の1つである江商の最大株主になり、さらに社長に就任すると、次第に江商の経営に活動の重点を移し、阿部市商店の経営からは手を引いた。第一次大戦期、阿部市商店は積極的な拡大策をとったが、それは阿部尚二郎の主導によった。そして1920年(大正9)大恐慌が襲ったが、その時の経営責任者は阿部藤造でした。彼は滋賀県大津市出身の阿部同族の一人で、東大法学部を卒業後、内務官僚を務め、その後横浜生糸の棉花部に勤務したのち阿部市商店に入るが、阿部市商店は恐慌で大損失を出して事業の継続が困難になり、そこで商権を継承した第二会社が又一だった。又一では四代目市太郎は表に立たず、実際の責任者は阿部禎治郎専務が務め、藤造取締役が支えた。なお禎治郎は1873年(明治6年)神崎郡能登川村に生まれ、分家して東京商業学校を卒業。住友銀行に長く勤めたのち、又一に戻った。
 又一は阿部市商店が潰れて、その代わりに創られた会社だったが、設立後は非常に業績が回復し、1920年代の不況期でも利益をあげており、経営は成功していた。1928年(昭和3)、四代目市太郎は病のため江商の社長の座を野瀬七郎平に譲り、1930年末に一旦又一の社長になったが、健康状態は良くなく、経営には関わらなかった。

●竹中商店
和歌山の名家であった竹中源助家が二代目の時、油商から両替商に転じ、さらに1882年(明治15)に綿糸商を兼ねるようになり、やがて綿糸取引専業となった。1907年(明治40)、三代目源助の時に大阪市東区北久太郎町に支店を設置し、彼が明治末に病没すると、婿養子の川口兵四郎が相続して四代目源助となった。まもなく第一次大戦の好況が到来し、その頃には綿糸を東洋紡績、摂津紡績、尼崎紡績などから仕入れて、販売先は内地向け6割、輸出4割になった。輸出先は朝鮮、満州、中国で、営業の主力は和歌山ではなく大阪支店となり、四代目は他の会社にも出資していた。竹中商店では明治末に和歌山商業学校を卒業して入社した有能な番頭の谷口嘉一郎が会社を支えた。 

●八木商店
八木與三郎は、幕末の1865年京都市生まれ。父親は丹波から京都に出て雑穀商八木家の養子になり、後年米穀商として成功した。與三郎は幼時に父親の友達であった京都の松盛家の養嗣子となり、そこには馴染めず1880年(明治13)に家を出奔し、父親の弟、藤本清兵衛が営む大阪の米穀店で働き、10年勤務して支配人となった。一旦祖母の実弟である八木文之亟の養子となり、八木家に戻った。なお藤本清兵衛の息子・二代目清兵衛は藤本ビルブローカー銀行(現大和証券)を創った。
 1893年(明治26)與三郎は初代清兵衛が亡くなって2年後、28歳の時に、藤本家から独立した番頭の藤本清七と提携して組合組織による小さな綿糸商の八木商店を大阪市東区に開業した。しかし商売がなかなか上手くいかず、藤本との組合は結局解散して独力で経営を続けた。八木商店には中野豊という有能な支配人がいて、他の綿糸商と一緒に神戸の商館に行き輸入綿糸の取引で活躍した話が残っている。しかし八木商店が発足した頃には、日本でも大阪紡績が成功し始め、1万錘規模の紡績工場が大阪を中心に出来て、大いに発展した。そこで八木商店の主な綿糸の仕入れ先も日本の紡績会社になり、最初の頃は主に泉州紡績、摂津紡績、大阪紡績などから綿糸を仕入れていた。
 八木商店は1908年(明治41)綿糸だけではなく、紡績が作った広幅綿布も売買するようになり、最初に扱った問屋は八木商店だった。第一次大戦期に八木商店は飛躍的に発展し、1918年(大正7)、個人商店を株式会社組織とした。ところが1920年(大正9)の恐慌で八木商店は大きな打撃を受け、海外出張所を全て引き上げた。1931年(昭和6)末の金輸出再禁止以降、業績は顕著に回復した。
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