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塩分
国旗や国歌を、自国の象徴として大切に思う気持ちは自然なものであり、日本人として日章旗や君が代に誇りを見出すこと自体は、何ら咎められるものではない。むしろ、社会の中でそうした共有感覚が薄れていくことに不安を覚える人がいるのも理解できる。
国旗損壊罪を支持する穏健な立場の多くは、表現の自由を軽んじたいわけでも、他者の思想を縛りたいわけでもないだろう。行き過ぎた侮辱と、行き過ぎた愛国心が無法に衝突する状況を避けるため、国旗という象徴を代表点として最小限に守る――その発想は、秩序を重んじる立場として一定の説得力を持つ。
ただ一方で、冷静に考えるべき点もある。祖国の尊厳を感じる対象は、国旗や国歌だけに限られない。「日本」という言葉、日本列島の姿、歴史的な記号や文化的表現に対しても、人は同様の感情を抱く。にもかかわらず、国旗だけを刑罰で特別に守ることは、感情の実態との間にズレを生む可能性がある。
もちろん、そのズレを理由に「すべてを罪にすべきだ」と主張する必要はない。むしろ重要なのは、刑罰が何を守り、何を守らないのかを社会が自覚しているかどうかだ。刑罰は誇りを育てる道具ではなく、衝突を最小化するための最後の手段である。その役割を超えて、文化やアイデンティティの維持まで担わせようとすれば、法は重くなりすぎる。
国旗を大切に思うことと、それを刑罰で守ることの間には、慎重な距離感が必要だ。誇りは自発的に共有されてこそ強く、罰によって固定された誇りは、かえって形骸化する危険をはらむ。
国旗損壊罪の是非を考える際に求められるのは、賛成か反対かの二択ではない。感情、象徴、秩序、自由――それぞれを尊重しながら、どこで踏みとどまるのが社会にとって最も穏健なのか。その冷静な測定こそが、国を大切に思う者に共通して求められている姿勢ではないだろうか。
塩分
そのうえで、冷静に反論します。
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まず、「国旗を毀損しなければいいだけで難しくない」という指摘について。
確かに、行為規範としては単純です。しかし、法が単純であることと、正当化が十分であることは別です。刑罰は「避けやすいから許される」のではなく、「なぜその行為だけが刑罰に値するのか」を説明できて初めて正当化されます。国旗だけを代表として罰する合理性が、感情以外の根拠でどこまで示せるかは、依然として検討が必要です。
次に、「国旗を代表として罰することで、国家を気軽に貶める精神を牽制する」という点。
これは象徴刑法論として理解可能です。しかしその論理は同時に、刑罰を“内心の姿勢”への警告として用いる危うさを孕みます。行為ではなく精神状態の牽制が目的化した瞬間、刑罰は結果責任から離れ、思想や態度の管理に近づきます。ここに慎重さが求められる理由があります。
また、「不均衡ではなく要点を押さえた戒め」という評価についても、反論は可能です。
要点を押さえているように見えるのは、「国旗に感情を集中させる社会的合意」が既にある場合に限られます。その合意が揺らいだとき、なぜ国旗だけが特権的に守られるのかという問いは再燃します。不均衡は消えたのではなく、前提に隠れているだけとも言えます。
さらに、「法がないと無法な愛国心と無法な侮辱が争う」という懸念は重要です。ただし、ここで問われるべきは「刑罰でなければ防げないのか」という点です。現行法には、侮辱、名誉毀損、業務妨害、公序良俗違反など、衝突を調整する手段がすでに存在します。新たな象徴犯罪を設けなければ秩序が保てない、という因果は必ずしも自明ではありません。
結局のところ、この問題は「単純か複雑か」ではなく、
刑罰が守るべき対象は具体的被害か、それとも象徴的感情か、という価値選択です。
あなたの視座は尊重されるべきですが、同時に、刑罰が感情の調整装置として拡張されることへの警戒も、同じだけ冷静に向き合われるべきでしょう。
「冷静に測る」とは、どちらかを切り捨てることではなく、どこで踏みとどまるかを自覚することなのだと思います。

✨🪷れん🦉れん🪷✨
怒ってもいい、でもそのまま伝えない。
嫌ってもいい、でも悪口を言う必要はない。
許せなくてもいい、でも相手を先に攻撃しない。
品格とは「言わない3つの口(品)」。
という言葉を聞いたことがある。
この言葉はストッパーとして機能しそうだ。
人付き合いでの不必要な余計な摩擦が減るだろうと思う。
自分のためにも、相手のためにも、敬意を表することを炭治郎は自然にできている主人公だ。
人間の脳は不快と快しか感じないらしい
ネガティブとポジティブだ
でも心は感受性や感性があればあるほどとても微細だし感情のグラデーションやコントラストやその輪郭が解像度が高ければ高いほど、明確に、クリアにリアル感を持って目の前に現れてくるし、自分の認識として、認識されれば、他者にも見える形で表現できるならば、自然と調整されていくものだと思う。
また、ある教えでは、
怒りは散財の種まきとも言われている
金持ち喧嘩せずという言葉もあるくらいだ。
けどそんなの関係ない。純度や質の高い怒りは火山活動みたいだしかっこいい。ある種の魅力がある。
火山みたいに溶岩や火山灰が溢れたらそりゃ被害が出てしまうが鬼滅の刃の煉獄さんのような炭治郎のような怒りの解放はみていても清々しく思う。
そして鬼滅の刃でもわかるけど
加害者は元被害者だ。
鬼達は皆んな元被害者である。
その鬼達の元被害者の部分が癒えるから
鬼は最後にトラウマが癒えて、強い思いこみが剥がれて消えていく事ができる。
そしてある人によれば、人は悪口を言う時、自分が一番言われたくない言葉を無意識に口にするそうだ。なので、悪口を言う人は「これだけは言われたくない」と自分がものすごく氣にしているコンプレックスや隠したいことや弱点を暴露していることになる。悪口は、弱さの自己紹介である。という言葉もまた秀一だと思う。
鬼滅の刃の柱達をみたらわかるが、そんな主要キャラクターに愚痴や人の悪口を言う人は誰一人居ない。モブとかチンピラとかならまだ言いそうだしわかるけど、主人公や柱であるメンター役は備えている資質が明確にある。人の心や命を守ることを常に考えている人達の思考回路はその言動や姿勢に現れているととても思うしキャラクターの精神性の質や品格に明確な差別化や線引きが存在しているのが良くみて取れる。
世界一大事な自分に敬意を表する姿勢は基本的に備えておくとして、相手のしあわせや成功を心から一緒に喜べる感性も、しあわせの感受性の高い証拠だと思う。人のしあわせを自分ごとのように一緒に喜べる感性がある人付き合いが一番コミュニティとしては所属したくなるしぼくは心からそんな組織やコミュニティが好きだ。炭治郎ならそれが自然と湧き出る感性がある。炭治郎のまわりは余計な摩擦はないし、お互いに良きコミュニケーションとなる基本が炭治郎の周りやコミュニケーションにはあると思う。人のしあわせを自分ごとのように喜べる感受性が炭治郎にはある。炭治郎の心や魂やキャラクター性にはそれがある。だから人は自然と惹かれるしひかるものがあるんだと思う。
だとしてもそんな炭治郎だって鬼達には怒る。
けど最終的には、加害者の元被害者の部分を深く見つめているそんな優しさのある主人公だ。
ヒット作を時代順に簡単に分析するなら
ドラゴンボールでは個人戦が主であり、個の強さが光る。リアルで言うなら個人事業主やフリーランス、個の能力を高めていく世代とも言える。
ワンピースは個の強さはもちろん所属する仲間達の絆がドラゴンボールよりもさらに光っている。チームや組織の役割の話も深く理解できるし、リーダーシップの品格やメンターや仲間という概念の雛形にすらなっているだろう。
鬼滅の刃はそのどちらの要素もあり、更に柱というメンターの揺るぎない要素や、そしてただ敵と闘うのではなくて、鬼側の加害者の元被害者の心理描写にもメスを入れている所に違いがある。
その時代のヒット作を分析することでそれをみて育った世代の分析も少なからずできるはずだし、時代を読み解けるエッセンスが豊富に内在されていると思う。
カウンセラーが鬼滅の刃に注目するのも頷ける。
鬼滅の刃が流行るのは世代的にも時代が大カウンセラー時代だからだと思う。
子どもたちならぬ大人たちまでのいじめ問題に終止符を打てるのはテープ式心理学的な理解の浸透に他ならない。
つまりは、人をいじめる人の内部に無価値感があり、人をいじめることにより、立場が上だとはっきりさせたい願望がある。その裏には、即席の優越感がありいじめをすると無価値感を感じずに済むから、いじめることで人を自分の下に置きたがり、有価値を感じたいといういじめられる側に依存している状態でもあるということだ。
被害者のトラウマはもちろんのこと。加害者の元被害者の部分を常に見つめていないと炭治郎のような心の持ち主や器、瞳の中の鏡、テープ式で言うならゴールを達成したカウンセラーみたいにはなれないんだろう。
炭治郎のようにあんなにも澄み渡る心の持ち主がやはり素質としては一番別格で群を抜いていると分析できるし、それは遡るとドラゴンボールの悟空から始まっている。悟空は水晶のような心の持ち主だ。ルフィもそうだ。ゴム人間だし基本的にすくすく、のびのび育っている。ドラえもんののび太ものびのび育っている笑。炭治郎はしっかり者だが、心の資質は悟空やルフィと同じだ。
人は評価や正解や価値判断や比較や否定や批判が一切なく、すくすく、のびのび育つことのできる心の在り方や環境が必要なんだとヒット作の主人公達をみてわかる。
やはり主人公の素質は心の素地や器や質にあると思う。だからこそ惹かれるし憧れのロールモデルや人が觀るに値する作品としての価値があるとも言える。惹かれるということはその要素が自らにも見え隠れしていたり確かにあるからだ。歴史的にもヒット作の主人公は皆んなそうだと思う。ジブリとかもナルトとかもそうだ。悟空や炭治郎のような水晶のような鏡の役割を担って主人公達は存在している。
これはメンターやカウンセラーの資質とも言えそうだ。
ヒット作の主人公達を分析していると魂の存在意義を感じずにはいられない。
少し脱線して
存在意義の話が出たので、
【目的=役割=価値=存在意義】という方程式が成り立つという話をするならば、
例えば
コップの目的はなんだと思いますか?
飲み物を飲んだり、水分を摂取するため
だとしたら、
それはコップの役割でもあるし、
コップの価値でもあるし、
コップの存在意義でもある。
という話が成り立つ。という話なんですが、
もっと言えば、この方程式は
物や個人の存在意義や目的や役割や価値を超えて、
組織が担っている社会的な目的や社会的な役割も同じく、社会的な価値や社会的な存在意義と=になって密接に結びついて存在しているということです。
会社や団体やチームや家族もそう、そこに何かの役割が存在するなら、そこには目的も、価値も、存在意義も同時に存在しているということになる。
だから、テープ式心理学でいう所の、
あなたのしあわせになりたい、しあわせを感じれるようになりたい。ゴールを達成したい。ガムテープを剥がしてなりたい自分になるんだというコミットや明確な目的は、そのまんまあなたの役割だし、あなたの価値だし、あなたの存在意義にまでなっているということなんです。
目的がある所には
役割がある所には
価値がある所には
存在意義がある所には
それらは密接に関わっていて見えない所でそれぞれにそれぞれの意味が内在しながら連結感を持ってこの方程式は成り立って視覚化されているんです。
だから、価値のない人は存在しない。という結論が出る。
家族としてや会社などの組織に属する人として、
何かしらの役割を担い、目的がそこにあればあるほど
価値や存在意義は存在していることになる。
じいちゃん
ばあちゃんの役割
母親の役割
父親の役割
兄弟姉妹の役割
子どもの役割
それがあるならば、価値や存在意義や目的も存在しているんです。
時代的に今は核家族だし
機能不全家族には、その役割が不足しているし文字通り機能していない。
だからこそ、人生の目的を強く認識することで、ゴールまで行くこと。なりたい自分になること。
しあわせになること。そしてマインド樣をフルに発揮して夢を叶えていくこと。
で、自分の人生に役割や価値や存在意義は見出せるようになるのだと思う。
長くなりましたが、今日はそんな所です。
もちろん、【目的=役割=価値=存在意義】という方程式にも見つければ例外はあるはずですが、今はそんなことはどうでもよくて、生きていることに、しあわせになるんだという、ガムテープを剥がしてしあわせに生きるんだという強くて勇氣のある目的を見出せた時に、人は誰しも命を燃やす価値や役割や存在意義までも自分でも認識できるようになってくるんだと言う事がメッセージとして伝わればそれで良いんです。
今日はこの辺で。
おやすみなさい。
コメントやリアクションすごい嬉しいです。ありがとうございます。

紅蓮華

よし
回答数 6>>
塩分
しかし、ここで一度立ち止まって考える必要がある。祖国の尊厳を感じる対象は、本当に国旗や国歌だけだろうか。例えば「日本」と書かれた紙を侮辱目的で破られたり、日本列島の写真を嘲笑的に扱われたりした場合、多くの人は同様に不快感を覚えるはずである。つまり、祖国への敬意や感情は、特定の象徴物に限定されるものではない。
この点を踏まえると、「国旗だけを刑罰で守る」という発想には一種の不均衡が生じる。感情が及ぶ範囲は広いのに、処罰の対象は一点に限られているからだ。では、その不快感を覚えるすべての対象を一括して法で守るべきなのかといえば、それもまた現実的ではない。表現の自由や法の明確性との衝突は避けられない。
結局のところ、問題の核心は国旗の是非ではなく、「感情をどこまで刑罰に委ねてよいのか」という点にある。人の感情は連続的で曖昧だが、法律は明確な線引きを必要とする。そのズレを十分に自覚しないまま象徴だけを特別扱いすれば、議論は感情論に傾きやすい。
祖国への敬意を育むことと、刑罰でそれを強制することは同義ではない。国旗損壊罪の議論は、愛国心の有無を競う場ではなく、感情と法の距離を冷静に測る場であるべきだろう。
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