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( ◜௰◝ )ヌヘヘ
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こちらは復縁希望、自分磨きの星となっております🌟元恋人への気持ち、これからの目標、自分磨き日記などお好きに投稿してください!
管理人1人で盛り上げてる感じなので皆さん一緒に盛り上げて一緒に自分磨き、復縁に向けて頑張りましょう!
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画像の石はピンクオパールです!「希望と愛の石」と呼ばれており、人との関わりを深め、愛情や自己肯定感を高めるサポートをしてくれます。復縁に効果をもたらしてくれるそうです。
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niro


こんにちは

ラビッ兎

ラビッ兎

そら🦭🌱

きのこ
悪魔の辞典か何かで書いてあったんだけれど。
悪魔を召喚(返還?)する際には、時刻を守らなければならないんだとさ。
マモン(マムン)…というと金を司るデーモン(地域が違うと神だけど)だけど、それについても関わる時間を制限したほうが良いとか、そんなところかもね。
金のみならず、社会での成功や愛を勝ち取る等の人の慾望にガッツリ関わる存在なので、扱いが難しいのかもね。
ブネを召喚してみたい今日この頃。
どうも、他人からの理解を得るための言葉を授けるとかそんなものらしい。
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ラビッ兎
生活を詐称し、容姿を詐称し、性格を詐称し、
君は、君ではない誰かを常に演じ、
そして、君が君である事を嫌悪している。
然し、最も身近な他者である自己を君が愛さないならば、
君は、永遠の孤独を彷徨う事になるだろう。
君達は、演じる事に疲弊しながら、
他者の価値観を生きるが故に、
自己の幸福が何のかさえ探さず、
仮面を被り続けているのである。
例えば、君の演じる、
他者が望ましいと、
羨ましいと考えるような君とは、
他者にとっての幸福であって、
それを君が実現したとして、
それが君にとっての幸福とは限らない。
然るに、他者に認められる自分を演じる事は、
前提として、誤っていると断言して良いだろう。
そして、古代に眠った純粋性は、
偽りの君と云う仮面の下で、
今や、断末魔の悲鳴をあげている。
人間は、何者かに成ろうと、
他者に求められる自分や、
自分の求める理想像、
つまり、この求められる、とは、
人間的な魅力として求められるならば、
それは君の美しさとして喜ばしい事であるが、
有能さや、優秀さなどによって、
他者に求められようとする時、
他者から有能であると認められなくとも、
君は君を見下すべきではない。
その時、君は明らかに、奴隷じみているからだ。
何故ならば、それらの言葉は、労働力として、
如何に、社会の歯車として有用であるかを表すものだからである。君がどれほど美しい瞳を持っていようとも、風の如く駆ける足を持っていようとも、人々は、君の魅力について、有能であるとか、優秀であるという言葉を用いる事はないのである。
故に、有能さという限定的な基準は、
君という人間の優劣を示す本質とはなり得ない。
人間的な魅力や才能と混同してはならないのである。
或いは、他者より勝る自分や、
劣等感を感じない為に、
劣ると考えるものを寧ろ志向する者などは、
腐り切った性根も憚らず、その懶惰な小市民根性に甘んじている愚かさに気付かねばなるまい。
それは君という人間にとって足枷にしかならないものなのだ。
弱者であることを美化し続けたならば、
君は自己の内に眠る、可能性という無限の火を絶やす事となるだろう。
良いかね。友よ。
君は、君も気付かぬうちに、社会で生きていく中で、凡ゆる価値観に翻弄され、それが、当然の事であると信じ込まされ、君では無い誰かを演じ、生きている。
この故に、自らの願いを見落とし、
向かうべき幸福を知らず、
他者の慾望を生きたが為に、
移り行く他者の声に従って、
より良いものが現れれば、
自らも、より良い何者かにならねばならぬと、
終わりのない絶望を見る事になる。
真に君が望む幸福とは、
もっと単純なものであったにも関わらず。
人間とは、無限の想像力と、有限の現実の境界である。
無限に想像される君は、純粋に君ではないし、
ありのままの有限性の君は、無限の可能性に満ちているのである。
君は、この真実の一切を無視している。
故に、生きながらにして精神は死に、
絶望の回廊から逃れられない。
何者にも成ろうとしない事こそが、
人間の最も果たすべき自己との邂逅を齎し、
その時、人は、過ぎゆく時の流れに身を委ね、
空間の狭間に現れた物質として、
ただ純粋に、生を賛美し、
過去の怨恨さえ、嗚呼、感慨深いものであると、
人生を愛することが出来るようになるのである。
これは、目的を持たない事ではない。
真に君が君を受け入れ、その上で、
真に君が求める幸福については、
断じて、尽くさねばなるまい。
それが無ければ、人生とは正に無価値で、
矢鱈に長いばかりの苦悩に満たされてしまうだろう。
何者かに成ろうとし、自己を拒絶する事は、
最も、愚かな断罪である。
君は、他者の価値ではなく、君の価値を創造し、
その信念に倣って生きなければならない。
それは何者かに成ろうとするのではない。君という人間の自己実現であり、その超克である。
仮に、君が自己実現を果たしていく中で、
他者に嫌われようと気にするべきではない。
嫌われない人間などいないのだ。
君が目指す自己像は君にとっての幸福観の達成に向かう事を意味しており、
君の幸福観とは異なる価値観を持つ他者は、
当然、君の価値観に賛同しないのであるから、
君の事を快く思わないだろう。
然し、どうだろう、それは、寧ろ、君が確かに、自己実現の道を、確かに歩み、前に進めている事の証明であるとも云える。
何者にも成ってはならないということではない。
他者の為に、得体の知れない他者の望む者になってはならない。
君は、君の為に、君の成りたいと思える君に成らねばならない。

ラビッ兎
想いを巡らせ、考えるほどに、集積された思考と言語は、
言い表せない「それ」について語ろうと、
飽くなき思索に、益々、新たな概念が生み出された。
然れども、更に、止めどなく胸の内に湧き上がる憧憬と敬愛の念をもって、
私たちが語り尽くした先に沈黙として揺らいだ、
私に、ある種の恋慕を抱かせる事柄が二つある。
一つは、あの鎖のように連なり聳える山々よりも彼方、遍く星々を抱き、
我々の頭上に広がるこの夜空と。
もう一つは、他ならぬ、正に私たちに言語の限界を突き付けた、
全ての原初たる真理である。
ウィトゲンシュタインは、純粋な論理を追求したように見える。だが、真理と言語の関係性を考察する上で認識論は、如何にして切り離すことが出来ようか。
常に認識を介して捉えた現象について思考するのが私たちであるが、実存は本質に先立ち、物自体は現象に先立ち、真理は言語に先立つのである。
この三つは、これから示される場に向かう私たちの、六分儀であり羅針盤であり、海図となる、"先立つもの"である。
然るに、一つのことを突き詰めるという営みは、敬意を持って讃える他にない事は否めないが、それを奇妙に美化するのは、凡そ、望ましくはない。
聖イエスを語る者が熱心に、彼を磔にした十字架の構造を語り、その刑具を彼から引き離して仕舞えば、聖イエスも、彼が如何に聖なる方であろうとも、一見すればただの傷ついた男性として現れたかもしれない。
現れた聖者の情けなさに目を覆う私たちは、清らかなのではないし、当然のことながら彼を救ったわけでもない。
十字架を彼から奪ってしまった熱心な思弁者の浅ましさとは、時に、私たちの心にも宿り、真に叛いたイスカリオテのユダの如く、論理の皮を被って狡猾に振る舞う慾望なのである。
いや、それで良い。それでこそ人間なのである。思考とは、一方的な渇望心に常に世界を支配しようとしてきた暴力だったではないか。然し、それならば、より狡猾に。より情け容赦なく。より悪く。もっと人間的でなければならない。
幼少の無邪気な好奇心に、羽虫の羽を引きちぎった事だって、虫を痛めつけたかったのではない。真の道徳律に出逢う以前、その無垢な知への渇望心だったのであるから。
或いは、ニーチェの言葉を拝借するならば、"真理が女性であると仮定(『善悪の彼岸』より引用)したならば"、私たちは真理を口説き落とそうと不器用に、実に真面目に男臭く得意な理屈を並べてきたわけであるが、それは論理によって彼女を支配しようとしていたに過ぎない。
やはり、理屈を用いるとしたならば、せめて凡ゆる理屈を持ってして彼女について知ろうと努力するべきであるし、押して彼女を得られぬならば、時には引き下がることについても考えねばなるまい、実に巧妙な駆け引きとして。
然し乍ら、結局のところ、残された真理に近づく手段とは、それがどれほど神秘的に語られたものであっても、やはり、言語の他に、それが真理と思われるものであると示し得る手段を私たちは持たないのである。
語り得ぬものについては沈黙せねばならない。
しかし、その沈黙にこそ、至上の超越論的なものが宿っているのでは無いか。
真理とは、語り得ぬものであるが、論理によって形式的に必然として示される沈黙であり、それこそが私たちが第一原因(Causa prima)と呼ぶに相応しい真理なのでは無いだろうか。
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