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ラビッ兎
想いを巡らせ、考えるほどに、集積された思考と言語は、
言い表せない「それ」について語ろうと、
飽くなき思索に、益々、新たな概念が生み出された。
然れども、更に、止めどなく胸の内に湧き上がる憧憬と敬愛の念をもって、
私たちが語り尽くした先に沈黙として揺らいだ、
私に、ある種の恋慕を抱かせる事柄が二つある。
一つは、あの鎖のように連なり聳える山々よりも彼方、遍く星々を抱き、
我々の頭上に広がるこの夜空と。
もう一つは、他ならぬ、正に私たちに言語の限界を突き付けた、
全ての原初たる真理である。
ウィトゲンシュタインは、純粋な論理を追求したように見える。だが、真理と言語の関係性を考察する上で認識論は、如何にして切り離すことが出来ようか。
常に認識を介して捉えた現象について思考するのが私たちであるが、実存は本質に先立ち、物自体は現象に先立ち、真理は言語に先立つのである。
この三つは、これから示される場に向かう私たちの、六分儀であり羅針盤であり、海図となる、"先立つもの"である。
然るに、一つのことを突き詰めるという営みは、敬意を持って讃える他にない事は否めないが、それを奇妙に美化するのは、凡そ、望ましくはない。
聖イエスを語る者が熱心に、彼を磔にした十字架の構造を語り、その刑具を彼から引き離して仕舞えば、聖イエスも、彼が如何に聖なる方であろうとも、一見すればただの傷ついた男性として現れたかもしれない。
現れた聖者の情けなさに目を覆う私たちは、清らかなのではないし、当然のことながら彼を救ったわけでもない。
十字架を彼から奪ってしまった熱心な思弁者の浅ましさとは、時に、私たちの心にも宿り、真に叛いたイスカリオテのユダの如く、論理の皮を被って狡猾に振る舞う慾望なのである。
いや、それで良い。それでこそ人間なのである。思考とは、一方的な渇望心に常に世界を支配しようとしてきた暴力だったではないか。然し、それならば、より狡猾に。より情け容赦なく。より悪く。もっと人間的でなければならない。
幼少の無邪気な好奇心に、羽虫の羽を引きちぎった事だって、虫を痛めつけたかったのではない。真の道徳律に出逢う以前、その無垢な知への渇望心だったのであるから。
或いは、ニーチェの言葉を拝借するならば、"真理が女性であると仮定(『善悪の彼岸』より引用)したならば"、私たちは真理を口説き落とそうと不器用に、実に真面目に男臭く得意な理屈を並べてきたわけであるが、それは論理によって彼女を支配しようとしていたに過ぎない。
やはり、理屈を用いるとしたならば、せめて凡ゆる理屈を持ってして彼女について知ろうと努力するべきであるし、押して彼女を得られぬならば、時には引き下がることについても考えねばなるまい、実に巧妙な駆け引きとして。
然し乍ら、結局のところ、残された真理に近づく手段とは、それがどれほど神秘的に語られたものであっても、やはり、言語の他に、それが真理と思われるものであると示し得る手段を私たちは持たないのである。
語り得ぬものについては沈黙せねばならない。
しかし、その沈黙にこそ、至上の超越論的なものが宿っているのでは無いか。
真理とは、語り得ぬものであるが、論理によって形式的に必然として示される沈黙であり、それこそが私たちが第一原因(Causa prima)と呼ぶに相応しい真理なのでは無いだろうか。
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